茂木 順三郎(もぎ じゅんざぶろう、1884年〈明治17年〉… 茂木 順三郎(もぎ じゅんざぶろう、1884年〈明治17年〉4月3日 - 1954年〈昭和29年〉4月13日)は、日本の実業家。柏屋商事社長。小網商店出資社員、有限社員。千秋社理事。千葉県多額納税者。 千葉県東葛飾郡野田町(現・野田市)出身。茂木七郎右衛門の長男。1929年、家督を相続した。慶應義塾出身。銀行会社の重役であり、野田商誘銀行常務、野田醤油(現・キッコーマン)、銚子醤油(現・ヒゲタ醤油)、総武鉄道各取締役、日本坩堝、満州野田醤油各監査役等をつとめた。 趣味は打球、弓、ゴルフ。宗教は真言宗。住所は千葉県東葛飾郡野田町野田。1944年、紺綬褒章を受章。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
河野 安通志(こうの あつし、1884年〈明治17年〉3月3… 河野 安通志(こうの あつし、1884年〈明治17年〉3月31日 - 1946年〈昭和21年〉1月12日)は、石川県大聖寺町(現:加賀市)出身のアマチュア野球選手(投手)。日本初のプロ野球チーム創設者。 父は河野通理で、加賀藩士。妻の河野いゑは飛田穂洲(忠順)の妹。 1897年(明治30年)一家は横浜に転居し、野球に親しむようになる。旧制横浜商業学校在学中は野球に熱中しすぎたためか中退した。転校した明治学院には4年に編入し、わずか半年ほど在籍しただけだが、この時期に安部磯雄と出会い、彼のキリスト教精神に共鳴した。東京高等商業学校を目指していたが、1903年(明治36年)に早稲田大学商科入学。早大入学後、創設して3年目の野球部に入部し、ここでまたも野球部部長の安部に偶々出会う。
西村 兵太郎(にしむら ひょうたろう、1884年(明治17年… 西村 兵太郎(にしむら ひょうたろう、1884年(明治17年)3月30日 - 1935年(昭和10年)9月13日)は、日本の政治家。愛媛県長浜町(現大洲市)町長を21年、愛媛県議会議員を16年務めた。愛媛の水産界に大きな影響を与えたとして、水産業界の父とも言われている。
阿部 真之助(あべ しんのすけ、旧字体:眞之助、1884年〈… 阿部 真之助(あべ しんのすけ、旧字体:眞之助、1884年〈明治17年〉3月29日 - 1964年〈昭和39年〉7月9日)は、明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト、政治評論家、エッセイスト。筆名は野山草吉。毎日新聞社取締役主筆、日本エッセイスト・クラブ初代理事長、第9代NHK会長を務めた。富岡市名誉市民。恐妻家としても知られた。 1884年(明治17年)、埼玉県熊谷市で、造り酒屋を営む阿部久兵衛の次男として生まれる。兄は早世し、姉4人、弟妹各1人がいた。1890年(明治23年)群馬県甘楽郡富岡町(現・富岡市)に転居し、富岡小学校で学ぶ。1897年(明治30年)群馬県立富岡中学校(現・群馬県立富岡高等学校)が開校されると入学。
兒玉 常雄(児玉常雄、こだま つねお、1884年(明治17年… 兒玉 常雄(児玉常雄、こだま つねお、1884年(明治17年)3月29日 - 1949年(昭和24年)10月3日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍航空兵大佐。 東京府出身。後に陸軍大将となる児玉源太郎の四男として生まれる。陸軍中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)3月30日に陸軍士官学校(17期)を卒業し、同年4月21日に工兵少尉に任ぜられる。1907年(明治40年)12月21日に工兵中尉に昇進後、陸軍砲工学校(15期)高等科を卒業、更に員外学生として在学し、1913年(大正2年)7月10日には東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業した。1914年(大正3年)9月9日に工兵大尉に昇進した。
堀川 安市(ほりかわ やすいち、1884年(明治17年)3月… 堀川 安市(ほりかわ やすいち、1884年(明治17年)3月28日 - 1981年(昭和56年)1月8日)は、日本・台湾の教員・自然史研究家。教員として各地を転々とした中で自然史・理科教育の研究で功績を残した。特に1917年(大正6年)-1947年(昭和22年)の30年間を台湾・台北市で過ごし、その間に台湾の自然史研究で多数の報告・執筆を行った。 明治17年(1884年)3月28日、長崎県西彼杵郡雪浦村(現・西海市大瀬戸町雪浦地区)の農家の長男として生まれたが、幼い頃から動植物への興味関心が高かった。雪浦尋常小学校補習科(現・西海市立雪浦小学校)修了後は農業をしていたが、学問の道を志して20歳にして佐賀県立農学校(現・佐賀県立佐賀農業高等学校)へ進んだ。
