笹山 晴生(ささやま はるお、1932年12月8日 - 20… 笹山 晴生(ささやま はるお、1932年12月8日 - 2024年4月12日)は、日本の歴史学者。日本古代史専攻。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1989年)。東京大学名誉教授。 日本古代史専攻。古代日本の武力・兵制の研究者として著名。このほか山川出版社の高等学校用日本史教科書の執筆・編纂を担当。日本歴史学会会長、横手市史編纂委員、多摩市史編纂委員等も務める。 東京市豊島区雑司が谷生まれ。父は元衆議院議員笹山茂太郎。熊本市で小学校を終え、1951年秋田県立横手美入野高等学校(現・秋田県立横手高等学校)卒業。1955年東京大学文学部国史学科卒業。1960年同大学院文学研究科博士課程単位取得退学、研究室助手となり、同年国史学科学生の樺美智子が安保闘争で死んだ時の国民葬では樺の遺影を掲げてデモ行進の先頭に立った。
須々木 主一(すすき しゅいち、1932年〈昭和7年〉4月1… 須々木 主一(すすき しゅいち、1932年〈昭和7年〉4月19日 - 2014年〈平成26年〉10月20日)は、日本の法学者。専門は刑事法、主に刑事政策。早稲田大学名誉教授。齊藤金作門下。秋田県横手市出身。 1932年、秋田県横手市の日本基督教団関係者の家に生まれる。東京都立武蔵高等学校を経て、1955年に早稲田大学第一法学部を卒業。そのまま、早稲田大学大学院法学研究科修士課程・博士課程へと進み、在学中、齊藤金作に師事する。1958年に早稲田大学比較法学研究所助手、1961年に早稲田大学法学部専任講師に嘱任すると、その後1964年に同大同学部助教授、1969年に同大同学部教授に嘱任する。 師である齊藤金作より、刑事政策の研究を勧められ、独学で刑事政策を学ぶ。
千田 謙蔵(ちだ けんぞう、1931年(昭和6年)10月22… 千田 謙蔵(ちだ けんぞう、1931年(昭和6年)10月22日 - 2024年(令和6年)12月20日)は、日本の政治家。秋田県横手市長(5期)、横手市議会議員(3期)、横手市観光協会会長などを歴任した。 秋田県横手市生まれ。旧制横手中学校、旧制弘前高等学校を経て、1953年に東京大学経済学部を卒業する。1952年に発生した東大ポポロ事件の被告人として有罪判決を受ける。 卒業後数年間は地元で茶舗を経営する傍ら、1959年、当時27歳にして横手市議会議員に当選。3期12年務める。 1971年、市長選に社会党から出馬し、自民党公認の元助役を119票差で破り、初当選を果たした。 市政では「市民総参加で明るい市政」「東北の夜明けにふさわしいまちづくり」「くらしと健康を守る市政」「積極はつらつの市民性」を基本方針に掲げ、議会においては少数与党(社会党、公明党、民社党、共産党)ではあったが、市民の根強い人気に支えられながら5期20年の任期を終える。
人見 きよし(ひとみ きよし、1930年8月1日 - 198… 人見 きよし(ひとみ きよし、1930年8月1日 - 1985年5月22日)は、秋田県出身の俳優、コメディアン。本名は五十嵐 孝治。 1948年、森川信一座に入り、関西中心に喜劇で活躍。その後、朝日放送のドラマ『びっくり捕物帖』でテレビ初出演。1961年放送の『スチャラカ社員』では「ほんと、ちい〜とも知らなかったわァ」が流行語になった。『てなもんや三度笠』などに出演。その後テレビ、映画、吉本新喜劇などの舞台に数多く出演。時代劇や刑事ドラマでは、コミカルな役や普段のイメージとは違う悪役を多く演じた。家庭での素顔は子煩悩で優しい父親だったという。 1985年5月20日朝6時頃、自宅トイレで吐血して倒れているところを家族に発見される。
平鹿川 泰二(ひらかがわ たいじ、1924年3月31日 - … 平鹿川 泰二(ひらかがわ たいじ、1924年3月31日 - 1992年4月11日)は、秋田県平鹿郡雄物川町(現役当時、現・同県横手市)出身で立浪部屋(入門時は春日山部屋)に所属した元大相撲力士。本名は佐藤 泰治(さとう たいじ)。最高位は西前頭13枚目(1957年5月場所)。現役時代の体格は179cm、100kg。得意手は左四つ、上手投げ、下手投げ。 地元の小学校を卒業後上京し、蒲田区(現・大田区)内の製薬会社に勤務していたが、16歳の時に角界入りを決意。元関脇・藤ノ川雷五郎が率いる春日山部屋へ入門し、1941年1月場所で初土俵を踏んだ。同期生には、後に年寄・春日山を襲名することとなる藤川(後、「信州」から「大昇」へ改名、最高位・前頭筆頭)らがいる。
