岩谷 山梔子(いわや くちなし、1883年(明治16年)1月… 岩谷 山梔子(いわや くちなし、1883年(明治16年)1月30日 - 1944年(昭和19年)1月4日)は、日本の俳人、俳画家、編集者。別号に木丹亭、黙堂など。本名は健治。青森県出身。 1883年(明治16年)に青森県青森町(現・青森市)に生まれる。10代でカリエスに罹り療養する中で俳句を始め、地元の俳句会「不来会」に参加、20歳で高浜虚子の「ホトトギス」に入会、河東碧梧桐が選者をしていた新聞「日本」にも投句する。碧梧桐の行脚(第一次「三千里」)の際に碧梧桐と会い傾倒。碧梧桐は後に山梔子の句集『山梔子第一句集』の序文で「其の時分の山梔子は世間苦も人間苦も知らないやうなウブな、さうして田舎者の山だしな本質を丸出しにした言はば荒削りな書生だつた。
平山 訓子(ひらやま おしえこ、1882年12月20日 - … 平山 訓子(ひらやま おしえこ、1882年12月20日 - 1925年5月1日)は、女性ジャーナリスト、文筆家、歌人、実業家。 本名は平山 訓(ひらやま おしえ)、旧姓蔵原、元和歌山県知事で衆議院議員の蔵原敏捷は実弟である。 熊本県下益城郡小川町(現・宇城市)出身、父・蔵原穆、母・そでの長女として生まれる。 1900年3月、熊本女学校を卒業。翌1901年、徳島県出身(生まれは東京府)の平山八十五郎と結婚、一児をもうけるが、1903年5月、夫八十五郎が米国スタンフォード大学留学中に客死したため、同年9月、幼子を実家に預け、九州日日新聞社(のち、熊本日日新聞社に社名変更)に入社した。熊本の女性記者第一号として活動する。
杉田 つる(すぎた つる、通称・鶴子、1882年(明治15年… 杉田 つる(すぎた つる、通称・鶴子、1882年(明治15年)12月6日 - 1957年(昭和32年)4月20日)は、兵庫県神戸市出身の小児科医、歌人。 第二次世界大戦後、国立東京第一病院二宮分院主任医を務めた。歌壇では、1920年(大正9年)「朝の光」創刊に参加し、窪田空穂、宇都野研に師事したのち「勁草」(けいそう)同人となった。 杉田玄白の5世孫に当たるが、鶴子は生涯未婚であったため、彼女が玄白の血筋を引く最後の医師になった。 杉田鶴子は、杉田玄白の4世孫で開業医だった杉田雄の一人娘として生まれた。1905年(明治38年)、大阪市の私立関西医学院に入学するが、翌年、彼女が14歳の時に父の雄が死去した。
種田 山頭火(たねだ さんとうか、本名:種田 正一(たねだ … 種田 山頭火(たねだ さんとうか、本名:種田 正一(たねだ しょういち)、1882年〈明治15年〉12月3日 - 1940年〈昭和15年〉10月11日)は、日本の自由律俳句の俳人。山頭火とだけ呼ばれることが多い。 山口県佐波郡(現在の防府市)生まれ。『層雲』の荻原井泉水門下。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝()と改名。各地を放浪しながら1万2000余りの句を詠んだ。 自由律俳句の代表として、同じ『層雲』の荻原井泉水門下の同人、尾崎放哉と並び称される。山頭火、放哉ともに酒癖によって身を持ち崩し、師である井泉水や兼崎地橙孫ら支持者の援助によって生計を立てていた。その基因は、11歳の頃の母の投身自殺にある。
野村 泊月(のむら はくげつ 1882年6月23日 - 19… 野村 泊月(のむら はくげつ 1882年6月23日 - 1961年2月13日)は、兵庫県出身の俳人。本名勇。 竹田村(現丹波市)生。酒造家西山騰三の次男で兄は西山泊雲。1897年、早稲田大学英文科卒。同年結婚して野村姓となる。中国の杭州で教職についたが、病により帰国し、1910年より大阪九条で日英学館を経営した。在学中より高浜虚子に師事。兄泊雲とともに丹波二泊と呼ばれた。1922年、田村木国、皆吉爽雨と「山茶花」を創刊、雑詠選者。1936年、「山茶花」を辞し「桐の葉」を創刊・主宰。豪放磊落な性格で酒豪であった。 「ホトトギス」停滞期の作家で、三村純也は「虚子の提唱を忠実に守りぬき、平明な写生句が実を結ぶ先駆けをなした」としている(『現代俳句大事典』)。
渡辺 水巴(わたなべ すいは、1882年(明治15年)6月1… 渡辺 水巴(わたなべ すいは、1882年(明治15年)6月16日 - 1946年(昭和21年)8月13日)は東京出身の俳人。本名は渡辺義(よし)。 東京府東京市浅草区浅草小島町(現在の東京都台東区小島)に生まれる。父は近代画家の渡辺省亭で、裕福な家庭の中で悠悠自適の少年時代を送る。育英小学校卒業を経て、1899年、日本中学(現在の日本学園中学校・高等学校)第三学年修業後退学。1900年、俳句で身を立てることを志し、翌年内藤鳴雪を訪れ門下生となる。終生俳句以外に職を求めなかった。また同居した妹つゆ女も俳人であった。 1906年、高浜虚子に師事。千鳥吟社より「俳諧草紙」を創刊(1909年「文庫」に合併)。