中山 泰昌(なかやま やすまさ/たいしょう、1884年(明治… 中山 泰昌(なかやま やすまさ/たいしょう、1884年(明治17年)3月27日 - 1958年(昭和33年)12月25日)は日本の編集者。本名は三郎、号は蕗峰。島根県津和野出身。日本組合基督教会神戸教会・金尾文淵堂に勤務した後、獅子吼書房・春秋社書店等を設立するなどして編集活動に従事し、『大系本』シリーズにより「大系」の語を定着させた。教会・出版関係者と幅広い関係を築き、田山花袋『蒲団』『縁』の題材ともなった永代静雄・岡田美知代の仲を取り持った。 1884年(明治17年)3月27日島根県鹿足郡鷲原村(津和野町鷲原)に旧津和野藩士斎藤善哉の三男として生まれた。幼少期は神代種亮・天野雉彦から文学の薫陶を受けた。
二本松 孝蔵(にほんまつ こうぞう、1884年(明治17年)… 二本松 孝蔵(にほんまつ こうぞう、1884年(明治17年)3月26日 - 1972年(昭和47年)9月9日)は、日本の建築家、文化財修理技師。多数の社寺の保存修理や新築設計を手掛けた。 福島県出身。1908年(明治41年)工手学校(現工学院大学)卒業。1911年(明治44年)、国宝建造物修理工事主任。延命寺地蔵堂修理などを手掛ける。1917年(大正6年)に造神宮技手兼明治神宮造営技手となったのち、1927年(昭和2年)国粋建築研究所を開設。1925年(大正14年)大正大震災記念建造物競技設計佳作。角南隆を中心とした神祇院造営課と連動し、神社では11府県社の護国神社や官国幣社の社務所、齋館などの設計のほか、寺院でも比叡山修理、身延山祖廟設営など社寺ともに多くの設計を手掛けた。
獅子内 謹一郎(ししうち きんいちろう、1884年(明治17… 獅子内 謹一郎(ししうち きんいちろう、1884年(明治17年)3月25日 - 1941年(昭和16年)10月29日)は、日本のアマチュア野球選手。早稲田大学野球部の中心選手であり、早大草創期の主力でもあった。また、岩手県や満州で後進の育成に努め、「岩手野球の父」とも呼ばれる。守備位置は外野手、三塁手、投手。 岩手県盛岡加賀野村(現・盛岡市)出身。1897年(明治30年)、盛岡尋常中学(現・岩手県立盛岡第一高校)に入学する。一学年下に歌人の石川啄木がいたが、獅子内が落第して同級生となったこともあって親しかった(当時の盛岡中学は成績に厳しく、一度も落第せずに卒業できる生徒は学年全体の4分の1程度であった)。
松阪 広政(まつざか ひろまさ、1884年(明治17年)3月… 松阪 広政(まつざか ひろまさ、1884年(明治17年)3月25日 - 1960年(昭和35年)1月5日)は、日本の司法官僚・政治家。 検事総長、および太平洋戦争時の司法大臣を歴任した。 京都府久世郡宇治町(現在の宇治市)の地主で製茶業の家に生まれた。京都二中、東京神田中学校、一高を経て、1910年(明治43年)、東京帝国大学法科を卒業。1912年(大正元年)、検事となる。 名古屋裁判所の検事だった1925年3月に定型犯として賭博に関する調査を命じられた。7月に東京へ転出した後も高木常七により継続され12月に完成。あくまで事務処理の利便目的だったが結果が優れていたため、司法資料に取り上げられた。
黒田 チカ(くろだ チカ、1884年〈明治17年〉3月24日… 黒田 チカ(くろだ チカ、1884年〈明治17年〉3月24日 - 1968年〈昭和43年〉11月8日)は、日本の化学者。理学博士(1929年)(保井コノに続く女性理学博士第2号)。お茶の水女子大学名誉教授。1959年紫綬褒章、1965年勲三等宝冠章受章。位階は従三位。 佐賀県佐賀郡松原町(現・佐賀市松原)生まれ。植物色素の構造決定を行ったことで知られる。天然色素に関する黒田の研究は、2013年3月に日本化学会がその関連資料を化学遺産に認定。日本初の女子帝国大学生の1人としても知られる。 父平八、母トクの7人兄弟姉妹の三女として1884年(明治17年)に佐賀県に生まれる。 「これからは女子にも教育が必要」と考え子どもは大学へ上げようとした両親の方針もあり、黒田チカは1901年(明治34年)に佐賀県師範学校(現・佐賀大学文化教育学部)女子部を卒業、小学校教員として1年の義務奉職を経ると1902年(明治35年・18歳)、上京して女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身で、のち東京女子高等師範学校に改称)理科へ進む。
德川 家正(とくがわ いえまさ、旧字体: 德川 家正、188… 德川 家正(とくがわ いえまさ、旧字体: 德川 家正、1884年〈明治17年〉3月23日 - 1963年〈昭和38年〉2月18日)は、日本の外交官・政治家。徳川宗家第17代当主。第16代当主・徳川家達の長男。位階・勲等・爵位は正二位勲一等公爵。最終学歴は東京帝国大学法科大学政治科卒業。称号(学位)は法学士。 戦前にカナダ公使、トルコ大使など官職を務め、父・家達の死後に家督を継いで襲爵し、貴族院議員となる。戦後は第13代にして最後の貴族院議長を務めた。その他の主な公職及び役職としては、社団法人全国治水砂防協会会長、日土協会会長、恩賜財団同胞援護会会長などを歴任した。 1884年(明治17年)3月23日、徳川家達の長男として東京府南豊島郡千駄ヶ谷村(現:東京都渋谷区千駄ヶ谷)で生まれる。
