松田 正人(まつだ まさと、1889年(明治22年)12月5… 松田 正人(まつだ まさと、1889年(明治22年)12月5日 - 1982年(昭和57年))は、日本の政治家。長野県北安曇郡大町町長、初代大町市長。 長野県北安曇郡美麻村(現大町市)生まれ。1908年(明治41年)3月、南佐久教員養成所卒業後、美麻村小学校教員、同村役場書記を経て、1918年(大正7年)大町で乳業会社を創業。1929年(昭和4年)4月、大町町会議員に選出され、1942年(昭和17年)5月まで3期在任。 1947年(昭和22年)4月、大町町長選挙に当選し、昭和の大合併では北安曇郡1町3村の新設合併を実現し、1954年(昭和29年)7月、市制施行に伴い初代市長となり、1962年(昭和37年)7月まで務めた。
岩満 重(いわみつ しげる、1889年(明治22年)12月4… 岩満 重(いわみつ しげる、1889年(明治22年)12月4日 - 1971年(昭和46)1月4日)は、台湾総督府官僚。鹿児島県川内市(現在の薩摩川内市)市長、川内市議会議長等を歴任。 鹿児島県薩摩郡平佐村(後の川内町、川内市、薩摩川内市)出身。旧制鹿児島県立川内中学校(現 鹿児島県立川内高等学校)を経て、1911年(明治44年)旧制第七高等学校造士館卒業。1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業して、高等文官試験に合格した。1916年(大正5年)、台湾総督府属となり、台北庁事務官、阿猴庁事務官、理事官・新竹州内務部地理課長・知事官房税務課長、台湾総督府中央研究所事務官、台中州内務部長を歴任した。
小汀 利得(おばま としえ、1889年(明治22年)12月3… 小汀 利得(おばま としえ、1889年(明治22年)12月3日 - 1972年(昭和47年)5月28日)は、日本のジャーナリスト、時事評論家。 第二次世界大戦前は中外商業新報(後の日本経済新聞)の記者で、経済部長、編集局長、社長を歴任、戦後はTBSテレビの座談会番組「時事放談」のレギュラー出演者として有名だった。なお名前はしばしば音読みで「りとく」と呼ばれた。 島根県(旧)神門郡に8人兄弟の三男として生まれる。父は同郡川跡村役場に勤めるも、呑む打つ買うの道楽が過ぎて退職、一方母は素封家の娘で近在でも評判の働き者であったという。 早くから新聞記者を目指していた小汀は、酒屋などで小僧奉公の後、1906年に上京、当時は人気がなかった青山方面で真っ暗闇のなか新聞配達で学資を稼ぎつつ、国民英学会に一時籍を置いたりしながら正則英語学校、研数学館など複数校に通ったが、これらの学校では当時中学校卒業資格を得られなかったため、やがて早稲田大学の独特の資格試験に臨み、同大学予科入学。
今井 白楊(いまい はくよう、1889年12月3日 - 19… 今井 白楊(いまい はくよう、1889年12月3日 - 1917年8月2日)は、日本の詩人である。 本名は国三。別号に夏明、太原、冬夜。鹿児島県薩摩郡隈之城村大字東手の向田(現在の鹿児島県薩摩川内市)の焼酎製造業の家に生まれた。川内中学校(現在の鹿児島県立川内高等学校)で岩谷莫哀と同窓となり、早稲田大学英文科に進学。1909年、自由詩社に参加。機関紙「自然と印象」に詩を発表するほか、河井醉茗主宰の「詩人」(詩草社)などにも作品を寄せている。1911年、『闇と脚光』で第5回雑誌『太陽』懸賞脚本に当選(賞金100万円)。1914年、「失楽園物語」を執筆。1917年、千葉県犬吠埼で遊泳中に親友三富朽葉とともに溺死。
津田 光造(つだ こうぞう、1889年〈明治22年〉12月2… 津田 光造(つだ こうぞう、1889年〈明治22年〉12月2日 - 1956年〈昭和31年〉)は、日本の政治運動家、国家主義者。 神奈川県足柄上郡南足柄村(現・南足柄市)生まれ。神田大成中学校卒、神奈川県師範学校(現・横浜国立大学)第二部卒、早稲田大学英文科に学ぶ。辻潤の妹恒と結婚。教師、文筆家、僧侶など、昭和以後は農本主義から国家主義、皇道主義へ移行、信州国民党結成に参加、『月刊日本』を編集する。報徳思想を奉じつづけた。
谷口 久吉(たにぐち ひさきち、1889年 <明治22年> … 谷口 久吉(たにぐち ひさきち、1889年 <明治22年> 12月1日 - 1968年 <昭和43年> 11月2日)は、日本の経営者。中国銀行副頭取、山陽新聞社長、山陽放送社長を歴任。位階は正五位。 岡山県津山市出身。1908年に泰西学館中学部を卒業。1946年に中国銀行副頭取、1947年に山陽新聞社社長を経て、1953年4月には山陽放送社長に就任し、1965年5月には会長に退いた。 1961年に岡山県文化賞を授賞し、1962年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等瑞宝章を受章。 1968年11月2日、心筋梗塞のために死去。78歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
石田 天海(いしだ てんかい、1889年〈明治22年〉12月… 石田 天海(いしだ てんかい、1889年〈明治22年〉12月1日 - 1972年〈昭和47年〉6月6日)は、日本の奇術師。本名は石田 貞次郎。愛知県名古屋市出身。アメリカで活躍したマジシャンの一人であり、特にスライハンドマジックで評価を得た。 1889年(明治22年)12月1日名古屋市弥宜町に髪床屋・石田林之助の三男として生まれる。小学生の時、お化けの見世物を見て興味を持ち、仕掛け「幻茶屋」を自分で作った。18歳の時、上京して楽士(活動写真の音楽家)となったが、兵役で名古屋に戻る。22歳の時、明治天皇の前で手品を披露した。 1922年33歳で再び上京、一時松旭斎天洋一座に入るが、乞われて当時大人気を誇った松旭斎天勝一座に参加する。
