橋本 喜造(はしもと きぞう、1872年11月14日(明治5… 橋本 喜造(はしもと きぞう、1872年11月14日(明治5年10月14日)- 1947年(昭和22年)2月7日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家、長崎県多額納税者。衆議院議員。長崎県会議員。佐世保市会議員。族籍は長崎県平民。 小倉県下毛郡、のちの大分県下毛郡三保村(現中津市)で、橋本半平の二男として生まれる。1896年(明治29年)1月、長崎県平民の橋本雄造の養子となり、1898年(明治31年)1月に分家した。 長崎商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)、長崎外国語学校(長崎英語学校)を卒業。その後上京して慶應義塾で学んだが中途でアメリカへ渡り4年間遊学し政治経済学を学んだ。 1891年(明治24年)から海運事業を経営し、1918年(大正7年)2月に佐世保市で橋本汽船を設立し、その後、拠点を西宮市、神戸市と転じた。
山田 永俊(やまだ えいしゅん、明治5年10月13日(187… 山田 永俊(やまだ えいしゅん、明治5年10月13日(1872年11月13日) – 昭和31年(1956年)9月24日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。医師。漢詩人。 岐阜県本巣郡七郷村(現在の岐阜市)出身。済生学舎で学び(現・日本医科大学)、1895年(明治28年)に医術開業試験に合格。1901年(明治34年)に岐阜市に眼科医院を開業した。1913年(大正2年)より岐阜市会議員に選ばれ、議長にも選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、岐阜県医師会長、同保険部長、日本医師会理事、同副会長、岐阜脳病院理事長などを務めた。 また五洋と称し漢詩を善くした。
磯部 検三(いそべ けんぞう、明治5年10月13日(1872… 磯部 検三(いそべ けんぞう、明治5年10月13日(1872年11月13日) - 1949年(昭和24年)8月3日)は、日本の医師、学校経営者。日本医科大学の前身・日本医学校の創立に事務責任者(肩書は「幹事」)として関与し、のちに日本医科大学の維持員となった。かつては本人の主張に基づき日本医科大学の創立者として扱われていたが、現在では創立者と見なされていない。磯部の申し立てた経歴や業績には詐称や虚飾が多かったことが判明している。 名前は検蔵とも表記される。また嬰賓、孔夏、椿軒とも号した。 明治5年(1872年)10月13日、長門国厚狭郡(現・山口県山陽小野田市埴生)の医師・重枝化甫の三男として生まれ、叔父の磯部禎太郎の養子となった。
篠田 治策(しのだ じさく、明治5年10月12日(1872年… 篠田 治策(しのだ じさく、明治5年10月12日(1872年11月12日) - 昭和21年(1946年)1月23日)は、明治後期から昭和前期にかけての法学者・拓務官僚。 1872年、静岡県城東郡池新田村(現在の御前崎市)の農家の長男に生まれた。15歳の時に上京して錦城中学校(現錦城学園高等学校)、第一高等学校を経て、明治32年(1899年)に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。一度は弁護士になるが、明治37年(1904年)の日露戦争勃発に際して陸軍省の国際法事務嘱託に任ぜられ、第三軍の国際法担当顧問として従軍、旅順要塞陥落後は同要塞の司令部付顧問を兼務した。 戦後の明治40年(1907年)に韓国統監府の嘱託となり、間島派出所総務課長・統監府秘書官を歴任、日韓併合後の明治43年(1910年)10月から朝鮮総督府によって平安南道へ派遣された。
土井 八郎兵衛(どい はちろうべえ、1872年11月10日〈… 土井 八郎兵衛(どい はちろうべえ、1872年11月10日〈明治5年10月10日〉 - 1954年〈昭和29年〉8月12日)は、明治 - 昭和時代の日本の林業家・実業家・三重県多額納税者・慈善家。土井林業代表取締役。尾鷲索道社長。尾鷲銀行頭取。百五銀行、三重共同貯蓄銀行、北山索道各取締役。族籍は三重県平民。三重県立尾鷲高等女学校校舎建築・関東大震災救援・三重県立尾鷲中学校建設のために寄附を行なった。 三重県牟婁郡尾鷲に生まれる。土井嘉八郎の長男。4歳の時に父・嘉八郎が病のため早世する。 専修大学理財科を卒業する。祖業の山林業及び林産物製出販売業を継承し、三重県多額納税者に列し、傍ら銀行会社の重役を兼ねる。
大谷 吟右衛門(おおたに ぎんえもん、1872年11月4日(… 大谷 吟右衛門(おおたに ぎんえもん、1872年11月4日(明治5年10月4日) - 1928年(昭和3年)3月26日)は、明治から大正時代の実業家、銀行家。 大谷秋蔵の長男として飾磨県佐用郡平福村(兵庫県佐用郡平福町を経て現佐用町平福)に生まれ、1901年(明治34年)3月に家督を相続する。1899年(明治32年)東京帝国大学法科を卒業し、大阪商船に入社し、釜山支店長を経て運輸助役となる。1902年(明治35年)兵庫県農工銀行支配人となり、1910年(明治43年)専務取締役に就任。1917年(大正6年)には同行頭取となった。ほか、神戸信託、神栄、播美鉄道各監査役のほか、神戸瓦斯、ベルベット石鹸などの役員も務めた。
