田中 菊雄(たなか きくお、1893年11月19日 - 19… 田中 菊雄(たなか きくお、1893年11月19日 - 1975年3月29日)は、日本の英語学者、英和辞典編纂者である。 北海道小樽市生まれ。父の事業の失敗が元で、貧窮に耐えて暮らした。旭川市の高等小学校に通学したのち、旭川駅所属の列車ボーイとなる。文学青年だった車掌から小説を借りては、乱読していたという。 列車ボーイを辞め、18歳のときに上川郡鷹栖村近文第一高等尋常小学校の代用教員に採用され、翌年、検定試験に合格し正教員となった。このころ英文学研究を志し、独学に没頭するかたわら、遠距離に住んでいたアメリカ人教師に学ぶ。田中の学習法は「睡眠時間節約のために、一切室に火をおかず、床をとらず、端然として机に向って、いよいよ眠くなってたまらなくなると、そのまま外套をかぶってゴロリと畳の上にねる」「やや眠りが浅くなってだんだんと寒くなって目をさますと、すぐまた机に向うという極端な手段」といったような壮絶なものであった。
岩崎 民平(いわさき たみへい、1892年〈明治25年〉12… 岩崎 民平(いわさき たみへい、1892年〈明治25年〉12月18日 - 1971年〈昭和46年〉6月29日)は、日本の英語学者・辞書編纂者。東京外国語大学名誉教授。 1892年、山口県都濃郡富田村(現:周南市)で生まれた。1910年、山口県立徳山中学校(現:山口県立徳山高等学校)を卒業。東京外国語学校に進学し、1913年に卒業。 卒業後は東京府立第四中学校教諭となったが、再び東京帝国大学に入学し、1922年に卒業。 1922年、東京外国語学校(のちの東京外国語大学)教授に就いた。1932年刊行の岡倉由三郎編『新英和大辞典(初版)』(研究社)の改訂にあたり、中心となって作業に当たった。続いて1941年刊行の『簡約英和辞典』(研究社)を編纂。
斎藤 静(さいとう しずか、1891年5月8日 – 197… 斎藤 静(さいとう しずか、1891年5月8日 – 1970年7月5日 )は、日本の英語学者。福井大学名誉教授。旧姓:菅原 宮城県生まれ。京都帝国大学選科卒業。 愛知県一宮中学校、福井県大野中学校、福井中学校各教諭、小浜中学校長、大野中学校長を経て昭和12年福井高等工業学校講師。24〜34年福井大学教授、同名誉教授。 晩年、東北学院大学教授を務めた。 7〜17年個人雑誌「英語学研究」を発刊、海外の論文を紹介した。 著書「Living English Readers」、「近代英語後期」「双解英和辞典」「米語辞典」「日本語に及ぼしたオランダ語の影響」などがある。福井市名誉市民。
陳望道(ちん ぼうどう、1891年1月18日 - 1977年… 陳望道(ちん ぼうどう、1891年1月18日 - 1977年10月29日)は、中国の言語学者、修辞学者、教育者。早い時期からの中国共産党員であり、「共産党宣言」を中国語に翻訳した人として知られる。 陳望道は浙江省義烏に生まれ、16歳まで私塾で伝統的な教育を受けた後、近代的な小学校にはいり直し、キリスト教系の之江大学に学んだ。 1915年に日本に留学し、早稲田大学、東洋大学、中央大学で学んだ。中央大学の法学士の学位を得た。早稲田大学では五十嵐力に修辞学を学んだ。 1919年5月に帰国し、杭州の浙江第一師範学校で国文を教えた。この時代には句読点の改良を主張し、新式標点の採用を訴えた。 翌1920年5月には陳独秀の求めに応じて上海に移り、中国共産党の前身であるマルクス主義研究会と共産主義青年団の創立にかかわった。
竹田 復(たけだ さかえ、1891年(明治24年)1月10日… 竹田 復(たけだ さかえ、1891年(明治24年)1月10日 - 1986年(昭和61年)11月7日)は、日本の中国文学者・中国語学者。東京教育大学名誉教授。 山梨県生まれ。父は漢学者・竹田左膳。病弱なため和歌山県で小学校を終え、静岡中学校、1914年第一高等学校卒、1918年東京帝国大学文学部支那文学科卒、大学院入学、1921年から1924年北京に学ぶ。 1925年より第一高等学校教授、東京帝国大学文学部助教授を兼任。1945年に「支那口語文学源流考」で東京帝国大学文学博士を取得。1945年1月、東京文理科大学教授。1948年東京教育大学(現筑波大学)教授、1952年定年退官、東洋大学教授、1958年日本大学教授、1964年大東文化大学教授、1967年名誉教授。
