金 益俊(キム・イクチュン、朝鮮語: 김익준/金益俊、191… 金 益俊(キム・イクチュン、朝鮮語: 김익준/金益俊、1916年1月16日 - 1984年6月18日)は、大韓民国の警察官僚、ジャーナリスト、大学教授、政治家。江原道警察局長、第7・9代韓国国会議員を歴任した。 日本統治時代の平安北道宣川郡出身。培材中学校(朝鮮語版)を経て、1943年東洋大学専門部拓殖経済科卒。日本メートン(ペートン)・カレッジにて政治学博士取得。学徒義勇軍を組織し、隊長として出戦した。高麗大学校法科大学助教授・教授、ソウル大学校法科大学助教授・教授、治安局教育課長、警察専門学校校長、第8代江原道警察局長(1950年8月12日~1951年7月27日)、漢城日報論説委員、国家再建最高会議企画委員、培材中高校後援会長、東萊中央傷痍軍人静養院長、大韓陸上競技連盟理事長、世界大学奉仕会(英語版)韓国委員会理事、民主共和党中央常任委員・中央常任委員会宣伝分科委員長・ソウル市龍山区党委員長(1963年より)・院内副総務、亜細亜放送局理事、学生陸上競技連盟会長、極東放送理事、国際青少年指導委員会韓国東部理事長を務めた。
韓 泰淵(ハン・テヨン、朝鮮語: 한태연、1916年1月5日… 韓 泰淵(ハン・テヨン、朝鮮語: 한태연、1916年1月5日 - 2010年9月20日)は、大韓民国の法学者、大学教授、政治家、ジャーナリスト。第6・9・10代韓国国会議員。 本貫は清州韓氏。号は栗山(ユルサン、율산)。キリスト教徒。 咸鏡南道永興郡出身。早稲田大学法学部卒。高等文官試験行政科合格。成均館大学校、ソウル大学校法科大学、東国大学校、漢陽大学校、東亜大学校大学院で教授を務めたほか、ソウル新聞主筆、韓国憲法学会会長などを務めた。1963年の第6代総選挙で初当選以降、1973年から1980年までは維新政友会所属の第9・10代国会議員を務めた。1972年の朴正煕大統領時代には葛奉根らと共に維新憲法の制定に参加した。
金 南中(キム・ナムジュン、朝鮮語: 김남중、1915年10… 金 南中(キム・ナムジュン、朝鮮語: 김남중、1915年10月8日または1917年10月8日 - 1982年3月30日または1987年3月31日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、随筆家、コラムニスト、実業家、政治家。全南日報(現・光州日報)会長、第5代韓国国会議員(参議員)を歴任した。 本貫は光山金氏、号は南鳳(ナムボン、남봉)。 日本統治時代の全羅南道光州郡(現・光州広域市)に富農の次男として生まれた。1930年光州公立普通学校(現・光州瑞石初等学校)卒、1942年専修大学専門部中退あるいは卒業。同年から報知新聞(現・スポーツ報知)記者を務めた後、翌1943年に帰郷し、全南新報編集局社会部長・主幹、湖南新聞主筆・編集局長を経て朝鮮戦争中の1951年に全南日報を創刊し、発行者・主筆・社長・会長(~1980年)を務めた。
宮崎 吉政(みやざき よしまさ、1915年8月8日 - 20… 宮崎 吉政(みやざき よしまさ、1915年8月8日 - 2006年3月3日)は、日本のジャーナリスト、政治評論家。
具 喆会(ク・チョルェ、朝鮮語: 구철회/具喆會、1915年… 具 喆会(ク・チョルェ、朝鮮語: 구철회/具喆會、1915年7月26日または1918年 - 1965年1月27日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。第4代韓国国会議員。本貫は綾城具氏。 日本統治時代の京畿道水原出身。本籍地はソウル。中央大学予科、立教大学文学部卒。日本統治時代には抗日闘争により3年間投獄された。解放後は漢城日報政治経済部長、民衆日報幹部、水原新聞社社長、政界春秋社社長、国際ニュース社社長、自由新聞社常務取締役を務めた。政界入りした後は民主党中央委員・宣伝部次長・龍仁郡党委員長・京畿道党副委員長を歴任し、1958年の第4代総選挙で民主党の候補として龍仁郡選挙区から当選したが、後は民主党を離党し自由党に移籍した。
秦 正流(はた しょうりゅう/まさる、1915年4月15日 … 秦 正流(はた しょうりゅう/まさる、1915年4月15日 - 1994年7月9日)は、日本のジャーナリスト。滋賀県出身。朝日新聞社専務取締役、日本ジャーナリスト会議代表委員を務めた。 浄土真宗本派本願寺派至心山円徳寺住職の父諦観と母いくの次男として生まれる。1936年3月、大阪外国語学校(現大阪大学外国語学部)露語部を卒業する。 同1936年8月、大阪朝日新聞社に準試用社員として入社し、奈良通信部に配属される。1937年1月、兵役に召集され、金沢の騎兵第9連隊に入営のため朝日新聞社を休職。満州ハルビンに配属されて初年兵の教育を受け、幹部候補生に採用されて6月に一等兵として帰国。翌1938年1月千葉県習志野の陸軍騎兵学校に入校、7月少尉任官、騎兵第9連隊が駐屯中の中国・蘇州で原隊復帰。
