森 銑三(もり せんぞう、1895年(明治28年)9月11日… 森 銑三(もり せんぞう、1895年(明治28年)9月11日 - 1985年(昭和60年)3月7日)は、昭和期日本の在野の歴史学者、書誌学者。愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)出身。 高等教育を経験しなかったにもかかわらず、図書館臨時職員、代用教員、雑誌社勤務など様々な職につきながら、独学で文学・国史の研究にいそしみ、図書館・資料館等に保管された資料の発掘と、それらを元に人物伝や典籍について精密に記した膨大な量の執筆活動を通じ、近世日本の文化・文芸関係の人物研究の分野で多大な業績を残した。 愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)に出生。生家は呉服商。沢山の小説本を買い与えられ、文学に親しむ。刈谷尋常小学校時代は利発で学業に秀でていたが、刈谷には旧制中学校が設立されておらず、中学校進学を希望するならば近隣の岡崎で下宿する以外になかった。
前田 孝次郎(まえだ こうじろう、1895年〈明治28年〉9… 前田 孝次郎(まえだ こうじろう、1895年〈明治28年〉9月10日 - 没年不明)は、日本の銀行家。旧姓・松本。 島根県能義郡安田村(現・安来市)の農家、松本家に生まれる。島根県能義郡立農業学校を卒業する。鳥取米子の前田家に入る。 1919年に山陰実業銀行に入り雲陽実業銀行、松江銀行勤務を経て1939年に山陰合同銀行業務部次長となり総務業務各部長を歴任、1944年に取締役業務部長に推され、同年10月に業務部長を解かれ、1946年10月に常務に進み、審査部長委嘱、1961年に監査役に就任する。 高額所得者である。米子の自宅では100本もバラを栽培して余生を楽しんだ。趣味は書画。住所は鳥取県米子市久米町。
中村 敬之進(なかむら けいのしん、1895年(明治28年)… 中村 敬之進(なかむら けいのしん、1895年(明治28年)9月9日 - 1978年(昭和53年)4月12日)は、日本の内務・警察・厚生官僚。官選愛媛県知事、厚生次官。 山口県出身。中村藤左衛門の二男として生まれる。山口県立山口中学校、第一高等学校を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年3月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年4月、内務省に入省し福岡県属となり内務部庶務課勤務となる。 1927年5月、福岡県警視・警察部保安課長に就任。以後、神奈川県警察部勤務、兵庫県警察部特別高等警察課長、地方事務官・京都府勤務、内務事務官・警保局勤務、警務官、内務書記官・警保局図書課長、内閣調査局調査官、企画庁調査官、同次長心得、企画院内政部長、同第三部長、内務事務官・警保局保安課長を歴任。
四宮 久吉(しのみや ひさきち、1895年9月8日-1980… 四宮 久吉(しのみや ひさきち、1895年9月8日-1980年11月10日)は、日本の政治家であり弁護士。徳島県石井町出身。位階および勲等は、従四位・勲二等。 医師の書生として明治大学を卒業後、弁護士となる。 東京府会議員(3期)、東京都議会議員(文京区選出・5期)、東京都議会議長、全国都道府県議会議長会会長をへた後鳩山一郎の後見を得て、文京区で衆議院議員として第30回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第31回までの6年間を衆議院議員として国政に携わる。この間、青色申告や戦後帰還事業、競艇事業の推進に貢献し、中曽根康弘の最初の派閥メンバーとして参画したのちに引退。 最終的に都議会議員時代に秘書であった深谷隆司に議席を譲る。
八木 あき(やぎ - 、1895年9月6日-1983年4月3… 八木 あき(やぎ - 、1895年9月6日-1983年4月30日)は日本の社会運動家。「八木秋子」のペンネームで活動した。
額田 坦(ぬかた ひろし、1895年〈明治28年〉9月5日 … 額田 坦(ぬかた ひろし、1895年〈明治28年〉9月5日 - 1976年〈昭和51年〉9月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 医師・額田篤太の三男として生れる。岡山一中、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第54連隊付となる。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業した。 歩兵第40連隊中隊長、教育総監部付勤務、教育総監部課員、ドイツ駐在、陸軍歩兵学校教官などを歴任。1936年(昭和11年)12月、陸軍省人事局課員となり、人事局補任課長、独立歩兵第11連隊長、陸士生徒隊長などを経て、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に昇進した。
