香椎 浩平(かしい こうへい、1881年(明治14年)1月2… 香椎 浩平(かしい こうへい、1881年(明治14年)1月25日 - 1954年(昭和29年)12月3日)は、日本陸軍の軍人。陸士12期、陸大21期。最終階級は陸軍中将。栄典は正四位勲一等功四級。陸軍中将・香椎秀一の弟。皇道派。 福岡県嘉穂郡大隈町(現:嘉麻市)出身。士族・香椎昌の次男として生まれる。市ヶ谷の陸軍幼年学校を経て1900年11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。同期に杉山元、畑俊六、小磯国昭、二宮治重、柳川平助らがいる。 1904年、日露戦争に中隊長として参加し負傷する。帰国後陸軍大尉に昇進。1909年、陸軍大学校(21期)を卒業。寺内寿一、植田謙吉、中村孝太郎、西義一、古荘幹郎、建川美次、多門二郎らが同期。
副島 綱雄(そえじま つなお、1881年〈明治14年〉1月2… 副島 綱雄(そえじま つなお、1881年〈明治14年〉1月24日 - 1941年〈昭和16年〉11月27日)は、日本の実業家。元大阪三品取引所常務理事。佐賀県多久市出身。 上皇后美智子の祖父で、今上天皇の曽祖父にあたる。 1881年(明治14年)1月24日、佐賀県士族の副島哲吾の次男として同県多久市で生まれる。1896年(明治29年)に副島富五郎の養子となる。1902年(明治35年)大阪高等商業学校(現在の大阪市立大学)を卒業。 その後、1917年(大正6年)から1923年(大正12年)まで江商(現在の兼松)上海支店長を務める。また日本が上海に作った国策企業である中支那復興の常務理事も務めた。その他にも天満織物監査役や1934年(昭和9年)から1937年(昭和12年)までは大阪三品取引所常務理事を歴任。
石割 松太郎(いしわり まつたろう、1881年1月24日 -… 石割 松太郎(いしわり まつたろう、1881年1月24日 - 1936年6月29日)は、演劇および演芸研究家・評論家。ジャーナリスト。 大阪府堺出身(生家跡は堺市立青少年センターになっており、碑が建立されている)。 1905年早稲田大学文学部卒業。国書刊行会、日本新聞、都新聞、帝国新聞、大阪新報各社を経て1917年大阪毎日新聞社に入り、劇評を担当した。 1922年、『サンデー毎日』の発刊に参加したが、白井喬二の『新撰組』を同紙に掲載する際、初めて「大衆文芸」と銘打った人物とされる。 1929年大毎を退社、1932年に早大講師となり、浄瑠璃・江戸文芸を教えた。 主として人形浄瑠璃の歴史について著作がある。
篠崎 清次(しのざき せいじ、1881年〈明治14年〉1月2… 篠崎 清次(しのざき せいじ、1881年〈明治14年〉1月24日 - 1917年〈大正6年〉6月20日)は、日本の盲教育者、聾唖教育者。北海道で最初に聾唖教育を行なった人物であり、北海道の聾唖教育の父といわれる。東京市本所区松坂町(後の東京都墨田区両国)出身。 幼少時の眼病により、ほぼ失明に近いほどの極度の弱視となった。愛知県西加茂郡挙母の外四ヶ村立小学校高等科を卒業後、眼病のために仕事が長続きせず、姉の嫁ぎ先を頼って北海道函館区(後の函館市)へ渡るなどして職を転々としていたところ、視覚障害児のための教育団体である函館訓盲会(後の北海道函館聾学校)の存在を知った。1897年(明治30年)より勉学に励み、翌1898年(明治31年)に同会の教員となり、盲教育の道に入った。
片山 秀太郎(かたやま ひでたろう、1881年(明治14年)… 片山 秀太郎(かたやま ひでたろう、1881年(明治14年)1月21日 – 1959年(昭和34年)12月9日)は、明治末から昭和前期の台湾総督府官僚、弁護士、政治家。衆議院議員(立憲政友会)。 福岡県企救郡曽根村(現:北九州市小倉南区)で片山勝太郎の長男として生まれた。1899年(明治32年)豊津中学校(現:福岡県立育徳館中学校・高等学校)を首席で卒業。1905年(明治38年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業。文官高等試験に合格し、台湾総督府税務官、専売局事務官、参事官、総督官房調査課長、内務局学務課長、台湾総督府高等商業学校長を歴任した。その後、弁護士を開業した。 1936年(昭和11年)2月、第19回衆議院議員総選挙(福岡県第4区、立憲政友会公認)に出馬し、当選を果たした。
平山 慎英(ひらやま のりひで、1881年1月20日 - 1… 平山 慎英(ひらやま のりひで、1881年1月20日 - 1950年12月10日)は、日本の裁判官。 広渡寺住職、飯能学校教員を務めた平山鳳琳の長男。母は飯能焼の絵付師腰塚小四郎の娘。埼玉県入間郡飯能町(現・飯能市)出身。飯能小学校高等科、麻布中学校、第一高等学校、東京帝国大学法科を経て、裁判官になった。 浦和地方裁判所判事、那覇地方裁判所長、横浜地方裁判所長、鳥取地方裁判所長、松江地方裁判所長などを勤めた。高等官一等正四位勲三等。69歳で死去した。