木村 秀興(きむら ひでおき、1872年11月3日(明治5年… 木村 秀興(きむら ひでおき、1872年11月3日(明治5年10月3日)- 1941年(昭和16年)4月5日)は、大正から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員。 三重県員弁郡北大社村(稲部村大字北大社、東員村を経て現東員町大字北大社)で、豪農木村誓太郎の長男として生まれる。1897年(明治30年)東京帝国大学文科大学史学科を卒業。1919年(大正8年)家督を相続し、農業を営む。 員弁郡信用購買組合連合会長、三重県信用組合会会長、同県畜産組合連合会副会長、産業組合中央会三重支部理事、員弁郡農会会長などを務め、農事改良、農業振興に尽力した。実業界では、東海電線取締役、三重県農工銀行監査役、北勢電気鉄道(三岐鉄道北勢線)監査役などを務めた。
竹内 友治郎(たけうち ともじろう、明治5年10月2日(18… 竹内 友治郎(たけうち ともじろう、明治5年10月2日(1872年11月2日) - 昭和11年(1936年)11月10日)は、日本の逓信官僚、農商務次官、衆議院議員(立憲政友会)。 山梨県巨摩郡百田村(現在の南アルプス市)出身。東京法学院(現在の中央大学)卒業。逓信省に入省後、高等文官試験に合格。日露戦争時に金沢郵便局長を務めていたが、当時逓信次官であった田健治郎男爵に見出され、独立第13師団(樺太出征軍)郵便部長に抜擢された。その後、樺太庁第二部長、東京逓信局長、朝鮮総督府逓信局長を歴任した。 田健治郎が第8代台湾総督に在任中、1922年(大正11年)秋に台湾行啓が内定すると、警備に万全を期すためとして、田は斎藤実朝鮮総督と交渉の上、竹内を台湾総督府警務局長に転任させた。
富田 幸次郎(とみた こうじろう、1872年11月1日〈明治… 富田 幸次郎(とみた こうじろう、1872年11月1日〈明治5年10月1日〉- 1938年〈昭和13年〉3月23日)は日本の新聞人、政治家、第32代衆議院議長、双川と号した。 1872年(明治5年)、高知県安芸郡川北村(現:安芸市)に生まれた。川北小学校を出て芸陽学舎卒業。安芸地方の教員になる。 1887年(明治20年)代末頃土陽新聞記者になり日露戦争の従軍記者に選ばれたが土陽新聞の内紛(中央派vs郡部派の争い)により退社。 1904年(明治37年)9月同志、岡本方俊、野中楠吉、杉駸三郎、藤戸達吾らと高知新聞を興し、その主筆となった。対向紙土陽新聞と筆を競いつつ次第に声望ほ高めた。 1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙に故郷の高知県から立候補して初当選。
加藤 精神(かとう せいしん、明治5年9月29日〈1872年… 加藤 精神(かとう せいしん、明治5年9月29日〈1872年10月31日〉 - 昭和31年〈1956年〉10月18日)は、真言宗豊山派の学僧、仏教学者、文学博士、大正大学名誉教授。 愛媛県伊予郡北伊予村生まれ。1882年10月、石手寺に入り、翌年得度した。1887年精神と改名し、上京する。1891年、哲学館(現在の東洋大学)を卒業した後、さらに1893年に新義派大学林(後に大正大学に吸収合併)を卒業。奈良の長谷寺にて研鑽を積み、1897年権大僧都に任命される。1908年から豊山大学教授を務め、1918年より豊山大学第2代、1923年より第3代学長。大正大学創立とともに同大教授となり、1927年4月、東洋大学教授となる(仏教科主任)。
工藤 吉次(くどう きちじ、明治5年9月29日(1872年1… 工藤 吉次(くどう きちじ、明治5年9月29日(1872年10月31日) - 昭和11年(1936年)1月9日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 山形県西村山郡溝延村(現在の河北町)に、工藤浅吉の二男として生まれる。1893年(明治26年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業し、1897年(明治30年)に判事検事登用試験に合格した。判事となったが、やがて官を辞して、盛岡市で弁護士を開業した。後に盛岡弁護士会長を務めた。 盛岡市会議員を経て、1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は3回を数えた。墓所は多磨霊園。
石原 喜久太郎(いしはら きくたろう、1872年10月27日… 石原 喜久太郎(いしはら きくたろう、1872年10月27日(明治5年9月25日)- 1944年(昭和19年)6月12日)は、日本の衛生学者、細菌学者である。 1872年10月27日(明治5年旧暦9月25日)、島根県意宇郡二子村(現在の松江市八束町二子)で石原庄太郎の次男として生まれた。父庄太郎は士族で、警察官を務めていたが裕福ではなかった。 1887年(明治20年)、旧制松江中学校に入学。同期に大谷繞石(正信)がいた。ラフカディオ・ハーンに英語を学び、生徒の中でも大谷とともに特にハーンとの親交が深かった。『知られぬ日本の面影』でハーンは石原を称賛し、また石原との問答を収録している。1892年(明治25年)7月に松江中学校を卒業。