西尾 実(にしお みのる、1889年5月14日 - 1979… 西尾 実(にしお みのる、1889年5月14日 - 1979年4月16日)は、日本の国文学者・国語教育学者・国語学者。 1889年、長野県下伊那郡豊村和合(現・阿南町)に生まれた。1910年に長野師範学校(現・信州大学教育学部)を卒業後、長野県内の尋常高等小学校で教師を務めた。その後東京帝国大学国文科選科を修了。 修了後は、東京女子大学教授、法政大学教授を務めた。戦後は文部官僚の釘本久春と協力して国語改革の主導者となり、1949年に国立国語研究所の初代所長に就任した。1960年、学位論文『日本文芸史における中世的なものとその展開』を法政大学に提出して文学博士号を取得。 専門は日本の中世文学で、世阿弥の能楽のほか、『徒然草』や『正法眼蔵』などに多くの業績を残した。
長沢 英一郎(ながさわ えいいちろう、正字体:長澤 英一郎、… 長沢 英一郎(ながさわ えいいちろう、正字体:長澤 英一郎、1889年1月30日 - 1965年11月5日)は、大正から昭和の日本の英語学者、英米文学者、教育者、翻訳家。学習院教授、東京学芸大学教授、実践女子大学英文科長、立教大学文学部教授、川村短期大学教授。 1889年(明治22年)生まれ。群馬県出身。 1913年(大正2年)、立教大学文科(現・文学部)を卒業したのち、1916年(大正5年)に東京帝国大学英文学科を卒業した。東京帝国大学の同級には芥川龍之介、久米正雄らがいた。 大学を卒業後、東北学院に務めると、1919年(大正8年)に学習院に転じて、1922年(大正11年)に教授となる。1949年(昭和24年)に学習院を退職。
木村 謹治(きむら きんじ、1889年1月2日 - 1948… 木村 謹治(きむら きんじ、1889年1月2日 - 1948年1月13日)は、日本のドイツ文学・ドイツ語学者、東京帝国大学教授。文学博士。 秋田県南秋田郡大川村(現・五城目町)出身。県立秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)、慶應義塾普通部、第二高等学校を経て東京帝国大学独文科でカール・フローレンツに学ぶ。第四高等学校教授から、1924年東京帝国大学独文科助教授となり、1932年教授。同僚の相良守峯とともに編纂した独和辞典は「キムラ・サガラ」と呼ばれて長く使われた。またゲーテ研究に力を注いだ。生化学者の木村雄吉は実弟、ロシア文学者木村彰一及び外交官木村敬三は息子。画家の木村哲雄は孫。 秋田県南秋田郡大川村(後の五城目町大川)で父松助、母ナヲの7男3女の第3子として生まれる。
佐久間 鼎(さくま かなえ、1888年9月7日 - 1970… 佐久間 鼎(さくま かなえ、1888年9月7日 - 1970年1月9日)は、日本の心理学者、言語学者、国語学者。 1888年、千葉県で生まれた。第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学哲学科に入学。心理学専修で学び、1913年に卒業、同大学大学院に進んで日本語のアクセントについて研究した。 1923年に欧州留学を命じられ、ドイツ留学中にベルリン大学のヴォルフガング・ケーラーのもとでゲシュタルト心理学を学んだ。1925年に帰国し、九州帝国大学の初代心理学講座担任教授に就いた。九州大学には、戦後1949年の退官まで奉職。1966年には日本学士院会員に選出された。 1952年、東洋大学教授に迎えられ、心理学、国語学を担当。
奥里 将建(おくざと しょうけん、1888年(明治21年)5… 奥里 将建(おくざと しょうけん、1888年(明治21年)5月18日 - 1963年(昭和38年)12月29日)は、日本の教育者、国語学者、国文学者、方言学者。 1888年(明治21)5月18日沖縄県宜野湾村生まれ(本籍は首里市寒川町)。 宜野湾小学校をはじめとして教員勤務の傍ら、日本古典文学や方言の研究を進め、1926年(大正15)『琉球人の見た古事記と万葉』を出版。1927年(昭和2)京都御所内東山文庫で源氏物語の校合に従事、1928年(昭和3)4月京都帝国大学国文学部に入学、1929年(昭和4)7月高等教員検定試験(国語科)合格、同年9月兵庫県立神戸第一中学校教諭に任じられ、1942年(昭和17)まで勤務。
須藤 兼吉(すどう けんきち、1888年 - 1980年)は… 須藤 兼吉(すどう けんきち、1888年 - 1980年)は、日本の英語学者、東京高等商船学校(現・東京海洋大学)教授、元神奈川大学外国語学部教授。旺文社顧問。J・A・サージェント、J・B・ハリスと共著の『Systematic English & American Conversation系統的英米会話』が有名[要出典]。 長野県西筑摩郡福島町(現木曽町)に生まれる。1911年(明治44年)、東京外国語学校英語科(現・東京外国語大学)を卒業する。 東京高等商船学校(現・東京海洋大学)を経て、神奈川大学外国語学部教授となる。
