岡村 文子(おかむら ふみこ、1898年10月24日 - 1… 岡村 文子(おかむら ふみこ、1898年10月24日 - 1976年8月15日)は長野県出身の女優。 長野市立鍋屋田尋常高等小学校(現在の長野市立鍋屋田小学校)、長野県立長野高等女学校(現在の長野県長野西高等学校)卒業後上京。芸術愛好家の伯爵家に行儀見習いに行ったのが縁で女優の道を歩み始めた。 1917年に浅草オペラに入り、『天国と地獄』で初舞台を踏む。その後原信子歌劇団から新星歌舞劇団を経て、1921年松竹蒲田撮影所に入社し、『悪魔の崖』で映画デビューした。再び浅草オペラに戻り、1924年に東亜キネマ甲陽撮影所に入る。 1925年、松竹蒲田撮影所に戻り、『若き女の死』で助演したほか、『裸騒動記』などの喜劇映画で活躍した。
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真田 穣一郎(さなだ じょういちろう、1897年(明治30年… 真田 穣一郎(さなだ じょういちろう、1897年(明治30年)11月21日 - 1957年(昭和32年)8月3日)は、日本の陸軍軍人。 第2総軍参謀副長・陸軍省軍務局長・参謀本部第一部長を歴任し、階級は陸軍少将功四級に至る。 屯田兵、沼貝町長真田嘉七の長男として生まれ、北海道庁立札幌第一中学校(後の北海道札幌南高等学校)・仙台陸軍地方幼年学校・陸軍中央幼年学校を経て1919年(大正8年)5月陸軍士官学校(31期)を卒業。 同年12月、陸軍歩兵少尉に任官され、歩兵第9連隊附を命ぜられる。 1922年(大正11年)12月中尉に進級し、1924年(大正13年)12月26日陸軍大学校(39期)に入校。1927年(昭和2年)12月6日卒業する。
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奥井 復太郎(おくい ふくたろう、1897年(明治30年)1… 奥井 復太郎(おくい ふくたろう、1897年(明治30年)11月21日 - 1965年(昭和40年)2月16日)は、昭和期の日本の都市経済学者・都市社会学者・農業経済学者。経済学博士。慶應義塾長、日本における都市研究の先駆者。景観論や風景へのアプローチも行った。 日本都市学会初代会長、文化勲章受章者選考委員会ならびに文化功労者選考審査会委員、特殊法人国民生活研究所(現・独立行政法人国民生活センター)所長、日本開発センター顧問、財団法人観光産業研究所所長、地域開発研究所所長、海運経済研究所調査委員会委員、ユネスコ国内委員、社会開発懇談会委員等を歴任。
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及川 顕司(おいかわ けんじ、1897年〈明治30年〉11月… 及川 顕司(おいかわ けんじ、1897年〈明治30年〉11月21日 - 1985年〈昭和60年〉11月28日)は、日本の政治家。初代岩手県北上市長(2期)。 現在の岩手県北上市生まれ。1917年〈大正6年〉和賀郡黒沢尻町(現・北上市)役場に入る。1937年〈昭和12年〉同町助役。1941年〈昭和16年〉稗貫郡湯本村村長代理。同年西磐井地方事務所総務課長を経て、県嘱託。1944年〈昭和19年〉九戸、二戸、下閉伊各地方事務所総務課長。1947年〈昭和22年〉地方事務官西磐井地方事務所長となる。翌1948年〈昭和23年〉黒沢尻町長に当選。4年後の1952年〈昭和27年〉に再選。1954年〈昭和29年〉黒沢尻町は周辺の町村と合併して北上市が発足。
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鈴木 脩蔵(すずき しゅうぞう、1897年(明治30年)11… 鈴木 脩蔵(すずき しゅうぞう、1897年(明治30年)11月20日 - 1977年(昭和52年)11月8日)は、日本の内務官僚。官選岩手県知事。 新潟県出身。第七高等学校造士館を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し兵庫県属となり宍粟郡長に就任。 以後、警視庁工場課長、滋賀県書記官・経済部長、広島県書記官・経済部長、京都府書記官・学務部長、北海道庁部長・土木部長などを歴任。 1942年6月、岩手県知事に就任。1945年4月に知事を退任。その後、公職追放となった。1954年5月に京都市助役となり1958年まで在任。以後、近江絹絲紡績監査役、同常務取締役、(社) 京都倶楽部常務理事を務めた。
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小田 勝(おだ まさる、1897年(明治30年)11月19日… 小田 勝(おだ まさる、1897年(明治30年)11月19日 - 没年不明)は、日本の医師。山口病院院長。医学士。外祖父は第6代広島市長の小田貫一。妹の和子は岸田正記の妻。 小田得一の長男として広島県佐伯郡廿日市町で生まれる。生家は医師として三代続く家であり、父・得一は、大阪医学校(現・大阪大学医学部)出身で内科、眼科を開業した。得一は、広島県の医学界において腕利きの一人として名声があり、長年に渡って県医師会理事に挙げられるほど逸材であった。 1925年(大正14年)、慶應義塾大学医学部を卒業し、同大学産婦人科教室に入り、3年間研究に没頭する。1928年(昭和3年)、山口病院初代院長・山口卓治の死亡により院長を承継し、山口病院院長に就任。