執印テル(しゅういん てる、1915年(大正4年)3月10日… 執印テル(しゅういん てる、1915年(大正4年)3月10日 - 2007年(平成19年)9月25日)は、昭和時代の日本のジャーナリスト、政治家。出水市出身(旧高尾野町・執印氏9人兄弟の7番目・次女)。
池田 雅雄(いけだ まさお、1915年1月19日 - 198… 池田 雅雄(いけだ まさお、1915年1月19日 - 1988年11月27日)は、日本のジャーナリスト、相撲評論家である。 長年にわたり、ベースボール・マガジン社の雑誌『相撲』の編集者・顧問として幅広く相撲研究に取り組み、多くの記事やエッセイを著した。本名での執筆とともに、〈国立浪史〉〈葛飾太郎〉のペンネームもしばしば使用した。奈良県桜井市出雲名誉区民、実兄はベースボール・マガジン社創設者の池田恒雄、息子は早稲田大学教授の池田雅之、姪はエッセイストの工藤美代子、姪は池田晶子、從孫は産経新聞記者の猪谷千香。 東京市本所区南二葉町(現在の墨田区亀沢)出身。「相撲の神様」として有名な野見宿禰神社の近くで育ち、少年時代は本場所前に相撲部屋の親方に連れられて必勝祈願に参詣するのを楽しみにしていたという。
むの たけじ(本名:武野 武治、1915年1月2日 - 20… むの たけじ(本名:武野 武治、1915年1月2日 - 2016年8月21日)は、日本のジャーナリスト。太平洋戦争従軍記者としての経験・反省から、戦後に反戦・平和を訴え続けた。 新聞『たいまつ』を創刊。農村・農業の進路、出稼ぎ問題、農民運動の在り方、地方文化やサークル活動について追求し、「自分の言葉に自分の全体重をかける」記事を書き続けた。 秋田県仙北郡六郷町(現:美郷町)の小作農民の家に生まれる。県立横手中学校(現:秋田県立横手高等学校)で教師を務めていた石坂洋次郎 に、国語・作文・修身を教わった。1932年に東京外国語学校(現:東京外国語大学)西語部文科(文学)に入学。親の仕送りで学生生活を続けることが難しくなったので、1学年を終わったところで外務省の書記生になろうとしたが「満18歳では若すぎる」との理由で願書は却下された。
張 俊河(チャン・ジュナ、장준하、1915年または1918年… 張 俊河(チャン・ジュナ、장준하、1915年または1918年8月27日 - 1975年8月17日)は、大韓民国の政治家、官僚、ジャーナリスト、独立運動家、社会運動家、実業家。雑誌『思想界(朝鮮語版)』を創刊し、朴正煕政権下での言論面での抵抗に寄与した。日本名は張安俊河。 日本統治時代の朝鮮の平安北道朔州郡に牧師の長男として生まれる。父親が独立運動に関わっていたことから各地を転々とし、中学卒業後に日本へ留学。東洋大学予科を経て、長老派の日本神学校を卒業する。1944年1月20日に学徒出陣によって日本軍に入隊、創氏改名では「張安俊河」と名乗る。平壌駐屯の歩兵第41連隊補充隊(朝鮮第42部隊)で訓練を終えたのち2月から中国戦線に参加し、江蘇省徐州の第65師団輜重隊(専7991部隊)を経て同地の独立歩兵第58大隊(長:柄田節大佐)に配属されたが、同年7月7日に尹慶彬(朝鮮語版)、洪錫勳、金永祿とともに脱走、安徽省阜陽で別の部隊から先に脱走した学徒兵の金俊燁(朝鮮語版)と合流した後、中国中央軍官学校臨泉分校の朝鮮光復軍幹部訓練班に入隊し、国民政府軍へ入隊して準士官に任じられ、1945年1月31日には重慶に赴いて、大韓民国臨時政府の光復軍に加わり金九の秘書となった。
滝沢 一(たきざわ おさむ、1914年11月10日 - 19… 滝沢 一(たきざわ おさむ、1914年11月10日 - 1993年7月11日)は、日本の映画評論家、ジャーナリスト、脚本家である。株式会社通信合同社代表。中川信夫との共同のペンネームは猿沢 丈介(さるさわ じょうすけ)。リアルタイムで作品を追い続けた、伊藤大輔、山中貞雄研究の第一人者である。 1914年(大正3年)、大阪市に生まれる。大阪府立市岡中学校(現・大阪府立市岡高等学校)卒業。 1933年(昭和8年)、マキノ・プロダクションの元宣伝部長・都村健らとともに、京都に合同通信社を興す。同社がのちに株式会社通信合同社となる。 1935年(昭和10年)、前年に市川右太衛門プロダクションに入社した、9歳上の友人・中川信夫と共同で脚本を執筆、『恥を知る者』『御用唄鼠小僧』を中川が監督した。
金 正植(キム・ジョンシク、朝鮮語: 김정식、1914年また… 金 正植(キム・ジョンシク、朝鮮語: 김정식、1914年または1915年 - 1989年11月26日)は、大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。第2代韓国国会議員。本貫は清道金氏(朝鮮語版)。 日本統治時代の慶尚北道栄州郡出身。大阪薬学校(現・大阪大学大学院薬学研究科・薬学部)卒。日本で製薬業を営んだほか、新聞記者を3年間務め、楽貴歌劇団の経営も行った。光復後は大同青年団・韓国青年会会長、大韓青年団栄州郡団長、博愛園園長、議会新聞社社長、厚生会理事長を歴任した。1948年の初代総選挙では栄州郡選挙区から無所属で出馬したが落選し、1950年の第2代総選挙では大韓青年団の候補として当選した。国会議員時代は国会文教委員を務め、共和民政会所属で活動したが、議員非行糾弾事件により朴順天、尹吉重らと共に離党した。
