中村 佐一(なかむら さいち、1891年2月6日 - 197… 中村 佐一(なかむら さいち、1891年2月6日 - 1978年6月18日)は経済学者。専門は金融論。
職業が経済学者:2,177人
中村 佐一(なかむら さいち、1891年2月6日 - 197… 中村 佐一(なかむら さいち、1891年2月6日 - 1978年6月18日)は経済学者。専門は金融論。
及川 恒忠(おいかわ つねただ、1890年〈明治23年〉9月… 及川 恒忠(おいかわ つねただ、1890年〈明治23年〉9月6日 - 1959年〈昭和34年〉1月10日)は、大正・昭和の中国政治史学者・中国経済学者・翻訳家。慶応義塾大学法学部教授(後に部長)であり、私立武蔵高等工科学校(現在の東京都市大学)創立にも関わった。 本籍は岩手県花巻市だが、当時の住所であった東京市荏原郡駒沢町上鳥に生まれる。祖先には、花巻で儒学の学問所「豊水亭」を開いた及川華山(祐忠)がいる。 1908年(明治41年)3月、宮城県立仙台第二中学校を卒業、翌月に慶應義塾大学部予科第一学年に入学した。1913年(大正2年)3月に慶應義塾大学部政治科を卒業、翌月、そのまま同大学の助手となった。
阿部 賢一(あべ けんいち、1890年(明治23年)8月28… 阿部 賢一(あべ けんいち、1890年(明治23年)8月28日 - 1983年(昭和58年)7月26日)は、日本の経済学者・ジャーナリスト。第8代早稲田大学総長。 徳島県板野郡大山村大字神宅村(現在の上板町)生まれ。1903年(明治36年)から1908年(明治41年)までの5年間を同志社普通学校で学ぶ。同窓には湯浅八郎がいた。同志社を出た後早稲田大学大学部政治経済学科に進学。1912年(明治45年)同学科を首席卒業。同年専門学校令により設立された同志社大学に講師として赴任し、さらに1916年から2年間アメリカに留学する。 1922年、田中穂積に請われて早稲田大学に移籍。立教大学商学部(現・経済学部、経営学部)教授も務め、財政学を講じた。
土方 成美(ひじかた せいび、明治23年(1890年)7月1… 土方 成美(ひじかた せいび、明治23年(1890年)7月10日 - 昭和50年(1975年)2月15日)は、日本の経済学者。東京帝国大学教授、経済学部長。統制経済の第一人者。専攻は理論経済学、財政学。結婚前の旧姓は、「町田 成美」(まちだ せいび)。 1890年、兵庫県姫路市に生まれる。父は姫路市会議長を経て1903年に衆議院議員となった町田猛郎(たけし)。祖先は代々酒井家に仕える武士であったという。兵庫県立姫路中学校を卒業後、父の意向で旧制高等学校の中では姫路に一番近い岡山の第六高等学校に進学する。東京帝国大学法科大学経済学科を首席で卒業。 在学中に高等文官試験に合格していたが、大学に残る。
呉 文炳(くれ ふみあき、1890年(明治23年)5月3日 … 呉 文炳(くれ ふみあき、1890年(明治23年)5月3日 - 1981年(昭和56年)11月18日)は、日本の経済学者、経済学博士(慶應義塾大学)。日本大学第4代総長、日本大学理事長、貴族院議員。広島県呉市名誉市民。 東京府東京市麹町区で、統計学者の呉文聰・やす夫妻の四男として生まれる。麹町尋常高等小学校(現・千代田区立麹町小学校)を卒業。1913年(大正2年)に慶應義塾大学部法律科を卒業すると母校の予科講師・三菱銀行勤務を経て、渡米してシカゴ大学とコロンビア大学へ留学。 帰国した後、立教大学商学部(現・経済学部、経営学部)教授に就任し、信託業や信託法を講義したが、これは未だ信託業が日本において重要視されていない時代に先駆けて開設された講座であった。
高垣 寅次郎(たかがき とらじろう、1890年2月26日 -… 高垣 寅次郎(たかがき とらじろう、1890年2月26日 - 1985年8月25日)は、日本の経済学者。 1890年(明治23年)、広島県尾道市生まれ。1911年(明治44年)、神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。 続いて東京高等商業学校(後の東京商科大学、一橋大学)において佐野善作に師事。同じ門下に塩野谷九十九、鬼頭仁三郎、高橋泰蔵、新庄博、岡田俊平などがいた。彰化商業銀行董事長を務めた呉金川なども高垣ゼミ出身。1913年、東京高等商業学校を卒業。 卒業後、1913年(大正2年)に三井銀行に入行。しかし1915年(大正4年)には母校の東京高等商業学校へ戻り、助教授となり、1924年(大正13年)より同校教授。
