荒井 源太郎(あらい げんたろう、1895年〈明治28年〉1… 荒井 源太郎(あらい げんたろう、1895年〈明治28年〉10月22日 - 1975年〈昭和50年〉8月6日)は、愛媛県新居浜市の第5代市長(任期:1947年4月5日 - 1951年4月4日)。公選での初代市長となった。位階は従六位。 別子山村(現:新居浜市)の生まれで、目出度町(めったまち)と言われる鉱山町山方に生家があった。住友私立の小足谷小学校で学んだ。住友に勤務。1937年、第1回新居浜市会議員選挙に当選し2期務めた。1947年4月5日の市長選挙で市議会議長だった黒川雄之進と助役だった白石喜八を破り当選した。市長在任中は、戦後復興に尽力したが、任期中の1950年3月17日には新居浜市への昭和天皇巡幸があり、宮西小学校、日新化学(後の住友化学)、四国機械(後の住友重機械工業)などへの視察を先導している。
箕作 秋吉(みつくり しゅうきち、1895年10月21日 -… 箕作 秋吉(みつくり しゅうきち、1895年10月21日 - 1971年5月10日)は、日本のクラシック音楽の作曲家である。箕作元八の長男として東京都に生まれた。箕作阮甫の曾孫にあたる。東洋音楽大学教授。
吉永 義信(よしなが よしのぶ、1895年10月21日 - … 吉永 義信(よしなが よしのぶ、1895年10月21日 - 1985年4月3日)は、日本の庭園史家。文化財保護に通算54年の長きにわたって名勝、特に庭園の保存に携わった。広島県出身。 1919年(大正8年)第六高等学校(旧制)卒業。1922年(大正11年)東京帝国大学農学部農学科卒業。卒業論文は「大都市における公園墓地」。同年、大学院に進学。原煕に師事。内務省発行名勝調査報告第一集の庭園実測図をすべて担当。同大学農学大学院は1927年(昭和2年)3月まで在籍。かたわら、内務省から史蹟名勝調査のための委嘱をうけ、調査はその後文部省、文化庁と所轄がわたるが、引き続いて担当、1976年まで、古庭園の調査と指定にあたった。
初代納富 寿童(のうとみ じゅどう、1895年(明治28年)… 初代納富 寿童(のうとみ じゅどう、1895年(明治28年)10月20日 - 1976年(昭和51年)2月24日)は、日本の尺八演奏家、作曲家。流派は琴古流荒木派。本名は納富安治(のうとみ やすじ)。後に芸名を納富寿翁(のうとみ じゅおう)に改名。 1895年10月20日、佐賀県三養基郡土井内(当時南茂安村、後に三根町、現みやき町)で納富孫三郎の次男として生まれる。海軍中将・松永貞市(旧姓・納富)とその妻・イツヨとは親戚。イツヨは女学校生時代に中学生の寿童と叔母の家で一緒に過ごし、寿童について「尺八は中学生のころから吹いていました。上手か下手かはわかりませんでしたが、割合におとなしいほうで、私にも親切にしてくれました。
芳川 赳(よしかわ たけし、1895年10月20日 - 19… 芳川 赳(よしかわ たけし、1895年10月20日 - 1951年7月9日)は、美術評論家、作家。 長崎県島原市生まれ。長崎県立島原中学校(現長崎県立島原高等学校)、明治大学卒業、出版界に入り小説、評論などを書く。美術春秋社を興し、『美術春秋』『日本画傑作年鑑』等の編輯発行者となる。戦後は「美術鑑賞」を発行した。
瀬川 清子(せがわ きよこ、1895年(明治28年)10月2… 瀬川 清子(せがわ きよこ、1895年(明治28年)10月20日 - 1984年(昭和59年)2月20日)は日本の民俗学者。元大妻女子大学教授。秋田県出身。日本の女性民俗学者の草分けのひとり。 1895年(明治28年)に秋田県鹿角郡毛馬内町(現鹿角市)で岩船源太郎、スケ夫妻の長女として誕生する。本名はキヨ。母は、産後の肥立ちが悪く、キヨが1歳になる前に亡くなった。里子に出されたが、父が後妻を迎え、実家に戻った。その後は、同居している叔母や祖父がキヨの教育を行い、1909年(明治42年)、14歳の時に毛馬内尋常高等小学校を卒業。準教員検定準備場を経て、母校の小学校などに勤務したのち、1915年に尋常小学校本科正教員の免許を取得し,毛馬内小学校はじめ、いくつかの学校で訓導として働きながら、1917年(大正6年)には、同じく教師として働いていた瀬川三郎と結婚した。
佐藤 武雄(さとう たけお、1895年10月17日 - 19… 佐藤 武雄(さとう たけお、1895年10月17日 - 1958年7月1日)は、日本の法医学者。医学博士(1928年、東京帝国大学)。 長野県小県郡大門村(現長和町)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1922年東京帝国大学医学部卒業。1926年東京医学専門学校教授、1929年京城帝国大学教授、1944年に東京で行われた法医学会出席のため帰国し、そのまま郷里で終戦を迎えた。1948年旧制松本医学専門学校教授、同法医学教室主任教授、1950年校長兼信州大学医学部長、1954年学長を歴任した。 俳人としては「眉峰」と号し、高浜虚子に師事し、「ホトトギス」同人。京城時代に俳句結社「水砧」を主宰した。