南郷 武夫(なんごう たけお、1884年(明治17年)3月2… 南郷 武夫(なんごう たけお、1884年(明治17年)3月22日 - 1976年(昭和51年)1月26日)は、明治末から昭和期の林業家、政治家。衆議院議員、鹿児島県日置郡東市来村長、同郡東市来町長。 鹿児島県日置郡市来郷伊作田村(東市来村伊作田、東市来町伊作田を経て現日置市東市来町伊作田)で、鉱山業・南郷徳之助の長男として生まれる。1904年(明治37年)鹿児島県立第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を卒業。早稲田大学を中退。 帰郷して父の鉱山業に従事。1930年(昭和5年)家督を相続。政界を目ざし1931年(昭和6年)鹿児島県会議員に選出され3期在任。1932年(昭和7年)東市来村長に就任。
松山 常次郎(まつやま つねじろう、1884年(明治17年)… 松山 常次郎(まつやま つねじろう、1884年(明治17年)3月22日 - 1961年(昭和36年)6月15日)は、日本の実業家、政治家、衆議院議員。 1884年(明治17年)3月22日、和歌山県伊都郡九度山村(現:九度山町)に松山常治・さわの長男として生まれる。奈良県立五条中学校、第三高等学校を経て、1905年(明治38年)、東京帝国大学土木工学科入学。在学中に日本組合基督教会霊南坂教会で洗礼を受けクリスチャンとなる。 1908年(明治41年)、東京帝国大学土木工学科を卒業後に渡米し、橋梁設計などを学ぶ。日本に帰国したのち、1915年(大正4年)朝鮮に渡り、干拓・開墾事業に従事。南海拓殖株式会社や鮮満拓殖株式会社などを設立し、水田開拓事業で成功を収めた。
小山 倉之助(おやま くらのすけ、1884年(明治17年)3… 小山 倉之助(おやま くらのすけ、1884年(明治17年)3月21日 - 1956年(昭和31年)8月3日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(6期)。 宮城県本吉郡気仙沼本郷(後の気仙沼町、現気仙沼市)で、小山長兵衛の二男として生まれる。1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 その後、九州林業取締役、樺太合同産業取締役、日本セメント取締役、帝国地方行政学会取締役、日本エタニットパイプ取締役、(株)行政学会印刷所社長などを務めた。 1928年2月、第16回衆議院議員総選挙で宮城県第二区から出馬して当選。以後、第17回、第19回、第20回総選挙で当選。1942年4月の第21回総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選した。
松永 直吉(まつなが なおきち、1883年(明治16年)4月… 松永 直吉(まつなが なおきち、1883年(明治16年)4月19日 - 1964年(昭和39年)7月28日)は、日本の外交官。駐オランダ公使、駐オーストリア公使。 佐賀県出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業、外交官及領事官試験に合格した。外交官補として北京に赴任。天津領事官補、長沙領事官補、ハンブルク領事官補、ドイツ大使館三等書記官、シアトル領事、外務書記官・会計課長・人事課長、オタワ総領事、ベルギー大使館参事官、外務省条約局長などを歴任。1930年(昭和5年)、駐オランダ公使に就任し、1933年(昭和8年)に駐オーストリア公使に転じた。 1937年(昭和12年)に退官した後は、紀元2600年記念日本万国博覧会事務次長を務めた。
青木 精一(あおき せいいち、1883年(明治16年)4月1… 青木 精一(あおき せいいち、1883年(明治16年)4月19日 - 1945年(昭和20年)4月14日)は、日本のジャーナリスト・政治家で立憲政友会→昭和会→立憲政友会革新同盟所属の衆議院議員。 群馬県南勢多郡板橋村(新里村を経て現桐生市)出身。正教神学校を卒業。日露戦争に召集され従軍。日本電報通信社記者となり、シベリア出兵の際には浦塩派遣軍司令部附従軍記者を務めた。その他、大阪新報社東京支局長、中央新聞社政治部長を歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、当選回数は7回を数えた。政友会に所属し、1927年(昭和2年)には、議会乱闘事件に関与したとして傷害の容疑で起訴。
神保 格(じんぼう かく、1883年(明治16年)4月18日… 神保 格(じんぼう かく、1883年(明治16年)4月18日 - 1965年(昭和40年)12月6日)は、日本の言語学者。