石上 露子(いそのかみ つゆこ、1882年(明治15年)6月… 石上 露子(いそのかみ つゆこ、1882年(明治15年)6月11日 - 1959年(昭和34年)10月8日)は、日本の作家、歌人。大阪府富田林市出身。 雅号はゆふちどり。新詩社の社友となり、「明星」等に短歌、詩、小説等を発表した。本名杉山 孝(すぎやま たか)。代表作は「小板橋」。
斎藤 茂吉(さいとう もきち、1882年(明治15年)5月1… 斎藤 茂吉(さいとう もきち、1882年(明治15年)5月14日 - 1953年(昭和28年)2月25日)は、日本の歌人、精神科医。伊藤左千夫門下であり、大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物。
細谷 雄太(ほそや ゆうた、1882年4月28日 - 195… 細谷 雄太(ほそや ゆうた、1882年4月28日 - 1950年11月20日)は、日本の俳人。医学博士。俳号は細谷不句。別号に柚翁。 1882年4月、山形県西村山郡谷地町(現・河北町)生まれ。旧制第一高等学校、東京帝國大学医科大学を卒業。 最初は定型俳句の俳人として「一高俳句会」に所属。のち新傾向俳句の河東碧梧桐に師事、また荻原井泉水とも交流する中で新傾向、自由律俳句に傾倒する。新傾向俳句機関誌『層雲』の同人となり、のちに自由律俳句誌の『海紅』創刊にも参加。古くからの碧門だったが、碧梧桐が海紅離脱後に立ち上げた『碧』や『三昧』にはついて行かず、中塚一碧楼が主宰となった海紅に残った。それでも1937年(昭和12年)1月に碧梧桐が危篤状態に陥ると真っ先に見舞いに詰めかけている。
式場 麻青(しきば ませい、1882年〈明治15年〉3月23… 式場 麻青(しきば ませい、1882年〈明治15年〉3月23日 - 1933年〈昭和8年〉4月1日)は、日本の歌人、書家、国文学者。元大阪府女子師範学校専攻科教授。本名は式場 益平(しきば ますへい)。 新潟県中蒲原郡五泉町大字五泉字指柳(現 五泉市本町)の式場幸八の長男として生まれた。 1897年(明治30年)4月に新潟中学校に入学すると、俳句の会・舟江会に入り、2年先輩の会津八一と知り合った。1901年(明治34年)7月に同級生の青木得三、安倍邦太郎、山崎良平たちと同人雑誌『若菜舟』を発行した。 1902年(明治35年)3月に新潟中学校を卒業すると、上京して二松學舍で三島中洲に漢文学を、落合直文に国文学を学んだ。
花田 比露思(はなだ ひろし、1882年3月11日 - 19… 花田 比露思(はなだ ひろし、1882年3月11日 - 1967年7月26日)は、日本の教育者・歌人。 福岡県朝倉郡安川村(現・朝倉市)に生まれる。本名・大五郎。京都帝国大学法学部を卒業し、大阪朝日新聞記者となる。調査部長兼論説委員として寺内内閣に批判的な論調を張るも、1918年米騒動にからんだ白虹事件で連帯責任を取って辞職する。 大阪朝日退職後は大正日日新聞、読売新聞などに勤めた。1924年に京都帝大に招かれ、学生監となる。 その後は和歌山高等商業学校(現・和歌山大学)校長、福岡商科大学初代学長、別府大学長、大分大学長を務めた。大分大学名誉教授となる。 歌人としては、正岡子規に傾倒し,歌誌『潮騒』(のち改題し『あけび』)を創刊・主宰した。
嶋田 青峰(しまだ せいほう、1882年3月8日 - 194… 嶋田 青峰(しまだ せいほう、1882年3月8日 - 1944年5月31日)は、日本の俳人・翻訳家・新聞記者・教員。本名は嶋田 賢平。姓の「しまだ」は「嶋田」と書くのが正式であるが、一般に「島田」の表記も用いられる。俳号の青峰は、故郷の山・青峰山(あおのみねさん、標高336m)に由来する。 三重県答志郡的矢村(現在の志摩市磯部町的矢)出身。大正時代末期に俳句雑誌『ホトトギス』において、池内たけし・篠原温亭・鈴木花蓑らと並び、活躍したが、晩年は新興俳句弾圧事件の犠牲となり、俳句史上に悲しい印象を残している。 1882年3月8日に、的矢村にて父・峰吉と母・りうの3男として生まれる。地元の的矢尋常小学校を卒業後、学を成そうと上京、旧制日本中学校(現在の日本学園中学校・高等学校)を出て1899年(明治32年)に東京専門学校予科に入学、卒業後は早稲田大学哲学科に進むが、後に英文科に転じる。
矢田 挿雲(やだ そううん、1882年(明治15年)2月9日… 矢田 挿雲(やだ そううん、1882年(明治15年)2月9日 - 1961年(昭和36年)12月13日)は、日本の小説家、俳人。本名は義勝。矢田插雲とも。石川県金沢市出身。主著に『太閤記』『江戸から東京へ』などがある。 1882年(明治15年)2月9日、石川県金沢市生まれ。幼い頃、父の転勤によって各地を転々とした。 旧制中学時代から俳句に親しむようになり、宮城県立第一中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)を卒業後に上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)に進学する。この頃に正岡子規と知り合い、俳句を学ぶようになったが、本格的に句作をするべく、中退した。 1908年(明治41年)以降、各地を転々として九州日報や芸備日日新聞にて新聞記者として勤めた。