森近 運平(もりちか うんぺい、1881年〈明治14年〉1月… 森近 運平(もりちか うんぺい、1881年〈明治14年〉1月20日 - 1911年〈明治44年〉1月24日)は、日本の社会主義活動家。 幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人である。 岡山県後月郡高屋村(現:岡山県井原市高屋町)出身で、岡山県立農事講習所を卒業後に岡山県職員に採用される。ある日行われた会議の場で戦時国債の不買を呼びかける演説を行ったとして免官となり、1906年(明治39年)2月に日本社会党の結成に参加する。翌年にはジャーナリストの宮武外骨の支援によって「大阪平民新聞」を創刊して社会主義運動に加わるが、1909年(明治42年)に幸徳秋水ら同志と倫理観で意見が対立し、岡山に帰郷した。
石倉 俊寛(いしくら しゅんかん、1880年(明治13年)2… 石倉 俊寛(いしくら しゅんかん、1880年(明治13年)2月18日 - 1975年(昭和50年)3月20日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家。大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍主計少将。島根県松江市長。旧姓は青戸。 青戸林平の三男として島根県に生まれ、石倉益蔵の養子となる。島根県第一尋常中学校(島根県立松江北高等学校の前身)、和仏法律学校(現・法政大学)を経て、1901年(明治34年)12月に海軍主計候補生となった。呉経理部第一課長を経て、1926年(大正15年)12月、軍令部出仕と共に海軍主計少将に進み、翌年の1927年(昭和2年)3月、待命し翌月予備役編入となった。雷型駆逐艦「朧」乗組として日露戦争に出征し、日本海海戦では「出雲」乗組として参戦した。
岸野 伊太郎(きしの いたろう、1880年〈明治13年〉2月… 岸野 伊太郎(きしの いたろう、1880年〈明治13年〉2月16日 - 没年不明)は、日本の政治家、地主。 東京府・伊平の長男。農業を営む。1917年に西巣鴨町会議員となり、1期満了、2期再選する。1920年、国勢調査委員に任命される。 出納監査委員、西巣鴨町教育会評議員、上睦会会長、西巣鴨第四部青年団副団長、氷川神社氏子総代である。宗教は日蓮宗。住所は東京市豊島区池袋2丁目。 岸野家について『豊島区大総覧 2597年版』によると、 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
保井 コノ(やすい コノ、1880年2月16日 - 1971… 保井 コノ(やすい コノ、1880年2月16日 - 1971年3月24日)は、日本の植物学者・細胞学者。理学博士(東京帝国大学・論文博士・1927年)。日本初の女性博士号取得者。東京女子高等師範学校教授(39歳)、お茶の水女子大学教授などを経て、お茶の水女子大学名誉教授(72歳)。男女差別の著しい時代に、女性科学者として多くのことに、日本初のという形容詞が付く先駆者の道を歩み、女性科学者の道を拓いた。保井の学位取得をきっかけに、他の分野でも女性博士が出るようになる。 1880年香川県生まれ。香川県師範学校を経て女子高等師範学校を卒業、教師となる。34歳で渡米し、シカゴ大学で細胞学、ハーバード大学で石炭学を研究。
小久江 美代吉(おぐえ みよきち、1880年(明治13年)2… 小久江 美代吉(おぐえ みよきち、1880年(明治13年)2月15日 - 1979年(昭和54年)8月18日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(立憲民政党)。 静岡県城東郡岡崎村(小笠郡笠原村、磐田郡袋井町を経て現袋井市)で小久江利兵衛の長男として生まれた。裁判所書記登用試験に合格し掛川区裁判所書記となる。 1901年(明治34年)に明治法律学校を卒業し、1903年(明治36年)に和仏法律学校(現・法政大学)を卒業する。判事検事登用試験に合格し、司法官試補を経て、弁護士業に従事する。高木益太郎事務所で実習後に独立した。 神田区会議員、東京市会議員・学務委員などを経て、1928年(昭和3年)に第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する。
高倉 篤麿(たかくら あつまろ、1880年〈明治13年〉2月… 高倉 篤麿(たかくら あつまろ、1880年〈明治13年〉2月15日 - 1964年〈昭和39年〉2月1日)は、日本の宮内官、神職、華族。貴族院子爵議員、伊勢神宮大宮司。旧姓・藪。1936年(昭和11年)2月、高倉に復姓(中国語版)した。 東京府で華族・藪実休(さねたる)の二男として生まれる。1882年(明治15年)10月7日、祖父・藪実方の隠居に伴い家督を相続。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。1907年(明治40年)明治大学政治科を卒業し、さらに東京外国語学校仏語専修科で学んだ。 1890年(明治23年)侍従職出仕となり、1898年(明治31年)主猟官に転じた。1914年(大正3年)1月24日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1940年(昭和15年)2月20日に辞任した。