羽仁 潔(はに きよし、1883年〈明治16年〉4月18日 … 羽仁 潔(はに きよし、1883年〈明治16年〉4月18日 - 1945年〈昭和20年〉7月27日)は、大日本帝国海軍大佐。山口県徳山市(現・周南市)長。正五位・勲三等。 山口県阿武郡萩町(現・萩市)出身。海軍兵学校第33期(同期に豊田副武、豊田貞次郎ら)。 1905年(明治38年)、少尉候補生となり、厳島乗組となる。1906年(明治39年)、練習艦隊遠洋航海に参加。その後、沖島分隊長兼佐世保海兵団教官、吾妻、安芸の各砲術長、八雲副長、隠戸、平戸の各艦長となり、1928年(昭和3年)に大佐で退役した。 退役後は萩市助役を経て、1940年(昭和15年)に徳山市長に就任した。市長就任後は市章の制定、上水道の開通、隣接の都濃郡加見、久米の2村の編入(1942年)、櫛浜、富田、福川の3町、湯野、夜市、戸田、大津島の4村との合併による新徳山市の発足、市の行政機構の再編(1944年)などがあり、羽仁は1944年(昭和19年)6月12日に市長に再任した。
種田 虎雄(おいた とらお、1883年(明治17年)4月15… 種田 虎雄(おいた とらお、1883年(明治17年)4月15日~1948年(昭和23年)9月5日)は、日本の官僚、実業家。近畿日本鉄道(近鉄)の初代社長を務めた。
小松 豊作(こまつ ほうさく、1883年(明治16年)4月1… 小松 豊作(こまつ ほうさく、1883年(明治16年)4月15日 - 没年不明)は、日本の養蚕家、発明家。 長野県上諏訪町小和田(現諏訪市)出身。東京高等工業学校機械科を卒業し、東京蚕業講習所技手、生糸検査所技手、特許局審査官、東京高等蚕糸学校教授などを歴任した。1924年(大正13年)に辞して東京府東京市滝野川(現・東京都北区)に田端鐵工所を創立し、下記田端式乾燥器の製作に従事した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
津田 静枝(つだ しずえ、1883年〈明治16年〉4月11日… 津田 静枝(つだ しずえ、1883年〈明治16年〉4月11日 - 1964年〈昭和39年〉9月13日)は、日本の海軍軍人。海軍の中国専門家。最終階級は海軍中将。福井県福井市出身。 旧制福井県立福井中学校より海軍兵学校第31期入校。津田の履歴の特徴は中国勤務が多いことであるが、これは津田が中国の専門家であったためである。日本海軍は陸軍と比較して中国問題に暗く、対応が後手に回ることが多かったことから、対中国問題の専門家が必要となり、その最初の人物として育成されたのが津田であった。日本海軍はのちに須賀彦次郎、田尻穣、藤原喜代間、沖野亦男などの対中国の専門家を輩出した。
大森 吉五郎(おおもり きちごろう、1883年(明治16年)… 大森 吉五郎(おおもり きちごろう、1883年(明治16年)4月11日 - 1946年(昭和21年))は、日本の内務・警察官僚、政治家。民政党系官選県知事、京都市長。 岡山県上道郡中井村(現:岡山市中区中井)出身。大森久五郎の長男として生まれる。岡山中学校、第三高等学校 を卒業。1908年、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し京都府属となる。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1910年、京都府南桑田郡長に就任。以後、京都市助役、熊本県理事官、愛媛県警察部長、神奈川県警察部長、神奈川県港務部長、熊本県内務部長、長崎県内務部長、北海道庁土木部長など歴任。 1925年10月、山口県知事に就任。
穂積 重遠(ほづみ しげとお、1883年4月11日 - 19… 穂積 重遠(ほづみ しげとお、1883年4月11日 - 1951年7月29日)は、東京府出身の法学者。専門は民法。東京帝国大学教授・法学部長、最高裁判所判事を歴任し、「日本家族法の父」といわれる。東宮大夫兼東宮侍従長。男爵。勲一等旭日大綬章。
水野 葉舟(みずの ようしゅう、1883年4月9日 - 19… 水野 葉舟(みずの ようしゅう、1883年4月9日 - 1947年2月2日)は、日本の詩人、歌人、小説家、心霊現象研究者。本名は盈太郎(みちたろう)。別号蝶郎。 東京府生まれ。新詩社に入り、詩文集『あららぎ』、窪田空穂との合著歌集『明暗』で登場。『微温』、小品集『草と人』などで自然主義文学に独自の地位を占めた。のち、千葉県三里塚で半農生活に入った。建設大臣などを務めた水野清は次男。 東京下谷区仲御徒町生まれ。父は農商務省の官吏。父の転任で1891年(明治24年)から福岡で暮らし、1900年(明治33年)に東京に戻る。福岡県立豊津中学校(現・福岡県立育徳館中学校・高等学校)卒業。 中学時代から詩作を行っていたが、上京して与謝野鉄幹に師事し、水野蝶郎名義で新進詩人として知られる。
