元泉 馨(もといずみ かおる、1893年〈明治26年〉5月1… 元泉 馨(もといずみ かおる、1893年〈明治26年〉5月11日 - 1948年〈昭和23年〉7月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。変名・元金福。 愛媛県出身。小学校・元泉久吉の三男として生まれる。横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)卒業を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し、同年12月、陸軍騎兵少尉に任官し騎兵第11連隊付となる。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業した。 1927年(昭和2年)3月、騎兵第11連隊中隊長に就任し、陸士教官を経て、1931年(昭和6年)8月、騎兵少佐に昇進し近衛師団参謀となる。1932年(昭和7年)12月、陸軍騎兵学校教官に転じ、1936年(昭和11年)3月、騎兵中佐に進む。
伊集院 松治(いじゅういん まつじ、1893年〈明治26年〉… 伊集院 松治(いじゅういん まつじ、1893年〈明治26年〉4月21日 - 1944年〈昭和19年〉5月24日)は、日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍中将。男爵。 東京府麹町区(現東京都千代田区)出身。旧制東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)より海軍兵学校43期入校。席次は入校時100名中93番、卒業時96名92番。伊集院五郎元帥は父、大野竹二海軍少将は弟。
横井 忠道(よこい ただみち、1893年(明治26年)4月1… 横井 忠道(よこい ただみち、1893年(明治26年)4月19日 - 1961年(昭和36年)11月18日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1893年(明治26年)に東京府で生まれた。陸軍士官学校第25期卒業。1938年(昭和13年)4月にハイラル特務機関長に就任し、1939年(昭和14年)3月9日に陸軍歩兵大佐に進級。11月27日に留守第11師団司令部附となり、1940年(昭和15年)6月に近衛歩兵第3連隊補充隊長に就任した。1942年(昭和17年)4月に歩兵第109連隊長(第13軍・第116師団・歩兵第20旅団)に就任し、日中戦争に出動。安慶に駐屯して同地の守備に就いた。その後留守近衛第2師団司令部附を経て、1943年(昭和18年)6月28日に高知連隊区司令官に就任した。
西原 一策(にしはら いっさく、1893年4月18日 - 1… 西原 一策(にしはら いっさく、1893年4月18日 - 1945年1月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。1940年の北部仏印進駐時の「西原・マルタン協定」の当事者として知られる。 陸軍憲兵大尉・西原貫洞の三男として生まれる。広島県立広島第一中学校(現、広島県立広島国泰寺高等学校)卒業。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、陸軍士官学校25期卒業。同期には、武藤章等。北部仏印進駐に際し、平和進駐を指示していた中央に反して富永恭次らが強行進駐を実施したのを嘆き、陸海軍次官宛てに『統帥乱レテ信ヲ中外ニ失ウ』の電文を発した。 1945年1月23日に死去。死去にあたり祭資の下賜を受けた。
牧野 四郎(まきの しろう、1893年4月18日 - 194… 牧野 四郎(まきの しろう、1893年4月18日 - 1945年8月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
三浦 三郎(みうら さぶろう、1893年3月26日 - 19… 三浦 三郎(みうら さぶろう、1893年3月26日 - 1974年10月17日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。関東憲兵隊司令官。
森田 親三(もりた ちかぞう、1893年(明治26年)3月2… 森田 親三(もりた ちかぞう、1893年(明治26年)3月25日 - 1985年(昭和60年)4月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中将。 埼玉県出身。森田弥之治の二男として生まれる。熊谷中学校(現埼玉県立熊谷高等学校)卒業を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍経理学校(9期)を優等で卒業し見習主計となる。同年12月、三等主計に任官し歩兵第3連隊付となる。1918年(大正7年)2月、第1師団経理部員に就任し、1919年(大正8年)4月、二等主計に昇進。1920年(大正9年)6月から1921年(大正10年)5月まで、経理学校高等科で学び、さらに、1921年5月から1922年(大正11年)5月まで員外学生として学んだ。