川田 芳子(かわだ よしこ、1895年10月17日 - 19… 川田 芳子(かわだ よしこ、1895年10月17日 - 1970年3月23日)は、大正・昭和期の女優である。日本映画草創期の人気女優であった。 1895年(明治28年)10月17日、新潟市の花街・古町に踊りの市山流四代目 市山七十世師匠と、父原良一の娘として生まれた。11歳のとき、一家で上京し、長唄を五代目杵屋勘五郎に、舞踊を二代目藤間勘右衛門に師事した。新橋から芸妓になった後、川上貞奴に預けられ、「川上芳子」の芸名で貞奴一座の『八犬伝墨田の高楼』(帝国劇場)で初舞台を踏んだ。以降、貞奴と行動を共にし、新派の舞台で活躍した。 松竹の新派などを経て、1920年(大正9年)、その美貌をかわれて創立早々の松竹蒲田撮影所にスターとして迎えられる。
森川 仙太(もりかわ せんた、1895年(明治28年)10月… 森川 仙太(もりかわ せんた、1895年(明治28年)10月16日 - 1981年(昭和56年)12月27日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、和歌山県有田市長。位階は従五位。 和歌山県有田郡宮崎村(箕島町、有田町を経て現有田市新堂)で、森川仙太郎の二男として生まれる。1914年(大正3年)和歌山県立和歌山中学校(現和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)を卒業した。 柿本銀行に入行。簑島信用組合理事、日本除虫菊輸出組合理事、和歌山県除虫菊製品工業組合専務理事、帝国除虫菊取締役社長、北海道除虫菊工業取締役社長、紀ノ川製粉取締役社長、キング除虫菊取締役社長、北王製油取締役社長などを務めた。 1918年(大正7年)紀勢西線鉄道敷設期成同盟会幹事長に就任。
林 好次(はやし こうじ、1895年(明治28年)10月15… 林 好次(はやし こうじ、1895年(明治28年)10月15日 - 1959年(昭和34年)12月4日)は、昭和期の漁業経営者、政治家。衆議院議員、網走市名誉市民。 滋賀県 坂田郡春照村(伊吹村、伊吹町を経て現米原市)で生まれる。1918年(大正7年)網走に移住して雑貨店(林屋商店前身)を経営。1935年(昭和10年)ごろに水産不況に対応するため北洋出漁組合を結成して、鮭鱒漁で成果を収めた。網走漁業会長、北海道水産業会理事、林屋商会取締役、北見綜合木材取締役、藤林商会取締役社長、網走水産冷蔵取締役社長などを務めた。 網走町会議員、北海道会議員、網走市議会議長に在任。1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で北海道第5区から民主党所属で出馬して当選。
9代九鬼 紋七(くき もんしち、1895年(明治28年)10… 9代九鬼 紋七(くき もんしち、1895年(明治28年)10月13日 - 1990年(平成2年)11月17日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(1期)を務めた。旧名・徳三、号・寿園。 三重県出身。四日市で代々肥料商を営む大地主の長男として生まれる。家業を継いだ父親の先代紋七は三重県の多額納税者であり、九鬼産業の重役を務めた。1921年慶應義塾大学部理財科卒業。1927年に父親が死去し、家督を相続。英国留学、欧米視察の後、東洋紡績監査役、東洋電線監査役、日本無線電信取締役、三重銀行頭取などを務め、1942年の総選挙(いわゆる翼賛選挙)で翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後、日本進歩党に加入するが、推薦議員のため公職追放となる。
深瀬 基寛(ふかせ もとひろ、1895年10月12日 - 1… 深瀬 基寛(ふかせ もとひろ、1895年10月12日 - 1966年8月21日)は、日本の英文学者、翻訳家。京都大学名誉教授。 高知県吾川郡春野町(現高知市)生まれ。1916年第三高等学校卒、1919年東京帝国大学卒。1920年京都帝国大学大学院入学、中学校教諭ののち、1922年松江高等学校教授、1925年三高講師、1927年教授、49年京大教養部教授、1958年10月定年退官、名誉教授、南山大学教授。1966年大手前女子大学教授。没後従三位贈位勲三等瑞宝章受勲。 マシュー・アーノルドやT・S・エリオットの紹介、研究に努めた。1955年、『エリオット』で第6回読売文学賞受賞。若いころ湯浅芳子に恋していたことが瀬戸内寂聴『孤高の人』に書かれている。
