津野 力男(つの りきお、1928年2月20日 – 2009… 津野 力男(つの りきお、1928年2月20日 – 2009年7月25日)は、沖縄県で活動を行った写真家。台湾高雄州生まれ、沖縄県石垣市出身。 1950年にアマチュア写真同好会『でいごカメラ倶楽部』を石垣市にて結成、1979年には沖縄写真連盟会長に就任している。1990年から2008年までは全日本写真連盟の西部本部委員を務めた。1996年、沖縄県文化功労者賞を受賞。 2009年7月25日、肺がんにより那覇市内の病院で死去。享年81。
岡上 淑子(おかのうえ としこ、1928年1月3日 - )は… 岡上 淑子(おかのうえ としこ、1928年1月3日 - )は日本の写真家、コラージュ作家。高知県生まれ・在住。 1928年 (昭和3年)、高知県高知市に生まれる。翌年、東京に転居し1945年 (昭和20年) に終戦を挟み高知に疎開した一時期を経て、東洋英和女学院を卒業。恵泉学園に進み、武満浅香(旧姓・若山浅香)と同じクラスになるのは1946年 (昭和21年) である。この人物は、芸術家集団「実験工房」のメンバーだった作曲家の武満徹の後の妻であり、岡上を武満へ繋ぐことになる。 岡上は1950年 (昭和25年)、文化学院カネコデザイン科に入学すると、カラーコーディネートの授業で、雑誌を切り貼りする課題をきっかけにコラージュの面白さに目覚め[要出典]、「ヴォーグ」や「ライフ」などのファッション誌やグラフ誌を切り抜いて貼付けたコラージュ作品の制作を始める。
磯西 昭(いそにし あきら、1928年 - 2020年10月… 磯西 昭(いそにし あきら、1928年 - 2020年10月9日)は、日本の写真家。会社経営者。富士山の空撮で知られる。 静岡県に生まれる。富士宮市に住んだ。静岡県立静岡中学校に学んだ。戦後、海外渡航が自由になるとイタリアをはじめ、ヨーロッパ各国、アフリカ、南極など、カメラ機材を背負って旅をし、現地が気に入れば数十日に及ぶこともあった。 空撮を始めたのは1994年で、ハワイオアフ島のヨットレースの撮影で挑戦してからその魅力に取り憑かれ、のめり込んだ。翌、1995年から3年間にわたり、ヴェネツィア・ピサ・アッシジ・シエーナ・フィレンツェ・ローマなどのイタリア各地の中世都市の空撮を実現させた。イタリアの空撮と並行して具体的な目標として富士山があり、当初、数年で終わるつもりだったが、懐の広さ深さが分かり、本格的な撮影に取り組み、ライフワークになった。
岡村 崔(おかむら たかし、1927年12月13日 - 20… 岡村 崔(おかむら たかし、1927年12月13日 - 2014年2月4日)は、日本の写真家。 東京府下吉祥寺に生まれる。5歳の頃、両親の故郷静岡県に転居。幼少期は相良、その後静岡市内に移り、1945年、静岡県立静岡中学校卒業。 1948年に芝浦工業専門学校(現、芝浦工業大学)を卒業し、日本大学旧工学部(現、理工学部)建築学科に入学(のち中退)。 中学在学中より登山を始め、山岳風景の写真にも取り組むようになる。1958年、登山の国際大会に参加するため初めて渡欧。この頃より専攻した建築から関心を広げ、ロマネスクの彫刻などヨーロッパの文化、美術に興味を持ち、渡航を重ねる。1965年にはローマに移住、ヨーロッパ各地の美術作品や教会建築などの撮影を中心に美術写真の専門家として活動するようになった。
川島 浩(かわしま ひろし、1925年8月26日 - 200… 川島 浩(かわしま ひろし、1925年8月26日 - 2003年9月19日)は日本の写真家。 田村茂に師事し、写真批評家協会新人賞、日本写真協会年度賞受賞。日本写真家協会会友、日本リアリズム写真集団理事長などを歴任。 岩手県二戸郡一戸町字小繋の農民の長年にわたる入会権闘争に取材した作品は、中村一夫監督のドキュメンタリー映画『こつなぎ 山を巡る百年物語』(山形国際ドキュメンタリー映画祭2009特別招待作品)に活かされた。 1925年、東京に生まれる。 1947年、東京高等農林学校(現 東京農工大学農学部)林学科卒業。。 1952年、メーデー事件撮影。 1959年、群馬県の島小学校(斎藤喜博校長)の写真による個展「未来誕生」にて写真批評家協会新人賞受賞。
丹野 章(たんの あきら、1925年8月8日 - 2015年… 丹野 章(たんの あきら、1925年8月8日 - 2015年8月5日)は、日本の写真家。 東京都生まれ。日本大学芸術科写真学科を戦後1期生として卒業後、フリーカメラマンが少数の時代にフリーランスとして活動を始める。舞台写真の分野で活躍した後、新感覚の写真のグループVIVOに参加。東京都写真美術館、山口県立美術館、日本大学芸術学部、東京工芸大学ほかに作品がコレクションとして収蔵されている。 写真の著作権の保護期間問題に関わり、日本写真著作権協会(JPCA)の創設に貢献。1970年、著作権法の改正に関して、日本写真家協会を代表し、渡辺義雄とともに、第63回通常国会の衆参両院の関係委員会で意見を述べた。