喜多 源逸(きた げんいつ、1883年(明治16年)4月8日… 喜多 源逸(きた げんいつ、1883年(明治16年)4月8日 - 1952年(昭和27年)5月21日)は、日本の工業化学者である。京都帝国大学名誉教授。 奈良県生まれ。郡山中学を経て、京都市の第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)卒業後、上京し東京帝国大学工科大学(現在の東京大学大学院工学系研究科・工学部)応用化学科に入学する。1906年(明治39年)に同大学を卒業後は、翌1907年(明治40年)に同大学の講師を経て1908年(明治41年)には同大学の助教授に昇格した。1916年(大正5年)に京都帝国大学(現在の京都大学)に転勤し、同大学の工科大学(現在の京都大学大学院工学研究科・工学部)の助教授として活動し後に研究のため欧米に留学する。
桑原 一郎(くわはら いちろう、1883年(明治16年)4月… 桑原 一郎(くわはら いちろう、1883年(明治16年)4月7日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。朝鮮総督府官僚。 山口県吉敷郡宮野村出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、高等文官試験に合格。佐賀県試補、長崎県理事官、山口県理事官、島根県警察部長、大分県警察部長、沖縄県警察部長を務めた。1923年(大正12年)、朝鮮総督府事務官に転じ、殖産局水産課長、咸鏡北道内務部長、咸鏡南道内務部長、釜山府尹、大邱府尹を歴任した。 退官後は宮野村長や防長新聞株式会社社長などを務めた。
西村 濤蔭(にしむら とういん、1883年4月7日 - 19… 西村 濤蔭(にしむら とういん、1883年4月7日 - 1945年5月25日)は、日本の小説家、文芸評論家、時事・政治評論家。 浅草の商人西村誠造の長男として生まれ、菊島家の養子となるが、1904年(明治37年)、養母と協議離縁し西村家に復籍した。その間の事情は小説「佛様」(『ホトトギス』明治40年4月)に描かれている。実家の家督は異母弟が相続していたが、濤蔭とは絶縁状態にあったようで、濤蔭は妹の梅とともに早稲田で借家暮らしをしていた。 1908年(明治41年)、早稲田大学専門部政治経済科卒業。在学中の1907年(明治40年)4月から、『ホトトギス』誌上に「佛様」「京の月」等の小説を発表する。夏目漱石の高浜虚子宛書簡(明治40年8月4日)に、濤蔭が漱石のもとを訪れ、自作の批評と『ホトトギス』への掲載を乞うたことが記されている。
吉田 勝太郎(よしだ かつたろう、1883年(明治16年)4… 吉田 勝太郎(よしだ かつたろう、1883年(明治16年)4月5日 - 1970年(昭和45年)10月22日)は第8代・第10代四日市市長。大日本帝国の内務官僚、岐阜県知事。四日市コンビナートの誘致に尽力した。四日市の名誉市民である。 愛媛県越智郡今治町(現今治市)出身。静岡県立静岡中学校に学び、野球部に所属した。第三高等学校 (旧制)を経て、1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学法律学科卒業。同年文官高等試験に合格。明治時代末期から昭和時代初期にかけて全国各地の文官を歴任した。1931年に岐阜県知事を務め、同年12月18日に休職、1932年1月29日、依願免本官となり退官した。 その後、官選市長として1934年(昭和9年)に四日市市長に就任。
太田 鉄太郎(鐵太郎、おおた てつたろう、1883年(明治1… 太田 鉄太郎(鐵太郎、おおた てつたろう、1883年(明治16年)4月5日 - 1958年(昭和33年)9月30日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、北海道上川郡名寄町長。 山形県東田川郡東栄村(現:鶴岡市)で太田豊治の長男として生まれる。1900年5月、父と共に北海道天塩国上川郡上名寄村字名寄太に入植し開墾に従事。 学務委員、上名寄村会議員、名寄町会議員、北海道会議員、名寄町長、名寄町農業会長、北海道農業会理事、名寄信用購買販売生産組合理事、名寄信託商事取締役、北海道澱粉統制組合理事長、日本澱粉統制 (株) 監事などを務めた。 1946年4月の第22回衆議院議員総選挙で北海道第二区から出馬して当選。
北 一輝(きた いっき、本名:北 輝次郎(きた てるじろう)… 北 一輝(きた いっき、本名:北 輝次郎(きた てるじろう)、1883年(明治16年)4月3日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。二・二六事件を引き起こした皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され、軍法会議にかけられ、死刑判決を受け刑死した。