大ノ森 金一(おおのもり きんいち、1920年8月5日 - … 大ノ森 金一(おおのもり きんいち、1920年8月5日 - 没年不明)は、秋田県平鹿郡大森町(現在の同県横手市)出身で伊勢ヶ濱部屋に所属した大相撲力士。本名は大黒 金一(おおぐろ きんいち、後、神谷(かみや)に改姓)。現役時代の体格は176cm、83kg。最高位は東前頭5枚目(1946年11月場所)。得意手は右四つ、突っ張り、足癖。 16歳の時に上京し、1937年1月場所に於いて、伊勢ヶ濱部屋から初土俵を踏む。四股名は出身地の平鹿郡大森町から、「大ノ森」と名乗った。1938年1月場所で序ノ口に付いてからは、負け越しなしで順調に番付を上げた。1941年5月場所で十両に昇進。十両も2場所で通過し、1942年5月場所で入幕した。
大蛇潟 金作(おろちがた きんさく、1919年5月20日 -… 大蛇潟 金作(おろちがた きんさく、1919年5月20日 - 1986年3月21日)は、秋田県平鹿郡平鹿町(現在の横手市)出身で錦島部屋に所属した大相撲力士。本名は斎藤 金作(さいとう きんさく)。最高位は西前頭筆頭(1954年1月場所)。現役時代の体格は179cm、120kg。得意手は左四つ、寄り。引退後は、一時期年寄として日本相撲協会に在籍していた。 17歳の時に上京して錦島部屋へ入門し、1937年1月場所で初土俵を踏んだ。序ノ口に付いた時の四股名は、「十文字」。 間も無く、「矢留石(やとめいし)」に四股名を改め、1944年1月場所にて十両昇進を果たした。その後一時期幕下に陥落したものの、1947年6月場所で十両に復帰した際に錦島部屋ゆかりの「大蛇潟」と改名してからは上昇気流に乗り、1948年5月場所に於いて新入幕を果たした。
前ノ山 政三(まえのやま せいぞう、1919年5月17日 -… 前ノ山 政三(まえのやま せいぞう、1919年5月17日 - 没年不明)は、秋田県平鹿郡平鹿町(現在の横手市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は佐藤 政三(さとう せいぞう)。得意技は左四つ、寄り。 秋田県平鹿郡平鹿町(現在の横手市)出身。16歳の時に上京して高砂部屋へ入門し、1937年1月場所で初土俵を踏んだ。 1944年5月、幕下上位で勝ち越し、新十両昇進を決めた。だが、すぐに応召、翌11月場所は休場した。まもなく復帰し、1945年6月には十両格で出場した。 戦時中、天皇と同じ名は畏れ多いと、「前ノ山」に改名。 その後、1946年11月場所で新入幕。左四つの体勢からの挟み付けるような寄りが得意だったが、勝ち味が遅く、幕内上位には上がれず、最高位は西前頭13枚目にとどまった。
清美川 梅之(きよみがわ うめゆき、1917年1月5日 - … 清美川 梅之(きよみがわ うめゆき、1917年1月5日 - 1980年10月13日)は、秋田県平鹿郡十文字町(現在の横手市)出身で伊勢ヶ濱部屋所属の元大相撲力士、旧全日本プロレス所属の元プロレスラー。大相撲時代は、身長182cm、体重94kg。得意手は、左四つ、上手投げ、外掛け。最高位は、東前頭筆頭。 本名:佐藤 梅之助(さとう うめのすけ)。大相撲廃業後に入婿の形で結婚し、大橋 梅之助(おおはし うめのすけ)が本名となったが後に離婚、佐藤姓に戻している。 同郷の幡瀬川を頼って伊勢ヶ濱部屋に入門し、1934年1月場所で初土俵を踏む。当初の四股名は薩摩川。早くから有望視されるとともに順調に出世し、四股名を清美川と改名。
塩田 雄次(しおた ゆうじ、1913年(大正2年)1月19日… 塩田 雄次(しおた ゆうじ、1913年(大正2年)1月19日 - 1994年(平成6年)1月8日)は、日本の実業家。羽後銀行頭取、北都銀行初代会長。 塩田団平の次男として、秋田県平鹿郡雄物川町(現:横手市)に生まれる。 秋田県立秋田中学校、慶應義塾大学法学部卒業後、第百銀行(後に三菱銀行に吸収合併、現在の三菱UFJ銀行)に入行。21年あまり在籍し品川支店次長等を歴任する。 1958年には、羽後銀行に転じ、その後頭取に昇格する。頭取在任時には、本店の横手市から秋田市への移転や本店新館の建設、さらにはオンラインシステムの導入、店舗網の整備等、経営の近代化を推進した。1988年には代表取締役会長に退き、1993年に秋田あけぼの銀行との合併で誕生した北都銀行会長に就任した。
石田 東四郎(いしだ とうしろう、1912年8月 - 200… 石田 東四郎(いしだ とうしろう、1912年8月 - 2009年6月25日) は、日本の陸軍軍人。太平洋戦争終結から48年目の1993年、中国河南省南召県から帰国した。 1912年8月、秋田県平鹿郡増田町土肥館(現在の横手市)に生まれる。1929年、満17歳で陸軍に志願し秋田歩兵第17連隊に配属された。1936年、一時除隊し、秋田県庁に勤務する。 1937年、輜重特務兵として再召集され第10師団架橋材料中隊(通称成谷部隊、長:成谷兵輔輜重兵少佐)監視隊に属しており、皆川字右衛門工兵少尉指揮のもと、黄河の渡河作戦に従事したことが美談として報じられている。中国河南省封丘に渡り、宣撫官として秋田部隊で情報収集任務に従事する。