石井正己(いしい まさみ、1893年(明治26年)3月25日… 石井正己(いしい まさみ、1893年(明治26年)3月25日 - 不詳)は、日本の陸軍軍医。最終階級は陸軍軍医少将。第二次世界大戦における第14軍の生物兵器実験・人体実験に関与した。 広島県で出生。1920年(大正9年)12月25日、陸軍二等軍医。1923年(大正12年)、九州帝国大学大学院への入学が認可され外科学を学んだ。 1930年代から1940年にかけて、満州国の山西省の北支那方面軍第一軍軍医部におり、太原臨時衛生調査班の調査に参与した。 1943年(昭和18年)、第14軍の軍医部長としてフィリピンに駐屯した。同年7月に配属されてきた第16師団防疫給水部に対し、第14軍軍医部長として「予防内服の効果については自信ある成績を要望す」、「濃厚汚染部隊に於ては部隊内感染防止に各班の努力を傾注するを要す」と指示していた。
小林 謙五(こばやし けんご、1893年3月22日 - 19… 小林 謙五(こばやし けんご、1893年3月22日 - 1948年4月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
田中 新一(たなか しんいち、1893年(明治26年)3月1… 田中 新一(たなか しんいち、1893年(明治26年)3月18日 - 1976年(昭和51年)9月24日)は、大正・昭和時代の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 本籍新潟県。村松藩士・農業、田中寅五郎の長男として北海道釧路で生まれる。 仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月陸軍士官学校(25期)を卒業。同期に武藤章・富永恭次・佐藤幸徳・山内正文・山崎保代。同年12月、陸軍少尉任官、歩兵第52連隊付となる。 1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)卒業。李王垠、栗林忠道、洪思翊、富永恭次、林義秀、那須弓雄、影佐禎昭、住吉正が同期。 1928年(昭和3年)から3年間に亘りソ連、ポーランドに駐在。
岡崎 清三郎(おかざき せいざぶろう、1893年〈明治26年… 岡崎 清三郎(おかざき せいざぶろう、1893年〈明治26年〉3月17日 - 1979年〈昭和54年〉5月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 島根県出身。松江市で岡崎竜次郎の三男として生まれる。松江中学校を経て、1914年5月、陸軍士官学校(26期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第63連隊付となる。1921年11月、陸軍大学校(33期)を卒業した。 参謀本部付勤務、参謀本部員などを経て、1925年5月、皇族(秩父宮雍仁親王)付武官となり、秩父宮の外遊(オックスフォード大学)に随行した。参謀本部員(編制班)、ジュネーヴ出張、陸軍省整備局課員(統制課)、兼参謀本部員、上原勇作元帥副官(近衛歩兵第3連隊付、歩兵第59連隊付)、留守第4師団参謀長などを経て、日中戦争に支那駐屯歩兵第2連隊長として出動。
青木 重誠(あおき しげまさ、1893年〈明治26年〉3月1… 青木 重誠(あおき しげまさ、1893年〈明治26年〉3月15日 - 1943年〈昭和18年〉6月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸士25期首席・陸大32期優等。 石川県金沢市本多町出身。金沢城内に駐屯する歩兵第7聯隊・青木織之助歩兵中尉の長男として生れる。父は旧加賀藩士で、略歴に神奈川県平民、足柄下郡真鶴町出身とあるがこれは誤りである。織之助は日清戦争に従軍し、1895年1月11日陣中にて没した。享年28。妻は「いと」で、1947年7月5日没。 石川県師範学校附属小学校、金沢第二中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)741名中を首席で卒業。
影佐 禎昭(かげさ さだあき、1893年(明治26年)3月7… 影佐 禎昭(かげさ さだあき、1893年(明治26年)3月7日 - 1948年(昭和23年)9月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 広島県沼隈郡柳津村(後の松永市柳津町、現・福山市柳津町)に生まれる。幼名は亨(陸大学生時代に禎昭に改名)。影佐家は代々、広島浅野藩士の家系。 小学校を卒業後、姉の住んでいた大阪に出て、大阪府立市岡中学校を経て1914年、陸軍士官学校を優等卒業(26期)。1917年、陸軍砲工学校高等科第23期を優等で卒業。1923年、陸軍大学校優等卒業(35期)。大尉時代の1925年4月から1928年3月まで東京帝国大学政治科で学んだ学究肌。その後、参謀本部付として中国と深く関わり、陸軍部内でも中国通として一際目立つ存在となった。
