太宰 治(だざい おさむ、本名:津島 修治〈つしま しゅうじ… 太宰 治(だざい おさむ、本名:津島 修治〈つしま しゅうじ〉、1909年〈明治42年〉6月19日 - 1948年〈昭和23年〉6月13日)は、日本の小説家。 太宰治はペンネームであり、1933年(昭和8年)に短編小説『列車』で初めて太宰治の名が使われた。弘前高等学校(現:弘前大学)の学生時代に始めた左翼活動は3年程で挫折し、その後は自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。主な作品に『走れメロス』『津軽』『人間失格』がある。没落した華族の女を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。 戦後はその作風から、坂口安吾、織田作之助、石川淳、檀一雄らとともに新戯作派、無頼派と称された。
長谷川 四郎(はせがわ しろう、1909年〈明治42年〉6月… 長谷川 四郎(はせがわ しろう、1909年〈明治42年〉6月7日 - 1987年〈昭和62年〉4月19日)は、日本の小説家、翻訳家。 北海道函館市出身。函館中学卒業。1926年に上京、松本泰のもとに寄宿する。1933年、立教大学予科を経て、法政大学文学部独文科に入学する。関口存男・片山敏彦にドイツ語・ドイツ文学を学び、豊島与志雄からフランス文学を学ぶ。 同学科を卒業後、1936年、南満州鉄道株式会社に入社。1942年、満鉄を退社し、満洲国協和会調査部に入る。1945年、ソ連侵攻により捕虜収容所に収容され、5年に及ぶシベリア抑留となった。 1951年、抑留経験をもとに雑誌『近代文学』に「シベリヤ物語」を発表した。
金 来成(キム・ネソン、1909年旧暦5月29日 - 195… 金 来成(キム・ネソン、1909年旧暦5月29日 - 1957年2月19日)は、大韓民国の小説家。平安南道(ピョンアンナムド)生まれ。 1935年に日本の探偵小説専門誌『ぷろふいる』でデビューし、のちに朝鮮半島で探偵作家、大衆文学作家として活躍した。韓国推理小説の創始者とされる。 大韓帝国末期の1909年旧暦5月29日、平壌(ピョンヤン)近郊の平安南道(ピョンアンナムド)大同郡(テドンぐん)に生まれる。1925年、平壌公立高等普通学校(ko)に入学。当時この学校では、のちに翻訳家となる龍口直太郎が英語教師をしており、金来成はその授業でアーサー・コナン・ドイルやエドガー・アラン・ポー、江戸川乱歩についての話を聞き、探偵小説の魅力を知った。
田中 秀果(たなか しゅうか、1909年5月15日 - 20… 田中 秀果(たなか しゅうか、1909年5月15日 - 2007年4月5日)は、昭和・平成時代日本の川柳作家、作詞家。本名・田中 秀雄(たなか ひでお)。 滋賀県彦根市出身。京都市の繊維業者に20年余り勤務した後、独立し京染加工業を営む。本業の傍ら、1932年(昭和7年)頃から新聞の川柳欄への投稿を行うようになり、今村良之祐に師事した。 御所車川柳社発行の『御所車』編集者や染織新報社発行の業界誌『そめとおり』で川柳欄の選者を務めた後、彦根へ帰郷し滋賀文学会理事に就任。1984年(昭和59年)、京都府が実施した府歌の歌詞一般公募に応募作が入選し、團伊玖磨の作曲で「京都府の歌」として制定される。 平成以降も彦根市文化協会理事として市民川柳の選者を務めていたが、2007年(平成19年)4月5日に脳内出血のため市内の病院で逝去した。
吉田 俊雄(よしだ としお、1909年〈明治42年〉5月7日… 吉田 俊雄(よしだ としお、1909年〈明治42年〉5月7日 - 2006年〈平成18年〉12月)は、日本の海軍軍人、作家。最終階級は海軍中佐。長崎県佐世保市出身。 旧制福岡中学(現・福岡県立福岡高等学校)より海軍兵学校へ進む。病気のため留年し1931年(昭和6年)11月、123人中41番で卒業した(59期)。 1933年(昭和8年)4月少尉任官、翌年11月中尉、1937年(昭和12年)4月海軍大学校選科学生。この間大尉に進級している。第28駆逐隊附、重巡洋艦「妙高」分隊長を経て、軍令部出仕(3班8課)となり、日蘭会商の随員を務めた。帰国後再び軍令部出仕となり、臨時戦史部に所属。第二次世界大戦中は主に軍令部3部8課に勤務。
森 はな(もり はな、1909年(明治42年)4月16日 -… 森 はな(もり はな、1909年(明治42年)4月16日 - 1989年(平成元年)6月14日)は、兵庫県出身の児童文学作家・教育者。代表作は知的障害のある青年と地域との交流を描いた『じろはったん』。 1909年(明治42年)、兵庫県養父郡大蔵村宮田(現・朝来市和田山町)で、酒類販売業を営む父の次女として生まれた。1924年(大正13年)に大蔵尋常高等小学校高等科から兵庫県明石女子師範学校(神戸大学国際人間科学部の前身のひとつ)に進学し、1928年(昭和3年)に明石女子師範学校を卒業した後、南谷尋常小学校の教員となり、その後養父尋常小学校に転任となった。 この頃に兄の友人であり後に結婚する森種樹との文通が始まり、1932年(昭和7年)に結婚した。