小沢 三千雄(おざわ みちお、1910年10月23日 - 2… 小沢 三千雄(おざわ みちお、1910年10月23日 - 2006年2月6日)は、日本の元松川事件特別弁護人、元松川事件対策協議会事務局長。 秋田県平鹿郡雄物川町(現・横手市)の医師の次男。妻、尊子との間に二男一女を儲ける。長男は元千葉県松戸市議会議員の小沢暁民。 横手中学時代に文学サークル「幌馬車」を通じて社会主義に目ざめ、戦前は小作争議の指導者として知られた。 第二次世界大戦前から農民運動や社会運動などに関わり、戦後は秋田県の日本共産党幹部として労働運動に関わった。1949年(昭和24年)8月に福島県の東北本線松川駅付近で発生した列車転覆事故、いわゆる松川事件では、国鉄労働組合や東芝労組組合員の日本共産党員20名が逮捕。
平田 冨太郎(ひらた とみたろう、1908年5月22日 - … 平田 冨太郎(ひらた とみたろう、1908年5月22日 - 1995年3月20日)は、日本の社会学者。早稲田大学名誉教授。 秋田県横手市に生まれる。横手中学校(現・秋田県立横手高等学校)卒、早稲田第二高等学院卒、1931年早稲田大学政治経済学部卒。 1936年同助手、1938年講師、1941年助教授、1945年教授、1954-56年社会政策学会代表幹事、1964-66年社会政策学会代表幹事、1969-72年附属図書館長、1979年定年退任、名誉教授、日本社会事業大学学長・教授、86-92年日本生産性本部会長、91年退任、名誉教授、1955年「社会政策論研究 社会政策と資本主義との関連を中心として」で、経済学博士(慶應義塾大学)の学位を取得。
佐々木 康(ささき やすし、1908年1月25日 - 199… 佐々木 康(ささき やすし、1908年1月25日 - 1993年9月13日)は、日本の映画監督。法政大学本科国文科中退後、松竹、東映、東映テレビプロダクションに属した。早撮りの名人として知られ、松竹時代は歌謡映画、東映時代は時代劇映画、東映テレビ時代はテレビ時代劇のヒット作を連発する。映画作品168本、テレビ作品500本弱を撮った、典型的なプログラムピクチャーの監督である。 1908年、秋田県平鹿郡沼館村(のち雄物川町、現・横手市)沼館の大地主の家に生まれる。山形県立新荘中学校時代に映画に興味を持ち、1929年法政大学在学中に清水宏の助監督として松竹に入社。清水の盟友の小津安二郎組に移り、1931年助監督の身分のまま『受難の青春』で監督デビュー。
佐貫 亦男(さぬき またお、1908年(明治41年)1月1日… 佐貫 亦男(さぬき またお、1908年(明治41年)1月1日 - 1997年(平成9年)6月28日 )は、日本の航空技術者、航空宇宙評論家、作家、エッセイスト。 秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)生まれ。秋田県立横手中学校(秋田県立横手高等学校の前身)卒業、1931年(昭和6年)に東京帝国大学工学部航空学科を卒業した。 東京帝国大学卒業後、軍命で日本楽器製造(現ヤマハ)に赴きプロペラの設計を行う。陸軍の九七式戦闘機を担当した。1941年に、ユンカース社からフルフェザー機構・圧縮木材製プロペラ技術導入のため、第二次世界大戦最中のドイツに出張する。 しかし同年6月に、独ソ戦開戦のためにドイツからソビエト連邦に直行するシベリア鉄道経由の帰路が絶たれ、1943年11月まで在独し、その後中立国を迂回する形で帰国した。
鈴木 清(すずき きよし、1907年4月29日 - 1993… 鈴木 清(すずき きよし、1907年4月29日 - 1993年2月18日)は、日本のプロレタリア作家、政治家。 秋田県平鹿郡旭村(現・横手市)出身。横手中学から山形高等学校へ進学するも社会運動にかかわって中退。 山形高校在学中に紺野与次郎らとともに社会主義運動に入る。その後上京し、東京合同労組書記などを経て職工になる。1929年、四・一六事件に連座し逮捕される。ほどなくして創作活動に入り、『監房細胞』(1931年)などの小説を著し、日本プロレタリア作家同盟の秋田支部を結成して活動した。作家同盟解散後も創作活動を続けたが、1940年には東北農業研究所を設立、農村での改良運動にかかわる。 第二次世界大戦後は政治活動も行い、1946年には旭村の村長職もつとめた。
石川 達三(いしかわ たつぞう、1905年〈明治38年〉7月… 石川 達三(いしかわ たつぞう、1905年〈明治38年〉7月2日 - 1985年〈昭和60年〉1月31日)は、日本の小説家。社会性の濃い風俗小説の先駆者で、『蒼氓』により第1回芥川賞受賞。華中従軍から得た『生きてゐる兵隊』は発禁処分を受けた。戦後は、新聞小説や社会における個人の生活、愛、結婚をテーマにした作品でベストセラーを連発。書名のいくつかは流行語にもなった。記録的手法に拠る問題意識の明確な作風が特徴。社会的・文壇的活動も活発で、日本ペンクラブ会長、日本文芸家協会理事長、日本文芸著作権保護同盟会長、アジア・アフリカ作家会議東京大会会長などを務めた。日本芸術院会員。 秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)に父石川祐助、母ウンの三男として生まれる(兄弟妹は7人、のち異母弟妹4人)。