金 仁湜(キム・インシク、朝鮮語: 김인식、1913年12月… 金 仁湜(キム・インシク、朝鮮語: 김인식、1913年12月22日 - 2008年2月25日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、ジャーナリスト、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。 本貫は金海金氏。号は海石(ヘソク、해석)。 日本統治時代の黄海道海州(現・黄海南道海州市)出身。1929年に光州学生運動に参加したため、海州高校から退学し中国で高校課程を終えた。早稲田大学法学部卒業後は東亜日報海州支局長、製材業・製薬業経営を経て、解放後に西北青年会黄海道委員長、大同青年団黄海道団長・総本部西北事務処長を歴任した。1948年の初代総選挙で当選した後、制憲国会で政府内親日派粛清に関する建議特別調査委員会委員長、国家保安法代表発議者を務めた。
岡西 明貞(おかにし あきさだ、1913年(大正2年)9月1… 岡西 明貞(おかにし あきさだ、1913年(大正2年)9月19日 - 2003年(平成15年)7月16日)は、昭和期のジャーナリスト、政治家。衆議院議員(2期)。 長崎県西彼杵郡、現在の時津町出身。1939年(昭和14年)明治大学商学部を卒業した。 福岡日日新聞記者となる。長崎県物価統制協力会議事務局長、長崎県価格査定委員会事務局長、長崎民友新聞社取締役などを務めた。 1948年(昭和23年)11月に実施された、今村等の公職追放、本田英作の死去に伴う第23回総選挙の長崎県第1区補欠選挙に民主自由党公認で出馬して初当選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙で再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
入江 徳郎(いりえ とくろう、1913年(大正2年)7月15… 入江 徳郎(いりえ とくろう、1913年(大正2年)7月15日 - 1989年(平成元年)9月5日)は、日本のジャーナリスト、ニュースキャスター、エッセイスト。朝日新聞社論説委員、JNNニュースコープキャスター。 福岡県遠賀郡芦屋町出身。福岡県立東筑中学校を経て、1936年(昭和11年)東京帝国大学文学部社会学科卒業後、朝日新聞社に入社。 長野支局を振り出しに社会部記者一筋に活躍。ノモンハン事件では従軍記者として死線をさまよい、事件を描いた『ホロンバイルの荒鷲』で記者としての才能を認められ、戦後の著書『泣虫記者』は話題になった。 社会部次長、週刊朝日副編集長などを経て、1961年(昭和36年)に編集委員、63年に論説委員となり、同年5月から70年4月まで朝日新聞の1面コラム「天声人語」を担当した。
扇谷 正造(おうぎや しょうぞう、1913年3月28日 - … 扇谷 正造(おうぎや しょうぞう、1913年3月28日 - 1992年4月10日)は日本の文筆家、編集者、ジャーナリスト。 "週刊誌の鬼"の綽名で知られた。 宮城県遠田郡涌谷町出身。旧制石巻中学、旧制二高を経て、1935年に東京帝国大学文学部国史学科を卒業し、朝日新聞社に入社。青森支局、仙台支局を経て、1937年に社会部記者、1938年に従軍記者として第101師団に配属され、武漢作戦に参加。1941年12月、再度従軍記者となり、フィリピンのリンガエン湾に上陸。 1944年(昭和19年)3月に補充兵として召集され、歩兵第4連隊に入営。朝鮮の羅南で三カ月の訓練を受け、通信兵となる。湘桂作戦(ト号作戦)に参加。
高田 秀二(たかだ ひでじ、1913年3月27日 - 199… 高田 秀二(たかだ ひでじ、1913年3月27日 - 1992年2月15日)は、日本のジャーナリスト。 福島県郡山市生まれ。1936年東京帝国大学文学部仏文科卒。同盟通信社、共同通信社の社会部長、パリ支局長、編集局長、筆頭常務理事。日本記者クラブ理事長、電通取締役、財団法人草月会館館長、財団法人科学技術振興財団理事。1972年、1977年の二度、郡山市長選に立候補するが二位落選。 1992年2月15日、胃癌のため死去。 息子は実業家の高田茂行。
大佐古 一郎(おおさこ いちろう、1912年(大正元年)11… 大佐古 一郎(おおさこ いちろう、1912年(大正元年)11月15日 - 1995年(平成7年))は、昭和時代のジャーナリスト・著作家。広島市での原爆被災をはさむ長い時期にわたって、在広島の地方紙である中国新聞の記者を務めた。 広島県山県郡壬生町(現・北広島町)生まれ。1933年に(旧制)山陽中学を卒業したのち日本大学予科に入学。同大学文学部に学んだのち、標準教科書出版協会・哈爾濱日日新聞社を経て、1939年中国新聞社に入社。この間、中国大陸で兵役に就く。県政(広島県庁・中国総監府)担当記者であった33歳時、1945年8月6日に原爆に被災した。同社が壊滅して幹部・同僚記者が多数被爆死し、また敗戦後の枕崎台風によって疎開先の印刷工場も機能停止に陥るなか、辛くも生き延びて戦後の再建に参加した。