佐藤 幸徳(さとう こうとく、1893年(明治26年)3月5… 佐藤 幸徳(さとう こうとく、1893年(明治26年)3月5日 - 1959年(昭和34年)2月26日)は、日本の大日本帝国陸軍軍人。最終階級は中将。 山形県出身。陸士25期、陸大33期。インパール作戦において、軍司令官の牟田口廉也中将と対立し、作戦途中に師団長による独断退却を行ったことで知られる。 山形県に生まれた佐藤は、鶴岡中学校(現山形県立鶴岡南高等学校)から仙台陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校卒業。さらに1921年(大正10年)に陸軍大学校を卒業。陸軍参謀本部勤務や部隊勤務などを経る。 1930年(昭和5年)から2年間を陸軍参謀本部の戦史課で過ごす。この戦史課勤務時代に、小磯國昭や東條英機などの「統制派」に属する人物と多く交際し、橋本欣五郎とともに桜会の規約作成にも関与した。
森 友一(もり ともかつ、1893年〈明治26年〉2月28日… 森 友一(もり ともかつ、1893年〈明治26年〉2月28日 - 1959年〈昭和34年〉1月23日)は、日本海軍の軍人。操艦の名手といわれ、太平洋戦争において重巡洋艦・「羽黒」艦長として歴戦。のち第一水雷戦隊司令官を務めた海軍少将である。 石川県出身。父は第三高等学校や京都一中の校長を務めた森外三郎である。草鹿龍之介は石川師範学校附属小学校の同級生であった。京都一中を経て海軍兵学校42期を117名中62番で卒業した。森は水雷学校高等科学生を修了した水雷科専攻士官である。大尉で「有明」駆逐艦長、「葦」駆逐艦長に就任して以来、6艦の艦長、2隊の駆逐隊司令などを経て、「羽黒」艦長として太平洋戦争を迎えた。
住吉 正(すみよし ただし、1893年(明治26年)2月10… 住吉 正(すみよし ただし、1893年(明治26年)2月10日 - 1976年(昭和51年)3月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 広島県吉舎町[要出典]出身。陸軍少尉住吉義夫の長男として生まれる。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業し、同年12月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第11連隊付となる。陸軍砲工学校高等科で学び、1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業した。 参謀本部員、陸軍重砲兵学校教官、陸軍省軍務局課員、留守第3師団参謀、気球連隊練習部長などを経て、1938年(昭和13年)3月、砲兵大佐に進級し野戦重砲兵第3連隊長となり日中戦争に出征した。
山形 政二(やまがた せいじ / まさじ、1893年(明治2… 山形 政二(やまがた せいじ / まさじ、1893年(明治26年)2月6日 - 1944年(昭和19年)2月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 鳥取県米子市道笑町出身。山形金太郎の息子として生まれる。山形家は今は米子駅前の「山形屋みやげ店」になっているが、元は道笑町一丁目で線香や木蝋を製造販売した老舗で、屋号を山形屋といった。1906年(明治39年)駅前の現在地に移ってから、信州山十製糸の指導のもとに、座繰製糸を始めている。 米子中学(現在の米子東高校)では野球部。海軍兵学校および陸軍士官学校(第27期)を受験し、双方に合格している。1912年(大正元年)[元号要検証]、海軍兵学校に進んだ。
和知 鷹二(わち たかじ、1893年(明治26年)2月1日 … 和知 鷹二(わち たかじ、1893年(明治26年)2月1日 - 1978年(昭和53年)10月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 広島県出身。旧中津藩士、陸軍中佐・和知蓁一郎の二男として生まれる。広島高等師範学校附属中学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第3連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。 1923年(大正12年)8月、歩兵第3連隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員(支那課)、参謀本部付(支那研究員・南支駐在)、参謀本部員、第6師団司令部付(済南特務機関)、済南駐在武官などを歴任し、1929年(昭和4年)3月、歩兵少佐に昇進。
高橋 坦(たかはし たん、1893年(明治26年)1月29日… 高橋 坦(たかはし たん、1893年(明治26年)1月29日 - 1986年(昭和61年)1月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 香川県出身。県会議員・高橋彜太郎の二男として生まれる。高松中学校(香川県立高松高等学校)卒、小学校代用教員を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第11連隊付となる。1917年(大正6年)11月、陸軍砲工学校普通科を卒業。1920年(大正9年)10月から1922年(大正11年)5月までシベリア出兵に従軍。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業し山砲兵第11連隊中隊長に就任した。