今岡 十一郎(いまおか じゅういちろう、1888年 - 19… 今岡 十一郎(いまおか じゅういちろう、1888年 - 1973年9月2日)は日本のハンガリー語学者。専門のハンガリー語の他、フィンランド語辞典の著もある。また叢書『フィン・ウゴル研究』を編集刊行し、日本におけるウラル学の先駆者やハンガリーにおける日本文化紹介者として知られる。島根県出身。 松江市生まれ。1914年、東京外国語学校ドイツ語科卒業。同年、来日中のハンガリーの民俗学者バラートシ・バログ・ベネデク(ハンガリー語版)のアイヌ・ギリヤーク・オロッコ研究旅行に通訳として同行し、北海道や樺太を巡る。これが縁で、バラートシからツラニズムの日本普及に協力するよう求められる。 東京帝国大学経済統計研究室などに勤務した後、アメリカを経てドイツに留学し、程なくしてバラートシ=バログの招きで1922年にハンガリーへ移り、ブダペスト大学哲学科を卒業。
河村 重治郎(かわむら じゅうじろう、1887年7月28日-… 河村 重治郎(かわむら じゅうじろう、1887年7月28日-1974年3月13日)は、英語学者、辞書編纂者。 南秋田郡楢山牛島橋通町50(現秋田市楢山共和町)生まれ。1894年、築山小学校に入学。秋田中学校を中退し、検定試験で英語教員免許を取得。聖学院中学校、福井県立福井中学校(のち福井県立藤島高等学校)教諭をへて、1924年横浜高等商業学校教授。岡倉由三郎『新英和大辞典』の原稿を執筆。44年横浜高商を辞し、46年善隣外事専門学校教授。49年これを辞し、明治学院大学、東洋英和女学院短期大学などで講師を務める。 研究社『英和大辞典』の改訂、『クラウン』などの辞書の編纂に生涯を捧げた。墓所は多磨霊園。
湯沢 幸吉郎(ゆざわ こうきちろう、1887年(明治20年)… 湯沢 幸吉郎(ゆざわ こうきちろう、1887年(明治20年)5月2日 - 1963年(昭和38年)4月9日)は、日本の国語学者。 1887年(明治20年)、秋田県広山田村(現・秋田市広面)に農家の三男として生まれる。広山田村立楢山尋常小学校卒。 秋田県立秋田中学校を経て1905年(明治38年)東京高等師範学校国語国文学科に入学、卒業後は富山県立薬学専門学校、東京府立第四高等女学校の教員となるが、府立第四高女に勤めながら東京帝国大学国文学選科に進み、これを修了、1915年(大正4年)文部省嘱託となる。 1933年(昭和8年)東洋大学教授に就任。以後、文部省図書監修官(1942年(昭和17年)就任)、早稲田大学教授(1949年(昭和24年)就任)、上智大学教授(1959年(昭和34年)就任)を歴任した。
折口 信夫(おりくち しのぶ〈のぶを〉、1887年〈明治20… 折口 信夫(おりくち しのぶ〈のぶを〉、1887年〈明治20年〉2月11日 - 1953年〈昭和28年〉9月3日)は、日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人・歌人でもあった。 折口の成し遂げた研究は、「折口学」と総称されている。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた。みずからの顔の青痣(あざ)をもじって、靄遠渓(あい・えんけい=青インク、「靄煙渓」とも)と名乗ったこともある。 1887年2月11日、大阪府西成郡木津村(現:大阪市浪速区敷津西1丁目・鷗町公園)に父秀太郎、母こうの四男として生まれた。信夫の祖父の造酒之介が、飛鳥坐神社の社家の出身ということもあり、終生、折口はそれを自慢していた(養子なので直接血縁はないと言われている)。
勝田 孝興(かった たかおき、1886年9月30日 - 19… 勝田 孝興(かった たかおき、1886年9月30日 - 1976年5月23日)は、日本のアイルランド文学者・語学者。 島根県松江市出身。1911(明治44)年、東京帝国大学(現在の東京大学)英文科卒。1925年から2年間、文部省から推薦されアイルランド留学。旧制神奈川県立横須賀中学校(現・横須賀高校)、旧制千葉県立佐倉中学校(現・佐倉高校)の各教諭、旧制商船学校、旧制山形高等学校(現・山形大学)の各教授を経て同志社大学教授に転じ、同専門学校英星版部長を兼任。戦後は滋賀大学教授、大阪工業大学教授。専門はアイルランドの文芸復興関連の演劇やアングロ・アイリッシュの発音に関する研究。著書多数。1976年5月23日に脳血栓のため89歳で逝去。