竹村嘉夫(たけむら よしお、1925年4月29日 - )は、… 竹村嘉夫(たけむら よしお、1925年4月29日 - )は、日本の写真家。 東京出身。1943年3月、旧制豊山中学を卒業。その後、水産講習所(現東京海洋大学)に入学・卒業。農林省水産試験所に勤務するかたわら、1978年佐々木崑らと自然科学写真協会(のち、日本自然科学写真協会となる)を創立して理事長となる。1982年退官し、1983年自然科学写真センターを設立。
長野 重一(ながの しげいち、1925年 <大正14年> 3… 長野 重一(ながの しげいち、1925年 <大正14年> 3月30日 - 2019年 <平成31年> 1月30日)は、日本の写真家。 1925年 (大正14年) 3月30日、大分県魚町で歯科医の生野廿一、母・もと子の次男として生まれた。まもなく、子供のなかった叔父で実業家の長野善五郎・千佐夫妻の養子に出された。長野夫妻は東京在住だったが、重一は実の父母と大分で暮らしていた。 重一が大分を離れて東京に移り住むのは、1932年 (昭和7年) 以降のことである。この年、東京・高輪にあった養父母の家へ移った。ただ、前年に養父の善五郎は亡くなっている。東京に移住してからは、高輪小学校に転入したが、1935年 (昭和10年) には慶應義塾幼稚舎へ転入、その後、1938年 (昭和13年) に慶應義塾普通部へ進学、1942年 (昭和17年) に慶應義塾経済学部大学予科入学、1947年 (昭和22年) 9月に慶應義塾大学経済学部を卒業した。
山本 建三(やまもと けんぞう、1925年 - 2007年1… 山本 建三(やまもと けんぞう、1925年 - 2007年12月14日)は日本の写真家。日本写真家協会会員、日本広告写真家協会会員、フォト禅主宰。 大阪府高槻市出身。1949年、立命館大学文学部卒業。株式会社湯浅電池に勤務しながら、大阪の丹平写真倶楽部に入会、先輩の藤田一一に薫陶を受ける。1959年に藤田一一との二人展を開催しプロ写真家として歩みはじめる。その後、京都を中心とする風景写真家として、80冊以上の写真集を出版するほか、日本各地で個展を開くなど活躍。また風景写真家として活動するほか、フォト禅を主宰するなど後進の指導にも力を尽くす。京都写真家協会元会長。2001年日本風景写真協会名誉会員(顧問)に。
小島 一郎(こじま いちろう、1924年11月14日 - 1… 小島 一郎(こじま いちろう、1924年11月14日 - 1964年7月7日)は日本の写真家。 青森県青森市出身。戦後、青森を拠点に北国の風景を撮り続けた。写真家として本格的に活動したのは、1954年頃から死去までの10年ほどに限られている。この間、厳寒の津軽や下北の風土を大胆な構図と独特の世界観で表現する。雪原、農作業風景など平凡な被写体と覆い焼きによって強調した空の風景から生み出される強烈なイメージや構図力と確かな技術は、日本の報道写真のさきがけである名取洋之助からも高い評価を受ける。ベタ焼きに代わるものとして考え出した通称「小島のトランプ」と呼ばれる手札サイズの作品群も特徴的である。また、小島の写真店に勤めていた沢田教一に大きな影響を与えた。
田中 光常(たなか こうじょう、1924年5月11日 - 2… 田中 光常(たなか こうじょう、1924年5月11日 - 2016年5月6日)は、日本の動物写真家。 静岡県庵原郡蒲原町(現、静岡市清水区蒲原)に生まれる。東京都立九段高等学校卒業後、海洋生物学を志して北海道大学水産学部に進学、岡田弥一郎に師事する。 戦後から北極や南極などで動物写真を撮り続け日本の動物カメラマンの先駆けとなった。撮影地は他にアラスカ、シベリア、カナダ、中南米、アフリカ、ガラパゴスなど地球全土に渡り、著書は100冊を超える。星野道夫は田中の3番目の助手。 田中光常動物写真事務所取締役、日本フォトリサーチセンター会長、日本パンダ保護協会会長、(財)世界自然保護基金(WWF)日本委員会評議員、(財)自然公園美化管理財団理事、日本写真家協会名誉会員、日本旅行作家協会顧問理事、エコツーリズム推進協議会理事などを務めた。
井上 宗和(いのうえ むねかず、1924年2月25日 - 2… 井上 宗和(いのうえ むねかず、1924年2月25日 - 2000年1月1日)は、日本の写真家、城郭研究家、ワイン評論家。推理小説も手がけた。 愛媛県宇和島市生まれ。日本大学農学部拓殖学科に在学中に学徒出陣し、名古屋の高射砲兵科に配属。陸軍病院に入院中、名古屋大空襲により名古屋城天守閣が焼け落ちる様子を目撃している。これを機に、城郭に関心をもち続けた。 戦後は公職追放を受け一時帰郷。復学後、元担任教授の今村忠助の勧めで新設の新聞学科を卒業。カメラマン編集者として雑誌・新聞社に勤務。1955年2月日本城郭協会を設立し、代表世話人に就任。のちに常務理事を務めた。 1964年、井上フォトプロダクションを設立。