大西 猪之介(おおにし いのすけ、1888年(明治21年)1… 大西 猪之介(おおにし いのすけ、1888年(明治21年)12月28日 - 1922年(大正11年)2月8日)は日本の経済学者。専攻は経済哲学・経済思想史。 京都市上京区に生まれる。1905年、京都市立商業学校を卒業し神戸高等商業学校(現・神戸大学)に入学。津村秀松に師事し、1909年、500頁に及ぶ卒業論文「帝国主義論」を提出(のち刊行)して卒業し東京高等商業学校専攻科(現・一橋大学)に入学。關一の指導を受け、關の退官後は福田徳三の指導を受けた。1911年には卒論「社会主義に関する研究」を提出し卒業し、同年小樽高等商業学校(小樽商科大学の前身)講師、小樽高等商業学校図書館主幹に就任。 1913年、同校の教授に昇任し、同年1月から1917年8月まで「経済学及商業学研究」のためヨーロッパに留学した。
大内 兵衛(おおうち ひょうえ、1888年〈明治21年〉8月… 大内 兵衛(おおうち ひょうえ、1888年〈明治21年〉8月29日 - 1980年〈昭和55年〉5月1日)は、大正・昭和期の日本のマルクス経済学者。法政大学総長(第8代)、社会保障制度審議会会長(初代)、統計審議会会長(初代)などを歴任。 東京大学経済学部が特に優れた卒業論文に贈る大内兵衛賞の由来にもなっている。 兵庫県三原郡高田村(町村制後:松帆村、現:南あわじ市松帆脇田)出身。旧制洲本中学校(当時の在校生に川路柳虹、高木市之助がいた)、第五高等学校を経て東京帝国大学法科大学経済学科(現:経済学部)を首席で卒業(1913年に銀時計受領)。 東京帝大卒業後は大蔵省に書記官として入省(大臣官房銀行課〈後:銀行局、現:金融庁監督局〉配属)。
増井 幸雄(ますい ゆきお、1888年6月18日 - 194… 増井 幸雄(ますい ゆきお、1888年6月18日 - 1944年3月18日)は、日本の経済学者。 静岡県浜名郡生まれ。1912年慶應義塾大学部理財科卒、同助手、1913年慶大予科教授、1917年から1920年まで欧米に留学、慶大経済学部教授、1938年学部長。1944年、肺壊疽のため56歳で死去。交通経済学を開拓した。息子の増井健一も慶大教授、経済学者。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
道家 斉一郎(どうけ せいいちろう、1888年(明治21年)… 道家 斉一郎(どうけ せいいちろう、1888年(明治21年)6月13日 - 1942年(昭和17年)3月28日)は、経済学者、専修大学総長、衆議院議員。 貴族院議員・農商務官僚道家斉の長男として東京市に生まれる。1915年(大正4年)、京都帝国大学法科大学政治科を卒業。1922年(大正11年)より久原鉱業株式会社参事を務め、また専修大学・日本大学・中央大学で講師として統計学・経済学・労働問題などを講義した。1923年(大正12年)、久原鉱業を退社して、帝都復興院参事に任命された。翌年には東京市の主事となり、1929年(昭和4年)に辞職するまでの間、統計課長、文書課長、電気局労働課長を歴任した。 1928年(昭和5年)に専修大学の評議員となり、翌年には教授・常務理事となった。
小泉 信三(こいずみ しんぞう、1888年(明治21年)5月… 小泉 信三(こいずみ しんぞう、1888年(明治21年)5月4日 - 1966年(昭和41年)5月11日)は、日本の経済学者。慶應義塾長、帝国学士院会員を歴任。 イギリス古典学派のリカード研究のほか、日本における社会思想研究の先駆者として活動するとともに、マルクス主義への容赦ない批判者として、自由主義の立場から『資本論』の内容をめぐって河上肇や、櫛田民蔵との活発な論戦を展開した。1933年(昭和8年)から1946年(昭和21年)まで慶應義塾長を務めた。東宮御教育常時参与として皇太子明仁親王(第125代天皇)の教育責任者にもなり、皇室の近代化に努めた。学士院会員、コロンビア大学名誉文学博士、文化勲章受賞、名誉都民、野球殿堂入り。
