上野 淳一(うえの じゅんいち、1909年11月1日 - 1… 上野 淳一(うえの じゅんいち、1909年11月1日 - 1997年10月19日)は、朝日新聞社の元社主。 朝日新聞社第3代社主・上野精一の息子であり、初代社主・上野理一の孫。岳父は三井財閥幹部の福井菊三郎。岳母の父は麻布中学校を創立した江原素六。息子は第4代社主の上野尚一。 北野中学校、広島高等学校 (旧制)、1934年京都帝国大学経済学部卒業。1937年に朝日新聞社に入社。戦後の1945年に戦争責任を明らかにするために退社。神戸商科大学事務局長、田中耕太郎最高裁判所長官の秘書官を務めた後、1952年に朝日新聞社に復帰した。1970年から社主となった。京都国立博物館評議員、仏教美術研究上野記念財団理事。
高橋 喜一郎(たかはし きいちろう、1909年(明治42年)… 高橋 喜一郎(たかはし きいちろう、1909年(明治42年)10月31日 - 2001年(平成13年)9月16日)は、日本の政治家。山形県新庄市長(5期) 。位階は正五位。 山形県最上郡新庄町(現・新庄市)出身。1927年、山形県立新荘中学校(現・山形県立新庄北高等学校)卒。1947年、新庄町議会議員に当選。1949年、新庄町の市制施行により、新庄市議会議員となる。市議会議長を2期務めた。1965年、新庄市長に当選する。3期務めた後、1977年に落選。4年後の1981年に市長に返り咲き、2期務め、1989年に退任した。ほか、新庄体育協会、新庄市社会福祉協議会各会長、山形県体育協会理事を歴任した。
土州灘 浪五郎(としゅうなだ なみごろう、1909年10月3… 土州灘 浪五郎(としゅうなだ なみごろう、1909年10月31日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。二子山部屋→二所ノ関部屋所属。本名は石川 久治(いしかわ ひさじ)。高知県香美郡香我美町(現香美市)出身。最高位は西十両14枚目。得意技は左四つ、下手投げ。 同郷の前頭・土州山役太郎の二子山部屋に入門。1928年1月場所に初土俵を踏む。1936年5月場所に十両に昇進。この場所は1勝10敗と大きく負け越し、1場所で幕下に落ちた。幕下から三段目に落ち、1942年5月場所で廃業した。
油井 一二(ゆい いちじ、1909年10月30日 - 199… 油井 一二(ゆい いちじ、1909年10月30日 - 1992年7月21日)は日本の実業家(美術商)。 長野県北佐久郡三井村香坂(現佐久市香坂)出身。小学校高等科卒業後に上京し、昭和6年(1931年)東亜美術協会の絵画出張販売員となる。同9年(1934年)共同出資により日東美術協会を創立するが、同12年(1937年)から14年(1939年)まで、日中戦争に従軍した。同16年(1941年)、上野広小路に美術店を開いたが、東京大空襲で焼失した。戦後は武者小路実篤の知遇を経て、その作品を扱った。同40年(1965年)「美術年鑑」の権利を創刊者の山田正道から買い取り、「美術年鑑社」として株式会社を設立し、代表取締役社長となった。
白井 庄次郎(しらい しょうじろう、1909年〈明治42年〉… 白井 庄次郎(しらい しょうじろう、1909年〈明治42年〉10月29日 - 2020年〈令和2年〉8月11日)は、日本のスーパーセンテナリアン。滋賀県高島市在住の長寿の男性。2020年4月14日以降死去するまで男性長寿日本一となっていた。 1909年生まれ。滋賀県高島市に暮らす。2016年に県内最高齢男性となる。 2016年9月時点では耳が遠いが身の回りのことは自分ででき食事の好き嫌いもない。2016年に初めて要介護認定を受けデイサービスに通い始めた。2018年時点では次男夫婦と同居し、身の回りのことは自分ででき、知事選の期日前投票にも行っている。趣味は新聞や歴史に関する本を読むことだった。 2020年4月、巴一作の死去に伴い、110歳169日で国内最高齢男性となる(厚生労働省発表、2020年4月15日)。
番場 嘉一郎(ばんば かいちろう、1909年(明治42年)1… 番場 嘉一郎(ばんば かいちろう、1909年(明治42年)10月28日 - 1989年(平成元年)5月30日)は、日本の会計学者。一橋大学名誉教授、千葉商科大学名誉教授。元青山学院大学教授。第4代千葉商科大学学長(1975年4月 - 1987年3月)。太田哲三門下。中村忠(一橋大学名誉教授)、山浦久司(第29代会計検査院長)は門下生。従三位。 1909年10月28日、東京都渋谷区初台に生まれる。生涯にわたりこの地で暮らした。 東京府立第一商業学校、東京商科大学(現在の一橋大学)附属商学専門部を経て、1931年4月、同大学本科に入学。 太田哲三のゼミナールに所属し、1934年3月に卒業する。卒業論文は『経営分析研究』。