田丸 卓郎(たまる たくろう、明治5年9月25日(1872年… 田丸 卓郎(たまる たくろう、明治5年9月25日(1872年10月27日)/ 明治5年9月29日(1872年10月31日) - 昭和7年(1932年)9月22日)は、日本の物理学者、ローマ字論者。岩手県盛岡市出身。化学者の田丸節郎は弟。 盛岡大清水小路にて旧盛岡藩士・田丸十郎とセンの次男として生まれた。1879年(明治12年)には伯父である中原雅郎一家とともに暮らし、宮城県師範学校附属小学校、東京師範学校附属小学校へ通った。 1895年(明治28年)、(東京)帝国大学理科大学物理学科卒業。第五高等学校教授、京都帝国大学助教授、1901〜1905年ドイツのハイデルベルク大学留学を経て、1900年(明治33年)に東京帝国大学理科大学助教授。
桑原 節次(くわはら せつじ、1872年10月26日 - 1… 桑原 節次(くわはら せつじ、1872年10月26日 - 1954年2月26日)は、日本の地方公務員、作詞家、郷土史家。現在の宮崎県出身。 明治5年9月24日(西暦1872年10月26日)、美々津県那珂郡広瀬村(現在の宮崎市佐土原町)で佐土原藩士族の家に生まれる。東京の共立学校を卒業した後、宮崎へ帰郷し尋常小学校校長を経て宮崎県庁に入庁、西臼杵郡、児湯郡、南那珂郡、北諸県郡の郡長を務める。西臼杵郡長在職時には県立高千穂実業学校の校長を兼務し、同校の後身に当たる宮崎県立高千穂高等学校へ引き継がれた校歌(作曲:陸軍戸山学校)を作詞している。定年退職後は日本赤十字社宮崎県支部主事を経て、日本生命保険宮崎支社に勤めながら財団法人旧佐土原藩教育会の会長の職に在った。
堀 貞(ほり ただし、通称:ほり てい、1872年10月25… 堀 貞(ほり ただし、通称:ほり てい、1872年10月25日〈明治5年9月23日〉 - 1927年〈昭和2年〉7月27日)は、大正時代の経営者。真宗信徒生命保険社長、共保生命保険社長等を歴任した。 九州の柳河藩(福岡県)の下級武士だった堀亨が明治維新により禄を離れた後、その次男(7人兄弟姉妹の4番目)として旧城下町に明治5年(1872年)に生まれた。城下を離れ、教職と片手間の農作業で生計を立てる経済的には厳しい家庭で育ったが、学業成績を評価した後援者もあり、熊本の済々黌に進む。苦学する傍ら剣道にも打ち込み頭角をあらわした。折から熊本に設立された第五高等中学校の補充科に入学し、補習講師などで経済難を凌ぎながら柔剣道などにもいそしみ勉学に励み第五高等学校に改称された年に卒業する。
若宮 卯之助(わかみや ゆうのすけ、明治5年9月23日〈18… 若宮 卯之助(わかみや ゆうのすけ、明治5年9月23日〈1872年10月25日〉 - 昭和13年〈1938年〉4月30日)は、日本の社会学者、新聞記者。国粋主義者、反ユダヤ主義思想家として知られた。慶應義塾大学社会学教授。原理日本社同人、国際政経学会常務理事、新聞「日本」社長兼主筆、中央新聞主筆等を歴任。号は泰山(たいざん)。 富山県西礪波郡埴生村(現・小矢部市)生まれ。 郷里の小学校を約2年で中退して曹洞宗に落飾し、のち上京して蕎麦屋の出前等の職を転々としながら1898年(明治31年)にアメリカ大陸に渡り、約10年間の放浪生活を経たのちに帰国して日本新聞社に入社したという異端の経歴を持つ人物である。
山本 良吉(やまもと りょうきち、1871年11月22日(明… 山本 良吉(やまもと りょうきち、1871年11月22日(明治4年10月10日) - 1942年(昭和17年)7月12日)は、日本の倫理学者、教育者。号は「晁水」。 1871年、石川県金沢市鶴間谷で生まれた。石川県専門学校および後身の第四高等中学校に学ぶも中退。中学校では鈴木大拙・西田幾多郎・藤岡作太郎と同窓であった。帝国大学文科大学哲学科選科に入学し、1895年に修了。 同1895年に京都府立尋常中学校教諭に就いた。1897年に静岡県尋常中学校教諭となり、修身ならびに英語を担当 1900年に京都府立第二中学校教頭となった。1908年に京都帝国大学学生監。1909年に第三高等学校教授を兼任し、倫理学を講じた。
吉野 伝治(よしの でんじ、1871年11月22日 - 19… 吉野 伝治(よしの でんじ、1871年11月22日 - 1940年2月3日)は、千葉県出身の日本の実業家。 東武鉄道の支配人を経て取締役となり、東武鉄道に関連する様々な企業の社長を歴任し最後は東武鉄道の第2代社長となったが、就任15日で死去した。 明治4年10月10日(グレゴリオ暦1871年11月22日)、千葉県長生郡土睦村(現在の睦沢町)の粒良市郎右衛門の次男として生まれた。1887年(明治20年)、千葉中学校を卒業した後、第一高等中学校に進学。同年、夷隅郡東村(大原町を経て、現在のいすみ市)の名士であった吉野忠吾の養嗣子となった。1893年(明治26年)7月の第一高等中学校卒業者一覧には「粒良伝治(吉野伝治)」の記載がある。