川田 順(かわだ じゅん、1882年〈明治15年〉1月15日… 川田 順(かわだ じゅん、1882年〈明治15年〉1月15日 - 1966年〈昭和41年〉1月22日)は、日本の歌人、実業家。住友総本社常務理事。 備中松山藩士(現:岡山県高梁市出身)の漢学者・貴族院議員の川田甕江の三男。京大教養部教授(英語)の川田周雄は養子。女優・歌手の佐良直美は従曾孫。 東京市浅草区三味線堀生まれ。府立四中、一高を経て、1907年東京帝国大学法学部政治学科卒業。東京帝国大学では当初文科(文学部)に所属し小泉八雲の薫陶を受けた。小泉八雲の退任を受け「ヘルン先生のいない文科に学ぶことはない」と法科(法学部)に転科したという。なお八雲の後任教授は夏目漱石であり、後年この逸話の真偽を尋ねられて認めたうえで、「夏目なんて、あんなもん問題になりゃしない」と述べた。
松浦 為王(まつうら いおう、1882年(明治15年)1月8… 松浦 為王(まつうら いおう、1882年(明治15年)1月8日 - 1941年(昭和16年)12月15日)は、日本の俳人。本名は磐。 神奈川県横浜市生まれ。横浜商業学校を卒業後、横浜正金銀行に勤務。 「ホトゝギス」創刊のころより、高浜虚子、内藤鳴雪に師事。横浜に、ホトトギス派の句会・連友会を組織した。 1928年(昭和3年)5月、俳句雑誌「俳人」を創刊主宰。“深刻なる句、平明なる句、気迫の籠りたる句”を標榜、首唱し、杉本禾人、浜井武之助らが参加した。1936年(昭和11年)、通巻100号をもって終刊。 編著に『太祇百句評釈』、『鳴雪俳句集』がある。 画家で正岡子規門下の俳人でもあった下村為山に絵画を学び、長唄も嗜んだ。
小杉 放庵(こすぎ ほうあん、1881年(明治14年)12月… 小杉 放庵(こすぎ ほうあん、1881年(明治14年)12月30日 - 1964年(昭和39年)4月16日)は、明治・大正・昭和時代の洋画家・日本画家・歌人・随筆家。本名は国太郎、別号に未醒、放菴。 長男は東洋美術研究者の小杉一雄で、放庵の著作を多数編纂している。二男はインダストリアルデザイナーの小杉二郎。俳優の小杉義男は甥。 栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)に二荒山神社の神官・富三郎の子として生まれる。父は国学者でもあり、1893年(明治26年)から1897年(明治30年)にかけては日光町長も務めていた。 1896年(明治29年)から日光在住の洋画家・五百城文哉の内弟子となるが、五百城に無断で出奔、上京して白馬会洋画研究所に入る。
正宗 敦夫(まさむね あつお、明治14年(1881年)11月… 正宗 敦夫(まさむね あつお、明治14年(1881年)11月15日(戸籍上は11月30日) - 昭和33年(1958年)11月12日)は、日本の国文学者、歌人。 岡山県和気郡穂浪村(現・備前市穂浪)生まれ。兄に小説家で文学評論家の正宗白鳥がいる。東京を活動の拠点とした兄とは違い郷里で家業を営み、その傍ら作歌をし、国文学の研究を行った。1897年(明治30年)から井上通泰に師事し、島木赤彦、斎藤茂吉などとも親交を持った。1909年(明治42年)、歌文珍書保存会を主宰し、古書・稀少本を収集・刊行を行った。1925年(大正14年)与謝野寛・与謝野晶子夫妻と「日本古典全集」シリーズを刊行する。1927年(昭和2年)、株式会社日本古典全集刊行会を設立するが倒産する。
小沢 碧童(おざわ へきどう、1881年(明治14年)11月… 小沢 碧童(おざわ へきどう、1881年(明治14年)11月14日 - 1941年(昭和16年)11月17日)は、日本の俳人。本名は清太郎、のちに西徳。忠兵衛とも。東京都出身。 1881年(明治14年)に日本橋区(現在の中央区)本船町で生まれる。生家は魚問屋を営んでいたが、8歳で祖父の元に養子に出された。祖父は「西徳めぐすり」という目薬を作って生計を立てていた。当初は正岡子規門下の松下紫人から定形俳句を学んでいたが、やがて河東碧梧桐の新傾向俳句に傾倒し、前述の目薬を碧梧桐が買いに来た縁で、碧梧桐の主宰する『海紅』に参加、自由律俳句を詠むようになる。明治37年、上根岸町(現在の台東区根岸)の自宅を骨立舎と命名して俳道場も開いた。
松平 濱子(まつだいら はまこ、1881年11月13日 - … 松平 濱子(まつだいら はまこ、1881年11月13日 - 1967年3月16日)は、日本の教育者、歌人。学校法人関東学園の創設者である。旧姓は細谷。 群馬県佐波郡伊与久村(佐波郡境町を経て現伊勢崎市)に生まれる。日本女子大学校(当時は専門学校)に進学し、その最初の卒業生となった。東京帝国大学が聴講生として女性の受講者を認めた際に、その最初のひとり(国文学専攻)ともなっている。 1924年、現在の東京都新宿区西新宿(当時は淀橋町)に「関東高等女学校」(のちの関東国際高等学校)を開設し、これが関東学園の始まりとなる。太平洋戦争の空襲で校舎を失ったため、1946年に館林市で「関東女子専門学校」(関東短期大学の前身)を開校した。