野田 宇太郎(のだ うたろう、1909年(明治42年)10月… 野田 宇太郎(のだ うたろう、1909年(明治42年)10月28日 - 1984年(昭和59年)7月20日)は、日本の詩人、文芸評論家、文芸誌編集長。三島由紀夫や幸田文を世に送り出した人物である。 福岡県三井郡立石村(現小郡市)出身。朝倉中学卒業後、第一早稲田高等学院英文科に入学するが、病気により中退。1930年(昭和5年)、久留米市で同人誌『街路樹』に参加して詩作を開始する。1933年(昭和8年)、詩集『北の部屋』を出版。1936年(昭和11年)、安西均や丸山豊らと同人誌『糧』を創刊。1940年(昭和15年)に上京し、小山書店に入社。その後第一書房、河出書房を経て、1944年(昭和19年)文芸誌『文藝』の編集長を務めた後、東京出版に入社。
櫻井 勝之進(さくらい かつのしん、1909年〈明治42年〉… 櫻井 勝之進(さくらい かつのしん、1909年〈明治42年〉10月28日 - 2005年〈平成17年〉12月25日)は、日本の神職。 1909年、島根県那賀郡今福村(現浜田市)に社家の長男として生まれる。1931年(昭和6年)に神宮皇學館(皇學館大学の前身)を卒業し、熊本県菊池市の菊池神社の宮司など官国幣社4社の神職を経て、1955年に神宮教化局教導司、1957年より神宮禰宜として奉職。祭祀のかたわらで皇學館大学で祭祀概説の非常勤講師を兼務。1975年に芦屋大学で日本文化研究の教授に就任(1995年まで)。多賀大社宮司、神社本庁総長を務めたのちに皇學館大学理事長に就任。1990年に神社本庁から「長老」の称号をうける。
高島 満兎(たかしま まと 、1909年10月28日 - 1… 高島 満兎(たかしま まと 、1909年10月28日 - 1934年7月13日)は、日本の社会運動家。 福岡県三井郡合川村(現久留米市)で、造り酒屋の二女に生まれた。福岡県立久留米高等女学校(現福岡県立明善高等学校)を経て、1926年日本女子大学に入学。労働農民党の活動に参加していた長兄・日郎(じつろう)の影響で、在学中の1929年頃から学生社会科学連合会(学連)目白班の運動に参加し、卒業前に日本共産青年同盟(共青)に加盟。同大学国文科を卒業、1930年4月より機関紙『無産青年』編集局で働くかたわら、各地でオルグ活動を行なった。結核のため1931年暮れから1932年にかけて入院したが、途中で病院を抜け出し活動に復帰。
豊岡 益人(とよおか ますと、1909年〈明治42年〉10月… 豊岡 益人(とよおか ますと、1909年〈明治42年〉10月27日 - 1988年〈昭和63年〉10月29日)は、昭和時代の政治家。三重県上野市長。 三重県出身。市田真道の三男として生まれ、豊岡博道の養子となる。1934年(昭和9年)東京帝国大学文学部を卒業し、帝国美術院付属美術研究所嘱託となり、翌年念佛寺住職に就任。三重県国宝重要美術調査員、上野市公安委員を経て、1950年(昭和25年)三重大学講師を経て、1953年(昭和28年)5月、上野市長に就任した。 市長就任後間もなく東近畿大水害に見舞われ災害復旧に奔走。また、周辺村との合併問題をまとめた上野基本調査は統計界の大賞である大内賞を受賞した。
三田 博雄(みた ひろお、1909年10月26日 - 198… 三田 博雄(みた ひろお、1909年10月26日 - 1989年7月17日)は、日本の科学史家。神戸大学名誉教授。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
土門 拳(どもん けん、1909年〈明治42年〉10月25日… 土門 拳(どもん けん、1909年〈明治42年〉10月25日 - 1990年〈平成2年〉9月15日)は昭和時代に活躍した日本の写真家。 リアリズムに立脚する報道写真、日本の著名人や庶民などのポートレートやスナップ写真、寺院、仏像などの伝統文化財を撮影し、第二次世界大戦後の日本を代表する写真家の一人とされる。また、日本の写真界屈指の名文家としても知られた。 土門は、1950年代の前半頃から「社会的リアリズム」を標榜(後年本人が告白したところでは、実質的には社会主義リアリズムであったという)、「絶対非演出の絶対スナップ」を主張し、日本の写真界に一時期を画した。当時、リアリズム系の写真家としては、木村伊兵衛と双璧をなした。
石井 孝(いしい たかし、1909年10月25日 - 199… 石井 孝(いしい たかし、1909年10月25日 - 1996年5月6日)は、日本史学者。幕末維新期対外関係が専門。
梅澤 純夫(うめざわ すみお、1908年11月22日 - 2… 梅澤 純夫(うめざわ すみお、1908年11月22日 - 2000年3月30日)は、日本の有機合成化学者。専門は抗生物質。慶應義塾大学名誉教授。
