白井 成允(しらい しげのぶ、1888年〈明治21年〉2月6… 白井 成允(しらい しげのぶ、1888年〈明治21年〉2月6日 - 1973年〈昭和48年〉8月25日)は、日本の倫理学者。 岩手県盛岡市出身、盛岡中学卒業。1913年東京帝国大学文学部哲学科卒業。愛知県立医学専門学校(現・名古屋大学医学部)教授、(旧制)第二高等学校教授、京城帝国大学教授を経て広島文理科大学教授。1957年「三経義疏の倫理学的管窺」で広島文理科大学文学博士。1952年龍谷大学教授。睦学園短期大学長、武庫川女子大学教授。 次男は白井成道(哲学者、大阪府立大学名誉教授)、三男は小田嶋成和(病理学者)、四男は白井成雄(フランス文学者、名古屋大学名誉教授)。
高木 市之助 (たかぎ いちのすけ、1888年(明治21年)… 高木 市之助 (たかぎ いちのすけ、1888年(明治21年)2月5日 - 1974年(昭和49年)12月23日)は 、日本の国文学者である。愛知県名古屋市出身。
難波 英夫(なんば ひでお、1888年2月5日 - 1972… 難波 英夫(なんば ひでお、1888年2月5日 - 1972年3月7日)は岡山県出身の社会運動家。 高梁川の支流成羽川の一支流、日名川の源である熊之谷(現・高梁市成羽町上日名)に生まれる。父は小学校の校長であった。自身は部落外の出身だが、9歳で部落差別の存在を知る。経済的理由で旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)への進学を断念。15歳で準教員の試験に合格。16歳で阿部小学校の準訓導となる。翌年、近似(ちかのり)という被差別部落の分教場に派遣されて生徒指導に悩み、自信を失って教師を辞職。 1912年、朝鮮の京城日報記者となり、1917年に帰国。1918年、東京時事新報社に入り、1919年、大阪時事新報社社会部長に転じる。
森 清(もり きよし、1888年2月4日 - 1933年6月… 森 清(もり きよし、1888年2月4日 - 1933年6月30日)は、日本の俳優である。森 きよしとクレジットされた作品もある。本名大塚 秀次郎(おおつか ひでじろう)。サイレント映画の時代、日活向島撮影所の女形役者として知られる。 1888年(明治21年)2月4日、滋賀県栗太郡草津村(現在の同県草津市)に生まれる。 『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)および『芸能人物事典 明治大正昭和』(日外アソシエーツ)には、旧制・岩倉鉄道学校(現在の岩倉高等学校)を卒業した旨の記述があるが、『現代俳優名鑑 東京 映畫俳優篇』(揚幕社)によれば、旧制小学校を卒業後、旧制の「大津中学校」(滋賀県第二中学校、現在の滋賀県立膳所高等学校)を2年次に落第して中途退学し、1907年(明治40年)、数え年20歳のときに京都大丸呉服店(現在の大丸京都店)の店員、同年、大阪三越呉服店(のちの三越大阪店、2005年閉店)の店員になったとあり、岩倉鉄道学校については一切言及されていない。
板橋 菊松(いたばし きくまつ、1888年(明治21年)2月… 板橋 菊松(いたばし きくまつ、1888年(明治21年)2月3日 - 1983年(昭和58年)1月23日)は、日本のジャーナリスト、大学教授である。 1888年(明治21年)2月3日、大阪府三島郡で出生。1905年(明治38年)、関西大学に入学するが、1907年(明治40年)、早稲田大学政経学科に転じる。卒業後、宮武外骨率いる大阪滑稽新聞に入社。記者として活躍し、宮武外骨が編集から離れたのちには、主筆を務めた。1920年(大正9年)朝鮮に渡り京城高等商業学校講師に就任。その後、1926年(大正15年)には、内地に戻り立教大学の講師に就任し、翌1927年(昭和2年)には商学部の教授に昇進した。1928年(昭和3年)司法省在外研究員としてアメリカ、イギリスに留学した。
浅野 孝之(あさの たかゆき、1888年2月3日 - 194… 浅野 孝之(あさの たかゆき、1888年2月3日 - 1948年7月25日)は、日本の教育者、浄土真宗僧侶、旧制成蹊高等学校初代校長。旧制姫路高等学校校長、第七高等学校造士館校長、山口経済専門学校校長等も歴任した。 愛媛県越智郡小西村(後の大西町、現今治市の一部)大字脇生まれ。同地の明専寺(浄土真宗)住職であった浅野聖諦の長男。旧制松山中学校(愛媛県立松山東高等学校の前身)を1907年に卒業後、第一高等学校を経て、1914年7月に東京帝国大学文科大学(現東京大学文学部)哲学科を卒業。1914年12月7日、文部省教育調査会嘱託となる。1917年5月、アメリカ領ハワイ(布哇)における通俗教育に関する状況調査を嘱託され、またホノルル市にある布哇中学校と布哇高等女学校の教諭に任命される。