大島 一芳(おおしま かずよし、1912年6月14日 - 1… 大島 一芳(おおしま かずよし、1912年6月14日 - 1983年1月16日)は昭和時代日本のジャーナリスト、新聞経営者。元中日新聞社代表取締役。愛知県出身。 出生名は大島 克巳(おおしま かつみ)で、1952年(昭和27年)3月24日付で「一芳」へ改名した。 1912年(明治45年)、愛知県東春日井郡守山町(現在の名古屋市守山区)で大島寿太郎の長男として出生。祖父の大島竹三郎は小幡大島本家第12代当主で、分家の東大島家第2代当主となった後に新愛知新聞社を創業した大島宇吉は一芳の大叔父に当たる。 1936年(昭和11年)に慶應義塾大学経済学部を卒業して大叔父の宇吉が経営する新愛知新聞社へ入社、戦時中は上海支局駐在。
古谷 綱正(ふるや つなまさ、1912年〈明治45年〉4月1… 古谷 綱正(ふるや つなまさ、1912年〈明治45年〉4月15日 - 1989年〈平成元年〉5月11日)は、日本のジャーナリスト、ニュースキャスター。毎日新聞社論説委員、JNNニュースコープメインキャスター。 東京出身。旧制成城高等学校卒業。同校の尋常科(旧制成城第二中学校)時代から非行に走り、喫煙に始まり学校をサボって映画館に入り浸るなどの行為を繰り返し、尋常科4年の際には落第一歩手前の状況となるが、同校のダルトン・プランなどのシステムをフル活用してなんとか落第を免れた。高等科では左翼運動に走り警察に検挙され、事実上停学処分となり3年次の2学期と3学期は期末試験すら受けていない状態だったが、どういうわけか落第にもならず卒業できた。
李 相敦(イ・サンドン、朝鮮語: 이상돈、1912年3月20… 李 相敦(イ・サンドン、朝鮮語: 이상돈、1912年3月20日 - 1997年7月14日)は、大韓民国の実業家、ジャーナリスト、政治家。制憲・第5・6代韓国国会議員。 本貫は慶州李氏。号は青居(チョンゴ、청거/靑居)。 日本統治時代の忠清南道天安郡出身。光州学生運動に関わったことにより公州高普中退、1933年徽文高等普通学校卒。早稲田大学第一高等学院を経て、1939年に早稲田大学政治経済学部経済科卒。卒業後は東亜日報に入社して記者・編集局論説部論説委員を務めたが、翌1940年に強制廃刊された。その後は京城天一薬房庶務課長、東亜薬品工業創立者・常務理事、韓国民主党中央執行委員・宣伝部次長、民主国民党宣伝部次長、民主党天安乙区党委員長・中央常務委員・政策委員を務めた。
原子 林二郎(はらこ りんじろう、1912年3月10日 - … 原子 林二郎(はらこ りんじろう、1912年3月10日 - 1980年6月25日)は、日本のジャーナリスト、ロシア語翻訳家、国際問題評論家。 戦前は同盟通信社の記者の傍らロシア文学を翻訳、戦後は時事通信社の記者として主としてロシア問題を論じていたが、1959年、社命によりボリス・パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』を初めて日本語に翻訳した。 秋田県生まれ。1933年、青山学院文学部英語師範科卒業。 1939年、同盟通信社入社。1945年、時事通信社に入社し、外信部長、モスクワ特派員、時事研究所長などを歴任。1971年退職。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
李 鎬雨(イ・ホウ、이호우、1912年3月2日 - 1970… 李 鎬雨(イ・ホウ、이호우、1912年3月2日 - 1970年)は、韓国の時調の詩人、ジャーナリスト。本貫は慶州李氏、本名はイ・ホ(이호)。慶尚北道の清道郡出身。妹は詩人の李永道。 解放後は詩人として活動しながら、大邱日報、大邱毎日新聞の編集局長・論説委員などを務めた。
笹本 駿二(ささもと しゅんじ、1912年〈明治45年/大正… 笹本 駿二(ささもと しゅんじ、1912年〈明治45年/大正元年〉 - 1998年〈平成10年〉9月28日)は、日本のジャーナリスト、評論家。第二次世界大戦前後のヨーロッパに特派員として滞在し、多くの知見を得た。 1912年台湾基隆生まれ。1935年京都帝国大学文学部を卒業後、外務省に入省。1938年に渡欧。通算五十年近くにわたってチューリヒ、ブダペスト、イスタンブール、ベルリン、パリ、ボンなどに住み、文筆活動を続けた。この間朝日新聞、東京新聞、静岡新聞などの特派員、NHK解説委員等も務め、晩年はボンとチューリヒを拠点に静岡新聞などに執筆していた。 中でも第二次世界大戦前後の生の欧州情勢の報道は貴重な記録として残り、後に『第二次世界大戦前夜』などにまとめられた。