小出 廉二(こいで れんじ、1895年10月11日 - 19… 小出 廉二(こいで れんじ、1895年10月11日 - 1994年12月14日)は、日本の法学者で、教育者。明治大学法学部の部長を務めた後、明治大学学長を勤めた。岡山県新見市出身。 生誕地は新見市中心部より約4km北に離れた地で、幼少期は中心部にある小学校まで毎日徒歩で通学したという。また農閑期に演じられる備中神楽を愛好し、自身も演じるに至った。 旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進み、縁戚の者の家に下宿して通学した。中学卒業後は旧制第一高等学校に進学した。一高進学の理由について、小出自身は小学校OBで進学した先輩からの影響と語っているほか、教え子の一人は小出の入学前に一高校長を務めていた新渡戸稲造への憧れがあったと記している。
山名 義芳(やまな ぎほう、1895年10月11日 - 19… 山名 義芳(やまな ぎほう、1895年10月11日 - 1960年3月26日)は、真宗大谷派僧侶、衆議院議員(1期)。 兵庫県出身。1920年大谷大学を卒業。僧侶となり少年保護司などとして活動。岐阜教務所、高岡教務所、神戸教務所、富山教務所の所長を歴任し、大谷派教学顧問に就任を経て鹿児島教務所長になった。 政治家としては第23回衆議院議員総選挙に民主自由党から兵庫県第4選挙区で立候補し当選。国会では花まつりを祝日にするよう求める請願を行なった。
井口 良二(いぐち りょうじ、1895年〈明治28年〉10月… 井口 良二(いぐち りょうじ、1895年〈明治28年〉10月11日 - 1991年〈平成3年〉12月14日)は、日本の実業家。日東製粉社長。三菱商事常務取締役。衆議院議員岸田文武の義父。衆議院議員で第27代自由民主党総裁かつ第100代内閣総理大臣岸田文雄の母方の祖父。 佐賀県唐津市に生まれる。井口兆之助の二男。1919年、東京高等商業学校(現・一橋大学)本科卒業。三菱商事に入社。本店、倫敦、スラバヤ、神戸、大阪各支店に勤務。同社常務、旭交易、日東製粉各社長などをつとめた。 1991年12月14日に死去。享年96歳。墓所は青山霊園。 趣味は園芸、音楽、屋外運動。宗教は仏教。住所は東京都渋谷区神宮前六丁目穏田マンション内、世田谷区羽根木。
小川 とわ(1895年10月10日 - 1964年5月25日… 小川 とわ(1895年10月10日 - 1964年5月25日)は、日本の実業家。位階は従六位。勲等は勲五等。元トンボ鉛筆会長。 創業者である小川春之助の妻。 1895年(明治28年)10月10日、旧東京市芝区に生まれる。1912年(明治45年)、17歳で小川春之助と結婚。夫の父小川作太郎は鉛筆を作る職人で自前の鉛筆工場を持っていた時期もあり、親族にも鉛筆業者が多かった。 1913年(大正2年)夫、春之助が浅草瓦町(現東京都台東区柳橋)に「小川春之助商店」を開業。当初は文房具類一式を扱っていたが、次第に鉛筆の製造販売に注力した。 とわは会社創業期には経理を手伝う傍ら宣伝広告などを担当した。1935年にはとわの人脈を通じて日本劇場(日劇)に緞帳をトンボ鉛筆が寄納して世間の注目を集めた。
桑原 支那吉(くわばら しなきち、1895年(明治28年)1… 桑原 支那吉(くわばら しなきち、1895年(明治28年)10月7日 - 1945年(昭和20年)4月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。広島県出身。
源 豊宗(みなもと とよむね、1895年10月7日 - 20… 源 豊宗(みなもと とよむね、1895年10月7日 - 2001年1月17日)は、日本を代表する日本美術史家、文学博士。専門は仏教美術史。 関西学院大学教授、帝塚山学院大学教授などを歴任。1952年から1976年まで文化財保護審議会専門委員を務めた。著書に「日本美術史論究」、「日本美術史図録」、「大徳寺」などがある。元大阪芸術大学教授で文芸評論家の源高根は息子。 福井県武生市(現:越前市)に生まれる。1918年、曹洞宗大学(のちの駒澤大学)卒業。その後、京都帝国大学に進み、1925年京都帝国大学文学部美学美術史科卒業。在学中から仏教美術に関心を持っていた。源 豊秋の筆名で論文「気比神社の桃太郎彫刻」(1923年)を発表。
加藤 弘造(かとう こうぞう、1895年(明治28年)10月… 加藤 弘造(かとう こうぞう、1895年(明治28年)10月7日 - 1982年(昭和57年)7月28日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、静岡県志太郡島田町長。 静岡県志太郡島田町本通り(現島田市)で、木材業、加藤商事会社・加藤友吉の四男として生まれる。1916年(大正5年)早稲田大学予科 を卒業した。 家業の加藤商事会社社員となる。1920年代に、廓潰運動、部落解放運動、無政府運動に係わり、静岡県水平社などに資金援助を行った。1931年(昭和6年)静岡県会議員に選出され3期在任し、参事会員も務めた。1934年(昭和9年)島田町長に就任し3期在任した。日中戦争に出征し陸軍中尉となる。