牧野 康熙(まきの やすひろ、1895年(明治28年)9月4… 牧野 康熙(まきの やすひろ、1895年(明治28年)9月4日 - 1944年(昭和19年)11月24日)は、大正から昭和時代にかけての華族。小諸藩牧野家13代当主。子爵。従四位。 嵯峨公勝・南加の二男。初名は次郎。牧野康強の養子となり康熙と改名する。1918年(大正7年)中央大学商科を卒業し、1919年(大正8年)横浜正金銀行に勤務する。1929年(昭和4年)家督を相続する。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属し死去するまで在任した。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
中館 耕蔵(なかだて こうぞう、1895年(明治28年)9月… 中館 耕蔵(なかだて こうぞう、1895年(明治28年)9月3日 - 1982年(昭和57年)8月21日)は、日本の音楽マネージャー、学校法人経営者。現・国立音楽大学の創立者の一人。一部に姓を中舘とする記載もあるが、国立音楽大学の記載に従って中館と記す。 岩手県上閉伊郡遠野町(現・遠野市)に生まれる。1910年(明治43年)学業を終えると、同年7月から1913年(大正2年)7月まで岩手県上閉伊郡土淵尋常高等小学校教員として勤務するが、職を辞して上京する。中館が小学校教師を辞し上京したいきさつについての詳細な記録は残っていないものの、上京後、遠縁の紹介で神田の東京楽友会でヴァイオリンを習い、日本における音楽マネージメントの草分け的な仕事を始める(1915年(大正4年)に神田の学友会有志で音楽会を行うことになり、地方のまとめ役を担い、高崎(ここで中館と小林宗作との交流が生まれた。
木口 九峰(きぐち きゅうほう、本名:木口房四郎、1895年… 木口 九峰(きぐち きゅうほう、本名:木口房四郎、1895年(明治28年)9月1日 - 1969年(昭和44年)11月26日)は、昭和時代の彫刻家。烏城彫(うじょうぼり)の創始者で、昭和天皇に作品を2度献上したほか、身体障害者の自立更生事業としてその製作指導に当たった。 岡山県下道郡久代村大字山口(現・総社市久代)に生まれる。久代尋常高等小学校卒業後、両親を手伝い農業に従事する一方で華道・茶道および尺八を稽古していた。1912年(大正8年)に調律師として働き始めるが、趣味の華道や茶道で使用する道具を彫り作るうちに木彫に傾倒して彫刻家に転職し、1927年(昭和2年)には自分の作品に岡山城の別称である「烏城」を付けて「烏城彫」と命名して宗家を称し、1940年(昭和15年)に烏城彫研究所を岡山市丸亀町に開所する。
岡田 紅陽(おかだ こうよう、1895年8月31日 - 19… 岡田 紅陽(おかだ こうよう、1895年8月31日 - 1972年11月22日)は、日本の写真家。本名は賢治郎。 主に山岳写真、風景写真を撮影した。全国の国立公園の撮影にもあたり、海外にも知られた。富士山の撮影をライフワークとし、その作品は切手や紙幣にも採用されている。 新潟県中魚沼郡中条村(現在の十日町市)に、衆議院議員岡田龍松の三男として生まれる。兄に岡田正平(新潟県会議員・新潟県知事)がいる。曾祖父の喜兵衛(岡田香雪)、祖父の栄蔵(岡田雪洞)、父の龍松(耕雲)も書画に名を残している。 1914年、早稲田大学予科に入学。友人からカメラを借りて富士山を撮影したのが、ライフワークとなる富士山との付き合いはじめという。
長崎 次郎(ながさき じろう、1895年8月30日 - 19… 長崎 次郎(ながさき じろう、1895年8月30日 - 1954年10月2日)は長崎書店の店主、新教出版社の初代社長である。号は雑草生。兄は教育家の長崎太郎。 1895年(明治28年)に高知県安芸町に生まれる。安芸中学を卒業し、百島操牧師の助言により、1913年(大正2年)に東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)に入学する。植物学を専攻する。 1916年(大正5年)に日本基督札幌教会(現・日本基督教団札幌北一条教会)で高倉徳太郎から洗礼を受ける。林竹治郎、新島善直らと共に教会を支える。 1921年に北大を卒業して、横浜共立女学校(現・横浜共立学園)、関東学院中学の教師になるが、1925年教師を辞任し、早稲田で古本屋長崎書店を開業する。
桑原 幹根(くわはら みきね、1895年 <明治28年> 8… 桑原 幹根(くわはら みきね、1895年 <明治28年> 8月29日 - 1991年 <平成3年> 4月11日)は、日本の政治家、内務官僚。1946年に官選愛知県知事に任じられ、公職追放された後、公選で当選し、同知事を6期24年にわたって務めた。1987年愛知県名誉県民。勲一等旭日大綬章受章。位階は正三位。 山梨県南都留郡明見村(後に明見町を経て、現・富士吉田市)で養蚕農家の七男として生まれた。兄は大審院判事を務めた桑原龍興。山梨県第一中学校都留分校(現・山梨県立都留高等学校)、旧制第一高等学校から東京帝國大学(現・東京大学)法学部を経て、内務省に入省。1935年、福島県書記官・経済部長、同年に内閣東北振興事務局書記官に就任。