花森 安治(はなもり やすじ、1911年10月25日 - 1… 花森 安治(はなもり やすじ、1911年10月25日 - 1978年1月14日)は、日本の編集者・グラフィックデザイナー・ジャーナリスト・コピーライター。生活雑誌『暮しの手帖』の創刊者。 1911年、兵庫県神戸市に6人兄弟の長男として生まれる。父親の花森恒三郎は裕福な薬種商であったが、競馬や株などで財を無くし、安治が8歳のときには火事で家が全焼したため長屋暮らしとなった。安治は幼い頃より画才に優れ、神戸市立雲中小学校の同級には田宮虎彦がいた。旧制兵庫県立第三神戸中学校では活動写真部と弁論部に入り、1年浪人して旧制松江高等学校に進む。旧制高校時代、田所太郎らと校友会雑誌(第20号:1932年12月が花森の責任編集号)の編集に参加したことが編集者としての出発点になったと語る。
池田 恒雄(いけだ つねお、1911年〈明治44年〉5月3日… 池田 恒雄(いけだ つねお、1911年〈明治44年〉5月3日 - 2002年〈平成14年〉2月9日)は、日本のスポーツを中心としたジャーナリスト、出版社経営者。ベースボール・マガジン社(以下、BBM)の創立者。社長・会長を歴任。 相撲評論家の池田雅雄は弟。工藤写真館が実家の妻とは離婚。作家の工藤美代子、BBM2代目社長の池田郁雄、3代目社長の池田哲雄(三男)、翻訳家の池田晶子は実子。スキー選手の猪谷千春は元娘婿。元産経新聞記者でジャーナリストの猪谷千香は孫。英文学者の池田雅之は甥。 新潟県北魚沼郡小出町(現・魚沼市)出身。旧制・新潟県立小千谷中学校を経て、早稲田大学文学部を卒業。大学在学中の1931年に雑誌「野球界」の編集に携わり、雑誌編纂や野球の魅力にとりつかれていく。
梶谷 善久(かじたに よしひさ、1911年3月28日 - 1… 梶谷 善久(かじたに よしひさ、1911年3月28日 - 1990年9月3日)は、日本のジャーナリスト。新聞記者、評論家。 大阪府出身。大阪商科大学(現大阪市立大学)卒。1937年(昭和12年)朝日新聞社入社、1942年(昭和17年)ジャワ島特派員。1949年(昭和24年)全朝日新聞労組委員長となり、1950年(昭和25年)レッドパージで解雇され裁判に訴え、勝訴・復職した。 朝日新聞では社会部、外報部、調査研究室、朝日ジャーナルなどに勤務。1966年(昭和41年)朝日新聞社を退職。 その後は文化学院、青山学院大学で講師を勤めたほか、アジア問題の評論などを書く。国際日本協会編集長、日朝文化交流協会理事長。
佐々木 凛一(ささき りんいち、1911年3月18日 - 没… 佐々木 凛一(ささき りんいち、1911年3月18日 - 没年不詳)は、日本のジャーナリスト、新聞編集者。 名古屋市熱田区に生まれる。1928年福岡県中学修猷館、1930年3月旧制福岡高等学校文科甲類を経て、1933年3月東京帝国大学文学部英文学科を卒業。 電通に勤務後、1935年同盟通信社外信部に入り、上海、香港の各特派員、外信部次長を経て、1940年ローマ支局長となり、その後ベルリン、ストックホルム特派員を務める。 1946年世界日報(産経新聞の前身)外信部長となり、1948年世界日報が改題した世界経済新聞の編集局次長兼外信部長に就任、1950年3月産経新聞と改称。その間、1949年6月より日本放送協会(NHK)嘱託となり、ニュース解説などを担当している。
尹 亨南(ユン・ヒョンナム、朝鮮語: 윤형남、1911年3月… 尹 亨南(ユン・ヒョンナム、朝鮮語: 윤형남、1911年3月16日または1912年 - 2002年10月9日)は、大韓民国の官僚、政治家、弁護士、ジャーナリスト。漆谷郡・尚州郡郡守、第3・4・5代韓国国会議員を歴任した。本貫は坡平尹氏。 日本統治時代の全羅南道順天郡(現・順天市)出身。全羅南道公立師範学校(現・光州教育大学校)を経て日本大学法学科卒。高等文官試験司法科・行政科合格。漆谷郡・尚州郡(現・尚州市)郡守、外務部法務課長、法制処法制官、光州朝鮮衆報主筆、弁護士、民主党中央委員・全南道党副委員長、内閣責任制改憲起草委員、第5代国会民議院法制司法委員長(1960年10月2日~1961年5月16日)を務めた。
小糸 忠吾(こいと ちゅうご、1911年3月11日 - 20… 小糸 忠吾(こいと ちゅうご、1911年3月11日 - 2001年3月6日)は、日本のジャーナリスト。上智大学文学部新聞学科長で、同大学大学院ジャーナリスト学科設立に大きく尽力した。専門は新聞学。 東京都出身。米国ワシントン州立大学卒業、ミネソタ大学院修了後、共同通信社ニューヨーク支局長などを経て国際局次長となる。1966年上智大学文学部教授、1971年同大大学院新聞学科教授、1973年新聞学科長を歴任。
高松 棟一郎(たかまつ とういちろう、1911年1月8日 -… 高松 棟一郎(たかまつ とういちろう、1911年1月8日 - 1959年5月26日)は、日本のジャーナリスト。父は真岡町長や下野銀行支店長を務め、煙草元売捌所を営業していた高松 甚一郎。弟は洋画家でグラフィックデザイナーの高松 甚二郎。栃木県出身。1935年、東京帝国大学独文科卒。東京日日新聞(のち毎日新聞)に入社。ロンドン、ニューヨーク特派員となり1941年の日米開戦で交換船により帰国。戦後、1948年、『サンデー毎日』編集長。退社後、東京大学新聞研究所教授となるが、48歳で死去。 林芙美子の恋人だったと言われており、桐野夏生は『ナニカアル』で高松をモデルとした斎藤という新聞記者と、1942年から1943年の間にボルネオなどで会い、そのため生まれた子が、芙美子が養子とした泰(作中では晋)だという仮説を提示している。