村上 信彦(むらかみ のぶひこ、1909年(明治42年)3月… 村上 信彦(むらかみ のぶひこ、1909年(明治42年)3月30日 - 1983年(昭和58年)10月31日)は、日本の作家、女性史研究家、医事評論家。 大衆作家村上浪六の三男として東京市下谷に生れる。「父浪六が手をつけようとした女中を救い出して父と義絶、その少女と結婚」したとされているが、このエピソードは彼の小説『音高く流れぬ』に登場するフィクションである。本小説は確かに村上本人とその周辺人物がモデルとなっており、村上の妻は女中として村上家に勤めていたが、エピソード自体は創作である。作中では女中に手を付けようとしたのも父ではなく叔父であり、主人公に父母はいない。村上が後年、彼の日記をもとに執筆したドキュメント小説『黒助の日記』にもこのエピソードはない。
花田 清輝(はなだ きよてる、1909年〈明治42年〉3月2… 花田 清輝(はなだ きよてる、1909年〈明治42年〉3月29日 - 1974年〈昭和49年〉9月23日)は、作家・文芸評論家。巧みなレトリックを駆使した文体を特徴とし、映画や演劇の評論も多く手がけ、日本のアヴァンギャルド芸術論の先駆的存在であった。 1909年3月29日、福岡県福岡市東公園に生まれ、一人っ子として育つ。先祖は毛利輝元であり、清輝の曽祖父は黒田藩の右筆で、名前には代々「輝」の字を付ける習いだった。旧制福岡中学(現・福岡県立福岡高等学校)時代は柔道に熱中し、また父ともに短歌を新聞等に投稿していた。 1926年4月、鹿児島の第七高等学校甲類に入学、西田哲学に没入、また寮誌『白光』を創刊し長編詩「樹下石上」などを発表。
石野 径一郎(いしの けいいちろう、1909年(明治42年)… 石野 径一郎(いしの けいいちろう、1909年(明治42年)3月28日 - 1990年(平成2年)8月3日)は日本の作家。本名は石野 朝和。もとは高江洲朝和であったが、石野へ改姓し、筆名は径一郎とした。 代表作は沖縄戦を題材にした『ひめゆりの塔』で、戯曲化・映画化もされた。また、直木賞候補にもなった対馬丸事件を描いた『沖縄の民』や『残波岬の決闘』などもある。 沖縄県首里区寒川町(現那覇市)で首里士族の両親のもとに、高江洲家8代目として生まれる。9歳の時に母が亡くなり、祖父の住む真和志村古島に移る。1921年に旧制沖縄県立第一中学(現沖縄県立首里高等学校)入学。14歳の時に古島の中学生翁長助静(のち真和志市長)、内間安清、平良良松らと同人誌『はるがん(原神)』を発行。
佐賀 潜(さが せん、1909年〈明治42年〉3月21日 -… 佐賀 潜(さが せん、1909年〈明治42年〉3月21日 - 1970年〈昭和45年〉8月31日)は日本の小説家、推理作家、検察官、弁護士。本名は松下幸徳。 東京生まれ。筆名の由来は、父親を含め先祖代々佐賀鍋島藩の出身であることと、「探せん」の意味を懸けたもの。 中央大学法学部在学中、司法試験に合格。大学を卒業し司法修習を終え、各地の地方検察庁(当時は地方裁判所検事局)で検事を務める(1946年11月までの約10年間)。なお、著書である『刑法入門』の中で、検事時代の1944年に長崎刑務所浦上支所で死刑が執行された際に、担当でもないのに興味本位で立ち会った体験を明かしている。 その後は弁護士事務所を開業。
井上 友一郎(いのうえ ともいちろう、1909年3月15日 … 井上 友一郎(いのうえ ともいちろう、1909年3月15日 - 1997年7月1日)は、大阪府出身の小説家。 大阪府西成郡中津町(後の大阪市東淀川区。その後大淀区を経て現・北区)生まれ。本名は友一。 商業学校在学中、野球と小説乱読で学業を怠け、そのために中退し、その後各中学を転々とする。1929年、関西大学第二商業学校を卒業し、1930年に早稲田大学専門部法科入学。1931年『森林公園』を発表して川端康成に認められる。また坂口安吾、田村泰次郎らとの同人誌『桜』で活動し、1934年「道化者」を発表。 1936年、早稲田大学仏文科卒業。同年「人民文庫」に参加。 「都新聞」記者となり、1938年特派員として中国戦線に従軍した。
菊岡 久利(きくおか くり、1909年3月8日 - 1970… 菊岡 久利(きくおか くり、1909年3月8日 - 1970年4月22日)は、日本の作家、詩人。本名、高木陸奥男(みちのくお)。横光利一に師事する。