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佐伯 忠義(さへき ただよし、1897年(明治30年)11月… 佐伯 忠義(さへき ただよし、1897年(明治30年)11月19日 - 1969年(昭和44年)4月8日)は、大正から昭和期の農業指導者、政治家。衆議院議員、鳥取県西伯郡天津村長。 鳥取県西伯郡天津村大字福成(西伯町を経て現南部町)で生まれる。1911年(明治44年)法勝寺実業専修学校を卒業した。農業を営む。 天津村長に在任。1937年(昭和12年)4月、鳥取県会議員に選出され、1947年(昭和22年)まで在任。また、鳥取県産業組合連合会幹事、西伯郡畜産組合長、天津村農会長、同産業組合長、西伯郡家畜保険組合長、鳥取県農業会理事、同粗飼料製粉組合長、同馬匹組合長、同酪農組合連絡会長などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で鳥取県全県区から日本進歩党公認で出馬して当選し、のちに民主党に所属して衆議院議員に1期在任した。
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中川 善之助(なかがわ ぜんのすけ、1897年〈明治30年〉… 中川 善之助(なかがわ ぜんのすけ、1897年〈明治30年〉11月18日 - 1975年〈昭和50年〉3月20日 )は、日本の法学者。東北大学名誉教授、金沢大学名誉教授。正三位勲一等。日本の家族法の権威である。 1897年、東京府(現・東京都)神田で生まれた。金沢第一中学校、第四高等学校を経て、東京帝国大学に進学。穂積重遠門下で法学を学び、1921年に東京帝国大学法学部を卒業。 1922年9月、東北帝国大学法文学部助教授に就任し、民法学第一講座を担当した。1927年、東北帝国大学法文学部教授に昇格。1940年、第2代仙台法経専門学校校長に任命された。以後、死去するまで同校校長を務めた。 1961年、東北大学を定年退官し、名誉教授となった。
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北村 一男(きたむら かずお、1897年11月17日 - 1… 北村 一男(きたむら かずお、1897年11月17日 - 1965年3月29日)は日本の政治家、参議院議員、新潟県知事。 1897年、新潟県見附市出身。新潟県立加茂農林学校を経て1920年(大正9年)に中央大学商科を卒業後、堤商会(のちに旧日魯漁業、輸出食品と合同して社名を日魯漁業に、現マルハニチロ)に入社して樺太-カムチャツカ間を往復。この際ゲーペーウーに拿捕されるなどの苦労があったが、これによって堤清六社長の信頼を得た。戦後は自由党に所属し、1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙に新潟地方区から出馬して初当選。2期にわたって議員を務め、農林政務次官、国土総合開発審議会、米価審議会各委員、参議院法務委員長、党の政務調査会副会長、参議院幹事長などを歴任した。
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坂口 謹一郎(さかぐち きんいちろう、1897年(明治30年… 坂口 謹一郎(さかぐち きんいちろう、1897年(明治30年)11月17日 - 1994年(平成6年)12月9日)は、日本の農芸化学者。発酵、醸造に関する研究では世界的権威の一人で、「酒の博士」として知られた。東京大学応用微生物研究所初代所長および同大学名誉教授、理化学研究所副理事長。日本学士院会員。愛称は「坂謹(さかきん)」。 新潟県高田(現・上越市)出身。正利の長男 。新潟県立高田中学校を中退し上京、神田の順天中学校に編入。同期には中村震太郎もいたが、とくに学友との交流もなかった。同校卒業後、第一高等学校理科に首席で入学。1919年、同校卒業、1922年、東京帝国大学農学部卒業。同助手、講師、助教授を経て、1939年、教授。
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大倉 三郎(おおくら さぶろう、1897年〈明治30年〉11… 大倉 三郎(おおくら さぶろう、1897年〈明治30年〉11月16日 - 1982年〈昭和57年〉10月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)。 大阪府中河内郡布施町(現東大阪市)出身。旧制八尾中学中退。布施町議を務める。1935年(昭和10年)9月25日に大阪府会議員に当選して1939年(昭和14年)9月24日に退任した。そのほか布施市議となる。また、1937年(昭和12年)6月11日から1938年(昭和13年)8月1日までと、1939年(昭和14年)12月12日から1942年(昭和17年)6月15日まで初代及び第3代同市会議長を務めた。同年の第21回衆議院議員総選挙で大阪5区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。
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吉村 茂樹(よしむら しげき、1897年(明治30年)11月… 吉村 茂樹(よしむら しげき、1897年(明治30年)11月14日 - 1985年(昭和60年)4月16日)は、日本史学者。 広島県出身。東京帝国大学卒。1936年(昭和11年)に東京帝大史料編纂所編纂官。1952年(昭和27年)、東京大学史料編纂所第一研究部長として、朱雀天皇千年式年祭に先立ち御事績を昭和天皇に進講した。1954年(昭和29年)に東京大学史料編纂所教授。1958年(昭和33年)に定年退官、上智大学教授。1967年(昭和42年)に退職。専門は平安・鎌倉時代の政治・法制、古文書学。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