坂 千秋(さか ちあき、1895年(明治28年)8月28日 … 坂 千秋(さか ちあき、1895年(明治28年)8月28日 - 1959年(昭和34年)5月29日)は、大正後期から昭和前期の内務官僚、政治家。内務次官、官選県知事、北海道庁長官、貴族院勅選議員。 山口県厚狭郡厚西村厚狭(厚狭町、山陽町厚狭を経て現山陽小野田市厚狭)で、呉服業・坂幾一の二男として生まれる。豊津中学校(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)、第一高等学校(独法科、首席)を経て、1919年(大正8年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。1918年(大正7年)10月、高等試験行政科試験に合格し、1919年7月、内務省に入り内務属となり地方局事務官室兼府県課勤務となる。その後、佐賀県視学官、石川県理事官、内務省地方局地方債課長、専任内務書記官、地方局財務課長、同局行政課長などを歴任。
有松 潤一郎(ありまつ じゅんいちろう、1895年8月28日… 有松 潤一郎(ありまつ じゅんいちろう、1895年8月28日 - 1980年12月27日)は、日本の経営者、銀行家。大和銀行社長を務めた。岡山県岡山市出身。 1922年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に大和銀行に入行。1944年11月に専務に就任し、1947年1月に代表取締役を経て、1948年6月から1950年8月までに社長を務めた。 大阪銀行協会会長も務めた。 1965年に勲二等瑞宝章を受章。 1980年12月27日に老衰のために死去。85歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
斎藤 三郎(さいとう さぶろう、1895年〈明治28年〉8月… 斎藤 三郎(さいとう さぶろう、1895年〈明治28年〉8月26日 - 1960年〈昭和35年〉2月2日)は、日本の野球史研究家、文学研究家。 日本の野球史研究の先駆者で、明治・大正期の野球書を長年収集して『日本野球文献解題』を私家版で作成し、日本に野球が伝来した時期について「明治5年説」を提唱した。また、石川啄木関連の文献資料を収集して『文献石川啄木』二巻を刊行したほか、『啄木と故郷人』、『啄木文学散歩』の著書があり、岩波書店版『啄木全集』の編さんもしている。 1895年(明治28年)8月26日に日本の長野県下高井郡市川村(のちの野沢温泉村)虫生に生まれる。小学生ですでに野球をプレーしていた。
田沼 実(たぬま みのる、1895年8月25日 - 1974… 田沼 実(たぬま みのる、1895年8月25日 - 1974年8月)は、日本の都市計画家、土木技術者。東京生まれ。 1921年(大正10年)に東京帝国大学工学部土木工学科卒。内務省阿賀川改修事務所に勤務した。1924年から内務省復興局技師に転じる。その後東京府をへて1929年(昭和4年)、内務省土木部工務課長。その間に九段坂に共同溝の試作を試みている。1930年に東京府土木道路技師。 1937年、滋賀県土木課長、1939年、茨城県土木課長、1942年、山口県士木部長。 1945年に神奈川県土木部長となり、敗戦後の同県都市計画の作成に取り組む。道路、河川、公園、住宅、港湾などの総合整備を図った。 1951年から1960年までは、神奈川県土地収用委員会委員をつとめた。
小泉 梧郎(こいずみ ごろう、1895年(明治28年)8月2… 小泉 梧郎(こいずみ ごろう、1895年(明治28年)8月24日 - 1974年(昭和49年)3月4日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事。位階は正四位。勲二等瑞宝章。 鳥取県出身。小泉謙蔵の五男として生まれる。第三高等学校を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し山梨県属となる。 以後、内務省社会局事務官、山形県書記官・警察部長、熊本県書記官・経済部長、広島県書記官・警察部長、福岡県書記官・警察部長、兵庫県書記官・警察部長、国民精神総動員本部常任理事、大政翼賛会協力会議部長などを歴任。 1942年1月、島根県知事に就任。
中島 慶次(なかじま けいじ、1894年9月20日 - 19… 中島 慶次(なかじま けいじ、1894年9月20日 - 1973年10月16日)は、王子製紙(現・王子ホールディングス)元社長、紙の博物館初代理事長。 新潟県長岡市出身。旧制新潟県立長岡中学校を経て東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業後、初代王子製紙へ入社。1946年、足立正の後任として社長に就任。1949年の初代王子製紙の解体後は、後継会社の苫小牧製紙(現・王子ホールディングス)の社長に就任。1967年に会長に異動するまで社長職に就いた。出身校の一橋大学の組織に当る如水会第14・15代会長も務めた(1961年 - 1966年)。 1973年10月16日、栗山町の王子製紙の林木育種研究所の訪問中に倒れ死去。
