古池 信三(こいけ しんぞう、1903年(明治36年)4月3… 古池 信三(こいけ しんぞう、1903年(明治36年)4月3日 – 1983年(昭和58年)10月7日)は、昭和期の日本の政治家、官僚。位階は正三位。郵政大臣、国際電信電話(KDD、現KDDI)会長及び社長。 岐阜県大野郡高山町(現高山市)に生まれた。広瀬末吉の二男。古池喜代次郎の養子となった。古池家は清和源氏村上氏流の庶流で、美濃国恵那郡を本拠としていた一族だといわれている。 旧制斐太中学校(現岐阜県立斐太高等学校)、第一高等学校を経て、1928年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、逓信省に入省する。京都中央電話局加入課長、簡易保険局弁済課長、名古屋逓信局庶務課長、広島逓信局規画課長、電気局検査課長、電力管理準備局評価課長、電気庁第一部監督課長、官房総務課長、総務局需品課長、運輸省官房会計秘書各課長、札幌逓信局長、商工省電力局長、名古屋商工局長などを歴任。
会田 由(あいだ ゆう、1903年4月3日 - 1971年2… 会田 由(あいだ ゆう、1903年4月3日 - 1971年2月27日)は、日本のスペイン文学者、翻訳家。『ドン・キホーテ』の日本初の完訳者であり、日本のスペイン文化研究の先駆者である。 1903年、熊本県生まれ。1927年、東京外国語学校スペイン語科を卒業。在学中は永田寛定の下で学ぶ。 戦後の1949年、東京外国語大学講師となり、のち教授を務めた。その間、東京大学教養学部でも非常勤講師として、スペイン語授業を担当、スペイン文化研究の先鞭をつけた。1965年より神奈川大学教授を務めた。 数多くのスペイン語文学を翻訳したが、特に『ドン・キホーテ』の和訳を1962年に完結させ、最初の完訳者となった。翻訳は師の永田寛定訳(岩波文庫版)が先行していたが、手間取っているうちに会田が先に完成させ、以後数社の「外国文学全集」に収録され、重刷された。
中村翠恒(なかむら・すいこう、1903年4月3日ー1985年… 中村翠恒(なかむら・すいこう、1903年4月3日ー1985年9月8日)は昭和期の九谷焼の陶芸家。日展参与。元石川県陶芸協会会長。石川県指定無形文化財九谷焼技術保存会初代会長。戦前から帝展、新文展で活躍する。 明治36年生まれ。石川県加賀市出身。名工初代 中村秋塘の次男。本名は恒。 大正13年石川県立工業学校卒業。京都国立陶磁研究所に進み、安達陶仙、二代伊東陶山、河村蜻山、板谷波山らに師事する。 三代 秋塘を襲名。のち甥に譲り以降翠恒を名乗る。昭和60年9月8日老衰により石川県立中央病院にて死去。享年82歳。 昭和3年に第9回帝展において「彩釉彫牡丹文壷」が初入選。戦前は「秋塘」の名で出品している。
浜崎 芳雄(はまさき よしお、1903年〈明治36年〉4月3… 浜崎 芳雄(はまさき よしお、1903年〈明治36年〉4月3日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。浜崎芳雄商店会長。鳥取生コン会長。鳥取振興開発社長。日本海テレビジョン放送監査役。鳥取市議会議長(31代)。 鳥取県鳥取市(旧青谷町)出身。1921年(大正10年)、銅鉄商・黒川明四郎商店に入社し、大阪市立実業学校商業簿記専修科を卒業する。1924年(大正13年)に神戸営業所支配人。 1931年(昭和6年)に退社し、銅鋼鉄商・浜崎芳雄商店を設立する。1964年(昭和39年)、株式に改組、社長となる。1960年(昭和35年)12月、鳥取市議会議長に就任する。 高額所得者である。宗教は浄土宗。趣味はスポーツ、旅行、ゴルフ。
印南 博吉(いんなみ ひろきち、1903年4月1日 - 19… 印南 博吉(いんなみ ひろきち、1903年4月1日 - 1990年5月9日)は、経済学・保険学者。明治大学名誉教授、創価大学名誉教授。明治大学商学部長、全国生活協同組合連合会の初代理事長等を歴任。 栃木県出身。栃木県立大田原中学校(現・栃木県立大田原高等学校)卒、東京商科大学(現一橋大学)卒業。田中外次初代住友金属鉱山社長は志田鉀太郎ゼミの同期。1955年「保険本質論の再吟味」で明治大学より商学博士の学位を取得。明治大学商学部助教授、教授、学部長、1971年名誉教授、創価大学教授、1982年名誉教授。1982年から87年まで全国生活協同組合連合会の初代理事長を務め、一般の人が低額で加入できる生命共済事業を全国的に広めた。