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足立 仁(あだち まさし、1897年〈明治30年〉11月13… 足立 仁(あだち まさし、1897年〈明治30年〉11月13日 - 1978年〈昭和53年〉1月25日)は、日本の農学者・微生物学者。 1897年、東京府出身(北海道生まれ)。1921年(大正10年)に北海道帝国大学農学部農芸化学科卒業後、同大学助教授。台湾総督府高等農林学校教授などを経て、欧米遊学後の1928年(昭和3年)に台北帝国大学助教授に着任、1937年(昭和12年)同教授に昇任して務めた。ちなみに、台湾時代に住んでいた住居(台北市昭和町)は現在も同地で保存されており、レストラン「青田七六」として営業している。 戦後は、大阪府立大学や玉川大学などの教授を務めた。1965年に論文「Mikrobiologisch und Mikrobiochemische Untersuchungen uber die Rhizosphare der Kultur-pflanzen zur Verbesserung der Bodenfruchtbarkeit in den Tropen-und Subtropen-Bodenあ(熱帯及び亜熱帯における栽培作物の土地改良による根圏の微生物学的及び微生物化学的研究) 」を北海道大学に提出して農学博士号を取得。
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内村 祐之(うちむら ゆうし、1897年(明治30年)11月… 内村 祐之(うちむら ゆうし、1897年(明治30年)11月12日 - 1980年(昭和55年)9月17日)は、日本の医学者、精神科医。専攻は臨床精神医学、神経病理学。東京大学名誉教授、日本学士院会員。プロ野球コミッショナー。 キリスト教思想家として著名な内村鑑三を父、内村の4度目の妻内村静子を母として、東京府に誕生する。 獨逸学協会学校中等部から第一高等学校(医科)を経て、東京帝国大学に進む。一高野球部と草創期の東大野球部でも活躍し、特に一高時代の1918年、同校の野球投手として三高(京都)、学習院のほか、早稲田と慶應義塾を久しぶりに撃破するなど、15年ぶりに事実上の全国制覇を果たした。学生野球界で、当時隆盛を極めた左腕投手としてその名を馳せた。
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宇野 弘蔵(うの こうぞう、1897年11月12日 - 19… 宇野 弘蔵(うの こうぞう、1897年11月12日 - 1977年2月22日)は、日本のマルクス経済学者。 日本のマルクス経済学者の中でも特に影響力の大きな一人であり、その学派は宇野学派と称された。宇野学派は新左翼や社会主義協会に影響をあたえた。 岡山県倉敷市に生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学し、同期には、後に宇野の人生に大きな影響を与えた西雅雄や一高の特待生となる松田享爾、関西大学法学部教授になる高木益郎がいた。卒業後、第六高等学校を経て、1921年に東京帝国大学経済学部卒業。1954年、経済学博士(東京大学)。 1921年、大原社会問題研究所入所。ドイツ留学を経て、1924年に東北帝国大学法文学部経済学第三講座(経済政策論)助教授。
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加世田 哲彦(かせだ てつひこ、1897年〈明治30年〉11… 加世田 哲彦(かせだ てつひこ、1897年〈明治30年〉11月11日 - 1971年〈昭和46年〉7月25日)は、日本の海軍軍人。成績優秀な将校であったが、神政龍神会の結成にかかわり、不敬罪に問われ失官となる。最終階級は海軍中佐。 鹿児島県出身。鹿児島二中より海軍兵学校47期に首席入校。在学中も学術優等章を2度授与され、次席及び恩賜で卒業した。同期生に光延東洋、横山一郎、城英一郎などがいる。 1920年(大正9年)、少尉任官。尉官時代は霞ヶ浦海軍航空隊附としてセンピル教育団に関わり、第一遣外艦隊参謀、練習艦隊副官、戦艦「長門」分隊長、財部彪副官などを歴任。1930年(昭和5年)12月1日、海軍少佐へ進級し海軍大学校甲種30期へ進む。
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松本 信廣(まつもと のぶひろ、松本 信広、1897年(明治… 松本 信廣(まつもと のぶひろ、松本 信広、1897年(明治30年)11月11日 - 1981年(昭和56年)3月8日)は、大正から昭和にかけての民俗学者、神話学者。 1897年、東京市港区に生まれる。区立鞆絵小学校、慶應義塾普通部を経て、1920年(大正9年)3月、慶應義塾大学部文学科(史学)を卒業、普通部の教員に採用される。1924年(大正13年)5月に東洋学研究のため、フランスへ留学。ソルボンヌ大学で学び、マルセル・グラネやマルセル・モースらと交流する。1928年(昭和3年)7月に文学博士の学位を取得し、9月に帰国。日本人の東洋学者として最初の文学博士の国家学位を受けた人物である。慶應義塾大学文学部助教授に就任し、1930年(昭和5年)10月には教授に昇任した。
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平岩 馨邦(ひらいわ よしくに、1897年〈明治30年〉11… 平岩 馨邦(ひらいわ よしくに、1897年〈明治30年〉11月10日 - 1967年〈昭和42年〉10月2日)は、日本の動物学者・哺乳類学者(理学博士)。九州大学農学部教授、福岡女学院大学短期大学部初代学長等を歴任した。 1897年生まれ。広島文理科大学、九州大学農学部教授、学生部長。父は平岩愃保(日本メソヂスト教会第2代監督)。祖父は宗門改役の幕臣・平岩馨明。 1937年、東京帝国大学より理学博士の学位を取得。学位論文は「Studies on a bopyrid, Epipenaeon japonica Thielemann(アカエビヤドリムシ(エピペネオン・ジャポニカ・ティールマン)に関する研究)」。