大岡 昇平(おおおか しょうへい、1909年〈明治42年〉3… 大岡 昇平(おおおか しょうへい、1909年〈明治42年〉3月6日 - 1988年〈昭和63年〉12月25日)は、日本の小説家、評論家、フランス文学の翻訳家・研究者。 東京牛込に生まれた。父は相場師で、社会的身分の変動が激しく、それが自我の目覚めを早熟にしたという。戦前はスタンダールを研究した。フィリピンのミンドロ島での俘虜経験をもとにした『俘虜記』(1948年)で作家の地位を確立。『武蔵野夫人』(1950年)などの恋愛小説の秀作も書くが、その目は一貫して戦争に向けられていた。戦記文学『レイテ戦記』『野火』が代表作である。1972年に日本芸術院会員に推されたが、俘虜の経験を理由に辞退した。 1909年(明治42年)3月6日、 東京市牛込区(現:新宿区)新小川町に父・貞三郎、母・つるの長男として生まれた。
花岡 大学(はなおか だいがく、1909年2月6日 - 19… 花岡 大学(はなおか だいがく、1909年2月6日 - 1988年1月29日)は、日本の童話作家・小説家・児童文学作家、仏教の僧侶である。本名如是(ゆきよし)、僧名大岳。浄迎寺の住職を務めた。京都女子大学名誉教授。
蒼井 雄(あおい ゆう、1909年1月27日 - 1975年… 蒼井 雄(あおい ゆう、1909年1月27日 - 1975年7月21日)は、日本の探偵作家(名前の読み方には「あおい たけし」説もある)。本名は藤田優三。 電力会社の技術者を本業とする寡作なアマチュア作家ながら、日本において初めて鉄道ダイヤを題材とした長編探偵小説『船富家の惨劇』(1935)を著したことで、日本の推理小説史に名を残している。戦後に鉄道ダイヤを用いた推理小説を書いた鮎川哲也や松本清張も、この作品に影響を受けたという。 F・W・クロフツやイーデン・フィルポッツなど、1920年代以来の欧米探偵小説界においてリアリズム指向を持った作家の影響を受け、当時の日本の探偵小説界では珍しくリアリティ重視の本格探偵小説を書いたが、その活動期であった1930年代から1940年代には、時期尚早と地味な作風のため広く受け容れられることはなかった。
浜田 隼雄(はまだ はやお、旧字体:濱田 隼雄、1909年1… 浜田 隼雄(はまだ はやお、旧字体:濱田 隼雄、1909年1月16日 - 1973年3月26日)は日本統治時代の台湾で活躍した日本の小説家。代表作は『南方移民村』。 宮城県仙台市生まれ。旧制台北高等学校を経て、東北帝国大学卒業後、台湾で教員となる。小説を西川満が主宰する『文芸台湾』に発表。1943年(昭和18年)、『南方移民村』で台湾文学賞を受賞。戦後は郷土を題材とした作品を執筆した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
樋口 清之(ひぐち きよゆき、1909年1月1日 - 199… 樋口 清之(ひぐち きよゆき、1909年1月1日 - 1997年2月21日)は、日本の考古学者・歴史作家。國學院大學名誉教授、國學院大學考古学資料館名誉館長、國學院大學栃木短期大学名誉学長、全日本博物館学会名誉会長。文学博士。専門は考古学・民俗学。紫綬褒章、勲三等旭日中綬章受章。 奈良県桜井市生まれ。先祖は、織田長益(有楽斎)に発する旧家である。旧制奈良県立畝傍中学校在学中に、学術誌に十数篇の論考を投稿していた。1927年、鳥居龍蔵を慕って國學院大學に入学。1932年(昭和7年)國學院大學文学部国史学科卒業。在学中の1928年(昭和3年)4月には、自身の収集品をもとに博物館の必要性を訴えたことで、國學院大學内に考古学標本室が創設された。
鶴 彬(つる あきら、1909年1月1日(戸籍上、実際には前… 鶴 彬(つる あきら、1909年1月1日(戸籍上、実際には前年12月といわれている) - 1938年9月14日)は、日本のプロレタリア文学の影響を強く受けた反戦川柳作家。石川県河北郡高松町(現かほく市)生まれ。本名、喜多 一二(きた かつじ)。佐高信は鶴を「『川柳界の小林多喜二』と言われた」と自著で紹介している。 1909年1月1日、石川県河北郡高松町に、竹細工職人の喜多松太郎とスズの次男として生まれた。翌年に叔父の喜多弁太郎の養子となり、1915年尋常小学校に入学し、1923年には高等小学校を卒業する。その間、9才の時に父が死に、母が再婚して兄弟姉妹6人は離別する。小学校在籍中から、『北国新聞』の子ども欄に短歌・俳句を投稿し、1924年にはペンネーム「喜多一児」で「北国歌壇」(『北国新聞』)に作品を発表する。
木村 学司(きむら がくし、1909年 - 1982年)は日… 木村 学司(きむら がくし、1909年 - 1982年)は日本の浪曲作家、劇作家である。浅香光代、不二洋子などの台本を手がけ、女剣劇の普及に努めた人物。戦後、NHKの専属作家にもなる。 晩年には「宗教レコード制作本部」を立ち上げ、道元、親鸞、法然など、日本の名僧を題材とした浪曲を制作。それらを一冊にまとめ上げた作品集「日本名僧浪曲列伝」を執筆後に他界。 浅草に移り父が医院を開業。医者の大学を勧められ受験するが二年浪人する。中学の頃から芝居に興味を持ち劇場に頻繁に足を運んでいた学司は、浪人中に「プペダンサント」を結成した榎本健一が脚本を募集していたことを知り一晩で「ミス浅草」というコメディーを書き上げ投稿。