木村 小左衛門(きむら こざえもん、1888年2月2日 - … 木村 小左衛門(きむら こざえもん、1888年2月2日 - 1952年2月28日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。初名吉郎。多額納税者・木村義三郎の次男。 地方実業界の重鎮として多年活躍したが、1924年衆議院議員に当選以来、中央政界で活動した。若槻禮次郎(元首相)との関係極めて密であった。総理大臣秘書官、大蔵大臣秘書官等を経て農林大臣、内務大臣、国務大臣建設院総裁(初代、後の建設大臣)、国務大臣地方自治庁長官等を歴任した。 島根県大原郡大東町(現在の雲南市)に生まれる。 松江中学(現島根県立松江北高等学校)、早稲田大学に学ぶ。郡会議員・郡会議長を経て1924年の第15回衆議院議員総選挙に故郷の島根県から憲政会公認で初当選。
松田 竹千代(まつだ たけちよ、明治21年(1888年)2月… 松田 竹千代(まつだ たけちよ、明治21年(1888年)2月2日 - 昭和55年(1980年)12月1日)は、日本の政治家(男性)である。衆議院議員選挙に通算12回当選した。ニックネームはテキサス無宿。
為藤 五郎(ためとう ごろう、1888年(明治21年)2月1… 為藤 五郎(ためとう ごろう、1888年(明治21年)2月1日 - 1941年(昭和16年)7月4日)は、日本の教育者、政治家。 福岡県築上郡三毛門村(現在の豊前市)出身。福岡県師範学校を経て、1911年(明治44年)に東京高等師範学校を卒業。福岡県小倉師範学校教諭、鹿児島県師範学校教諭を経て、「東京日日新聞」記者となる。後に博文館に転じ、雑誌「中学世界」主筆、「太陽」編集長を務めた。関東大震災後、東京府嘱託となり、『大正大震災史』の著述に当たった。その後、教育週報社社長・主筆を務めた。 また社会民衆党中央執行委員となり、東京府会議員、東京市会議員に選出された。そのほか、衆議院議員総選挙にも2度出馬したがいずれも落選した。
緒方 竹虎(おがた たけとら、1888年〈明治21年〉1月3… 緒方 竹虎(おがた たけとら、1888年〈明治21年〉1月30日 - 1956年〈昭和31年〉1月28日)は、日本のジャーナリスト、政治家。交詢社会員、朝日新聞社副社長・主筆、自由党総裁、自由民主党総裁代行委員、国務大臣、情報局総裁、内閣書記官長、内閣官房長官、副総理などを歴任。栄典は正三位勲一等旭日大綬章。 兄の緒方大象は医学者・九州大学名誉教授、弟の緒方龍は医師。二男の緒方研二は元日本電気(NEC)副社長、三男の緒方四十郎は元日本銀行理事。 早稲田大学卒業後、東京朝日新聞社に入社。若くして主筆となり、1943年副社長。1944年退社し政界入り。情報局総裁、小磯内閣、東久邇内閣で国務相となる。
小田 彦太郎(おだ ひこたろう、1888年(明治21年)1月… 小田 彦太郎(おだ ひこたろう、1888年(明治21年)1月29日 - 1952年(昭和27年)5月14日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、延岡市会議長、宮崎県東臼杵郡延岡町長。 宮崎県東臼杵郡延岡城下北町(延岡町を経て現延岡市)で生まれる。1910年(明治43年)東京帝国大学農科大学林学実科を卒業した。 帰郷して回漕業を営む。延岡商工会議所会頭、商事調停委員、延岡瓦斯取締役、高千穂運輸取締役、宮崎県木材取締役、延岡バス監査役、宮崎県瓦斯用木炭取締役社長などを務めた。 政界では、延岡町会議員、延岡町長、延岡市会議員、同議長、同参事会員、宮崎県会議員、同副議長などに在任した。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙で宮崎県全県区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して当選。
田中 豊(たなか ゆたか、1888年〈明治21年〉1月29日… 田中 豊(たなか ゆたか、1888年〈明治21年〉1月29日 - 1964年〈昭和39年〉8月27日) は、日本近代橋梁史上最も著名な技術者。東京大学名誉教授。工学博士。 長野県長野市出身。元は橋梁技術者ではなく、鉄道系の技術者で、鉄道省時代は設計の規格化などの仕事に従事した。帝都復興院には太田圓三とともに在籍することになるが、なぜか橋梁課長に抜擢されることになった。恩師・広井勇に顧問への就任を依頼したところ、「落ちないようにやればよい」と逆に激励されたという。 関東大震災によって被害を受けた橋梁の総数は、東京で675橋、横浜で108橋であったが、復興事業の設計責任者として隅田川にかかる永代橋や清洲橋といった橋梁群を手がけ、新技術を次々に導入して橋梁近代化の礎を成した。
岩切 重雄(いわきり しげお、1888年〈明治21年〉1月2… 岩切 重雄(いわきり しげお、1888年〈明治21年〉1月28日 - 1980年〈昭和55年〉1月27日)は、大正から昭和前期の政治家。衆議院議員(4期)、鹿児島市長(第13代)。号・五山。 鹿児島県鹿児島郡鹿児島城下平之馬場町(現・鹿児島市平之町)で、岩切仲二の長男として生まれた。鹿児島一中 (旧制)、第一高等学校 (旧制)を経て、1914年(大正3年)東京帝国大学法科大学政治学科卒業。 その後鳥取県属、同警視、鹿児島市助役、大蔵大臣秘書官を務め、1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙において鹿児島2区から立憲政友会で立候補して初当選。以後通算4期務めた。その後、同郷の床次竹二郎が政友会を離党し、政友本党を結成するとそれに従い、政友本党が憲政会と合流し、立憲民政党が結成されると同党に入党した。