西村 祥治(にしむら しょうじ、1889年(明治22年)11… 西村 祥治(にしむら しょうじ、1889年(明治22年)11月30日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本の海軍軍人。海兵39期。最終階級は海軍中将。秋田県南秋田郡船越村(現:男鹿市)出身。 太平洋戦争(大東亜戦争)のレイテ沖海戦におけるスリガオ海峡夜戦を、第一遊撃部隊第三部隊指揮官(第二戦隊司令官)として戦い、旗艦・戦艦「山城」と共に壮烈な最期を遂げたことで知られる。 旧制秋田中学校(現:秋田県立秋田高等学校)から旧制横手中学校(現:秋田県立横手高等学校)を経て、海軍兵学校に入校(兵39期)。 兵学校卒業席次は21番/148名と上位であったが、海大甲種学生を経ていず、進級は遅れがちであった。
小倉 康臣(おぐら やすおみ、1889年11月29日 - 1… 小倉 康臣(おぐら やすおみ、1889年11月29日 - 1979年1月15日)は、ヤマト運輸創業者。東京都東京市京橋区数寄屋町二丁目(現・中央区銀座、数寄屋橋交差点付近)出身。 銀座の原料紙問屋「川善」の分家を経営していた両親(父・善兵衛、母・もと)の元で生まれ、8人目の三男であったことから八三郎と名付けられた(1930年2月に改名)。1902年3月の泰明小学校高等科2年卒業後は大手町の商工中学校に進学するも、川善の廃業により退学。長姉の嫁ぎ先で薪炭商を営む上田家の「山登屋」に預けられた。 東京外語学校の夜学で英語を学び、工場などで働いたのち、1914年5月25日(当時24歳)に手車による移動販売の「挽き八百屋」として独立し、京橋の大根河岸で野菜を仕入れ、銀座、新橋、芝、赤羽橋で売り歩いた。
青木 一男(あおき かずお、1889年〈明治22年〉11月2… 青木 一男(あおき かずお、1889年〈明治22年〉11月28日 - 1982年〈昭和57年〉6月25日)は、日本の大蔵官僚・政治家。位階は従二位、勲等は勲一等。 貴族院議員(勅選)、参議院議員(4期)、大蔵大臣、大東亜大臣などを歴任。 長野県更級郡牧郷村(現:長野市)で農家・青木善蔵の長男として生まれる。高等小学校卒業後は農業に従事して母と祖母の手助けをするつもりでいたが、出奔していた父親から「学資を送るので進学せよ」との手紙が届き、長野中学校(現:長野県長野高等学校)に進学する。のち第一高等学校を経て、1916年(大正5年)に東京帝国大学法学部を卒業し、大蔵省に入省する。 入省後、預金部運用課長、蔵相秘書官兼秘書課長、理財局国庫課長に就任。
伊沢 蘭奢(いざわ らんじゃ、1889年11月28日 - 1… 伊沢 蘭奢(いざわ らんじゃ、1889年11月28日 - 1928年6月8日)は、島根県出身の日本の新劇女優である。本名三浦 シゲ(みうら シゲ)、デビュー当初、映画には三浦 しげ子や三浦 茂子(みうら しげこ)、三浦 繁(みうら しげ)名義で出演していた。 1889年(明治22年)11月28日、島根県鹿足郡津和野町の紙問屋に生まれる。上京し、東京市本郷区龍岡町(現在の東京都文京区湯島4丁目)の日本女学校(現在の相模女子大学)卒業後、漢方胃腸薬「一等丸」で知られる津和野の薬屋「伊藤博石堂」に嫁ぐが、新婚時代は、事業を起こしたい夫・治輔と東京に住んでいた。1910年(明治43年)8月3日、20歳のときに、夫の実家に戻り、長男・佐喜雄(のちの作家・伊藤佐喜雄)を出産。
山口 儀三郎(やまぐち ぎさぶろう、1889年(明治22年)… 山口 儀三郎(やまぐち ぎさぶろう、1889年(明治22年)11月26日 - 1972年(昭和47年)12月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。位階勲等は正四位勲一等。 広島県佐伯郡宮内村(廿日市町を経て現廿日市市)に生まれた。1912年(明治45年)7月、海軍兵学校第40期を卒業し、1913年(大正2年)12月、海軍少尉に任官。その後、海軍水雷学校高等科を卒業し、第一遣外艦隊司令部附兼参謀、「日進」分隊長、海軍水雷学校教官兼分隊長などを歴任。1924年(大正13年)12月、海軍少佐に進級し、海軍大学校甲種第24期学生となる。1926年(大正15年)12月に長門通信長兼分隊長に就任し、1927年(昭和2年)12月、高松宮宣仁親王附武官兼八雲乗組となった。
黒田 長礼(黑田 長禮、くろだ ながみち、1889年〈明治2… 黒田 長礼(黑田 長禮、くろだ ながみち、1889年〈明治22年〉11月24日 - 1978年〈昭和53年〉4月16日)は、日本の華族(侯爵)、鳥類学者、政治家(貴族院議員)。 日本鳥学会会長を務めたことから、「日本鳥学の父」と呼ばれた[要出典]。旧筑前国福岡藩黒田家当主で、黒田長政から数えて14代目に当たる。 祖父は第12代福岡藩主・黒田長知。父は貴族院副議長を務めた黒田長成、母は清子(島津忠義の次女)である。姉妹のうち、幸子は長嶺公固の妻、良子は高倉永輝の妻。 妻は閑院宮載仁親王の第二王女の茂子。長男の長久も長じて鳥類学者となり、山階鳥類研究所所長を務めた。長女の政子(1915年生)は前田利建に、次女の光子(1921年生)は山内豊秋にそれぞれ嫁いだ。