向井 鹿松(むかい しかまつ 1888年〈明治21年〉3月6… 向井 鹿松(むかい しかまつ 1888年〈明治21年〉3月6日 - 1979年〈昭和54年〉6月30日)は、日本の商業学者・経営学者・経済学者、教育者。 1888年、愛媛県西宇和郡四ツ浜村(現伊方町)に生まれる。向井孫一の長男。1909年、慶應義塾大学部理財科予科に入学。卒業後は同大学部の助手、商工学校と予科で兼任講師を務めた。 1919年から1922年に欧米へ海外留学を行い、経営学を学ぶ。帰国後は、慶應義塾大学教授に就任して商事経営、商業政策、取引所論、経営経済学、貨幣銀行論、金融論特殊問題の講義を担当した。 1937年に慶應義塾大学を退職し、名古屋商工会議所に移る。第二次世界大戦後の一時期は中央官庁に入り、物価庁で部長職を勤めた。
本庄 栄治郎(ほんじょう えいじろう、1888年(明治21年… 本庄 栄治郎(ほんじょう えいじろう、1888年(明治21年)2月28日 - 1973年(昭和48年)11月18日)は、日本の経済学者。専門は日本経済史、経済思想史。学位は、経済学博士(京都帝国大学)。大阪商科大学第2代学長。京都大学・大阪府立大学名誉教授。日本学士院会員。文化功労者。 昭和期に多数の学者を送り出し日本経済史研究の権威として知られた。 1888年、京都西陣に生まれる。第三高等学校を経て、1913年京都帝国大学法科大学政治学科卒業、同大学院に進学、生家の生業である西陣機業の研究を行い戸田海市、内田銀蔵に師事した。1914年に『西陣研究』、1916年に『江戸幕府ノ米価調節』が京都法学会より公刊されている。
飯島 幡司(いいじま まんじ、1888年 - 1987年)は… 飯島 幡司(いいじま まんじ、1888年 - 1987年)は日本の経済学者、実業家。神戸高等商業学校(現神戸大学)教授、 大阪鐵工所専務、朝日放送社長、関西経済連合会会長を歴任。ローマ法王庁聖グレゴリオ勲章、イタリア共和国グランデウフィチアレ勲章受章。
丸谷 喜市(まるや きいち、1887年(明治20年)10月3… 丸谷 喜市(まるや きいち、1887年(明治20年)10月3日 - 1974年(昭和49年)7月10日)は、日本の経済学者。神戸経済大学(現・神戸大学)初代学長、神戸大学名誉教授、甲陽学院中学校・高等学校第四代校長。 北海道函館区(現・函館市)出身。北海道庁立函館商業学校(現・北海道函館商業高等学校)では宮崎郁雨と同級であった。 同校卒業後、神戸高等商業学校(現・神戸大学)に進み、1910年に卒業。続いて東京高等商業学校(現・一橋大学)に進学する。東京高商在学中に石川啄木との交友が始まる。1912年に東京高等商業学校専攻部を卒業。同年4月13日に啄木が死去し、丸谷はその葬儀(4月15日)に参列後、徴兵検査のために帰郷、甲種合格となり、旭川の歩兵連隊で1年間軍務に就いた。
高木 友三郎(たかぎ ともさぶろう、1887年(明治20年)… 高木 友三郎(たかぎ ともさぶろう、1887年(明治20年)4月5日 - 1974年(昭和49年)5月12日)は、日本の経済学者、ジャーナリスト。法政大学教授、北日本新聞主筆・会長。 1887年(明治20年)4月5日、富山県に生まれる。 1914年(大正3年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 同年、不動貯金銀行に入社。翌年、増田ビルブローカー銀行に転動。市場調査、株式売買を担当。 1917年(大正7年)大阪毎日新聞入社。経済部副部長を務める。 1918年(大正8年)東京帝国大学大学院法学部ドイツ法律学科に入学し、金井延もとで経済学・経済政策を研究。 同年10月、法政大学に、わが国初の経済学部を創設。