岡田 武彦(おかだ たけひこ、1908年(明治41年)11月… 岡田 武彦(おかだ たけひこ、1908年(明治41年)11月22日 - 2004年(平成16年)10月17日)は、日本の哲学者・著述家。 兵庫県飾磨郡白浜村字中村(白浜町を経て、現在の姫路市白浜町)で生まれる。姫路高等学校を経て、1934年(昭和9年)九州帝国大学法文学部支那哲学史専攻(当時)を卒業した。富山県立神通中学校(現在の富山県立富山中部高等学校)教諭を務め、1938年(昭和13年)に宮崎県立延岡中学校(現在の宮崎県立延岡高等学校)教諭、1939年(昭和14年)に福岡県立中学修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)教諭を務めた。1943年(昭和18年)に長崎師範専門学校(現在の長崎大学教育学部)教諭、1945年(昭和20年)に熊本陸軍幼年学校教官、1946年(昭和21年)に福岡県立修猷館高等学校教諭を務めた。
内野 壮児(うちの そうじ、1908年11月22日 - 19… 内野 壮児(うちの そうじ、1908年11月22日 - 1980年12月26日)は、昭和時代の社会運動家。労働運動研究所代表理事。日本共産党中央委員候補。 長崎県下県郡鶏知町(現対馬市)に生まれる。1928年旧制第一高等学校を卒業、東京帝国大学文学部に入学。入学と同時に新人会に加入、柳島のセツルメント労働学校を運営。同年9月検挙され、東大を中退。1929年日本労働組合全国協議会(全協)関東金属労働組合大崎支部書記を経て同本部常任委員となり、以降オルグ活動に従事。1930年6月全協本部を批判して全協刷新同盟(刷同)の結成に参加、同年10月プロフィンテルンの決議により刷同を解散。1933年全協日本金属労働組合に復帰。
岡内 英夫(おかうち ひでお、1908年11月19日 - 2… 岡内 英夫(おかうち ひでお、1908年11月19日 - 2004年4月21日)は、日本の経営者。資生堂社長、会長を務めた。 香川県綾歌郡国分寺町出身。1929年に高松高等商業学校を卒業し、同年8月に資生堂に入社した。1947年に取締役に就任し、1960年12月に常務、1966年に専務を経て、1967年1月に社長に就任した。貿易自由化によって、外資化粧品の流入が懸念されると、女優を起用した「四季」のキャンペーンを展開し、商品だけではなく、CMソングまでにヒットさせるお家芸を確立させ、同社を流行・文化発信企業に育て上げた。当時の業界では、多角化経営が全盛していた頃でも、本業に徹していた。1975年1月に会長に就任し、1978年2月から相談役を務めた。
ねず まさし(禰津正志、1908年11月18日 - 1986… ねず まさし(禰津正志、1908年11月18日 - 1986年4月1日)は、日本の歴史学者、考古学者、著述家、翻訳家。専門は天皇史と昭和史。 本名の「禰津正志」、および「ねづ まさし」の名義でも著述活動を行った。 東京出身。1932年京都帝国大学文学部史学科国史専攻卒業。卒業論文は「文久元年露艦の對馬占據に關する外交史的研究」。同大学院考古学科修了。1936年文部省維新史料編纂局に入る一方で、1935年京都で創刊された雑誌『世界文化』の同人となり、その姉妹紙である週刊紙『土曜日』にも執筆するなど反ファシズム市民文化運動に関与したが、1937年、人民戦線事件で治安維持法違反として検挙された。戦後は天皇制、日本史、フランス革命に関する著述、翻訳を行う。
栗原 安秀(くりはら やすひで、1908年(明治41年)11… 栗原 安秀(くりはら やすひで、1908年(明治41年)11月17日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人、国家社会主義者。陸軍士官学校第41期歩兵科出身。最終階級は歩兵中尉。 1936年2月26日に勃発した二・二六事件に参加した。磯部浅一に並ぶ急進派として知られる。 1908年11月17日、島根県松江市に生まれる(東京に在籍)。父は佐賀県出身の歩兵大佐栗原勇(12期)。父の転勤に従い、北海道旭川で暮らしている。二・二六事件において処分された予備役少将斎藤瀏(12期)とその娘で歌人の斎藤史とは家族ぐるみの付き合いをしていた。坂井直(事件時は歩兵第3聯隊第1中隊附中尉として斎藤實内大臣邸を襲撃、43期)もこの頃の幼馴染である。
大川 一司(おおかわ かずし、1908年11月16日 - 1… 大川 一司(おおかわ かずし、1908年11月16日 - 1993年11月13日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。1950年日本農学賞受賞。従四位勲二等旭日重光章。文化功労者。 1908年、静岡県生まれ。1933年に東京帝国大学農学部を卒業。卒業後は、宇都宮高等農林学校教授、東京商科大学教授となった。 戦後の1949年、経済安定本部調査課長となる。1950年より一橋大学教授。1952年、学位論文『食糧経済の理論と計測 』を提出して農学博士号を取得。1958年、経済企画庁経済研究所(のち内閣府経済社会総合研究所)初代所長となる。1969年より一橋大学経済研究所所長。1972年に一橋大学を定年退職し、名誉教授となった。