小林 好日(こばやし よしはる、1886年8月19日 - 1… 小林 好日(こばやし よしはる、1886年8月19日 - 1948年2月11日)は、日本の国語学者。
河合 逸治(かわい いつじ、1886年〈明治19年〉6月20… 河合 逸治(かわい いつじ、1886年〈明治19年〉6月20日 - 1964年〈昭和39年〉3月13日)は、大正 - 昭和期の英語学者、教育者。三大予備校の一つ、河合塾の創始者として知られる。第五高等学校、名古屋高等商業学校および名城大学・名古屋商科大学教授。 静岡県引佐郡細江町(現・浜松市浜名区)出身。第七高等学校造士館、東京帝大英文科卒後、大正3年に第五高等学校の教授となる。欧米留学からの帰国後は、名古屋高等商業学校(現・名古屋大学経済学部)教授の職に就く。 1933年には名古屋市昭和区の名古屋市立名古屋商業学校(現在は向陽高等学校が立地)前にあった自宅に「河合英学塾」を開設。1937年になり、「河合塾」へと改称した。
服部 嘉香(はっとり よしか、1886年(明治19年)4月4… 服部 嘉香(はっとり よしか、1886年(明治19年)4月4日 - 1975年(昭和50年)5月10日)は、日本の詩人・歌人・国語学者。 東京市日本橋区浜町の旧松山藩主久松家邸内で生まれた。愛媛県士族・服部嘉陳の長男。父の嘉陳は松山藩士・藤野正久の次男で、服部家を継いだ。 1889年(明治22年)に父の故郷である松山に移る。その後間もなく父が病没したため、叔父藤野漸の下で養育される。松山中学校を卒業後、1904年(明治37年)に再び上京して早稲田大学に入学。1908年(明治41年)、大学部文学科英文学科を卒業。同級生に北原白秋・三木露風・若山牧水・土岐善麿などがいた。中学時代から雑誌『少年世界』『中学世界』などに新体詩を投稿していたが、早大進学によって詩壇での活動はより活発になる。
田中 秀央(たなか ひでなか、1886年〈明治19年〉3月2… 田中 秀央(たなか ひでなか、1886年〈明治19年〉3月2日 - 1974年〈昭和49年〉8月6日)は、日本の言語学者、翻訳家。日本における西洋古典学の開拓者の一人。 1886年、愛媛県北宇和郡三浦村(現・宇和島市)で生まれた。宇和島中学校を卒業後、京都の第三高等学校に進んだ。1906年に東京帝国大学言語学科に入学し、ラファエル・フォン・ケーベルの下でギリシア語、ラテン語を学んだ。1909年に卒業し、同大学大学院に進学。 1912年に卒業し、東京帝国大学講師として古典語を教えた。1920年7月より、京都帝国大学文学部講師を命じられ、同年10月には助教授昇格。1922年から文部省在外研究員としてオックスフォード大学に留学し、西洋古典学の研究を進めた。
市河 三喜(いちかわ さんき、1886年(明治19年)2月1… 市河 三喜(いちかわ さんき、1886年(明治19年)2月18日 - 1970年(昭和45年)3月17日)は、日本の英語学者・随筆家。学位は、文学博士。東京大学名誉教授、日本学士院会員、語学教育研究所所長。号は清庵。日本人としては初となる東京帝国大学英文科の教授となり、日本の英語学の礎を築いた。 英語学の新人賞として市河三喜賞が設けられていた。 1886年、東京府下谷区練塀町(現在の千代田区神田練塀町・外神田四丁目・台東区秋葉原に跨る地域)に書家である市河三兼(万庵)の次男として生まれる。5、6歳の頃より家業の書道を学び、また同じく幼年の頃より兄の三陽から漢文の素読を学ぶ。高等小学校1年時からは三陽により英語も学び始める。
廖 天祥(りょう てんしょう、1886年 - 没年不詳)は、… 廖 天祥(りょう てんしょう、1886年 - 没年不詳)は、中国の英語学者、教育者。国立成都大学(現・四川大学)外国語学部長、英文学科教授、四川大学英語学部教授。 1886年生まれ。華陽県(現・四川省成都市)出身。留学で日本へ渡り、1916年(大正5年)、立教大学文学部を卒業。中国の政治家で嶺南画派の創始者の一人でもある陳樹人とは大学の同級である。 国立成都大学(現・四川大学)の外国語学部英語(英文)学科教授として、英語、英文学の授業を担い、学部長も務めた。日本へ留学した天祥のほか、当時の教師の顔ぶれは豪華で、多くが海外留学を経験した帰国子女の四川省人であった。中国文学の教授はフランス留学した著名な作家の李潔仁と歴史家の孟文通が務め、フランス語の教授はパリ大学で哲学博士号を取得した鄧孟徳が務めた。