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大久保 房松(おおくぼ ふさまつ、1897年11月6日 - … 大久保 房松(おおくぼ ふさまつ、1897年11月6日 - 1997年8月28日)は、日本の騎手、調教師。 1912年に函館競馬倶楽部の函館大次門下から騎手としてデビュー、1922年から調教師兼業となり、1933年にカブトヤマで東京優駿大競走(現東京優駿・日本ダービー)を制した。第二次世界大戦を経て、戦後は国営競馬・日本中央競馬会の調教師として、JRA顕彰馬となった牝馬トキツカゼ、その産駒で1955年の啓衆社賞年度代表馬に選出された日本ダービー優勝馬オートキツなど数々の活躍馬を管理した。また、門下生からは騎手としてそれぞれ1000勝以上を挙げた郷原洋行、的場均などを輩出した。1989年に定年引退。
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落合 寛茂(おちあい かんも、1897年(明治30年)11月… 落合 寛茂(おちあい かんも、1897年(明治30年)11月5日 - 1972年(昭和47年)4月15日)は、明治末から昭和期の僧、政治家。衆議院議員(1期)、天台宗大僧正。 長野県小県郡傍陽村(真田町を経て現上田市真田町傍陽)出身。12歳で得度受戒。天台宗中学(現駒込中学校・高等学校)を経て、1919年(大正8年)天台宗大学(現大正大学)専門部を卒業した。その後、東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科で学んだ。 実相院(上田市)住職に就任。天台宗宗務庁教学部で勤務し、信濃毎日新聞社客員として漫画、漫文などを掲載した。1935年(昭和10年)茨城県結城郡大花羽村大輪(水海道市を経て現常総市大輪町)の安楽寺特命住職に転任。
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梅谷 修三(うめたに しゅうぞう、1897年〈明治30年〉1… 梅谷 修三(うめたに しゅうぞう、1897年〈明治30年〉11月5日 - 1954年〈昭和29年〉5月29日)は、昭和時代の台湾総督府官僚。 梅谷市太郎の長男として、香川県仲多度郡琴平町に生まれる。第六高等学校を経て、1924年(大正13年)4月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、1927年(昭和2年)12月に高等試験行政科に合格した。 交通局書記を皮切りに、府衛生課勤務、台北州保安課長を経て、1932年(昭和7年)3月、台北州羅東郡守に就任。ついで同州宜蘭郡守を経て、1935年(昭和10年)9月、新竹州地方課長に転じた。その後は、府営林所庶務課長、殖産局鉱務課長、文教局学務課長などを歴任し、皇民奉公会中央本部生活部参事を務めた。
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木村 龜二(木村 亀二、きむら かめじ、1897年11月5日… 木村 龜二(木村 亀二、きむら かめじ、1897年11月5日 - 1972年3月15日)は、日本の法哲学者、刑法学者。東北大学名誉教授。従三位勲二等旭日重光章。法学博士。兵庫県出身。 牧野英一と並ぶ主観主義刑法学の大家。教科書(『刑法総論』)は、逝去後も、阿部純二教授によって1978年(昭和53年)に増補されている。 1921年に東京帝国大学法学部を卒業後、穂積重遠の推挙で同法学部助手となり、法理学の研究に従事し、1926年に九州帝国大学教授となるが、1927年、九州帝国大学法文学部内訌事件で大学を追われる。その後、当時東京帝国大学教授であった牧野英一に誘われ、牧野の研究室で主として新派刑法学、刑事政策の研究に従事するようになる。
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大原 性実(おおはら しょうじつ、1897年11月5日 - … 大原 性実(おおはら しょうじつ、1897年11月5日 - 1979年4月25日)は、日本の仏教学者。浄土真宗の僧。 京都府生まれ。龍谷大学文学部卒、同大学院、同大学教授、1956年「真宗異議異安心の研究」で龍谷大学より文学博士の学位を取得。1957年退職。
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水谷 長三郎(みずたに ちょうざぶろう、1897年(明治30… 水谷 長三郎(みずたに ちょうざぶろう、1897年(明治30年)11月4日 - 1960年(昭和35年)12月17日)は大正、昭和期の日本の政治家、弁護士、労働運動家。位階は正三位。 片山内閣、芦田内閣の商工大臣を務めた。愛称「水長」(みずちょう)。 1897年(明治30年)11月4日京都府紀伊郡伏見町京橋(現在の京都市伏見区)に生まれる。1921年(大正10年)京都帝国大学法学部を卒業する。京都帝大ではマルクス経済学者の河上肇に師事、高山義三とともに河上を顧問とする労学会を結成した。京都帝大在学中に友愛会に参加し、河上の紹介で大原社会問題研究所の嘱託となる。京都帝大卒業後、弁護士を開業した。 1926年(大正15年)普通選挙法が通過し、25歳以上の成人男子に普通選挙が認められると、1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙に無産政党の一つ労働農民党から立候補し山本宣治とともに当選、日本初の社会主義政党の代議士となる。