広島 晃甫(ひろしま こうほ、本名:広島新太郎、1889年(… 広島 晃甫(ひろしま こうほ、本名:広島新太郎、1889年(明治22年)11月23日 - 1951年(昭和26年)12月16日)は、徳島県徳島市出身の日本画家。香川県立工芸学校(現香川県立高松工芸高等学校)、東京美術学校日本画科(現東京藝術大学)卒業。 徳島県徳島市に生まれる。1907年(明治40年)に香川県立工芸学校を卒業。1909年(明治42年)に白馬会洋画研究所に入り、後に画家の萬鉄五郎らとアブサント会を興す。1912年(明治45年)に東京美術学校日本画科を卒業。その後、長谷川潔、永瀬義郎と共に日本版画倶楽部を結成。 第1回帝展、第2回帝展で特選になり名が知られるようになる。帝展審査員、新文展審査員などを歴任した。
吉田 鞆明(よしだ ともあき、1888年(明治21年)12月… 吉田 鞆明(よしだ ともあき、1888年(明治21年)12月20日 – 1955年(昭和30年)9月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。ジャーナリスト。
後藤 隆之助(ごとう りゅうのすけ、1888年12月20日 … 後藤 隆之助(ごとう りゅうのすけ、1888年12月20日 - 1984年8月21日)は、日本の政治活動家。近衛文麿のブレーンとして彼を支え、大政翼賛会の組織局長を務めた。 茨城県出身。千葉県佐原出身ともされる。第一高等学校入学。在籍中、野球害毒論に関連し、新渡戸稲造校長を押川春浪が批判した際、単身押川の自宅を訪れ、謝罪文を書かせたとされる。一高には、6年通い、新渡戸稲造校長の「これ以上留年させても仕方がない。卒業させた方が社会のためになるだろう」との言により卒業したというエピソードがある。豪傑肌の反面、求道的なところがあり、いきなり徳富蘆花を訪れ「人生とはなんだ、教えてくれ」と迫って蘆花を困らせたり、人生の意義が判るまで帰らないと言って、関東一円をぐるぐると彷徨したりした。
柳沢 保承(やなぎさわ やすつぐ、旧字体: 柳澤 保承、18… 柳沢 保承(やなぎさわ やすつぐ、旧字体: 柳澤 保承、1888年〈明治21年〉12月20日 - 1960年〈昭和35年〉10月25日)は、日本の実業家、政治家、華族。貴族院伯爵議員。 伯爵・柳沢保申の長男として生まれ、義兄柳沢保恵の養子となる。養父・保恵の死去に伴い1936年(昭和11年)6月15日、伯爵を襲爵した。 1914年(大正3年)京都帝国大学法科大学を卒業。1921年(大正10年)私立大阪信愛高等女学校講師となる。以後、柳沢統計研究所総裁、日本錫工業取締役会長、太平洋海上火災保険取締役などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院伯爵議員に選出され、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
庄野 理一(しょうの りいち、1888年12月20日 - 1… 庄野 理一(しょうの りいち、1888年12月20日 - 1954年5月23日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。香川県出身。 1913年(大正2年)に東京帝国大学独法科を卒業し、すぐに弁護士になった。民事が専門。弁護士をしながら、東邦商事など数社の役員や顧問をし、実業界でも活動した。東京弁護士会会長も務め、戦後は公職資格審査委員会委員長に選出されたりもした。 裁判官任命諮問委員会による諮問の結果、1947年(昭和22年)8月に最高裁判所判事となる。1948年(昭和23年)2月10日、東京帝大出身の弁護士を中心として開かれた会合で、平野事件に関して「牧野英一公職適否審査委員長が西尾末広から50万円を貰い、委員に10万ずつ渡した」旨の発言をした。
早坂 久兵衛(はやさか きゅうべい、Irenaeus Kyū… 早坂 久兵衛(はやさか きゅうべい、Irenaeus Kyūbei Hayasaka、1888年12月16日 - 1946年1月6日)は、日本および朝鮮のカトリック聖職者で、洗礼名は「イレネウス」。カトリック仙台教区の教会の主任司祭を務め、1942年に朝鮮の第3代大邱使徒座代理区長の座に着き、戦後に代理区長を辞任して大邱に留まっている間に亡くなった。日本人初の司教となった早坂久之助の実弟である。 1888年12月16日に宮城県仙台市で生まれ、1898年3月仙台市元寺小路尋常小学校に通い、1902年3月に仙台市東二番町高等小学校を卒業し、1907年3月に東北中学校を卒業。1907年9月、第二高等学校に入学。
藪田 貞治郎(やぶた ていじろう、1888年(明治21年)1… 藪田 貞治郎(やぶた ていじろう、1888年(明治21年)12月16日 - 1977年(昭和52年)7月20日)は、日本の農芸化学者。東京帝国大学農学部教授、理化学研究所会長等を歴任する。1926年に黒沢英一が発見した植物ホルモン「ジベレリン」の構造化、単離結晶化の成功者。命名者。滋賀県出身者として最初の農学博士(博士登録番号42番)。 1888年(明治21年)12月16日、大津市に生まれる。1905年(明治38年)、滋賀県立第二中学校(現在の膳所高等学校)を卒業した。 第三高等学校を経て東京帝国大学農科大学農芸化学科に入学する。1911年(明治44年)7月同大学を卒業し、直ちに大学院に入る。農芸化学の研究に従事し、コウジ酸の化学構造を決定し1917年(大正6年)7月コウジ酸発見に係わる論文「麹菌ニヨリ生産セラルル一新有機酸(麹酸)ニ就イテ」提出により農学博士学位を授与され、直後に東京帝国大学講師となる。