久保 富夫(くぼ とみお、1908年11月16日 - 199… 久保 富夫(くぼ とみお、1908年11月16日 - 1990年3月22日)は、日本の技術者、経営者。 三菱重工業で飛行機の開発に携わり、大日本帝国陸軍の一〇〇式司令部偵察機では設計主務を勤めた。のちに自動車部門に転じ、三菱重工業から分社されて発足した三菱自動車工業で社長・会長・相談役を歴任した。 社長であった1973年から、三菱自動車工業は大韓民国の現代自動車へ技術供与を実施し、韓国の自動車産業の基礎を作った。 長崎県出身。1931年に東京帝国大学工学部航空学科を卒業し、三菱航空機(のちに三菱重工業となる)に就職、名古屋製作所勤務となる(堀越二郎の4年後輩に当たる)。 太平洋戦争後、日本では航空機の研究開発が連合国軍最高司令官総司令部によって、サンフランシスコ講和条約の発効まで禁じられた。
安藤 鶴夫(あんどう つるお、1908年〈明治41年〉11月… 安藤 鶴夫(あんどう つるお、1908年〈明治41年〉11月16日 - 1969年〈昭和44年〉9月9日)は、日本の小説家(直木賞受賞)、随筆家。落語、文楽、歌舞伎、新劇の評論家であり演芸プロデューサーでもあった。国際演劇協会理事。日本演劇協会常任理事。本名、花島鶴夫。「アンツル」の愛称で親しまれた。 東京市浅草区向柳原町(現在の東京都台東区浅草橋)に、義太夫の8代目竹本都太夫の長男として生まれる。1934年(昭和9年)の法政大学文学部仏文科卒業の時に髪を切り、以後、死ぬまでイガグリ頭で通す。子供のころから親しんだ都新聞社へ途中入社したのは1939年(昭和14年)。都新聞は花柳界の広告を載せている文芸演芸の紙面に特色のある新聞で社長の福田英助の金言は「とかく人間は色と欲だ。
橘 直治(たちばな なおじ、1908年11月15日 - 19… 橘 直治(たちばな なおじ、1908年11月15日 - 1997年9月10日)は、日本の実業家。政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)。長男は橘康太郎(衆議院議員)、孫は橘慶一郎(高岡市長、衆議院議員)。 富山県射水郡守山村(現:高岡市)出身。実業家橘林太郎の二男として生まれる。1931年早稲田大学商学部卒。伏木海陸運送社長、守山村議、高岡市議、同議会議長を務め、1946年の第22回衆議院議員総選挙において日本進歩党で富山県から出馬し初当選。翌年より富山2区となり、衆議院議員を3期務めた。1949年第3次吉田内閣で賠償政務次官。1959年より高岡市商工会議所会頭。1969年春の褒章で長年、海陸運送業に携わって貿易関係団体要職に就いて特にソ連との貿易尽力し輸出の振興に寄与したとして藍綬褒章受章。
対馬 勝雄(つしま かつお、1908年(明治41年)11月1… 対馬 勝雄(つしま かつお、1908年(明治41年)11月15日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵中尉。 二・二六事件の反乱部隊に参加した青年将校の一人で、事件当日に首相官邸襲撃を実行し、事件後に死刑判決を受け、銃殺刑に処せられた。 青森県南津軽郡田舎館村垂柳の貧農の生まれ。 1915年(大正4年)春から青森師範学校附属尋常小学校に通い始め、成績優秀で3年から終業式の度に運動が優等として壇上に呼ばれたり、全科目の成績は10段階評価でほとんどが10であった。勉強好きで本を好んでいたが家計のことを考えて買って欲しいと頼むことはなかった。卒業式では総代となり、褒章に国漢文辞書を貰った。
山岡 勝人(やまおか かつと、1908年11月14日 - 1… 山岡 勝人(やまおか かつと、1908年11月14日 - 1998年10月12日)は、昭和時代日本の詩人、小説家、作詞家、劇作家。長野県出身。 1908年(明治41年)、長野県諏訪郡平野村(現在の岡谷市)湊に生まれる。旧制松本商業学校を卒業したのち、諏訪地域で小学校各校の教員を務める傍ら、伊藤松雄主宰の「町の劇場」運動に参加した。 1930年代後半からは文芸グループ「諏訪文学」に属し、小説を執筆する傍ら「山岡羊村」他の名義で懸賞歌謡への応募を始め、1941年(昭和16年)には大政翼賛会が制定した「大政翼賛の歌」で入選する。戦後は地域活動に徹し校歌や婦人会歌、音頭の作詞、新聞小説連載などの活動に従事した。