北沢 新次郎(きたざわ しんじろう、1887年2月21日 -… 北沢 新次郎(きたざわ しんじろう、1887年2月21日 - 1980年1月3日)は、日本の経済学者、社会運動家、早稲田大学名誉教授。労働問題、社会政策を専門とし、東京経済大学学長なども務めた。 東京出身。府立三中(現東京都立両国高等学校)を経て早稲田大学に学び、アメリカ合衆国へ5年間留学して、1911年に「Industrial Revolution of England and Japan」でノースカロライナ大学からM.A.を、1914年には「Japanese Finance during Russo-Japanese War」でジョンズ・ホプキンス大学からPh.D.を取得した。1915年に商学部講師として教職に就き、1916年には教授となって、「工業経済」、「社会政策」といった科目を担当しながら、実質的に労働問題についての研究教育を行なうとともに、1919年には早稲田大学の学生を中心とした学生運動団体であった建設者同盟の顧問となった。
橋田 東聲(はしだ とうせい、1886年12月20日 - 1… 橋田 東聲(はしだ とうせい、1886年12月20日 - 1930年12月20日)は、日本の歌人・経済学者。号は東声とも書く。高知県出身。元妻は同じく歌人で、『平城山』の作詞者でもある北見志保子。 高知県中村市(現・四万十市)有岡の農家の二男として生まれる。本名・丑吾。宿毛小学校高等科時代に、一年上の川島朝野(後の北見志保子)と出会う。中村中学時代に短歌をはじめ、雑誌『青年』に投稿。第七高等学校在学中に『明星』の社友となり、与謝野鉄幹に東聲の号を授けられる。級友には中村憲吉、堀内卓造、森園天涙など。東京帝国大学英文科に進学するが、後に経済学科に転科して卒業。東京帝大進学後はいったん作歌から離れ、小説・新劇にも興味を持ち、森田草平と同居をしていた。
中島 九郎(なかじま くろう、1886年3月5日 - 195… 中島 九郎(なかじま くろう、1886年3月5日 - 1959年)は、日本の農学者・経済学者。農学博士。北海道大学名誉教授。札幌短期大学学長事務取扱。佐賀県出身 1910年東北帝国大学農科大学助手、1912年同助教授を経て、1922年北海道帝国大学農学部教授(農政学・農業経済学を担当) この他、北海学院兼任教授も務めた。 大正から昭和前期にかけて農政学の第一人者。農業経済学にも精通。恩師は、上原轍三郎。また、北大史のパイオニアで、『北海道帝國大學沿革史』という北大の通史編集や『佐藤昌介』等の北大著名人の人物伝を執筆した。
松崎 寿(まつざき ひさし、明治19年(1886年)2月18… 松崎 寿(まつざき ひさし、明治19年(1886年)2月18日 - 昭和10年(1935年)9月11日)は、日本の経済学者。大阪商科大学(現・大阪公立大学)教授在任中、死去した。 静岡県駿東郡楊原村村上香貫生まれ。静岡県立韮山中学校(現・静岡県立韮山高等学校)を経て、1904年東京高等商業学校(現・一橋大学)予科入学。1910年同校専攻科卒業。關一に師事。 同年大阪高等商業学校(現・大阪公立大学)講師。1917年同校教授。1920年叙正七位。1922年叙従六位。1928年叙従五位。1929年大阪商科大学(現・大阪公立大学)教授兼同大学高等商業部教授兼務。1930年同大学評議員併任。 1932年叙正五位、商学博士。
櫛田 民蔵(くしだ たみぞう、1885年〈明治18年〉11月… 櫛田 民蔵(くしだ たみぞう、1885年〈明治18年〉11月16日 - 1934年〈昭和9年〉11月5日)は、日本の経済学者。妻は女性解放運動指導者の櫛田ふき。子の櫛田克巳は朝日新聞社の学芸記者。 福島県磐城郡上小川村(現在のいわき市小川町)生まれ。福島県立磐城中学校から錦城中学に編入し、1908年、東京外国語学校卒。1912年京都帝国大学卒。 同志社大学教授、同法学部長、大阪朝日新聞論説委員を歴任。その後東京帝国大学経済学部助手となるが、1919年に高野岩三郎の勧誘を受けて大原社会問題研究所の研究嘱託となる。1920年から2年間久留間鮫造と渡欧し、主にドイツで書籍の蒐集に当たる。1922年、立教大学商学部教授に就任し、経済政策を講じた。