葛巻 義敏(くずまき よしとし、1909年(明治42年) -… 葛巻 義敏(くずまき よしとし、1909年(明治42年) - 1985年(昭和60年)12月16日)は、東京市(現在の東京都)出身の作家、文芸評論家。芥川龍之介の甥。 芥川龍之介の次姉ヒサと獣医葛巻義定の長男として、東京市新宿(現在の東京都新宿区新宿)の耕牧舎牧場に生まれる。1910年に両親が離婚したため、東京市芝区銭座町(現在の東京都港区浜松町)の新原家(母の実家)で育てられる。ヒサはその後、西川豊と再婚し、龍之介の長男芥川比呂志の妻となる瑠璃子(1916年 - 2007年)を設けている。 1922年、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。在学中、新しき村への参加を望んで家出した。
安藤 鶴夫(あんどう つるお、1908年〈明治41年〉11月… 安藤 鶴夫(あんどう つるお、1908年〈明治41年〉11月16日 - 1969年〈昭和44年〉9月9日)は、日本の小説家(直木賞受賞)、随筆家。落語、文楽、歌舞伎、新劇の評論家であり演芸プロデューサーでもあった。国際演劇協会理事。日本演劇協会常任理事。本名、花島鶴夫。「アンツル」の愛称で親しまれた。 東京市浅草区向柳原町(現在の東京都台東区浅草橋)に、義太夫の8代目竹本都太夫の長男として生まれる。1934年(昭和9年)の法政大学文学部仏文科卒業の時に髪を切り、以後、死ぬまでイガグリ頭で通す。子供のころから親しんだ都新聞社へ途中入社したのは1939年(昭和14年)。都新聞は花柳界の広告を載せている文芸演芸の紙面に特色のある新聞で社長の福田英助の金言は「とかく人間は色と欲だ。
山岡 勝人(やまおか かつと、1908年11月14日 - 1… 山岡 勝人(やまおか かつと、1908年11月14日 - 1998年10月12日)は、昭和時代日本の詩人、小説家、作詞家、劇作家。長野県出身。 1908年(明治41年)、長野県諏訪郡平野村(現在の岡谷市)湊に生まれる。旧制松本商業学校を卒業したのち、諏訪地域で小学校各校の教員を務める傍ら、伊藤松雄主宰の「町の劇場」運動に参加した。 1930年代後半からは文芸グループ「諏訪文学」に属し、小説を執筆する傍ら「山岡羊村」他の名義で懸賞歌謡への応募を始め、1941年(昭和16年)には大政翼賛会が制定した「大政翼賛の歌」で入選する。戦後は地域活動に徹し校歌や婦人会歌、音頭の作詞、新聞小説連載などの活動に従事した。
南條 範夫(なんじょう のりお、1908年11月14日 - … 南條 範夫(なんじょう のりお、1908年11月14日 - 2004年10月30日)は、日本の小説家・経済学者。本名:古賀 英正。「條」は旧字のため南条範夫とも表記される。残酷ものと呼ばれる独特の作品や剣豪小説をはじめ、幅広い歴史小説、時代小説で知られる。東京市出身。 東京銀座の南紺屋町に、代々の医師の家に生まれる。8歳から中国・青島の小中学校を出て、山口高等学校から1930年東京帝国大学法学部卒業、1933年同経済学部卒業、助手となる。1936年満鉄調査部東京支社に入り、1937年宮崎正義が率いる日満財政研究会に、法学部助手だった戒能通孝らとともに参加。軍による東亜支配を経済的に支える統制経済計画の策定に深く関与する。
倉光 俊夫(くらみつ としお、1908年11月12日 - 1… 倉光 俊夫(くらみつ としお、1908年11月12日 - 1985年4月16日)は、日本の小説家。 東京市浅草生まれ。法政大学文学部国文科を卒業。朝日新聞社会部記者、松竹演劇部・映画部勤務を経て作家活動に入る。武田麟太郎の『人民文庫』に参加の後、1941年に池田源尚・古沢元らと同人誌『麦』を創刊。1943年に『連絡員』で第16回芥川賞を受賞。 怪奇小説を数々ものす傍ら、高橋竹山を取り上げた『津軽三味線』も著している。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
大池 唯雄(おおいけ ただお、1908年10月30日 - 1… 大池 唯雄(おおいけ ただお、1908年10月30日 - 1970年5月27日 )は、日本の作家。本名は小池忠雄(こいけ ただお)。 宮城県柴田郡船岡町(現在の柴田町)出身。仙台第二中学校(現宮城県仙台第二高等学校)、旧制第二高等学校文科甲類卒、東北帝国大学文学部中退。 東北初の直木賞作家。幕末や明治維新など、歴史に題材を求めた短編を多く残している。社会教育にも力を注ぎ、槻木公民館長、柴田町公民館長などを歴任。船岡中学校校歌の作詞も手掛けた。1939年、「兜首」「秋田口の兄弟」で、第8回直木三十五賞受賞。 1970年5月27日に死去。告別式は同月30日、柴田町立船岡小学校体育館で町の教育委員会葬として行われた。