山崎 重暉(やまざき しげあき、1893年1月21日 - 1… 山崎 重暉(やまざき しげあき、1893年1月21日 - 1980年12月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 警察署長・山崎重光の長男として生れる。海南中学校を経て、1913年12月、海軍兵学校(41期)を卒業。席次は入校時120名中16番、卒業時118名中20番。翌年12月、海軍少尉任官。1920年11月、海軍水雷学校高等科を卒業し、海軍潜水学校教官、「第13潜水艦」艦長、第2潜水戦隊参謀などを歴任。1925年11月、海軍大学校(甲種23期)を卒業した。第一次世界大戦末期に第二特務艦隊に配属となり、戦利潜水艦の回航に携わる。 「呂号第18潜水艦」・「呂号第67潜水艦」の各艦長、第1潜水戦隊参謀、潜水学校教官、海大教官などを歴任。
石河 龍夫(いしこ たつお、1893年(明治26年)1月10… 石河 龍夫(いしこ たつお、1893年(明治26年)1月10日 - 1962年(昭和37年)10月26日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1893年(明治26年)に愛媛県で生まれた。陸軍士官学校第26期、東京帝国大学工学部火薬学科卒業。1932年(昭和7年)に陸軍造兵廠火工廠研究課長に就任し、1936年(昭和11年)に陸軍造兵廠火工廠岩鼻火薬製造所に転じた。1938年(昭和13年)3月に陸軍砲兵大佐に進級し、陸軍造兵廠火工廠技術課長に着任。1939年(昭和14年)3月に兼陸軍造兵廠火工廠検査課長を経て、1940年(昭和15年)1月20日に陸軍燃料廠附となる。 同年8月1日に陸軍燃料廠整備部長兼研究部長に就任し、1941年(昭和16年)3月1日に陸軍少将に進級した。
柳田 元三(やなぎた げんぞう、1893年1月3日 - 19… 柳田 元三(やなぎた げんぞう、1893年1月3日 - 1952年10月7日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。
島津 信夫(しまづ のぶお、1893年(明治26年)1月3日… 島津 信夫(しまづ のぶお、1893年(明治26年)1月3日 - 1990年(平成2年))は大正から昭和期の海軍軍人。正五位勲三等。最終階級は海軍大佐。
近藤 泰一郎(こんどう たいいちろう、1893年(明治26年… 近藤 泰一郎(こんどう たいいちろう、1893年(明治26年)1月1日 - 1975年(昭和50年)12月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。従四位、勲一等。 1893年1月1日、愛知県中島郡平和町(現在の稲沢市)の農家に生まれる。高等小学校時代の1905年11月頃、伊勢湾に凱旋入港した第三戦隊の千歳を見学に行った際、司令官である出羽重遠中将に声をかけられ、海軍に対する憧れを抱く。その後、愛知県立第三中学校在学中、学費の都合上高等学校に行けそうになかったため、当時流行っていた米国への出稼ぎを考えていたが、排日運動の機運が高まっていたため断念し、同じく海外に行ける可能性があり、また憧れもあった海軍兵学校受験を決意し、1911年(明治44年)9月11日、海兵42期生として入校する。
伊藤 良秋(いとう よしあき、1893年(明治26年) - … 伊藤 良秋(いとう よしあき、1893年(明治26年) - 1972年(昭和47年)7月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は少将。広島県出身。
千田貞季(せんだ さだすえ 1892年12月16日 - 19… 千田貞季(せんだ さだすえ 1892年12月16日 - 1945年3月8日)は、大日本帝国陸軍の軍人。栄典は従四位勲二等功四級。士候26期。栗林忠道大将とは同期。
武藤 章(むとう あきら、1892年(明治25年)12月15… 武藤 章(むとう あきら、1892年(明治25年)12月15日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の昭和時代の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 日中戦争、対米交渉、フィリピン戦などに従事。一夕会メンバー。統制派だったが後に東條英機との対立で逆に皇道派の山下奉文の部下に配属された。第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判でA級戦犯に問われ、南方戦線での虐殺事件にも関わっていたことで処刑された。 1892年(明治25年)12月15日、熊本県上益城郡白水村(現・菊陽町)に父・定治、母・加野の間に四人兄弟の次男(兄1人姉2人)として生まれる。武藤家は代々藩医をしていた士族の家系で、地主であった。