鈴木 貞一(すずき ていいち、1888年(明治21年)12月… 鈴木 貞一(すずき ていいち、1888年(明治21年)12月16日 - 1989年(平成元年)7月15日)は、日本の軍人、陸軍中将。千葉県出身。通称「背広を着た軍人」。「三奸四愚」と呼ばれた東條英機側近三奸の一人とされる。
坂田 武雄(さかた たけお、1888年12月15日 - 19… 坂田 武雄(さかた たけお、1888年12月15日 - 1984年1月12日)は、日本の経営者。サカタのタネの創業者。 東京都出身。1909年に東京帝国大学農学部実科を卒業。農商務省海外実業練習生として、アメリカやヨーロッパの苗木商で経験を積み、アメリカでは簿記を学んだ。1913年に横浜で坂田商会を創業し、植物種子の生産輸出を始めた。1942年12月に坂田種苗と改称し、社長に就任。1974年に会長に就任。 1958年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲四等瑞宝章を受章した。 1984年1月12日心不全のために死去。95歳没。 サカタのタネが成功するきっかけとなったのは、坂田が完成させた必ず咲く八重咲きペチュニアだった(それまでは、種を撒いても八重咲きとなるのは50%程度だった)。
福田 耕(ふくだ たがやす、1888年(明治21年)12月1… 福田 耕(ふくだ たがやす、1888年(明治21年)12月15日 - 1970年(昭和45年)2月7日)は、大正から昭和期の官僚、実業家、政治家。衆議院議員。 福井県今立郡吉谷村(片上村を経て現鯖江市)で福田助右衛門の長男として生まれる。1921年(大正10年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 東京市主事に就任し電気局、道路局で勤務。日本無線電信 (株) に転じ、対欧建設事務所副長、建設課長、工務課長を歴任。1934年(昭和9年)岡田内閣の内閣総理大臣秘書官に就任。1936年(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙で福井県全県区から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。その後、華中電気通信社長、日本タイプライター社長、大和紙業社長を務めた。
上坂 酉蔵(酉三、こうさか とりぞう、1888年(明治21年… 上坂 酉蔵(酉三、こうさか とりぞう、1888年(明治21年)12月15日 - 1976年(昭和51年)4月4日)は、日本の商学者。早稲田大学名誉教授。商学博士。宮城県生まれ。 宮城県気仙沼市魚町出身。1914年(大正3年)に早稲田大学高等予科に入学し、翌年 大学部商科に進学。1918年(大正7年)早稲田大学商科卒業。 水産加工の実務に従事しながら苦学し、29歳で大学卒業。1918年4月増田貿易株式会社に入った後、1925年(大正14年)早稲田大学講師となり、翌年 早大留学生としてイギリス、ドイツに各1年滞在。ヨーロッパ留学後、1928年4月帰国し助教授に就任。翌1929年(昭和4年)教授となり日本の貿易と商学についての研究を重ねる。
滝脇 宏光(瀧脇、たきわき ひろみつ、1888年〈明治21年… 滝脇 宏光(瀧脇、たきわき ひろみつ、1888年〈明治21年〉12月13日 - 1964年〈昭和39年〉2月22日)は、大正から昭和期の鉄道官僚、実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・古市、旧名・強哉。 帝国大学工科大学学長・古市公威の四男強哉として生まれ、子爵・滝脇信鑰の養子となる。養父の隠居に伴い、1923年(大正12年)4月30日、子爵を襲爵。宏光と改名した。 第七高等学校造士館を経て、1915年(大正4年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年、鉄道院に入り経理局属となる。1916年(大正5年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。以後、鉄道院書記、同副参事兼同総裁秘書、鉄道省事務官兼同大臣秘書官、鉄道省参事官、内閣総理大臣秘書官などを歴任。
大内 竹之助(おおうち たけのすけ、1888年12月12日 … 大内 竹之助(おおうち たけのすけ、1888年12月12日 - 1965年11月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 茨城県多賀郡、のちの高鈴村(助川町を経て現日立市)出身。1907年茨城県立水戸農学校(現・茨城県立水戸農業高等学校)卒。高鈴村議、助川町議、茨城県会議員、同農会議員、助川町長となる。 1937年の第20回衆議院議員総選挙において茨城2区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選。衆議院議員を1期務めた。1942年の第21回衆議院議員総選挙には立候補せずに引退。終戦後、公職追放となった。 このほか常陸セメント(株)常務取締役、同社長、茨城いすゞ自動車(株)取締役、茨城相互銀行(現・筑波銀行)取締役会長を務めた。