小尾 十三(おび じゅうぞう、1908年10月26日 - 1… 小尾 十三(おび じゅうぞう、1908年10月26日 - 1979年3月8日)は、日本の小説家、教師。 山梨県北巨摩郡穂足村大豆生田(現・北杜市須玉町)生まれ。1903年(明治36年)に江草村の本家から分家した家で、四男として生まれる。母は津金村の漢方医飯島家の娘。小尾家は農家で、父は国定教科書販売を営んでいたが1912年(大正元年)に破産したため一家で甲府市へ移り碁会所をはじめるが、母は幼い十三らを連れて善光寺町へ別居し、小作業や養蚕で生計を立てる。 1923年(大正12年)に甲府商業学校に入学するが、翌年には退学して長野鉄道局教習所電信科へ入所する。その後、職を転々とし農民組合運動にも関わり、日本共産党の影響下にあった全農支部青年部書記にもなっている。
秘田 余四郎(ひめだ よしろう、1908年10月15日 - … 秘田 余四郎(ひめだ よしろう、1908年10月15日 - 1967年9月18日)は、字幕翻訳家、翻訳家、小説家。本名・姫田 嘉男(ひめだ よしお)。 徳島県板野郡一条村(現・阿波市)生まれ。幼時一家で上京。東京府立第四中学校中退、成城中学校卒業、1931年東京外国語学校フランス語卒業。1936年東和商事映画部に入社し、フランス映画を始めとする字幕作成に活躍。1938年に解雇され、「香具師もの」小説を書く。1940年陸軍通訳。仏印へ渡り、字幕翻訳を中華電影で続け、上海で高見順と知り合い生涯の友となる。敗戦で鎌倉へ引き揚げ。また、海外小説の翻訳(一部、姫田嘉男名義)もおこなった。 RKOの作品を中心に外国映画をテレビ局に配給する企業、日本テレピックスを設立したが、同社は秘田の死後に倒産し、秘田の弟によって東京放映として再興されたが、彼が山田かつらの一人娘と結婚したことがきっかけで鬘の卸売業を始めたことで東京放映の事業は縮小されてしまったと同社で働いていた諸橋健一は述べている。
八島 太郎(やしま たろう、1908年9月21日 - 199… 八島 太郎(やしま たろう、1908年9月21日 - 1994年6月30日)は、日本とアメリカとで活躍した日本人画家、絵本作家である。本名 : 岩松 淳(いわまつ じゅん)。鹿児島県肝属郡小根占村出身。作家の伊佐千尋、俳優のマコ岩松は息子。
田岡 典夫(たおか のりお、1908年9月1日 - 1982… 田岡 典夫(たおか のりお、1908年9月1日 - 1982年4月7日)は高知県出身の小説家。 長崎市生まれ、高知市育ち。中国文学者・田岡嶺雲の甥。父親の田岡典章は東亞セメント専務、田岡式セメント石合資代表。母の田岡寿子は日本キリスト教婦人矯風会高知支部長。 土佐中学、高知一中(現高知県立高知追手前高等学校)、東京府立一中(現東京都立日比谷高等学校)中退を経て、1926年早稲田第一高等学院に入学するも中退。のちパリに遊学し、帰国後は6代目尾上菊五郎の俳優学校に学ぶ。 菊池寛と田中貢太郎に師事し、1943年に短篇『強情いちご』で直木賞受賞。戦時中は熱海市桃山に住み、近所の志賀直哉や広津和郎たちと交際。
三橋 一夫(みつはし かずお、1908年8月27日 - 19… 三橋 一夫(みつはし かずお、1908年8月27日 - 1995年12月14日)は、日本の作家、健康研究家。 兵庫県神戸市生まれ。本名・敏夫。父親の三橋信三は三菱倉庫に勤務で、後、同社社長、三菱本社理事などを歴任。父親の影響で武術をはじめるが、一方で文学少年でもあった。 慶應義塾大学経済学部卒。在学中にヨーロッパへの留学経験がある。1940年ごろから同人誌『三田文学』、『文芸世紀』などに創作を発表し、終戦後の1948年には林房雄の紹介で『新青年』に「腹話術師」が掲載され、商業誌にデビューした。「不思議小説」と銘打った奇妙な作風で好評を博し、同誌の常連執筆者となる。『新青年』1949年6月号から同誌休刊の1950年7月号まで、横溝正史の命名による「まぼろし部落」のタイトルで不思議小説を毎号連載した。
高木 俊朗(たかぎ としろう、1908年(明治41年)7月1… 高木 俊朗(たかぎ としろう、1908年(明治41年)7月18日 - 1998年(平成10年)6月25日)は、日本の映画監督、脚本家、ノンフィクション小説家である。 東京生まれ。1933年早稲田大学政治経済学部卒業後、松竹蒲田撮影所に入社し、清水宏に師事した。 その後、富士スタジオ、日本映画社に勤務した。1939年から陸軍映画報道班員として、日中戦争に従軍し、記録映画を製作した。 太平洋戦争中、1942年に陸軍航空本部映画報道班員として、マレーシア、インドネシア、タイ、仏印などに従軍。映画報道班員としての体験をもとに、新聞や放送の発表と現実の戦況の違い、戦場の苛酷なありさまの見聞等々、インパール作戦の悲惨さを明らかにして陸軍指導部の無謀さを告発することを決意した。