堤 清六(つつみ せいろく、1880年〈明治13年〉2月15… 堤 清六(つつみ せいろく、1880年〈明治13年〉2月15日 - 1931年〈昭和6年〉9月12日)は、日本の実業家、衆議院議員。日魯漁業株式会社(現株式会社マルハニチロ)の創業者。実弟は新潟県知事・参議院議員を歴任した亘四郎。 堤清六は1880年2月15日 に、新潟県南蒲原郡三条町上町(現三条市)の呉服商「近清」(堤家)7代目の清七、千代の長男(第1子)として生まれた。三条町立尋常高等小学校(現三条市立三条小学校)を卒業後、北米教校に進学した。1895年 には、祖父の東京出張に同行していたが、その祖父が急死し遺骨を持ち帰ることになる。1904年 には、 日露戦争で御用商人(酒保)を志願、満州に渡る1906年、清六はアムール川下流のブロンゲ岬で平塚常次郎と出会う。
長谷川 五作(はせがわ ごさく、1880年(明治13年)2月… 長谷川 五作(はせがわ ごさく、1880年(明治13年)2月15日 - 1963年(昭和38年)7月18日)は、旧制中学校の教員。長野県埴科郡松代町(現在の長野市松代町)においてビン詰めによるエノキタケの人工栽培法を考案した。
山邑 太三郎(やまむら たさぶろう、1880年〈明治13年〉… 山邑 太三郎(やまむら たさぶろう、1880年〈明治13年〉2月13日 - 1928年〈昭和3年〉2月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 兵庫県菟原郡、のちの武庫郡魚崎村(魚崎町を経て現神戸市東灘区)出身。1897年、大阪高等商業学校卒。日露戦争に従軍し、陸軍二等主計となる。魚崎村会議員、同村長、同町長、武庫郡東郷酒造組合長、東醤油(株)社長、山邑酒造、日章火災海上再保険、名古屋信託各(株)取締役、日章信託、太平洋水産、帝国紡績、日清生命保険各(株)監査役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において兵庫4区から無所属で立候補して当選した。御影師範学校附属小学校保護者会役員であったことから、1923年頃から灘校設立運動を支援。
正田 きぬ(しょうだ きぬ、1880年〈明治13年〉2月12… 正田 きぬ(しょうだ きぬ、1880年〈明治13年〉2月12日 - 1970年〈昭和45年〉5月9日)は、日本の歌人。元日清製粉社長である正田貞一郎の妻。父は5代・正田文右衛門。 上皇后美智子の祖母で、今上天皇の曽祖母にあたる。 1880年(明治13年)、5代・正田文右衛門の長女として生まれる。弟に敏一郎(のち6代文右衛門)がいる。 1897年(明治30年)12月8日、後の日清製粉社長となる正田貞一郎と結婚。夫となった貞一郎の父(正田作次郎)はきぬの祖父(4代文右衛門)の弟で、つまり夫は父の従弟にあたる。貞一郎との間に5男5女を儲ける。なかでも三男の英三郎は、長女美智子が民間から皇室へと初めて嫁いだことで知られる。
大村 桂巌(おおむら けいがん、1880年(明治13年)2月… 大村 桂巌(おおむら けいがん、1880年(明治13年)2月10日 - 1954年(昭和29年)10月2日)は日本の教育者、浄土宗の僧侶。大日本帝国の陸軍士官学校の教授、芝中学校・高等学校の第5代校長、大正大学の第11代学長などを務めた。 1880年(明治13年)2月10日、滋賀県愛知郡葉枝見村三ツ谷(現在の滋賀県彦根市)常光寺住職の父・哲誉上人、母・琴鶴の長男として生まれる。幼名は里磨。里磨は得度となし、桂巌と改名し、浄士宗の中学及び大学を卒業したのち、内地留学生に特選され東京都へ移り明治43年に東京帝国大学哲学科教育学を卒業。その後、陸軍士官学校の教授、芝中学校・高等学校の第5代校長、大正大学の第11代学長などを務めた。
中村 與資平(なかむら よしへい、1880年2月8日 - 1… 中村 與資平(なかむら よしへい、1880年2月8日 - 1963年12月21日)は、明治から昭和にかけて活躍した建築家。朝鮮・旧満州及び静岡県などにおいて多くの銀行や公共建築の設計を手がけたことで知られる。 中村与資平は、1880年に静岡県長上郡天王新田村(現在の浜松市中央区天王町)に中村貞一郎の長男として生まれた(中村は慶長年間からの庄屋(官号:与左衛門)で,与資平は第14代にあたる)。1889年に下堀学校(現・浜松市立与進小学校)を卒業し、1893年には浜松高等小学校(現・浜松市立元城小学校)を卒業した。1899年に静岡県浜松尋常中学校(現静岡県立浜松北高等学校)を卒業し、その後、1902年に第三高等学校を卒業した。