田島 義士(たじま よしお、1888年(明治21年)12月1… 田島 義士(たじま よしお、1888年(明治21年)12月12日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 山口県出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。福岡県属、同警視、同理事官、千葉県理事官、静岡県事務官、埼玉県書記官・学務部長、新潟県書記官・学務部長、兵庫県書記官・学務部長、神奈川県書記官・学務部長、富山県書記官・内務部長、岐阜県書記官・総務部長を歴任。1936年(昭和11年)、鹿児島県書記官・総務部長となり、翌年に退官した。 1941年(昭和16年)から横浜市助役を務めた。
渡辺 修二(渡邊 修二、わたなべ しゅうじ、1888年(明治… 渡辺 修二(渡邊 修二、わたなべ しゅうじ、1888年(明治21年)12月12日 - 1977年(昭和52年)12月30日)は、大正から昭和期の検察官、政治家、華族。貴族院男爵議員。 本籍・愛知県。旧尾張藩家老・渡辺半蔵家13代当主、渡辺綱聡の二男として生まれた。1917年(大正6年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年、司法官試補に任官。以後、千葉地方裁判所兼区裁判所検事、東京地方裁判所兼区裁判所検事を務めた。 父の隠居に伴い、1922年(大正11年)1月30日、男爵を襲爵した。1925年(大正14年)7月10月、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで3期在任した。
小松 茂藤治(こまつ もとうじ、1888年12月12日 - … 小松 茂藤治(こまつ もとうじ、1888年12月12日 - 1981年3月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福島県安達郡本宮町(現・本宮市)出身。生家は本宮町の大地主である。1910年(明治43年)に早稲田大学専門部法律科を卒業した。1914年(大正3年)には小松が建設の中心となり、本宮町に芝居小屋兼公民館の本宮座(後の本宮映画劇場)が建設された。 本宮町会議員、本宮町農会長、福島県会議員、福島県会議長、本宮町長などを経て、1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では翼賛政治体制協議会の推薦を得て福島1区(当時)から立候補して当選した。戦後、推薦議員のため公職追放となった。
後藤 亮一(ごとう りょういち、1888年〈明治21年〉12… 後藤 亮一(ごとう りょういち、1888年〈明治21年〉12月10日 - 1949年〈昭和24年〉3月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 岐阜県葉栗郡、のちの羽島郡小熊村(現羽島市)出身。1917年(大正6年)、京都帝国大学哲学科卒。私立花園中学校教諭、羽島郡仏教会副会長、岐阜県嘱託講師、妙心寺派宗会副議長、同議長、同派宗務総長、同派教学財団理事長、仏教連合会幹事、雑誌「正法論」主筆、同「表現」主幹、日本ビルマ協会常任理事となる。 1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙において岐阜2区(当時)から立憲民政党公認で立候補して当選した。1932年(昭和7年)の第18回総選挙で再選。
加納 治雄(かのう はるお、1888年(明治21年)12月1… 加納 治雄(かのう はるお、1888年(明治21年)12月10日 - 1937年(昭和12年)10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・三橋。 東京府東京市小石川区新諏訪町(現・東京都文京区後楽)出身。陸軍文官・三橋淳の二男として生まれ、6歳で加納家の養子となる。開成中学校(現開成中学校・高等学校)、陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第34連隊付となる。 1914年(大正3年)8月、名古屋陸軍地方幼年学校生徒監に就任。中央幼年学校生徒隊付、同校副官、歩兵第34連隊付、同連隊大隊副官、同連隊中隊長、陸士副官、関東軍副官を務め、1926年(大正15年)3月、歩兵少佐に進級し歩兵第18連隊付となる。
藤井 厚二(ふじい こうじ、1888年〈明治21年〉12月8… 藤井 厚二(ふじい こうじ、1888年〈明治21年〉12月8日 - 1938年〈昭和13年〉7月17日)は、日本の建築家・建築学者。広島県出身。建築環境工学の先駆者の一人。東京帝国大学工科大学建築学科卒業。 広島県福山市の酒造家・金融業の「くろがねや」の次男として生まれる。経済的にも文化的にも恵まれた環境で育ち、福山中学校(現・福山誠之館高校)、第六高等学校を経て、1913年(大正2年)に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業した後、竹中工務店に就職。大阪朝日新聞社などの設計を手がけ、1919年(大正8年)まで勤務。同社退職後から約9ヶ月間、欧米諸国を巡遊し、環境工学への関心を高めた。 欧米から帰国した後の1920年(大正9年)、同郷の武田五一が創設した京都帝国大学工学部建築学科に招かれ、1926年(大正15年)に教授となった。