亀井 トム(かめい とむ、1910年12月29日 - 200… 亀井 トム(かめい とむ、1910年12月29日 - 2000年?)は、日本のジャーナリスト。『週刊埼玉』社長。本名、亀井 兎夢。出生名、久松 兎夢。トム・カメイ名義による著作もある。 子爵久松定弘(旧姓、大河内)の六男として東京市下谷区(現・東京都台東区)に生まれる。1928年、東京府立一商(現・東京都立第一商業高等学校)卒。日本大学専門部経済学科を2年で中退し、叔父の湯目補隆(ゆのめ すけたか、旧制大阪高校や旧制第二高校の校長を歴任)の私塾で学ぶ。1933年、亀井家の養子となる。 埼玉県川越市に住み、1953年から地方新聞『週刊埼玉』を発行。1970年1月、日本国民救援会系の「石川さんを守る会」川越地区の岸野茂(農林技官)と杉山英夫(横川元代議士襲撃事件被告人、大井医院事務長)の来訪と資料提供を受け、1970年2月から同紙で「狭山事件の再検討」を月1回特集する。
四至本 愛子(ししもと あいこ、1910年12月11日 - … 四至本 愛子(ししもと あいこ、1910年12月11日 - 2013年1月25日)は、日本のジャーナリスト。四至本八郎の妻。大伴昌司の母。戸籍名は四至本アイ。 福島県東白川郡塙町生まれ。宇都宮女学校(現:栃木県立宇都宮女子高等学校)を卒業し、進学のため上京。その後、幼時から関心のあった社会運動に参加するようになり、婦女通信社に記者として勤務するかたわら、社会民衆党の本部に出入りするようになる。1931年には、吉野作造の長女の赤松明子に提唱された社会民衆党の婦人同盟の結成に参加し、広報担当者として機関紙を受け持つ。また、鐘紡本社に鐘紡女工学校を作り、女工たちに社会運動への自覚を促す講義をおこなった。
守山 義雄(もりやま よしお、1910年(明治43年)11月… 守山 義雄(もりやま よしお、1910年(明治43年)11月21日 - 1964年(昭和39年)8月27日)は、日本のジャーナリストである。 大阪市に生まれ、大阪外国語学校(後の大阪外国語大学、現在は大阪大学に統合)ドイツ語学部に入学する。1931年(昭和6年)に卒業後は大阪朝日新聞に入社し、社会部に所属した。1939年(昭和14年)には第二次世界大戦直前下にあったナチス・ドイツのベルリン特派員となり、同年9月に大戦が勃発した際にはヨーロッパの戦線報道に携わる。 翌1940年(昭和15年)6月にはナチス・ドイツ軍に入り、終戦直前の1945年(昭和20年)7月まで従軍した。その後は帰国および復員し、1949年(昭和24年)より朝日新聞大阪本社の社会部長を経て1951年(昭和26年)にはサンフランシスコ平和条約の講和講義の報道にあたる。
土屋 清(つちや きよし、1910年10月5日 - 1987… 土屋 清(つちや きよし、1910年10月5日 - 1987年3月22日)は、日本のジャーナリスト、経済評論家。
近盛 晴嘉(ちかもり はるよし、1910年5月16日 - ?… 近盛 晴嘉(ちかもり はるよし、1910年5月16日 - ?)は、日本のジャーナリスト、歴史家。 兵庫県出身。早稲田大学政治経済学部卒。大阪毎日新聞記者をへて、大阪読売新聞社勤務。1965年定年退職、帝塚山学院短期大学教授を務め、78年定年退職。ジョセフ彦記念会会長を務めた。
三堀 将(みほり しょう、1910年2月14日 - 1996… 三堀 将(みほり しょう、1910年2月14日 - 1996年10月7日)は、日本のジャーナリスト、囲碁観戦記者、囲碁ライター。読売新聞社新聞監査委員長、報知新聞社副社長を歴任。 神奈川県出身。本名は将(ただし)。他の筆名は丘目山人(おかめ-さんじん)。 旧制静岡高等学校卒業。東京帝国大学経済学部卒業。1932年、読売新聞社に入社して囲碁担当となる。1938年から3年間、覆面子(4代目)の名で囲碁観戦記を執筆。呉清源対木谷実の「打ち込み十番碁」を取材するなど活躍。 戦後、出版部長、特信部長、新聞監査委員長などを経て1963年、報知新聞副社長。 1967年に辞任してフリーの囲碁ライターとして読売新聞社主催の棋聖戦などで健筆を振るい、囲碁界のご意見番的存在だった。
丸山 静雄(まるやま しずお、1909年12月19日 - 2… 丸山 静雄(まるやま しずお、1909年12月19日 - 2006年10月10日)は、日本のジャーナリスト、社会運動家。 神奈川県出身。東京外国語学校卒、朝日新聞記者となり、インパール作戦に従軍するなど、アジア諸国の特派員をへて論説委員。ベトナム戦争などを取材した。1974年退社、内部告発『論説委員』を著す。中野区教育委員、1978-1986年国際商科大学(東京国際大学)客員教授、ベトナム友好協会常任理事。全国革新懇(平和・民主・革新の日本をめざす全国の会)世話人。