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水嶋 篤次(みずしま とくじ、1897年 <明治30年> 1… 水嶋 篤次(みずしま とくじ、1897年 <明治30年> 11月2日 - 1979年 <昭和54年> 10月2日)は、日本の経営者。新潟県出身。位階は従四位。 1922年に早稲田大学商学部を卒業し、同年に大倉土木(のちの大成建設)に入社。1946年8月に取締役に就任し、1947年3月に常務に就任したが、同年10月に公職追放を受け、退社。1950年12月に顧問として復帰し、監査役、常務、専務を経て、1960年12月から1963年5月までに社長を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1964年に紺綬褒章を受章し、1967年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1979年10月2日心不全のために死去。81歳没。
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川嶋 虎之輔(かわしま とらのすけ、1897年(明治30年)… 川嶋 虎之輔(かわしま とらのすけ、1897年(明治30年)11月1日 - 1984年(昭和59年)7月2日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。八千代市議会議長。川島と表記される場合がある。 和歌山県出身。陸軍主計大尉・川嶋守太郎の息子として生まれる。水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し重砲兵第3連隊付となる。1922年(大正11年)12月、砲兵中尉に昇進。1925年(大正14年)12月、兵科を航空兵に転科し航空兵中尉に任官し下志津陸軍飛行学校教官に就任。
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百瀬 結(ももせ ひとし、1897年11月1日 - 1982… 百瀬 結(ももせ ひとし、1897年11月1日 - 1982年12月24日)は日本の実業家。元日本ビクター社長・会長。ビクター中興の祖。
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石本 秀一(いしもと しゅういち、1897年11月1日 - … 石本 秀一(いしもと しゅういち、1897年11月1日 - 1982年11月10日)は、日本のアマチュア野球指導者、プロ野球監督。広島県広島市段原(現:南区的場町)の生まれ。
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富田 健治(とみた けんじ、1897年(明治30年)11月1… 富田 健治(とみた けんじ、1897年(明治30年)11月1日 - 1977年(昭和52年)3月23日)は、大正・昭和期の日本の内務官僚、政治家。兵庫県出身。石川県警察部長、官選長野県知事。第二次および第三次近衛内閣で内閣書記官長。貴族院議員。戦後、自由民主党衆議院議員。
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藤村 謙二(ふじむら けんじ、1897年11月1日 - 19… 藤村 謙二(ふじむら けんじ、1897年11月1日 - 1991年3月31日)は、日本の経営者。東京建物社長を務めた。岡山県出身。 1924年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に安田銀行に入行。1945年に東京建物に転じ、常務、専務を経て、1948年に社長に就任し、1957年8月には相談役に退いた。 1991年3月31日老衰のために死去。95歳没。
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犬飼 哲夫(いぬかい てつお、1897年10月31日 - 1… 犬飼 哲夫(いぬかい てつお、1897年10月31日 - 1989年7月31日)は、日本の動物学者。著書、研究論文等の名義はいずれも「犬飼哲夫」であるが、中学校卒業証書から学位記までの公文書では「犬飼哲男」と記載されている。 1897年、長野県に生まれる。北海道帝国大学農学部生物学科動物学分科に入学し、ヤツメウナギを研究対象とした発生学者の八田三郎(当初札幌農学校、東北帝国大学農科大学(北海道帝国大学農学部の前身)教授、北海道帝国大学農学部教授)の直系の弟子として、1920年代には発生生物学者であった。1930年頃に眼を痛め、これ以降は哺乳類を中心とした脊椎動物の応用動物学的な研究をおこなうようになる。
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中野 操(なかの みさお、1897年10月30日 - 198… 中野 操(なかの みさお、1897年10月30日 - 1986年3月21日)は、日本の医師、医史学者、陸軍軍医。 京都府出身、京都府立医専卒。 1938年杏林温古会を設立、大阪赤十字病院に勤務後、周防町、阿倍野晴明通で開業した。戦後に大阪で開業した。 『増補医事年表』を編纂し、機関誌『医譚』を発行するなど、大阪の医学史研究につとめた。 中野は、1552年(天文21年)の『黄素妙論』や室町時代に遡る医学書、日本最古のオランダ文法書で蘭方医新宮涼庭(1787年 - 1854年)が写した1733年の『セウユリルスフラーカコンスト』、江戸時代大阪の医事年表など、日本医史学の比類ない歴史資料を蔵書しており、これらは2012年に13,461点が一括で大阪市の指定有形文化財となった。
