村井 勝(むらい まさる、1883年(明治16年)12月24… 村井 勝(むらい まさる、1883年(明治16年)12月24日 - 1968年(昭和43年)10月23日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1883年(明治16年)に山口県で生まれた。陸軍士官学校第15期、陸軍砲工学校高等科第15期(優等)、東京帝国大学機械工学科卒業。1923年(大正12年)4月に陸軍造兵廠名古屋工廠千種機器製造所長に就任し、1925年(大正14年)12月に陸軍砲兵大佐に進級した。1928年(昭和3年)8月に陸軍造兵廠技術部長に転じ、1930年(昭和5年)6月に陸軍技術本部仏国駐在官に就任した。 1931年(昭和6年)8月1日に陸軍少将進級と同時に陸軍技術本部部員に就任し、1932年(昭和7年)4月に陸軍砲工学校砲兵科長を経て、1934年(昭和9年)8月に陸軍技術本部第3部長に就任した。
安倍 能成(あべ よししげ、1883年〈明治16年〉12月2… 安倍 能成(あべ よししげ、1883年〈明治16年〉12月23日 - 1966年〈昭和41年〉6月7日)は、日本の哲学者、教育者、政治家。位階は正三位。法政大学教授、京城帝国大学教授、第一高等学校校長、貴族院勅選議員、文部大臣、貴族院帝国憲法改正案特別委員会委員長を歴任し、学習院院長などを務めた。 医師安倍義任(よしとう)、品(しな)の八男として松山城下の小唐人町(後の愛媛県松山市大街道)に生まれた。松山中(後の愛媛県立松山東高等学校)から第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学へと進む。ただし、家庭の経済事情により中学卒業後1年間、母校の助教諭心得(講師)として英語を教えているため、第一高等学校進学は1902年(明治35年)のことである。
宍戸 梅軒(ししど ばいけん、1883年12月22日 - 1… 宍戸 梅軒(ししど ばいけん、1883年12月22日 - 1963年5月)は、明治から昭和にかけて福島県伊達郡を中心に活動した俳人である。幼名を文作、通称を寅吉といい、俳号として梅軒、また麦村とも称した。 福島県伊達郡伏黒村宮本(現伊達市)に生まれる。明治30年(1897年)、14歳で正岡子規主宰の「ホトトギス」に投句し、入選する。これを機に子規に師事した。明治38年(1905年)、機関紙「八重桜」を刊行し、「奥州に梅軒あり」と評される。明治41年(1908年)1月、「土筆(つくつくし)」を刊行する。 大正の初め、山梨県の宿で知り合った自称小説家の青年と意気投合し、文学談議に花が咲き深夜まで語り合う、という出来事があった。
松野 鶴平(まつの つるへい、1883年〈明治16年〉12月… 松野 鶴平(まつの つるへい、1883年〈明治16年〉12月22日 - 1962年〈昭和37年〉10月18日)は、日本の政治家。衆議院議員、鉄道大臣、参議院議長などを歴任。権謀術数に長けたことから「松のズル平」とあだ名された。また、実業家として菊池電気軌道(現・熊本電気鉄道)の社長も務めた。熊本県平民。 妻・タキノは商工大臣等を務めた野田卯太郎の娘。自由民主党政調会長、総務会長などを務めた松野頼三は三男。民進党の衆議院議員松野頼久は孫、2016年ミス日本グランプリ受賞者の松野未佳は曾孫にあたる。 明治16年(1883年)12月22日、熊本県菊池郡城北村(鹿本郡菊鹿町、現在の山鹿市)中農の長男として生まれる。
鈴木 善太郎(すずき ぜんたろう、1883年1月19日 - … 鈴木 善太郎(すずき ぜんたろう、1883年1月19日 - 1950年5月19日)は、日本の小説家、劇作家、翻訳家。雅号は秋風。 福島県郡山市大町生まれ。旧制安積中学校を中退、旧制海城学校に転校し卒業。早稲田大学文学部英文学科卒業。卒業後は、国民新聞、朝日新聞社の記者として活躍し、大正7年に短篇小説『幻想』を発表して作家としての地位を確立する。『文章倶楽部』にて、菊池寛や野村愛正と並んで三大新進作家に数えられた。新劇運動にも参加し、日本近代演劇界に多大な貢献をした。 大正10年欧米各国を歴訪、帰国後、松竹顧問、コロムビア文芸部顧問となる。フェレンツ・モルナールの紹介に貢献した。
國分 勘兵衛(こくぶ かんべえ、1883年1月19日 - 1… 國分 勘兵衛(こくぶ かんべえ、1883年1月19日 - 1975年2月23日)は、日本の実業家。養子として入った國分家の家業を株式會社國分商店(のちの国分グループ本社株式会社)とし、カルピス食品工業株式會社代表取締役社長なども務めた。旧名山本 秀次郎。 現在の三重県松阪市で生まれた。1905年に東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業し、國分商店に入った。國分家の養子となり、1924年には國分勘兵衛を襲名した。1938年大日本洋酒食料品商組合の初代会長に就任した。 日本の降伏後、1950年に合名会社国分商店と国分漬物株式会社を合併して国分株式会社(のちの国分グループ本社株式会社)を設立し、同社社長に就任。