平岡 敏男(ひらおか としお、1909年(明治42年)9月1… 平岡 敏男(ひらおか としお、1909年(明治42年)9月18日 - 1986年(昭和61年)8月6日)は、日本のジャーナリスト、実業家。 毎日新聞社社長(1976年2月 - 1980年12月)。 北海道旭川市出身(留萌市生まれ)。弘前高等学校では新聞部に所属し、一期下の太宰治とも親交があった。1932年に東京帝国大学経済学部を卒業し、東京日日新聞社(後の毎日新聞東京本社)に入社。経済部記者、東京本社経済部長、論説委員、ロンドン支局長などを経て、1963年取締役。1966年西部本社代表、1968年常務。 1976年2月、巨額の負債を抱え、経営危機に瀕していた毎日新聞社の社長に就任。永野重雄に救済を仰ぎ、翌年「新旧分離方式」の経営再建の方針を固め、登記上の本社で発行部門を担当していた大阪本社を、負債の整理・清算に専念させ(「株式会社毎日(旧社)」)、東京本社(編集部門)と経営を一本化させる形で、新たに東京に新会社「毎日新聞株式会社(新社)」を設立した。
申 石艸(シン・ソクチョ、朝鮮語: 신석초、1909年6月4… 申 石艸(シン・ソクチョ、朝鮮語: 신석초、1909年6月4日 - 1975年3月8日)は、大韓民国の詩人、ジャーナリスト、ソラボル芸術大学校(現・中央大学校)の教授。 本名は申 応植(シン・ウンシク、신응식/申應植)。本貫は高霊申氏。 大韓帝国忠清南道舒川で下級郷班の家に1男3女の中の末子として生まれた。1929年に京城府で詩人として文壇に登場し、1931年には渡日し留学生として法政大学哲学科で学んだが、1935年に病気により中退し帰国した。鄭寅普の紹介で李陸史と知り合い、『翡翠断章』、『パラチュム序詞』、『ヘビ』、『剣舞娘』、『芭蕉』などの詩を李陸史を通して子午線、詩学、文章などに発表した。
狩野 近雄(かのう ちかお、1909年〈明治42年〉4月5日… 狩野 近雄(かのう ちかお、1909年〈明治42年〉4月5日 - 1977年〈昭和52年〉3月10日)は、日本のジャーナリスト。毎日新聞社取締役、スポーツニッポン新聞社社長。 群馬県群馬郡古巻村八木原(現・渋川市八木原)に生まれる。旧制高崎中学校を経て、1932年(昭和7年)早稲田大学法学部を卒業。福田赳夫は高崎中学校の同級。 大学卒業後毎日新聞記者となる。東京裁判の取材ではキャップとして活躍。中部本社編集局長、印刷局長、東京出版局長、東京編集局長を歴任し、1965年(昭和40年)取締役に就任。中部本社代表、西部本社代表、常務取締役も務める。 1971年(昭和46年)よりスポーツニッポン新聞社社長、1975年(昭和50年)同会長。
星野 芳樹(ほしの よしき、1909年(明治42年)3月30… 星野 芳樹(ほしの よしき、1909年(明治42年)3月30日 ‐ 1992年(平成4年)5月31日) は、昭和期のジャーナリスト、政治家。参議院議員(1期)。 東京府東京市小石川区(現文京区小石川)で、牧師星野光多の三男として生まれた。早稲田中学校(現早稲田中学校・高等学校)を経て、静岡高等学校文科(現静岡大学)に進んだ。左翼運動に加わり、1931年(昭和6年)日本共産党に入党。1933年(昭和8年)検挙されて入獄し静岡高校を中退、1940年(昭和15年)恩赦で出獄した。同年、上海に渡り上海自然科学研究所員に就任。1941年(昭和16年)容海語学校を設立。さらに容海小学校、容海忠学校を設立し、在留日本人の指導的存在となった。
土方 正巳(ひじかた まさみ、1909年3月4日 - 199… 土方 正巳(ひじかた まさみ、1909年3月4日 - 1997年2月7日)は日本のジャーナリスト、評論家。 弟は、飯沢匡作のNHK人形劇のデザインなどで知られる、画家の土方重巳。 北海道生まれだが、父が日本郵船勤務で幼時は各地を転々とする。 1926年6月、開成中学(旧制)同級生の川尻東次、中村伸郎、鳥山榛名、青柳忠正らとともに「ダナ人形座」の名で人形劇の公演を行う。これが人形劇団プークの始まりである。 1932年、東京帝国大学文学部心理学科を卒業し、都新聞社(1942年に國民新聞社と合併して東京新聞社となる)に入社。同期に北原武夫がいる。1940年、文化部長。1950年、論説委員。1956年、編集局長。
禹 甲麟(ウ・ガムニン、朝鮮語: 우갑린、1909年2月21… 禹 甲麟(ウ・ガムニン、朝鮮語: 우갑린、1909年2月21日 - 2000年3月11日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、労働運動家、ジャーナリスト、政治家。第6代韓国国会議員。本貫は丹陽禹氏。 ソウル出身。中学校中退、早稲田大学法政学部卒。新幹会代議員、朝鮮日報記者、朝鮮青年総同盟調査部次長、大韓独立促成国民会創立委員・宣伝委員、反託闘争国民総動員委員、米ソ共同委員会団体代表、大韓労働総連盟事務総長、自由党訓練部長、民政党組織委員長・選挙対策委員会副委員長、新民党指導委副議長を務めた。 2000年3月11日、ソウルの新村セブランス病院で持病により死去。享年93。 柳津(朝鮮語版)と林次周が新民党を離党したことにより第6代国会議員職を喪失した後、禹は1967年6月26日に繰り上げ当選したが、任期満了日は同月30日だったため、議員を5日間しか務めなかった。