鈴木花蓑(すずき はなみの、1881年(明治14年)8月15… 鈴木花蓑(すずき はなみの、1881年(明治14年)8月15日または12月1日 - 1942年(昭和18年)11月6日)は、愛知県出身の俳人、大審院書記。本名は鈴木喜一郎(きいちろう)。 愛知県知多郡半田町(現半田市)生まれ。半田裁判所で書記見習いをしていた時に「ホトトギス」の存在を知り投句。1909年には名古屋裁判所に移り、1915年に上京、大審院書記となる。この年初めて「ホトトギス」で入選。また東大俳句会を指導し、後の水原秋桜子や高野素十らの4S時代を築く礎となった。晩年は「あをさ」「百舌鳥」などの俳誌を創刊するも、戦時中の紙不足に巻き込まれ廃刊を余儀なくされる。60歳を迎えて日本俳句作家協会常任理事となるも、間も無くして病に倒れた。
会津 八一(あいづ やいち、旧字体: 會津 八一、1881年… 会津 八一(あいづ やいち、旧字体: 會津 八一、1881年〈明治14年〉8月1日 - 1956年〈昭和31年〉11月21日)は、日本の歌人・美術史家・書家。雅号は、秋艸道人・渾斎。1951年に新潟市名誉市民。 早大英文科卒。奈良の仏教美術にひかれ、ひらがな書きの万葉調短歌を詠み、『南京新唱』(1924年)を刊行。のち上京、早大教授となり、「東洋美術史」等を講じた。晩年は新潟市に戻り、書に専念。歌集に『鹿鳴集』(1940年)など。 新潟県新潟市古町通五番町に生まれる。中学生の頃より『万葉集』や良寛の歌に親しんだ。1900年新潟尋常中学校(現新潟県立新潟高等学校)卒業後、東京専門学校(早稲田大学の前身校)に入学し、坪内逍遙や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講した。
大須賀 乙字(おおすが おつじ、1881年7月29日 - 1… 大須賀 乙字(おおすが おつじ、1881年7月29日 - 1920年1月20日)は、日本の俳人・俳論家。福島県相馬郡中村町(現在の相馬市)生まれ。本名・績(いさお)。 祖父は儒学者の神林復所で父は漢学者で漢詩人の大須賀筠軒。福島尋常中学校(現在の福島県立安積高等学校)、宮城県第一中学校(現在の宮城県仙台第一高等学校)から第二高等学校(現在の東北大学)を経て東京帝国大学文科大学国文科卒業。卒業後は教員として中学、高等女学校で教えたのち、若くして東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の教授に就任した。東大卒で学者一族の家系という毛並みの良さと文才を評価され、早くから新傾向俳句の旗手として嘱望された。『海紅』の河東碧梧桐に師事、同じ旧制二高出身(ただし碧梧桐は中退)で才能も評価された乙字に対し碧梧桐の期待は高かったが、海紅堂事件に端を発する海紅同人同士の内部対立により1915年5月に離脱。
正富 汪洋(まさとみ おうよう、1881年〈明治14年〉2月… 正富 汪洋(まさとみ おうよう、1881年〈明治14年〉2月20日 - 1967年〈昭和42年〉8月14日)は、日本の詩人、歌人。 岡山県邑久郡本庄村(現:瀬戸内市)生まれ。哲学館大学(現:東洋大学)教育部卒業。 尾上柴舟・若山牧水ら共に「車前草社」を結成している。清水橘村との共著の『夏ひさし』、『小鼓』がある。大正7年『新進詩人』を創刊している。戦後、日夏耿之介・西條八十と共に日本詩人クラブを結成。 妻は与謝野鉄幹の元妻の林滝野。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
石原 純(いしわら あつし(じゅん)、1881年1月15日 … 石原 純(いしわら あつし(じゅん)、1881年1月15日 - 1947年1月19日)は、日本の理論物理学者・科学啓蒙家・歌人。弟は石原謙。歌人としての名義は石原 阿都志(あつし)。歌人の原阿佐緒との不倫が報じられ、東北帝国大学を辞職したことでも知られる。 東京府出身。日本基督教会本郷教会牧師石原量と、ちせの長男として生まれる。キリスト教学者・石原謙は弟。郁文館中学、一高を経て、1906年7月 東京帝国大学理科大学を卒業し、同学大学院で長岡半太郎に学ぶ。1908年4月に陸軍砲工学校教授、1911年5月に東北帝国大学助教授となる。1912年3月から1914年5月にかけてヨーロッパに留学し、アルノルト・ゾンマーフェルト、マックス・プランク、アルベルト・アインシュタインらのもとで学ぶ。
伊波 月城(いは げつじょう)として知られた、伊波 普成(い… 伊波 月城(いは げつじょう)として知られた、伊波 普成(いは ふせい、1880年(明治13年)12月27日 - 1945年(昭和20年)5月30日)は、沖縄県のジャーナリスト、琉歌の歌人。「沖縄学の父」と称される伊波普猷の弟。 1880年(明治13年)12月27日に、当時の那覇西村(後の那覇市西)で、父・伊波普済、母・マツルの間に生まれた。 兄・普猷とともに、沖縄県尋常中学校(後の沖縄県立第一中学校などを経て、沖縄県立首里高等学校に系譜が繋がる)に学び、1895年(明治28年)から1896年(明治29年)にかけて、普猷ら上級生が主導した尋常中学校ストライキ事件の際には、下級生としてこれに加わったが、最終的に学校に残り、1899年(明治32年)に卒業した。