川上 貫一(かわかみ かんいち、1888年〈明治21年〉1月… 川上 貫一(かわかみ かんいち、1888年〈明治21年〉1月28日 - 1968年〈昭和43年〉9月12日)は、大正・昭和の労働運動活動家・政治家。後に日本共産党国会議員団長となる。娘は洋画家の川上律江。 岡山県哲多郡(現・新見市)出身。 1907年(明治40年)県立農学校を卒業後、代用教員や岡山県職員を務め、後に大阪府の社会課主事に転じる。1927年(昭和2年)に昭和文化学会に参加して以後、共産党シンパとしての活動を強め、翌年には検挙を受ける。また、1937年(昭和12年)の人民戦線事件でも検挙されて懲役2年の実刑判決を受けている。この間、マルクス経済学を学び、社会主義系の雑誌や研究所の立ち上げに関与した。
守屋 徳夫(もりや のりお、明治21年(1888年)1月27… 守屋 徳夫(もりや のりお、明治21年(1888年)1月27日 - 没年不明)は、日本の実業家。樺太水産(株)社長。樺太魚菜配給(株)取締。樺太水産物統制販売組合監事。 元衆議院議員、元宮城県塩竈市長守屋栄夫の弟。外交官守屋和郎の兄。元防衛事務次官守屋武昌の叔父。 宮城県富永村(のち古川市、現大崎市古川)出身。守屋徳郎の二男。守屋栄夫の弟。守屋和郎の兄。 明治42年(1909年)宮城師範学校卒業、大正4年(1915年)広島高等師範学校卒業、大正7年(1918年)京都帝国大学社会科卒業。台湾総督府視学・台北高等商業学校教授。旭紡秘書課長。朝鮮殖産銀行勤務。東洋拓殖資金課長。日魯漁業常任監査役 趣味は打球、文学。
金 炳魯(キム・ビョンノ、1888年1月27日(旧暦1887… 金 炳魯(キム・ビョンノ、1888年1月27日(旧暦1887年12月15日) - 1964年1月13日)は、韓国の独立運動家・弁護士・政治家。大韓民国初代大法院長。許憲・李仁と並んで、日本統治下での三大民族弁護士のひとりとして名を馳せた。本貫は蔚山金氏。号は街人(カイン)。 全羅北道淳昌郡の郷班の家に生まれる。 父の金相熹は漢城府の司諫院に正三品で仕官していたため、祖父から儒学の薫陶を受けた。1904年には全羅南道潭陽の日新學校で西洋人宣教師から算術や西洋史などの新学問を学び、1905年の乙巳条約をきっかけに、崔益鉉のもとを訪ねて義兵闘争に参加した。1906年に金性洙の昌興學校に入学し、留学を決意、1910年に渡日し、明治大学法学部(夜間部)に入学、1912年に明治大学高等研究科の3年次に編入し、1915年に卒業した。
今井 長太郎 (いまい ちょうたろう、1888年1月25日 … 今井 長太郎 (いまい ちょうたろう、1888年1月25日 – 1978年8月5日)は、日本の郷土植物学者。 生家は、農業を営んでいた。母は、名田庄村の漢方医、小野正伯の娘。 三方町南前川に生まれる。大正12年 – 佐久間書院創立に参画。昭和16年 – 大日本農業会総裁より名誉賞状を受ける。 昭和27年 - 県文化賞。昭和28年 – 県文化財保護委員。 昭和49年 – 県政功労者として知事表彰。昭和52年 - 勲六等瑞宝章受章。
相川 宗次郎(あいかわ そうじろう、前名・幾太郎、1888年… 相川 宗次郎(あいかわ そうじろう、前名・幾太郎、1888年〈明治21年〉1月25日 - 1978年〈昭和53年〉11月28日)は、日本の商人(米穀商)、会社役員、政治家。埼玉県浦和市長〈第3代〉、浦和市会議長。 埼玉県・先代宗次郎の長男。1914年、家督を相続し、前名幾太郎を改め襲名する。米穀商を営む。 1921年、浦和町会議員に当選する。1925年、浦和町助役。浦和市会議員時代には市会議長に選ばれた。1938年9月に浦和市長に就任し、1942年9月に退任した。 戦争中は大政翼賛会の支部長だったため、戦後に公職追放となった。 また浦和商工会長、相川精麦取締役、浦和商業銀行監査役、埼玉県食糧営団理事長、埼玉県中小企業団体中央会会長、全国食糧事業協組連理事などをつとめる。
石原 俊明(いしはら しゅんめい、1888年〈明治21年〉1… 石原 俊明(いしはら しゅんめい、1888年〈明治21年〉1月21日 - 1973年〈昭和48年〉1月17日)は、静岡県出身の昭和期の実業家、出版者、曹洞宗の僧侶。化学工業新聞社、国際情報社、国光印刷、大法輪閣の創業者。 静岡県小笠郡大須賀町(現、掛川市)に生まれる。1891年、浜岡町新野(現、御前崎市)の想慈院に引き取られる。この頃、可睡斎で日置黙仙禅師に師事。1903年上京。化学工業新聞社社長に就任。科学知識普及協会を設立。1921年、『科学知識』創刊。1922年有限会社国際情報社を設立、『国際写真情報』創刊。1923年『劇と映画』創刊。1924年『国際写真グラフ』『婦人グラフ』創刊。1934年9月『大法輪』創刊。