引田 乾作(ひきた けんさく、1871年11月22日〈明治4… 引田 乾作(ひきた けんさく、1871年11月22日〈明治4年10月10日〉- 1948年〈昭和23年〉5月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 山口県阿武郡萩町土原村(現萩市大字土原)で旧長州藩士引田利亮の四男として生まれ、兄引田利章の死去に伴い1891年(明治24年)に家督を相続した。 1894年(明治27年)7月、陸軍士官学校(5期)を卒業し、同年9月、陸軍歩兵少尉に任官し近衛歩兵第1連隊付となる。1901年(明治34年)11月、陸軍大学校(15期)を卒業し陸軍省軍務局軍事課に配属された。山縣有朋元帥副官を務め、その後、日露戦争に第1軍参謀として出征した。 ドイツ帝国派遣、歩兵第11連隊付、歩兵第70連隊大隊長、参謀本部課長兼陸大兵学教官、陸軍技術審査部部員などを歴任。
佐藤 亀八郎(さとう かめはちろう、1871年11月20日(… 佐藤 亀八郎(さとう かめはちろう、1871年11月20日(明治4年10月8日) - 1936年(昭和11年)7月15日)は、日本の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員、宮城県農工銀行頭取、宮城県販売購買組合理事長。 仙台県名取郡柳生村(宮城県名取郡中田村を経て現仙台市太白区柳生)で、素封家・佐藤惣十郎の長男として生まれる。1889年(明治22年)宮城農学校、1896年(明治29年)和仏法律学校(現法政大学)を卒業。1903年(明治36年)に家督を相続し、同年、宮城県会議員(-1927年(昭和2年))に当選する。その他、中田村会議員、宮城県農会長、同県産米改良協会会頭、帝国農会議員、仙台商業会議所常議員などを務めた。
仁田 大八郎(にった だいはちろう 、1871年11月19日… 仁田 大八郎(にった だいはちろう 、1871年11月19日(明治4年10月7日) - 1945年(昭和20年)3月1日)は、明治から昭和時代前期の静岡県田方郡で活躍した実業家、政治家。
太田 政弘(おおた まさひろ、1871年11月16日〈明治4… 太田 政弘(おおた まさひろ、1871年11月16日〈明治4年10月4日〉- 1951年〈昭和26年〉1月24日)は、日本の内務官僚、政治家。正三位。警視総監(第30代)、関東長官(第6代)、台湾総督(第14代)、貴族院議員。 山形県出身。鶴岡藩士・弁護士、太田政道の長男として生まれる。山形中学、第一高等学校を経て、1898年(明治31年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務属となり内務省警保局警務課勤務となる。1899年(明治32年)11月、文官高等試験に合格。1900年(明治33年)2月、三重県事務官に就任し、さらに同県内務部第1課長を務める。 1902年(明治35年)3月、宮崎県警察部長に就任。
斎藤 常三郎(旧字体:齋藤 常三郎、さいとう つねさぶろう、… 斎藤 常三郎(旧字体:齋藤 常三郎、さいとう つねさぶろう、1871年〈明治4年〉11月14日 - 1921年〈大正10年〉10月7日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。栄典は従四位勲二等功三級。 愛知県碧海郡土井村辻(現・岡崎市土井町)出身。斎藤兵三郎の四男。赤渋小学校卒業後、同校助教を務め、宮地小学校への合併後も同職。1891年(明治24年)に小学校教員免許を正式に取得。成城中学校を経て翌年桑子小学校訓導となるも、同年士官候補生として近衛歩兵第2連隊に入営。1895年(明治28年)陸軍士官学校第6期卒業。日清戦争では台湾に派遣され、三角湧や龍潭城、新竹を転戦するもマラリアに罹患し新竹兵站病院に入院。
南日 恒太郎(なんにち つねたろう、明治4年9月30日(18… 南日 恒太郎(なんにち つねたろう、明治4年9月30日(1871年11月12日) - 昭和3年(1928年)7月20日)は、明治から大正にかけての教育者・英文学者。旧制富山高等学校初代校長。 富山県富山市長江生まれ。実弟には田部隆次(英文学者)、田部重治(英文学者・登山家)がおり、英文学の南日三兄弟と呼ばれた。 恒太郎は努力家で学業が優秀だった。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)在学中の明治23年10月、文部大臣森有礼が来校し、突然英語で質問した際にも明快に答えたという。 1885年(明治18年)9月富山県尋常中学校に入学し、同期の南弘(官僚・富山県初の大臣)や蟹江義丸(哲学者)らと学び、旧制第四高等学校(現金沢大学)進学を目指したが、南弘と共に県に建白書を出してストライキに加担したこと、重い眼病になったことなどから中退し、5年で退学。