荻原 豊次(おぎわら とよじ、1894年9月20日 - 19… 荻原 豊次(おぎわら とよじ、1894年9月20日 - 1978年2月10日)は、日本の篤農家。 長野県北佐久郡東長倉村(現軽井沢町)生まれ。尋常小学校卒業後、農業に従事し、軽井沢町会議員などを務める。昭和7年(1932年)、野菜の温床苗代に伸びていたイネ苗を発見し、これをきっけに高冷地のイネの育苗法や冷害対策研究に没頭し、水苗代の改良に取り組み、委託苗代や、温床苗代、水陸折衷苗代等の試作を重ねた末、イネを早植をすることで冷温による障害やイモチ病への抵抗力が高まることを発見し、昭和17年(1942年)には、種を撒いた苗代の上に油紙を置いて地温を上昇させ、発芽時期を早める「保温折衷苗代」を考案し、同年農林大臣より食糧増産功労者として顕彰された。
高木 作太(たかぎ さくた、1894年9月19日 - 196… 高木 作太(たかぎ さくた、1894年9月19日 - 1966年1月31日)は日本の実業家。 現在の熊本県玉名市に生まれる。熊本県立玉名中学校(1913年卒業)を経て、[要出典]1917年に神戸高等商業学校(現・神戸大学)を卒業した。 1917年、三菱合資会社に入社して炭鉱部に所属し、翌年三菱鉱業が設立されると移籍した。1950年に社長に就任する。武甲セメントでも社長を務めた。 社外では日本石炭協会会長のほか、経済団体連合会や日本経営者団体連盟(いずれも日本経済団体連合会の前身)の理事などを歴任した。
浅野 三千三(あさの みちぞう、1894年(明治27年)9月… 浅野 三千三(あさの みちぞう、1894年(明治27年)9月18日 - 1948年(昭和23年)4月17日)は、日本の薬学者、化学者である。 千葉県の生まれ。東京帝国大学(現在の東京大学)に入学し、同大学の教授だった朝比奈泰彦に師事し薬学の研究に携わった。卒業後は金沢医科大学(現在の金沢大学医学部)の薬学専攻の教授となり、後に薬学の研究及び留学のためドイツに移住し、フライブルク大学に入り同大学の教授だったハインリッヒ・ヴィーラントから学ぶ。帰国後は主に生化学の研究について学び、1938年(昭和13年)に母校の帝大の伝染病研究所における化学部長及び教授となった。 その後は薬学博士を取得し、結核菌等の感染症の化学療法剤や脂肪酸の合成及び5型の分離、ベンゾキノン等の植物色素、地衣成分等の多くの研究に携わり、特にジフテリア菌の脂肪酸やピルビン酸系地の色素の研究に関してはこの業績により後に受賞している。
中村 三之丞(中村 三之烝、なかむら さんのじょう、1894… 中村 三之丞(中村 三之烝、なかむら さんのじょう、1894年〈明治27年〉9月18日 - 1979年〈昭和54年〉7月8日)は、日本の政治家。位階は正三位。 運輸大臣、衆議院議員を歴任。 京都府出身。1918年(大正7年)早稲田大学政治経済科を卒業。大蔵大臣秘書官等を経て、1932年(昭和7年)立憲民政党公認で第18回衆議院議員総選挙に立候補し当選した。以後通算当選8回。1937年(昭和12年)第1次近衛内閣の大蔵参与官となる。戦前は永井柳太郎に近く、1940年(昭和15年)の新体制運動に際しては民政党が解党する前に永井らと民政党を離党、大政翼賛会に合流した。政党解消後は翼賛議員同盟には参加せず中間派の議員倶楽部に所属したが、1942年(昭和17年)の翼賛選挙では翼賛政治体制協議会の推薦候補として立候補し当選した。
鈴木 栄太郎(すずき えいたろう、1894年9月17日 - … 鈴木 栄太郎(すずき えいたろう、1894年9月17日 - 1966年9月20日)は日本の社会学者。農村社会学・都市社会学の泰斗。自然村対行政村の概念を提示。
山崎 巌(やまざき いわお、1894年〈明治27年〉9月16… 山崎 巌(やまざき いわお、1894年〈明治27年〉9月16日 - 1968年〈昭和43年〉6月26日)は、日本の内務官僚、政治家。内務三役(警保局長、警視総監、内務次官)を経て政界入りし、内務大臣、自治大臣兼国家公安委員会委員長を歴任した。正三位。勲一等。農林大臣・逓信大臣の山崎達之輔は実兄。 福岡県大川市に生まれる。福岡県立中学伝習館、第五高等学校を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業。 同年、内務省入省。厚生省社会局長、官選静岡県知事、内務省土木局長、警保局長などを経て、1940年(昭和15年)警視総監に就任する。総監時代には企画院事件などを捜査する。東條内閣では内務次官を務める。
井藤 半彌(いとう はんや、1894年9月14日 - 197… 井藤 半彌(いとう はんや、1894年9月14日 - 1974年2月6日)は、日本の経済学者。専門は財政学。経済学博士。正三位勲一等瑞宝章。 海軍経理学校教授、一橋大学学長、日本学士院会員、自治庁参与、大蔵省税制特別調査会会長、日本ホッケー協会理事、大学基準協会常任理事などを歴任した。 京都市出身。京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校)を経て、1918年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業、1920年同校専攻部貿易科卒業。福田徳三教授に師事。1920年東京商科大学(現一橋大学)助手、1910年東京商科大学附属商学専門部講師。1922年から財政学の内池廉吉教授に師事。1935年東京商科大学より経済学博士の学位を取得。