高杉 一郎(たかすぎ いちろう、1908年7月17日 - 2… 高杉 一郎(たかすぎ いちろう、1908年7月17日 - 2008年1月9日)は、日本の評論家・小説家・翻訳家・エスペランティスト。和光大学名誉教授。本名は小川 五郎(おがわ ごろう)で、大学教授としてはこの名前で教えた。 静岡県田方郡中伊豆町(現・伊豆市)生まれ。東京文理科大学教育学科中退。1933年より改造社に勤務、雑誌『文藝』編集主任となり、1942年東京文理科大学英文科卒業。1944年徴兵され、ハルピンで敗戦を迎え、シベリア抑留を体験。1949年復員。帰国後書いた抑留体験記『極光のかげに』『人間』(1950年8月 - 12月)が第24回芥川龍之介賞候補にあがり、ベストセラーとなる。 1950年静岡大学教育学部講師、1957年同文理学部助教授、1965年教授、1967年 - 1972年評議員、1972年定年退官。
日影 丈吉(ひかげ じょうきち、1908年6月12日 - 1… 日影 丈吉(ひかげ じょうきち、1908年6月12日 - 1991年9月22日)は、日本の小説家、推理作家、翻訳家。東京府東京市深川区(現在の東京都江東区)出身。本名は片岡十一。幻想的な作風で、代表作として長篇小説「真赤な子犬」「内部の真実」「応家の人々」、短篇小説「猫の泉」「吸血鬼」、探偵右京慎策の活躍するハイカラ右京シリーズなど。 1908年(明治41年)に東京府東京市深川区深川木場町(現在の東京都江東区木場一丁目)で、魚問屋の父と魚小売商の母の間に第三子として生まれる。4歳の時に父が亡くなり、その魚問屋のあった日本橋に移る。1917年に深川に戻り、神田の明治中学に入学、中学時代は金剛社の探偵小説の叢書を愛読し、『童話』誌に投稿して入選したこともあった。
伊馬 春部(いま はるべ、1908年(明治41年)5月30日… 伊馬 春部(いま はるべ、1908年(明治41年)5月30日 - 1984年(昭和59年)3月17日)は日本の作家、劇作家。本名は高崎英雄。旧筆名は伊馬鵜平。戦前から戦後にかけてユーモア小説やラジオドラマなどの分野で活躍。釈迢空門下の歌人としても知られる。
長見 義三(おさみ ぎぞう、1908年5月23日 - 199… 長見 義三(おさみ ぎぞう、1908年5月23日 - 1994年4月21日)は、日本の小説家。 北海道夕張郡長沼町生まれ。北海道農産物検査所に勤めるかたわら創作を始める。1928年「母胎より塚穴へ」が「小樽新聞」の懸賞小説1等入選となる。上京して谷崎精二に師事、早稲田高等学院卒後、1938年早稲田大学文学部仏文科卒。八木義徳と親交を結ぶ。1939年『姫鱒』で第9回芥川賞候補。敗戦後は千歳市の米軍キャンプで通訳を務める。最初の妻(死別)は野村尚吾の妹。1985年千歳市文化功労賞受賞、1990年北海道文化賞受賞。
大林 清(おおばやし きよし、1908年4月25日 - 19… 大林 清(おおばやし きよし、1908年4月25日 - 1999年10月27日)は、日本の小説家、劇作家。 第4代日本作家クラブ会長。日本放送作家組合(現・日本脚本家連盟)の創立以来、理事長を務め、日本著作者団体協議会会長など文化団体の会長、理事、評議員など歴任。 東京府立第一中学校を卒業後に慶應義塾大学仏文科入学。1932年に同校中退後、1933年同人雑誌「大衆文学」を創刊。1939年に長谷川伸が主宰する新鷹会に入会した。1939年頃、長谷川伸主宰の劇作研究会で舞台脚本を執筆。 1943年に野間文芸奨励賞を受賞。 戦後は都会風俗を描き、ラジオ、テレビの脚本を多く書き、「あの波の果てまで」などの人気テレビドラマの脚本を手掛けた。
飯島 亮(いいじま りょう、1908年〈明治41年〉4月20… 飯島 亮(いいじま りょう、1908年〈明治41年〉4月20日 - 1990年〈平成2年〉)は、日本の造園家、作庭家、庭園作家、造園研究者、造園指導者、造園教育者。元千葉大学園芸学部教授。農学博士。茨城県龍ケ崎市出身。
秋元 寿恵夫(秋元 壽惠夫、あきもと すえお、1908年3月… 秋元 寿恵夫(秋元 壽惠夫、あきもと すえお、1908年3月13日 - 1994年2月4日)は、医師、著作家。筆名室田 有。 長野県長野市生まれ。一家は旧諏訪藩士の家系。精神医学者秋元波留夫は実兄。旧制東京府立第五中学、旧制第一高等学校卒業後、東京帝国大学医学部医学科で血清学を専攻し、1938年卒業、1943年大学院博士課程修了、医学博士。同年満州国平房の関東軍防疫給水部本部(731部隊)に加わった。 戦後は東京民主医療機関連合会結成に参加。1949年、臨床検査法の確立と検査技師の教育・育成を目的とする秋元研究所(1952年より病体生理研究所)を開設。長尾研究所、神奈川保健所勤務を経て、1959年3月-1966年3月横浜市衛生研究所長、1966年4月-1984年5月病体生理研究所長、1967年1月新日本臨床検査技師学校長。