豊田 実(とよだ みのる、1885年9月16日 - 1972… 豊田 実(とよだ みのる、1885年9月16日 - 1972年11月22日)は、英語学者、英文学者。
土岐 善麿(とき ぜんまろ、1885年(明治18年)6月8日… 土岐 善麿(とき ぜんまろ、1885年(明治18年)6月8日 - 1980年(昭和55年)4月15日)は、日本の歌人・国語学者。
石黒 魯平(いしぐろ ろへい、1885年(明治18年) - … 石黒 魯平(いしぐろ ろへい、1885年(明治18年) - 1956年(昭和31年)7月21日)は、日本の言語学者。学位は、文学博士。駒澤大学教授。「標準語の父」と言われる。 愛知県知多郡小鈴谷村の石黒重郎平の二男として生まれる。常滑市「鈴渓義塾」出身。東京帝国大学言語科卒業。東京高等師範学校附属中学校教諭ののち駒澤大学教授に就任。 文理大学講師、台北高校教諭を経て、1948年、法政大学石岡予科教授就任。 1956年『「標準語」原論 』で駒澤大学より文学博士の学位を授与される。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
東条 操(とうじょう みさお、1884年12月14日 - 1… 東条 操(とうじょう みさお、1884年12月14日 - 1966年12月19日)は、日本の国語学者。旧制静岡高等学校・広島高等師範学校・学習院・東洋大学の教授。東京大学講師。日本全国を回り、日本の方言研究の土台を築いた。
苫米地 英俊(とまべち ひでとし、1884年(明治17年)1… 苫米地 英俊(とまべち ひでとし、1884年(明治17年)12月1日 - 1966年(昭和41年)5月5日)は、日本の言語学者(英語学)、国際法学者、政治家、衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)。 小樽高等商業学校(現小樽商科大学)、札幌短期大学、北海道自動車短期大学(現北海道科学大学短期大学部)などの校長や学長を歴任。 1884年現在の福井県大野市に生まれる。その後長野県長野市に移り、旧制長野中学(長野県長野高等学校)を卒業後、1904年に東京外国語学校英語科に入学。 長野時代から柔道で頭角をあらわし、東京外国語学校在学中に講道館に入門、嘉納治五郎の主催する嘉納塾の塾監として嘉納塾の子弟の指導にあたる。
細江 逸記(ほそえ いっき、1884年9月28日 - 194… 細江 逸記(ほそえ いっき、1884年9月28日 - 1947年3月11日)は、日本の英語学者。 三重県出身。東京外国語学校英語科卒。東京外国語学校講師、大阪高等商業学校教授、1931年大阪商科大学教授。1936年「ヂヨーヂエリオツトの作品に用いられたる英国中部地方言の研究」で京都帝国大学文学博士。
伊地知 純正(いじち すみまさ、1884年〈明治17年〉6月… 伊地知 純正(いじち すみまさ、1884年〈明治17年〉6月17日 - 1964年〈昭和39年〉8月11日)は、日本の英語学者、早稲田大学商学部教授・理事・名誉教授、日本商業英語学会理事。ペンネーム(略号)はE.D.T.。 1884年(明治17年)6月17日、宮崎県西諸県郡加久藤村(現在の宮崎県えびの市)にて、伊地知章平・たつ夫妻の間に生まれる。宮崎県立宮崎中学校3年の時、英文によって自分の意見を発表することを決意する。 1902年(明治35年)7月にあった旧制高等学校の入学試験を病気のために諦め、1903年(明治36年)9月の早稲田大学の編入試験を受けて早稲田大学商科高等予科に入学する。1904年(明治37年)、早稲田大学大学部商科に第一回生として入る。
何 盛三(が もりぞう、1884年5月8日 - 1948年1… 何 盛三(が もりぞう、1884年5月8日 - 1948年10月10日)は、日本の中国語学者、アジア主義者、社会活動家、エスペランティスト。 東京大学新聞研究所の所長であった何初彦は長男。 苗字の「何」をもじって、エスペラントで"S-ro Kio"、フランス語で"Monsieur Que"(いずれも英語でいえば"Mr. What"、後者は日本語の「無宿」にも掛けている)と名乗った。 東京府出身。日本の造船学の発展に寄与した海軍軍人の赤松則良の三男として生まれ、後に唐通詞の出身であった何礼之の養孫になっている。1930年には「財政整理ノタメ」何家を離れ、赤松家に復籍した。 学習院中等科・高等科で学ぶ。