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川島 千代吉(かわしま ちよきち、1897年(明治30年)1… 川島 千代吉(かわしま ちよきち、1897年(明治30年)10月30日 - 1964年(昭和39年)11月14日)は、大正から昭和時代の政治家。公選初代北海道花咲郡歯舞村長。 北海道花咲郡珸瑤瑁村(現・根室市)に生まれる。高等尋常小学校を卒業後、昆布採取業、カニ漁業に従事する。1947年(昭和22年)歯舞村長選挙に民主党から出馬し、日本社会党の佐野信に圧倒的な大差をつけ当選した。その後、3期連続当選した。 3期目は、根室市への合併反対を貫いたものの村議会の反発にあい、1957年(昭和32年)10月の選挙で合併賛成派の竹村幸太郎に敗れ落選した。その後、1961年(昭和36年)根室市議会議員選挙に当選し、厚生常任委員長、総務常任委員などを務めた。
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大塚 高信(おおつか たかのぶ、1897年10月29日 - … 大塚 高信(おおつか たかのぶ、1897年10月29日 - 1979年11月23日)は、日本の英語学者。関西学院大学教授・甲南大学教授・関西外国語大学教授・京都外国語大学教授を歴任。 岡山県生まれ。東京帝国大学英文科卒業。1930年、東京高等師範学校教授。第二次世界大戦後、関西学院大学教授、甲南大学教授、1968年、関西外国語大学教授、京都外国語大学教授。
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庵原 順一(いはら じゅんいち、1897年10月28日 - … 庵原 順一(いはら じゅんいち、1897年10月28日 - 1958年5月24日) は、日本の水産学者。東京水産大学学長。 兵庫県高砂市出身。1919年水産講習所(現東京海洋大学)漁労科卒業。葛原冷蔵入社後、水産講習所練習船一等運転士、水産講習所助教授兼水産講習所技手、大日本帝国陸軍歩兵少尉を経て、1932年水産講習所教授。1958年東京水産大学(現東京海洋大学)学長。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
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袋一平(ふくろ いっぺい、1897年10月27日 - 197… 袋一平(ふくろ いっぺい、1897年10月27日 - 1971年7月2日)は、日本の翻訳家、映画評論家。 東京生まれ。1915年(大正4年)工手学校(wikidata)(現・工学院大学)化学学科卒業(第12回特待生)。 1922年東京外国語学校ロシア語科卒。ロシア語の和訳を専門とした。またソ連映画の研究家、日本山岳会会員。 翻訳対象はフィクションとノンフィクションの両分野にまたがる。 フィクションではアントン・チェーホフやマクシム・ゴーリキーなど近代ロシア文学もあるが、むしろ現代の小説やヴィタリー・ビアンキなど児童向け作品の翻訳が主体である。またアレクサンドル・ベリャーエフ、ゲオルギー・グレーウィッチらの作品を初めて邦訳するなど、ロシア(ソ連)SFの日本紹介に関して先駆的な役割を果たした。
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中島 一郎(中嶋、なかじま いちろう、1897年(明治30年… 中島 一郎(中嶋、なかじま いちろう、1897年(明治30年)10月25日 - 没年不明)は、大正後期から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 熊本県菊池郡に生まれる。第一高等学校を経て、1921年(大正10年)4月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年、大蔵省に入省し理財局属となる。翌年11月、高等試験行政科に合格。水戸税務署長、両国橋税務署長を経て、1929年(昭和4年)12月、台湾総督府に出仕。 財務局主計課長、台湾電力管理官、台湾官有財産評価委員会幹事、防衛委員会幹事、山地開発調査委員会幹事を経て、1939年(昭和14年)7月に嶺田丘造に代わり財務局長に就任した。1943年(昭和18年)退官した。
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黄 朝琴(おう ちょうきん、1897年〈明治30年〉10月2… 黄 朝琴(おう ちょうきん、1897年〈明治30年〉10月25日 - 1972年〈民国61年〉7月5日)は台湾嘉義県塩水港(現:台南市塩水区)出身の政治家。 妹は日本統治時代の台南で有名な詩人、黄金川。 内地とアメリカ国際法を学んだ後、中華民国に渡って国民政府外交部に勤務した。台湾光復後は台湾省議会議長、中国国民党中央委員等を歴任し、省議会を20年近く主宰した。連震東、黄国書、林頂立らとともに1950年代の台湾政治を代表する「半山(中国語版)」の一人である。 東京やアメリカへの留学を経て政治学に親しみ、国民党の台湾統治の仲介役を務めた。 1897年10月25日、台湾嘉義県塩水港の裕福な家庭に生まれた。
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三島 一(みしま はじめ、1897年10月24日 - 197… 三島 一(みしま はじめ、1897年10月24日 - 1973年10月12日)は、東洋史学者。東洋大学教授、二松學舍大学教授、明治大学教授、戦後に専修大学教授。専門は唐代寺院経済史。 1897年、実業家・三島桂のの長男として埼玉県で生まれた。幼少の頃は病弱な体質で、大森の小学校に入学したのは、9歳の時であった。東京府立第四中学校に入学したが、中学も2年遅れで卒業。同級生には羽仁五郎がいた。中学卒業の年は祖父・三島中州が没した年であり、また自身も病の床に就いたため第一高等学校の受験を失敗。第三高等学校に入学して学び、1920年に卒業。 東京帝国大学の東洋史学科に入学、池内宏および加藤繁の指導を受けた。