秋田嶽 由藏(あきただけ よしぞう、1905年3月27日 -… 秋田嶽 由藏(あきただけ よしぞう、1905年3月27日 - 1940年11月27日)は、秋田県横手市出身で春日野部屋に所属した元大相撲力士。本名は松岡 由蔵。最高位は十両4枚目。 春日野部屋に入門し、1925年1月初土俵を踏む。番付を上げ、1932年1月には幕下上位に上がった。番付発表直後に起きた春秋園事件で大量の幕内十両の脱退者が出たため、その穴埋めのため東十両7枚目に昇進した。新十両の場所とその翌場所はともに3勝止まりと振るわず、幕下に落ちた。1933年1月に再十両で6勝5敗と初めて勝ち越した。3場所連続十両にいて、一度幕下に落ちるが1935年1月に十両に復帰、4場所連続在位した。その後再び幕下に落ち、「千雄山」と改名したが、1939年1月に廃業。
若瀬川 栄蔵(わかせがわ えいぞう、1903年2月19日 -… 若瀬川 栄蔵(わかせがわ えいぞう、1903年2月19日 - 1990年3月20日)は、秋田県平鹿郡雄物川町(現・横手市)出身で伊勢ヶ濱部屋(入門時は楯山部屋)に所属した大相撲力士。本名は佐藤 永藏(さとう えいぞう)→ 中川 永藏(なかがわ えいぞう)。身長167cm、体重90kg。最高位は東前頭筆頭。得意手は左四つ、突き、押し。引退後は一時期、年寄として後進の指導に尽力した。 同郷の縁で清瀬川敬之助のもとに入門、1921年5月場所に初土俵を踏む。丁度この場所より、清瀬川が所属していた熊ヶ谷部屋を出て、楯山部屋預かりの状態になっていたため、書類上は楯山部屋所属となっていた。 1925年1月には三段目で全勝するなど、下位でも力を発揮し、幕下では少しもたつくも1929年1月に十両昇進、1930年の1月場所に新入幕を果たした。
鈴木 弥五郎(彌五郎、すずき やごろう、1902年(明治35… 鈴木 弥五郎(彌五郎、すずき やごろう、1902年(明治35年)10月11日 - 1951年(昭和26年)12月31日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 秋田県平鹿郡浅舞町六日町(平鹿町を経て現横手市)で生まれる。 小学校卒業後、甘粕正彦大尉と知り合い、満州に渡り特務機関員として活動。帰国して熊谷直太代議士の秘書を務めた。その後、大阜鉱業取締役、東北鉱業専務取締役、帝国農産興業社長、北洋漁業労働組合委員長などを務めた。 その後、秋田県平鹿郡増田町に移り開拓事業に従事。東北日本国民党を設立して1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に秋田県全県区から出馬して当選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で秋田県第2区から民主党公認で出馬して再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
笹山 茂太郎(ささやま しげたろう、1901年10月15日 … 笹山 茂太郎(ささやま しげたろう、1901年10月15日 - 1982年5月15日)は、日本の政治家。秋田県横手市出身。位階は従三位、勲等は勲一等。衆議院議員(9期)などを務めた。 秋田県立横手中学校、第一高等学校を経て、1926年東京帝国大学英法科卒業。農林省入省。販売改善課長、埼玉県経済部長、米穀課長、本省会計課長などを経たが、その後、山林局長のときに、戦時中の政府・軍部の方針であった里山伐採・平地林伐採運動について『行き過ぎのないように』との局長通達を全国の林務課長あてに出したことが、全国知事会で問題となり、熊本の営林局長に左遷させられる事態となった。本省の局長が営林局長に降格されることは、いまだかつてないことであった。
石田 民三(いしだ たみぞう、1901年6月7日 - 197… 石田 民三(いしだ たみぞう、1901年6月7日 - 1972年10月1日)は、日本の映画監督。 秋田県平鹿郡増田町(現・横手市)生まれ。1926年に『愛傷』で監督デビュー。東亜キネマでは主に剣戟映画を手がけていたが、帝キネ、新興キネマ時代に鈴木澄子主演の女性映画、明治もので頭角を現し、東宝京都時代には花街映画の傑作を立て続けに発表した。浪曲映画から戦後は観光映画まで、生涯に手がけた映画は約90本。戦後は京都の花街・上七軒で妻とお茶屋を営みながら北野をどりの作・演出を行った。 新東宝に在籍していた映画監督の加戸野五郎は実弟。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