小倉 ミチヨ(おぐら みちよ、1894年9月14日 - 19… 小倉 ミチヨ(おぐら みちよ、1894年9月14日 - 1967年7月10日)は、日本の性文化研究者。夫の小倉清三郎とともに性の研究雑誌『相対』を発行し、自らも記事を多数執筆した。猥褻文書出版販売違反で逮捕された際、阿部定の隣室になり、『阿部定隣室観察十日間』を執筆。晩年は精神異常者とみなされて収監され、精神病院で亡くなった。旧姓坂本、本名は道代。弟に作家の坂本石創がいる。 1894年に愛媛県西宇和郡川之石町(現・八幡浜市)の農家に生まれる。小学校を卒業すると従兄と結婚させられたが、5年後に離婚し、松山技芸女学校(現・済美高等学校)へ進学。1917年に小学校教員になる。翌年上京し、東京女子専門学校(現・東京家政大学)へ入学。
岩瀬 英一郎(いわせ えいいちろう、1894年9月13日 -… 岩瀬 英一郎(いわせ えいいちろう、1894年9月13日 - 1963年3月22日)は、日本の経営者。三越社長を務めた。 神奈川県出身。1918年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に三井銀行に入行。 1938年に東京電燈常務に就任し、1942年に関東配電理事を経て、1943年6月に三越社長に就任。 1963年3月22日、死去。68歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
徳田 球一(とくだ きゅういち、1894年〈明治27年〉9月… 徳田 球一(とくだ きゅういち、1894年〈明治27年〉9月12日 - 1953年〈昭和28年〉10月14日)は、日本の政治運動家、共産主義者、革命家、弁護士、政治家。衆議院議員(3期)、戦前の非合法政党時代から戦後初期に至るまでの日本共産党の代表的活動家で、戦後初代の書記長を務めた。徳球の愛称で知られる。 沖縄県国頭方名護間切(現:沖縄県名護市)で、鹿児島の豪商の庶子であった父とウチナーンチュの母の間に生まれる。家は沖縄の中にあっては裕福で、「球一」の名は「琉球一の人物」になることを願って付けられた。母方の祖母は高利貸しと泥藍売りを営み、徳田もこの稼業を手伝っていたが、強欲な祖母に反発して「お金を借りてはだめだ」と借りに来た者に対して注意するなど、正義感が強い子供であった。
奥 主一郎(奧、おく しゅいちろう、1894年(明治27年)… 奥 主一郎(奧、おく しゅいちろう、1894年(明治27年)9月12日 - 1976年(昭和51年)11月22日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、参議院議員。 京都府出身。政治家・奥繁三郎の長男として生まれる。1919年(大正8年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。同年、三井銀行に入行した。 以後、京都倉庫社長、京都瓦斯副社長、愛宕山鉄道監査役、渡良瀬水電監査役、帝国瓦斯協会(現日本ガス協会)参事、丸物百貨店取締役、山城八幡銀行取締役、安田火災海上保険(現損害保険ジャパン)取締役、大日本政治会京都支部幹事長などを務めた。 1942年(昭和17年)京都府多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年5月19日に就任し、交友倶楽部に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
渡辺 順三(わたなべ じゅんぞう、1894年9月10日 - … 渡辺 順三(わたなべ じゅんぞう、1894年9月10日 - 1972年2月26日)は、大正・昭和期の歌人。 富山県富山市に生まれる。士族の家柄で、祖父は富山藩砲術指南である。しかし家は維新後に没落。父は小学校の校長を勤めたが、精神病を患い順三が12歳のときに亡くなった。姉夫婦の援助で富山中学校に進学するが、他人の世話になることを好まない母の方針により三ヶ月で中退し、母とともに上京して、神田の家具店に住み込みで働き始めた。母は東京控訴院検事長河村善益の家の住み込み女中となった。 1910年、流行性脳脊髄膜炎にかかり、その後遺症で左耳の聴覚を失う。1913年頃から「時事新報」の窪田空穂選歌欄へ投稿を始め、「国民文学」創刊にも参加し、空穂に師事する。
島村 一郎(しまむら いちろう、1894年(明治27年)9月… 島村 一郎(しまむら いちろう、1894年(明治27年)9月7日 - 1977年(昭和52年)2月1日)は、日本の政治家。衆議院議員。正三位勲一等。 自由民主党元衆議院議員島村宜伸は六男。 東京府南葛飾郡小松川町平井(現在の東京都江戸川区平井)に生まれる。 中央大学中退。小松川町会議員、小松川町長、東京府議、江戸川区会議長、東京市議、同都議などを経て大蔵大臣秘書官となった。 昭和21年(1946年)東京1区(のち東京6区→10区)から立候補し、次点となるが、鳩山一郎の公職追放による繰上当選となり、衆院議員となる。以来連続当選12回。 1955年(昭和30年)第2次鳩山内閣の通商産業政務次官。衆院大蔵、商工、懲罰、東京オリンピック大会準備促進特別委員長を歴任。