山口 義一(やまぐち ぎいち、1888年(明治21年)1月2… 山口 義一(やまぐち ぎいち、1888年(明治21年)1月20日 - 1935年(昭和10年)4月15日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。 大阪府堺市出身。1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。1917年(大正6年)、堺市長選挙に推されたが、市会での得票数が対立候補の斎藤研一と同数だったため、年下の山口が譲らざるを得なかった。 その後、京都帝国大学大学院で社会政策を学んだが、1919年(大正8年)に退学。翌年の第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、5回当選を重ねた。普通選挙や貴族院改革を主張した。田中義一内閣で大蔵参与官に就任した後、政友会幹事長を務めた。 また堺スコップ株式会社、坂自転車株式会社の役員も務めた。
渡辺 仁(わたなべ じん、1887年(明治20年)2月16日… 渡辺 仁(わたなべ じん、1887年(明治20年)2月16日 - 1973年(昭和48年)9月5日)は、近代日本の建築家。作品のスタイルは歴史主義様式のほか、表現派、帝冠様式、初期モダニズムと多岐にわたっている。主要作品には服部時計店、東京帝室博物館(原案)、第一生命館などがある。記念碑的な建築物を設計した。 1887年(明治20年)2月16日 新潟県佐渡生まれ。東京育ち。父は渡辺渡(後に東京帝国大学工科大学校長)。 1912年(明治45年)7月 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。卒業後、鉄道院に務めた。 1917年(大正6年)12月 逓信省入省。大臣官房経理局営繕係勤務。1920年退職。 1920年(大正9年)4月 独立し、渡辺仁建築工務所開設。
新見 政一(にいみ まさいち、1887年〈明治20年〉2月1… 新見 政一(にいみ まさいち、1887年〈明治20年〉2月14日 - 1993年〈平成5年〉4月2日)は、日本の海軍軍人、戦史研究家。最終階級は海軍中将。 広島県広島市安佐北区出身。農業・醤油製造業の新見千五郎の二男として誕生。妻の澄子は小林躋造海軍大将の妹。旧制広島県立忠海中学校より海軍兵学校第36期入校。席次は入校時200名中35番、卒業時191名中14番。同期生の水戸春造海軍中将は中学同窓でもある。新見は海軍砲術学校高等科を修了し、同校教官を務めた砲術専攻士官であり、またオックスフォード大学で国際法を学んだ日本海軍有数の知英派である。 駐英武官補佐官在任中に第一次世界大戦の戦史研究を行い、帰国後『海軍中央軍令機関整備ノ意見書』および『持久戦ニ関スル意見書』を当局に提出した。
青木 正児(あおき まさる、旧字体: 靑木 正兒、1887年… 青木 正児(あおき まさる、旧字体: 靑木 正兒、1887年(明治20年)2月14日 - 1964年(昭和39年)12月2日)は、大正から昭和中期の中国学者・中国文学者。日本学士院会員。山口県下関市出身。字は「君雅」。号に「迷陽」があり、「迷陽先生」とも呼ばれた。 年譜は『青木正児全集』最終10巻末ほかに収録されている。 1887年(明治20年)2月14日、山口県下関市で漢方医・青木坦平の次男として生まれた。父・坦平には支那趣味があり、南画家を自宅に招いたり、妻や娘に琵琶など中国の楽器を習わせるなどしており、青木正児も幼少期より文学や美術を好んだ。1905年、山口県立豊浦中学校を卒業し、同年9月に第五高等学校第一部(現:熊本大学)に入学。
折口 信夫(おりくち しのぶ〈のぶを〉、1887年〈明治20… 折口 信夫(おりくち しのぶ〈のぶを〉、1887年〈明治20年〉2月11日 - 1953年〈昭和28年〉9月3日)は、日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人・歌人でもあった。 折口の成し遂げた研究は、「折口学」と総称されている。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた。みずからの顔の青痣(あざ)をもじって、靄遠渓(あい・えんけい=青インク、「靄煙渓」とも)と名乗ったこともある。 1887年2月11日、大阪府西成郡木津村(現:大阪市浪速区敷津西1丁目・鷗町公園)に父秀太郎、母こうの四男として生まれた。信夫の祖父の造酒之介が、飛鳥坐神社の社家の出身ということもあり、終生、折口はそれを自慢していた(養子なので直接血縁はないと言われている)。
高橋 泰雄(たかはし やすお、1887年(明治20年)2月1… 高橋 泰雄(たかはし やすお、1887年(明治20年)2月10日 - 1967年(昭和42年)9月6日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→日本自由党)、浦和市長(初代・第5代)。弁護士。 埼玉県北足立郡浦和町(現在のさいたま市)に衆議院議員高橋安爾の子として生まれる。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。1919年(大正8年)、浦和に弁護士事務所を開業し、後には浦和地方裁判所所属弁護士会長を務めた。1925年(大正14年)、浦和町会議員に選ばれ、1931年(昭和6年)には浦和町長に選ばれた。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1934年(昭和9年)、浦和町が市制を施行すると初代市長に就任した。