松井 如流(まつい じょりゅう、1900年〈明治33年〉3月… 松井 如流(まつい じょりゅう、1900年〈明治33年〉3月31日 - 1988年〈昭和63年〉1月16日)は、歌人、書家。 秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)出身。旧姓は猿田。本名は郁次郎。橋田東聲に師事し、歌誌『覇王樹』に入り、1954年から同誌主宰。吉田苞竹に書を学び、隷書「杜少陵詩」で64年日本藝術院賞受賞。日展理事、大東文化大学教授。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
倉田 政嗣(くらた まさつぐ、1894年(明治27年)3月8… 倉田 政嗣(くらた まさつぐ、1894年(明治27年)3月8日 - 1932年(昭和7年)10月16日)は、日本の作詞家。秋田県出身。 1894年3月8日、秋田県平鹿郡沼館町(現、横手市雄物川町)に生まれ、幼時に生家の小沢家から仙北郡横沢村(現、大仙市太田町)で酒造業を営み、親戚でもあった倉田亦五郎へ養子に入った。幼少期を横沢村で過ごして秋田師範学校に入学、師範学校では剣道に熱中した。1913年(大正2年)に師範学校を卒業し、県下雄勝郡西馬音内(にしもない)小学校及び秋田市中通小学校で教諭をつとめた。中通小学校勤務時代には、秋田市商業学校の体操講師も務めている。1920年(大正9年)に病気(結核)のため退職、神奈川県茅ヶ崎市で療養したのち郷里にもどった。
金沢 秀之助(かなざわ ひでのすけ、1894年 - 1967… 金沢 秀之助(かなざわ ひでのすけ、1894年 - 1967年)は、日本の洋画家。 秋田県横手市出身。1920年に東京美術学校を卒業した。1922年にフランスのパリのアカデミー・ランソンに留学し、1924年に帰国した。1926年に二科展に初入選した。 1952年に日展に出品した「肉屋の店」が特選を受ける。1957年に日展審査員となり、1958年に十柯会を結成した。 二科展、日展の他、春台会(岡田三郎助が主宰していた)や帝展、二部会にも作品を出品していた。十柯会の他、光風会、白岬会の会員でもあった。
清瀬川 敬之助(きよせがわ けいのすけ、1893年11月1日… 清瀬川 敬之助(きよせがわ けいのすけ、1893年11月1日 - 1967年7月1日)は、秋田県平鹿郡大森町(現:秋田県横手市)出身で楯山部屋に所属した大相撲力士。本名は三輪 敬之助(みわ けいのすけ)(旧姓:守屋)。5代伊勢ヶ濱。最高位は東関脇。 1893年11月1日に秋田県平鹿郡大森町(現:秋田県横手市)で生まれる。地元の尋常高等小学校では柔道の猛者として活躍していたが、土地相撲の世話人だった花瀬川の世話によって、熊ヶ谷部屋へ入門、1911年1月場所において新序から初土俵を踏んだ。入門後も柔道道場には通い続け、力士としては史上初となる講道館段位(三段)を取得した。 1917年5月場所で新入幕を果たすと、右四つに組んでから上手投げ・下手投げなどの投げ技や、外掛けなどの足技を始めとした多彩な技を繰り出す取り口で、出足を使う相撲では無かった。
下田 憲一郎(しもだ けんいちろう、1889年〈明治22年〉… 下田 憲一郎(しもだ けんいちろう、1889年〈明治22年〉12月11日- 1943年〈昭和18年〉9月12日)は、日本のジャーナリスト。 風刺漫画雑誌『東京パック』(第3次)の編集者で、第4次『東京パック』の創刊者・主宰者。漫画家や画家たちからは「パックのおやじ」と称された。 1889年(明治22年)、秋田県横手市に生まれる。1896年(明治29年)頃、父が死去し、その後家運が傾いて一家離散の憂き目にあった。1898年(明治31年)には家督を継いで横手の大沢鮮新堂という書店に丁稚奉公に入っている。1911年(明治44年)頃には横手に開店した東江堂書店の支配人となった。 1913年(大正2年)頃、東京に出て正則英語学校の夜間で学び、やがてジャーナリズムの道に入った。
土田 荘助(莊助、つちだ そうすけ、1888年(明治21年)… 土田 荘助(莊助、つちだ そうすけ、1888年(明治21年)3月13日- 1962年(昭和37年)8月25日)は、大正から昭和時代の農場経営者(馬産)、地主、実業家、政治家。衆議院議員。 秋田県平鹿郡、のちの館合村(大雄村を経て現:横手市)で素封家土田万助の長男として生まれる。仙台第一中学校(現:宮城県仙台第一高等学校)を卒業した。 平鹿郡大森町菅生田(現:横手市大森町)の土田農場を経営し、馬産に取り組み、競走馬「フレーモア」の生産者として知られた。秋田県畜産組合議長、馬政協議会議員、帝国馬匹協会特別会員、中央畜産会特別議員、秋田県畜産組合長、日本競走馬生産者協会会長、地方森林会議員、秋田県耕地協会評議員、大日本山林会評議員などを務めた。