不破 熊雄(ふわ くまお、1871年11月12日(明治4年1… 不破 熊雄(ふわ くまお、1871年11月12日(明治4年11月)- 1955年7月4日)は、日本の実業家。 福岡藩士不破國雄の二男として福岡県に生まれる。1890年福岡県立尋常中学修猷館、1892年第五高等中学校工科を経て、1895年帝国大学工科大学機械工学科を卒業。 1895年三井工業部に入社し、芝浦製作所に勤務した後、第五高等学校工科教授を数年務め、三井鉱山技師に転じる。1911年欧米各国の鉱山界を視察し、帰国後山野炭鉱所長、田川炭鉱所長を経て、取締役となる。三井窒素工業社長・会長、東洋高圧工業(現・三井化学)取締役も兼任している。 退任後は三井合名会社重役待遇となる。墓所は多磨霊園
福澤 泰江(ふくざわ やすえ、1871年11月12日(明治4… 福澤 泰江(ふくざわ やすえ、1871年11月12日(明治4年9月30日) - 1937年(昭和12年)7月10日)は、日本の地方政治家、篤農家。大正から昭和初期にかけて長野県赤穂村の村長を長く務め、全国町村長会の創立に関わり、後にはその会長も務め、さらには内閣調査局参与なども歴任した。 長野県上伊那郡赤須村生まれ。赤穂村役場に入り、若くして収入役を務めた。その後、長野県会議員を経て、1914年から1937年にかけて村長を務めた。福澤が村長として建設を主導し1922年に完成した村役場は、後には駒ヶ根市の市役所庁舎としても使用され、さらにその後に移築され、旧駒ヶ根市役所庁舎として保存公開されている。
水崎 基一(みずさき もといち、1871年11月10日(明治… 水崎 基一(みずさき もといち、1871年11月10日(明治4年9月28日) - 1937年(昭和12年)11月29日)は、日本の経済学者、教育者。同志社大学経済学部教授を経て、浅野綜合中学校(現・浅野中学校・高等学校)初代校長。クリスチャン。なお、書、漢詩、短歌の雅号は濃川。 1871年(明治4年)9月28日、7月の廃藩置県直後の松本県(11月に筑摩県となった)筑摩郡北深志下下町(現・松本市)に、旧松本藩士水崎好照の長男として誕生した。廃藩置県の混乱と大家族だった水崎家の困窮の中で、1878年(明治11年)、2年前に新校舎が建設された、文明開化を象徴する開智学校に入学し、松本新聞社に勤務しながら苦学して通った。
谷口 武一郎(たにぐち たけいちろう、1871年11月10日… 谷口 武一郎(たにぐち たけいちろう、1871年11月10日(明治4年9月28日) - 1923年(大正12年)9月19日)は、日本の実業家。第2代三井物産船舶部(現商船三井)部長。 兵庫県出身。1889年神戸商業学校(現兵庫県立神戸商業高等学校)卒業、三井物産入社。長崎支店長、本店参事、船舶部長、奉天出張所長兼奉天日本人商業会議所会頭、牛荘出張所長兼牛荘日本実業会会長等を歴任した。 妻カノ[旧制 坂]明治31年11月9日没(享年26歳)長男武彦。後妻のカメは医師呉来安の二女。神戸商工会議所議員等を務めた谷口茂雄は弟で、その妻は日本燐寸製造創業者直木政之介の三女恊。
本田 義成(ほんだ よしなり、1871年11月6日(明治4年… 本田 義成(ほんだ よしなり、1871年11月6日(明治4年9月24日) - 1952年(昭和27年)4月12日)は、衆議院議員(立憲政友会)。長男は東日本ボクシング協会初代理事長を務めた本田明。明の次男(自身の孫)は本田明彦。 新潟県三島郡片貝村(現在の小千谷市)出身。少年時代に単身上京し、明治法律学校(現在の明治大学)の校外生として苦学しながら、商業に励んだ。四谷区会議員、同議長、東京府会議員、同参事会員、東京市会議員、同参事会員を歴任。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で4期務めた。 その他、大木戸住宅株式会社監査役、朝鮮営林洋行代表社員などを務めた。
幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、1871年11月5日(明治… 幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、1871年11月5日(明治4年9月23日) - 1911年(明治44年)1月24日)は、明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者、無政府主義者である。
林 重浩(はやし しげひろ、明治4年9月22日(1871年1… 林 重浩(はやし しげひろ、明治4年9月22日(1871年11月4日) - 1944年(昭和19年)5月15日)は、日本の教育者である。 鳥取県邑美郡向国安村(後の気高郡美穂村大字向国安、現在の鳥取市向国安)生まれ。東京音楽学校で岡野貞一、永井幸次らとともに学ぶ。各地の県立師範学校や中学校で数学・音楽を担当した。1895年(明治28年)から1933年(昭和8年)まで39年間にわたり子弟の教育に努めた。1906年(明治39年)、36歳の若さで鳥取県立第二中学校(のち米子中学校に改称、現米子東高校)校長に就任。1911年(同44年)には鳥取中学校(現鳥取西高校)校長となり、山積する難問に対処して学校を再建するとともに野球を奨励し、野球部の強化を図った。