若林 忠一(わかばやし ちゅういち、1903年(明治36年)… 若林 忠一(わかばやし ちゅういち、1903年(明治36年)4月1日 - 1977年(昭和52年)5月28日)は、日本の農民運動家、政治家。長野県更埴市長。 長野県埴科郡屋代町(現千曲市)生まれ。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)を中退し、独学で法政大学経済学部に進学し、在学中から社会主義運動に参加し、1924年(大正13年)中途退学して帰郷。 更級・埴科地方の自作・小作農民層の青年らを集めて「北信社会思想研究会」を立ち上げ、これに教員らが参加して、1925年(大正14年)政治研究会長野県評議会を組織し、幹事長となる。1926年(大正15年)労働農民党(労農党)に入党。1927年(昭和2年)屋代町に長野県小作組合連合会(日本農民組合長野県連合会)を組織し、その中心人物として県下の農民運動を主導した。
石原 幹市郎(いしはら かんいちろう、1903年4月1日 -… 石原 幹市郎(いしはら かんいちろう、1903年4月1日 - 1989年3月7日)は、日本の内務官僚。政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。 岡山県出身。参議院議員、初代自治大臣、福島県知事などの要職を歴任した。自由民主党所属。衆議院議員・参議院議員の石原健太郎は長男。福島県議会議員の石原信市郎、元衆議院議員の石原洋三郎は孫。栗本慎一郎の母方の親戚にあたる。 東京帝国大学卒業後、内務省に入省、警保局に配属され、静岡、北海道、神奈川、埼玉などで警察畑を歩む。 1936年に新潟県保険課長となり、1938年7月、内務省初代保険課長となる。国民健康保険法の法案作成に参画、施行とともに国保組合の設立を呼びかけ全国を回る。
ベルトラメリ 能子(ベルトラメリ よしこ、1903年4月1日… ベルトラメリ 能子(ベルトラメリ よしこ、1903年4月1日 - 1973年8月2日)は、日本の声楽家・ソプラノ歌手。旧姓は鐵(てつ)。 1903年(明治36年)4月1日に鉄信夫、こん夫妻の長女として生まれた。生家の鉄家は茨城県多賀郡大津町(現・北茨城市)で遠洋漁業と缶詰製造業を営む旧家であり、能子の祖父鉄伝七は茨城県議(2期)、第19代茨城県会議長を務めた。日露戦争後に鉄家は家業の水産業を東京の水産会社に譲渡し、一家で東京に移った。 8歳頃から東京で育つ。1917年(大正6年)4月に東京音楽学校(現東京芸術大学)乙種師範科に入学し、1918年(大正7年)3月に卒業。引き続き東京女子音楽園で学んだのち、高輪尋常小学校で教師をしながら矢野寿美子、山田耕筰、米国人女性バーカーに師事し、アドルフォ・サルコリにベルカント唱法を学んだ。
村山 リウ(むらやま りゅう、女性、1903年4月1日 - … 村山 リウ(むらやま りゅう、女性、1903年4月1日 - 1994年6月17日)は、日本の評論家。 香川県仲多度郡琴平町生まれ。1923年、日本女子大学校国文科卒、1930年、岡山医科大学副手の村山高と結婚、1936年頃から地域婦人活動を行う。新地に女子青年団が結成された際、団長に選ばれる。 その後、1943年から大阪に住み女子挺身隊関連の仕事で大阪府庁に勤める。 戦争で大阪の家を焼かれ、戦後、大阪市社会教育委員など各種婦人団体の役員をつとめ、新聞の身の上相談や社会時評などで、婦人問題評論家として活動。 『源氏物語』の研究を始めてその解き語りを、関西中心に始める。現代視点からのユニークな解説、講演から「村山源氏」として知られ、1959年にはテレビでその現代語訳の朗読を行った。
島田 末信(しまだ すえのぶ、1903年〈明治36年〉4月1… 島田 末信(しまだ すえのぶ、1903年〈明治36年〉4月1日 - 1958年〈昭和33年〉4月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 香川県出身。1926年法政大学専門部商科卒。讃岐公論社主筆、阿讃中央自動車、金剛産業(株)各代表取締役、坂出製氷、四国連鎖百貨各(株)取締役社長となる。香川県議会議員、香川県地方労働委員会委員を歴任する。1947年の第23回衆議院議員総選挙において香川2区から日本民主党公認で立候補して落選。1949年の第24回衆議院議員総選挙で当選した。国会では衆議院労働委員長を務めた。1952年の第25回衆議院議員総選挙では自由党から立候補したが落選した。1958年死去。
長谷川 晃一(はせがわ こういち、1903年(明治36年)4… 長谷川 晃一(はせがわ こういち、1903年(明治36年)4月1日 - 1967年(昭和42年)4月25日)は、早稲田大学政治経済学部教授、同学部教養諸学研究会評議員、早稲田大学世界連邦研究会会長、世界連邦建設同盟常任理事・国際部長。 1903年4月1日、長野県上田市に生まれる。 1920年5月、渡米しカリフォルニア州の商業高校に入学し、1923年6月に卒業する。同年9月、オハイオ州のマイアミ大学に入学する。1927年6月に卒業し、政治経済学でB.A.の学位を受ける。同年9月、シンシナティ大学大学院都市行政学科に入学する。1928年6月、修了しM.A.(修士)の学位を受ける。同年9月、コロンビア大学大学院の市政学科に入学する。