工藤 祐舜(くどう ゆうしゅん、1887年(明治20年)3月… 工藤 祐舜(くどう ゆうしゅん、1887年(明治20年)3月26日 - 1932年(昭和7年)1月8日)は、日本の植物学者。現在の秋田県平鹿郡増田町(現横手市)縫殿生まれ。植物分類学の泰斗として知られる。 父祐哲は浄土真宗の寺院通覚寺の19世住職であり、祐舜は長男であったが、のちに弟祐信を養子として寺を継がせている。 1901年(明治34年)秋田県立第三中学校(現秋田県立横手高等学校)に入学、植物好きの教師宮沢運治に傾倒し、宮沢もまた工藤を殊の外かわいがって植物採集に連れまわし、あたかも助手のような扱いであったという。中学時代、すでに海外の植物園や博物館などと標本交換をおこない、学名不明の植物を札幌農学校の宮部金吾に送ったことで2人の文通が始まった。
福岡 易之助(ふくおか やすのすけ、1885年9月28日 -… 福岡 易之助(ふくおか やすのすけ、1885年9月28日 - 1931年2月8日)は、白水社の創業者。現在の秋田県横手市(旧雄物川町福地)出身。俳号は雄川。 秋田県平鹿郡福地村深井(現・横手市雄物川町)の造り酒屋で、二百町歩の小作地に広大な山林を持つ素封家の長男として生まれる。旧制第三中学校(現秋田県立横手高等学校)から旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学仏文科を卒業した。 在学中に父が逝去したため、明治43年(1910年)の卒業後に帰郷し酒造業を継ぎ、農業振興にも力を入れる。大正3年(1914年)に郡会議員となるが、しがらみや因習に疲れ辞職。1917年、農業振興に見切りをつけ上京。 白水社を興してフランス文学の普及につとめる。
日本海 忠藏(にほんかい ちゅうぞう、1885年3月25日 … 日本海 忠藏(にほんかい ちゅうぞう、1885年3月25日 - 1953年9月19日)は、現在の秋田県横手市出身で立田川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は最上 忠五郎。身長178cm、体重83kg。最高位は西前頭16枚目。清ノ森政夫の大叔父。 1904年1月初土俵、1910年6月十両昇進。1914年1月新入幕を果たした。左四つからの寄り、櫓投げを得意としたが、幕内では全く通用せず、初日から5連敗で途中休場。1914年5月十両に、1915年5月には幕下まで陥落したが、中々勝てず、1917年1月廃業した。その後は名古屋市で会社勤めののち、手打ちうどんの製造販売業に従事した。 上の名前は改名歴なし。
塩田 団平(しおた だんぺい、旧字体: 塩田 團平、1881… 塩田 団平(しおた だんぺい、旧字体: 塩田 團平、1881年〈明治14年〉4月1日 - 1963年〈昭和38年〉4月16日)は、日本の政治家。銀行家。羽後銀行(現:北都銀行)頭取。 秋田県雄物川町(現:横手市)沼館の大地主の長男として生まれる。幼名、重三。明治41年、父親が死去し、8代目の団平を襲名。 旧制秋田中学、東京高等商業学校(現:一橋大学)を卒業。帰郷後、1913年(大正2年)32歳で沼館町(現:横手市)町長に就任し、1946年(昭和21年)まで町長を務めた。また、この間には1919年(大正8年)からは秋田県会議員を2期、1924年(大正13年)からは衆議院議員を2期(第15回、第17回総選挙当選)、1939年(昭和14年)には、貴族院多額納税者議員にも選出され、同年9月29日に就任し、同成会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在職した。
遠藤 熊吉(えんどう くまきち、1874年(明治7年)3月1… 遠藤 熊吉(えんどう くまきち、1874年(明治7年)3月1日 - 1952年(昭和27年)8月31日)は、日本の教育家である。 秋田県雄勝郡西成瀬村(現在の横手市)に所在する安養寺に生まれる。後の増田町立西成瀬小学校(現在は閉校)の前身である荻袋安養寺小学校に入学し、卒業後の1893年(明治26年)に上京し大八洲学校および国語伝習所に入学し標準語を学んだ。1895年(明治28年)に再度秋田に戻り、駒形尋常小学校(後の湯沢市立駒形小学校、現在は閉校)に准訓導として教鞭を執る。 翌1896年(明治29年)には母校である西成瀬小学校に教師として同学校に戻り、同学校にて方言教育を指導せず専ら標準語教育の指導および話し言葉の指導に携わった。
泉川 白水(いずみかわ はくすい、1872年(明治5年)10… 泉川 白水(いずみかわ はくすい、1872年(明治5年)10月18日 - 1965年(昭和40年)2月4日)は秋田県出身の俳人で南画家。短歌や書道にも優れた。本名は良之助。 秋田県平鹿郡横手町(現:横手市)四日町下丁に生まれる。幼時に尾崎行雄邸に預けられた。早稲田大学政治科を中退。郡会議員、郡参事員、町会議員を歴任した。1925年(大正14年)に武者小路実篤らと日本画の「煙雲倶楽部」を結成した。翌1926年には新南画を提唱、東京髙島屋で個展をひらく。総理大臣賞受賞。県の国宝重要美術調査委員でもあった。一方で吉川五明の系統をひく俳人でもあり、湯沢市鷹の湯に、高さ10mの巨大な句碑が建っている。横手市文化功労賞、県の文化功労賞を受けた。