渡辺 銕蔵(わたなべ てつぞう、明治18年(1885年)10… 渡辺 銕蔵(わたなべ てつぞう、明治18年(1885年)10月14日 - 昭和55年(1980年)4月5日)は、大正・昭和期の経済学者、教育者、政治家、実業家。東宝争議時の東宝社長。 大阪市生まれ。9歳から広島県広島市本通電停前の書店・積善館店主の子として育つ。 広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)~広島一中~第一高等学校を経て明治43年(1910年)、東京帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。同年から文部省特派海外留学生として英国・ドイツ・ベルギーに留学。 大正2年(1913年)帰国し東京帝国大学法科大学助教授となる。同年北里柴三郎の長女と結婚。大正5年(1916年)教授、大正6年(1917年)法学博士。
青木 得三 (あおき とくぞう、1885年2月26日 - 1… 青木 得三 (あおき とくぞう、1885年2月26日 - 1968年7月31日) は、日本の大蔵官僚・経済学者。専門は財政学。経済学博士(1957年)。秋田県南秋田郡秋田町(現・秋田市)生まれ、東京帝国大学法科大学首席卒業。 1885年(明治18年)2月26日 (戸籍上は3月26日)、秋田県南秋田郡秋田町中島中丁にて出生。父青木定謙は角館町出身の官吏で、少年時代は父の転勤に伴って転居を繰り返した。旧制和歌山中学(現 和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)から旧制新潟中学校(現 新潟県立新潟高等学校)に転入し、 旧制第一高等学校(旧制一高)を経て1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学を首席で卒業した。
宮島 綱男(みやじま つなお、1884年(明治17年)10月… 宮島 綱男(みやじま つなお、1884年(明治17年)10月13日 - 1965年(昭和40年)3月26日)は、日本の経済学者・大学経営者。日仏交流にも長年尽力した。 1884年、愛知県丹羽郡池野村(現・犬山市)の素封家の家に生まれる。 1904年、名古屋英和学校を卒業。1908年、早稲田大学商科の外交部を首席で卒業。1911年、早大在外研究員としてヨーロッパに留学、シャルル・ジイド(ノーベル賞作家アンドレ・ジイドの叔父)の下で金融経済学を学ぶ。1913年、早大教授となるも、1917年早稲田騒動で早大を去る。その後、山岡順太郎(大阪商工会議所会頭)の個人秘書となる。 1921年、関西大学教授となる。
永雄 策郎(ながお さくろう、1884年(明治17年)1月2… 永雄 策郎(ながお さくろう、1884年(明治17年)1月28日 - 1960年(昭和35年)2月10日)は、日本の経済学者。東亜経済調査局主事、拓殖大学教授、近畿大学教授、富士短期大学大世学院教授。専門は植民政策学。東京帝国大学経済学博士。 主に大正期から戦後復興期にかけて活動を展開した。京都府竹野郡の名士の家に生まれ、第五高等学校を経て東京帝国大学法科大学を卒業。出版社への短期間の勤務を挟み、大学時代の縁で満鉄の東亜経済調査局に入ると、後に主事となりこれを運営する側に立った。この際、高校時代から関わりのあった大川周明を採用させたことが、結果として歴史的に重要な意義を持つ。 それからは審査役の身分で大連の満鉄本社へ渡り、当地の教育機関において植民政策の講師を務める。
方 宗鰲(ほう そうごう、1884年 – 1951年)は、清… 方 宗鰲(ほう そうごう、1884年 – 1951年)は、清末民初の教育者・経済学者・官僚・政治家。別号は少峯または少峰。主に経済学者として活動する一方で、中華民国臨時政府と南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会で各職を歴任した。 清末の1903年(光緒29年)に日本へ留学し、東京同文書院を卒業した。帰国後は故郷の普寧県で師範速成学校を創立している。1908年(光緒34年)に官費留学生として日本へ再び留学し、山口高等商業学校を卒業。1914年(民国3年・大正3年)に明治大学商科を卒業した。なお、来日中には進歩党東京支部政務部長をつとめており、雑誌『国家及国家学』に寄稿している。 帰国後は北京の各大学で教鞭をとり、北京中国大学教務長兼商学系主任、朝陽大学教授、北京大学法学院教授を歴任し、経済学の論文を各雑誌に都度都度寄稿している。