折竹 錫(おりたけ たまう、1884年(明治17年)1月11… 折竹 錫(おりたけ たまう、1884年(明治17年)1月11日 - 1950年(昭和25年)1月13日)は、大正から昭和時代の日本の翻訳家、フランス語学者。号に蓼峰、多音祐、R.T.O。 旧信濃国松本藩士・折竹嘉鋭の長男として長野県諏訪郡にて生まれる。1908年(明治41年)東京帝国大学文学部仏文科を卒業後、陸軍教授を経て、第三高等学校教授となり、河盛好蔵、桑原武夫らに教えた。フランス・ドイツ留学を経て、旧制福岡高等学校長に任ぜられ、その後は、関西日仏学館(現:アンスティチュ・フランセ日本の前身の一つ)教授などを歴任する。
中島 利一郎(なかしま りいちろう、1884年1月2日 - … 中島 利一郎(なかしま りいちろう、1884年1月2日 - 1959年1月6日)は日本の東洋比較言語学者。国士舘大学教授、元臨時帝室編修官補)。雑誌『中央史壇』で小谷部全一郎を痛罵したことで知られる。
荒木 茂(あらき しげる、1884年〈明治17年〉 - 19… 荒木 茂(あらき しげる、1884年〈明治17年〉 - 1932年〈昭和7年〉)は、日本の言語学者、日本におけるペルシア学の先駆者である。 福井県足羽郡酒生村(現・福井市荒木新保町)生まれ。平民・村田弥三太郎の次男として生まれ、3歳で実母と死に別れ、10歳で近所の士族・荒木伊太郎の養嫡子となる。酒生村立小学校、福井県立福井中学校を卒業後、1904年に東京高等師範学校入学。1905年に語学研究のため渡米し、1907年ロサンゼルス市公立高等学校に入り、1910年に同校ペルシャ語科を卒業、カリフォルニア州立大学文科に進学するも病気のため休学。1914年にコロンビア大学に入学。ゾロアスター教研究の権威であるインド・イラン語学者アブラハム・ヴァレンタイン・ウィリアムズ・ジャクソンに6年間師事、文学修士の学位を取得した。
村上 精一(むらかみ せいいち、1883年〈明治16年〉11… 村上 精一(むらかみ せいいち、1883年〈明治16年〉11月2日 - 1959年〈昭和34年〉9月10日)は、日本の英語学者、青山学院大学教授、青山学院専門部文学部長、青山学院高等部長。 1883年11月2日、静岡県引佐郡細江町に生まれる。静岡県立浜松中学校を経て、1903年4月、青山学院高等科に入学する。1906年3月に卒業し、同年5月から秋田県立本荘中学校の教諭となる。1910年9月に依願免職、同年10月からアメリカ合衆国インディアナ州のデポー大学に入学する。1913年6月に卒業し、B.A.の学位を受ける。同年9月、イリノイ州のシカゴ大学に入学し、1916年3月にM.A.の学位を受け、同年9月に卒業、B.D.の学位を受ける。
小柳 篤二(おやなぎ とくじ、1883年〈明治16年〉8月1… 小柳 篤二(おやなぎ とくじ、1883年〈明治16年〉8月1日 - 1985年〈昭和60年〉12月23日)は、日本のドイツ文学者、ドイツ語学者。元東京高等学校独語主任教授、元早稲田大学教授。日出学園名誉園長。 新潟県新潟区学校町通(現 新潟市中央区学校町通)出身。1903年(明治36年)3月に新潟中学校を卒業、9月に第一高等学校大学予科理科に入学するも、病気で中退。 新潟中学校の5年先輩の櫻井天壇の所によく遊びに行き、ゲーテやシラーの話を聞いたり、ドイツ語の詩を教えられたりしたことがきっかけで、ドイツ語の道に入ろうと思うようになる。 1909年(明治42年)3月に東京外国語学校独語学科を卒業、1912年(明治45年)に東京帝国大学文科大学文学科選科を修了。
神保 格(じんぼう かく、1883年(明治16年)4月18日… 神保 格(じんぼう かく、1883年(明治16年)4月18日 - 1965年(昭和40年)12月6日)は、日本の言語学者。
橋本 進吉(はしもと しんきち、1882年12月24日 - … 橋本 進吉(はしもと しんきち、1882年12月24日 - 1945年1月30日)は、日本の言語学者・国語学者。 1882年、福井県敦賀市に医師の長男として生まれる。京都府第一中学校(現洛北高校)、第三高等学校(現・京都大学)を経て、1906年に東京帝国大学文科大学言語学科を卒業(銀時計受領)。卒業論文は「係り結びの起源」。 文部省国語調査委員会補助委員、東京帝国大学文科大学国語学教室助手を経て、1927年、同大学国語国文学第一講座助教授に就任。1934年、東京帝国大学より文学博士の学位を取得。1929年には教授に昇任した。1942年、日本文学報国会国文学部会長。1944年、国語学会会長。 1945年、病没。