大平 賢作(おおだいら けんさく、1880年2月8日 - 1… 大平 賢作(おおだいら けんさく、1880年2月8日 - 1953年12月17日)は、日本の銀行家。住友銀行頭取・会長。
浦野 本一(うらの もといち、1880年2月8日 - 197… 浦野 本一(うらの もといち、1880年2月8日 - 1972年8月14日)は、日本の政治家。愛知県猿投村長、猿投村議会議員、西加茂郡会議員などを歴任した。 元衆議院議員の浦野幸男は長男。 愛知県四郷村(現・豊田市四郷町下古屋)に、農業を営む浦野又一の次男として出生。尋常小学校花本学校(現・豊田市立青木小学校)卒業。1902年から米穀飼料肥料商を営む。1918年から西加茂郡会議員を1期務め、1931年から1947年にかけて猿投村議会議員を務めた。その間、猿投信用販売購買利用組合理事長も務めた。同理事長として機械化導入を唱え、大正末から昭和初期にかけて、足踏み脱穀機、牛馬耕運機を取り入れ、牛馬耕を広く指導した。
桜木 亮三(櫻木 亮三、さくらぎ りょうぞう、1880年〈明… 桜木 亮三(櫻木 亮三、さくらぎ りょうぞう、1880年〈明治13年〉2月6日 - 1955年〈昭和30年〉11月7日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の実業家。主として電気事業に関与し、東邦電力常務、中央電力会長(前身の三河水力電気では社長)、伊那電気鉄道社長などを務めた。また1920年代の一時期に福岡市会議員にもなっている。佐賀県出身。 桜木亮三は、1880年(明治13年)2月6日、佐賀県士族吉岡卯八の三男として生まれた。1897年(明治30年)より絶家の桜木家を再興して桜木姓を称する。1901年(明治34年)7月東京の第一高等学校第一部法科(英法)を卒業、次いで1906年(明治39年)7月東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。
宮脇 長吉(みやわき ちょうきち、1880年2月5日 - 1… 宮脇 長吉(みやわき ちょうきち、1880年2月5日 - 1953年2月16日)は、日本の陸軍軍人、政治家、実業家。最終階級は陸軍航空兵大佐。衆議院議員。紀行作家宮脇俊三の父。軍人時代に教え子だった佐藤賢了に黙れ事件を起こされるなど戦前は自由主義者で、そして戦後は元軍人であるがゆえに政治家としては不遇な立場に置かれてしまった。 愛媛県大川郡誉水村(現・香川県東かがわ市西部の一部)の農業・宮脇清吉の四男。兄弟には田中義一内閣や幣原喜重郎内閣等で大臣を務めた政治家の三土忠造(漢学者の家柄であった三土家の養子となった)、内務官僚として埼玉県や千葉県等の知事を歴任した宮脇梅吉(埼玉県知事時代に、初めて大宮・浦和・与野の「埼玉市」を構想した)がおり、地元では優秀な兄弟として知られ、後に雑誌『少年倶楽部』の「兄弟出世クラブ」というグラビアで紹介されるほどだった。
妹尾 順平(せのお じゅんぺい、1880年〈明治13年〉2月… 妹尾 順平(せのお じゅんぺい、1880年〈明治13年〉2月2日 - 1942年〈昭和17年〉5月20日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。妻・ミツは林忠崇の次女。 妹尾与一郎の次男として岡山県真庭郡木山村(現・真庭市)に生まれる。1904年(明治37年)、専修大学卒。妹尾銀行(現・中国銀行)に入り、行員となる。岡山商事(株)社長、日丸米肥(株)監査役を務める。 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙において岡山8区から立憲政友会公認で立候補して当選した。2年後、岡山8区の選挙が無効となった。1922年(大正11年)3月6日付けで失職した。 1942年(昭和17年)5月20日、横浜市磯子区の自宅で死去した。
大内 地山(おおうち ちざん、1880年(明治13年)2月2… 大内 地山(おおうち ちざん、1880年(明治13年)2月2日 - 1948年(昭和23年)2月7日)は、大正から昭和時代前期にかけて活動した水戸学者、郷土史家、『常総新聞』記者。幼名は勘五郎で、1889年(明治22年)に本名を逸朗(いちら)に改めた。 茨城県那珂郡前浜村前浜(現・ひたちなか市阿字ケ浦町)に、父・平三郎と母・ふくの第5子として生まれる。1894年(明治27年)に那珂郡立第二高等小学校(現・ひたちなか市立那珂湊第一小学校)の第1回卒業生となり、栗田寛の私塾・輔仁学舎(家塾輔仁学舎(かじゅくほじんがくしゃ)とも言う)に入門した。その後、1898年(明治31年)9月に上京し東京法学院に入学、1901年(明治34年)7月に卒業した。