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菊池 朝三(きくち ともぞう、1896年11月22日 - 1… 菊池 朝三(きくち ともぞう、1896年11月22日 - 1988年1月31日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。茨城県土浦市議会議員。 福島県郡山市出身。菊池喜久蔵の四男として生まれる。安積中学校を経て、1917年11月、海軍兵学校(45期)を卒業。席次は89名中48番。翌年8月に海軍少尉任官。横須賀航空隊と霞ヶ浦航空隊で航空術学生として学んだ。霞ヶ浦海軍航空隊・横須賀海軍航空隊の各分隊長、各飛行隊長、「鳳翔」「加賀」「赤城」の各分隊長、「鳳翔」飛行長、大村航空隊飛行長、欧米出張、海軍航空廠飛行実験部員、「赤城」飛行長、第二航空戦隊参謀、海軍航空本部教育部員、第1連合航空隊・第2連合航空隊の各参謀、航空本部教育部員などを歴任。
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河野 文彦(こうの ふみひこ、1896年(明治29年)11月… 河野 文彦(こうの ふみひこ、1896年(明治29年)11月22日 - 1982年(昭和57年)8月11日)は、日本の航空技術者、実業家。三菱重工業社長。栃木県大田原市生まれ。次女は岩倉具忠の夫人。 1921年、東京帝国大学工学部機械科を卒業し、三菱内燃機製造に入社する。 三菱内燃機製造では機体設計を担当した。 1937年、陸軍九七式司令部偵察機の主任設計技師を務める(同機の試作機の1機は朝日新聞社に払い下げられ、ロンドンへの飛行を実施した「神風号」として著名になった)。このほか、海軍の九六式艦上戦闘機や零式艦上戦闘機などの軍用機の設計に関与した。 三菱重工第一製作所、川崎機器製作所各所長を経て、1950年に三菱日本重工取締役となる(同年、三菱重工業は財閥解体により3社に分割)。
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土屋 喬雄(つちや たかお、1896年〈明治29年〉11月2… 土屋 喬雄(つちや たかお、1896年〈明治29年〉11月21日 - 1988年〈昭和63年〉8月19日)は、日本の経済学者。東京大学名誉教授。東京都生まれ。日本経済史専攻。 仙台一中卒業ののち、1918年に旧制第二高等学校を卒業し、1921年に東京帝国大学卒業。1924年、東京帝国大学経済学部助教授。日本資本主義論争では労農派の論客として活躍。人民戦線事件に連座し、大学を追放される。戦後、大学復帰。1954年に「封建社会崩壊過程の研究」により東京大学から経済学博士の学位を授与される。 1957年に東京大学を定年退官した後は明治大学、千葉敬愛経済大学、駒澤大学、拓殖大学、城西大学で教授として教鞭をとる。
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田中 斉之(たなか なりゆき、1896年11月21日 - 1… 田中 斉之(たなか なりゆき、1896年11月21日 - 1983年6月20日)は、日本の経営者。西日本新聞社、テレビ西日本各社長を務めた。福岡県出身。 1920年に早稲田大学専門部政治経済科を卒業し、1921年に福岡日日新聞社に入社した。 1945年に取締役に就任し、1947年から1958年11月までに西日本新聞社社長を務めた。1958年3月にはテレビ西日本社長に就任。 1967年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1983年6月20日肺炎のために死去。86歳没。 12008年3月で終刊。 2資本・友好関係のあるテレビ局・ラジオ局。 32007年から暫くの間、共催社として参加。 4過去に資本・友好関係のあったラジオ局。
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林 達夫(はやし たつお、1896年〈明治29年〉11月20… 林 達夫(はやし たつお、1896年〈明治29年〉11月20日 - 1984年〈昭和59年〉4月25日)は、日本の思想家、評論家。 西洋精神史、文化史、文明史にわたる著作が多い。 1896年、東京生まれ。父曾登吉は外交官で、アメリカ・シアトル領事館赴任に伴い2歳から6歳までシアトルで過ごした。1902年に帰国。1904年、父のインド・ボンベイ領事館赴任に伴い福井市の親戚に預けられる。 1908年、両親が帰国、同年福井県立師範学校附属小学校に転入学したときは、当時は稀な帰国子女で外人姿の変な子供と見られ、相当ないじめを受けた。やがて京都市立錦林小学校に転校、1911年、京都府立第一中学校(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)に進んだが、芝居や音楽に熱中して1916年に入学した第一高等学校第一部丙類を中退。