高田 保馬(たかた やすま、1883年(明治16年)12月2… 高田 保馬(たかた やすま、1883年(明治16年)12月27日 - 1972年(昭和47年)2月2日)は、日本の経済学者、社会学者、歌人。文化功労者。京都大学、大阪大学、大阪府立大学各名誉教授。 1883年12月27日、佐賀県小城郡三日月村(現・佐賀県小城市三日月町)遠江で生まれた。1897年3月に三日月村晩成小学校を卒業し、佐賀県立佐賀中学校(現在の佐賀西高校、佐賀北高校、佐賀東高校)に進んだ。1902年3月に卒業し、第五高等学校第一部に入学。1907年7月に卒業し、同年京都帝国大学文科大学哲学科に進み、米田庄太郎に師事した。1910年7月に京都帝国大学を卒業し、同大学大学院に進学。 1914年9月、京都帝国大学法科大学講師に就いた。
前田 幸太郎(まえだ こうたろう、1883年10月26日 -… 前田 幸太郎(まえだ こうたろう、1883年10月26日 - 1965年3月8日)は、日本の経済学者。専門は経済学史、経済史。第3代横浜市立大学学長。横浜文化賞受賞。 京都府出身。1904年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1909年同専攻部領事科卒業。市立下関商業学校教諭、山口高等商業学校教授を経て、1932年から横浜市立横浜商業専門学校校長、横浜市立商業学校校長を務め、教員の充実化などを進めた。1933年横浜経済研究所(のちの横浜市立大学経済研究所)を設立し所長に就任。1949年初代横浜市立大学商学部長兼横浜市立経済専門学校校長。1955年度横浜文化賞受賞。1957年横浜市立大学学長。
林 癸未夫(はやし きみお、1883年9月17日 - 194… 林 癸未夫(はやし きみお、1883年9月17日 - 1947年10月26日)は、経済学者であり、教育者でもある。早稲田大学大学部法学科卒業後、古河鉱業に入社し、欧米を視察。帰国後、早稲田大学政治経済学部教授、早稲田大学総長代理を勤めた。岡山県高梁市出身。 明治16年(1883年)、岡山県上房郡高梁町八幡(現・高梁市)にある藤井種次郎の二男として生れ、母の実家・林家を継ぐ。地元の旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高校)から大阪府立第一中学校(現・大阪府立北野高校)に転校、東京専門学校高等予科を経て、明治38年(1905年)早稲田大学大学部法学科を卒業、古河鉱業に入社、労働問題の調査研究にあたる。 入社後の大正9年(1920年)欧米を視察、翌年帰国し、母校の早稲田大学政治経済学部で、社会政策や工業経済の講義に当たる。
上原 轍三郎(うえはら てつさぶろう、1883年8月25日 … 上原 轍三郎(うえはら てつさぶろう、1883年8月25日 - 1972年2月27日)は、日本の農業経済学者・教育者。専門は、拓殖学(植民学)・開発政策・北海道開拓史。学校法人北海学園理事長・北海学園大学初代学長・北海学園大学短期大学部初代学長等を歴任。 1883年、広島県山県郡南方村(現・北広島町)で生まれた。旧制日彰館中学(現広島県立日彰館高校)を経て、1905年に札幌農学校に入学。農学校では高岡熊雄に師事した。同校は東北帝国大学農科大学に改組となり、1912年に東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)を卒業。 1912年、東北帝国大学農科大学助手に採用された。1914年、東北帝国大学農科大学助教授に昇格。