南條 範夫(なんじょう のりお、1908年11月14日 - … 南條 範夫(なんじょう のりお、1908年11月14日 - 2004年10月30日)は、日本の小説家・経済学者。本名:古賀 英正。「條」は旧字のため南条範夫とも表記される。残酷ものと呼ばれる独特の作品や剣豪小説をはじめ、幅広い歴史小説、時代小説で知られる。東京市出身。 東京銀座の南紺屋町に、代々の医師の家に生まれる。8歳から中国・青島の小中学校を出て、山口高等学校から1930年東京帝国大学法学部卒業、1933年同経済学部卒業、助手となる。1936年満鉄調査部東京支社に入り、1937年宮崎正義が率いる日満財政研究会に、法学部助手だった戒能通孝らとともに参加。軍による東亜支配を経済的に支える統制経済計画の策定に深く関与する。
山本 孝(やまもと たかし、1908年11月14日 - 20… 山本 孝(やまもと たかし、1908年11月14日 - 2000年5月26日)は、日本の経営者。ロイヤルホテル社長を務めた。静岡県掛川市出身。ロイヤルホテル創業者山本為三郎の婿養子。 静岡県の杉山銑三郎の長男として生まれる。1931年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に住友銀行に入社。1959年11月に取締役に就任し、1963年10月に常務経て、1968年5月にロイヤルホテル副社長に就任し、1973年3月には社長に昇格。1985年4月に会長を経て、1988年6月から取締役相談役兼最高顧問を務めた。 1986年4月に勲三等瑞宝章を受章した。 2000年5月26日、心不全のために死去。91歳没。
吉田 精一(よしだ せいいち、1908年〈明治41年〉11月… 吉田 精一(よしだ せいいち、1908年〈明治41年〉11月12日 - 1984年〈昭和59年〉6月9日)は、日本の国文学者、東京大学教授。専門は近代文学。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1960年)。 1940年(昭和15年)の処女作『近代日本浪漫主義研究』で頭角を現し、1951年(昭和26年)より日本近代文学会の中心となる。また、1983年(昭和58年)に近代日本文学の分野で初めて日本学士院会員となった。 文献学批判の立場から、独自の美学的根拠にたつ実証研究を確立した。芥川龍之介、永井荷風、谷崎潤一郎といった現代作家を研究対象とすることは当時のアカデミズムでは異例のことである。東京大学の教授だった時期は短く、名誉教授にはなっていない。
大黒 東洋士(おおぐろ とよし、1908年11月12日 - … 大黒 東洋士(おおぐろ とよし、1908年11月12日 - 1992年10月24日)は、日本の映画評論家。辛口の映画批評で知られる。 高知県高岡郡仁井田村下呉地()(現・四万十町下呉地)出身。小学校入学前に小高坂村(現・高知市)へ転居。高知県師範学校附属小学校を経て旧制高知城東中学校卒業。中学5年の時に一家が東京へ移住したため、1926年に中学卒業とともに上京。有島武郎の小説や山への憧憬から北海道大学進学を目指すが叶わず、1927年の頃は復興局で測量技師の助手のアルバイトに従事して、収入の多くを映画鑑賞に費やし、やがて「人生の転機」(『映画とともに五十年』より)にいたる。1928年、松竹キネマ蒲田撮影所において所長の城戸四郎の肝煎りで新たに開設される「脚本養成所」(後に「松竹映画脚本研究所」と改称)の研究生に応募、30人の中に合格して第1期生の一人となった。
倉光 俊夫(くらみつ としお、1908年11月12日 - 1… 倉光 俊夫(くらみつ としお、1908年11月12日 - 1985年4月16日)は、日本の小説家。 東京市浅草生まれ。法政大学文学部国文科を卒業。朝日新聞社会部記者、松竹演劇部・映画部勤務を経て作家活動に入る。武田麟太郎の『人民文庫』に参加の後、1941年に池田源尚・古沢元らと同人誌『麦』を創刊。1943年に『連絡員』で第16回芥川賞を受賞。 怪奇小説を数々ものす傍ら、高橋竹山を取り上げた『津軽三味線』も著している。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
木村 傳兵衛(きむら でんべえ、1908年(明治41年)11… 木村 傳兵衛(きむら でんべえ、1908年(明治41年)11月11日 - 1972年(昭和47年)6月13日)は、日本の政治家。茨城県水戸市長(2期)。 茨城県水戸市生まれ。水戸の老舗醤油メーカー「井伝」に生まれる。1927年、旧制水戸中学校(現・茨城県立水戸第一高等学校)卒。井伝醬油社長となり、1967年。水戸市長に当選した。市長就任後に市役所の移転、市内の各学校に体育館やプールの設置、市民会館や市民プールの着工、市民憲章の制定などがある。1972年、狭心症のため、急逝した。