古閑 健(こが たけし、1892年(明治25年)12月11日… 古閑 健(こが たけし、1892年(明治25年)12月11日 - 1984年(昭和59年)10月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本県出身。徳島県警部・古閑巌彦の二男として生まれる。中学済々黌(現熊本県立済々黌高等学校)、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第48連隊付となる。1914年(大正3年)8月から12月まで青島の戦いに出征。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業した。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、陸軍兵器本廠付(作戦資材整備会議調査班)、陸軍技術本部付兼軍務局課員を務め、1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進。
美田 千賀蔵(みた ちがぞう、1892年(明治25年)12月… 美田 千賀蔵(みた ちがぞう、1892年(明治25年)12月10日 - 1945年(昭和20年)7月下旬(戦死日不明))は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鳥取県岩美郡牧谷村牧谷(現・岩美町)で、同村の素封家である沢田家の番頭の長男として産まれる。鳥取県立鳥取第一中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)に進学する。 1912年12月1日、士官候補生として歩兵第55連隊(佐賀市)に入隊し、1年後の1913年12月1日に陸軍士官学校に入校した。1915年5月25日の卒業後は見習士官として原隊復帰後、同年12月25日付で歩兵第56連隊(久留米市)付として歩兵少尉に任官する。 歩兵第56連隊時代の1917年9月15日に陸軍戸山学校に入校した。
川口 清健(かわぐち きよたけ、1892年(明治25年)12… 川口 清健(かわぐち きよたけ、1892年(明治25年)12月3日 - 1961年(昭和36年)5月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲二等。 高知県高知市西町出身。川口清俊陸軍中佐・母スガの息子として生まれる。高知一中(城東中学)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第8連隊付となる。当時は陸軍一といわれるほどの「ショーネン」(美少年)であった[要出典]。参謀本部付勤務を経て、1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。 歩兵第8連隊中隊長、参謀本部付勤務、第4師団参謀、台湾軍参謀、陸軍重砲兵学校教官、陸軍省軍務局課員、陸軍省副官、支那駐屯軍参謀、第4師団司令部付(外事主任)、東京湾要塞参謀、北支那方面軍司令部付(宣伝部長)などを経て、1937年(昭和12年)11月、陸軍大佐に進級。
岩仲 義治(いわなか よしはる、1892年(明治25年)12… 岩仲 義治(いわなか よしはる、1892年(明治25年)12月3日 - 1947年(昭和22年)2月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鳥取県出身。鳥取中学校(現鳥取県立鳥取西高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第40連隊付となる。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業し歩兵第40連隊中隊長に就任した。 陸軍歩兵学校教官を経て、1927年(昭和2年)12月から1928年(昭和3年)4月まで、陸軍自動車学校で甲種学生として学んだ。以後、歩兵第59連隊大隊長、歩兵学校教官、教育総監部課員、第8師団参謀、第7師団参謀、陸軍戦車学校教官などを務め、1937年(昭和12年)8月、歩兵大佐に昇進。
下山 琢磨(しもやま たくま、1892年(明治25年)12月… 下山 琢磨(しもやま たくま、1892年(明治25年)12月1日 - 1957年(昭和32年)12月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 福井県出身。下山筆八工兵大佐の長男として生まれる。東京府立四中、陸軍中央幼年学校予科、同校本科を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第1連隊付となる。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を優等で卒業した。 1922年(大正11年)9月、陸士教官に就任し、1925年(大正14年)3月、ドイツ駐在に発令された。1927年(昭和2年)11月、教育総監部付となり、教育総監部課員に異動し、1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進。