中津井 真(中津井 眞、なかつい まこと、1903年(明治3… 中津井 真(中津井 眞、なかつい まこと、1903年(明治36年)4月1日 - 1986年(昭和61年)9月29日)は、昭和期の政治家。参議院議員(2期)、広島県議会議長、大竹市名誉市民。 広島県比婆郡西城町(現庄原市)で生まれる。1920年(大正9年)広島教育養成所を中退した。 1947年(昭和22年)広島県議会議員に選出され5期在任し、この間、同議長も務めた。その他、自由民主党広島県連幹事長、広島県私立学校審議会会長などを歴任した。1964年(昭和39年)2月、大竹市文化会館建設費として10万円寄付により1966年(昭和41年)10月19日、紺綬褒章受章。 岩沢忠恭の死去に伴い、1966年(昭和41年)1月に実施された第6回参議院議員通常選挙広島県地方区補欠選挙に自民党公認で出馬して初当選し、1968年(昭和43年)7月の第8回通常選挙でも再選され、参議院議員に連続2期在任した。
横田 稔(よこた みのる、1903年(明治36年)4月1日 … 横田 稔(よこた みのる、1903年(明治36年)4月1日 - 1995年(平成7年)10月15日[要出典])は、日本の元海軍軍人で戦後、高校教師、宣教師になった人物。空母「サラトガ」、軽巡洋艦「ジュノー」を雷撃し、前者を3ヶ月間戦線離脱させ、後者を撃沈した「伊26」潜水艦長である。最終階級は海軍大佐。戦後は長谷川と改姓。高校教師として教鞭をとり、またキリスト教宣教師となった。 横田は岡山県出身で、海軍兵学校へ進み海兵51期として卒業した。席次は255名中60番。練習艦隊では「浅間」乗組みとなり、米村末喜艦長、安田義達指導官附らに実務訓練を受ける。「浅間」乗組み候補生には、戦後『海上護衛戦』を著す大井篤、最後の駐米武官補佐官実松譲などがいた。
森谷 新一(もりたに しんいち、1903年(明治36年)3月… 森谷 新一(もりたに しんいち、1903年(明治36年)3月31日 - 1978年(昭和53年)12月19日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県和気郡日生町長。旧姓・森下。 岡山県和気郡日生村(日生町を経て現備前市)で、森下元治の長男として生まれ、5歳で母方の森谷虎吉の養子となる。閑谷中学校(現岡山県立和気閑谷高等学校)を経て、1927年(昭和2年)早稲田大学電気科を卒業した。 朝鮮に渡り全羅南道宝城郡筏橋面で、筏橋電気常務取締役兼主任技師として電灯開発を担当した。1930年(昭和5年)ころに帰郷して製綿業、耐火煉瓦工場を営み、児島窯業社長、日生造船造機社長、日生土地取締役、中日生土地取締役、日生町商工会長などを務めた。
松山 義雄(まつやま よしお、1903年(明治36年)3月3… 松山 義雄(まつやま よしお、1903年(明治36年)3月31日 - 1958年(昭和33年)10月25日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員、埼玉県副知事。正五位勲三等に叙せられた。 長崎県諌早市出身。中央大学法学部卒業。 1936年、弁護士登録。1938年、東京弁護士会常議員に就任。1941年、日本弁護士会理事に就任。 その後は中央政界への進出をもくろみ、1946年4月の第22回衆議院議員総選挙に進歩党公認で立候補したが落選。1947年4月の第23回衆議院議員総選挙では民主党公認で埼玉2区から立候補したが落選。1949年1月の第24回衆議院議員総選挙でも落選した。同年、埼玉県知事大沢雄一の要請により、埼玉県副知事に就任。
加藤 祐三郎(かとう ゆうさぶろう、1903年〈明治36年〉… 加藤 祐三郎(かとう ゆうさぶろう、1903年〈明治36年〉3月30日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。第二次世界大戦末期の情報局第二部長として録音盤事件に際会。戦後は新潟県副知事、公職追放を経て、東北開発株式会社の副総裁を務めた。 福島県出身。1921年(大正10年)会津中学4年修了で一高へ進む。東京帝国大学英法科在学中に高等文官試験に合格し、卒業後の1928年(昭和3年)内務省へ入省した。 内務属警保局保安課へ配属となり、以後台湾総督府警務局保安課、大分県、青森県、茨城県の各特高警察課長、栃木県、宮城県の各警察部長など警察関連の職務を歴任した。大政翼賛会組織局副部長、援護局指導課長なども務めている。
武彦王妃 佐紀子女王(たけひこおうひ さきこじょおう、190… 武彦王妃 佐紀子女王(たけひこおうひ さきこじょおう、1903年〈明治36年〉3月30日 - 1923年〈大正12年〉9月1日)は、日本の皇族、賀陽宮邦憲王と同妃好子の第2王女、山階宮武彦王の妃。 1903年(明治36年)3月30日午後5時、賀陽宮邦憲王と同妃好子の第2王女子(第3子)として誕生。京都府立第一高等女学校を卒業。 1921年(大正10年)2月、山階宮武彦王と婚約が内定したと報じられたが、複数回延期された。1922年(大正11年)7月19日午前9時に結婚の儀を執り行い、山階宮武彦王と結婚した。 翌1923年(大正12年)9月1日、佐紀子女王は第1子を懐妊し、母・好子妃とともに神奈川県鎌倉市の由比ヶ浜別邸で静養していたところ、関東大震災で別邸が崩壊し、同日薨去した。