松田 月嶺(まつだ げつれい、1880年12月10日 - 1… 松田 月嶺(まつだ げつれい、1880年12月10日 - 1919年1月22日)は、日本の俳人。 山形県谷地町生まれ。1907年曹洞宗大学(現 駒澤大学)、1911年京都帝大文学部卒業。別名・通称、湛堂。山形県谷地町の定林寺巨勢寂湛によって得度。1911年、母校曹洞宗大学講師となる。俳句は大須賀乙字に学び、作家として特異な地歩を占めていた。著書に名和三幹竹編「月嶺句集」がある。大正8年1月22日逝去、39歳。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
松本 彦次郎(まつもと ひこじろう、1880年12月5日 -… 松本 彦次郎(まつもと ひこじろう、1880年12月5日 - 1958年1月14日)は、日本の歴史学者、俳人。東京文理科大学名誉教授、野辺地町名誉町民。「金鶏城」と号した。 青森県上北郡野辺地村(後の野辺地町)に生まれる。1903年、第一高等学校を卒業し、京都帝国大学法科に進んだが、1904年に東京帝国大学文科大学史学科に入学。1908年に卒業 卒業後は慶應義塾普通部の教員となり、1919年に第六高等学校教授となった。1915年にはシカゴ大学への留学を経験する。1930年、東京文理科大学助教授となる。1931年に教授に昇進し、国史学教室主任として後進を指導した。1943年に東京文理科大学を定年退職し、1944年に同大学名誉教授となった。
伊藤 平治郎(いとう へいじろう、1880年(明治13年)5… 伊藤 平治郎(いとう へいじろう、1880年(明治13年)5月18日 - 1941年(昭和16年)1月)は、三重県三重郡富洲原町(現在の四日市市富洲原地区)富田一色出身の政治家・実業家・歌人。
茅野 雅子(ちの まさこ、1880年5月6日 - 1946年… 茅野 雅子(ちの まさこ、1880年5月6日 - 1946年9月2日、旧姓:増田)は、大阪市出身の歌人である。夫はドイツ文学者・詩人の茅野蕭々。本名、まさ。 1880年、大阪市道修町の「増田順血湯」本舗で知られた薬種問屋の次女として生まれる。相愛高等女学校中途退学。1900年与謝野鉄幹が主宰する「新詩社」に加入、「明星」へ投稿。1904年上京して日本女子大学に入学。1905年、与謝野晶子、山川登美子と3人で歌集「恋衣」を刊行(増田雅子名義)、明星派3才媛として雅子の名を世に広めた。晶子が「しら萩」、登美子が「しら百合」と呼ばれたのに対し、雅子は「しら梅の君」という愛称で呼ばれた。鉄幹には「明星」の清怨派と評された。
正田 きぬ(しょうだ きぬ、1880年〈明治13年〉2月12… 正田 きぬ(しょうだ きぬ、1880年〈明治13年〉2月12日 - 1970年〈昭和45年〉5月9日)は、日本の歌人。元日清製粉社長である正田貞一郎の妻。父は5代・正田文右衛門。 上皇后美智子の祖母で、今上天皇の曽祖母にあたる。 1880年(明治13年)、5代・正田文右衛門の長女として生まれる。弟に敏一郎(のち6代文右衛門)がいる。 1897年(明治30年)12月8日、後の日清製粉社長となる正田貞一郎と結婚。夫となった貞一郎の父(正田作次郎)はきぬの祖父(4代文右衛門)の弟で、つまり夫は父の従弟にあたる。貞一郎との間に5男5女を儲ける。なかでも三男の英三郎は、長女美智子が民間から皇室へと初めて嫁いだことで知られる。
青木 月斗(あおき げっと、1879年(明治12年)11月2… 青木 月斗(あおき げっと、1879年(明治12年)11月20日 - 1949年(昭和24年)3月17日)は、日本の俳人。正岡子規門下。本名は青木 新護。 大阪市東区(現・大阪市中央区)船場にある神薬快通丸・天眼水本舖の「青木薬房」に生まれる。文学的素地としては、文芸好きな母方の血筋を受け、小学校時代の教師に文学家の斎藤黙蛙、友人に画家の西山翠嶂、赤松麟作、俳人の山中北渚、松村鬼史らがいた。1889年に父が死没し、1894年に道修町へ転居して大阪薬学校(後の大阪薬学専門学校)に入学するも中退。中退後は家業を継いだ。 1897年、國民新聞へ投句を初める。初号は月兎(げっと)。1898年に友人と三日月会を発足。
山川登美子(やまかわ とみこ、1879年(明治12年)7月1… 山川登美子(やまかわ とみこ、1879年(明治12年)7月19日 - 1909年(明治42年)4月15日)は、滋賀県遠敷郡竹原村(現福井県小浜市)出身の歌人。本名・とみ。弟は小説家の山川亮。 1879年(明治12年)7月19日、滋賀県遠敷郡竹原村(現福井県小浜市)に山川貞蔵、ゑいの4女として生まれる。生家は小浜藩の上級藩士の旧家筋であった。1895年(明治28年)、大阪のミッションスクール梅花女学校に入学、1897年(明治30年)同校を卒業。同年12月、『新声』に短歌を初めて投稿し入選する。 1900年(明治33年)4月、母校の研究生となり英語を専修。同年6月、与謝野鉄幹が創った東京新詩社『明星』の社友となり、8月には鉄幹と与謝野晶子(旧姓・鳳)に出会う。