山川 惣治(やまかわ そうじ、1908年2月28日 - 19… 山川 惣治(やまかわ そうじ、1908年2月28日 - 1992年12月17日)は、主に昭和20年代(1945年から1954年)から昭和30年代(1955年から1964年)に活躍した絵物語作家。 福島県郡山市生まれ。戦前より紙芝居作家として、戦後は絵物語作家として多くの作品を発表した。 昭和6年より紙芝居作成を始め、昭和7年より書いた『少年タイガー』が爆発的にヒットし、当時、紙芝居界の絶対的トップ作品であった『黄金バット』を抜いたとされる。少年タイガーには敵役としてブラック・サタンなる怪人物が登場するが、大きな翼と全身黒ずくめのマスク姿といういでたちがバットマンに酷似していると指摘される事がある。
西川 満(にしかわ みつる、1908年2月12日 - 199… 西川 満(にしかわ みつる、1908年2月12日 - 1999年2月24日)は日本の装幀家、小説家、詩人。長男は経済学者の西川潤。 福島県会津若松市生まれ。父親の仕事の関係で、3歳で台湾に渡る。台北一中を経て、早稲田大学仏文科へ進学、吉江喬松に師事。卒論のテーマはアルチュール・ランボー。1933年に卒業して台湾日日新報に就職。『台湾風土記』(1939年)、『華麗島』(1939年)、『文芸台湾』(1940年)などを創刊。敗戦後の1946年、日本に引き揚げる。1947年、小説「会真記」で第1回夏目漱石賞の佳作に入選。 台湾の真理大学に蔵書2万冊余りを寄贈した。占星術もやり、天中殺の占いを得意とした。
中村 地平(なかむら ちへい、1908年(明治41年)2月7… 中村 地平(なかむら ちへい、1908年(明治41年)2月7日 - 1963年(昭和38年)2月26日)は、宮崎県出身の小説家、銀行家。宮崎県立図書館長、宮崎相互銀行(現宮崎太陽銀行)社長。自らが憧れた南方の風土で培われた南方文学を提唱した。筆名であり、本名は中村治兵衛。 1908年(明治41年)、現宮崎市淀川町に中村常三郎の次男として裕福な商家に生まれた。旧制宮崎中学校(現宮崎大宮高校)時代、佐藤春夫の台湾小説を読んで南方に憧れ、1930年(昭和5年)3月、台湾総督府立台北高等学校を卒業。同年4月、東京帝国大学文学部美術史科に入学。入学試験の会場で太宰治と知り合った。学生時代の1932年(昭和7年)「熱帯柳の種子」を文芸誌『作品』に発表。
おの ちゅうこう(1908年〈明治41年〉2月2日 - 19… おの ちゅうこう(1908年〈明治41年〉2月2日 - 1990年〈平成2年〉6月25日)は、日本の児童文学作家、詩人。 群馬県利根郡白沢村(現・沼田市)出身。本名・小野 忠孝(おの ただよし)。 旧制沼田中学校(現・群馬県立沼田高等学校)から群馬師範学校(現・群馬大学教育学部)に進み卒業。5ヶ月間高崎連隊へ入営。 はじめは『少年倶楽部』などへ作文や詩を投稿していた。小学校教員として勤務するも辞職して文筆の道へ身を投じた。草野心平とは友人として交流を持った。河井酔茗に師事。 日本児童文芸家協会顧問、日本ペンクラブ会員、日本文芸家協会員、日本詩人クラブ会員。100冊を超える著作を残した。酒を愛したことから酒にまつわるエピソードも多い。
篠崎 護(しのざき まもる、1908年2月 - 1991年)… 篠崎 護(しのざき まもる、1908年2月 - 1991年)は、戦前日本の報道記者・スパイ、日本軍占領下シンガポールの軍政幹部、戦後日本の実業家、著作家。 「抗日活動に関わっていない」とする証明書を大量に発行することにより、日本軍の憲兵隊による監視を逃れ命を救われた人々が多数存在することから、「日本のシンドラー」と呼ばれる。 篠崎は、1947年に行われたシンガポール華僑粛清事件の裁判に検察側証人として出廷した際に、日本軍のシンガポール占領直後に昭南警備隊によって行われた同事件に際し、日本軍による住民の大量虐殺があったことを認める一方で、自身が同警備隊の河村参郎司令官から良民保護の依頼を受け、これに従って保護証数万枚を不特定多数の市民に配り、また警備隊の分隊長と交渉して、同警備隊に殺害されそうになった華僑数千人の人名を救った、と証言して河村に対する情状酌量を求め、自著の中でも同趣旨の叙述をしている。
鷲尾三郎(わしお さぶろう、1908年1月25日 - 198… 鷲尾三郎(わしお さぶろう、1908年1月25日 - 1989年12月2日)は、日本の推理作家。本名は岡本道夫。 本格ものや幻想もの、ユーモア探偵小説に加え、ハードボイルドふうの作品も書いた。 大阪市生まれ。大阪府立生野中学校(現・大阪府立生野高等学校)卒。同志社大学中退後、永く商業に携わっていた。 1949年、江戸川乱歩の推薦で『探偵実話』4月号に「魚臭」が掲載される。同年、同じく江戸川乱歩の推薦で『宝石』臨時増刊「文芸探偵小説号」に「疑問の指輪」が掲載され、関西探偵作家クラブに所属した。 1951年、上京して専業作家となる。1954年、『宝石』12月号に掲載された「雪崩」が第7回探偵作家クラブ賞の新人奨励賞を受賞。