片岡 千恵蔵(かたおか ちえぞう、旧字体:千惠藏、1903年… 片岡 千恵蔵(かたおか ちえぞう、旧字体:千惠藏、1903年〈明治36年〉3月30日 - 1983年〈昭和58年〉3月31日)は、日本の俳優。本名︰植木 正義(うえき まさよし)。 戦前・戦後期にわたって活躍した時代劇スターで、同時代の阪東妻三郎、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた(これに月形龍之介を含めて「七剣聖」と呼ぶ場合もある)。出演作品は300本を超える。戦前は片岡千恵蔵プロダクションを設立し、稲垣浩、伊丹万作の両監督とコンビを組んで傑作時代劇を多く生み出した。戦後は東映の重役スターとなり、亡くなるまで第一線のスターで在り続けた。終戦直後のGHQ占領時代には、金田一耕助や多羅尾伴内などを演じ現代劇でも人気を得て、両シリーズはその後も長く続いた。
立花 止(たちばな いたる、1903年(明治36年)3月29… 立花 止(たちばな いたる、1903年(明治36年)3月29日 - 1954年(昭和29年)6月7日)は、日本の海軍軍人。米国駐在時代に情報活動に従事しFBIに逮捕され国外追放処分を受ける(立花事件)。最後の連合艦隊参謀の一人である。最終階級は海軍大佐。 熊本県出身。鹿本中学を経て海軍兵学校に進む。海兵52期で源田實、内藤雄、淵田美津雄らが同期生である。1925年(大正14年)少尉任官。立花は運用術航海学生を修了した航海科専攻の士官で、駆逐艦「吹雪」、「漣」、軽巡洋艦「川内」、重巡洋艦「三隈」の航海長を務めている。 大尉時代は練習艦隊参謀兼副官として、海兵60期(板谷隆一クラス)らの遠洋航海に参加。
金澤 理康(かなざわ まさやす、1903年(明治36年)3月… 金澤 理康(かなざわ まさやす、1903年(明治36年)3月28日 - 1948年(昭和23年)1月17日)は、日本の法学者。早稲田大学教授。専門は日本法制史、西洋法制史、英国法。 1903年3月28日、埼玉県北葛飾郡吉田村(現・幸手町)において、金澤理三郎・あゑの長男として生まれる。吉田小学校尋常科、粕壁中学校、第一早稲田高等学院文科を経て、1926年3月に早稲田大学法学部英法科を卒業する。 1926年4月から早稲田大学法学部大学院に進学して法制史を専攻し、早稲田大学法学部の助手となる。論文『明治初期に於ける消費貸借法の変遷』により学会デビューを果たす。同年、文官高等試験司法科に合格する。 1931年5月から早稲田大学在学研究員として、ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク、フンボルト大学ベルリン、ロストック大学に留学し、西洋法制史を研究する。
沖田 芳夫(おきた よしお、1903年3月28日 - 200… 沖田 芳夫(おきた よしお、1903年3月28日 - 2001年4月28日)は、日本の陸上競技選手・陸上競技指導者。アムステルダムオリンピック陸上男子円盤投・ハンマー投代表。元円盤投・ハンマー投日本記録保持者。元早稲田大学競走部主将、監督、OB会(早稲田アスレチック倶楽部)会長(代表)。元日本陸上競技連盟審議員。広島県広島市向洋大原(現南区向洋大原町)出身。旧制広島一中(現広島県立国泰寺高等学校)、第一早稲田高等学院、早稲田大学商学部卒業。 広島一中で織田幹雄の一学年上で親友、広島一中への登校が一緒になり付き合いが始まった。中学時代はテニス部。しかし72キロの巨漢で駆り出されて全国中等学校大会に出場し砲丸投で優勝、織田と共に一時代を築いた。
富井 清(とみい きよし、1903年(明治36年)3月28日… 富井 清(とみい きよし、1903年(明治36年)3月28日 - 1974年(昭和49年)5月19日)は、日本の政治家、医師、尺八奏者。1967年から1971年まで京都府京都市長を1期4年務める。医学博士。富井舜山とも号す。 三重県生まれ。1925年(大正14年)金沢医科大学医学専門部を卒業後、京都府立医科大学眼科副手を経て、京都府保険医協会理事長や京都府医師会長、京都府公安委員を歴任。 1967年1月8日、京都市長の井上清一が在職中に死去。井上の死去に伴って2月26日に行われた京都市長選挙挙に、日本社会党・日本共産党や府市内の労働組合に加え府医師連盟などで作る「全京都市民会議」に推されて立候補。