渡部 雄吉(わたべ ゆうきち、1924年(大正13年)2月1… 渡部 雄吉(わたべ ゆうきち、1924年(大正13年)2月18日 - 1993年(平成5年)8月8日)は、日本の写真家。 山形県酒田市生まれ。1943年、写真工房東京光画社へ入社し、写真家となる。1950年にフリーとして独立後、雑誌や写真集で作品を発表。1992年、紫綬褒章受章。1993年、死去。 茨城県水戸市千波湖のバラバラ殺人事件を捜査する刑事を撮影し、雑誌『日本』(大日本雄弁会講談社刊、1958年6月号)に掲載された写真が、2011年、写真集『A Criminal Investigation』(Éditions Xavier Barral)としてまとめられ、再度注目を集める。
小林 新一(こばやし しんいち、1924年2月12日-201… 小林 新一(こばやし しんいち、1924年2月12日-2012年1月)は、日本の写真家。 新潟県生まれ。新潟中学校卒。「月刊カメラ」の年間ベストテンに二年連続入賞、1958年には日本写真批評家協会の新人賞次点受賞後、プロカメラマンとして活動を開始し、「文芸春秋」や「アサヒグラフ」などに作品を発表。1960年代から良寛にまつわる作品を多く発表、日本全国取材旅行をして良寛の足跡を発見した。
柿沼 和夫(かきぬま かずお、1924年 -2016年 )は… 柿沼 和夫(かきぬま かずお、1924年 -2016年 )は、日本の写真家。埼玉県羽生市出身。 佐藤春夫、川端康成、フランソワ・ミッテラン、三島由紀夫、高田博厚、小林秀雄、アンドレ・マルローなど内外を問わない作家・詩人・芸術家等の肖像写真家として知られる。 緊張感の漂う独特の写法が特徴である。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
仁田 三夫(にった みつお、1924年 -)は、日本の写真家… 仁田 三夫(にった みつお、1924年 -)は、日本の写真家、考古学者。 埼玉県川口市生まれ。埼玉県立浦和高等学校卒業、東京写真工業専門学校(現・東京工芸大学)を卒業後、主として西欧の風景写真を主として撮影している。1970年頃より、その文化的根源であるエジプト文明とその文物と古代エジプトの遺跡と壁画を、エジプト政府(考古省)の了解を得て、ルクソールの女神の神殿の壁画、ルクソールのファラオの壁画、ツタンカーメン王の壁画を中心に、当時初の非熱源の照明装置と大型撮影装置を駆使し、困難を極めた古代壁画の撮影を行った。その後も70回以上、古代壁画を中心にエジプト考古学の文物の撮影と考古学的研究のため、エジプトを再三訪れ、エジプトの首脳陣との交流を深め、多数のエジプトの文物の写真画像を記録している。
大辻 清司(おおつじ きよじ、1923年7月27日 - 20… 大辻 清司(おおつじ きよじ、1923年7月27日 - 2001年12月19日)は、日本の写真家、教育者。 東京府南葛飾郡大島町(現・東京都江東区大島)の機械技師の家に生まれる。東京府立第七中学校(現・東京都立墨田川高等学校)を経て、1942年に東京写真専門学校(現・東京工芸大学)に入学。在学中の1943年に学徒出陣により陸軍に応召され、終戦を迎える。(終戦後、東京写真専門学校から1944年9月卒業の認定を受けた)復員後、写真スタジオでの仕事、雑誌(『家庭文化』など)のための写真など、主として商業写真の分野で活躍。 1949年以降、東京美術文化展に出品する(1952年まで)。その後、実験工房(1953年)やグラフィック集団(1953年)に参加。
浜野 栄次(はまの えいじ、1923年〈大正12年〉3月20… 浜野 栄次(はまの えいじ、1923年〈大正12年〉3月20日 - 1992年〈平成4年〉3月27日)は、日本の写真家、昆虫研究家。 1923年(大正12年)、東京下谷に生まれる。子供の頃から昆虫に興味があり、井之頭にあった平山博物館館長の平山修次郎の教えを受ける。第一東京市立中学校卒、1945年(昭和20年)に明治大学商学部を卒業。 戦後、暮しの手帖社の松本政利に写真を学び、編集長の花森安治の勧めで昆虫写真を専門とすることを志す。1964年(昭和39年)から東南アジア各国を取材で巡り、日本に帰国後は学習雑誌や図鑑などに多くの写真を発表する。特に台湾への訪問は30数次に渡り、その成果は『台湾産蝶類生態大図鑑』としてまとめられた。
稲村 隆正(いなむら たかまさ、1923年2月22日 - 1… 稲村 隆正(いなむら たかまさ、1923年2月22日 - 1989年8月8日)は日本の写真家。 1923年(大正12年)東京に生まれた。 早稲田大学政治経済学部卒業。在学中に、慶應義塾大学にいた三木淳から名取洋之助のローライによる写真術の素晴らしさを吹き込まれ、コンタックスやライカよりローライに憧れていたという。 第二次世界大戦終戦後の1947年、名取洋之助が指導的立場にあったサンニュースフォトスに入社した。 収入が少なく自分のカメラが買えず、スピードグラフィック、コンタックス、ローライなど会社のカメラで仕事をしていたが、名取洋之助に自分のカメラを持つことの大切さを説かれてローライフレックススタンダードを購入した。