中山 栄一(中山 榮一、なかやま えいいち、1895年10月… 中山 栄一(中山 榮一、なかやま えいいち、1895年10月7日 - 1976年8月21日)は、日本の政治家。衆議院議員。 群馬県出身。早稲田大学商学部卒業。龍ケ崎町会議員、茨城県会議員、同参事会員などを歴任。 1946年、戦後初の衆院選に茨城県選挙区から無所属で立候補し当選。その後、公職追放となり、追放解除後は旧茨城県第1区において第25回・第27回・第29回・第30回・第31回総選挙で当選し、衆議院議員を通算6期務めた。1969年12月の第32回総選挙には立候補せず引退。 その後、石橋内閣・第1次岸内閣の北海道開発政務次官、第1次佐藤内閣の行政管理政務次官、衆議院災害対策特別委員会理事、衆議院農林水産委員会委員などを歴任した。
蜂谷 輝雄(はちや てるお 1895年10月4日 - 197… 蜂谷 輝雄(はちや てるお 1895年10月4日 - 1979年7月2日)は、日本の外交官。自由インド仮政府初代公使や内閣総理大臣秘書官を務めた。
杉村 廣藏(すぎむら こうぞう、1895年10月3日 - 1… 杉村 廣藏(すぎむら こうぞう、1895年10月3日 - 1948年1月8日)は、経済哲学者。旧制東京商科大学(一橋大学の前身)助教授や予科教授を務めていたが、白票事件と呼ばれる学内抗争に巻き込まれ大学を退職したのち、三菱商事監査役等を務めたが早世した。師の左右田喜一郎とともに経済哲学の創始者とされる。東京商科大学経済学博士。 北海道函館生まれ。函館商業学校(現北海道函館商業高等学校)本科を経て、1915年東京高等商業学校(一橋大学の前身)予科に進み、同本科や専攻部で左右田喜一郎や三浦新七に師事する。 1921年同校専攻部卒業、商学士。同年旧制東京商科大学(東京高等商業学校から大学に昇格、新制一橋大学の前身)助手、1923年同大学助教授就任。
岩城 秀哉(いわき ひでや、1895年10月2日 - 没年不… 岩城 秀哉(いわき ひでや、1895年10月2日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は中家 秀一(なかや ひでかず)。旧芸名は岩城 秀雄(いわき ひでお)。 1895年(明治28年)10月2日、兵庫県神戸市山本通(現在の同県同市中央区山本通)に生まれる。関西学院中学部卒業後、早稲田大学英文科に進学する。 早稲田大学2年修了(中退)後、海運業輸出部主任を務めていたが、1917年(大正6年)、岩城秀雄という芸名で新国劇創立と共に同劇団に入団。以降、主に端役・脇役として出演するが、1922年(大正11年)頃からは岩城秀哉と改名して活動している。1924年(大正13年)1月、帝国キネマへ入社。同年2月7日に公開された佐藤紅緑原作の松本英一監督映画『大盗伝』や、同年4月2日に公開された若山治監督映画『肉弾』など、悪役俳優として活躍していたが、出演配役に岩城の名前は見当たらず、岩城自身も少々不平があったようである。
熊谷 憲一(くまがい けんいち、1895年(明治28年)10… 熊谷 憲一(くまがい けんいち、1895年(明治28年)10月2日 - 1956年(昭和31年)10月9日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、北海道庁長官、衆議院議員。 福岡県出身。裁判所吏員・熊谷澄の長男として生まれる。小倉中学、第五高等学校を経て、1920年(大正9年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。1919年(大正8年)10月、高等試験行政科試験に合格し、1920年(大正9年)10月、農商務省に入り農商務属となり工務局労働課兼工務課勤務となる。1922年(大正11年)11月、内務省に転じ内務省社会局属として第二部保険課に配属された。その後、保険部経理課長、社会局庶務課長、大臣官房会計課長、厚生省職業部長などを歴任。
高畠 達四郎(たかばたけ たつしろう、1895年10月1日 … 高畠 達四郎(たかばたけ たつしろう、1895年10月1日 - 1976年6月26日)は、日本の画家。独立美術協会会員。1952年2月に「暮色」で毎日芸術賞を受賞。
緒方 久人(おがた ひさと、1895年10月1日 - 197… 緒方 久人(おがた ひさと、1895年10月1日 - 1970年)は、日本の柔道家(講道館9段)。 広島県呉市にて戦前の海軍はじめ各所で半世紀以上に渡り柔道指導を行い、広島市を中心に活動した倉田太一と共に県下柔道界の大家としてその振興・普及に尽力した。 福岡県の久留米市に生まれた。幼少時より扱心流の柔術を学び、旧制中学校を卒業後に上京して1912年3月に講道館へ入門。返し技(当時は“裏技”と言った)の名手として名高い高橋数良の元で専心修行し、ここで返し技に不可欠な足技を磨き終生の武器として会得した。 1914年2月に初段を許されると、翌1915年に郷里・久留米の憲兵隊柔道教師を拝命し、1918年5月には恩師高橋の斡旋により2段格として呉鎮守府海兵団および江田島海軍学校の柔道教師に着任した。