安居 喜八(やすい きはち、1883年〈明治16年〉1月18… 安居 喜八(やすい きはち、1883年〈明治16年〉1月18日 - 没年不詳)は、日本の実業家。近江貯蓄銀行・百三十三銀行等、多くの会社の重役を務めた。資産家、滋賀県多額納税者。公選初代・彦根市長。家督相続前は、喜三郎を名乗る。 1883年(明治16年)1月、滋賀県犬上郡彦根町で、資産家の先代・安居喜八の長男として生まれる。安居家は滋賀県犬上郡彦根町における資産家として知られる。弟は大阪市東区瓦町1-20に居住した紙商・安居武藏(やすい むさし)。1887年(明治20年)家督を相續し、前名・喜三郞を改めた。 近江貯蓄銀行・百三十三銀行・川北電氣企業・黒部川電力ではそれぞれ取締役を務め、近江絹糸紡績では監査役を務めた。
島田 七郎右衛門(しまだ しちろうえもん、1883年1月17… 島田 七郎右衛門(しまだ しちろうえもん、1883年1月17日 - 1962年7月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 富山県出身。1901年、富山県立富山中学校(現・富山県立富山高等学校)卒。日露戦争に従軍、陸軍歩兵中尉となる。三等郵便局長、福岡町(現・高岡市)議、同町長、富山県議、西砺波郡農会長、富山県農会長、同山林会副会長、福岡信用組合理事長、北陸製絹、高岡新報、中越土木、笹川窯業、高岡電燈、岡吉商事、大岩電気、飛越電気、戸出物産各(株)重役を務める。 1930年の第17回衆議院議員総選挙で富山2区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが落選。1932年の第18回衆議院議員総選挙で初当選。
人見 東明(ひとみ とうめい、1883年(明治16年)1月1… 人見 東明(ひとみ とうめい、1883年(明治16年)1月16日 - 1974年(昭和49年)2月4日)は、日本の詩人、教育者。本名は圓吉(えんきち)。昭和女子大学(日本女子高等学院)の創設者。 東京に生まれ、岡山県で育つ。早稲田大学高等師範部英語科を卒業後、讀賣新聞社に記者として勤務する。早大在学時より詩作に励み、1907年(明治40年)5月に相馬御風・三木露風・加藤介春・野口雨情らと早稲田詩社を起こす。1909年(明治42年)に加藤介春、三富朽葉、福田夕咲らとともに自由詩社を結成、口語自由詩運動の基礎を作り、新体詩の普及に努めた。また、1920年(大正9年)に日本女子高等学院(後の昭和女子大学)を創立し、教育者としての功績も残している。
古山 春司郎(ふるやま はるしろう、1883年(明治16年)… 古山 春司郎(ふるやま はるしろう、1883年(明治16年)1月16日 - 1953年(昭和28年)5月11日)は、日本の検事。弓道家。 千葉県上埴生郡豊栄村(現在の長生郡長南町)出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法官試補となる。鹿児島地方裁判所予備判事、大分地方裁判所・大分区裁判所判事を経て、1916年(大正5年)に検事に転じ、名古屋地方裁判所・名古屋区裁判所検事、岐阜地方裁判所・岐阜区裁判所検事、甲府地方裁判所・甲府区裁判所検事、東京地方裁判所・東京区裁判所検事、横浜地方裁判所検事、東京控訴院検事、長崎控訴院検事を歴任した。 その後、台湾総督府法院検事となり、台北地方法院検察官長、高等法院検察官長を務めた。
松井 貴太郎(まつい きたろう、1883年1月16日 - 1… 松井 貴太郎(まつい きたろう、1883年1月16日 - 1962年11月2日)は、大正時代から昭和時代にかけて三井系の建物の設計を多く手がけた建築家。東京銀行集会所(後に東京銀行協会)や、三信ビルディングなどの設計などで知られる。 *現況欄の✕は現存せず
大山 文雄(おおやま あやお、1883年(明治16年)1月1… 大山 文雄(おおやま あやお、1883年(明治16年)1月12日 - 1972年(昭和47年)10月19日)は、日本の陸軍法務官、政治家。最終階級は陸軍法務中将。陸軍省法務局長、初代岡山県井原市長。 岡山県後月郡西江原村(西江原町を経て現井原市)で、後に井原町長を務めた大山邦一、房与夫妻の長男として生まれる。西江原村立尋常義之小学校を経て、岡山県立商業学校に入学したが中退。郡役所書記を経て、1904年7月、日本大学専門部正科を卒業。同年12月、判事検事登用試験に合格。同年12月、司法官試補となり第5師団法官部員として修習し、陸軍を志願して1905年3月、陸軍理事試補に任官し留守第11師団法官部員に就任した。
小泉 多三郎(こいずみ たさぶろう、1883年〈明治16年〉… 小泉 多三郎(こいずみ たさぶろう、1883年〈明治16年〉1月10日 - 1952年〈昭和27年〉8月12日)は日本の政治家。岩手県盛岡市長。 岩手県東和賀郡十二鏑村(のち和賀郡土沢町→東和町現・花巻市)出身。盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)を経て、1906年、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)卒。樺太民政署に入り、東京営林局などに勤務した。その後、1908年に母校の盛岡高等農林学校の助教授となり、1918年に教授となった。同年に退職後、岩手林業に入り、常務取締役となった。 1929年、盛岡市会議員となり、18年務めた。 盛岡市長選挙に立候補して、社会党の新人を破って初当選を果たした。