明田 弘司(あけだ こうし、1922年12月 - 2015年… 明田 弘司(あけだ こうし、1922年12月 - 2015年8月12日)は広島県呉市出身の写真家。原子爆弾の被害から復興する広島市を撮り続けた。 呉市の劇場「弁天座」の4男として生まれる。戦時中、軍属として航空写真に従事。終戦後2ヶ月で帰国したが、呉市の生家は空襲で焼失、広島市の勤めていた会社は原子爆弾で焼失。大竹市の母方の実家に身を寄せることになったが、そこは営業写真館だった。 1947年(昭和22年)に全日本写真連盟に加盟。1948年(昭和23年)に広島市で現在のヒロシマ・フォト・サービスを開業し、DPEと占領軍キャンプでのオーストラリア兵との撮影を業務とした。原子爆弾は全日写連の指導者たちや、会員の写真機材や暗室などの大半を一瞬で奪い取ってしまった。
前田 真三(まえだ しんぞう、1922年6月3日 - 199… 前田 真三(まえだ しんぞう、1922年6月3日 - 1998年11月21日)は、日本の写真家。上高地、奥三河、富良野(北海道美瑛町・上富良野町)などにおいて風景写真や山岳写真を多数撮影し、「色彩の魔術師」と呼ばれた。 長男は写真家の前田晃で、父親が設立した写真事務所「丹渓」を継いでいる。 前田真三が写真活動のために1967年(昭和42年)に設立した会社の社名「丹渓」は、前田真三と南アルプスにある「丹渓山荘」(長野県伊那市)との親交から付けられたとされる。この社名から、前田真三の作風を「丹渓調」と呼ぶことがある。「風景写真は出合いの瞬間が大切」を持論としている。風景を撮影する際に、とかく一カ所に留まって天候や光線の状態が良くなる時を待ちながらシャッターチャンスをうかがうという消極的な姿勢になりがちなことに対し、前田真三の場合は、風景に出合った瞬間に手際よく写してゆくという、積極的に風景を求めてゆく姿勢で取り組んでいる。
三木 慶介(みき けいすけ、1922年 - 2016年)は、… 三木 慶介(みき けいすけ、1922年 - 2016年)は、日本の山岳写真家。 写真雑誌の月例応募からスタートし、またたく間に「三木時代」なる言葉まで生み、山岳写真界に一時代を築いた。 1954年からアサヒカメラの月例に応募しはじめ、1956年にアサヒカメラ優秀作家賞、1959年にイタリアで開催された、世界国際山岳写真ビエンナーレ展で、「滑降」が日本人として初めて最優秀賞を受賞した。 1964年にも「友を気遣う」が、世界国際山岳写真ビエンナーレで2度目の最優秀賞を受賞した。 全日本山岳写真協会の理事長を務め会長に就任。東京野歩路会代表を経て顧問に就任、後進の指導にあたった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
芳賀 日出男(はが ひでお、1921年9月10日 - 202… 芳賀 日出男(はが ひでお、1921年9月10日 - 2022年11月12日)は、日本の写真家、民俗研究家。日本・世界の祭り・民族・民俗芸能の写真取材をおこなった。子息は写真家の芳賀日向。 関東州大連(現・中華人民共和国遼寧省内)に生まれる。慶應義塾大学文学部を卒業した[要出典]。大学では折口信夫に教えを受け、それに触発されて卒業後に民俗を撮影する写真家となる。 1973年に全日本郷土芸能協会を設立した(のちに理事長を務める)。1985年に株式会社芳賀ライブラリーを設立して取締役会長となる[要出典]。 複数の賞や顕彰を受けている(詳細後述)。 100歳を超えた2021年にも活動していた。 2022年11月12日、老衰のため死去。
中込 八郎(なかごみ はちろう、1921年〈大正10年〉7月… 中込 八郎(なかごみ はちろう、1921年〈大正10年〉7月20日 - 1999年〈平成11年〉11月14日)は、日本の高等学校物理教師、科学写真家。 群馬県館林市生まれ。群馬師範学校を経て、1944年東京高等師範学校卒。東京都立竹早高等学校、東京都立西高等学校教諭として勤務。1986年定年退職。日本物理教育学会理事。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
益田 一(ますだ はじめ、1921年6月18日 - 2005… 益田 一(ますだ はじめ、1921年6月18日 - 2005年12月8日)は、日本の写真家、魚類研究家。 1921年に東京で生まれる。慶應義塾大学文学部独文科卒業。 1960年代以降水中写真家として活動し、多くの魚類図鑑を刊行した。益田海洋生物研究グループを結成して活動。当時としては画期的なカラー写真による生態観察の成果を次々と発表し、海洋関係の学会に新風を吹き込んだ。 1964年、伊豆海洋公園(静岡県伊東市)に伊豆海洋公園ダイビングセンターを設立、所長を務めた。また、東海大学の海洋学部アクアラング訓練所を改称し、潜水訓練センターを設立(1985年閉鎖)。1974年、株式会社益田海洋プロダクションを設立し、代表取締役会長を務めた。