高田 雅夫(たかた まさお、1895年9月30日 - 192… 高田 雅夫(たかた まさお、1895年9月30日 - 1929年5月24日)は、日本の舞踊家である。浅草オペラの時代(1917年 - 1923年)に、赤坂のローヤル館、松竹の新星歌舞劇団、根岸興行部の根岸大歌劇団等で活躍した。本名は中村 輝義。石井漠と並ぶ日本洋舞界の開拓者。 鹿児島県鹿児島市新屋敷通町出身。父・軍助は、欧州航路で初の機関長になった人物。鹿児島市立松原小学校在学中に父が死亡し、姉妹とともに母一人によって育てられる。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)卒業。中学の同窓の友人に安藤照や谷口午二がいる。 旧制中学卒業の頃に上京し、1913年(大正2年)、試験に合格して帝国劇場歌劇部に第二期生として入る。
桂川 力蔵(かつらがわ りきぞう、1895年9月30日 - … 桂川 力蔵(かつらがわ りきぞう、1895年9月30日 - 1955年1月7日 )は、青森県東津軽郡野内村(現在の青森市)出身で入間川部屋に所属した元大相撲力士。本名は根井 蔵次郎。最高位は東十両5枚目。 1916年入間川部屋に入門、同年5月場所「中ノ汐」の四股名で初土俵を踏む。翌1917年1月場所から「桂川」に改名した。1921年1月場所新十両。この場所は3勝2敗と勝ち越した。場所後の台湾巡業に向かう途中、左目が急に痛み出し、急遽治療のため日本に戻った。診察の結果原因は不明だった。その後は治療に専念したが5月場所は全休。病状が悪化しついに失明した。失明により相撲が取れなくなったため、この場所限りで廃業した。
桑鶴 実(くわつる みのる、1895年〈明治28年〉9月29… 桑鶴 実(くわつる みのる、1895年〈明治28年〉9月29日 - 1962年〈昭和37年〉6月27日)は、日本の政治家。鹿児島県谷山市(現・鹿児島市の一部)初代市長(市制施行時の町長)。 鹿児島県谿山郡谷山村(のち鹿児島郡谷山村→谷山町→谷山市、現・鹿児島市)和田(のち和田町、現・和田)森山出身。鹿児島商業学校(現・鹿児島商業高等学校)を経て、日本大学を卒業する。東京府の職業補導所の助手となり、その後、渡米し、コロンビア大学で社会科学を学んだ。39歳で帰国し、理化学研究所に勤務し、理研朝鮮鎮南浦(現・南浦特別市)工場の総務部長となり、同地で終戦を迎えた。引き揚げ後は、米軍政部の経済技術員となり、理研の搾油機械の販売を行っていた。
渋谷 清見(しぶや きよみ、1895年9月27日 - 198… 渋谷 清見(しぶや きよみ、1895年9月27日 - 1985年2月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 高知県出身。渋谷周・茂兎夫妻の息子として生れる。海南中学校を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第29期)を受験し、双方に合格している。1917年(大正6年)11月、海軍兵学校(45期)を卒業。1918年(大正7年)8月、海軍少尉任官。海軍大学校で航海学生として学ぶ。 1923年(大正12年)12月、「澤風」航海長となり、「沖風」航海長、「第17号駆逐艦」艤装員、「大泊」「安宅」「鶴見」「迅鯨」「川内」の各航海長を歴任し、1929年(昭和4年)11月、海軍少佐に昇進。 1931年(昭和6年)12月、「由良」航海長に転じ、「青葉」「磐手」の各航海長、横須賀鎮守府付、海軍航海学校教官などを務める。
平田 佐矩(ひらた すけのり、1895年(明治28年)9月2… 平田 佐矩(ひらた すけのり、1895年(明治28年)9月26日 - 1965年(昭和40年)12月6日)は、富田一色平田家の4代目当主。平田紡績の4代目社長。2代目平田佐次郎の三男。富洲原町会議員を経て、第11代四日市市長も務めた。実業家(平田紡績社長)に加えて趣味として和歌や短歌を創作する歌人・俳句を創作する俳人などの文芸活動をする文化人でもあった。四日市コンビナートを誘致して四日市市(四日市港周辺の臨海部)を重工業化させた功労者である反面、四日市ぜんそくを発生させた四日市公害の責任者でもある。 三重県三重郡富洲原村(現在の四日市市富田一色地区)出身で平田紡績家当主の2代目平田佐次郎の三男として出生する。
内ヶ﨑 贇五郎(うちがさき うんごろう 1895年(明治28… 内ヶ﨑 贇五郎(うちがさき うんごろう 1895年(明治28年)9月25日 – 1982年(昭和57年)9月22日)は、日本の実業家。 宮城県黒川郡富谷町(現・富谷市)に造り酒屋の家に生まれる。父は富谷村長を務めた内ヶ崎儀左衛門。一族には、政治家で衆議院議長を務めた内ヶ崎作三郎がいる。 旧制第二高等学校から東京帝国大学工学部電気工学科に進み、1919年(大正8年)に大阪電燈に入社。大阪電燈が大阪市営になって後は大同電力に移り、第二次世界大戦時に設立された日本発送電東北支店長・東北配電社長を歴任し電力事業に一貫して携わった。 1951年(昭和26年)5月1日、第二次世界大戦後の電力事業再編に伴う、日本発送電・東北配電の解体・改組に伴い設立された東北電力の初代社長に就任。