藤田 清(ふじた きよし、1892年(明治25年)12月?日… 藤田 清(ふじた きよし、1892年(明治25年)12月?日 - 1965年(昭和40年)7月28日)は、茨城県真壁郡新治村(協和村、協和町を経て、現在の筑西市)出身の軍人、新治村での地域の指導者及び考古学者である。考古学者としては在野の研究者であったが新治郡衙跡、新治廃寺の研究・発掘調査で重要な役割を果たした。 藤田の家は真壁郡新治村の古郡に在り、村で5指に数えられる大地主であった。藤田は茨城県立水戸農学校(現在の茨城県立水戸農業高等学校の前身)卒業後、1912年(大正元年)に宇都宮騎兵第18聯隊に一年志願兵として入営し、1914年(大正3年)12月には陸軍騎兵少尉に任官している。しかし、任官後まもなく除隊した。
名和 武(なわ たけし、1892年(明治25年)11月28日… 名和 武(なわ たけし、1892年(明治25年)11月28日 - 1972年(昭和47年)6月22日)は、日本の海軍軍人。海軍技術士官として主に蓄電池の開発に業績を残した海軍技術中将である。特D型蓄電池の開発で海軍技術有功章を受章。 福井県出身。父は海軍大将名和又八郎で、その長男。又八郎は旧小浜藩藩士の武久家に生まれ、同藩士名和家の養子となった。この名和家は南北朝時代の武将として知られる名和長年の後裔と伝えられる家である。名和の長男は海軍兵学校(海兵70期)出身の海軍大尉。滝川具和は伯父(母の兄)。 暁星中学、一高を経て、1917年(大正6年)東京帝大工学部電気工学科を卒業し、造兵中技師(中尉相当)に任官した。
山田 定義(やまだ さだよし、1892年(明治25年)11月… 山田 定義(やまだ さだよし、1892年(明治25年)11月26日 - 1971年(昭和46年)11月16日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 福岡県出身。山田定直陸軍大佐の長男として生まれる。松江中学校を経て、1914年(大正3年)12月、海軍兵学校(42期)を5番/117名の成績で卒業し、1915年(大正4年)12月、海軍少尉に任官。1916年(大正5年)12月から翌年まで航空術学生として学んだ。横須賀航空隊付、フランス駐在、横須賀航空隊分隊長、同飛行隊長、霞ヶ浦航空隊教官などを経て、1928年(昭和3年)12月、海軍大学校(甲種26期)を卒業した。 連合艦隊参謀、軍令部第1班第2課参謀、同第2班第3課参謀、第1航空戦隊参謀、海軍省臨時調査課員、フランス大使館付武官、軍令部第3部第7課長、横須賀鎮守府付、「蒼龍」「加賀」の各艦長などを経て、1941年(昭和16年)10月、42期の一選抜組として少将に進級。
藤村 謙(ふじむら ゆずる、1892年(明治25年)11月1… 藤村 謙(ふじむら ゆずる、1892年(明治25年)11月16日 - 1977年(昭和52年)3月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。陸軍士官学校第26期、陸軍大学校第38期卒業。最終階級は陸軍中将。 1892年(明治25年)に石川県石川郡野々市村本町で生まれた。村長・石川県議藤村理平の子。先祖は平氏か源氏か藤原氏かは定かでないが富樫氏に家老として仕えていた古い武士で、加賀一向一揆で滅びた後は帰農し、江戸時代には野々市郷の名主庄屋だったという。前田藩の参勤交代の際は小休所で、名字帯刀を許されていた。苗字は「小藤屋」であったが、明治維新を機に「藤村」と改めた。 生母の多美は生後間もなく亡くなり、圭に育てられる。
朝熊 利英(あさくま としひで、1892年〈明治25年〉11… 朝熊 利英(あさくま としひで、1892年〈明治25年〉11月12日 - 1987年〈昭和62年〉7月11日)は、日本の海軍軍人(造兵科士官→技術科士官)。最終階級は海軍技術中将。魚雷設計の天才といわれ、酸素魚雷、特殊潜航艇の開発に貢献した。海軍技術有功章を受章。 兵庫県出身。東京帝大工学部造兵科を卒業。在学中に海軍造兵学生となり、卒業後、海軍造兵中技師(中尉相当)任官。海軍造兵科士官は兵器の設計開発にあたる将校相当官で、後に海軍造船科士官(造船にあたる)・海軍造機科士官(機関の造修にあたる)と合わせて海軍技術科士官と改称された。朝熊は造兵大尉時代まで呉海軍工廠に属し、魚雷部員、砲熕部員を務めている。
前田 正実(まえだ まさみ、1892年11月10日 - 19… 前田 正実(まえだ まさみ、1892年11月10日 - 1953年7月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 前田正隆・陸軍大尉の長男として岐阜で生まれる[要検証 – ノート]。京都一中、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第15大隊付となる。1916年(大正5年)5月、陸軍砲工学校高等科(25期)を優等で卒業。陸地測量部員などを経て、1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業。 1922年12月、工兵第15大隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員などを歴任し、1925年(大正14年)5月から1928年(昭和3年)12月までフィリピンに潜入。