笹川 久吾(ささがわ きゅうご、1894年〈明治27年〉9月… 笹川 久吾(ささがわ きゅうご、1894年〈明治27年〉9月5日 - 1968年〈昭和43年〉5月16日)は、日本の生理学者、医師。医学博士。京都大学名誉教授、日本生理学会特別会員、日本体力医学会名誉会員。日本鍼灸学会初代会長。 新潟県西蒲原郡金巻村大字大野町(現 新潟市西区大野町)出身。1914年(大正3年)3月に新潟中学校を卒業、1919年(大正8年)7月に第四高等学校を卒業、1923年(大正12年)6月に京都帝国大学医学部医学科を卒業。 1925年(大正14年)6月に京都帝国大学医学部生理学第二講座(担任:石川日出鶴丸教授)助手に就任、1928年(昭和3年)11月に大阪高等医学専門学校教授に就任、1929年(昭和4年)6月に京都帝国大学から医学博士号を取得。
小石 雄治(こいし ゆうじ、1894年9月5日- 1984年… 小石 雄治(こいし ゆうじ、1894年9月5日- 1984年1月28日 )は、日本の経営者。ダイハツ工業社長、会長を務めた。島根県浜田市出身。 1912年3月、旧制浜田中学(現在 島根県立浜田高等学校)卒業、1917年に大阪高等工業学校機械科(現在、大阪大学)を卒業し、同年にダイハツ工業の前身である発動機製造に入社。1939年2月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1950年12月にダイハツ工業社長に就任し、軽三輪車や電気自動車の開発に着手し、1967年にトヨタ自動車との業務提携を結ぶなど同社発展の礎を築いていた。1968年に会長を務め、1971年12月から相談役を務めた。 1960年に藍綬褒章を受章し、1973年に勲二等旭日重光章を受章した。
末高 信(すえたか まこと、1894年9月4日 - 1989… 末高 信(すえたか まこと、1894年9月4日 - 1989年4月4日)は、日本の社会保障学者、商学博士。生命保険修士会名誉会長ならびに生命保険アンダーライティング学院創立者。東京都台東区出身。 上記以外に、日本保険学会名誉会員、健康保険組合連合会顧問、社会保険診療報酬支払基金理事等を兼ねた。 松平信生(長州征伐に旗頭として参加した松平左金吾の十一男)の長男として1894年(明治27年)に生まれる。末高姓は父である信生(のぶなり)が仕えていた徳川慶喜が大政奉還の後、駿府入りした際に旗本の末高家の養子になり改姓したことに依る。父、信生は 西南戦争の後徳川家のもとを離れることになり、東京日本橋で漆器問屋の娘きくと結婚、家持(地主)を営むが、チフスで急逝した。
大泉 寛三(おおいずみ かんぞう、1894年(明治27年)9… 大泉 寛三(おおいずみ かんぞう、1894年(明治27年)9月4日 - 1981年(昭和56年)2月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。参議院議員(1期)。 山形県北村山郡玉野村(尾花沢町を経て現尾花沢市)出身。 独学し、1917年(大正6年)川口町(現川口市)に大泉工場(機械鉄鋼場)を創業。1921年(大正10年)立憲政友会に入党し、その後、川口町会議員、同町会議長、同町助役、川口市会議員、同市参事会員、同市助役などを務めた。 1940年(昭和15年)10月、埼玉県立川口工業高等学校設備拡充費として1万円寄付により1941年(昭和16年)9月13日紺綬褒章受章。1941年12月、川口市役所備品として乗用車1台寄付により1942年(昭和17年)4月28日紺綬褒章受章(飾版)。
石川 愛(いしかわ あい、1894年〈明治27年〉9月3日 … 石川 愛(いしかわ あい、1894年〈明治27年〉9月3日 - 1990年〈平成2年〉7月7日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。 埼玉県出身。旧制熊谷中学を経て、1915年(大正4年)、陸軍士官学校第27期卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第7連隊付となる。1927年(昭和2年)、陸軍大学校第39期卒業。 1937年(昭和12年)8月に陸軍士官学校航空兵科教官を経て、1938年(昭和13年)3月に陸軍航空兵大佐に進級。支那事変が勃発すると同年10月に第4飛行団参謀および1939年(昭和14年)1月に第21軍参謀を兼職し、ついで同年5月に第21独立飛行隊長を務めた。翌年、1940年(昭和15年)8月に陸軍航空士官学校教授部長を経て、1941年(昭和16年)10月に陸軍少将に進級。