池田 秀雄(いけだ ひでお、1880年(明治13年)2月2日… 池田 秀雄(いけだ ひでお、1880年(明治13年)2月2日 - 1954年(昭和29年)1月20日)は、日本のジャーナリスト、内務官僚、政治家。衆議院議員。 佐賀県小城郡、のちの三日月村(三日月町を経て現小城市)出身。池田轍の三男として生まれる。第五高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格するが、朝日新聞社に入社。1910年、内閣拓殖局属となる。以後、拓殖局書記官、長野県理事官、広島県理事官、宮城県視学官、岐阜県警察部長、外務事務官兼内務書記官、広島県・宮城県の各内務部長などを歴任。 1924年6月、秋田県知事に就任。同年12月、朝鮮総督府へ転じ殖産局長となる。
泉 斜汀(いずみ しゃてい、本名:泉 豊春、1880年(明治… 泉 斜汀(いずみ しゃてい、本名:泉 豊春、1880年(明治13年)1月31日 - 1933年(昭和8年)3月30日)は、日本の小説家。泉鏡花の弟。作家の泉名月は実子。 石川県金沢市出身。下町小説、狭斜小説を多く発表し、代表作に『木遣くづし』(「新小説」明三五・二)『松葉家の娘』(大三・六 鳳鳴社)『離縁状』(「新小説」明三六・一一)『深川染』前、後編(明四〇・五 春陽堂)がある。墓所は雑司ヶ谷霊園にあったが2024年新宿区圓福寺に移転された。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
立花 種忠(たちばな たねただ、1880年(明治13年)1月… 立花 種忠(たちばな たねただ、1880年(明治13年)1月30日 - 1963年(昭和38年)10月14日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員、東京府荏原郡入新井町長。旧名・恭忠。 旧三池藩主・立花種恭の八男として東京府深川区深川東元町(現江東区)で生まれる。父の死去に伴い種忠と改名し、1905年(明治38年)2月13日、子爵を襲爵した。 学習院を経て、明治大学を修了した。1907年(明治40年)12月、一年志願兵として騎兵第1連隊に入隊。1911年(明治44年)5月、陸軍騎兵少尉となり、さらに同中尉に昇進した。 1914年(大正3年)7月25日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1946年(昭和21年)4月8日に辞職するまで五期在任した。
立見 豊丸(たつみ とよまる、1880年(明治13年)1月2… 立見 豊丸(たつみ とよまる、1880年(明治13年)1月28日 – 1942年(昭和17年)11月2日)は、大日本帝国陸軍軍人。貴族院子爵議員。陸軍政務次官。
菊竹 六鼓(きくたけ ろっこ、男性、1880年1月25日 -… 菊竹 六鼓(きくたけ ろっこ、男性、1880年1月25日 - 1937年7月21日)は、福岡県出身のジャーナリスト。五・一五事件に際し、福岡日日新聞の紙上で軍部批判・憲政擁護の論陣を張ったことで知られる。六鼓(六皷)は号で、本名は淳(すなお)。兄に政治家の菊竹博之がいる。 菊竹六鼓の論説は、昭和初期に軍が議会制民主主義をないがしろにした日本近代政治史の転換点において、一貫してメディアを通して戦う姿勢を見せたものであった。その代表は、大正期から護憲運動の擁護者で軍備縮小を進めた犬養首相を暗殺した五・一五事件についての論説であり、全国の大手新聞社が軒並み軍部支持の記事を掲げ、世論を軍国主義へ誘導し、あるいは軍国主義世論に迎合する中でのものであった。
国ノ音 治三郎(くにのおと じさぶろう、1880年(明治13… 国ノ音 治三郎(くにのおと じさぶろう、1880年(明治13年)1月25日 - 1960年3月20日)は、明治時代の大相撲力士。本名は大野 治三郎。年寄楯山。 岐阜県席田郡仏生寺村(現在の本巣市)出身。愛知相撲の三ツ湊に入り、緑島と名乗る。その後三ツ湊により東京相撲の友綱に預けられ、1900年1月友緑で序ノ口。1903年5月国ノ音に改名。1905年1月三段目、その年日露戦争に従軍し、勲八等白色桐葉章となる。小柄で出世に乏しかったが、現役時代に師匠の姪を妻とした。年寄の資格は幕下以上と当時制限されていたが、1910年6月友響と改名し、好成績で1911年2月幕下に昇進し、その場所限り引退。年寄楯山となる。
布施 現之助(ふせ げんのすけ、1880年1月24日 - 1… 布施 現之助(ふせ げんのすけ、1880年1月24日 - 1946年12月12日)は、解剖学者。医学博士。専攻は神経解剖学。
上田 直次(うえだ なおじ、1880年1月23日 - 195… 上田 直次(うえだ なおじ、1880年1月23日 - 1953年2月21日)は、日本の彫刻家。広島県賀茂郡川尻村生まれ。 1880年(明治13年)1月23日、広島県賀茂郡川尻村(現在の呉市川尻)宮大工の第一人者と称された上田治作の次男に生まれる。 1906年(明治39年)大阪産業博覧会で高村光雲の「浜辺で遊ぶ子ら」を見て感銘を受け、翌1907年、川尻村光明寺の住職日高緝熙に斡旋された浅草の広楽寺を目指して妻を残し単身上京。東京府下谷区谷中(清水町)真島町一番地にある太平洋画会研究所 に学ぶ。木彫を山崎朝雲に師事、塑像を朝倉文雄のもとで研究。旧広島藩第12代藩主浅野長勲に認められ、望月圭介の庇護を受けた。