草鹿 任一(くさか じんいち、1888年(明治21年)12月… 草鹿 任一(くさか じんいち、1888年(明治21年)12月7日 - 1972年(昭和47年)8月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。勲等は勲一等。 石川県にて誕生。父は弁護士草鹿甲子太郎。草鹿家は大聖寺藩(加賀前田家の分家)に仕えた一族であった。叔父である実業家草鹿丁卯次郎の長男が草鹿龍之介(海軍中将、海兵41期)、三男が草鹿浅之介(最高裁判所判事、弁護士)である。 金沢第一中学校(現・石川県立金沢泉丘高等学校)に通学していた頃は、叔父宅(龍之介の家)に下宿をしていた。金沢一中(第13回)を経て、四高に進んだが退学し、海軍兵学校(37期)に入校。志望者3,7000名余りの中で3番で合格した。
奈良 晃(なら あきら、1888年(明治21年)12月6日 … 奈良 晃(なら あきら、1888年(明治21年)12月6日 - 1964年(昭和39年)1月5日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 長崎県出身。奈良正英の長男として生まれる。大村中学校(現長崎県立大村高等学校)を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。士官学校では岡田資陸軍中将と同期であった。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる。参謀本部付勤務などを経て、1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業した。 1921年(大正10年)4月、参謀本部付勤務となり、歩兵第46連隊中隊長、参謀本部付(上海駐在)、参謀本部員を務め、1925年(大正14年)9月アメリカ駐在となり米陸軍歩兵学校で学んだ。
野畑 新兵衛(のばた しんべえ、1888年12月5日 - 1… 野畑 新兵衛(のばた しんべえ、1888年12月5日 - 1990年3月14日)は日本の牧師、東京キリスト教短期大学(現、東京基督教大学)の発足のために尽力した。 B・F・バックストン・P・ウィルクス 米田豊・大江邦治・竹田俊造・三谷種吉・堀内文一・武本喜代蔵 笹尾鉄三郎・河辺貞吉・松野菊太郎・御牧碩太郎・秋山由五郎・土肥修平 沢村五郎・柘植不知人・舟喜麟一・佐藤邦之助・鋤柄熊太郎・野畑新兵衛 赤山講話・日本伝道隊・都田恒太郎・有馬聖会 横浜バンド(1872) · 熊本バンド(1876) · 札幌バンド(1876) 静岡バンド(1876) · 弘前バンド(1876) · 阪神バンド(1870) · 松江バンド(1891) ピューリタン - シュペーナー - 敬虔主義 - フレンド派 - ジョン・ウェスレー - D・L・ムーディー - ジョージ・ホウィットフィールド - ジョナサン・エドワーズ - チャールズ・フィニー - A・B・シンプソン バックストン - ウィルクス - 竹田俊造 - 堀内文一 - 笹尾鉄三郎 - 松野菊太郎 - 秋山由五郎 - 御牧碩太郎 - 柘植不知人 - 土肥修平 中田重治 - 中田かつ子 - 中田あやめ - チャールズ・カウマン - レテー・カウマン - アーネスト・キルボルン - 三谷種吉 - 山崎亭治 - 米田豊 - 車田秋次 - 小原十三司 - 小原鈴子 - 一宮政吉 - 菅野鋭 - 野辺地天馬 - 金森通倫 - 小出朋治 - 小出忍 - 森五郎 - 江賀寅三 - 小林和夫 - 尾花晃 - 村上宣道 - 松木祐三 - 千代崎秀雄 - 峯野龍弘 - 安倍豊造 - 辻啓蔵 - 辻宣道 - 蔦田二雄 - 蔦田公義 - 藤本栄造 - 藤本満 メリマン・ハリス - 本多庸一 - 赤澤元造 - 釘宮辰生 - 阿部義宗 - 結城無二三 - 都田恒太郎 - 渡辺善太
恒藤 恭(つねとう きょう、1888年〈明治21年〉12月3… 恒藤 恭(つねとう きょう、1888年〈明治21年〉12月3日 - 1967年〈昭和42年〉11月2日)は、日本の法哲学者。大阪市立大学名誉教授。法学博士。従三位勲二等旭日重光章。学士院会員。 芥川龍之介の親友、戦前における日本の代表的法哲学者として著名。また、京都帝国大学法学部教授時代に滝川事件で辞任した教官の一人としても知られる。旧姓は井川。息子の恒藤敏彦は京都大学名誉教授(物理学)、恒藤武二(1919年8月31日 - 1998年4月29日)は同志社大学法学部教授(法哲学と労働法担当)。 島根県松江市に兄弟姉妹8人の第5子、次男として生まれる。父・井川精一は漢詩、兄・亮は英語を好み漢文、英語の書物が身近にある環境で育った。
水野 仙子(みずの せんこ、1888年(明治21年)12月3… 水野 仙子(みずの せんこ、1888年(明治21年)12月3日 - 1919年(大正8年)5月31日)は、日本の小説家。本名、服部テイ。筆名、服部水仙、服部貞子、服部水仙子、水野仙など。 服部直太郎とセイとの二男三女の末子として、福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)に生まれた。燃料などを商う旧家だった。 1903年(明治36年)(15歳)、須賀川尋常高等小学校(現・須賀川市立第一小学校)を最優秀の成績で卒業し、須賀川裁縫専修学校に入った頃から、『少女界』誌に投稿した。長兄の歌人躬治(もとはる)が選者でいた。卒業後裁縫女塾へ通い、1905年から、河井酔茗の『女子文壇』誌に投稿し入選した。投稿仲間の愛称は『お貞さん』だった。