尾崎 重美(おざき しげみ、1883年(明治16年)4月2日… 尾崎 重美(おざき しげみ、1883年(明治16年)4月2日 - 1959年(昭和34年)11月23日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 高知県幡多郡中村(中村町、中村市を経て現四万十市)出身。尾崎重勝、美弥の三男として生まれた。早くに父が没し、苦学して中学卒業資格を取得。 東京郵便電信学校を卒業後、通信手、統監府通信属を務めた。1914年(大正3年)、中央大学を卒業し、高等文官試験と弁護士試験に合格した。青島守備軍民政部事務官、三重県桑名郡長、安濃郡長、会計検査院副検査官を歴任した。さらに市来乙彦東京市長の秘書官を務めた。その後、弁護士を開業するとともに判例集報社の経営にあたった。
小野 耕一郎(おの こういちろう、1883年(明治16年)4… 小野 耕一郎(おの こういちろう、1883年(明治16年)4月1日 - 1945年(昭和20年)1月21日)は、明治末から昭和前期の農業経営者・政治家。衆議院議員、三重県一志郡下之川村長、同郡久居町長。 三重県一志郡下ノ川村(下之川村大字下之川、美杉村大字下之川を経て現津市美杉町下之川)で、豪農・小野耕平の長男として生まれ、1902年(明治35年)三重県立津中学校(現三重県立津高等学校)を卒業し、同年に家督を相続し農業を営む。 下之川村産業組合長、地方森林会議員、一志郡木炭同業組合長、三重県木炭同業組合連合会評議員、産業組合中央会三重支部理事、三重県海外協会理事、同海外移住組合理事などを務め、農事の改善、産業振興に尽力した。
寺崎 武男(てらさき たけお、1883年3月30日 - 19… 寺崎 武男(てらさき たけお、1883年3月30日 - 1967年2月16日)は、日本の洋画家・版画家。房総神話を描いた画家として知られる。 東京都生まれ。1907年に東京美術学校西洋画科を卒業し、農商務省実業講習生としてイタリアを訪れ、ベネチアを拠点に活動し、フレスコ画やエッチングなどを学ぶ。1918年、山本鼎らと日本創作版画協会を設立。後に日本版画協会の創立に参加した。作品に「房州の海」「安房開拓神話」などがある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
高橋 弥太郎(たかはし やたろう、1883年(明治16年)3… 高橋 弥太郎(たかはし やたろう、1883年(明治16年)3月27日 - 1945年(昭和20年)10月20日)は、大正から昭和時代前期の実業家、政治家。樺太庁豊原市長。 長野県東筑摩郡松本(現松本市)出身。松本商業学校を卒業する。1906年(明治39年)5月、樺太に渡り、豊原実業懇話会および信用組合設立に参画した。豊原町会議員当選を皮切りに、1931年(昭和6年)2月、豊原町長に就任し、市制施行後の1937年(昭和12年)9月に市長として引き続き再選した。町長、市長を12年間、無給で勤めた。 1942年(昭和17年)2月に退任し、翌年4月、樺太配電・樺太魚菜配給各社長に就任した。のち大泊町にて洋服店を経営した。
長沼 賢海(ながぬま けんかい、1883年(明治16年)3月… 長沼 賢海(ながぬま けんかい、1883年(明治16年)3月26日 - 1980年(昭和55年)7月14日)は、日本史学者。九州大学名誉教授。 1883年、新潟県高田(現上越市)浄興寺山内の正光寺に生まれた。長沼賢明の長男。旧制新潟県立高田中学、旧制第四高等学校を経て、1907年、東京帝国大学文科大学国史学科を卒業。 1912年、東京府立第一中学校教諭となった。東京府立第一中学校教諭時代の教え子に、小林秀雄、河上徹太郎がいる。1920年、広島高等師範学校教授に転じた。1924年、史学研究のため欧州留学を命じられ、英・仏・独・蘭・印・伊などに滞在・留学した。1925年、九州帝国大学法文学部国史学科の初代教授に就任。
西村 真琴(にしむら まこと、1883年(明治16年)3月2… 西村 真琴(にしむら まこと、1883年(明治16年)3月26日 - 1956年(昭和31年)1月4日)は、日本の生物学者。元・北海道帝国大学教授。マリモの研究や、人間型ロボット「學天則」の制作などで知られるほか、保育事業にも貢献した。次男は2代目水戸光圀役で知られる俳優の西村晃。
蓮沼 蕃(はすぬま しげる、1883年3月26日 - 195… 蓮沼 蕃(はすぬま しげる、1883年3月26日 - 1954年2月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将、勲等は勲一等功二級。石川県出身。