佐藤 清一郎(さとう せいいちろう、1883年(明治16年)… 佐藤 清一郎(さとう せいいちろう、1883年(明治16年)1月10日 - 1965年(昭和40年)5月17日)は、日本の外科医。東京医学専門学校教授、順天堂医学専門学校教授を歴任し、日本外科学会会長。東京府日本橋区出身。 1883年(明治16年)1月、日本橋区の樋口家に生まれる。 1905年(明治38年)7月、第一高等学校を卒業し、京都帝国大学福岡医科大学に進学して、順天堂副医院長で順天堂医院第2代医院長佐藤進の養子である佐藤恒久の養子になる。1907年(明治40年)義父恒久が死去する。1909年(明治42年)12月、福岡医科大学を卒業し、卒業後は福岡医科大学外科(三宅速教授)に入局。1912年(大正元年)よりドイツ・イギリス・ベルギー・オランダに留学しゲッティンゲン大学やベルリン大学で病理学・肺外科の研究に従事し、第一次世界大戦勃発により1914年(大正3年)帰国した。
森 彦兵衛(もり ひこべえ、1883年(明治16年)1月9日… 森 彦兵衛(もり ひこべえ、1883年(明治16年)1月9日 - 1958年(昭和33年)7月12日)は、大正から昭和時代前期の政治家、大日本帝国海軍軍人。岐阜県高山市長。岐阜県多額納税者。 森七左衛門の二男として高山に生まれる。京都帝国大学法科卒業後、海軍に入り海軍主計少佐に昇ったのち退役する。ついで教育界に転じ、岐阜県立高山高等女学校(現岐阜県立高山高等学校)長となったのち、宮野省三知事の推薦および市会一致の推挙により1938年(昭和13年)8月、高山市長に就任した。 1945年(昭和20年)4月、高山市長を退任。戦後、公職追放となる。
浮田 茂太郎(うきた しげたろう、1883年〈明治16年〉1… 浮田 茂太郎(うきた しげたろう、1883年〈明治16年〉1月8日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の政治家。山口県下関市長、防府市長。 浮田芳平の長男として香川県に生まれ、1913年(大正2年)家督を相続する。1910年(明治43年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、東京鉄道会社に入社する。1911年(明治44年)8月、東京市事務員となり、1919年(大正8年)6月、同市主事となる。1923年(大正12年)2月、下関市助役となり、1927年(昭和2年)1月、同市長に就任し、1931年(昭和6年)1月、満期退職した。ついで京都市主事、同市理事、香川県育英会学監兼監事を経て、1938年(昭和13年)3月5日、防府市長に就任した。
細野 長良(ほその ながよし、1883年(明治16年)1月7… 細野 長良(ほその ながよし、1883年(明治16年)1月7日 - 1950年(昭和25年)1月1日)は、日本の裁判官、弁護士。最後の大審院院長を務めた。 富山県立富山中学校(後の富山県立富山高等学校)中退、旧制第六高等学校卒業。1908年、京都帝国大学法学部卒業。1918年、東京控訴院判事。広島控訴院院長の時に1944年2月の東條演説事件に対して、司法権独立の侵害と憲法違反に抗議する意見書を提出した。 1946年2月に第23代大審院長に就任。これは岩田宙造司法大臣による人事であり、細野は岩田大臣と司法権独立で意気投合していた。細野は日本の司法改革に意欲を持つGHQ民政局司法法制課課長のアルフレッド・C・オプラーとも意気投合した。
近藤 茂吉(こんどう しげきち、1883年〈明治16年〉1月… 近藤 茂吉(こんどう しげきち、1883年〈明治16年〉1月7日 - 1969年〈昭和44年〉2月22日)は、日本の登山家・貿易商。 登山家としては、剱岳別山尾根の初下降、辻村伊助とともに行ったヨーロッパ遠征、黒部峡谷初横断などで名を残し、日本山岳会名誉会員に選ばれた。また、大日本体育協会設立に参画し、バスケットボールの普及にも貢献している。 1883年(明治16年)、千葉県海上郡飯岡町(現在の旭市)に生まれる。実家は醸造家。 東京・音羽の豊山中学校(のちに大正大学となる学校)を卒業後、1904年(明治37年)から1906年(明治39年)にかけてウイスキー研究のためにイギリス・スコットランドのグラスゴー大学に留学。
黒瀬 弘志(くろせ ひろし、明治16年(1883年)1月7日… 黒瀬 弘志(くろせ ひろし、明治16年(1883年)1月7日 - 昭和18年(1943年)11月10日)は、日本の内務官僚、政治家。第26代山梨県知事、第7代神戸市長(在任:1925年8月17日 - 1933年)。熊本県出身。 熊本県宇土郡宇土町(現在の宇土市)に生まれる。明治42年(1909年)6月に東京帝国大学法科大学法律学科(英法)卒業、同年11月に文官高等試験に合格、同年12月に警視庁警部となり、明治43年(1910年)12月に警視庁警視となり高輪警察署長、堀留警察署長、警視庁監察官、警視庁特別高等課長を歴任後、大正6年(1917年)1月に岡山県警察部長、大正9年(1920年)に福岡県警察部長、大正11年(1922年)1月に山口県内務部長、同年11月に兵庫県書記官・内務部長を歴任。