石元 泰博(いしもと やすひろ、1921年6月14日 - 2… 石元 泰博(いしもと やすひろ、1921年6月14日 - 2012年2月6日)は、日本の写真家。 アメリカ合衆国サンフランシスコ生まれ。3歳のときに、両親の故郷である高知県高岡町(現・土佐市)に移り住む。1939年、高知県立農業学校(現・高知県立高知農業高等学校)を卒業後に再渡米し、カリフォルニア大学農業スクールで農業を学ぶ。第二次世界大戦中の1942年から1944年まで、日系人の強制収容によりコロラド州南東部のアマチ収容所に収容され、この期間に写真に興味を持つようになる。1944年、沿岸の州への居住禁止を条件に解放され、シカゴに移住する。ノースウェスタン大学建築科から転じて、シカゴ・インスティテュート・オブ・デザインで写真を学び、1952年に卒業。
杵島 隆(きじま たかし、1920年12月24日 - 201… 杵島 隆(きじま たかし、1920年12月24日 - 2011年2月20日)は、日本の写真家。 以降安田光昭(元鳥取県議会議員、米子市教育長)の著書『「あの人この人」私の交友録』245頁により
大崎 映晋(おおさき えいしん、1920年〈大正9年〉6月2… 大崎 映晋(おおさき えいしん、1920年〈大正9年〉6月21日- 2015年〈平成27年〉)は日本の水中写真家・水中考古学者・海女文化研究家。中央大学経済学部卒業、東京藝術大学油絵画科中退。1938年(昭和13年)、トレジャー・ダイバーの第一人者片岡弓八に師事し、海軍水路部勤務などを経て、戦後は名取洋之助の門下に入り、水中写真家として国内外の映画の水中撮影を数多く手掛ける。1960年から1961年(昭和35年-36年)、サンタモニカ国際写真コンクールにてアカデミー賞受賞。1970年(昭和45年)、ジャック・マイヨールが伊豆半島でフリー・ダイビングの世界新記録を出した時に彼をサポートし、以後、ジャックと交遊を続ける。
秋山 庄太郎(あきやま しょうたろう、1920年〈大正9年〉… 秋山 庄太郎(あきやま しょうたろう、1920年〈大正9年〉6月8日 - 2003年〈平成15年〉1月16日)は、日本の写真家。 日本広告写真家協会名誉会長、日本写真家協会名誉会長、全日本写真連盟副会長、日本写真協会副会長、日本写真芸術専門学校初代校長、日本デザイナー学院校長を歴任。二科会写真部創立会員。 紫綬褒章、勲四等旭日小綬章受章。 中学生の時に好きな女の子ができ、その子の顔をいつも眺めていたかったためにカメラに興味を持ち、パーレットを買ってもらったが、使い方が難しく、ぶつけてタスキを曲げてしまいピントが出なくなってしまった。その次に入手したのはバルディで、中学の修学旅行にて奈良の若草山でススキが逆光に光るのを撮影し想像以上の良い写真ができたことから写真が面白くなり始めた。
大竹省二(おおたけ しょうじ、1920年(大正9年)5月15… 大竹省二(おおたけ しょうじ、1920年(大正9年)5月15日 - 2015年(平成27年)7月2日)は、日本の写真家。静岡県出身。
伊丹 三樹彦(いたみ みきひこ、1920年3月5日 - 20… 伊丹 三樹彦(いたみ みきひこ、1920年3月5日 - 2019年9月21日)は、日本の俳人、写真家。本名は岩田 秀雄(いわた ひでお)。別号・写俳亭。 兵庫県伊丹町(現伊丹市)に生まれ、同三木町(現三木市)で育つ。三木市立三樹小学校、兵庫工業高等学校卒業。13歳から長谷川かな女の俳誌「水明」にて俳句を始める。高校卒業後は神戸大学工学部を受験するも失敗、神戸市役所に採用される。1937年、日野草城の「旗艦」に投句、のち「旗艦」が統合された「琥珀」同人。戦後、同門の桂信子や楠本憲吉らと「まるめろ」を創刊。また「太陽系」に参加。1949年、日野草城主宰の「青玄」創刊に参加し、編集・発行を行う。1956年の草城没後は「青玄」を継承し主幹となる。
岩宮 武二(いわみや たけじ、1920年(大正9年)1月4日… 岩宮 武二(いわみや たけじ、1920年(大正9年)1月4日 - 1989年(平成元年)6月26日)は、日本の写真家。鳥取県米子市出身。 叔父(米子写友会の中心的メンバーであった村上誠三)が写真店を経営していたことから、少年期から写真に興味を持つ。 米子商蚕学校(現・鳥取県立米子南高等学校)卒業。阪急百貨店に就職後、プロ野球・南海(現・福岡ソフトバンクホークス)二軍に入るが、まもなく体を壊し退団。商船会社に勤めるかたわら、入会した丹平写真倶楽部で、安井仲治、上田備山らと知り合う。 第二次世界大戦での出征を経て、戦後に「岩宮フォトス」を開業しフリーカメラマンとなる。1962年『佐渡』(朝日新聞社)。