高杉 新一郎(たかすぎ しんいちろう、明治13年(1880年… 高杉 新一郎(たかすぎ しんいちろう、明治13年(1880年)1月21日 - 昭和33年(1958年)4月25日)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍医学校の要職を務めた後、医学校校長となる。その後、軍医最高職である高等官一等・軍医中将となり、海軍医務局長、日本医療団副総裁になる。岡山県真庭市出身。 明治13年(1880年)岡山県阿賀郡呰部村(現:真庭市)の庄屋である高杉良太郎の五男として生まれる。実家は代々油製造業を営んでいた。明治28年(1895年)地元の創立第一回の旧制高梁尋常中学校(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学する。同期には、同じく海軍中将(海軍大将候補)になる杉政人、海軍少将の中島権吉、衆議院議員になる則井万寿雄、早稲田大学教授になる横山有策がいた。
鷲尾 健治(わしお けんじ、1880年(明治13年)1月21… 鷲尾 健治(わしお けんじ、1880年(明治13年)1月21日 - 1937年(昭和12年)8月9日)は、日本の教育者。 新潟県西蒲原郡黒埼村(現・新潟市西区)出身。鷲尾政直の三男として生まれた。1904年(明治37年)、京都帝国大学法科大学を卒業。市立大阪高等商業学校教諭、山口高等商業学校教授を歴任。1909年(明治42年)、ドイツ・フランスに留学した。その後、高松高等商業学校教授、山口高等商業学校校長を務め、1932年(昭和7年)に退官した。 その後、同志社高等商業学校校長を務めた。
山崎 次郎(やまさき じろう、1880年(明治13年)1月2… 山崎 次郎(やまさき じろう、1880年(明治13年)1月21日 - 1958年(昭和33年)10月29日)は、日本の外交官。駐アルゼンチン公使。 静岡県に会田和保の二男として生まれ、山崎金重の養子となった。1906年(明治39年)、東京帝国大学を卒業し、法科大学法律学科仏蘭西法兼修。 翌年に外交官及領事官試験合格した。領事官補として広州、牛荘に、外交官補としてスペインに勤務した。さらにリヨン領事、アメリカ合衆国大使館三等書記官、アルゼンチン公使館二等書記官、同一等書記官、同代理公使、外務書記官・通商局総務課長、翻訳課長、会計課長、在ソビエト連邦日本国大使館参事官、ブラジル大使館参事官を歴任した}。
木島 茂(きじま しげる、1880年〈明治13年〉1月20日… 木島 茂(きじま しげる、1880年〈明治13年〉1月20日 - 1967年〈昭和42年〉8月9日)は、日本の内務官僚。滋賀県彦根市長。広島県三原市長。彦根市名誉市民。 広島県豊田郡忠海町(現在の竹原市)出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。翌年、高等文官試験に合格し朝鮮総督府事務官、新潟県北魚沼郡長、福島県耶麻郡長、高知県警察部長、長崎県警察部長、山梨県内務部長、警視庁書記官・警務部長、大阪府内務部長を歴任した。1929年(昭和4年)に退官した後は弁護士を開業していたが、1937年(昭和12年)に初代彦根市長に選出され、1941年(昭和16年)まで務めた。 戦後の1946年(昭和21年)6月には三原市長に就任したが、11月に退任、間もなく公職追放となった。
尾佐竹 猛(おさたけ たけき、1880年〈明治13年〉1月2… 尾佐竹 猛(おさたけ たけき、1880年〈明治13年〉1月20日 - 1946年〈昭和21年〉10月1日)は、日本の法学者(専門は法制史)、明治文化研究者。学位は法学博士。大審院判事。号は雨花子。 1880年1月20日、石川県金沢に旧加賀藩の儒者の子として生まれる。上京後、明治法律学校(現:明治大学法学部)に学び、1899年に卒業。同年、第1回判事検事登用試験に合格し、1924年、司法官試補。福井地方裁判所、東京控訴院・名古屋控訴院の判事を務める。1924年から1942年まで大審院判事。 判事の地位に留まらず、憲政史や刑罰史など法制史の研究を手がけた。研究姿勢は、史料を重視した実証主義、洒脱な着眼点、談話調で達意な文章を特徴とする。