菅野 力夫(すがの りきお、1887年(明治20年)2月9日… 菅野 力夫(すがの りきお、1887年(明治20年)2月9日 - 1963年(昭和38年)3月12日)は、明治末期から昭和初期にかけて活動した日本の探検家。 8回に及ぶ探検を行い、多くの国々の観光地やその他の土地を訪れ、現地人や日系人と交わった。自身の写真も同時に撮影し、一部は絵葉書としている。講演を多数おこない、旅費を稼いだ。 巨漢で身長5尺8寸(176センチメートル)、1932年に髭を剃るまでは、髭ぼうぼうで顔面を埋め、眼光炯々、三軍を叱咤する風貌であるが、幼児もなつくという性格であった。日本人で菅野をかんのと読む人は多いが、3編の新聞記事ですがのりきおとしている。 福島県安積郡喜久田村(現:郡山市)出身。
土田 麦僊う(つちだ ばくせん、 1887年(明治20年)2… 土田 麦僊う(つちだ ばくせん、 1887年(明治20年)2月9日 - 1936年(昭和11年)6月10日)は大正~昭和期の日本画家である。 明治20年(1887年)、新潟県佐渡郡新穂村(現佐渡市新穂)の農家の三男として生まれる。本名は金二。哲学者の土田杏村(茂)は弟である。明治37年(1904年)、竹内栖鳳に弟子入り。明治44年(1911年)、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)を卒業している。同年には小野竹喬らとともに前衛的な絵画運動の会である仮面会(ル・マスク)を結成。黒猫会に参加。文展には在学中の明治41年(1908年)から出品していた。この頃の作品にはゴーギャンの影響が見られる。
鳥養 利三郎(とりがい りさぶろう、1887年2月8日 - … 鳥養 利三郎(とりがい りさぶろう、1887年2月8日 - 1976年9月24日 )は、日本の電気工学者。工学博士(1925年)。京都大学名誉教授。元京都大学総長。従二位勲一等、元日本学士院会員、文化功労者。京都市名誉市民。徳島県生まれ。 黎明期の日本の電気工学界を支えた重鎮。高電圧過渡現象の測定や高周波焼入に関する研究で業績を上げた。また、教育行政においても手腕を発揮し、京都大学総長・電気学会会長・大学基準協会副会長などを務めた。特に、京都大学総長としては、戦後の混乱期を支えた名総長として知られている。
中谷 貞頼(なかたに さだより、1887年2月8日 - 19… 中谷 貞頼(なかたに さだより、1887年2月8日 - 1954年11月21日)は、日本の実業家、映画製作者、弁護士、政治家である。大正から昭和初年にかけて衆議院議員であり、日本活動写真(日活)の専務取締役、代表取締役社長として映画を製作した。衆議院議員の中谷元は孫。 1887年(明治20年)、茨城県真壁郡下妻町(現・下妻市)に元下妻藩士・中ノ内昌為の四男として生まれる。 1901年(明治34年)母の兄弟であった、もと土佐藩士で大審院判事や樺太地方裁判所長などを務めた中谷速水の養子となった。 1913年(大正2年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した。三井物産に入社して香港支店勤務となるが辞職して台湾に移り、弁護士を開業。
中西 伊之助(なかにし いのすけ、1887年2月8日 - 1… 中西 伊之助(なかにし いのすけ、1887年2月8日 - 1958年9月1日)は、日本の作家、労働運動家、政治家。衆議院議員を2期務めた。 1887年2月8日、京都府久世郡槇島村(現・宇治市)の農家に出生し私生児として届け出された。旧制大成中学校(5年級編入学)を経て海軍兵学校に志願するも、出自を理由に入校はならなかった。その後、中央大学、早稲田大学に入るがいずれも中退。 少年・青年時代から機関車掃除夫や陸軍宇治火薬造所職工、新聞配達、南満州鉄道社員など、多種多様な職に就く傍ら無産運動にも尽力。朝鮮で新聞記者を務めていた時代には、藤田組による鉱山労働者虐待の実態を報じ、投獄されたこともある。 帰国後の1919年に日本交通労働組合へ入り、同組合理事長として東京市電争議を主導するが、治安警察法違反により検挙投獄となる。
石射 猪太郎(いしい いたろう、1887年2月6日 - 19… 石射 猪太郎(いしい いたろう、1887年2月6日 - 1954年2月8日)は、日本の外交官。 日中戦争初期に外務省東亜局長を務めた。戦争拡大に走る軍部に抵抗し、日中和平を試みたことで知られる。外務省東亜局長(海外の外務省では、次官補クラス、のち大東亜省)、駐タイ特命全権大使、駐ブラジル特命全権大使、駐ビルマ特命全権大使を歴任。 1887年、福島県西白河郡川崎村に石射文五郎の長男として生まれた。福島中学(現:福島県立福島高等学校)を経て、1908年、東亜同文書院を卒業し満鉄に入社。その後父の仕事を手伝うべく退社したが、父が事業に失敗し失業。岳父(福島県山白石村の農家で多額納税者)から生活援助を受けながら外交官及領事官試験の勉強に励み、2回目の挑戦で合格した。