小野 武夫(おの たけお、1883年(明治16年)8月3日 … 小野 武夫(おの たけお、1883年(明治16年)8月3日 - 1949年(昭和24年)6月5日)は、日本の農業経済学者。法政大学教授。専門は農民経済史。 大分県で生まれる。1901年に大分県立農学校を卒業して代用教員となり、数年後には日露戦争に従軍する。1906年に上京し、農商務省に勤務しながら、1912年7月に法政大学専門部政治学科を卒業する。 1913年に帝国農会に入り、次いで1920年に農商務省に移って永小作慣行の本格的な調査を行なう。その調査結果は1924年に「永小作論」として刊行され、その精緻な研究は当時の学界から高く評価された。1925年に「郷士制度史論」によって農学博士(東京帝国大学)。
河田 嗣郎(かわた しろう、1883年〈明治16年〉4月22… 河田 嗣郎(かわた しろう、1883年〈明治16年〉4月22日 - 1942年〈昭和17年〉5月21日)は、日本の経済学者。京都帝国大学経済学部教授を経て、大阪商科大学(現:大阪市立大学)初代学長。 山口県玖珂郡に地主・河田正輔の長男として生まれる。旧制山口中学・旧制山口高校(旧旧山高)を経て京都帝国大学法科大学を卒業、「恩賜の銀時計」を授与される。 卒業後国民新聞に入社するがすぐに京都帝大に戻って講師・助教授となり、欧米への留学後教授に昇進した。京大での経済学部独立に際しては同学部教授となり、社会政策学・農政学などを担当、学部長も務めた。同郷の出身で中学・高校でともに学び、京大法科・経済学部では同僚となった河上肇とは家族ぐるみの親交を結んだ。
堀切 善兵衛(ほりきり ぜんべえ、1882年〈明治15年〉5… 堀切 善兵衛(ほりきり ぜんべえ、1882年〈明治15年〉5月4日 - 1946年〈昭和21年〉11月25日)は、日本の政党政治家・経済学者。立憲政友会所属。位階および勲等は従三位・勲一等。 1912年(明治45年)の第11回総選挙から1937年(昭和12年)の食い逃げ解散選挙まで連続10回の当選を果たし、その間1929年(昭和4年)には第27代衆議院議長に選出された。経済学者でもあり、経済学者としての専門は経済原論・財政学・商業政策・殖民政策である。内務官僚で東京市長・法制局長官・内閣書記官長・内務大臣などを歴任した堀切善次郎と衆議院議員を務めた内池久五郎は弟にあたる。 堀切良平の長男として福島県信夫郡上飯坂村(現:福島県福島市)に生まれる。
武藤 長蔵(むとう ちょうぞう、1881年6月9日 - 19… 武藤 長蔵(むとう ちょうぞう、1881年6月9日 - 1942年6月27日)は、日本の経済学者・歴史家(経済史・経済学史専攻)。長崎高等商業学校(長崎大学経済学部の旧制前身校)の教授を長く務めた。従三位・勲三等。 1881年、愛知県海部郡津島町(現・津島市)に武藤長八の二男として生まれた。東京高商専攻部(のちの旧制東京商科大学、一橋大学の前身)貿易科に進学して、1905年7月に卒業。 卒業後は東亜同文書院講師に就いた。1907年より長崎高等商業学校教授。1909年から 1912年まで、商学研究のためにアメリカ・イギリス・ドイツに3年間留学。この間、小泉信三などと交流をもった。1936年、長崎高等商業学校を退官し、名誉教授となった。
三辺 金蔵(さんべ きんぞう、1881年3月7日 - 196… 三辺 金蔵(さんべ きんぞう、1881年3月7日 - 1962年4月25日)は、明治時代から昭和時代の経済学者。専門は会計学。立教大学元総長、慶應義塾大学名誉教授、慶應義塾大学元経済学部長、理財科教授として慶應義塾大学部で初めて会計学を講義。生涯にわたってクリスチャンであった。 1881年3月7日、神奈川県足柄下郡にて三辺惣吉の長男として生まれる。生家はかつて裕福であったが凋落したことから、勉学に対しての父の理解は薄い状況であった。一人家を出た金蔵は、肉体労働により学費を稼いだ。 旧制・立教中学校(現・立教池袋中学校・高等学校)を卒業後、1908年に慶應義塾大学部理財科を卒業。その時、28歳という晩学であった。