二宮 治重(にのみや はるしげ、1879年(明治12年)2月… 二宮 治重(にのみや はるしげ、1879年(明治12年)2月17日 - 1945年(昭和20年)2月17日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。文部大臣。 岡山県出身。二宮成重の三男として生まれる。母は松平紀伊守娘の志乃。次兄に重友、養子に三郎(森定次郎の三男)がいる。岡山中学校を経て、1898年(明治31年)12月、士官候補生となる。1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となる。1904年(明治37年)5月、歩兵第20連隊中隊長となり、1906年(明治39年)1月まで日露戦争に出征した。1910年(明治43年)11月、陸軍大学校(22期)を優等で卒業。
神戸 絢(かんべ あや、1879年(明治12年)2月16日 … 神戸 絢(かんべ あや、1879年(明治12年)2月16日 - 1956年(昭和31年)2月23日)は、日本のピアニスト、音楽家、音楽学校教授。別名、神戸 絢子。 日本の洋楽界最古のピアニスト(洋琴家)として知られた。東京音楽学校 (旧制)を卒業後、母校で30年以上にわたって後進を指導し、従四位勲四等に叙せられた。 東京府人・梁田正直(元鳥取藩士族)の長女として、東京に生まれた。第百銀行監査役・神戸信義(元岡山藩士族・元藩主侯爵池田章政家扶)の養女となり、姫路水力電気技師長・神戸順三郎(明治3年7月生、神戸信義の養子)と結婚、長女貞子(明治34年3月生)をもうけた。一家は1914年(大正3年)に分家した。
沢永 彦四郎(さわなが ひこしろう、1879年(明治12年)… 沢永 彦四郎(さわなが ひこしろう、1879年(明治12年)2月15日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚・台湾総督府官僚。旧名太吉。 富山県西礪波郡福岡町(現在の高岡市)出身。第四高等学校を経て、1901年(明治34年)、京都帝国大学法科大学政治科、同経済科を卒業し、統監府属となった。1910年(明治43年)、朝鮮総督府属となり、同年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。その後、朝鮮総督府営林廠事務官、鎮南浦府尹、逓信局事務官・海事課長などを歴任した。 いったん退官するが、1929年(昭和4年)に台湾総督府総督官房会計課長として復帰した。1931年(昭和6年)、台湾総督府専売局参事となり、神戸支局長を務めた。
鈴木 榮作(すずき えいさく、1879年〈明治12年〉2月1… 鈴木 榮作(すずき えいさく、1879年〈明治12年〉2月15日 - 1940年〈昭和15年〉6月2日)は、明治・大正期日本の外交官。香港総領事や、シドニー総領事を務めた。 靜岡県出身。1900年高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1902年外交官領事官試験合格、外交官補任官。群山理事庁理事官、ニューヨーク総領事代理などを経て、1908年シンガポール領事。1910年南京領事。1912年待命領事(外務大臣官房記録課臨時勤務)。1916年外務大臣官房会計課長心得兼務。1917年香港総領事、高等官三等。1921年シドニー総領事。1925年依願退官。 妻のふみは室田義文貴族院議員の三女。外交官の古谷重綱は義兄。
矢吹 慶輝(やぶき けいき、1879年〈明治12年〉2月13… 矢吹 慶輝(やぶき けいき、1879年〈明治12年〉2月13日 - 1939年〈昭和14年〉6月10日)は、日本の宗教学者・社会事業家。旧姓は佐藤。号は隈渓。 1879年、福島県生まれ。東京帝国大学を卒業。卒業後は宗教大学(現大正大学)教授となり、欧米に留学。敦煌出土の仏典を研究し、1925年「三階教之研究」で学士院恩賜賞受賞。勤労児童のための三輪学院を創設、東京市社会局長。1939年、狭心症のため死去。 長男は弁護士の矢吹輝夫(1926-2006)。
安藤 紀三郎(あんどう きさぶろう、1879年(明治12年)… 安藤 紀三郎(あんどう きさぶろう、1879年(明治12年)2月11日 - 1954年(昭和29年)5月10日)は、日本の政治家、陸軍軍人。軍人としての最終階級は中将。 太平洋戦争時の大政翼賛会副総裁、国務大臣、内務大臣。戦後、A級戦犯容疑者として逮捕された。 兵庫県で旧篠山藩士、鳳鳴義塾長で歌人の安藤直紀(内藤中虚の次男)の次男として生まれ、鳳鳴義塾中学を卒業。 1899年(明治32年)11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し、翌年6月、陸軍歩兵少尉となる。1901年(明治34年)台湾守備歩兵第10大隊附となり、翌年、陸軍歩兵中尉となる。1904年(明治37年)10月、歩兵第10連隊中隊長となり、同年11月、陸軍歩兵大尉となる。
田村 西男(たむら にしお、1879年2月11日 - 195… 田村 西男(たむら にしお、1879年2月11日 - 1958年1月21日)は、日本の劇作家、小説家、劇評家。 東京日本橋生まれ。本名・喜三郎。東京法学院(現中央大学)卒。1903年より『文藝倶楽部』に小説を発表。1907年、光村合資出版より滑稽文芸雑誌『笑』を創刊し花柳小説を書く。『中央新聞』の劇評を担当し、劇界・花柳界の通であった。女優の田村秋子は長女。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