谷口 茂寿(たにぐち しげとし、1895年9月25日 - 1… 谷口 茂寿(たにぐち しげとし、1895年9月25日 - 1973年6月25日)は、日本の牧師。 1895年、大阪で生まれる。組合派の大阪天満教会にて受洗を務めながら、1916年に京都帝国大学入学。在学中に内村鑑三主筆の「聖書の研究」に触れ、内村鑑三の教えを受けることを願って東京帝國大学へ転入して上京。1918年1月より内村鑑三の集会である今井館に出席を許される。1920年、転入した東京帝國大学を卒業。三菱造船株式会社(現三菱重工業株式会社)に入社、神戸造船所に赴任。その後三菱合資会社に転任するが、再び上京し本郷駒込追分町に住む。1923年、三菱合資会社退社。文書伝道者としての活動を開始する。本郷神の教会牧師に就任し、教会内に日本聖書学校を設立、校長に就任。
有馬 正文(ありま まさふみ、1895年〈明治28年〉9月2… 有馬 正文(ありま まさふみ、1895年〈明治28年〉9月25日 - 1944年〈昭和19年〉10月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 1895年9月25日、鹿児島県日置郡中伊集院村(現日置市伊集院地域)に生まれる。1902年4月1日、鹿児島県立師範学校附属尋常小学校入学。1906年(明治39年)4月1日、伊集院村立伊集院尋常高等小学校入学。1908年(明治41年)4月1日、鹿児島県立第一鹿児島中学校入学。1912年(大正元年)8月31日、鹿児島県立第一鹿児島中学校の5年次に中途退学。9月9日、海軍兵学校第43期入校。入校時成績順位は100名中第51位。同期生の高木惣吉を終始兄のように慕い、有馬の長女百合子の結婚(相手は後に第9代海上幕僚長となる石田捨雄)では、高木夫妻を半ば強引に口説き落とし仲人を依頼した。
野村 光一(のむら こういち、1895年9月23日 - 19… 野村 光一(のむら こういち、1895年9月23日 - 1988年5月22日)は、日本の音楽評論家。 娘の輝子は東京藝術大学ピアノ科を卒業し、谷崎潤一郎の娘にピアノを教えていたが、安田善次郎の曾孫で建築設計士の安田紫気郎と結婚した。遠縁に佐々木勇之助(佐々木の妻の兄の養子が光一の父)
村田 治郎(むらた じろう、1895年9月23日 - 198… 村田 治郎(むらた じろう、1895年9月23日 - 1985年9月22日) は、建築史家。京都大学名誉教授、明石工業高等専門学校名誉教授。 1895年、山口県大島郡で生まれた。幼少期は郷里である同地で過ごし、中学校校長の父の転勤に伴って中学校入学の際に兵庫に出て、1912年に兵庫県立第一神戸中学校に入学。1917年より第一高等学校第二部甲類で学び、1920年7月に卒業。同年、京都帝国大学工学部建築学科に入学。建築学科は同年に新設された学科であり、武田五一、日比忠彦、天沼俊一教授の教育体制で14名の学生が在籍した。1923年3月、京都帝国大学工学部建築学科を卒業し、1年間の兵役に就いた。卒業論文は『新羅瓦塼雑考』。
福原 麟太郎(ふくはら りんたろう、1894年10月23日 … 福原 麟太郎(ふくはら りんたろう、1894年10月23日 - 1981年1月18日)は、日本の英文学者、随筆家、翻訳家。福山市名誉市民。 1894年、広島県沼隈郡神村(現・福山市)で生まれた。1912年、広島県立福山中学校(現・福山誠之館高校)を卒業し、東京高等師範学校英語科に進学した。在学中、G・K・チェスタトンの推理小説を訳し、『英語青年』に掲載。1917年に卒業。 1917年9月から翌1918年3月まで、静岡県立静岡中学校に英語教諭として赴任。1920年、東京高等師範学校研究科を修了。この間、『英語青年』の編集に携わった。 1921年、母校の東京高等師範学校助教授に就いた。著書、訳註を何冊か刊行した後、1929年に文部省在外研修員としてイギリス・ロンドン大学とケンブリッジ大学に留学し、トマス・グレイ作品を研究。
今枝 蝶人(いまえだ ちょうじん、1894年(明治27年)1… 今枝 蝶人(いまえだ ちょうじん、1894年(明治27年)10月22日 - 1982年(昭和57年)9月17日)は、徳島県出身の俳人。句碑が徳島市、鳴門市にあり、徳島県立文学書道館3階の文学常設展示室で、徳島ゆかりの文学者として紹介されている。 徳島県内に句碑等は4か所ある。第一第二は生前に、第三以下は蝶人没後に建立された。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