坂本 森一(さかもと しんいち、1883年〈明治16年〉1月… 坂本 森一(さかもと しんいち、1883年〈明治16年〉1月7日 - 1947年〈昭和22年〉9月18日)は、内務官僚、函館市長。 下谷区(現在の台東区)の谷中墓地にある茶店おもだかやの店主坂本勝太郎の長男として生まれる。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、翌年に文官高等試験に合格。1911年(明治44年)より群馬県警部、利根郡長、佐波郡長、群馬県理事官を務めた。さらに岐阜県警察部長、兵庫県警察部長、大阪府警察部長、愛知県内務部長を歴任し、1924年(大正13年)には台湾総督府警務局長に就任した。 1929年(昭和4年)、函館市長に選出され、市の長年の懸案であった函館水電買収問題に取り組んだが、最終的な解決には至らなかった。
武者 錬三(むしゃ れんぞう、明治16年(1883年)1月7… 武者 錬三(むしゃ れんぞう、明治16年(1883年)1月7日 - 昭和56年(1981年)1月13日)は、日本の実業家。朝鮮電気協会元副会長。京城電気元社長。族籍は京都府士族。 土木技師である武者満歌の長男として、神戸市に生まれる。 明治29年(1896年)に京都府尋常中学校(現・京都府立洛北高等学校)、同38年(1905年)に東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業する。尚、東京高商の同期には、三井物産の田島繁二(後同社常務取締役)、内田信也、芳川寛治がいる。 卒業と同時に第一銀行へ入行し、間もなく釜山支店副支配人に挙げられ、朝鮮へ渡る。渡鮮後、朝鮮における電気事業を有望視し、親友の芳川寛治らとともに渋沢栄一が後援する日韓瓦斯(ガス)株式会社の経営に当たったが、明治30年代当時の朝鮮では、一般の需要は少なく、会社の業績は上がらなかった。
見坊 田鶴男(けんぼう たづお、1883年〈明治16年〉1月… 見坊 田鶴男(けんぼう たづお、1883年〈明治16年〉1月6日 - 1955年〈昭和30年〉1月20日)は日本の政治家。岩手県盛岡市長。 盛岡市出身。盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)卒。岩手県庁に入り、岩手郡書記となる。内務省警保局書記を経て、青森県北津軽郡長、福島県相馬郡長を歴任した。1927年に満州に渡り、遼陽、鞍山の各事務所長を経て、関東州果樹組合専務理事に就任した。1936年に退職し帰国した。 1939年に盛岡市長に就任。盛岡市は厨川、中野、本宮、浅岸と合併。太平洋戦争が始まり、戦時体制下の市政運営となり、困難を極めた。市長は1943年に辞職した。 戦後、公職追放となり、追放解除後の1955年に死去した。
畑 七右衛門(七右衞門、はた しちうえもん、1883年(明治… 畑 七右衛門(七右衞門、はた しちうえもん、1883年(明治16年)1月6日 - 1958年(昭和33年)5月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・長沢、前名・留治郎。和孝に改名。 京都府天田郡、のちの細見村(三和村、三和町を経て現福知山市)に長沢又三郎の六男として生まれる。兵庫県在住の先代畑七右衛門の養子となる。兵庫県立柏原中学校(現・兵庫県立柏原高等学校)を卒業し、その後日露戦争に従軍する。1916年に家督を相続して七右衛門を襲名する。春日部村収入役、同村長を務め、兵庫県議、同議長、県農会特別議員に選ばれる。ほか多利信用購買組合長、春日部村信用組合長、同農会長、黒井銀行、葛野銀行各取締役などを務める。
島津 健之助(しまづ けんのすけ、1883年(明治16年)1… 島津 健之助(しまづ けんのすけ、1883年(明治16年)1月5日 - 1937年(昭和12年)8月24日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家、華族。貴族院議員、男爵、従四位。 伯爵・島津忠亮の二男に生まれ、明治42年(1909年)12月20日、分家して祖父・佐土原藩主島津忠寛の勲功により男爵を叙爵する。その後、慶應義塾大学部理財科を修了。 1910年(明治43年)国光生命保険相互会社監査役となり、のち同社取締役社長を務めた。 1918年(大正7年)7月10日に貴族院男爵議員に選出され、1925年(大正14年)6月24日まで在任した。