青柳 盛雄(あおやぎ もりお、1908年11月11日 - 1… 青柳 盛雄(あおやぎ もりお、1908年11月11日 - 1993年1月22日)は、日本の弁護士、政治家。元衆議院議員(日本共産党公認、2期)。日本共産党中央委員会顧問、日本民主法律家協会理事、日本国際法律家協会顧問などを歴任した。 長野県東筑摩郡坂北村(現・筑北村)出身。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校文科甲類、東京帝国大学法学部を経て、1931年弁護士登録すると共に布施辰治法律事務所入所。自由法曹団員として三・一五事件や四・一六事件など、治安維持法違反事件を弁護するも、1933年には布施と共に検挙され執行猶予判決を受ける。また、この件により同年弁護士資格が剥奪されたのみならず、終戦まで活動停止を余儀なくされる。
沢村 貞子(さわむら さだこ、旧字体:澤村、1908年11月… 沢村 貞子(さわむら さだこ、旧字体:澤村、1908年11月11日 - 1996年8月16日)は、日本の女優、随筆家。本名は大橋 貞子(おおはし ていこ)。
勝田 守一(かつた しゅいち、1908年11月10日 - 1… 勝田 守一(かつた しゅいち、1908年11月10日 - 1969年7月30日)は、日本の教育学者。 東京市に生まれる。ロシア研究者・横浜国立大学教授の勝田昌二(1911年生[要検証 – ノート])は弟。 1926年、東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。(宗像誠也とは同級生) 一高を経て、1932年京都帝国大学文学部哲学科卒業。 京大卒業後、松本高等学校 (旧制)教諭、学習院大学教授などを経て、1951年から東京大学教授。日本教職員組合教研集会の講師を、その発足当初から長く務め、教育科学研究会(略称:教科研)の中心メンバーとして活躍、その機関誌『教育』の編集長の任にもあたった。
大島 鎌吉(おおしま けんきち、1908年(明治41年)11… 大島 鎌吉(おおしま けんきち、1908年(明治41年)11月10日 - 1985年(昭和60年)3月30日)は、日本の陸上競技選手。専門は三段跳で、1932年ロサンゼルスオリンピック銅メダリストにして元世界記録保持者だった。 石川県金沢市出身。関西大学卒業。 引退後は大阪体育大学副学長(のちに名誉教授)や日本オリンピック委員会 (JOC)委員(のちに名誉委員)を務めた。 金沢市の手広く履物商を営む商家に生まれ、金沢商業学校(現・石川県立金沢商業高等学校)在学中に第四高等学校(現・金沢大学)主催の中等学校陸上競技大会の三段跳で優勝する。関西大学法律科に進学し、1928年アムステルダムオリンピックの予選会を兼ねた全日本選手権で走幅跳2位、三段跳3位となるも選に漏れた(この時選手に選ばれた織田幹雄は三段跳びで日本人初の金メダリストとなった)。
入江 猪太郎 (いりえ いたろう、1908年 <明治41年>… 入江 猪太郎 (いりえ いたろう、1908年 <明治41年> 11月10日 - 1990年 <平成2年> 9月17日)は、日本の経済学者。神戸大学名誉教授。元日本学術会議会員。 岡山県西大寺市生まれ。1930年高松高等商業学校(現香川大学)卒業。1933年神戸商業大学(現神戸大学)卒業、同研究科入学。1936年鹿児島高等商業学校講師。1938年同教授。1942年神戸商業大学助教授。1950年神戸大学経営学部教授。1952年同教授。1953年岡山大学教授併任。1961年商学博士。1964年神戸大学経営学部長。1972年日本学術会議会員。同年定年退官、神戸大学名誉教授、近畿大学商経学部教授。1980年勲三等旭日中綬章受章。
岡本 耕造(おかもと こうぞう、1908年11月10日 - … 岡本 耕造(おかもと こうぞう、1908年11月10日 - 1993年2月24日)は、病理学者。京都大学名誉教授、近畿大学名誉教授。 富山県出身。第四高等学校 (旧制)を経て、1931年京都帝国大学医学部医学科卒業。清野謙次の弟子として京大病理学教室に入った。1935年2月1日付で、歩兵第7連隊幹部候補生として応召、同年12月復職。1938年3月3日、ドイツ語論文「組織鉄に関する研究」で医学博士号取得。 京大講師在任中の1938年春、清野と医学部長戸田正三の説得でやむなく関東軍防疫給水部本部(731部隊)に参加。第一部第六課岡本班で病理研究に従事した。極東国際軍事裁判で戦犯として訴追された。 戦後、兵庫県立神戸医科大学教授、東北大学教授を歴任。
湊 守篤(みなと もりあつ、1908年11月9日 - 197… 湊 守篤(みなと もりあつ、1908年11月9日 - 1972年8月21日)は、日本の経営者。日興証券社長を務めた。 東京都出身。1923年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。1951年に取締役に就任し、1954年に常務を経て、1961年に日興証券副社長に就任し、1964年から1970年11月までに社長を務めた。 経済同友会副代表幹事、東京都教育委員なども歴任し、木川田一隆と共に安定成長論を唱えた。 1972年8月21日、心筋梗塞のために死去。63歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