篠原 陸朗(しのはら ろくろう、1883年〈明治16年〉3月… 篠原 陸朗(しのはら ろくろう、1883年〈明治16年〉3月26日 - 1966年〈昭和41年〉9月6日)は、日本の政治家。衆議院議員選挙に通算4回当選した。 東京府(現・東京都)生まれ。東京帝国大学法科大学独法科卒業後官界に入り、司法官試補となった。その後大蔵省に移り(主計局属)、税務監査局事務官、大蔵省主計官、大蔵省書記官、長崎税関長、熊本税務監査局長を歴任した。 1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員選挙に立憲民政党公認で旧千葉県第1区から立候補し初当選した。2年後の第18回衆議院議員選挙では民政党大敗のあおりを受け次点に終わったものの、1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員選挙で政界に返り咲いてからは連続3回総選挙に当選した。
藤井 甚太郎(ふじい じんたろう、1883年3月25日 - … 藤井 甚太郎(ふじい じんたろう、1883年3月25日 - 1958年7月9日)は、大正・昭和期の日本史学者。法政大学文学部名誉教授。明治維新史の実証主義的研究の先駆者として活躍した。
橋本 福松(はしもと ふくまつ、1883年3月24日 - 1… 橋本 福松(はしもと ふくまつ、1883年3月24日 - 1944年2月5日)は日本の地理学者、実業家。旧姓は平沢。 長野県上伊那郡西春近村(現伊那市)生まれ。旧松本藩士の橋本房太の養子となる。上京して正則英語学校卒業、在学中は坪井正五郎の指導を受けて地理学・人類学を学ぶ。1902年諏訪郡玉川小学校の教員となり、校長の島木赤彦に師事する。のち諏訪高等女学校等で教鞭をとりながら、諏訪湖の研究に打ち込み、1906年に湖底の「曽根遺跡」を発見、1910年には「諏訪地図」を完成させる。 1918年再び上京して岩波書店に入社したが、病気に罹患して帰郷し伊那小学校に勤務の傍ら、「上伊那郡誌」の編纂に携わる。
粟屋 謙(あわや けん、1883年(明治16年)3月21日 … 粟屋 謙(あわや けん、1883年(明治16年)3月21日 - 1938年(昭和13年)4月2日)は、日本の文部官僚、滝川事件当時の文部次官。山口県下関市長府出身。長府藩報国隊を組織した野々村勘九郎の孫。 旧長府藩士・教員である粟屋平一の長男として東京で生まれる。豊浦中学、第三高等学校を経て、1907年7月で東京帝国大学法科大学法律学科(独法)卒業し大学院に進む。同年7月、内務省に入省し東京府属となる。同年11月、文官高等試験に合格。以後、内務属、茨城県事務官を歴任。 1911年5月、文部省に転じ文部書記官兼文部省参事官に就任。1913年、宗教局が内務省から文部省に移管されたのを機に、宗教法制定に尽力。
野口 保市郎(のぐち やすいちろう、1883年3月21日 -… 野口 保市郎(のぐち やすいちろう、1883年3月21日 - 1952年8月5日)は、日本の地理学者。 茨城県出身。1912年に東京帝国大学西洋史学科を卒業した。 郁文館中学校・開成中学校・成蹊中学校教諭、浦和高等学校講師などを経て、1921年より法政大学で教授を務めた。また、中央大学教授も務めている。 1949年に「常陸風土記の歴史地理学的研究」で東北大学より文学博士号を取得した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
五島 慶太(ごとう けいた、旧姓・小林、1882年〈明治15… 五島 慶太(ごとう けいた、旧姓・小林、1882年〈明治15年〉4月18日 - 1959年〈昭和34年〉8月14日)は、日本の実業家、政治家、官僚。東急及びその子会社の東急電鉄といった東急グループの事実上の創業者である。正三位勲一等。長野県青木村名誉村民。 長野県の農家に生まれ、東京帝国大学卒業後、官僚を9年務めた後に現在の東急東横線の前身である武蔵電気鉄道常務に就任。実質的な経営権を獲得し、池上電気鉄道(現・東急池上線)や玉川電気鉄道(後の東急玉川線)をはじめとする数々の競合企業をM&Aを用いて次々と買収し、「強盗慶太」の異名を取った。一方、実業家としては優れた経営を行い、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)の小林一三と並び、「西の小林・東の五島」と称された。
古宇田 晶(こうだ あきら、1882年(明治15年)4月16… 古宇田 晶(こうだ あきら、1882年(明治15年)4月16日 - 1939年(昭和14年)11月13日)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選宮崎県知事。 東京府出身。古宇田義鼎の四男として生まれた。第三高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。農商務省に入省し山林局に配属。1909年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 その後、内務省に転じ宮城県事務官となる。以後、新潟県理事官、兵庫県理事官、岩手県警察部長、宮崎県警察部長、静岡県警察部長、愛知県警察部長、北海道庁土木部長などを歴任。 1927年5月、田中義一内閣により宮崎県知事に任じられた。普通選挙による初の県議選において、選挙違反に問われ大迫元繁宮崎市長と共に逮捕された。