関水 武(せきみず たけし、1883年(明治16年)1月5日… 関水 武(せきみず たけし、1883年(明治16年)1月5日 - 1939年(昭和14年)7月8日)は、朝鮮総督府官僚。 神奈川県高座郡渋谷村(現在の藤沢市から大和市にかけての地域)出身。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、高等文官試験に合格した。茨城県属、同警部、同理事官、同西茨城郡長、同那珂郡長を務めた。1919年(大正8年)、朝鮮総督府事務官に転じ、忠清南道警察部長、朝鮮総督府監察官、警務局衛生課長、平安南道内務部長、慶尚南道内務部長、京畿道内務部長、京城府尹を歴任。1930年(昭和5年)、咸鏡南道知事となり、1933年(昭和8年)に慶尚南道知事に転じた。 1935年(昭和10年)に退官した後は、朝鮮石油株式会社常務取締役を務めた。
南波 杢三郎(なんば もくさぶろう 1883年1月4日 - … 南波 杢三郎(なんば もくさぶろう 1883年1月4日 - 1967年12月17日)は、日本の検察官。 東京中学、三高を経て、1908年10月に東京帝国大学法学部法律学科独法科卒業。同年11月に司法官試補。石巻区裁判所・古川区裁判所各判事、前橋区裁判所検事などを経て、1916年に東京区裁判所兼東京地方裁判所検事に就任。以後、栃木県警察部長、福井県内務部長を経て、1924年12月に退官。1927年、時の内相・鈴木喜三郎により、内務省警保局長・山岡萬之助(のちの日本大学総長)とともに、警保局保安課長に任ぜられる。またこの件にて保安課長は奏任官から勅任官となる。特別高等警察の拡充、治安維持法の強化を図り、内務省の権限と影響力を強化した。
吉田 真策(よしだ しんさく、1883年(明治16年)1月4… 吉田 真策(よしだ しんさく、1883年(明治16年)1月4日 - 1927年(昭和2年)9月29日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 広島県山県郡吉坂村(現在の北広島町)出身。1909年、京都帝国大学法科大学卒業。統監府検事、朝鮮総督府大邱地方裁判所検事を務めた。退官後、京都で弁護士を開業し、1911年(明治44年)に広島に転じた。また広陵中学校理事も務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
池田 輝方(いけだ てるかた、1883年(明治16年)1月4… 池田 輝方(いけだ てるかた、1883年(明治16年)1月4日 - 1921年(大正10年)5月6日)は明治、大正期の浮世絵師、日本画家。本名池田正四郎。女性日本画家・池田蕉園の夫。 1883年(明治16年)1月4日、東京府京橋区(現在の東京都中央区)木挽町で建具職人池田吉五郎の次男として誕生。1895年(明治28年)に水野年方に内弟子として入門。1899年(明治32年)から一年余りを岡山で過ごした後帰京、再び年方のもとで学ぶ。1902年(明治35年)に日本絵画協会と日本美術院の共催による第12回絵画共進会で「山王祭」が、同13回展では「婚礼」がともに1等褒状を得、翌1903年(明治36年)の第14回展では「江戸時代の猿若町」が銅賞3席となった。
江部 順治(えべ じゅんじ、1883年(明治16年)1月3日… 江部 順治(えべ じゅんじ、1883年(明治16年)1月3日 - 1976年(昭和51年)2月16日)は、大正から昭和期の政治家。衆議院議員、栃木県下都賀郡小山町長。旧姓・高堂。 秋田県南秋田郡、のちの秋田市で高堂兵右衛門の五男として生まれ、江部惣四郎の養子となる。1906年(明治39年)東京高等工業学校(現東京工業大学)応用化学科を卒業した。 一時大蔵省に入省したが退職し、下野酒造(のち一徳酒造)専務、栃木県酒類販売社長、下野醤油社長、同県商工経済会小山出張所長、小山商工会長、那須商業銀行監査役などを務めた。 政界では、小山町会議員、所得税調査委員、栃木県都賀地方事務所参与などを務め、1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)まで小山町長に在任した。
田巻 堅太郎(たまき けんたろう、1883年〈明治16年〉1… 田巻 堅太郎(たまき けんたろう、1883年〈明治16年〉1月2日 - 没年不明)は、日本の実業家、新潟県多額納税者、地主、篤農家、資産家。族籍は新潟県平民。 新潟県南蒲原郡田上村(現・田上町)出身。田巻七郎兵衛の二男。新潟中学校を卒業する。1902年に一年志願兵として近衛歩兵第1連隊に入営、1904年に陸軍歩兵少尉に任ぜられ、1910年に陸軍歩兵中尉に進み、正七位に叙せられ除隊となる。農業、金銭貸付業を営む。 新潟貯蓄銀行、新潟信託、愛隣社各取締役を歴任。1933年7月に第四銀行取締役に選任され以来20年間その職を続ける。1944年10月に第5代の頭取に推され、1953年に退任する。ラジオ新潟監査役をつとめる。
牧野 雅楽之丞(まきの うたのじょう、1883年〈明治16年… 牧野 雅楽之丞(まきの うたのじょう、1883年〈明治16年〉1月2日 - 1967年〈昭和42年〉8月14日)は、日本の道路技術者。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