江戸川 乱歩(えどがわ らんぽ、旧字体:江戶川 亂步、189… 江戸川 乱歩(えどがわ らんぽ、旧字体:江戶川 亂步、1894年〈明治27年〉10月21日 - 1965年〈昭和40年〉7月28日)は、日本の推理作家、怪奇・恐怖小説家、アンソロジスト。日本推理作家協会初代理事長。位階は正五位。勲等は勲三等。ペンネームの由来は、小説家のエドガー・アラン・ポーのもじり。本名は平井 太郎(ひらい たろう)。 大正から昭和期にかけて活躍し、主に推理小説を得意とした。また、第二次世界大戦後は推理小説分野を中心に評論家や研究家、編集者としても活躍した。乱歩の寄付で創設された江戸川乱歩賞が推理作家の登竜門となるなど、後世にも大きな影響を与えた。 1894年(明治27年)、三重県名賀郡名張町(現・名張市)で名賀郡役所書記の平井繁男・きくの長男として生まれる(本籍地は同県津市)。
竹内 勝太郎(たけうち かつたろう、1894年〈明治27年〉… 竹内 勝太郎(たけうち かつたろう、1894年〈明治27年〉10月20日 - 1935年〈昭和10年〉6月25日)は日本の詩人。日本の象徴詩を確立したと評される。 京都府京都市生まれ。私立清和中学校(立命館中学の前身)を中退。東京へ出て、三木露風に師事。独学で自然科学、哲学などを学び、文学を一生の業と考える。フランスの象徴派詩人ステファヌ・マラルメに影響を受け象徴詩の世界へ。 1915年から京都基督教青年会の夜学でフランス語を学ぶ。その後、日出新聞社の市政記者、大正日日新聞社の市政・美術担当記者、大阪時事新報の記者となる。 1928年には知友の支援を受けフランスに渡る。ポール・ヴァレリーに傾倒し、その詩技法は「美を破壊する美」へと変化していく。
渡辺 武次郎(わたなべ たけじろう、1894年(明治27年)… 渡辺 武次郎(わたなべ たけじろう、1894年(明治27年)10月20日 - 1997年(平成9年)12月4日)は日本の実業家。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問 。三菱地所の社長や会長を22年間務め、三菱地所中興の祖と呼ばれた。 岡山県矢掛町出身。1918年東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業し、三菱合資会社入社。 1937年三菱地所に転籍し、経理部長、取締役、常任監査役等を経て、1952年から1969年まで社長、1969年から1974年まで会長、1974年から1988年まで取締役相談役、1988年から1997年まで相談役を務めた。会長退任後も、中興の祖として実質的な人事権を握っていたとされる。
稲浦 鹿蔵(稲浦 鹿藏、いなうら しかぞう、1894年(明治… 稲浦 鹿蔵(稲浦 鹿藏、いなうら しかぞう、1894年(明治27年)10月19日 - 1978年(昭和53年)3月30日)は、昭和時代の土木工学者、内務官僚、建設事務次官、参議院議員。 三重県に生まれる。1924年(大正13年)京都帝国大学工学部土木工学科を卒業し、内務省神戸土木出張所に入り、神戸高等工業学校講師を兼任する。1935年(昭和10年)大阪府土木部河港課長に転じ、前年の室戸台風の災害復旧として河川の防潮工事などを進めた。1942年(昭和17年)青島埠頭常務取締役に就任し、青島港の整備に当たり、終戦を迎えると兵庫県土木部長、建設技監を経て、1952年(昭和27年)建設事務次官に就任した。
加藤 常賢(かとう じょうけん、1894年10月19日 - … 加藤 常賢(かとう じょうけん、1894年10月19日 - 1978年8月3日)は、中国古代学者、東京大学文学部名誉教授。東大退官後は二松学舎大学文学部中国文学科教授。号は「維軒」。 1894年、愛知県中島郡大里村で生まれた。第八高等学校を経て、東京帝国大学文学部に進んだ。支那哲学文学科で学び、1920年に卒業。 卒業後は、静岡高等学校教授に就いた。その後、京城帝国大学として勤務。1933年、広島文理科大学教授となった。1938年(昭和13年)、学位論文『爾雅釈親を通じて見たる支那古代家族制度研究』を東京帝国大学に提出して文学博士号を取得。 1947年(昭和22年)、高田眞治の公職追放による退職に伴って東京帝国大学中国哲学科教授となった。
岩村 一木(いわむら ひとき、1894年(明治27年)10月… 岩村 一木(いわむら ひとき、1894年(明治27年)10月19日 - 1968年(昭和43年)12月16日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京市小石川区、現在の東京都文京区千石2丁目35番地で、貴族院勅選議員・岩村通俊の八男として生まれる。1915年(大正4年)長兄岩村八作の養子となり、その死去に伴い1924年(大正13年)9月1日、男爵を襲爵した。 京北中学校を経て、1917年(大正6年)東京農業大学高等科を卒業。以後、臨時産業合理局過燐酸肥料改善委員会幹事、人造肥料連合会理事、燐酸肥料工業組合常務理事、日本藁工品配給監査役、肥料配給公団総裁、農林水産奨励会副会長などを務めた。