久村 種樹(ひさむら たねき、1882年4月16日 - 19… 久村 種樹(ひさむら たねき、1882年4月16日 - 1967年4月26日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍中将。陸軍科学研究所長、陸軍技術本部長を歴任。戦後、東洋高圧工業(現・三井化学)社長。 滋賀県出身。近江西大路藩(蒲生郡日野町)出身の教育家久村静弥の長男として生れる。陸軍幼年学校(13期)を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校14期卒業(砲兵科)。翌年6月、砲兵少尉に任官し東京湾要塞砲兵連隊付となる。1908年(明治41年)12月、陸軍砲工学校高等科(14期)を優等で卒業。1909年(明治42年)9月、砲工学校員外学生となり東京帝国大学工学部火薬学科に入学。1912年(明治45年)7月、東京帝国大学を卒業し大阪火薬工廠宇治火薬製造所付となる。
中島 三郎(なかじま さぶろう、1882年(明治15年)4月… 中島 三郎(なかじま さぶろう、1882年(明治15年)4月15日 - 1952年(昭和27年)2月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。岡山県岡山市出身。 1882年(明治15年)に岡山県上道郡字野村(現:岡山市)で生まれた。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、陸軍士官学校第13期として卒業する。1925年(大正14年)5月1日に陸軍重砲兵学校教育部長に就任し、8月7日に陸軍砲兵大佐に進級した。1928年(昭和3年)3月に横須賀陸軍重砲兵連隊長に転じ、1929年(昭和4年)8月に陸軍造兵廠総務部長に就任した。 1930年(昭和5年)8月1日に陸軍少将進級と同時に陸軍技術本部総務部長に着任し、1932年(昭和7年)8月に陸軍技術本部第1部長に転じた。
北村 政治郎(きたむら まさじろう、1882年(明治15年)… 北村 政治郎(きたむら まさじろう、1882年(明治15年)4月14日 - 1933年(昭和8年)3月28日)は、日本の通信技術者である。 滋賀県大津市の生まれ。幼年のころに北村斎一郎の養子となり、新潟県に移住する。後に上京し逓信省が運営する東京郵便電信学校を経て、卒業後の1904年(明治37年)に同省に入り電気試験所に勤務した。 その後は同僚の丸毛登らと共に、多くの電話や通信の接続装置、電線の発明に携わった。1924年(大正13年)に逓信省を離れ、翌1925年(大正14年)に東京放送局(現在の日本放送協会)が開局したのと同時に同局の技師長に就任し、放送事業の向上に貢献した。子にジャズ・クラリネット奏者の北村英治らがいる。
勧修寺 経雄(かじゅうじ つねお、1882年(明治15年)4… 勧修寺 経雄(かじゅうじ つねお、1882年(明治15年)4月13日 - 1936年(昭和11年)11月1日)は、明治末から昭和前期の教育者、政治家、華族。貴族院伯爵議員。 東京府出身。伯爵・勧修寺顕允の長男として生まれる。父・顕允の死去に伴い、1900年(明治33年)10月4日、家督を相続し伯爵を襲爵(しゅうしゃく)した。 1908年(明治41年)東京高等農学校を卒業。1910年(明治43年)以降、殿掌、掌典、陵墓監、同志社女子専門学校講師、京都府立第一高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)講師などを務めた。 1919年(大正8年)6月14日、補欠選挙で貴族院伯爵議員に選出され、研究会に属して1925年(大正14年)7月9日まで在任した。
大倉 邦彦(おおくら くにひこ、旧姓:江原、1882年(明治… 大倉 邦彦(おおくら くにひこ、旧姓:江原、1882年(明治15年)4月9日 - 1971年(昭和46年)7月25日)は、日本の実業家・教育者。号を三空居士と称した。大倉喜八郎の大倉財閥とは全く関係がない。 大倉洋紙店(現・新生紙パルプ商事)会長。現在の神奈川県横浜市港北区大倉山に大倉精神文化研究所を創設。第10・11代東洋大学学長。 1882年4月9日、佐賀県神埼郡西郷村(現神埼市)の士族・江原家に生まれる。1902年に旧制佐賀中学校、1906年に上海の東亜同文書院を卒業の後、大倉洋紙店に入社。社長の大倉文二に見込まれて婿養子となり、その後社長に就任、事業を大きく発展させる。 日本の教育界・思想界の乱れを憂えた邦彦は、教育の重要性を説き、私財を投じて東京目黒に富士見幼稚園、郷里である佐賀県西郷村に農村工芸学院などを開設したほか、この考えをさらに広く普及させるべく、1932年には現在の神奈川県横浜市港北区大倉山に大倉精神文化研究所を創設する。