川本 邦雄(かわもと くにお、1903年3月28日 - 19… 川本 邦雄(かわもと くにお、1903年3月28日 - 1945年)は、昭和期の日本の官僚。妻は西四辻公堯の長女壽榮子。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校(1920年卒業)、第五高等学校を経て、京都帝国大学法学部を卒業した。 卒業後は朝鮮総督府に勤務の後、拓務省の高官となり、文書課長などを歴任した。その後、新たに発足した大東亜省の文書課長となり、1945年に中国地区統監府官房参事官として広島市に赴任中に広島市への原子爆弾投下に遭遇して被爆死した。 南方(東南アジア)政策を専門とし、『南方への指標』(朝日新聞社、1942年)や『大南洋の話』(偕成社・偕成社少年少女文庫、1942年)といった一般向けの著作を残している。
青柳 信雄(あおやぎ のぶお、1903年3月27日 - 19… 青柳 信雄(あおやぎ のぶお、1903年3月27日 - 1976年5月17日)は、日本の映画監督、プロデューサー。 1903年(明治36年)横浜市生まれ。1915年(大正4年)に神奈川師範附属小学校を卒業。同級生に江川宇礼雄、国木田虎雄、岡田時彦(高橋英一)らがいた。旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一中学校・日本大学第一高等学校)を卒業。明治大学卒業後、心座、美術座、前進座、芸術座、猿之助一座、東宝劇団といった新劇の舞台演出を手がけていた。 1933年(昭和8年)には、演出を手掛けた『源氏物語』が風教を害するという理由で上演直前に禁止命令を受ける憂き目に遭った。1937年(昭和12年)、34歳の時に東宝へ制作者として入社。
小林 勇(こばやし いさむ、1903年(明治36年)3月27… 小林 勇(こばやし いさむ、1903年(明治36年)3月27日 - 1981年(昭和56年)11月20日)は、編集者、随筆家、画家。号は冬青。岩波書店の創業者岩波茂雄の女婿であり、同社会長を務めた。 長野県上伊那郡赤穂村(現・駒ヶ根市)の農家の五男として生まれる。実業学校で基礎教育を受けたのち家業を手伝っていたが、1920年、17歳で上京し、岩波書店の住み込み社員となり、岩波文庫の創刊に携わる。幸田露伴の愛顧を受ける。 岩波茂雄の女婿(次女小百合と結婚)となるが、1928年に独立し、三木清らの援助を受けて自身の出版社・鉄塔書院、新興科学社を興す。だが、後に経営不振となり、1934年に岩波書店に復帰。
井森 陸平(ゐもり りくへい、1903年3月26日 - 19… 井森 陸平(ゐもり りくへい、1903年3月26日 - 1982年12月29日)は、日本の社会学者、甲南大学名誉教授(文学博士)。専門は、農村社会学、産業社会学。 岐阜県郡上郡西和良村鬼谷(現・郡上市八幡町美山)生まれ。その父(京之助)は農商務省京都蚕業講習所(現・京都工芸繊維大学)の第一回卒業生であり蚕業技術者だった。また郡上八幡の実家では養蚕を行っていた。1926年3月、東京帝国大学文学部社会学科卒業。その後、鳥取高等農業学校、第八高等学校、名古屋大学、金沢大学、愛知大学、甲南大学(1973年3月定年退職)の教授を歴任した。甲南大学の就任には臼井二尚の推薦があったという。その学問は、テンニース、バレートの理論社会学研究からはじめ、次第に村落研究を人口、文化、習俗の観点から行うようになった。
佐伯 勇(さえき いさむ、1903年〈明治36年〉3月25日… 佐伯 勇(さえき いさむ、1903年〈明治36年〉3月25日 - 1989年〈平成元年〉10月5日)は、日本の実業家。近畿日本鉄道(近鉄)の元社長、会長、名誉会長で、近鉄グループの総帥。プロ野球・近鉄バファローズのオーナーでもあった。アメリカの大陸横断鉄道の2階建てドームカーを参考にした、世界で初めての2階建電車による特急車のビスタカーの生みの親でもある。位階は正三位。 愛媛県周桑郡丹原町(現・西条市)で、佐伯源三郎の三男として生まれる。丹原小学校、松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)と進むが、父親の方針で京都一中(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)へ転校、さらに第三高等学校(旧制・三高)を経て東京帝国大学法学部を卒業した。
羽藤 栄市(羽藤 榮市、はとう えいいち、1903年3月25… 羽藤 栄市(羽藤 榮市、はとう えいいち、1903年3月25日 - 1985年11月22日)は、日本の政治家。愛媛県副知事・衆議院議員(1期)・愛媛県今治市長(5期)などを歴任した。 愛媛県越智郡桜井村(現:今治市)生まれ。 逓信官吏練習所を卒業後、高等文官試験に合格し逓信省東京逓信局に勤務。青島電信局長などを務めた。1942年には南方総軍司政官に就く。1949年には初代の四国電気通信局長に就任した。 保守分裂となった1951年愛媛県知事選挙で、日本社会党・民主党推薦の久松定武が愛媛県知事に当選すると、久松は社会党が推す羽藤を副知事に抜擢した。副知事となった羽藤は郵政研修所の誘致を実現し、松山郵政局の高松市移転の動きを抑え込んだ。