三木 淳(みき じゅん、1919年〈大正8年〉9月14日 -… 三木 淳(みき じゅん、1919年〈大正8年〉9月14日 - 1992年〈平成4年〉2月22日)は日本の報道写真家。1949年(昭和24年)から1956年(昭和31年)まで、日本人で唯一『ライフ』(米タイム・ライフ社発行)の正規スタッフ写真家として活動した。退社後は、フリーランスの報道写真家として国際的に活動した。晩年はアマチュア写真界の発展並びに学校教育に多大な貢献をした。 青年期に『ライフ』(米タイム・ライフ社発行)の表紙に掲載されたマーガレット・バーク=ホワイトの写真と、土門拳が撮影した「傘を回す子供」の写真に感銘を受け、写真家を志す。土門拳、亀倉雄策に師事し、写真を学ぶ。 シベリア抑留中の日本人が帰還する様子を撮影したフォト・ストーリー「日本の“赤色部隊”祖国に帰る」が『ライフ』の巻頭特集に掲載されたのを機に、『ライフ』の正規スタッフ写真家となる。
佐々木 崑(ささき こん、1918年11月2日 - 2009… 佐々木 崑(ささき こん、1918年11月2日 - 2009年3月27日)は、日本の写真家。兵庫県神戸市出身。本名、幸一。 昆虫や小動物、花などのネイチャーフォトの草分け的存在。誕生や羽化の瞬間を撮り続け、「小さい生命」としてアサヒカメラ誌に23年間256回連載した。また、昭和を代表する写真家、木村伊兵衛の数少ない弟子の一人である。 1918年、中国・青島に生まれる。幼少期に神戸に移る。小学6年生の時、トーゴーカメラを購入し、写真の魅力を知る。同じ頃、セスナの遊覧飛行を体験し、飛行機の魅力にも惹かれた。 1936年、神戸村野工業学校(現 神戸村野工業高等学校)卒業後に上京、日本理科工業(現 大陽日酸)にて設計に従事する。
山田 實(やまだ みのる、1918年10月29日 - 201… 山田 實(やまだ みのる、1918年10月29日 - 2017年5月27日)は、日本の写真家。1977年、沖縄タイムス芸術選賞大賞受賞。2000年、沖縄県文化功労者として表彰。兄は、詩人の山田有勝。 沖縄県那覇市東町出身。那覇市で育ち、戦前から沖縄の写真を撮りはじめる。 二・二六事件の直後に明治大学専門部商科進学のため上京。明治大学新聞高等研究科二部卒業後、日産土木株式会社に入社。その後勤務地であった満州で召集。ソ連軍との交戦中に沖縄壊滅の知らせをきく。 敗戦後シベリアに抑留され、飢えと過酷な労働に2年間耐えた後、生還。東京での養生を経た1952年、まもなく那覇市に「山田写真機店」を開業。経営の傍ら、沖縄を写真で記録し続ける。
迫 幸一(さこ こういち、1918年6月20日 - 2010… 迫 幸一(さこ こういち、1918年6月20日 - 2010年10月29日)は、日本の写真家。 1918年(大正7年)、広島県呉市吉浦町に生まれる。1938年(昭和13年)、広島県立広島工業学校(現・広島県立広島工業高等学校)機械科を卒業した。1945年(昭和20年)、東洋工業勤務当時に広島市内で入市被爆する。 1952年(昭和27年)、『アサヒカメラ』に年間初入選する。1954年(昭和29年)には二科展に初めて入選し、以降も連続して入選した。1955年(昭和30年)、西ドイツの「国際主観写真展」に出品。 1957年(昭和32年)、オランダ美術館の「世界写真展」に出品する。1959年(昭和34年)にはニューヨーク近代美術館に出品後、5点が同館の永久保存対象となった。
林 忠彦(はやし ただひこ、1918年〈大正7年〉3月5日 … 林 忠彦(はやし ただひこ、1918年〈大正7年〉3月5日 - 1990年〈平成2年〉12月18日)は、日本の写真家である。 山口県生まれ。木村伊兵衛、土門拳、渡辺義雄などと並ぶ昭和を代表する写真家の一人である。太平洋戦争(大東亜戦争)後の日本の風俗や文士、風景など多岐にわたる写真を撮影した。 特に文士を撮影したものは有名で、銀座のバー「ルパン」で知り合った織田作之助・太宰治・坂口安吾の酒場での姿や、坂口安吾の紙屑に囲まれた仕事場の風景は、林忠彦の名を世に知らしめた。 太宰治の写真を撮った時のことについて、林は以下のように回顧している。ルパンは銀座の文春画廊の裏横丁にあって、仕事の連絡場所として林が使っていたバーだった。
山田 實(やまだ みのる、1918年 - )は、日本の写真家… 山田 實(やまだ みのる、1918年 - )は、日本の写真家。1977年、沖縄タイムス芸術選賞大賞受賞。2000年、沖縄県文化功労者として表彰。兄は、詩人の山田有勝。
林 重男(はやし しげお、英語: Shigeo Hayash… 林 重男(はやし しげお、英語: Shigeo Hayashi、1918年 - 2002年9月1日)は、日本の写真家。東京写真専門学校(現 東京工芸大学)を卒業。陸軍傘下の東方社で『FRONT』をはじめとする対外向けの写真を撮影。敗戦直後に文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会に参加し、広島・長崎を撮影した。 戦後は、商業写真家のかたわら、「反核・写真活動」の代表委員・運営委員長を務めるなど反戦平和活動を続けた。 1918年、東京府荏原郡大崎町(現:東京都品川区上大崎)生まれ。東京写真専門学校(現 東京工芸大学)を卒業。横浜シネマ現像所(横浜シネマ商会)に入社。1940年1月19日に徴兵され野戦工兵として満州(中国東北部)に渡る。