井上 三郎(いのうえ さぶろう、1887年(明治20年)2月… 井上 三郎(いのうえ さぶろう、1887年(明治20年)2月6日 - 1959年(昭和34年)6月4日)は、日本陸軍の軍人、最終階級は陸軍少将。貴族院議員。侯爵。桂太郎の次男。井上馨は義理の祖父に当たる。
斎藤 勇(さいとう たけし、1887年2月3日 - 1982… 斎藤 勇(さいとう たけし、1887年2月3日 - 1982年7月4日)は、日本の英文学者。位階は正三位。 文化功労者、日本学士院会員。日本英文学会第3代会長(1938年 - 1941年)。東京女子大学学長(1948年 - 1954年)。東京帝国大学名誉教授、国際基督教大学名誉教授。文学博士。孫に惨殺された(斎藤勇東大名誉教授惨殺事件)。 福島県伊達郡富野村(現伊達市梁川町)に農家の長男として生まれる。旧制福島中学校(現福島県立福島高等学校)を経て、1905年、旧制第二高等学校(現東北大学)に入学。1908年、第二高等学校卒業後、東京帝国大学文科大学(英吉利文学専修)に入学。 1911年、東京帝国大学卒業、恩賜の銀時計を受ける。
村田 武(むらた たけし、1887年(明治20年)2月3日 … 村田 武(むらた たけし、1887年(明治20年)2月3日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 静岡県に堀慎作の長男として生まれ、村田熊三郎の養子となった。錦城中学校、第二高等学校を経て、1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、高等文官試験に合格。和歌山県属、同警視、同理事官、同日高郡長、京都府理事官、兵庫県理事官、福岡県書記官・学務部長、和歌山県警察部長、岐阜県警察部長、山形県警察部長を歴任した。 1929年(昭和4年)に退官した後は、京都市助役を務めた。
東家 楽燕(あずまや らくえん、本名:岡部 六弥、1887年… 東家 楽燕(あずまや らくえん、本名:岡部 六弥、1887年2月3日 - 1950年3月8日)は明治から昭和にかけて活躍した浪曲師。東京出身。
嶋中 雄作(しまなか ゆうさく、1887年2月2日 - 19… 嶋中 雄作(しまなか ゆうさく、1887年2月2日 - 1949年1月17日)は、昭和期の出版人・編集者。中央公論社社長。奈良県生まれ。兄は社会運動家の島中雄三。 奈良県磯城郡三輪町(現在の桜井市)出身。島中雄碩の四男。社会主義運動家で文筆家だった兄雄三と混同されることが多かったため、姓を先祖の「嶋家」に因み「嶋中」に変えた。 奈良県畝傍中学(現奈良県立畝傍高等学校)を経て1912年10月に早稲田大学文学部哲学科を卒業後、恩師の島村抱月、金子筑水両教授の推薦で中央公論社に入社した。1913年、『中央公論』の婦人問題特集号を企画、これが成功したことを追い風にして1916年、『婦人公論』の創刊にこぎつけ編集長となる。
竹下 豊次(たけした とよじ、1887年(明治20年)2月2… 竹下 豊次(たけした とよじ、1887年(明治20年)2月2日 – 1978年(昭和53年)4月25日)は、大正から昭和期の官僚、政治家。貴族院多額納税者議員、参議院議員(緑風会)。 宮崎県南那珂郡西方村(福島村大字西方、福島町を経て現串間市)出身。1904年(明治37年)旧制宮崎県立宮崎中学校(現 宮崎県立宮崎大宮高等学校)卒業。1907年(明治40年)旧制第七高等学校造士館卒業。1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、大学院に学んだ。1912年(大正元年)高等試験行政科に合格し、翌年に福岡県属警部となった。以後、同県警視、製鉄所副参事、同参事、農商務省工場監督官、同書記官・工場課長を歴任した。
酒匂 秀一(さかわ しゅういち、1887年(明治20年)2月… 酒匂 秀一(さかわ しゅういち、1887年(明治20年)2月2日 - 1949年(昭和24年)7月23日)は、日本の外交官。ロシア通として知られ、南洋協会理事長等を務めた。 1909年に東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、同校専攻部に進学。同期の大島堅造(のちに住友本社取締役)や1期上の熊崎恭(のちにニューヨーク総領事)とは英語教師のフレデリック・イーストレイクや、高商時代のドイツ語教師だったリヒャルト・ハイゼの家に遊びに行くなど親しかった。 駐ポーランド特命全権大使在任中、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻を前に、1939年(昭和14年)1月ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラー総統とポーランド外務大臣ユゼフ・ベック大佐の直接会談を実現。