福井 準造(ふくい じゅんぞう、明治4年9月21日(1871… 福井 準造(ふくい じゅんぞう、明治4年9月21日(1871年11月3日) - 昭和12年(1937年)12月10日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。準三と表記される場合がある。 相模国大住郡小嶺村(現在の神奈川県平塚市)の代々里正・組頭を務めた家で、福井直吉の長男として生まれる。1891年(明治24年)、慶應義塾を卒業。社会問題に関心を持ち、神奈川県農会副会長を務めるかたわら、農商務省の嘱託として神奈川県の工場・職工の調査にあたった。自らは社会主義者ではなかったが、1899年(明治32年)に著した『近世社会主義』は日本で社会主義を解説した最初期の文献である。また、郭沫若は、同書が1913年に中国語に翻訳され、これが中国へのマルクス・エンゲルス思想の初めての紹介になったと述べている。
岡本 英太郎(おかもと えいたろう、1871年11月2日〈明… 岡本 英太郎(おかもと えいたろう、1871年11月2日〈明治4年9月20日〉 - 1953年〈昭和28年〉5月16日)は、日本の農商務官僚。位階は従三位、勲等は勲二等瑞宝章。 農商務次官(第25代)、産業組合中央金庫理事長(初代)、特許局長官(第20代)、国際労働総会日本政府代表。錦鶏間祗候。 大阪府三島郡山田村(現在の吹田市)出身。 岡本家は雄略天皇の御宇、伊射奈岐神社(吹田市山田東)の初代神主・岡本豊足彦を始祖とする1000年以上連綿と続く素封家である。 1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業し、同年12月文官高等試験に合格した。農商務省に入り、林務官、山林局事務官・書記官、鉱山監督局事務官・書記官、官営八幡製鉄所理事、山林局長、商工局長・戦時保険局長、商務局長、農務局長、農商務次官、兼特許局長官を歴任し、1923年(大正12年)12月8日、農商務次官を依願免本官となり退官した。
矢田 長之助(やだ ちょうのすけ、明治4年9月20日(187… 矢田 長之助(やだ ちょうのすけ、明治4年9月20日(1871年11月2日) – 昭和15年(1940年)11月27日)は、日本の外交官。駐シャム(タイ)公使。 島根県簸川郡塩冶村(現在の出雲市)で矢田伝四郎の長男として生まれる。1895年(明治28年)東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。教員を経て、1899年(明治32年)に外交官及領事官試験に合格した。1900年(明治33年)より領事官補として天津、漢口に勤務した。その後、駐メキシコ公使館三等書記官、同二等書記官、バンクーバー領事、オタワ総領事、ニューヨーク総領事、ホノルル総領事を歴任した。1921年(大正10年)より駐シャム公使を務めた。 退官後は横浜市立横浜商業学校・横浜市立横浜商業専門学校校長事務取扱を務め、さらに財団法人暹羅協会(のち日本タイ協会)常務理事・理事長を務めた。
島津 長丸(しまづ ながまる、1871年10月31日〈明治4… 島津 長丸(しまづ ながまる、1871年10月31日〈明治4年9月18日〉 - 1927年〈昭和2年〉2月1日)は、明治から大正にかけての華族(男爵)。島津氏一門・宮之城家16代当主。島津久治の長男。貴族院議員を務めた。 1871年(明治4年)、宮之城家第15代当主島津久治(島津図書)の長男として鹿児島に生まれる。生後間もない1872年(明治5年)1月に父が急逝したため、同年1月10日に家督を継ぐ。大龍小学校を経て、1895年(明治28年)7月、鹿児島高等中学造士館予科卒業。1896年(明治29年)鹿児島高等中学造士館廃止のため高等中学造士館本科から学習院へ転学。 1896年(明治29年)、鹿児島市平ノ馬場町に私立鶴嶺女学校を創立した。
角 源泉(すみ げんせん、明治4年9月18日(1871年10… 角 源泉(すみ げんせん、明治4年9月18日(1871年10月31日) - 昭和17年(1942年)8月14日)は、日本の政治家、官僚。衆議院議員、新宮市長。山本七平の大叔父。 1871年(明治4年)和歌山県東牟婁郡三輪崎村(三輪崎町を経て現新宮市)、角三郎左衛門の三男として出生する。明治21年頃、上京し、河津祐之の書生として住み込む。 1893年(明治26年)和仏法律学校(現法政大学)仏語法律科卒業。1897年(明治30年)判事検事登用試験、文官高等試験に合格し、和歌山地方裁判所の検事代理に採用される。その後、司法官を辞し、通信官僚に転進する。 1911年(明治44年)台湾総督府事務官、台湾総督府通信局長心得を経て、1913年(大正2年)台湾総督府通信局長、1915年(大正4年)台湾総督府土木局長に就任する。
大島 金太郎(おおしま きんたろう、明治4年9月18日(18… 大島 金太郎(おおしま きんたろう、明治4年9月18日(1871年10月31日) - 昭和9年(1934年)1月27日)は、日本の農学者。 長野県諏訪郡宮川村(現在の茅野市)で、先代・大島金太郎の長男として生まれる。1893年(明治26年)、札幌農学校を卒業し、1895年(明治28年)に札幌農学校の助教授に就任した。 1898年(明治31年)より農芸化学研究のためアメリカ合衆国・ドイツに留学し、アメリカでは農務省技師嘱託となった。1903年(明治36年)に帰国して札幌農学校教授となり、翌年から北海道庁技師を兼ねた。1907年(明治40年)、論文提出により農学博士の学位を得た。同年、札幌農学校が東北帝国大学農科大学に改称し、東北帝国大学教授となる。