斎藤 瀏(さいとう りゅう、1879年(明治12年)4月16… 斎藤 瀏(さいとう りゅう、1879年(明治12年)4月16日 - 1953年(昭和28年)7月5日)は、日本の陸軍軍人、歌人。最終階級は陸軍少将。長女の斎藤史は同じく歌人。 長野県北安曇郡七貴村(後の安曇野市)に旧松本藩士・三宅政明の四男として生まれる。既に帰農していたため、士族籍ではなく平民籍であった。貧しかったため幼少期には丁稚奉公に出されている。旧制松本中学(後の長野県松本深志高等学校)を経て1901年に陸軍士官学校(12期)を卒業。歩兵少尉に任官した。同期に杉山元、小磯國昭、香椎浩平らがいる。旧制中学時代に医師で漢学者の斎藤順の養子となった。 1903年中尉に昇進し、1904年に勃発した日露戦争に従軍。
長塚 節(ながつか たかし、1879年(明治12年)4月3日… 長塚 節(ながつか たかし、1879年(明治12年)4月3日 - 1915年(大正4年)2月8日)は、日本の歌人、小説家。 茨城県結城郡に生まれた。病弱で中学を中退、療養生活の中で短歌に親しんだ。正岡子規の『歌よみに与ふる書』に深い感銘を受け、1900年に入門。ひたすら子規の写生の風を摂取、子規短歌の最も正当な継承者と言われた。 「馬酔木」「アララギ」の創刊に参画。晩年には、透徹した清澄な調べをめざす「冴え」の説を唱えた。 1879年(明治12年)4月3日、茨城県岡田郡国生村(現在の常総市国生<こっしょう>)の豪農の家に生まれた。1893年(明治26年)4月、茨城中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)に首席で入学し、4年進級までしたが脳神経衰弱を発症して学業継続困難となる。
北嶋 南五(きたじま なんご、1879年3月12日 - 1… 北嶋 南五(きたじま なんご、1879年3月12日 - 1951年4月2日)は、俳人である。五城目町長などの公職も歴任した。 秋田県五十目村(後の五城目町)の役人であった父孫吉の長男として生まれる。本名は夘一郎(ういちろう)。父の孫吉はのちに村の戸長になり、1891年からは2代目の村長、町制施行で町になった1896年からは初代の町長になった。秋田県会議員も勤めている。 1886年に五十目小学校(のちに五十目尋常小学校)に入学した南五は、卒業後、秋田市の八橋農学校に進学、さらに東京の東京法学校(後の法政大学)に進んだ。 東京時代の南五は、同郷の石井露月の知己を得て俳句の世界に親しみ、正岡子規の主宰する日本派の句会に出入りしているうちに河東碧梧桐とも昵懇の仲になった。
広江八重桜(ひろえやえざくら、1879年(明治12年)3月1… 広江八重桜(ひろえやえざくら、1879年(明治12年)3月11日 - 1945年(昭和20年)10月8日)は、日本の俳人。 島根県能義郡赤江村大字中津(現・安来市東中津町)に生まれる。 本名・直治。蚕豆庵(さんとうあん)と号した。当時の大地主である広江忠四郎の長男。夫人コノとの間に二男二女がある。晩年に村内に郵便局を開設したが、すべて次男まかせであったという。 俳句は中学二年頃からはじめ、大谷繞石の指導する碧雲会に参加、正岡子規選の『日本』俳壇や『ホトトギス』に投句。非常な多作家で、子規は「八重桜を以って第一の多作者となす。一季優に千句を下らざるもの数年」と評した。 のち河東碧梧桐に師事、新傾向俳句を詠み「海紅」の選者も務めたが、中塚一碧楼の義弟、中塚響也と「渚」を創刊後は定型に戻った。
若月 紫蘭(わかつき しらん、1879年2月10日 - 19… 若月 紫蘭(わかつき しらん、1879年2月10日 - 1962年7月22日)は、日本の劇作家、演劇研究家、翻訳家、歌人。本名の若月 保治での著作も多い。 山口高等学校を経て、1903年東京帝国大学卒業。兵庫県洲本中学校教諭、石川県七尾中学校校長代理ののち、1908年「万朝報」の記者となり、1921年「人と芸術」を創刊。1922年万朝報を辞職、新劇研究所を設立した。 千代田高等女学校教諭、1928年東洋大学教授として国文学を教え、1933年千代田女子専門学校および帝国女子専門学校教授を兼任。紫蘭の号を捨てて人形浄瑠璃の研究に専念した。 1945年戦災に遭い帰郷、1950年より山口大学講師。メーテルリンクの『青い鳥』を翻訳した。
臼田 亞浪(うすだ あろう、1879年(明治12年)2月1日… 臼田 亞浪(うすだ あろう、1879年(明治12年)2月1日 - 1951年(昭和26年)11月11日)は、日本の俳人。本名は臼田卯一郎(ういちろう)。 長野県北佐久郡小諸町(現・小諸市)に生まれる。小諸義塾に学び、1904年和仏法律学校(現法政大学)卒業。在学中に短歌を与謝野鉄幹に、俳句を高浜虚子に学ぶ。電報通信社記者、横浜貿易新聞編集長を経てやまと新聞に入社。 大正4年(1915年)大須賀乙字とともに俳誌『石楠』を創刊して、俳壇に登場し、信濃毎日新聞等で撰者を務めた。恩師高浜虚子の『ホトトギス』、河東碧梧桐の新傾向俳句を批判し、俳壇革正を目指した。松尾芭蕉、上島鬼貫を慕い、自然の中にこそ真の俳句があると唱え自然感のある民族詩としての句作を目指した。