千葉禎介(ちばていすけ、1917年10月19日 - 1965… 千葉禎介(ちばていすけ、1917年10月19日 - 1965年)は、昭和の日本におけるアマチュア写真家である。秋田県仙北郡角館町に生まれ、2歳のとき横手市に転居した[出典無効]。1932年、高校卒業後、呉服店に勤務。コニカの蛇腹カメラBaby Pearlを手に入れて、1940年代~60年代に、主に横手市や平鹿郡の農村風景を撮影していた。2017年12月から2018年1月にかけ、千葉の生誕100年を記念し、彼の故郷に近い秋田県立近代美術館において、「生誕100年 千葉禎介写真展」が開催された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
酒井 忠明(さかい ただあきら、1917年〈大正6年〉1月3… 酒井 忠明(さかい ただあきら、1917年〈大正6年〉1月30日 - 2004年〈平成16年〉2月28日)は、酒井左衛門尉家21代当主、写真家、書家、歌人、財団法人致道博物館名誉館長。1998年勲五等双光旭日章。1999年鶴岡市名誉市民。 1917年(大正6年)、旧庄内藩主 酒井家20代当主・酒井忠良の長男として山形県鶴岡市家中新町に生まれる。母は大給近道長女・萬千子。 1935年(昭和10年)に旧制鶴岡中学(現・山形県立鶴岡南高等学校)を卒業後、酒井家図書研究所文会堂で旧庄内藩校致道館伝統に基づく「庄内学」とも称される儒学や東洋古典などを学びながら短歌を始め、歌人で万葉集研究家の国文学者、佐佐木信綱に師事する。
中村 泰三(なかむら たいぞう、1917年 - 2002年8… 中村 泰三(なかむら たいぞう、1917年 - 2002年8月26日)は、日本の写真家。 1954年、浪華写真倶楽部に入会。花和銀吾、中藤敦、本庄光郎などの指導を受けた。ポスタリゼーション作品を得意とした。代表作に『イタリア旅情:ポスタリゼーションによる作品集』がある。 1917年に大阪市で生まれる。京都市立美術工芸学校(現京都市立芸術大学)卒。2002年没。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
菊池俊吉(きくち しゅんきち、1916年5月1日 - 199… 菊池俊吉(きくち しゅんきち、1916年5月1日 - 1990年11月5日)は日本昭和時代の写真家である。 1916年(大正5年)、岩手県花巻市御田屋町生まれ。1937年(昭和12年)、オリエンタル写真学校を卒業後、1938年(昭和13年)東京光芸社写真部に入社し、報道写真家として始まり。1941年(昭和16年)岡田桑三が設立した東方社写真部に入社、1942年(昭和17年)2月に創刊された陸軍参謀本部の対外宣伝グラフ誌『FRONT』の写真部員となる。戦時中、日本本土及び外地の部隊、産業記録撮影など幅広く活躍した。 1945年(昭和20年)敗戦後、解散の東方社スタッフは文化社として再建。同年9月、文部省の学術調査団のもとで原爆被災地の医療状況を記録映画撮影、スチール写真担当として医学班に属し、10月1日~10月22日被爆後の広島を撮影。
岩合 徳光(いわごう とくみつ、1915年12月18日 - … 岩合 徳光(いわごう とくみつ、1915年12月18日 - 2007年2月12日)は、日本の写真家。写真家の岩合光昭は息子。 北海道釧路市生まれ。日本大学経済学部中退。戦中、戦後は満州(中国東北部)の大連日日新聞の写真部員として働く。帰国後、毎日新聞社などを経て、1961年フリーに。主に動物写真を専門に撮影し、その分野の草分け的存在である。2007年2月、低酸素脳症のため、東京都新宿区で死去。91歳没。
緑川洋一(みどりかわ よういち、1915年(大正4年)3月4… 緑川洋一(みどりかわ よういち、1915年(大正4年)3月4日 - 2001年(平成13年)11月14日)は、写真家、歯科医師。生来の名は横山知(さとし)。二科会写真部会員。 岡山県邑久郡裳掛村虫明(現・瀬戸内市邑久町虫明)の呉服商の長男として生まれる。1932年(昭和7年)に上京し、日本大学専門部歯科に入学。1934年(昭和9年)、模型飛行機店の店主と合作でコンテストに応募したボート用スチームエンジンを、海軍省が50円で買い取る。これを元手にドイツ製カメラ・ペルケオを購入し写真撮影を始める。1936年(昭和11年)、日大専門部歯科を卒業。歯科医師国家試験に合格し、東京市蒲田区(現・大田区蒲田)の総合病院に勤務する。