田坂 専一(たさか せんいち、1892年11月8日 - 19… 田坂 専一(たさか せんいち、1892年11月8日 - 1979年12月31日)は、日本の陸軍軍人。陸士27期・陸大38期。最終階級は陸軍中将。 輜重兵科出身の陸軍中将14名の一人(輜重兵科から陸軍大将は出ていない)。戦後に67歳で中央大学法学部を卒業している。 愛媛県出身。農業・田坂儀平の長男。西条中学校(現:愛媛県立西条高等学校)を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、輜重兵少尉に任官、輜重兵第2大隊付。1926年(大正15年)11月、陸軍大学校(38期)を卒業した。 陸大卒業後は、輜重兵第2大隊中隊長、教育総監部付勤務、陸士教官、留守第9師団参謀、第9師団参謀、陸大教官を経て、1937年(昭和12年)7月、支那駐屯軍参謀に発令されて日中戦争に出征、さらに第2軍参謀となった。
都築 正男(つづき まさお、英語:Masao Tsuzuki… 都築 正男(つづき まさお、英語:Masao Tsuzuki、1892年(明治25年)10月20日 - 1961年(昭和36年)4月5日)は、日本の医学者、海軍軍医。最終階級は海軍軍医少将。「原爆症研究の父」と呼ばれる。 兵庫県姫路市に開業医の長男として生まれた。兵庫県立姫路中学校を経て、1910年(明治43年)に旧制第一高等学校に入学。一高では芥川龍之介や矢内原忠雄らと同期だった。1917年(大正6年)に東京帝国大学医科大学医学科を卒業、海軍に進んだ。海軍軍医学校選科学生として東大に再度入学し、塩田広重のもとで外科学を学んだ。1926年(大正15年) 東京大学 医学博士 論文の題は 「硬レントゲン線の生物学的作用に関する実験的研究」。
上阪 香苗(こうさか かなえ、1892年〈明治25年〉10月… 上阪 香苗(こうさか かなえ、1892年〈明治25年〉10月8日 - 1974年〈昭和49年〉12月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。滋賀県大津市出身。 旧制滋賀県立膳所中学校より海軍兵学校第43期入校。当時の海軍兵学校は受験を3度までしか認めておらず、上阪は兵学校の受験に2度失敗し、最後の受験で入校が認められた。海軍砲術学校高等科卒業後は砲術畑を歩んだが、大佐進級後は航空に移った点で、戸塚道太郎海軍中将や同期生の有馬正文海軍中将と似た経歴をたどる。太平洋戦争中は一時的に航空戦隊司令官を務めた以外は、一貫して航空本部補職が続いた。 練習航海で同じ艦に乗組んだ同期生の高木惣吉海軍少将は、死去するまで大親友だった。
大森 仙太郎(おおもり せんたろう、1892年(明治25年)… 大森 仙太郎(おおもり せんたろう、1892年(明治25年)10月3日 - 1974年(昭和49年)12月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍特攻部長、第7艦隊司令長官を務めた。熊本県熊本市出身。 1892年10月3日、熊本で大森太郎吉の息子として生まれる。熊本中学校卒業。1913年12月、海軍兵学校41期を16番の成績で卒業。在学中に品行善良章を授与された。1914年12月、海軍少尉任官。1919年12月、大尉に昇進。海軍水雷学校高等科を卒業。その後、第15艇隊艇長、葦駆逐艦長、陸奥分隊長、野風水雷長、響駆逐艦長、榛名分隊長を歴任、1925年12月、少佐に昇進、水雷学校教官に着任する。
草鹿 龍之介(くさか りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉… 草鹿 龍之介(くさか りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉9月25日 - 1971年〈昭和46年〉11月23日)は、日本の海軍軍人、剣道家。海軍兵学校41期生。海軍大学校24期。最終階級は海軍中将。一刀正伝無刀流第4代宗家。 1892年(明治25年)9月25日、住友本社理事・草鹿丁卯次郎の長男として東京で生まれる。本籍は石川県。草鹿家は加賀大聖寺藩に仕えた一族である。 石川県師範学校附属小学校を経て、大阪天王寺中学校を卒業。 草鹿龍之介著「一海軍士官の半生記」によると石川師範学校附属小学校時代には、陸軍中将青木重誠(陸士25期首席)と同級であり成績は草鹿が1番で青木が2番だったと回想している。