新免一五坊(しんめん いちごぼう、1879年(明治12年) … 新免一五坊(しんめん いちごぼう、1879年(明治12年) - 1941年(昭和16年))は、日本の俳人・教員。本名は睦之助。後に藤木姓を名乗る。 1879年(明治12年)、岡山県吉野郡大野村(現・美作市)川上で父和太郎、母こまのの二男として代々庄屋や酒造家だった旧家に生まれ、睦之助と名付けられる。俳号の一五坊は睦のムツを6に掛け、一と五に分けたと推測される。1892年(明治25年)13歳で上京して神田中学院、翌26年国語伝習所、翌27年哲学館予科を経て明治28年小石川哲学館本科教育部に入学後18歳で卒業。1898年(明治31年)の夏、一五坊は根岸(東京都台東区根岸)の子規庵を訪れ正岡子規の門人となり、句会や歌会に参加する。
与謝野 晶子(よさの あきこ、正字:與謝野 晶子、1878年… 与謝野 晶子(よさの あきこ、正字:與謝野 晶子、1878年〈明治11年〉12月7日 - 1942年〈昭和17年〉5月29日)は、日本の歌人、作家、思想家。本名は与謝野 志やう(よさの しょう)。旧姓は鳳(ほうまたはおおとり)。ペンネームの「晶子」の「晶」は、本名から取ったもの。夫は、同じく歌人の与謝野鉄幹。 雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となった。 鳳志やうは、堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町東一丁・甲斐町西一丁)で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として生まれた。家業は没落しかけており、3人目の女の子であったため両親から疎まれて育つ。
逢坂 藍水(おうさか らんすい、1878年〈明治11年〉11… 逢坂 藍水(おうさか らんすい、1878年〈明治11年〉11月13日 - 1949年〈昭和24年〉2月11日)は、日本の医師、歌人、政治家。本名は逢坂 佐馬之助(おうさか さまのすけ)。他の筆名に逢坂 蘭翠がある。 1878年11月13日、徳島県美馬郡半田町(現・つるぎ町)に、熊八の三男として生まれる。1879年10月20日、熊八が病死し、それ以降は伯父の真佐八を「父」と呼ぶ。 1883年4月、半田口山小学校初等科(後の半田尋常小学校)に入学する。1888年3月、半田尋常小学校を卒業する。同年4月、半田簡易小学校において1年間の補習を受ける。1889年5月から1890年4月まで、半田簡易小学校の補助教員に、1895年1月から4月まで、久保尋常小学校の補助教員に、同年5月から12月まで、半田尋常高等小学校の補助教員になる。
岡本 癖三酔(おかもと へきさんすい、明治11年〈1878年… 岡本 癖三酔(おかもと へきさんすい、明治11年〈1878年〉9月16日 - 昭和17年〈1942年〉1月12日)は、戦前日本の俳人、画家。有季自由律を代表する俳人で、俳画の先覚者としても非常に評価が高い。本名は簾太郎、別号に笛声、碧山水など。 父親は小田原藩士の岡本貞烋で、家庭は厳格を極めた。父の赴任先である群馬県高崎で生まれる。出生地は高崎とも前橋とも。幼稚舎から慶應義塾普通部に進み、慶應義塾大学を卒業。日本画を川端玉章に師事。 芸術としての俳句は正岡子規・河東碧梧桐に至って完成されたとの観点から、慶大在学中から正岡子規に師事。俳句、俳文、連句を学び、日本派、秋声会系の俳人として出発し、26歳の若さで第一期黄金時代の『ホトトギス』、『時事新報』の俳句選者を務め、松根東洋城、高浜虚子らと共に「俳諧散心(「日盛会」とも称した)」を唱える。
平出 修(ひらいで しゅう、1878年〈明治11年〉4月3日… 平出 修(ひらいで しゅう、1878年〈明治11年〉4月3日 - 1914年〈大正3年〉3月17日)は、日本の小説家・作家・歌人・弁護士。幸徳事件(大逆事件)で弁護人をつとめた。 新潟県中蒲原郡石山村(現・新潟県新潟市)に庄屋・児玉家の八男として生まれる。幼少期は虚弱だったが、小学校では記憶力に優れ、1892年に亀田町高等小学校を卒業する。1894年、旧制中学校進学を前提に新潟市の質店の養子となったが、進学の約束が果たされなかったことで1895年10月に縁組みを解消して、亀田町高等小学校の代用教員となる。翌年小学校準教員検定試験に合格した。 文芸に興味を抱いた平出は、1897年ごろから活動を始め、短歌・俳句を制作した。
松根 東洋城(まつね とうようじょう、1878年〈明治11年… 松根 東洋城(まつね とうようじょう、1878年〈明治11年〉2月25日 - 1964年〈昭和39年〉10月28日)は、俳人。本名豊次郎。位階は従四位。夏目漱石の門下生。 松根権六(宇和島藩城代家老・松根図書の長男)の次男として東京の築地に生まれた。母は宇和島藩主伊達宗城の三女敏子。弟に「電力界のフィクサー」とも呼ばれた実業家の松根宗一(1897 - 1987)がいる。 愛媛県尋常中学校(現松山東高等学校)時代に同校に教員として赴任していた夏目金之助(漱石)に英語を学んだことから、卒業後も交流を持ち続け俳句の教えを受けて終生の師と仰いだ。旧制一高、東京帝国大学から転じて京都帝国大学仏法科卒業。1906年(明治39年)宮内省に入り式部官、書記官、会計審査官等を歴任、1919年(大正8年)退官。