高橋 守雄(たかはし もりお、1883年〈明治16年〉1月1… 高橋 守雄(たかはし もりお、1883年〈明治16年〉1月1日 - 1957年〈昭和32年〉5月6日)は、日本の内務官僚である。警視総監。 熊本県上益城郡浜町(現:山都町)に生まれる。熊本士族・高橋彌八郎の長男。 済々黌、旧制七高造士館を経て1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、高等文官試験に合格。翌年内務省に入り、警視庁警視となる。1910年(明治43年)、家督を相続する。 その後、石川県事務官・警察部長、岐阜県警察部長、新潟県警察部長、新潟県内務部長、京都府内務部長、内務監察官等を経て、1922年(大正11年)に第7代熊本市長となった。熊本市長時代には、市内の近代化を推進し、上水道や市電の整備、旧十三連隊跡の市街地編入の三大事業を完成させた。
鳩山 一郎(はとやま いちろう、1883年(明治16年)1月… 鳩山 一郎(はとやま いちろう、1883年(明治16年)1月1日 - 1959年(昭和34年)3月7日)は、日本の政治家、弁護士。第52・53・54代内閣総理大臣。位階勲等は正二位大勲位。
後藤 彦三郎(ごとう ひこさぶろう、前名・寛一郎、1883年… 後藤 彦三郎(ごとう ひこさぶろう、前名・寛一郎、1883年〈明治16年〉1月1日 - 1938年〈昭和13年〉6月9日)は、日本の実業家。族籍は鳥取県平民。 島根県人・後藤彦三郎の長男。1898年、家督を相続し、後に前名・寛一郎を改め襲名する。1906年、専修大学経済科を卒業。鉱業を営む。日東格魯謨鉱業常務取締役、同社専務取締役、同社社長などをつとめる。 1933年7月に国幣中社美保神社新営費金1千円を寄付したため1934年3月5日に褒状が下賜される。 米子飛行場建設の頃、多額の資金を提供する。1938年、自治制発布五十周年記念式が挙行される時、市会の決議により、波文黒手付果実盛一個並彰功録自治史各一部を贈呈され、その功労を表彰される。
四海波 太郎(しかいなみ たろう、1883年1月1日 - 1… 四海波 太郎(しかいなみ たろう、1883年1月1日 - 1933年12月10日)は、現在の兵庫県洲本市出身で小野川部屋(大阪)出羽海部屋(東京)に所属した力士。本名は佐渡 太郎市。4代君ヶ濱。171cm、90kg。最高位は大阪では東関脇、東京では東小結。 大阪相撲の小野川部屋に入門。1908年6月西昇の四股名で入幕。1910年1月関脇に進み番付発表後に師名を継ぎ八陣と改名。1912年1月東京に移り四海波の名で前頭5枚目格に付出され、1915年1月小結。右四つからの寄りが得意で、横綱梅ヶ谷と3度引分になったことがある。1917年1月に引退、4代君ヶ濱を襲名したが、1921年5月に廃業した。
小谷野 伝蔵(小谷野 傳藏、こやの でんぞう、1883年(明… 小谷野 伝蔵(小谷野 傳藏、こやの でんぞう、1883年(明治16年)1月1日 - 1963年(昭和38年)12月)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。埼玉県浦和市長。埼玉県多額納税者。 栃木県栃木町生まれ。栃木中学校卒業。坂倉重平の三男として生まれ、小谷野やさの養子となり、1912年(大正元年)家督を相続する。1915年(大正4年)、浦和商業銀行に入行した。同年、浦和町会議員となる。1919年(大正8年)、北足立郡会議員となる。1921年(大正10年)、浦和商業銀行頭取となった。1922年(大正11年)2月6日、浦和町長兼浦和町会議長となった。1923年(大正12年)8月20日に退任した。
13代 稲葉 市郎右衛門(いなば いちろうえもん、1882年… 13代 稲葉 市郎右衛門(いなば いちろうえもん、1882年〈明治15年〉12月31日 - 1954年〈昭和29年〉8月2日)は、京都府熊野郡久美浜村(現・京都府京丹後市)出身の実業家・銀行家・政治家。京都府会議長、久美浜町長。稲葉市郎右衛門景介(いなば いちろうえもん けいすけ)とも呼ばれる。国鉄峰豊線(現・京都丹後鉄道宮津線)の開業に際して多額の私財を投じたことで知られる。 1882年(明治15年)12月31日、京都府熊野郡久美浜村(現・京丹後市)に生まれた。幼名は景介。 父は12代稲葉市郎右衛門(稲葉市郎右衛門英裕)、母はきせ。12代稲葉市郎右衛門は前妻のきせとの間に一男三女、後妻のとしとの間に四女を儲けており、景介は長男だった。
田寺 俊信(たでら としのぶ、1882年(明治15年)12月… 田寺 俊信(たでら としのぶ、1882年(明治15年)12月30日 - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、姫路市長。族籍は兵庫県平民。 兵庫県飾西郡今宿村(飾磨郡高岡村を経て現姫路市)出身。兵庫県議会議長・田寺敬信の長男。第三高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、内務省に入省し鳥取県属となる。 以後、鳥取県試補、同県八頭郡長、同理事官・庶務課長、高知県理事官・教育課長、同地方課長・視学官、奈良県理事官・教育課長・視学官、奈良県警察部長、長野県警察部長、香川県内務部長、埼玉県内務部長、愛知県警察部長などを歴任。