吉田 重春(よしだ しげはる、1908年(明治41年)11月… 吉田 重春(よしだ しげはる、1908年(明治41年)11月8日 - 没年不明)は、日本の実業家。北海道小型自動車販売協会、札幌地区軽自動車協会各専務理事。衆議院議員・立憲民主党代表の泉健太は外孫。 北海道出身。吉田重貞(札幌毎日新聞社社長)・キミの長男として生まれる。1930年(昭和5年)小樽高等商業学校卒業。高商卒業後、住友本社鴻之舞鉱業所、住友鉱業(現・住友金属鉱山)、住友石炭鉱業(現・住石マテリアルズ)、北海道マツダ販売を経て北海道小型自動車販売協会、札幌地区軽自動車協会各専務理事に就いた。 趣味は読書、麻雀、将棋、酒。 娘婿に元石狩市議の泉訓雄がいる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
伊大知 良太郎(いおち りょうたろう、1908年〈明治41年… 伊大知 良太郎(いおち りょうたろう、1908年〈明治41年〉11月8日 - 1985年〈昭和60年〉5月26日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。一橋大学経済研究所長、日本統計学会会長等を歴任した。 東京出身。1931年旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業。1934年同研究科修了。台北高等商業学校教授、総理府統計局、横浜国立大学教授を経て、一橋大学経済研究所教授を務めた。1963年から高橋長太郎の後任として第8代一橋大学経済研究所長を務めた。1965年に所長を退任し都留重人と代わる。1971年から1972年まで第10代日本統計学会会長。1973年一橋大学定年退官、一橋大学名誉教授、東海大学教授。
旗田 巍(はただ たかし、1908年11月7日 - 1994… 旗田 巍(はただ たかし、1908年11月7日 - 1994年6月30日)は、日本の東洋史学者、旧・東京都立大学名誉教授。 1908年、慶尚南道馬山生まれ。1931年東京帝国大学東洋史学科卒業。卒業後満鉄調査部に所属し華北農村慣行調査に参加した。 戦後は旧・東京都立大学助教授、教授を務め、1972年に定年退官、名誉教授となる。その後は専修大学教授として教鞭をとり、1979年に退職。 戦後、人間不在の東洋史学の克服、植民地支配否定の立場からの研究を目指し、朝鮮史研究で中心的役割を果たした。 戦後、中国東北部の満洲と朝鮮半島をつながった地域ととらえる歴史観である満鮮史を批判したことで知られる。第2回日韓歴史共同研究委員会委員幹事を務めた古田博司によると、韓国の委員が戦前の日本の満鮮史研究者を批判した旗田巍を見習うべきだと発言したという。
竹内 悌三(たけうち ていぞう、1908年11月6日 - 1… 竹内 悌三(たけうち ていぞう、1908年11月6日 - 1946年4月12日)は、東京府(現在の東京都)出身のサッカー選手。朝鮮銀行副総裁・野球研究者の君島一郎は岳父。照明デザイナーの石井幹子は娘。 東京府立第五中学校(現:東京都立小石川中等教育学校)在学中よりサッカーを始め、浦和高等学校を経て、1928年に東京帝国大学に入学してア式蹴球部に入部した。在学中の1930年に開催された第9回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、フィリピン代表戦で日本代表として初出場した。 1932年に東京帝国大学経済学部卒業後は東京火災保険会社に入社。1936年に開催されたベルリンオリンピックの日本代表に選出され、主将としてスウェーデン代表戦など2試合に出場した。
東畑 四郎(とうはた しろう、1908年11月6日 - 19… 東畑 四郎(とうはた しろう、1908年11月6日 - 1980年10月21日)は、日本の農林官僚。食糧庁長官、農林事務次官を務め、退官後は農政調査委員会理事長や日銀政策委員などを歴任した。農業経済学者の東畑精一は実兄。 三重県一志郡豊地村(現在の松阪市)で地主の父・東畑吉之助、母よしをの四男として生まれる。1925年に三重県立津中学校を卒業し、第八高等学校文科甲類に入学した。1928年、東京帝国大学へ入学。在学中の1930年10月に高等試験行政科に合格し、1931年大学卒業後に農林省へ入省。 終戦後には、農政課長として第一次農地改革の原案の作成にとりかかった。東畑が作成した原案では、地主が保有できる貸付地の限度を3haとしていたが、当時農林大臣であった松村謙三は完全自作農主義を持論としており、その限度を1.5haとすることを主張した。