藤川 利三郎(ふじかわ りざぶろう、1879年(明治12年)… 藤川 利三郎(ふじかわ りざぶろう、1879年(明治12年)2月10日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。実業家。 愛媛県に片山半三の二男として生まれ、藤川文造の養子となった。1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。大韓帝国政府財政顧問、朝鮮総督府書記官、度支部税務課長、平安北道長官、慶尚北道知事などを歴任した。 退官後は四国電力株式会社代表取締役、高松電灯株式会社取締役、朝鮮京南鉄道取締役などを務めた。
若月 紫蘭(わかつき しらん、1879年2月10日 - 19… 若月 紫蘭(わかつき しらん、1879年2月10日 - 1962年7月22日)は、日本の劇作家、演劇研究家、翻訳家、歌人。本名の若月 保治での著作も多い。 山口高等学校を経て、1903年東京帝国大学卒業。兵庫県洲本中学校教諭、石川県七尾中学校校長代理ののち、1908年「万朝報」の記者となり、1921年「人と芸術」を創刊。1922年万朝報を辞職、新劇研究所を設立した。 千代田高等女学校教諭、1928年東洋大学教授として国文学を教え、1933年千代田女子専門学校および帝国女子専門学校教授を兼任。紫蘭の号を捨てて人形浄瑠璃の研究に専念した。 1945年戦災に遭い帰郷、1950年より山口大学講師。メーテルリンクの『青い鳥』を翻訳した。
黒田 善太郎(くろだ ぜんたろう、1879年(明治12年)2… 黒田 善太郎(くろだ ぜんたろう、1879年(明治12年)2月7日 - 1966年(昭和41年)3月27日)は、日本の実業家。コクヨの創業者。 長男は黒田暲之助、三男は黒田靖之助。孫に黒田章裕、曽孫に黒田英邦、黒田卓也。義子に原信太郎。 20歳の時、故郷を離れて大阪市へ出て紙店につとめる。1905年、27歳で「黒田表紙店」を創業。表紙の質の良さなどで販売を伸ばし、基礎を築く。 1917年、「(越中)国の誉れとなるように」と「国誉(現在のコクヨ)」と商標を定める。1961年、社名を「コクヨ株式会社」に変更。和式帳簿を主体として出発したが、洋式帳簿を手始めに、現在オフィス全般の製品販売をこなしている。
井手 薫(いで かおる、1879年〈明治12年〉2月6日 -… 井手 薫(いで かおる、1879年〈明治12年〉2月6日 - 1944年〈昭和19年〉5月11日)は、日本統治時代の台湾で活躍した建築家。美濃国岐阜出身。台湾総督府営繕課在任中、台湾の官庁や民間建築を多く手がけ、その設計理念と風格は台湾建築界に影響を与えた。 1879年、井手今滋(いましげ)の長男として出生した。父の今滋は幕末の歌人・橘曙覧の長男で、山梨県尋常師範学校長、新潟県尋常師範学校長、岐阜県海西下石津郡長などを務めた。 第一高等学校を経て、1906年(明治39年)に東京帝国大学建築科を卒業(岡田信一郎、本野精吾、倉田謙らと同期)。同年辰野・葛西建築事務所に入り辰野金吾のもとで建築設計に従事した。
森岡 京次郎(もりおか きょうじろう、1879年2月5日 -… 森岡 京次郎(もりおか きょうじろう、1879年2月5日 - 1920年6月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 奈良県山辺郡出身。東京帝国大学政治科卒。森岡銀行頭取、日本紙業、玉造倉庫運輸信託各(株)社長となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において奈良2区から無所属で立候補して当選する。選挙中に森岡銀行が取り付け騒ぎに遭って破綻したため、当選から間もない6月27日、預金者に申し訳ないとして短刀で自殺を図り死去した。
木村 彦右衛門(きむら ひこえもん、1879年(明治12年)… 木村 彦右衛門(きむら ひこえもん、1879年(明治12年)2月5日 - 1933年(昭和8年)3月31日)は、日本の商人(薬種商)、成見屋薬局経営者、薬学者。 正七位勲六等。薬学博士。大阪薬学専門学校校長。大阪府薬剤師会長。日本薬剤師会副会長。族籍は大阪府平民。 大阪府出身。先代・木村彦右衛門の長男。幼くして父母を喪う。博聞強記で、4歳の頃には百人一首の全部を暗誦した。1883年1月、家督を相続し先代を襲名する。1893年、大阪共立薬学校に入り専ら薬学を修めた。 1899年、第五高等学校医学部薬学科(現・長崎大学薬学部)を卒業。1年志願兵として入営。東京帝国大学医科大学に入り薬学を研究した。長井博士に就いて薬化学を研究すること5年に及んだ。