黒岩 保(くろいわ たもつ、1903年3月24日 - 197… 黒岩 保(くろいわ たもつ、1903年3月24日 - 1978年5月10日)は、日本の工学者。北海道大学名誉教授。北海道工業大学元学長。福岡県出身。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、工学・技術に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:技術と産業)。
新開 長英(しんかい ながふさ、1903年3月24日 - 1… 新開 長英(しんかい ながふさ、1903年3月24日 - 1985年8月5日)は、日本の哲学者。 福岡県田川市出身。1928年九州帝国大学法文学部哲学科卒、旧制広島高等学校教授、福岡高等学校教授、1932年九大助教授、1942年神宮皇學館教授に転じる。戦後は北九州大学教授、九州産業大学教授を務めた。
深沢 紅子(ふかざわ こうこ、1903年3月23日 - 19… 深沢 紅子(ふかざわ こうこ、1903年3月23日 - 1993年3月25日)は、日本の洋画家。岩手県盛岡市出身。夫深沢省三も洋画家・童画家。戦前戦後を通じ、堀辰雄や立原道造らの本の装幀のほか、童話の挿絵なども多く手がけた。深沢夫妻は作品を描き続ける一方、絵画指導を通じて児童教育にも熱心に携わった。
柳川 真文(やながわ まふみ 1903年3月21日 - 19… 柳川 真文(やながわ まふみ 1903年3月21日 - 1985年12月6日)は、日本の検察官。大阪高等検察庁検事長、法務総裁官房長。
北村 隆(きたむら たかし、1902年(明治35年)4月19… 北村 隆(きたむら たかし、1902年(明治35年)4月19日 - 1982年(昭和57年)8月4日)は、日本の内務・防衛官僚。岡山県和気郡三石村字三石(現:備前市)に、父北村貫皐、母古美津の長男として誕生。本籍地は岡山県邑久郡太伯村乙子(現:瀬戸内市)。 戦前は内務省警保局の官僚として特高警察や、警保局経済保安課課長、兵庫県警察部長を務めた。戦後はいわゆる「逆コース」に乗って復帰し、保安庁保安研修所、内閣国防会議事務局長などを歴任、叙勲された。
赤星 直忠(あかほし なおただ、1902年4月17日 - 1… 赤星 直忠(あかほし なおただ、1902年4月17日 - 1991年3月11日)は、大正・昭和期の考古学者、歴史学者、民俗学者、郷土史研究者。教員等の職業に就き、研究機関等に所属することはなかったが、生涯で500本近い論文を発表して横須賀考古学会を設立するなど、主に神奈川県下で活躍し、三浦半島の考古学研究の基礎を築いた。研究内容は、縄文時代早期の関東地方の土器型式の分類、弥生時代から古墳時代の海蝕洞窟遺跡や横穴墓、古代・中世の寺院ややぐら、城郭など多岐に及んだ。 神奈川県三浦郡横須賀町(現・横須賀市)に生まれる。神奈川県立横須賀中学校(現・神奈川県立横須賀高等学校)の生徒であった時、学校の敷地内で古い時代の寺院の遺物が発見されたのを契機として、考古学に興味を持ち始めた。
上甲 米太郎(じょうこう よねたろう、1902年(明治35年… 上甲 米太郎(じょうこう よねたろう、1902年(明治35年)4月16日 - 1987年(昭和62年)3月21日)は、大正・昭和期の朝鮮における公立普通学校教員、社会活動家。 慶尚南道泗川郡昆明公立普通学校に勤務して朝鮮人の生活の苦しさをみるうち日本による朝鮮の植民地支配に疑問をもち朝鮮の独立を支持する考えになっていった。朝鮮人の苦しさを解消するための方法を考え、教え子と教育労働者組合の勉強会を自発的に行うなどしていたところ、1930年12月5日、教育労働者組合の結成を画策したとして治安維持法違反で逮捕された。 愛媛県西宇和郡千丈大村川之内(現在の愛媛県八幡浜市川之内)で、父・景吉(けいきち)、母・淑(きよ)の長男として誕生した。
田坂 具隆(たさか ともたか、明治35年(1902年)4月1… 田坂 具隆(たさか ともたか、明治35年(1902年)4月14日 - 昭和49年(1974年)10月17日)は、日本の映画監督。広島県出身。
八幡一郎(やわた いちろう、1902年4月14日 - 198… 八幡一郎(やわた いちろう、1902年4月14日 - 1987年10月26日)は日本の考古学者。 専攻は縄文時代、民具の研究。
薮田義雄(やぶた よしお、1902年4月13日‐1984年2… 薮田義雄(やぶた よしお、1902年4月13日‐1984年2月18日)は、日本の詩人。 神奈川県小田原市生まれ。旧制小田原中学三年の時、その地に住む北原白秋の門人となる。法政大学に学ぶ(卒業したかは不明)。詩のほか、白秋の初の本格的伝記などを書いた。 関連資料が小田原文学館に展示されている。