佐多 愛彦(さた あいひこ、明治4年9月17日(1871年1… 佐多 愛彦(さた あいひこ、明治4年9月17日(1871年10月30日) - 昭和25年(1950年)3月4日)は、日本の医学者。府立大阪医科大学(現在の大阪大学医学部)学長。 鹿児島県出身。佐多直隆の四男として生まれる。鹿児島医学校を経て、1890年(明治23年)に帝国大学(現・東京大学)選科を卒業。同大学助手、市立富山病院医員を務めた後、1894年(明治27年)に府立大阪医学校教諭となった。1897年(明治30年)よりドイツに留学し、1900年(明治33年)に帰国。帰国とともに医学博士の学位を得た。 1902年(明治35年)、府立大阪医学校校長・同病院長に就任し、医学校が大阪医科大学に改組されると引き続き学長を務めた。
朝倉 虎治郎(あさくら とらじろう、1871年10月29日〈… 朝倉 虎治郎(あさくら とらじろう、1871年10月29日〈明治4年9月16日〉 - 1944年〈昭和19年〉5月3日)は、日本の商人(米商)、東京府多額納税者、渋谷区多額納税者、実業家、政治家。東京府会議員、同議長。東洋青物市場顧問。族籍は東京府平民。旧姓は杉浦。 愛知県碧海郡旭村(現・碧南市)に杉浦家の二男として生まれた。小学校を5年で中退した。東京深川木場の材木店で働いた。 1897年に朝倉たきの入婿となり、1899年に家督を相続した。三田用水の朝倉水車業を手伝う。精米業を営み、「丸朝商店」と称した。 1904年、養父・徳次郎の後を継いで、渋谷村会(のち渋谷町会)議員に推挙された。家業の傍ら自治の仕事に携わった。
鈴木 達治(すずき たつじ、1871年10月24日(明治4年… 鈴木 達治(すずき たつじ、1871年10月24日(明治4年9月11日) - 1961年(昭和36年)8月29日)は、日本の化学者・教育者。愛媛県出身。号は煙洲。横浜高等工業学校(現・横浜国立大学)の初代校長として「三無主義教育」を実践したことで知られる。 現在の愛媛県四国中央市下柏町に5人きょうだい(4男1女)の長男(上に姉あり)として生まれる。鈴木家は農家であったが、家族の他に下人が3人いる自作地主であった。 今の四国中央市立松柏小学校と漢学塾に通い、小学校卒業後は母校で教員の手伝いを務めていたところ、校長に同志社で英語を学ぶよう勧められる。1885年8月に京都に移り、8月の入学試験を受けたが不合格となる。
田岡 嶺雲(たおか れいうん、明治3年10月28日(1870… 田岡 嶺雲(たおか れいうん、明治3年10月28日(1870年11月21日) - 大正元年(1912年)9月7日)は、近代日本の文芸評論・思想家。本名は佐代治。
中田 重治(なかだ じゅうじ、1870年11月20日(明治3… 中田 重治(なかだ じゅうじ、1870年11月20日(明治3年10月27日)- 1939年(昭和14年)9月24日)は、明治・大正・昭和初期にかけて活躍した日本の教会監督、大衆伝道者、巡回伝道者、福音使(牧師)、神学校(柏木聖書学院)教師・院長(校長)、宗教家、説教家、翻訳家、賛美歌作家、実業家、ジャーナリスト、神学者、日ユ同祖論者である。 明治時代のメソジスト派の牧師中田久吉は実兄、日本を代表する教会音楽家の中田羽後は次男、日本アライアンス教団の大江寛人、日本基督教団の議長辻宣道、同じく日本基督教団の牧師有馬式夫は孫である。 日本ホーリネス教会の創始者の一人で初代監督であり、日本ホーリネス教会を既存の五大教派(長老派、メソジスト派、会衆派、バプテスト派、ルーテル派)に並ぶ巨大組織に発展させた功労者。
長尾 良吉(ながお りょうきち、1870年11月19日(明治… 長尾 良吉(ながお りょうきち、1870年11月19日(明治3年10月26日)- 1937年(昭和12年)1月22日)は、日本の経営者。鐘淵紡績社長を務めた。 兵庫県出身。1885年に府立大阪中学校(現大阪府立北野高等学校)初等中等科を卒業。1891年に高等商業学校(現一橋大学)本科を卒業。県立神戸商業学校教諭を経て、1895年に同校長事務取扱となる。 内外綿神戸出張所長、孟買出張所主任/副支配人を経て、1900年に鐘淵紡績に入社。1916年取締役。1922年には平生釟三郎の甲南高等学校(現甲南大学)設立を支援。1925年常務取締役。1928年副社長。1930年に社長に就任。 1933年川崎造船所取締役、本山村会議員。
今幡 西衛(いまはた にしえ、1870年11月19日(明治3… 今幡 西衛(いまはた にしえ、1870年11月19日(明治3年10月26日)– 1952年(昭和27年)3月16日[要出典])は、高知県出身の自由民権運動家。自由党員、実業家、作家。 1870年11月19日(明治3年10月26日)、竹村九十九(つくも)の次男として高知県幡多郡中村町(現 高知県四万十市)に生まれる。のち今幡西衛(初代)の養子となり、その名を襲う。 1890年(明治23年)、自由党に入党して林有造、片岡健吉らに連れられ上京。代議士・三崎亀之助の書生となる。 1893年(明治26年)、中央大学を卒業。 竹内鉱業株式会社に入社して、北海道夕張炭鉱の取締役支配人となる。 1915年(大正4年)3月、竹内明太郎が立憲政友会の推薦を受けて、衆議院議員選挙(第12回)に立候補すると、故郷高知県に戻って選挙活動に奔走した。