泉 漾太郎(いずみ ようたろう、1908年1月5日-1996… 泉 漾太郎(いずみ ようたろう、1908年1月5日-1996年10月23日)は、日本の詩人・作家。栃木県文化協会会長を務めた。 栃木県塩原温泉郷の一つである福渡温泉の旅館・和泉屋の後継ぎとして生まれ、のち14代目主人となる。本名・田代太平。 大田原中学(現栃木県立大田原高等学校)在学中に、全国中学生文芸コンクールに応募したところ、1位入選となり、そのときの審査委員長が野口雨情だった縁から、生涯雨情に師事して詩を書いた。 竹久夢二とは親友であり、山岡荘八は義兄弟の仲であった。旅館には、山岡が命名した『竜胆(りんどう)の間』という部屋もあった。旅館に逗留した新鷹会の時代小説作家たちとも交わった。のち小説も書く。
三木 澄子(みき すみこ、1908年〈明治41年〉1月2日 … 三木 澄子(みき すみこ、1908年〈明治41年〉1月2日 - 1988年〈昭和63年〉4月16日)は、日本の児童文学作家。本名は磯野澄子。 長崎県長崎市生まれ。愛知県立第一高等女学校(現・愛知県立明和高等学校)卒業。1926年(大正15年)には菊田一夫、安藤一郎らとともに詩の同人誌『花畑』を創刊。 1929年(昭和4年)『婦人サロン』(文藝春秋)の懸賞小説で「試験結婚実話 一週間」が当選、同誌に随筆を書く。1936年(昭和11年)、証券会社の社員・磯野栄蔵と結婚する。1941年(昭和16年)、小説「手巾の歌」が第13回芥川賞候補となる。 1947年(昭和22年)『文藝春秋』に「石段」を発表する。
寒川 光太郎(さむかわ こうたろう、1908年1月1日 - … 寒川 光太郎(さむかわ こうたろう、1908年1月1日 - 1977年1月25日)は、日本の小説家。本名は菅原憲光(すがわら のりみつ)。北海道羽幌町出身。1940年、『密猟者』で第10回芥川龍之介賞を受賞した。 小学校教員だった父に伴い、8歳から樺太大泊に住む。1926年に北海中学校を卒業後、法政大学英文科に進むが中退。樺太と満州で新聞記者を務めた後に帰国し、喫茶店経営、日本共産党員、樺太庁博物館館員、雑誌編集などの職に就く。 1937年に上京。高円寺で経営していた古書店を家人に委ねて創作活動を続け(その古書店には埴谷雄高が通っていた)、同人誌「創作」創刊号に発表した『密猟者』で、1940年に芥川賞を受賞。
佐貫 亦男(さぬき またお、1908年(明治41年)1月1日… 佐貫 亦男(さぬき またお、1908年(明治41年)1月1日 - 1997年(平成9年)6月28日 )は、日本の航空技術者、航空宇宙評論家、作家、エッセイスト。 秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)生まれ。秋田県立横手中学校(秋田県立横手高等学校の前身)卒業、1931年(昭和6年)に東京帝国大学工学部航空学科を卒業した。 東京帝国大学卒業後、軍命で日本楽器製造(現ヤマハ)に赴きプロペラの設計を行う。陸軍の九七式戦闘機を担当した。1941年に、ユンカース社からフルフェザー機構・圧縮木材製プロペラ技術導入のため、第二次世界大戦最中のドイツに出張する。 しかし同年6月に、独ソ戦開戦のためにドイツからソビエト連邦に直行するシベリア鉄道経由の帰路が絶たれ、1943年11月まで在独し、その後中立国を迂回する形で帰国した。
池尻 愼一(いけじり しんいち、1908年 - 1945年)… 池尻 愼一(いけじり しんいち、1908年 - 1945年)はハンセン病を専門とした医師、作家。ハンセン病、ハンセン病患者と真剣に向かいあい、作品『傷める葦』は1年未満で30版を数えた。太平洋戦争で応召し、1945年1月ジャワで戦死した。ペンネームは邑楽 愼一(おおら しんいち)。陸軍軍医の最終階級は軍医中尉。 1908年、福岡県浮羽郡水縄村大字益生田(現・久留米市)生まれ。父・池尻久四郎は郡医師会長を務めた人物であったが、愼一の生母とは正式の結婚でなかったので、彼は一時ぐれた。福岡県中学明善校(福岡県立明善高等学校の前身)に入学していたが、2年後叔父を頼って熊本にいき、熊本の鎮西中学校(後の鎮西高等学校)を卒業した。
瀬野 修(せの おさむ、1908年 - 1995年)は、日本… 瀬野 修(せの おさむ、1908年 - 1995年)は、日本の教師、兵士、歌人、作家。択捉島に出征後、敗戦後シベリアにて抑留中に和歌集『白樺日誌』を書き、日本に持ち帰ったことで知られる。基本的に名前は「修」表記であるが、国立情報学研究所では「脩」表記である。 1908年、京都府舞鶴市に生まれる。その後、旧制舞鶴中学校(現・京都府立西舞鶴高等学校)の教師として働いたのち、太平洋戦争において択捉島に兵士として出征後、終戦を迎え抑留される。ソ連コムソモリスク近郊の収容所を転々としながらシラカバの木の皮を使い、ガラスをとがらせペンに、煙突のすすをインク代わりにし全200-300首の和歌を書いた。 1947年に引き揚げされた時に白樺日誌を持ち帰り、1988年に舞鶴引揚記念館に『白樺日誌』を寄贈した。