小倉 進平(おぐら しんぺい、1882年〈明治15年〉6月4… 小倉 進平(おぐら しんぺい、1882年〈明治15年〉6月4日 - 1944年〈昭和19年〉2月8日)は、日本の言語学者。朝鮮語研究、日本語研究。日本語研究にも多くの業績があるが、特に朝鮮語研究においてその後の研究の礎を築いた。 1882年、宮城県仙台市生まれ。父は実業家・歌人の小倉茗園。1903年、東京帝国大学に入学し言語学を専攻、卒業論文は「平安朝の音韻」。その後上田萬年の下で国語学研究室助手。1911年朝鮮総督府勤務。1924~1926年にはヨーロッパおよびアメリカに留学。1926年、京城帝国大学教授。1933~1943年、東京帝国大学言語学科主任教授。 主要な業績として1920年『朝鮮語学史』(刀江書院)がある。
金田一 京助(きんだいち きょうすけ、1882年〈明治15年… 金田一 京助(きんだいち きょうすけ、1882年〈明治15年〉5月5日 - 1971年〈昭和46年〉11月14日)は、日本の言語学者。日本のアイヌ語研究の本格的創始者として知られる。國學院大學教授を経て、立教大学教授、東京帝国大学教授、國學院大學名誉教授。日本学士院会員。日本言語学会会長(2代目)。学位は、文学博士(東京帝国大学)。栄典は従三位・勲一等・瑞宝章・文化勲章。盛岡市名誉市民。歌人・石川啄木の親友であったことでも有名。 長男の春彦、孫の真澄や秀穂も言語学者。 1882年(明治15年)5月5日、盛岡の四ツ家町に金田一久米之助・ヤス夫妻の長男として誕生。姉1人、弟6人、妹3人の11人兄弟だった。
後藤 朝太郎(ごとう あさたろう、1881年〈明治14年〉4… 後藤 朝太郎(ごとう あさたろう、1881年〈明治14年〉4月16日 - 1945年〈昭和20年〉8月9日)は、日本の明治時代後期から昭和時代前期の言語学者。東京帝国大学講師。日本大学教授。号は「石農」。「支那通」として知られた。 愛媛県に生まれた。広島県人・後藤榮太郎の二男。1903年(明治36年)、第五高等学校大学予科第一部(文科)を卒業。1907年(明治40年)、東京帝国大学文科大学言語学科を卒業。同年の卒業生には言語学者の金田一京助がいた。 著述業を営み、文部省、台湾総督府、朝鮮総督府嘱託。東京帝国大学、東京高等造園学校各講師、日本大学教授、日本庭園協会、東京家庭学院各理事、日本文明協会、東洋協会各評議員などをつとめた。
久保田 正次(くぼた まさつぐ、1880年 - 1949年7… 久保田 正次(くぼた まさつぐ、1880年 - 1949年7月26日)は、日本の英語学者、教育者。立教大学元教授、立教大学野球部元部長。 1880年(明治13年)、東京・佃島出身。1911年(明治44年)、立教大学商学部を卒業。立教大学第1回の卒業生で、同大学文学部出身の小島茂雄(立教大学元文学部長、立教中学校元校長)や高松孝治(立教大学元教授、大学チャプレン)と同級生。 昭和初期に立教大学教授として、経済学部及び予科で英語を教える。1923年から1935年まで雑誌『英語研究』の主筆を務め、英文学を紹介した。 1930年(昭和5年)11月に、立教大学野球部で主力選手による野田健吉監督の排斥運動が起こり、主将の山本貞夫を始め、投手の縄岡修三、2塁手の大内又三郎など、20余名の選手が袖を連ねて脱退したことから、野球部は休止状態となる。
松下 大三郎(まつした だいざぶろう、1878年(明治11年… 松下 大三郎(まつした だいざぶろう、1878年(明治11年)10月24日 - 1935年(昭和10年)5月2日)は、日本の国語学者、文法学者。文学博士。國學院大學教授。号は曲水。 1878年、静岡県磐田郡下野部村(野部村、磐田郡豊岡村を経て、現在は磐田市)生まれ。父・久三郎は野部村村長。 明治19年(1886年)4月、野部尋常小学校(現・磐田市立豊岡北小学校)初等二級生に入学。同級生に河合亀太郎(日本薬剤師会会長、薬学博士)がいた。明治21年(1888年)2月、同校を卒業。 明治22年(1889年)7月、二俣高等小学校に進学。少年時代には落合直文・小中村義象共著の『中等教育日本文典』と『スキントン英文典』を比較研究していた。