堀 正平(ほり しょうへい、1888年(明治21年)12月2… 堀 正平(ほり しょうへい、1888年(明治21年)12月2日 - 1963年(昭和38年)12月27日)は、日本の剣道家。段位は範士九段。 大日本武徳会武術教員養成所卒業。著書『大日本剣道史』は剣道史研究の名著として知られる。また、吉川英治の小説で宮本武蔵が注目される以前に『宮本吉岡決闘之地』の石碑を私費で建立した。 大分県別府に生まれる。父・堀政太郎は江戸時代には楊心流柔術の師範であったが、維新後は駄菓子屋を営んでいた。1894年(明治27年)、熊本県阿蘇郡小国村に移住し、12歳から父より剣術を学ぶ。1903年(明治36年)、旧中津藩士・丸山伝八より神一刀流剣術を学ぶ。 1905年(明治38年)、父と死別。
末弘 厳太郎(すえひろ いずたろう、1888年(明治21年)… 末弘 厳太郎(すえひろ いずたろう、1888年(明治21年)11月30日 - 1951年(昭和26年)9月11日)は、大正・昭和期の日本の法学者。専門は民法・労働法・法社会学。学位は法学博士(1920年)。東京大学名誉教授。正三位勲一等瑞宝章。川名兼四郎門下。弟子に吾妻光俊、石川吉右衛門、戒能通孝、小林巳智次、安田幹太など。 1888年(明治21年)、大審院判事であった末弘厳石(すえひろ いずし(げんせき))の長男として山口県に生まれる。東京開成中学、正則英語学校、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月に東京帝国大学法科大学独法科を優等で卒業し銀時計を授与される。同大大学院に進み、1914年(大正3年)7月、東京帝国大学法科大学助教授となる。
勝田 永吉(かつた えいきち、1888年(明治21年)11月… 勝田 永吉(かつた えいきち、1888年(明治21年)11月30日 - 1946年(昭和21年)4月13日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(大阪府第五区選出、当選6回)。 大阪府三島郡富田町(現高槻市)出身。勝田悌三郎の二男。1913年、東京帝国大学法科大学独法科卒業。弁護士の業務に従事する。 衆議院議員に6回当選する。立憲民政党、日本進歩党に所属する。1946年4月13日、死去。
橋浦 泰雄(はしうら やすお、1888年(明治21年)11月… 橋浦 泰雄(はしうら やすお、1888年(明治21年)11月30日 - 1979年(昭和54年)11月21日)は、日本の社会運動家、民俗学者、画家である。 鳥取県岩美郡大岩村(現在の岩美町)に生まれる。鳥取高等小学校(現在の鳥取市立久松小学校)卒業後、実家で経営していた養蚕業蚕や雑貨商売に携わった。後に実弟である橋浦時雄と共に片山潜らと親交を持ち、社会運動活動を始める。これによって1918年(大正9年)には弟と共に日本社会主義同盟の創設に携わるが、翌1919年(大正10年)に発生した第2回メーデーに関与したとして、約2か月間拘留される処分を受けた。 1923年(大正14年)には日本プロレタリア文芸連盟の結成にも携わり、その1928年(昭和3年)には日本プロレタリア美術家同盟となりその画家や委員長としての活動も始める。
菅原 道大(すがわら みちおお、1888年(明治21年)11… 菅原 道大(すがわら みちおお、1888年(明治21年)11月28日 - 1983年(昭和58年)12月29日)は、日本の陸軍軍人。陸士21期。最終階級は陸軍中将。 1888年(明治21年)11月28日、長崎県南高来郡湯江村甲百九十四番地(現島原市)で小学校教員の父・菅原道胤の息子として生まれる。父の転勤に伴い5歳で上京し、やがて電力会社を興した叔父を頼り福島県に移住した。高等小学校、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1907年12月、陸軍士官学校に21期生として入校。1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校歩兵科を9番の成績で卒業。同年12月25日、歩兵少尉に任官、歩兵第4連隊付。1910年に行われた徳川好敏による日本では初となる動力飛行を目撃したことがきっかけで航空に関心を持つようになった。
飯沼 守(いいぬま まもる、1888年(明治21年)11月2… 飯沼 守(いいぬま まもる、1888年(明治21年)11月25日 - 1978年(昭和53年)3月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 尾張藩士・飯沼端の長男として生まれる。名古屋明倫中学(現・愛知県立明和高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第51連隊付となる。1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業し歩兵第51連隊中隊長となる。 1920年(大正9年)8月、陸軍運輸部員となり、第20師団参謀、参謀本部部員を歴任。1925年(大正14年)5月、陸軍歩兵少佐に進級。