川村 直岡(かわむら なおおか、1892年(明治25年)9月… 川村 直岡(かわむら なおおか、1892年(明治25年)9月20日 - 1963年(昭和38年)1月4日)は、台湾総督府官僚、陸軍司政長官。 鹿児島県出身。1918年(大正7年)に高等試験に合格し、翌年に東京帝国大学法学部政治科を卒業した。拓殖局属を経て、1921年(大正10年)に台湾総督府事務官となり、専売局煙草課長、樟脳課長、庶務課長、殖産局特産課長、総督官房文書課長・調査課長、殖産局山林課長・鉱務課長、台南州内務部長、総督官房審議室勤務・調査課長などを経て、1936年(昭和11年)に台南州知事に就任した。その後、台北州知事、拓務省拓南局長を歴任し、1941年(昭和16年)に退官した。 1942年(昭和17年)、陸軍司政長官となり、ベンクレン州長官、ペラ州長官を務めた。
栗栖 猛夫(くりす たけお、1892年9月14日 - 194… 栗栖 猛夫(くりす たけお、1892年9月14日 - 1945年7月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山口県出身。山口中学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第29連隊付となる。 1927年(昭和2年)3月、新潟中学校配属将校となり、歩兵第16連隊中隊長、歩兵第15旅団副官などを経て、1933年(昭和8年)8月、陸軍少佐に昇進し陸軍歩兵学校副官となる。同校教官、第3師団参謀、第5独立守備隊参謀などを歴任し、1939年(昭和14年)8月、陸軍大佐に進み豊橋陸軍予備士官学校歩兵生徒隊長に就任。1941年(昭和16年)3月、歩兵第220連隊長となり日中戦争、太平洋戦争に出征。
鍋島 俊策(なべしま しゅんさく、1892年9月10日 - … 鍋島 俊策(なべしま しゅんさく、1892年9月10日 - 1948年4月28日)は、日本の海軍軍人。海軍少将。正五位勲二等瑞宝章。 熊本県下益城郡小川町(現・熊本県宇城市小川町)生まれ。小川小学校、八代中学校卒業。海軍兵学校および陸軍士官学校(第26期)を受験し、双方に合格している。1911年(明治44年)海軍兵学校に入学する。 1914年(大正3年)海軍兵学校を卒業(42期)し、海軍少尉候補生となり阿蘇乗組。1918年(大正7年)水雷学校普通科を卒業し、同年12月に砲術学校学生教程を卒業する。1920年(大正9年)海軍大尉に任ぜられ、翌年の1921年(大正10年)には水雷学校高等科を卒業する。
東宮 鉄男(とうみや かねお、旧字体: 東宮 鐵男、1892… 東宮 鉄男(とうみや かねお、旧字体: 東宮 鐵男、1892年〈明治25年〉8月17日 - 1937年〈昭和12年〉11月14日)は、日本の陸軍軍人。「満洲移民の父」と呼ばれた。 満洲を中心に活動した。張作霖爆殺事件の実行者であり、満洲への移民を推進した中心人物として知られる。日中戦争初期の1937年、歩兵第102連隊大隊長として中国で戦死した。死後特進し陸軍大佐となる。 1892年(明治25年)8月17日、群馬県勢多郡宮城村大字苗ヶ島(現:前橋市苗ヶ島町)で9人兄弟の末弟として生まれる。父は群馬県士族で村長も務めた東宮吉勝。旧制前橋中学校利根分校で3年間学んだ後、同本校に編入し1911年(明治44年)に卒業。
山口 多聞(やまぐち たもん、1892年(明治25年)8月1… 山口 多聞(やまぐち たもん、1892年(明治25年)8月17日 - 1942年(昭和17年)6月6日)は、日本の海軍軍人。海兵40期。ミッドウェー海戦において戦死。最終階級は海軍中将。
大西 新蔵(おおにし しんぞう、1892年(明治25年)7月… 大西 新蔵(おおにし しんぞう、1892年(明治25年)7月17日 - 1988年(昭和63年)1月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 東京府(現・東京都江戸川区)出身。東京府立第三中学校から海軍兵学校(42期)へ進む。席次は入校時120名中首席、卒業時は117名中3番。海軍砲術学校高等科学生に進み、砲術専攻士官となる。また東京帝国大学で教育学を学んでいる。海軍大学校甲種学生に進んだが、入試は不合格であった。航空関係者を入校させるため人数あわせで入校を許されている。 1928年(昭和3年)10月、42期首席であった三木繁二少佐が死去すると、大西がクラスヘッドになっている。海軍兵学校教官を経てドイツ駐在となった。
那須 弓雄(なす ゆみお、1892年6月27日 - 1942… 那須 弓雄(なす ゆみお、1892年6月27日 - 1942年10月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 本籍栃木県。旧黒羽藩士・官吏、那須均の長男として東京で生まれる。京華中学校、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年5月、陸軍士官学校(25期)を卒業、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第59連隊付となる。1923年11月、陸軍大学校(35期)を卒業。 参謀本部付勤務、台湾軍幕僚付、歩兵第19連隊大隊長、上海派遣軍司令部付、鎮海湾要塞参謀、歩兵第78連隊付、関東軍司令部付(満州国軍顧問・第3軍管区付)、歩兵第59連隊長などを歴任。1940年3月、陸軍少将に進級。 歩兵第3旅団長を経て、第2歩兵団長としてジャワ島攻略作戦に参加。