田中 実司(たなか じつじ、1894年10月18日 - 19… 田中 実司(たなか じつじ、1894年10月18日 - 1980年11月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 本巣郡西郷村(現・岐阜市)生まれ。岐阜商工会議所議員、所得税調査員、岐阜県商工経済監事、岐阜県繊維製品配給(株)取締役、同県繊維製品統制(株)社長、田幸紡績(株)取締役会長、協和興業(株)取締役、(株)新岐阜百貨店常任監査役、岐阜繊維問屋街連合会長を歴任する。 1930年に洋服店を開業した。1942年に岐阜市会議員となった。 1946年の第22回衆議院議員総選挙において岐阜県全県選挙区から日本自由党公認で立候補して当選する。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において岐阜1区で自由党公認で立候補したが落選。
重見 伊三雄(しげみ いさお、1894年(明治27年)10月… 重見 伊三雄(しげみ いさお、1894年(明治27年)10月15日 - 1945年(昭和20年)1月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 本籍山口県。東京府で重見熊雄陸軍中将の二男として生まれる。早稲田中学校(現早稲田中学校・高等学校)、陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し歩兵第49連隊付となる。同年12月、歩兵少尉に任官した。 1922年(大正11年)2月、陸士予科生徒隊付となり、歩兵第49連隊中隊長、第1戦車隊副官、第1戦車隊付を経て、1932年(昭和7年)2月、独立戦車第2中隊長に発令され第一次上海事変に出動した。
板垣 鷹穂(いたがき たかお/たかほ、1894年(明治27年… 板垣 鷹穂(いたがき たかお/たかほ、1894年(明治27年)10月15日 - 1966年(昭和41年)7月3日)は、美術評論家。西洋美術史の研究者として、その業績を著作に残す。また、明治以降から同11年代までの日本近代建築についての論評をはじめ、映画、写真など新たな美術領成をメディア論として論じた草分け的存在でもあった。 モダニズム研究で文芸、美術、建築、文学にまで射程は広い。終戦後に早稲田大学文学部教授となり、最晩年まで教鞭を取った。ほか明治大学教授、東京写真大学教授を歴任した。 東京神田生まれ。文芸評論家の平山直子(板垣直子)と結婚。 1915(大正4)年、第一高等学校第二部退学後、東京帝国大学文科大学哲学科の選科生として西洋美術史を学ぶ。
岸 一郎(きし いちろう、1894年(明治27年)10月13… 岸 一郎(きし いちろう、1894年(明治27年)10月13日 - 1969年(昭和44年)4月3日)は、日本の野球選手、監督。 福井県敦賀市松原出身。旧制早稲田中学(現・早稲田中学・高校)、早稲田大学、満鉄(満州倶楽部)で一貫してエースを務め、極東選手権競技大会でも活躍した。早大時代のチームメイトである市岡忠男は「早大時代は沢村栄治に匹敵する投手であり、満洲の野球が強くなったことにも岸君の力は大きく貢献している」と戦前の大選手であることを証言している。1918年に満鉄が、当時日本一と言われた一高と二試合して二度とも破ったとき、どちらの試合でも岸は好投し、対戦した内村祐之から投手として高い評価を受けている。
田中 冬二(たなか ふゆじ、1894年〈明治27年〉10月1… 田中 冬二(たなか ふゆじ、1894年〈明治27年〉10月13日 - 1980年〈昭和55年〉4月9日)は、日本の詩人である。本名は吉之助。 銀行員として働きつつ、郷愁をテーマに多くの詩作を行う。専ら旅を題材とした詩を作り、山国や北国の自然、日常生活を初々しい感覚で表現した叙情詩集「青い夜道」(昭和4年)を発刊。多作ではなくマイナーポエットとも評されるが、一貫して日本の自然や生活に根ざした詩を作り続け、吉行淳之介は象徴的に「青い夜道の詩人」と評している。詩作のほか散文や俳句も手がけている。堀口大學らと交友関係があった。 銀行員だった父吉次郎と、母やゑの長男として福島県福島市栄町に生まれた。1901年(明治34年)に父が、1906年(明治39年)には母が相次いで亡くなったため、上京して叔父・安田善助のもとで養育される。
平岡 梓(ひらおか あずさ、1894年〈明治27年〉10月1… 平岡 梓(ひらおか あずさ、1894年〈明治27年〉10月12日 - 1976年〈昭和51年〉12月16日)は、日本の農商務・農林官僚。内務官僚・平岡定太郎の長男。作家・三島由紀夫の父。少年時代の三島の執筆活動に大反対し、あえて悪役を買って出たことで、三島の反骨精神を目覚めさせて作家としての成長を間接的に助けた。息子・三島の死後は、その毒舌的なシニカルさや、ブラック・ユーモアの入り交ざった回想録『伜・三島由紀夫』を著し、貴重な三島資料を残したことで知られる。 1894年(明治27年)10月12日、東京府東京市赤坂区の日枝神社参道入口付近の家で、父・平岡定太郎(内務官僚)と母・永井なつ(東京府士族・大審院判事・永井岩之丞の長女)との間の長男として誕生。