田中 修(たなか おさむ、1888年(明治21年)11月25… 田中 修(たなか おさむ、1888年(明治21年)11月25日 - 1965年(昭和40年)3月9日)は、日本の内務官僚。福岡県大牟田市長。 福岡県御井郡、後の三井郡北野町(現久留米市北野町)で永利伝次郎の二男として生まれ、田中政の養子となった。福岡県立中学明善校、第五高等学校を経て、1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、1917年(大正6年)10月に文官高等試験行政科試験に合格した。内務省に入省し、愛知県属、同南設楽郡長、北海道庁空知支庁長、京都府理事官、奈良県書記官・学務部長、佐賀県書記官・警察部長、鳥取県書記官・警察部長、群馬県書記官・警察部長、広島県書記官・警察部長、佐賀県書記官・内務部長、愛媛県内務部長、鹿児島県総務部長、長野県総務部長などを歴任した。
友田 一郎(ともだ いちろう、1888年〈明治21年〉11月… 友田 一郎(ともだ いちろう、1888年〈明治21年〉11月24日 - 1966年〈昭和41年〉7月13日)は、日本の政治家、実業家、友田酒造工場主。第46代兵庫県会議長。外交官の弟・友田二郎の孫に憲仁親王妃久子がいる。 兵庫県城崎郡日高町江原(現・豊岡市)出身。友田俊蔵の長男。1920年、家督を相続した。但馬銀行、甲子銀行各監査役などをつとめた。兵庫県参事会員であった。 兵庫県会議員に推され、1943年12月から1944年12月まで兵庫県会議長を務める。住所は兵庫県城崎郡日高町江原(現・豊岡市)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
河瀬 虎三郎(かわせ とらさぶろう、1888年〈明治21年〉… 河瀬 虎三郎(かわせ とらさぶろう、1888年〈明治21年〉11月23日 - 1971年〈昭和46年〉1月4日)は、日本の茶人。号は無窮亭。ほかに偉風堂、春陽軒の号があった。 現在の徳島県徳島市駕篭屋町に生まれる。 1910年(明治43年)、大阪市東区瓦町(現在は中央区内)の繊維商家河瀬氏に婿入りし、家業を盛んにするかたわら古美術に興趣を寄せ、刀剣、刀装具、具足を蒐集し、刀剣の目利きとなる。所蔵刀の中には、のちに国宝・重要文化財指定および重要美術品認定を受けたものが多数ある。 1943年(昭和18年)、兵庫県本山村(現・神戸市東灘区)から奈良市多聞山に移る。奈良では仏教美術や茶道具を蒐集し、その見立てが賞された。
大島 駿(おおしま はやし、1887年(明治20年)12月1… 大島 駿(おおしま はやし、1887年(明治20年)12月19日 - 1970年(昭和45年)9月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。毒ガス兵器の研究者。 佐賀県出身。農業・大島幸三郎の三男として生まれる。佐賀中学校(現佐賀県立佐賀西高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し近衛野砲兵連隊付となる。1913年(大正2年)11月、陸軍砲工学校高等科(19期)を優等で卒業した。陸軍派遣学生として東京帝国大学工科大学応用科学科で学び、1917年(大正6年)7月に卒業した。 1917年12月、近衛野砲兵連隊大隊副官に就任。
渋谷 雄太郎(澁谷、しぶや ゆうたろう、1887年(明治20… 渋谷 雄太郎(澁谷、しぶや ゆうたろう、1887年(明治20年)12月19日 - 1961年(昭和36年)12月11日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、東京府南葛飾郡寺島町長。 千葉県東葛飾郡、現在の市川市で、渋谷金蔵の長男として生まれる。1912年(明治45年)慶應義塾大学理財科を卒業した。 渋谷ゴム製作所を経営。その他、東京ゴム同業組合長、同ゴム製品工業組合理事長、日本再生ゴム材料卸商業組合連合会理事長、東京商工会議所議員、日本ゴム工業協同組合連合会副理事長、日本車輛ゴム社長、昭和実業社長、渋谷ゴム工業社長、渋谷商事社長、東部ゴム工業会理事長、日本ゴム工業会常任理事、市川商工会議所会頭などを務めた。
木村 健児(きむら けんじ、1887年12月18日 - 19… 木村 健児(きむら けんじ、1887年12月18日 - 1936年10月24日)は、日本の俳優である。木村 健兒と表記されることもある。本名は木村 米太郎(きむら よねたろう)。木村 健二、木村 健次、木村 建治と表記に揺れがある。新派を経て映画界に転向、昭和初期まで大きな体格を生かして松竹蒲田撮影所、不二映画社などに出演した名脇役として知られる。 1887年(明治20年)12月18日、京都府京都市に生まれる。旧制京都府第一中學校(現在の京都府立洛北高等学校)卒業。 天然色活動写真の連鎖劇を経て、1919年(大正8年)2月、本郷座に拠点を持つ岡本五郎、石川新水、栗島狭衣、梅島昇らの新生劇団に加入し、新派悲劇『浅草物語』で初舞台を踏む。
徳永 庸(とくなが いさお、1887年12月18日 - 19… 徳永 庸(とくなが いさお、1887年12月18日 - 1965年3月20日)は、日本の建築家。福岡県出身で、九州地方を中心に数多くの設計監理を手掛けるとともに、早稲田大学や関東学院大学の教授として製図の指導に当たった。 1887年(明治20年)12月18日、福岡県糟屋郡青柳村(現 古賀市)に生まれる。1907年4月より1年間、辰野金吾・葛西萬司建築事務所に入所。1908年3月、福岡県立福岡工業学校建築科卒業。1909年3月、早稲田大学高等予科理工科卒業。1913年(大正2年)7月、早稲田大学理工科建築学科を卒業し、同年10月から1917年8月まで辰野金吾・片岡安建築事務所に勤める1917年より、早稲田大学で助教授、教授、講師を務める。