小嶋 潤(おじま じゅん、1908年11月6日 - 1997… 小嶋 潤(おじま じゅん、1908年11月6日 - 1997年9月1日)は、日本のキリスト教神学者、立教大学名誉教授。本名、小嶋 次男(おじま つぎお)。姓は「小島」との表記もある。 兵庫県生まれ。1933年京都帝国大学文学部哲学科卒。1962年「マルコ伝研究」で京都大学文学博士。東京女子大学教授、立教大学教授、茨城キリスト教大学教授、静岡英和女学院短期大学学長を歴任。 1997年9月1日、純赤芽球ろうのため死去。
阿部 真琴(あべ まこと、1908年(明治41年)11月6日… 阿部 真琴(あべ まこと、1908年(明治41年)11月6日 - 1988年(昭和63年)1月13日)は、日本史学者。 愛知県岡崎市出身。1931年東京帝国大学文学部国史学科卒、1951年神戸大学文理学部助教授、1958年文学部教授、1972年定年退官、名誉教授、徳川林政史研究所。1988年、急性心不全のため死去。
長谷川 重三郎(はせがわ じゅうざぶろう、1908年(明治4… 長谷川 重三郎(はせがわ じゅうざぶろう、1908年(明治41年)11月5日 - 1985年(昭和60年)3月4日)は、日本の銀行家。第一銀行頭取、全国銀行協会会長(第25代)を務めた。東京出身。 実父は渋沢栄一で、妾との間に生まれたと言われる。一説には、渋沢の13番目の子供ということで「じゅう3郎」というところから「重三郎」と名付けられた。 一高を経て、東京帝国大学経済学部に入学。大学入学式のすぐその足で、ソビエトから帰国した佐野学歓迎会に出席、一挙検挙で辛うじて逃げ出した逸話は知る人の間では伝説となっている。東大では土屋喬雄のゼミナールで日本経済史を専攻した。 1932年に第一銀行に入行。行内ではエリートコースを歩み、本店営業部次長、業務部長兼秘書役を歴任。
旗 一兵(はた いっぺい、1908年11月3日 - 1988… 旗 一兵(はた いっぺい、1908年11月3日 - 1988年10月28日)は、昭和期に活躍した日本のテレビプロデューサー、映画評論家、演劇評論家、雑誌編集者、新聞記者。フジテレビプロデューサー、吉本興業企画課長、東京日日新聞社(現・毎日新聞)芸能部記者、日本移動演劇連盟劇団課長、キネマ旬報社編集者などを務めた。本名は金田福太郎。 1908年(明治41年)11月3日生まれ。東京府東京市芝区(現在の東京都港区)高輪出身。 1931年(昭和6年)、立教大学文学部卒業。学生時代から映画や演劇の研究を行い、大学在学中の1929年(昭和4年)には立教大学雑誌部出版の『立教大学文学』に「発声映画に関する常識」と題する論評を発表している。
田中 正佐(たなか しょうすけ、1908年(明治41年)11… 田中 正佐(たなか しょうすけ、1908年(明治41年)11月2日 - 2000年(平成12年)1月8日)は、日本の実業家。大丸副社長を経て、東急グループの総帥である五島昇に招かれ、東急百貨店社長に就き、東光ストア(現・東急ストア)や東急エージェンシー社長も兼任し、グループの流通事業の発展に力を尽くした。 山形県鶴岡市出身。父正造、母こえだのもと7人兄弟の次男として生まれる。田中家は庄内藩の家臣で、母方は家老の家柄だった。 鶴岡中学校、新潟高等学校、京都帝国大学経済学部を卒業。山添直(小田急不動産社長)は幼友達。 満鉄への入社を希望していたが、知人のすすめもあって1933年、大丸に入社。入社5年後の1938年、大丸が進出していた中国の蘇州店支配人を任される。
権守 操一(ごんもり そういち、1908年11月2日 - 1… 権守 操一(ごんもり そういち、1908年11月2日 - 1972年6月20日、正字では權守)は、日本のフランス文学者。 山梨県生まれ。1934年東京帝国大学文学部仏文科卒。東北大学教養部助教授をへて、教授。72年定年退官、名誉教授となる。戦前の同人文芸誌「批評」にも参加している。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
平田 陽一郎(ひらた よういちろう、1908年11月1日 -… 平田 陽一郎(ひらた よういちろう、1908年11月1日 - 1988年10月10日)は、日本のジャーナリスト、実業家。 愛媛県八幡浜市生まれ。松山中学校 (旧制)に入学。松山高等学校 (旧制)在学時、のちの日本共産党議長宮本顕治や憲法学者大野盛直らと同人雑誌『白堊紀』を発行するなどの親交があった。 京都帝国大学卒業。大阪毎日新聞記者を経て、1942年愛媛合同新聞社(現愛媛新聞社)編集局長。1946年愛媛新聞社社長。1947年日本で初めて新聞週間行事を実施した。1953年南海放送開局、社長に就任。 1963年1月の第5回愛媛県知事選挙に「県政刷新県民の会」より出馬、自由民主党公認の現職知事久松定武に接戦の末惜敗した。