正田 卯平(しょうだ うへい、1894年〈明治27年〉9月3… 正田 卯平(しょうだ うへい、1894年〈明治27年〉9月3日 - 1979年〈昭和54年〉)は、日本の実業家、政治家。前名は茂三郎。群馬県購連理事。群馬県自動車合同副社長。群馬県石油配給、館林航器各取締役。前橋日産モーター取締役会長。町会議員。正田卯平商店。雑貨商。米屋、荒物商。 群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)出身。卯平の二男。前名・茂三郎を改め襲名した。早大商科修業。父業に従事した。町学務委員、館林信組理事であった。1949年(昭和24年)館林商工会議所会頭に就任。館林交通安全協会会長も務めた。 宗教は浄土宗。趣味はスポーツ、柔道。住所は館林谷越。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
町田 三郎(まちだ さぶろう、1894年〈明治27年〉9月3… 町田 三郎(まちだ さぶろう、1894年〈明治27年〉9月3日 - 1975年〈昭和50年〉9月30日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(1期)。渋川市長(2期)。 群馬県渋川市出身。父は米穀商で渋川町長もつとめた町田久三郎。1913年(大正2年)慶應義塾商工学校卒。翌年慶應義塾大学中退。 1920年(大正9年)から太平洋戦争中まで丸久組製糸所を経営した。1933年(昭和8年)渋川町会議員となり、1936年(昭和11年)から渋川町長を務めた。 生糸製造業に従事し、上毛精機、渋川製作所各(株)を創立し、社長となり、太平工業、吉野組製糸所、町田織物、東京建鉄各(株)の社長となる。群馬商工経済会理事も務める。
岡本 忠(おかもと すなお、1894年9月1日 - 1955… 岡本 忠(おかもと すなお、1894年9月1日 - 1955年9月2日)は、日本の実業家。学生時代よりテニス選手として活躍し、デビスカップやオリンピックに日本代表として出場した。 岡山県赤磐郡瀬戸町大字瀬戸(現在の岡山市東区)生まれ。津山中学校(現・岡山県立津山中学校・高等学校)を経て、東京高等商業学校(現在の一橋大学)に入学。学生時代からテニス選手として活躍した。 1917年(大正6年)、東京高等商業学校を卒業し、三井物産に入社した。 1921年(大正10年)、清水善造・鳥羽貞三と共に、皇居内コートでの初の「御前試合」に参加。 1924年パリオリンピックでは、日本代表選手4人のうちの1人で、男子シングルス (singles) と男子ダブルス (doubles) で出場。
泉 甲二(いずみ こうじ、1894年8月31日 - 1980… 泉 甲二(いずみ こうじ、1894年8月31日 - 1980年11月10日)は、日本の歌人、美術評論家。本名は山田 邦祐。 福岡県福岡市田島に生まれる。1915年福岡県立中学修猷館を経て、1920年早稲田大学文学部英文科を卒業し、研究社に入社。在学中の1917年から北原白秋に師事している。 戦後、「婦人画報」編集局に移り、1935年白秋の歌誌「多磨」創刊に参加、のち編集に従事。1953年に同誌が終刊後、中村正爾の歌誌「中央線」創刊に参加。 本名名義で美術書も出版した。
依光 好秋(よりみつ よしあき、1894年8月29日 - 1… 依光 好秋(よりみつ よしあき、1894年8月29日 - 1968年1月10日)は、日本のジャーナリスト・政治家。衆議院議員総選挙に通算3回当選した。 依光重義の三男として高知県幡多郡奥内村(現・大月町)泊浦に生まれた。芳の沢小学校を卒業した後弘見小学校高等科に入学、同校卒業後は高知県立第三中学校(現・高知県立中村中学校・高等学校)に入学した。県立三中の4年次を修了後専修大学政治経済科に入学し、同大学卒業後読売新聞社に入社し、のちに同社政治部長に就任した。1927年12月に時の内閣総理大臣・田中義一の内閣書記官長だった鳩山一郎らに認められ、朝鮮総督・山梨半造の秘書官に就任。だが山梨の側近らと意見が合わず秘書官を辞して帰郷。
野元 為輝(のもと ためき、1894年(明治27年)8月29… 野元 為輝(のもと ためき、1894年(明治27年)8月29日 - 1987年(昭和62年)12月19日)は、日本の海軍軍人。第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦に空母・「瑞鶴」艦長として参戦した。最終階級は海軍少将。
永野 芳夫(ながの よしお、1894年8月29日 - 196… 永野 芳夫(ながの よしお、1894年8月29日 - 1967年12月22日)は、日本の哲学・教育学者、広島大学名誉教授。 大分県生まれ。東京帝国大学哲学科卒。大正大学教授、広島大学教授、1950年「デューイ教育学の基本諸原理」で広島大文学博士。1958年定年退官、玉川大学教授。1957年日本デューイ学会初代会長。笹山三次の名で蘭の研究もおこない、日本蘭協会会長。
鋳方 末彦(いかた すえひこ、1894年8月27日 - 19… 鋳方 末彦(いかた すえひこ、1894年8月27日 - 1976年9月10日)は、日本の植物病理学者。学位は、農学博士(九州大学・論文博士・1941年)。 熊本県下益城郡小野部田村(現・宇城市)生まれ。八代中学校(後の熊本県立八代中学校・高等学校の前身のひとつ)卒業。 1916年(大正5年)鹿児島高等農林学校卒業。農商務省福岡県農事試験場、岡山県農事試験場を経て農林省農事試験場技師に。「小麦条斑病に関する研究」で日本農学会賞を受賞。1941年(昭和16年)には、「柿の重要寄生性病害に関する病理並びに治病学的研究」で、九州大学より農学博士の学位を授与される。更に「いもち病防除に関する試験研究」で富民協会賞、「小麦縞萎縮病に関する研究」等で農林大臣賞受賞、など多くの賞に輝く。