中野 友禮(なかの とものり/ゆうれい、1887年2月1日 … 中野 友禮(なかの とものり/ゆうれい、1887年2月1日 - 1965年12月10日)は、日本の実業家。中野 友礼または中野 有礼としている場合もあり、読みも「とものり」ではなく「ゆうれい」としている場合もある。中野式食塩電解法の開発を契機に日曹コンツェルンを築く。 福島県大沼郡川西村(現:三島町)西方の旧会津藩士の家に生まれる。神尾彦之進の二男で、幼児に中野家の養子になった。旧制会津中学校(現:福島県立会津高等学校)を卒業後、一高の臨時中学校養成所に進んだ。その後、1908年(明治41年)、京都帝国大学理学部化学教室助手となり、中野式食塩電解法(電解ソーダ法)を開発し特許を得た。 中野はこの技術を基にして、1920年(大正9年)に日本曹達を設立し、苛性ソーダ、さらし粉の生産を開始した。
金井 滋直(かない しげなお、1887年〈明治20年〉2月1… 金井 滋直(かない しげなお、1887年〈明治20年〉2月1日 - 1979年〈昭和54年〉12月3日)は、日本の実業家。興国人絹パルプ社長を務めた。 埼玉県大里郡大寄村(のちの深谷市)生まれ。旧制群馬県立前橋中学校(のちの群馬県立前橋高等学校)を経て、1911年東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業、東洋生命保険入社。同社業務部長、同社総務部長を経て、1931年同社常務。1936年日本曹達常務。1937年日曹人絹パルプ常務。1941年興国人絹パルプ(のちの興人)社長。1946年山陽パルプ発起人。同年同社取締役。1949年マードック賞受賞。1953年矢野恒太記念会理事。1955年経済審議会委員。
長田 新(おさだ あらた、1887年(明治20年)2月1日 … 長田 新(おさだ あらた、1887年(明治20年)2月1日 - 1961年(昭和36年)4月18日)は、日本の教育学者。広島大学名誉教授。専門は教育思想史。現在の長野県茅野市出身。 長野県諏訪郡豊平村(現:茅野市)出身。古田小学校下古田分校では、歌人島木赤彦の父、塚原浅茅教諭の教えを受ける。長野県立諏訪中学校(現:長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)、広島高等師範学校英語科を卒業後、大分師範学校の教諭を3年務めた後、1915年(大正4年)京都帝国大学文学部卒業。澤柳政太郎のもとで新教育運動に参加し、教育の実証的実験研究を行う。旧制広島文理科大学(広島大学の前身)教授在任中の1945年(昭和20年)8月6日広島に投下された原爆に被爆し重傷を負ったが、家族や教え子の看護で九死に一生を得た。
井上 長一(いのうえ ちょういち、1887年2月1日 - 1… 井上 長一(いのうえ ちょういち、1887年2月1日 - 1972年5月30日)は、日本の航空実業家。徳島県出身。 徳島県板野郡西条村(現阿波市吉野町西条)出身。タクシー会社経営の傍ら、1922年6月4日に大阪府堺市大浜海岸に日本航空輸送研究所を設立し、11月15日より日本最初の民間航空路線となる不定期の水上機による航空輸送路線を開設した。その後、大浜に堺水上飛行学校を設立した。日本航空輸送研究所は、国策による大日本航空株式会社の設立とともに、1939年10月31日に業務を停止した。堺水上飛行学校は1942年まで、操縦士、整備士を養成した。1952年に現在の全日本空輸の前身の一つである極東航空の設立に参加した。
馬越 喜七(まこし きしち、1887年〈明治20年〉2月1日… 馬越 喜七(まこし きしち、1887年〈明治20年〉2月1日 - 1930年〈昭和5年〉9月20日)は、日本の海軍軍人。海軍航空草創期の搭乗員の一人であり、海軍初期国産機の製作に携わった。最終階級は海軍中佐。 愛媛県に生まれる。大洲中学校を経て1909年(明治42年)11月19日海軍兵学校(37期)を卒業、1911年(明治44年)2月27日海軍少尉任官。1912年(大正元年)中尉任官、1914年(大正3年)3月海軍航空術研究委員会練習将校(3期生)。同年の青島攻囲戦では水上機母艦若宮飛行隊に所属した。 帰国後は飛行高度・滞空時間の記録を樹て、海軍初期の国産機開発・生産に携わった。1916年(大正5年)12月1日大尉、1922年(大正11年)少佐、1927年(昭和2年)11月29日中佐に昇任したが、病を得て1930年(昭和5年)1月15日に予備役に編入され、同年9月20日に没した。
小川 孝喜(おがわ たかよし、1887年(明治20年)1月3… 小川 孝喜(おがわ たかよし、1887年(明治20年)1月30日 - 1950年(昭和25年)11月18日)は、日本の政治家。立川町(現:立川市)の初代町長、立川市の初代市長である。