笹本 恒子(ささもと つねこ、1914年9月1日 - 202… 笹本 恒子(ささもと つねこ、1914年9月1日 - 2022年8月15日)は、日本の写真家。一般に「女性報道写真家第一号」とされる。肖像写真も得意とする。 従来は1918年(9月1日)生まれとする文献があったが(例えば、下記「参考文献」欄記載の「日本写真家事典」)、2011年に刊行された「好奇心ガール、いま97歳」(下記「著書」を参照)により1914年生まれであることが明確にされた。 東京府荏原郡大崎町(現在の東京都品川区上大崎)生まれ。順心高等女学校卒業後、大妻技芸学校高等家政科に通うも、絵の勉強に専念したかったため中退。その後、父親には内緒で絵の研究所と洋裁学校に通った。 戦前、女性報道写真家がいなかった頃に東京日日新聞(現在の毎日新聞)の挿絵のアルバイト(社会面のカット)として活躍後、東京日日新聞・社会部長の小坂新夫(笹本が子供のころ、笹本家の離れを借りて住んでいた)にすすめられ、(1939年に仮入社し、母親の病気を理由とする10か月の休職ののち、1940年(昭和15年)4月に)財団法人・写真協会(新聞記者・写真家の林謙一らを中心に設立された内閣情報部による国策機関。
山本 悍右(やまもと かんすけ、1914年3月30日 - 1… 山本 悍右(やまもと かんすけ、1914年3月30日 - 1987年4月2日)は、名古屋市を拠点に、戦前から戦後にかけて活動した日本の写真家、詩人、編集者である。 1930年代から1940年代にかけて、名古屋の前衛的な詩・写真・出版のネットワークのなかで、シュルレアリスム写真やフォトモンタージュを制作し、詩誌『夜の噴水』の編集・発行、VOUへの参加、写真グループ青憧社の会報『CARNET BLEU』の編集など、詩・写真・出版をまたぐ活動を展開した。 その活動は戦時下の統制強化と重なり、『夜の噴水』の終刊や警察の取り調べを経験し、ナゴヤ・フォトアバンガルドの改称と解散にも直面した。 没後は2001年の東京ステーションギャラリーにおける回顧展、2013年のJ・ポール・ゲティ美術館での「Japan's Modern Divide」展、2021年・2022年のメトロポリタン美術館・テート・モダン共同企画「Surrealism Beyond Borders」展、名古屋市美術館、東京都写真美術館の展覧会などを通じて再評価が進んだ。
片山 摂三(かたやませつぞう、1914年3月22日 - 20… 片山 摂三(かたやませつぞう、1914年3月22日 - 2005年3月23日)は、日本の写真家である。 1914年(大正3年)3月22日にシベリア(ロシア)・ブラゴヴェシチェンスクで生まれ、福岡県久留米市で育つ。1932年(昭和7年)県立中学明善校卒業、西南学院専門学校を卒業した。家業は福岡市中央区の営業写真館。1929年(昭和4年)、シベリアで父が死去。1932年(昭和7年)、疋田晴久に写真の技術を学び、1935年(昭和10年)、21歳で営業写真を撮影し始める。戦時中、日本写真サロンや日本写真美術展、国際写真サロンなどで入選を続ける。日本写真家協会に加入。専門分野は肖像写真で、1960年(昭和35年)頃から河北倫明の紹介によって、志賀直哉、梅原龍三郎、武者小路実篤、白洲正子、片岡球子、鈴木大拙といった昭和時代の日本を代表する人々の姿を撮影した。
浅野 喜市(あさの きいち、1914年3月8日 - 1993… 浅野 喜市(あさの きいち、1914年3月8日 - 1993年4月3日)は、日本の写真家。京都府京都市下京区生まれ。1930年旧制四条商業学校卒業。33年東郷カメラで写真を始める。39年歩兵第9連隊に臨時召集、中支に転属。43年召集解除。49年高桑勝雄の指導で外国サロン出品。51年英国ロイヤル、パリ、ロンドン、シカゴサロン等に入選。53年国内の主要な写真コンテストで受賞。太平洋画会の会友に推挙される。89年京都市文化功労者。二科会写真部会員。(社)日本写真家協会会員。全日本写真連盟副会長。京都の町、古い風景などを撮影した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
桑原 甲子雄(くわばら きねお、1913年〈大正2年〉12月… 桑原 甲子雄(くわばら きねお、1913年〈大正2年〉12月9日 - 2007年〈平成19年〉12月10日)は、日本の写真家、写真評論家、編集者。 東京府東京市下谷車坂町(現東京都台東区東上野)に生まれる。濱谷浩とは幼なじみ。1926年に東京市立第二中学校(現都立上野高校)入学。1931年の卒業後、体をこわし進学を断念。家業の質屋を手伝うが商売が厭わしく、同じ町内に住んでいた濱谷の影響もあって、中古のベスト・ポケット・コダックを手に入れ写真を撮りはじめる。1934年にはライカI(C)型をフォーディス距離計付きで父親に200円で買ってもらい、アマチュア写真家として活発に活動を始め、1934年のうちに浅沼商会発行の写真雑誌『写真新報』主催、シュミット商会協賛のライカ作品公募コンクール第2回の特賞を獲得している。