佐々木 謙一郎(ささき けんいちろう、1882年(明治15年… 佐々木 謙一郎(ささき けんいちろう、1882年(明治15年)12月29日 – 1953年(昭和28年)6月29日)は、日本の大蔵官僚。南満州鉄道副総裁。 第一銀行頭取佐々木勇之助の長男として生まれる。1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。大蔵省に入り、税務監督局属、税務監督官、税関監視官、同事務官、神戸税関監視部長、横浜税関監視部長、大蔵参事官、大蔵書記官、大臣官房会計課長等を歴任した。1923年(大正12年)より専売局経理部長、事業部長、販売部長を経て、1932年(昭和7年)に専売局長官に就任した。専売局長在任中に収集品取扱係を設置し、浮世絵・喫煙具などたばこ関係の歴史資料の収集を始め、それらの収集品はたばこと塩の博物館の母体となった。
倉橋 惣三(くらはし そうぞう 1882年12月28日 - … 倉橋 惣三(くらはし そうぞう 1882年12月28日 - 1955年4月21日)は、日本の児童心理学者。
岡 正雄(おか まさお、1882年〈明治15年〉12月27日… 岡 正雄(おか まさお、1882年〈明治15年〉12月27日 - 1948年〈昭和23年〉10月3日)は、日本の内務・警察官僚。憲政会系官選県知事、内務省警保局長。 島根県松江市出身。岡政徳の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進む。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1910年、内務省に入省し、北海道庁属となる。 以後、北海道庁事務官補、同理事官、佐賀県理事官、新潟県理事官、青森県警察部長、鳥取県内務部長、愛知県警察部長などを歴任。 1924年7月、富山県知事に就任。県営林造成、第二次伏木港築港工事、県営電力開発などに尽力。憲政会系と見られていたが、公正な県政運営により県民の信頼を得た。
豊田 勝蔵(とよだ / とよた かつぞう、1882年(明治1… 豊田 勝蔵(とよだ / とよた かつぞう、1882年(明治15年)12月27日 - 1939年(昭和14年)11月23日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選福井県知事、樺太庁長官、台湾総督府内務局長、萩市長を歴任。 山口県阿武郡萩町細工町(現萩市細工町)出身。豊田三蔵の長男。旧制山口高等学校を経て、1908年東京帝国大学法科大学法律学科卒業。内務省に入省し、埼玉県属となる。1909年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、鹿児島県事務官、同理事官、秋田県警察部長、静岡県警察部長、台湾総督府警務官、台北高等商業学校長兼総督府参事官などを歴任。 1924年7月、福井県知事就任。郡役所廃止後に備えた吏員講習所の設置、県営印刷所の設置、自作農創設の新政策の実施などを推進した。
今成 留之助(いまなり とめのすけ、1882年(明治15年)… 今成 留之助(いまなり とめのすけ、1882年(明治15年)12月26日 - 1965年(昭和40年)6月17日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。弁護士。 新潟県高田市(現在の上越市)出身。税務属となった後、日露戦争に従軍。後、1907年(明治40年)に日本大学を卒業し、判事検事登用試験に合格した。司法官試補を経て、甲府地方裁判所・甲府区裁判所判事、新潟地方裁判所判事を務めた。その後新潟市で弁護士を開業し、新潟市会議員、同参事会員、新潟県会議員、同参事会員に選出された。 1937年(昭和12年)、第20回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第21回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。戦後、日本進歩党の結成に参加するが、大政翼賛会の推薦議員だったため、公職追放となった。
増永 正一(ますなが しょういち、1882年(明治15年)1… 増永 正一(ますなが しょういち、1882年(明治15年)12月25日 - 1944年(昭和19年)8月1日[要出典])は、日本の裁判官、検事。勲二等、従三位。 千葉県出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法官試補となった。前橋地方裁判所判事、横浜地方裁判所判事、横須賀区裁判所判事、横浜区裁判所判事を歴任。1920年(大正9年)に朝鮮総督府裁判所に転じ、1925年(大正14年)に欧米に出張した。帰国後、高等法院判事、高等法院部長を経て、1934年(昭和9年)に朝鮮総督府法務局長となり、1937年(昭和12年)に高等法院検事長に就任した。 1943年(昭和18年)、退官。