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藤原 孝夫(ふじわら たかお、1896年(明治29年)11月… 藤原 孝夫(ふじわら たかお、1896年(明治29年)11月20日 - 1983年(昭和58年)5月8日)は、日本の内務官僚。官選山梨・千葉・神奈川県知事。 岡山県岡山市西古松に藤原祐三郎の長男として生まれる。岡山中学、第六高等学校を経て、1920年7月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入り山口県属となり内務部農務課に配属。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。 以後、1922年(大正11年)6月富山県理事官・内務部学務課長、同県視学官、1925年(大正14年)5月京都府内務部地方課長、岐阜県学務部長などを歴任し、1931年12月、復興事務局書記官・経理課長に就任した。1932年4月、内務事務官・大臣官房都市計画課勤務となり、さらに、衛生局保健課長、大臣官房会計課長を務めた。
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井上 吉之(いのうえ よしゆき、1896年11月20日 - … 井上 吉之(いのうえ よしゆき、1896年11月20日 - 1974年8月21日)は、日本の農学者、教育者。農業化学を専攻、3つの大学で学長を務めた。農学博士。 1896年、和歌山県和歌山市に生まれる。1927年、京都帝国大学農学部農林化学科を卒業。理化学研究所を経て、1932年に京都高等蚕糸学校教授となり、1935年に京都帝国大学助教授、1940年に京都帝国大学教授となった。1957年、日本学術会議会員に選出。1959年に京都大学を退官すると、1960年に東京農工大学長、1966年に鳥取大学学長となった。さらに東亜大学の設立に参画し、1974年に同大学長となった。 1970年1月7日には、講書始の儀に招かれ農業化学に関する講義を行った。
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板垣 直子(いたがき なおこ、1896年11月18日 - 1… 板垣 直子(いたがき なおこ、1896年11月18日 - 1977年1月21日)は、日本の文芸評論家、日本近代文学研究家。 青森県北津軽郡栄村湊(現五所川原市)に平山兼吉の次女「なを」として生まれる。1914年青森県立弘前高等女学校(現・青森県立弘前中央高等学校、太宰治の姉トシが2学年上で寄宿舎で同室)、1918年日本女子大学校英文科卒、1921年、東京帝国大学の第一回女子聴講生となる。美学、哲学を聴講。美術評論家の板垣鷹穂と結婚。夏目漱石などについて多くの著述を行い、比較文学研究では島田謹二、吉田精一らと並ぶ存在とされる。長谷川時雨主宰の「女人芸術」の編集委員として林芙美子を見出した。また、国士舘大学等で教鞭をとっている。
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岡本 伝之助(岡本 傳之助、おかもと でんのすけ、1896年… 岡本 伝之助(岡本 傳之助、おかもと でんのすけ、1896年〈明治29年〉11月17日 - 1982年〈昭和57年〉1月15日)は、日本の政治家、実業家、神奈川県多額納税者。衆議院議員(神奈川県第二区選出)。横須賀名誉市長。さいか屋会長。横須賀商工会議所顧問。 神奈川県三浦郡横須賀町(現横須賀市)出身。岡本傳兵衛の長男。神奈川県立横須賀中学校で学び、中退した。1905年、家督を相続し父業の呉服商を継ぎ、後百貨店さいか屋を設立し、社長となる。 さいか屋、さいか屋商事、相模運輸、神奈川県繊維製品配給統制各社長、小美屋、神中鉄道、興電社各取締役、日本百貨店組合理事、横須賀方面繊維製品小売商業組合理事長、相模運輸監査役、同常務取締役、横須賀商工会議所会頭、同顧問などを務めた。
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金倉 円照(金倉 圓照、かなくら えんしょう、1896年11… 金倉 円照(金倉 圓照、かなくら えんしょう、1896年11月17日 - 1987年1月24日)は、インド哲学者・仏教学者。位階は正三位。学位は、文学博士。東北大学名誉教授、宮城教育大学学長。龍厳寺住職(浄土真宗本願寺派)。特にジャイナ教と正当バラモン教の諸哲学体系の研究で知られる。 鹿児島県川辺郡坊津町(現・南さつま市)出身。鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)を経て、1917年第七高等学校造士館 (旧制)卒業、1920年東京帝国大学文学部印度哲学科卒業。大学卒業後、ヨーロッパへ留学。1923年東北帝国大学助教授、1926年東北帝国大学教授(戦後学制改革により東北大学教授)。1931年に論文「ブリハダーラヌヤコーパニシヤツドバーシユヤの研究」により東京帝国大学より文学博士を授与される。
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川田 栄三(榮三、かわた えいぞう、1896年 <明治29年… 川田 栄三(榮三、かわた えいぞう、1896年 <明治29年> 11月17日 - 1985年 <昭和60年> 6月14日)は、日本の経営者、銀行家。位階は従五位。 群馬県出身。1923年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に安田銀行に入行。 1943年に肥後銀行に転じ、取締役に就任し、1945年に常務を経て、1946年に頭取に就任。1971年11月に会長を経て、1976年12月には常任顧問に就任。 1958年に黄綬褒章を受章し、1967年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1985年6月14日心筋梗塞のために死去。88歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
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