須田 禎一(すだ ていいち 1909年1月21日 - 197… 須田 禎一(すだ ていいち 1909年1月21日 - 1973年9月18日)は、日本のジャーナリスト、中国文学翻訳家。 茨城県行方郡牛堀町(現、茨城県潮来市牛堀)で生まれる。須田家は代々名字帯刀を許された庄屋で、父誠太郎は牛堀町長、茨城県議を務めた地方政治家。千葉県立佐原中学(現:千葉県立佐原高等学校)、旧制弘前高校を経て東京帝国大学文学部独文科卒業。弘前高校の一級下に太宰治がいた。在学中に反戦運動(反帝同盟「シナから手を引け運動」)参加で逮捕されるが、同郷の代議士風見章の働きかけでまもなく釈放、起訴もまぬがれる。 1933年、東大卒業と同時に朝日新聞入社。浜松支局、東京本社整理部を経て、1942年10月より上海特派員、1944年10月より太原特派員、1945年1月に再び上海特派員となる。
平田 陽一郎(ひらた よういちろう、1908年11月1日 -… 平田 陽一郎(ひらた よういちろう、1908年11月1日 - 1988年10月10日)は、日本のジャーナリスト、実業家。 愛媛県八幡浜市生まれ。松山中学校 (旧制)に入学。松山高等学校 (旧制)在学時、のちの日本共産党議長宮本顕治や憲法学者大野盛直らと同人雑誌『白堊紀』を発行するなどの親交があった。 京都帝国大学卒業。大阪毎日新聞記者を経て、1942年愛媛合同新聞社(現愛媛新聞社)編集局長。1946年愛媛新聞社社長。1947年日本で初めて新聞週間行事を実施した。1953年南海放送開局、社長に就任。 1963年1月の第5回愛媛県知事選挙に「県政刷新県民の会」より出馬、自由民主党公認の現職知事久松定武に接戦の末惜敗した。
山田 長司(やまだ ちょうじ、1908年(明治41年)3月2… 山田 長司(やまだ ちょうじ、1908年(明治41年)3月23日 - 1972年(昭和47年)3月2日)は、日本のジャーナリスト、農民運動家、政治家。日本社会党衆議院議員(6期)。 栃木県安蘇郡新合村閑馬(田沼町を経て現佐野市閑馬町)で生まれる。1925年(大正14年)に上京し、苦学して1932年(昭和7年)日本大学法律科を卒業した。萬朝報、時事新報、名古屋新聞の記者を務めた。1935年(昭和10年)時事新報社解散反対ストライキを主導した。1936年(昭和11年)日本無産党栃木県支部連合会長に就任したが、1937年(昭和12年)12月の人民戦線事件で検挙された。その後、情報局嘱託、日本移動展協会専務理事、日本輿論研究所長などを務めた。
原 四郎(はら しろう、1908年2月15日 - 1989年… 原 四郎(はら しろう、1908年2月15日 - 1989年2月15日)は、日本のジャーナリスト。読売新聞元副社長、日本記者クラブ初代理事長。 岐阜県高山市に生まれる。1932年、法政大学文学部仏文学科を卒業し、新聞学院に学び、1933年に国民新聞入社、社会部に配属される。1936年、読売新聞社社会部に移り、日中戦争の従軍記者として活躍し、戦時中はマニラ支局長などを歴任する。 戦後、文化部長を経て、1949年に社会部長に就任する。新宿暗黒街の粛正、繁華街における第三国人の暗躍を暴露した「東京租界」、東京中央魚市場の明朗化など数々のキャンペーンを実施する。1953年、読売新聞社会部による暗黒面摘発活動の記事により、第一回菊池寛賞を受賞する。
木村 象雷(きむら しょうらい、1908年(明治41年)2月… 木村 象雷(きむら しょうらい、1908年(明治41年)2月7日 - 1986年(昭和61年)1月26日)は、昭和時代の競泳選手、スポーツジャーナリスト。選手としては1928年アムステルダムオリンピックに出場。ジャーナリストとしては第二次世界大戦をまたいでオリンピック5大会の取材に当たり、『サンケイスポーツ』の創刊に携わった。 岡山県美作地方(現在の勝田郡勝央町)出身。おじに文学者の木村毅がいる。 京都市の同志社中学(現在の同志社中学校・高等学校)に学ぶ。水泳は大日本武徳会遊泳部(のちの京都踏水会)で習得したという。 早稲田大学に入学。大学在学中、1928年アムステルダムオリンピックに競泳日本代表として男子100m背泳ぎに出場したが予選落ちに終わった。
蝋山 芳郎(ろうやま よしろう、1907年〈明治40年〉11… 蝋山 芳郎(ろうやま よしろう、1907年〈明治40年〉11月15日 - 1999年〈平成11年〉9月30日)は、日本のジャーナリスト、国際問題評論家。 筆名は高山五郎。蠟山政道、山田勝次郎、小山長四郎の弟。息子は高岡短期大学学長などを務めた蝋山昌一。 群馬県高崎市歌川町に生まれる。1925年(大正14年)に旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を卒業し、旧制第一高等学校理科乙類へ進学するが1929年(昭和4年)に中退。1936年(昭和11年)同盟通信社に入社し、特派員としてインド、ビルマに滞在。1946年(昭和21年)に帰国し、共同通信社東亜部長を務める。1960年(昭和35年)に同社を退職し独立。