今田 恵(いまだ めぐみ、1894年8月26日 - 1970… 今田 恵(いまだ めぐみ、1894年8月26日 - 1970年11月25日)は、心理学者・哲学者、文学博士。関西学院大学名誉教授。関西学院第6代院長。ウィリアム・ジェームズの研究で知られる。山口県佐波郡三田尻村(現・防府市)生まれ。子は今田寛。 1917年、関西学院神学部卒業後、カナダのメソヂスト教会の牧師を兼ねつつ、1922年東京帝国大学文学部心理学科卒業。同年、関西学院専門部文学部教授。1929年からアメリカ、イギリスに留学。1934年、関西学院大学法文学部開設に伴って教授となり、1940年、法文学部長に就任。1946年、関西学院大学文学部長。1950年、初の公選による関西学院院長(第6代院長)に選任される。
佐々木 達治郎(ささき たつじろう、1894年(明治27年)… 佐々木 達治郎(ささき たつじろう、1894年(明治27年)8月25日 - 1973年(昭和48年)10月19日)は、日本の陸軍軍人、物理学者。最終階級は陸軍少将。理学博士。 岡山県西北条郡津山町 (現津山市)出身。佐々木清十郎の長男として生まれる。津山中学校(現岡山県立津山中学校・高等学校)を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し、同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第13連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校高等科(24期)を卒業。野砲兵第11連隊大隊副官を経て、1919年(大正8年)9月から1922年(大正11年)3月まで陸軍派遣学生として東京帝国大学理学部物理学科で学んで卒業した。
上田 保(うえだ たもつ、1894年(明治27年)8月25日… 上田 保(うえだ たもつ、1894年(明治27年)8月25日 - 1980年(昭和55年)6月6日)は、日本の弁護士、政治家で、初代~第4代大分市長(在任:1947年(昭和22年)4月7日 - 1963年(昭和38年)3月9日)。大分市名誉市民でもある。 1894年(明治27年)8月25日、上田庫蔵・カネ夫妻の三男として大分県大分郡豊府村(現大分市畑中)に生まれる。上京し、和仏法律学校(現・法政大学)法律科で学び、27歳の時に弁護士試験に合格する。その8年後の1929年(昭和4年)に法律案内書「趣味の法律」を出版しベストセラーとなる。 戦時中に大分に引き揚げ、1947年(昭和22年)に初代の公選大分市長に当選し、連続4期務めた。
中野 与吉郎(なかの よきちろう、1894年〈明治27年〉8… 中野 与吉郎(なかの よきちろう、1894年〈明治27年〉8月24日 - 没年不明)は、日本の内務・警察官僚。弁護士。官選県知事。旧姓・住田。 滋賀県出身。第三高等学校を卒業。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。1920年、東京帝国大学法科大学を卒業。内務省に入省し大阪府属兼大阪府警部となる。 以後、島根県書記官・学務部長、群馬県書記官・警察部長、福井県書記官・警察部長、宮城県書記官・警察部長、内務書記官兼警察講習所教授、警保局警務課長、神奈川県書記官・総務部長、内務省土木局河川課長などを歴任。 1937年11月、福井県知事に就任。戦時体制の整備、結核撲滅に尽力。1939年4月、内務省神社局長兼造神宮副使に転じた。
比企 能達(ひき よしさと、1893年9月22日 - 196… 比企 能達(ひき よしさと、1893年9月22日 - 1968年10月17日)は、日本の医師。専門は、病理学及び内科学。医学博士。長男は比企能樹。 神奈川県中郡旭村(現・平塚市)出身。加藤房吉の三男として生まれ、叔父で開業医・政治家の比企喜代助(1866年~1944年)の養子となる。旧制第二高等学校を経て、東京帝国大学医学部を卒業。1927年、同医学部病理学教室助手(教授緒方知三郎)。1932年、同医学部内科学教室副手(教授島薗順次郎)。1934年、東京大学医学博士、論文の題は「唾液腺の内分泌に就て : 唾液腺條紋部(streifenstuck)の構造竝に機能に就て」。 1945年、日本大学医学部第一内科教授。
五十嵐 悌三郎(いがらし ていざぶろう、明治26年(1893… 五十嵐 悌三郎(いがらし ていざぶろう、明治26年(1893年)9月21日 - 昭和15年(1940年)5月1日)は、山形県西田川郡栄村(現・鶴岡市)出身の、作曲家、音楽教育者。 代表的な作曲に、『山形県青年団歌』(土井晩翠作詞)がある。 京城で学校教諭を務める傍ら、李王家の雅楽研究に没頭した。 山形県師範学校での授業の始めには、毎回1曲の歌を歌っていた。