土田 万助(萬助、つちだ まんすけ、1869年2月16日(明… 土田 万助(萬助、つちだ まんすけ、1869年2月16日(明治2年1月6日)- 1942年(昭和17年)6月15日)は、明治から昭和時代の大地主、篤農家、林業家、政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 出羽国平鹿郡、のちの秋田県平鹿郡館合村(大雄村を経て現横手市)で土田吉治の長男として生まれ、土田彦七の養子となる。秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を経て秋田師範学校に進学したが中退して帰郷した。1905年(明治38年)養父の隠居により家督を相続した。 1900年(明治33年)館合村農会を設立し、科学農法を導入し米の品質改良に尽力。1905年(明治38年)に計画された区画整理事業を推進し、1917年(大正6年)までに450ヘクタールが完成した。
小山 忠雄(おやま / こやま ただお、慶応3年2月15日(… 小山 忠雄(おやま / こやま ただお、慶応3年2月15日(1867年3月20日) - 昭和17年(1942年)2月16日)は、日本の教育者。号は自得。 出羽国平鹿郡横手(現在の秋田県横手市)出身。東京に遊学して、共立学校で英学・漢学を学んだ。1889年(明治22年)、秋田県師範学校を卒業して、小学校訓導を務めた。その後、東京高等師範学校文科に入り、1893年(明治26年)に卒業した。秋田県師範学校教諭、同附属小学校主事、青森県師範学校教諭を務めた。1902年(明治35年)、秋田県立横手中学校校長に就任し、翌年に秋田県立大館中学校校長に転じた。1907年(明治40年)、秋田師範学校校長となり、1912年(明治45年)に北海道札幌師範学校校長に転じた。
中村 千代松(なかむら ちよまつ、1867年2月19日(慶応… 中村 千代松(なかむら ちよまつ、1867年2月19日(慶応3年1月15日) - 1941年(昭和16年)8月4日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)、ジャーナリスト。号は木公 出羽国(秋田県)平鹿郡阿気村(大雄村を経て現横手市)の奥山家に生まれた。明治29年11月中村宗興の二女ノブに入夫婚姻。内藤湖南、畑山呂泣らと明治18年秋田県師範学校を卒業後、秋田市内で教鞭をとる。博文館編集部員、忠愛新報編集長、教育報知主筆、明治新聞主筆、報知新聞記者、秋田魁新報主筆を経て、1913年(大正2年)より秋田新聞社社長を務めた。 1915年、第12回衆議院議員総選挙に出馬して、当選を果たした。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
伊藤 直純(いとう なおずみ、万延元年12月30日(1861… 伊藤 直純(いとう なおずみ、万延元年12月30日(1861年2月9日) - 昭和8年(1933年)8月8日)は、日本の政治家。秋田県横手市生まれ。号は耕余(こうよ)。農村振興、交通網の整備、文化・教育振興など秋田県の近代化を進めた。 出羽国仙北郡金沢中野村に、後に初代金沢村長となる豪農・伊藤兵吉の長男として生まれる。慶応2年(1866年)から横手町の漢学塾「三近堂」で須田水明に学び、明治10年(1877年)に上京し根本通明の私塾で漢学、大沼枕山から漢詩を学ぶ。明治14年(1881年)、父の命で明治天皇巡幸を歓迎するため帰郷。その後再び上京し専修学校(後の専修大学)で学ぶ。卒業後は帰郷し青年会活動に力を入れる。
樋渡 ヨシ(ひわたり ヨシ、1860年(万延元年)- 193… 樋渡 ヨシ(ひわたり ヨシ、1860年(万延元年)- 1933年(昭和8年)5月12日)は、日本の人形作家である。 出羽国平鹿郡(後の同平鹿町、現在の横手市)に生まれる。後にかつて鍋島藩付の陶工であり天保期に秋田に移住した野田宇吉の長男、樋渡金太郎と結婚し夫と共に義父からもらった粘土を用いた土人形の制作に携わった。その後は夫は病死し、1874年(明治7年)頃に上吉田村中山に移住し土人形で生計を立てる。 その後は地方回りの歌舞伎を着想した事によって、『熊谷と敦盛』や『常磐御前』、『お軽』等約200の演目を土人形で再現した。後にこれらの人形は「中山人形」と呼ばれ名を馳せ、二代目の子や三代目の孫樋渡義一に継いだ。
土谷 全次(つちや ぜんじ、安政2年5月10日(1855年6… 土谷 全次(つちや ぜんじ、安政2年5月10日(1855年6月23日) - 昭和10年(1935年)4月6日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。高崎市長。医師。 出羽国平鹿郡睦合村(現在の秋田県横手市)出身。秋田医学校を卒業した。高崎市に医院を開業し、高崎市医会会長を務めた。高崎市会議員、同参事会員、群馬郡会議員、同参事会員、県会議員に選出された。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後、1921年(大正10年)から高崎市長を務めた。