安藤 正次(あんどう まさつぐ、1878年9月13日 - 1… 安藤 正次(あんどう まさつぐ、1878年9月13日 - 1952年11月18日)は、日本の国語学者。第3代台北帝国大学総長、東洋大学教授、文部省国語審議会会長。 1878年、埼玉県に生まれる。上田萬年に私淑し、神宮皇學館本科を経て、1904年東京帝国大学文科大学選科を修了。同年、神宮皇學館教授となり、1916年に文部省より国語に関する調査を嘱託される。1917年に日本女子大学校教授、1928年台北帝国大学教授。1941年からは同大学総長となり、1945年に辞任して帰国。 1945年には文部省国語審議会会長となって、国語国字問題の解決に尽力し、翌1946年には当用漢字および現代仮名遣いが制定された。
橋本 青雨(はしもと せいう、1878年9月1日 - 194… 橋本 青雨(はしもと せいう、1878年9月1日 - 1944年8月24日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家、ドイツ語学者。 宮城県出身。1902年小説と俳句を収めた『ほし草』を刊行。 1904年東京帝国大学文学部独文科卒。のち独文学を中心とする翻訳に従事。イプセン、シラー、ハウプトマンなどの翻訳を「帝国文学」「新小説」「新声」などに掲載し、明治末に最も活躍した。 のち第三高等学校教授、松本高等学校教授、海軍大学嘱託教授、中央大学講師となり研究に従事した。 孫は橋本和孝(関東学院大学名誉教授)。
春日 政治(かすが まさじ、1878年4月1日 – 1962… 春日 政治(かすが まさじ、1878年4月1日 – 1962年6月30日)は、日本の国語学者。平安時代初期の古経典から仮名や古訓点の研究に業績を残し、訓点語学の基礎を築いた。
新村 出(しんむら いずる、1876年(明治9年)10月4日… 新村 出(しんむら いずる、1876年(明治9年)10月4日 - 1967年(昭和42年)8月17日)は、日本の言語学者、文献学者。京都大学教授・名誉教授で、ソシュールの言語学の受容やキリシタン語の資料研究などを行った日本人の草分けである。
八杉 貞利(やすぎ さだとし、1876年9月16日 - 19… 八杉 貞利(やすぎ さだとし、1876年9月16日 - 1966年2月26日)は、日本のロシア語学者。 1876年、東京府で生まれた。1888年8月、高等師範学校附属小学校高等科(現・筑波大学附属小学校)を卒業。1894年に高等師範学校尋常中学科(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業し、第一高等学校を経て、東京帝国大学言語学科に進学、卒業した。卒業後はロシアに留学し、比較言語学、スラブ比較文法を学んだ。 帰国後の1903年に東京外国語学校教授となり、母校である東京帝国大学、早稲田大学でも講師を務めた。言語学の研究者として研究を進めると同時に、米川正夫、中村白葉、昇曙夢、木村彰一などのロシア文学者を育成した。
亀田 次郎(かめだ じろう、1876年〈明治9年〉9月11日… 亀田 次郎(かめだ じろう、1876年〈明治9年〉9月11日 - 1944年〈昭和19年〉2月8日)は、日本の国語学者、書誌学者。 兵庫県印南郡曽根村(現・高砂市曽根町)に生まれる。父・猪之介、母・チヨ。母方の祖父は亀田五一郎といい、幕末に塩田開拓などで成功し、南画家の田能村直入などの文人と交流のあった素封家であった。 大阪尋常中学校から熊本の第五高等学校を経て東京帝国大学文学部に進学。友人に新村出がいる。大学を卒業後は恩師・上田萬年が主事を務めていた国語調査委員会嘱託として実務にあたった。1908年に七高へ赴任(同僚に山田準・武藤長平・伊波普猷らがいた)。その後、大阪外国語学校・大谷大学に教授として勤務した。
吉澤 義則(よしざわ よしのり、1876年8月22日 - 1… 吉澤 義則(よしざわ よしのり、1876年8月22日 - 1954年11月5日)は、日本の国語学者、国文学者、歌人。
伊波 普猷(いは ふゆう、1876年(明治9年)3月15日 … 伊波 普猷(いは ふゆう、1876年(明治9年)3月15日 - 1947年(昭和22年)8月13日)は、日本の民俗学者・言語学者。沖縄学の父と言われている。沖縄県那覇市出身。 琉球藩那覇西村(現在の那覇市西)に父普済・母マツルの長男として生まれる。1903年(明治36年)、第三高等学校を卒業した後、東京帝国大学で言語学を専攻する。帝大では、橋本進吉、小倉進平、金田一京助らの学友とともに、新村出の講義を聴講した。また、東京帝国大学では上田萬年の講義を聴講していた鳥居龍蔵(同大学助手)と出会い親交を深めた。1904年(明治37年)、沖縄に帰省する伊波は鳥居を沖縄での人類学調査に誘い、鳥居は伊波の実家に数日滞在して調査を行った。