高堂 国典(、1887年(明治20年)1月29日 - 196… 高堂 国典(、1887年(明治20年)1月29日 - 1960年(昭和35年)1月22日)は、日本の俳優。本名は谷川 佐市郎()。一時は高堂 黒天の芸名で活動していた。通り名は「こくてん」。 戦前は帝国キネマと市川右太衛門プロダクションで活躍し、戦中から戦後にかけて東宝に出演した。老け役として個性を発揮し、様々な作品に脇役で活躍。黒澤明作品の常連の一人でもある。 兵庫県高砂市に生まれる。 関西学院中学部中退後の1901年(明治34年)新派の村田正雄の門下に入り、大阪横井座で初舞台を踏んだ後地方巡業で各地を回る。 1923年(大正12年)帝国キネマ小阪撮影所現代劇部に入社後本格的に映画俳優として活動を始め、『呪いの船』『復讐鬼』『星は乱れ飛ぶ』といった作品に出演する。
緒方 規雄(おがた のりお、1887年1月28日 - 197… 緒方 規雄(おがた のりお、1887年1月28日 - 1970年2月6日)は、日本の医学者、細菌学者。 東京府出身。父は衛生学者、細菌学者である緒方正規。1916年に東京帝国大学医科大学を卒業。その後、父のもとで細菌学を学び、東大副手、助手を務め、1919年に千葉医学専門学校の教授となった。1922年にドイツに留学した。帰国後の1924年に千葉医科大学の教授となった。その後は、帝国女子医学専門学校教授、東邦大学医学部教授、日本歯科大学教授を歴任した。 1927年にウサギの睾丸にツツガムシ病患者の血液を接種し、睾丸から睾丸へ継代することにより、ツツガムシ病の病原を患者から研究室に確実に持ち込むことに初めて成功した。
太田 泰治(おおた たいじ、1887年1月25日 - 196… 太田 泰治(おおた たいじ、1887年1月25日 - 1960年2月12日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 岡山県出身。太田吉三郎の二男として生れる。岡山津山中学校を経て、1909年11月、海軍兵学校(37期)を卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。1916年12月、海軍砲術学校高等科を卒業し、以後、「薩摩」「浅間」「扶桑」の各分隊長、「澤風」砲術長、東郷平八郎元帥付副官、「三日月」「初雪」の各駆逐艦長、横須賀鎮守府参謀、海軍省軍務局員などを経て、1926年6月から翌年1月にかけて欧米に出張した。 人事局員(第1課)、「加古」「榛名」の各副長、運送艦「洲埼」・「大井」・「浅間」の各艦長、軍務局第2課長などを歴任し、1936年12月、海軍少将に進級した。
鈴木 吉之助(すずき きちのすけ、1887年1月25日 - … 鈴木 吉之助(すずき きちのすけ、1887年1月25日 - 1951年12月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 京都府出身。1907年日本大学商科卒。京都市議、同参事会員、同副議長、京都府議、同副議長、同参事会員、同市部会議長、京都市教育会理事、同連合青年団評議会議長、京都土地興業(株)常務取締役、京都毎日新聞社長、京都市児童愛護連盟理事長となる。 1928年の第16回衆議院議員総選挙において京都1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して初当選。以来連続3回当選した。1930年の第17回衆議院議員総選挙で再選。1932年の第18回衆議院議員総選挙で三選。1936年の第19回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
宇野 茂兵衛(うの もへえ、1887年〈明治20年〉1月22… 宇野 茂兵衛(うの もへえ、1887年〈明治20年〉1月22日 - 没年不明)は、日本の実業家。宇野製粉所代表社員。関西製鋼監査役。族籍は大阪府平民。 大阪府平民・宇野庄壽計の長男。1900年3月、家督を相続する。鋳物、製粉業を営む。会社の重役である。住所は大阪府泉南郡貝塚町(現・貝塚市)。 貝塚市北町の宇野家はもともとは貝塚鋳物師(いもじ)である金屋長右衛門(かなやちょうえもん)家の分家で、代々「茂兵衛」を名乗り、製粉業を営んだ。1887年ごろに長右衛門家の鋳物業を引き継いだ。宇野家住宅は登録有形文化財である。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
梶島 二郎(かじしま じろう、1887年1月21日 - 19… 梶島 二郎(かじしま じろう、1887年1月21日 - 1974年)は、日本の数学者。旧制鹿児島県立工業専門学校初代校長、新制鹿児島県立大学初代工学部長・第2代学長・名誉教授。 東京都出身。1906年、第七高等学校造士館理科を卒業。1909年、東京帝国大学理科大学(現東京大学理学部)数学科を卒業。1912年、東京帝国大学文科大学(現東京大学文学部)哲学科を卒業。1913年、大学院修了。東京工業大学附属予備部教授、予備部長を歴任。鹿児島県に招かれて、1945年4月1日、鹿児島県立工業専門学校校長事務取扱に着任し、5月25日付で初代校長に就任。また、鹿児島県立鹿児島工業学校校長も兼務した。 学制改革により1949年には、旧制工専校長の梶島が、新制鹿児島県立大学(初期校名は県立鹿児島大学)の教授および初代工学部長に就任。