戸村 義得(とむら よしあり、1849年7月7日〈嘉永2年5… 戸村 義得(とむら よしあり、1849年7月7日〈嘉永2年5月18日〉 - 1906年〈明治39年〉3月26日)は、戸村家16代、幕末の出羽久保田藩の横手所預(横手城代 第12代)、第四十八国立銀行初代頭取。通称は秀雄、大学。号は棠堂、茶顚、静学軒。 佐竹氏一門・戸村家の宗家で、父は戸村義效。1849年(嘉永2年)、横手に生まれる。父が久保田藩家老となるにあたり、1868年(明治元年)8月3日に横手所預(城代)を譲られる。戊辰戦争(秋田戦争)では横手城に攻め寄せる奥羽越列藩同盟軍に対し、本藩や奥羽鎮撫総督府からの援軍がない中、19歳にして籠城し戦うが、力及ばず落城した(横手の戦い)。 1879年(明治12年)、第四十八国立銀行(のちの秋田銀行)創立にともない、発起人の一人として頭取に就任した(翌年退任し取締役に)。
秋田家 万助(あきたや まんすけ)は。秋田県横手市出身、大仙… 秋田家 万助(あきたや まんすけ)は。秋田県横手市出身、大仙市在住のお笑い芸人、漫芸師。本名は土田金太郎。
THE SxPLAY は、日本の女性歌手である。本名および旧… THE SxPLAY は、日本の女性歌手である。本名および旧芸名は菅原 紗由理。エンズエンターテイメント所属。秋田県横手市出身。横手市立横手南中学校、秋田県立横手城南高等学校卒業。血液型A型。
米内 佑希 は、日本の男性声優。81プロデュース所属。秋田県… 米内 佑希 は、日本の男性声優。81プロデュース所属。秋田県横手市出身。
長岡 杏子 は、日本の実業家。TBSホールディングスグループ… 長岡 杏子 は、日本の実業家。TBSホールディングスグループ執行役員、スタイリングライフ・ホールディングス代表取締役執行役員社長。新卒時はTBSテレビにアナウンサーとして入社した。旧姓、畑(はた)。
壇 蜜 は、日本のタレント、女優、グラビアモデル。結婚前の本… 壇 蜜 は、日本のタレント、女優、グラビアモデル。結婚前の本名および旧芸名は齋藤 支靜加。現在の本名は清野 支靜加。夫は漫画家の清野とおる。
大日向明子(おおひなた あきこ)は秋田県平鹿郡雄物川町(現・… 大日向明子(おおひなた あきこ)は秋田県平鹿郡雄物川町(現・横手市)出身の演歌歌手。本名:大日向千枝子(ちえこ) パブリックエンタティメント所属。 2004年8月に「花嫁峠」でデビューした。 代表曲に「女の暦」、「私だってさ」等がある。 地元の雄物川町をテーマにした「雄物川」をリリースした。現在のオリジナル曲は6作である。プロデュースは「あさぎり英雄」である。 この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。
加瀬谷東嶺(かせや とうれい、1789年-1837年1月28… 加瀬谷東嶺(かせや とうれい、1789年-1837年1月28日(天保7年12月22日))は、出羽国(現在の秋田県)の江戸時代後期の円山・四条派の日本画家。本名は加瀬谷正右衛門。東嶺は雅号。 秋田藩領・出羽国雄勝郡狙半内村(後の秋田県平鹿郡増田町、現在の横手市)の親郷肝煎・10代加瀬谷正右衛門の長男として生まれた東嶺は、幼名は正七といった。幼いころから絵に興味があり、家も裕福で父親の理解もあって、若年のころ秋田藩の絵師・渡辺洞昌について絵を学んだ。その後、帰郷して父親の跡を襲い11代加瀬谷正右衛門を名乗る。1825年、飢饉に悩まされて寒村であった狙半内村を活性化しようと、村を通る仙北街道の手倉越えの道を拡張することを郡役所に願い出た。
Cup's(カップス)は双子のバンドマン。 共に物事ついた時… Cup's(カップス)は双子のバンドマン。 共に物事ついた時から両親の影響により、洋楽を聞いて育ち、兄弟で音楽活動をしていた。アマチュアバンド時代は4人編成で活動したが、ビーイング加入に伴い、双子のロックンロールバンドとなった。1994年にシングル「愛しているのにBye Bye Love」でメジャーデビュー。シングル1枚とアルバム2枚を出している。
胡原 おみ(こはら おみ)は、日本の漫画家、イラストレーター… 胡原 おみ(こはら おみ)は、日本の漫画家、イラストレーター。秋田県平鹿郡十文字町(現・横手市)出身、埼玉県在住。 3歳から中学3年生までバレエを習う。専門学校日本デザイナー芸術学院仙台校まんが学科卒業。卒業後に地元で絵の活動をするが、その後上京しアシスタントを行いながら2013年、『COMIC@LOID』第1号に掲載された『地獄型人間動物園〜第一章〜 脳漿炸裂ガール』でデビュー。 この項目は、漫画家・漫画原作者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:漫画/PJ漫画家)。