橋本 進吉(はしもと しんきち、1882年12月24日 - … 橋本 進吉(はしもと しんきち、1882年12月24日 - 1945年1月30日)は、日本の言語学者・国語学者。 1882年、福井県敦賀市に医師の長男として生まれる。京都府第一中学校(現洛北高校)、第三高等学校(現・京都大学)を経て、1906年に東京帝国大学文科大学言語学科を卒業(銀時計受領)。卒業論文は「係り結びの起源」。 文部省国語調査委員会補助委員、東京帝国大学文科大学国語学教室助手を経て、1927年、同大学国語国文学第一講座助教授に就任。1934年、東京帝国大学より文学博士の学位を取得。1929年には教授に昇任した。1942年、日本文学報国会国文学部会長。1944年、国語学会会長。 1945年、病没。
河本 文一(かわもと ぶんいち、1882年(明治15年)12… 河本 文一(かわもと ぶんいち、1882年(明治15年)12月24日 - 1960年(昭和35年)2月22日)は、日本の大蔵官僚。会計検査院長、枢密顧問官。 山口県美祢郡岩永下郷村(現:美祢市秋芳町岩永下郷)で、河本勝の四男として生まれ、河本兵四郎の養嗣子となる。山口高等学校を経て、1907年7月、京都帝国大学法科大学経済科を卒業。 1907年8月、大蔵省に入省し税務監督局税務属兼大蔵属となり、東京税務監督局に配属された。1908年11月、文官高等試験に合格。以後、宇都宮税務監督局経理部長、税務監督官、秋田税務監督局所得審査委員、税務監督局事務官・仙台税務監督局直税部長、熊本税務監督局直税部長、税務副監督官・札幌税務監督局関税部長、広島税務監督局経理部長事務取扱、大蔵省主計局書記官・臨時官有財産課長、臨時国有財産整理部書記官・総務課長兼管理課長、国有財産整理局書記官、臨時震災救護事務局事務官、兼臨時営繕局書記官、大蔵省参事官兼臨時営繕局書記官・臨時営繕局総務部長心得、兼臨時議院建築局理事などを歴任。
松村 光三(まつむら こうぞう、1882年(明治15年)12… 松村 光三(まつむら こうぞう、1882年(明治15年)12月24日 – 1962年(昭和37年)6月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→自由党)、商工参与官、大蔵政務次官、軍需政務次官。 栃木県下都賀郡栃木町(現在の栃木市)出身。1909年(明治42年)、東京高等商業学校専攻部(現在の一橋大学)を卒業。その後、ベルリン大学、ベルリン高等商業学校に留学した。古河合名会社参与、大日本人造肥料株式会社監査役、旭電化工業株式会社監査役、八戸水力電気株式会社監査役、日光登山鉄道株式会社取締役、協調会社会政策学院講師を務めた。 1928年(昭和3年)、日本初の普通選挙となった第16回衆議院議員総選挙に出馬して当選。
谷 寿夫(たに ひさお、1882年(明治15年)12月23日… 谷 寿夫(たに ひさお、1882年(明治15年)12月23日 - 1947年(昭和22年)4月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 陸士15期、陸大24期(優等)。師団参謀長、旅団長、師団長を歴任し、第6師団師団長として第二次上海事変、南京攻略戦に参加した。第二次世界大戦後、南京軍事法廷で、南京事件の首脳クラスの責任者の一人とされ死刑判決、銃殺刑に処せられた。 岡山県の農民出身。岡山中学校、東京府立四中(現東京都立戸山高等学校)卒業。 1937年(昭和12年)10月29日施行を昭和天皇に裁可された、帷幄上奏勅令軍事機密『軍令陸甲第34号』を根拠とした、軍政上の奉勅命令である中支那方面軍司令部の動員命令が、陸軍大臣杉山元大将によって動員担任官へ伝宣され、同司令部の動員がなされた。
江崎 利一(えざき りいち、1882年〈明治15年〉12月2… 江崎 利一(えざき りいち、1882年〈明治15年〉12月23日 - 1980年〈昭和55年〉2月2日)は日本の実業家。江崎グリコの創業者。現・会長の江崎勝久と、その弟の江崎正道の祖父。 佐賀県神埼郡蓮池村(現・佐賀市蓮池町)に生まれた。父は清七、母はタツといって江崎が生まれる二年前から薬種業を始めていた。ときには近在近郷を一軒ずつめぐり歩き、医療の相談相手もつとめていた。暮らしは貧しかった。6人兄弟姉妹の長男(姉2人と弟と妹2人)だった江崎は家事の手伝いや弟妹の子守りに明けくれた。 1897年(明治30年)春、小学校高等科を卒業した。薬の商売のほかに朝食前の塩売りを始めた。1901年(明治34年)6月、父が死去。
岡田 茂吉(おかだ もきち、1882年〈明治15年〉12月2… 岡田 茂吉(おかだ もきち、1882年〈明治15年〉12月23日 - 1955年〈昭和30年〉2月10日)は、日本の芸術家、実業家、思想家、自然農法の創始者、浄霊法の創始者、世界救世教の教祖であり、さまざまな分野で活動した。箱根美術館、熱海美術館(現:MOA美術館)などを創設した。 1882年(明治15年)、東京府浅草区橋場町(現在の東京都台東区橋場)に古道具屋の次男として生まれる。日新尋常小学校を経て、浅草尋常高等小学校(現在の台東区立浅草小学校)に入学する。画家を志し、1897年(明治30年)9月に東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)予備ノ課程に入学するも、眼病のため中退を余儀なくする。