片山 広子(片山 廣子、かたやま ひろこ、1878年〈明治1… 片山 広子(片山 廣子、かたやま ひろこ、1878年〈明治11年〉2月10日 - 1957年〈昭和32年〉3月19日)は、日本の歌人、随筆家、アイルランド文学翻訳家(松村みね子名義)。 外交官・吉田二郎の長女として東京麻布で生まれる。妹は次子、弟は精一と東作。東洋英和女学校卒。佐佐木信綱に師事して歌人として活動。 短歌の作風は、「近代短歌史上類例の静謐にして孤独、高貴にして率直誠実な霊魂の響き」(藤田福夫)と評されているが、生前の明治・大正期の画壇では正当に評価されなかった。 また、松村みね子の筆名で、ジョン・ミリントン・シング、レディー・グレゴリー、W・B・イェーツ等のアイルランド文学を中心に翻訳も行う。
片山 広子(片山 廣子、かたやま ひろこ、1878年(明治1… 片山 広子(片山 廣子、かたやま ひろこ、1878年(明治11年)2月10日 - 1957年(昭和32年)3月19日)は、日本の歌人、随筆家、アイルランド文学翻訳家(松村みね子名義)。
中根 貞彦(なかね さだひこ、1878年(明治11年)2月4… 中根 貞彦(なかね さだひこ、1878年(明治11年)2月4日 - 1964年(昭和39年)1月24日)は、日本の実業家、政治家、歌人。三和銀行頭取、貴族院勅選議員。旧姓・片切、号・九峯。 大分県海部郡二王座村(のち北海部郡臼杵町を経て現臼杵市)に生まれた。大分士族・片切八三郎の三男。幼くして両親と死別し、佐伯の中根祚胤(百九銀行頭取)の養子となる。1901年(明治34年)第五高等学校大学予科第一部(法科)を卒業した。1905年(明治38年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 日本銀行に入行する。以後、同行ロンドン代理店監督役、同国庫局長、同大阪支店長、同理事などを歴任。1933年(昭和8年)に三十四銀行・山口銀行・鴻池銀行の3行が合併して三和銀行が創立され初代頭取に就任し、1945年(昭和20年)まで在任した。
鈴木 孫彦(すずき まごひこ、1878年1月5日 - 193… 鈴木 孫彦(すずき まごひこ、1878年1月5日 - 1930年4月25日)は、日本の会計学者、俳人。初代専任京城高等商業学校校長。 静岡県磐田郡向笠村生まれ。1899年高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1904年同校専攻科卒業。1905年熊本県立商業学校教諭。1907年同校長。 1909年山口高等商業学校教授。1917年からイギリス、アメリカ合衆国、フランスに留学し、帰国後、1921年から京城高等商業学校校長を務め、朝鮮総督府の意向に反し、朝鮮民族美術館設立を支持した。 1927年叙従四位。1928年病気のため辞任し、山口市後河原の自宅で療養していたが、1930年に死去した。俳人としても活動し、俳号は芒生。
横瀬 夜雨(よこせ やう、1878年〈明治11年〉1月1日 … 横瀬 夜雨(よこせ やう、1878年〈明治11年〉1月1日 - 1934年〈昭和9年〉2月14日)は、日本の詩人、歌人。本名は虎寿()[要出典]。別号に利根丸、宝湖、処寿()[要出典]。 茨城県真壁郡横根村(現・下妻市横根)の名家に生まれる。3歳の時、くる病に冒されて歩行の自由を失い、生涯苦しんだ。1895年、『文庫』に「神も仏も」を発表し、河井酔茗らに認められる。1898年には民謡調の詩「お才」を発表し、この頃から「筑波嶺詩人」と呼ばれるようになる。1905年、詩集『花守』を刊行して詩人として有名になる一方で、この時期からくる病が悪化して歩行がほぼ困難となる。1907年には河井酔茗主宰の詩草社に参加し[要出典]、1908年から『女子文壇』の選者を務めた。
厨川 千江(くりやがわ せんこう、1878年 - 1928年… 厨川 千江(くりやがわ せんこう、1878年 - 1928年)は、日本の俳人、教育者。本名、厨川肇。東京帝国大学(現在の東京大学)卒業。旧制千葉県立佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)校長、山口県立山口図書館初代館長を歴任。 島根県浜田市出身。旧制島根県立第二中学校(現在の島根県立浜田高等学校)に在学中の頃から俳句を習う。熊本県の旧制第五高等学校(現在の熊本大学教養部)在学時代は、当時、旧制五高で教鞭を執っていた夏目漱石を主宰とした俳句結社紫溟吟社(しめいぎんしゃ)を寺田寅彦、蒲生紫川らとおこし、夏目漱石から俳句を学ぶ。五高時代、千江が髪を切って夏目漱石の自宅を訪れた事があったが、散髪後のさっぱりとした頭を見た漱石が「秋風や今そりたての頭より」という句を即興で詠み、とても感動したというエピソードがある。