三好 竹勇(みよし ちくゆう、1902年(明治35年)4月1… 三好 竹勇(みよし ちくゆう、1902年(明治35年)4月13日 - 1987年(昭和62年)11月25日)は、昭和期の漁業経営者・政治家。衆議院議員。 石川県金沢市出身。1927年(昭和2年)金沢医科大学附属薬学専門部を卒業した。 北海道白老郡白老村(現白老町)に移住し、漁業、薬局、整骨院を営む。1933年(昭和8年)から1947年(昭和22年)まで白老村会議員に在任。所得税調査委員、白老商業協同組合理事長、苫小牧工業学校(現北海道苫小牧工業高等学校)嘱託教師、胆振漁業会会長などを務めた。1947年4月、第23回衆議院議員総選挙で北海道第4区から民主党所属で出馬して当選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙では落選し、衆議院議員を1期務めた。
大泉 孝(おおいずみ たかし、1902年(明治35年)4月1… 大泉 孝(おおいずみ たかし、1902年(明治35年)4月12日- 1978年(昭和53年)9月7日)は日本の昭和時代のイエズス会司祭、教育者。上智大学第5代学長。洗礼名はフランシスコ・ザビエル。 宮城県柴田郡大河原町のカトリックの家庭に生まれる。柴田農林学校、宮城農学校を経て1924年(大正13年)に上智大学哲学科に入学し、1929年(昭和4年)渡欧してイエズス会に入会する。オランダのファルケンブルク大学とイギリスのヒースロップ大学(英語版)で神学を修め、1937年(昭和12年)に司祭となる。 1939年(昭和14年)に帰国して上智大学教授、翌年理事となる。1945年(昭和20年)4月に副総長(のちに副学長と改称)、1951年(昭和26年)上智学院理事長、1953年(昭和28年)大学長となる。
藤田 三郎(ふじた さぶろう、1902年〈明治35年〉4月1… 藤田 三郎(ふじた さぶろう、1902年〈明治35年〉4月12日 ‐ 1990年〈平成2年〉1月2日)は、全国農業協同組合中央会会長。 高知県香美郡香我美町出身。1930年、明治大学専門部を卒業し、農林省に入省。満州国に赴任し、北安省開拓科長や錦州省盤山県副県長を歴任し、1946年に盤山県日本民留民会会長として引揚者を引率して帰国。1947年に高知県農地委員となり、その後高知県農協中央会、高知県信用農業協同組合連合会の会長を務め、1975年、全国農業協同組合中央会会長に就任し、2期6年務めた。 1966年藍綬褒章、1974年勲三等瑞宝章、1982年勲二等旭日重光章受章。
小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年(明治35年)4月1… 小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年(明治35年)4月11日 - 1983年(昭和58年)3月1日)は、日本の文芸評論家、編集者、作家。
東畑 謙三(とうはた けんぞう、1902年4月11日 - 1… 東畑 謙三(とうはた けんぞう、1902年4月11日 - 1998年4月29日)は、日本の建築家。 三重県一志郡豊地村(現:松阪市)の地主の家に生まれた。東畑吉之助の三男。 1923年に第三高等学校理科乙類、1926年に京都帝国大学工学部建築学科を卒業。1932年に東畑謙三建築事務所を設立。以後、武田五一の弟子として関西の建築業界を牽引した。日本建築家協会名誉会長。日本建築学会名誉会員。
山口 茂吉(やまぐち もきち、1902年4月11日 - 19… 山口 茂吉(やまぐち もきち、1902年4月11日 - 1958年4月29日)は、昭和期の日本の歌人。 兵庫県多可郡杉原谷村清水(現・多可町)に生まれる。1924年(大正13年)に中央大学商学部を卒業し、明治生命東京本社に入社。当時、会社の幹部として作家の水上瀧太郎がいて、その感化を受けることが多かったという。同年「アララギ」入会、島木赤彦に学び赤彦が没後は斎藤茂吉に師事。斎藤茂吉・土屋文明の助手として「アララギ」の編輯・校正に携わることになる。1944年(昭和19年)には明治生命を辞職し、株式会社住友本社に入社する。1946年(昭和21年)に東京歌話会結成。1948年「アザミ」創刊主宰。1957年(昭和32年)以降は『斎藤茂吉全集』の編集校訂に携わる。