紀 俊秀(きい としひで、明治3年10月24日(1870年1… 紀 俊秀(きい としひで、明治3年10月24日(1870年11月17日) - 昭和15年(1940年)9月20日)は、日本の政治家、実業家、日前神宮・國懸神宮宮司。栄典は正三位勲三等男爵。貴族院議員(通算6期29年)。 明治3年(1870年)10月24日、日前神宮・國懸神宮宮司・紀俊尚と鶴子の三男として紀伊国名草郡秋月村(現在の和歌山県和歌山市秋月)で生まれる。幼名は文麿(ふみまろ)。学習院高等学科卒業。明治24年(1891年)1月に名を俊秀と改め、同年10月に日前神宮・國懸神宮宮司となる。明治29年(1896年)8月26日、家督を相続して男爵を襲爵した。明治30年(1897年)7月10日の第2回伯子男爵議員選挙で初当選し、貴族院議員に就任した。
多田 悦太郎(ただ えつたろう、1870年11月16日(明治… 多田 悦太郎(ただ えつたろう、1870年11月16日(明治3年10月23日) - 没年不明)は、日本の政治家、神奈川県多額納税者。 神奈川県人・多田勘兵衛の長男。1889年、家督を相続する。明治法律学校に学び、農業を営む。成瀬村会議員、同学務委員に選ばれる。中郡会議員、成瀬村農会長、同青年会顧問等に挙げられる。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は神奈川県中郡成瀬村(現伊勢原市)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
塩澤 昌貞(しおざわ まささだ、1870年11月14日(明治… 塩澤 昌貞(しおざわ まささだ、1870年11月14日(明治3年10月20日) - 1945年(昭和20年)7月7日)は、茨城県水戸出身の経済学者、法学博士、早稲田大学第4代学長、第2代総長。 早稲田大学時代にボート競技に取り組んだことが縁で、晩年、日本漕艇協会会長に就任した。1940年(昭和15年)戸田漕艇場オープン時のデモンストレーションでは、会長として70歳台艇に乗り込み舵手を務めた。
星野 太郎(ほしの たろう、明治3年10月19日(1870年… 星野 太郎(ほしの たろう、明治3年10月19日(1870年11月12日) - 昭和8年(1933年)11月25日)は、日本の商学者、教育者。東京商科大学(現一橋大学)商学専門部教授として簿記論や商品学を講じた。 駿河国(現静岡県)で旧幕臣星野鉄太郎(のちに初代静岡市長)の長男として生まれる。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、1904年同校教授に就任。下野直太郎、鹿野清次郎らと簿記・商品学を講じた。同僚の志田鉀太郎、下野直太郎、關一、佐野善作、村瀬春雄、坂本陶一、石川文吾、瀧本美夫、横井時冬らとともに明治大学商学部設立にも尽力し、1904年に明治大学商学部が設立されると商品学講師に就任。1920年に東京高等商業学校が旧制東京商科大学に改組されると、同大学付属商学専門部教授や予科教授、同大学付属商業教員養成所主事を務めたが、在任中の1933年に死去した。
鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎〈ていたろう〉、英… 鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎〈ていたろう〉、英語: D. T. Suzuki 〈Daisetz Teitaro Suzuki〉、1870年11月11日〈明治3年10月18日〉 - 1966年〈昭和41年〉7月12日)は、日本の仏教学者、文学博士である。禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に紹介した。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。1949年に文化勲章、日本学士院会員。 名の「大拙」は居士号である。故に出家者ではない。生涯、有髪であった。同郷の西田幾多郎、藤岡作太郎とは石川県立専門学校以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は「加賀の三太郎」と称された。また、金沢時代の旧友である安宅産業の安宅弥吉は「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援した。
十文字 こと(じゅうもんじ こと、天保暦 明治3年11月10… 十文字 こと(じゅうもんじ こと、天保暦 明治3年11月10日 / グレゴリオ暦 1870年12月31日 - 1955年5月17日)は、日本の教育者である。十文字学園の設立者である。旧姓は高畑。