小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年〈明治35年〉4月1… 小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年〈明治35年〉4月11日 - 1983年〈昭和58年〉3月1日)は、日本の文芸評論家、編集者、作家、美術・古美術収集鑑定家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 昭和文壇に大きな影響を与えた文芸評論家であり、日本における本格的な近代批評の創始者とみなされている。アルチュール・ランボー、シャルル・ボードレールなどフランス象徴派の詩人たち、ドストエフスキー、幸田露伴・泉鏡花・志賀直哉らの作品、ベルクソンやアランの哲学思想に影響を受ける。代表作に『無常といふ事』(1942年 - 1943年、1946年刊)、『ドストエフスキイの生活』(1935年 - 1937年)、『モオツァルト』(1946年)、『ゴッホの手紙』(1951年 - 1952年)などがあり、晩年には本居宣長などの学問大系を思索した『本居宣長』(1977年完成)でも高い評価を受けた。
中野 二郎(なかの じろう、1902年4月10日 - 200… 中野 二郎(なかの じろう、1902年4月10日 - 2000年6月10日)は、日本のマンドリン奏者・指揮者・作曲家・編曲家。 愛知県瀬戸市出身。愛知県立工業学校図案科卒。1920年(大正9年)に名古屋高等工業学校建築科に助手として採用されると、初任給20円で当時日本では珍しかったマンドリンを購入。マンドリンのほかギター演奏および作曲を独学で習得し、マンドリン合奏曲・マンドリン独奏曲・ギター独奏曲を作曲。また『一茶さん』などの童謡作曲家としても知られる。1922年に助手の職を辞して本格的に演奏・作曲活動を始め、1945年からはNHK名古屋放送管弦楽団の指揮者を務めた。『パガニーニの主題による30の変秦曲』が1954年のイタリア国際ギター作曲コンクールに入賞している。
安芸 皎一(あき こういち、男性、1902年4月9日 - 1… 安芸 皎一(あき こういち、男性、1902年4月9日 - 1985年4月27日)は、日本の河川工学者、資源問題研究者。河川開発、水害問題のほか、資源問題を国際的視野で研究した。 内務省土木局技師安芸杏一の長男として新潟市に生まれる。兄弟構成は6人兄弟一女5男で、他5人とも大学出である。東京で育ち、府立四中(現・東京都立戸山高等学校)に進学。府立中時代は水練部主将を務める。四修で新潟高等学校 (旧制)に進学。同校を卒業後、東京帝国大学文学部英文科に進むが、1年後に工学部土木工学科に再入学。再入学した土木工学科では水理学者物部長穂のもとで河川工学を修める。1926年同学科卒業、内務省に入省。東京土木出張所内務工手。
柚木 馨(ゆのき かおる、1902年4月9日 - 1965年… 柚木 馨(ゆのき かおる、1902年4月9日 - 1965年11月19日)は、日本の法学者。専門は民法。学位は、法学博士(立命館大学・論文博士・1950年)(学位論文「ローマ法における売主瑕疵担保責任研究」)。第4代神戸大学学長。叙正三位、旭日重光章追贈。京都府加佐郡舞鶴町(現・舞鶴市)生まれ(本籍は鹿児島県)。弟子に、高木多喜男らがいる。 1919年(大正8年)、京都府立京都第一中学校(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)を卒業して第三高等学校に進み、1922年(大正11年)に文科甲類を卒業後、京都帝国大学に進学。1925年(大正14年)京都帝国大学法学部法律科を卒業するとともに同大学助手に就任した。
宇野 利雄(うの としお、1902年4月8日 - 1998年… 宇野 利雄(うの としお、1902年4月8日 - 1998年11月29日)は、日本の数学者。 千葉県佐倉市生まれ。旧制千葉県立佐倉中学(現在の千葉県立佐倉高等学校)、旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)を経て東京帝国大学(現在の東京大学)理学部数学科卒業。理学博士(東北帝國大学)。1928年東京商船学校教授、1941年京城帝国大学教授。戦後、1949年東京都立大学 (1949-2011)教授、1959年日本大学教授を歴任。「コンピュータ黎明期のコンセプトメーカー」と『計算機屋かく戦えり』では書かれている。手計算や機械式計算機といった計算力が限られていた時代からの数値解析・計算科学の第一人者として、電子計算機のパイオニアであったと同時に、その経験から誤差の扱い等についても注意を与えていた先駆者であった。
青山 道夫(あおやま みちお、1902年4月8日 - 197… 青山 道夫(あおやま みちお、1902年4月8日 - 1978年7月9日)は、日本の法学者。民法学者で家族法の権威。九州大学名誉教授。西南学院大学教授、東京経済大学教授を歴任。 宮城県出身。1927年に東京帝国大学法学部卒。大倉高等商業学校(現東京経済大学)教授、1944年九州帝国大学教授。1963年に九州大学を定年退官は、西南学院大学教授、東京経済大学教授を歴任。1972年には弁護士登録を行った。マリノフスキー、モルガンらの文化人類学的研究を翻訳。戦後の家族法の改正にあたり、民主的な改革を主張した。 1978年7月9日、肺炎のため東京都武蔵野市の武蔵野総合病院にて死去。76歳。