左右田 喜一郎(そうだ きいちろう、明治14年(1881年)… 左右田 喜一郎(そうだ きいちろう、明治14年(1881年)2月28日 - 昭和2年(1927年)8月11日)は日本の経済学者、経済哲学者。新カント主義者。弟子の杉村広蔵とともに経済哲学の創始者とされる。東京高等商業学校(現一橋大学)や京都帝国大学文学部で教鞭をとると同時に、貴族院議員を務めた。帝国学士院賞受賞。チュービンゲン大学博士。 1881年、神奈川県横浜市生まれ。横浜の金融界で活躍した左右田金作の長男である。幼少より秀才で鳴らし、1887年に横浜小学校では第1学年を飛ばし、2年生として入学。尋常科、高等科を7年で修了し、横浜商業学校(現横浜市立横浜商業高等学校)では予科1年の1学期の修了後に2年生に進級。
田崎 仁義(たざき まさよし、旧名:義介、1880年〈明治1… 田崎 仁義(たざき まさよし、旧名:義介、1880年〈明治13年〉7月25日 - 1976年〈昭和51年〉1月30日)は、日本の経済学者。経済学博士。国士舘大学教授。大阪商科大学名誉教授。専門は中国古代経済史。 新潟県北蒲原郡大室村(現 阿賀野市大室)の田崎恒四郎の次男として出生。 1888年(明治21年)9月、8歳の時に父が亡くなると、水原町の豪農・佐藤家に奉公しながら苦学し、1896年(明治29年)に新潟中学校の2年に編入。 1900年(明治33年)3月に新潟中学校を卒業、1902年(明治35年)7月に東京高等商業学校予科を卒業、1905年(明治38年)7月に東京高等商業学校本科を卒業、1907年(明治40年)7月に東京高等商業学校専攻部を卒業。
藤本 幸太郎(ふじもと こうたろう、1880年7月4日 - … 藤本 幸太郎(ふじもと こうたろう、1880年7月4日 - 1967年6月1日)は、日本の商学者・経済学者。専門は、海上保険論・統計学。当時の日本の保険学の最高権威とされた。一橋大学名誉教授。日本統計学会会長、東京海上火災保険監査役等を歴任。また、日本初の商学博士としても知られる。勲二等旭日重光章受章。村瀬春雄門下。 福井県丹生郡生まれ。三重県四日市市川原町出身。小学校時代は常に優等で鳴らし、三重県初の商業学校である四日市商業学校(現三重県立四日市商業高等学校)を第1期生として卒業後、同校で教鞭を執った。その後も母校四日市商業にたびたび貢献し、創立90周年記念に作成された胸像「藤本幸太郎翁」が正面玄関に置かれている。
河上 肇(かわかみ はじめ、1879年(明治12年)10月2… 河上 肇(かわかみ はじめ、1879年(明治12年)10月20日 - 1946年(昭和21年)1月30日)は、日本の経済学者。 京都帝国大学でマルクス経済学の研究を行っていたが、教授の職を辞し、共産主義の実践活動に入る。日本共産党の党員となったため検挙され、獄中生活を送る。カール・マルクス『資本論』の翻訳(第一巻の一部のみ翻訳)やコミンテルン32年テーゼの翻訳のほか、ベストセラー『貧乏物語』の他に、『第二貧乏物語』『資本論入門』の著作がある。死後に刊行された『自叙伝』は広く読まれた。名文家であり、漢詩もよく知られている。福田徳三とは終生のライバルであった。 山口県玖珂郡岩国町(現在の岩国市)に旧岩国藩士の家に生まれる。
上田 貞次郎(うえだ ていじろう、1879年5月12日 - … 上田 貞次郎(うえだ ていじろう、1879年5月12日 - 1940年5月8日)は日本の経営学者、経済学者。経営学という概念を命名・提唱した。1937年、帝国学士院会員。1932年、勲二等瑞宝章。1940年、正三位勲二等旭日重光章。 上田家は祖父の代まで町人であったが、父上田章が漢学をやったために、士族に引き上げられた。 旧制正則中学校(現正則高等学校)を経て、1902年に高等商業学校(現一橋大学)専攻部貿易科卒、同年福田徳三に師事。卒業後イギリスやドイツ等に留学し、アシュレーやシドニー・ウェッブ夫妻等の下で学ぶ。1919年、法学博士。1925年、如水会常務理事。 1902年、高等商業学校嘱託講師となり、1905年に同教授。
牧野 輝智(まきの てるとし 1879年(明治12年)1月4… 牧野 輝智(まきの てるとし 1879年(明治12年)1月4日 - 1941年(昭和16年)8月29日)は、日本のジャーナリスト、経済学者。専門は財政学。学位は経済学博士(東京帝国大学) 牧野鼎藏の三男として熊本県に生まれる。東京専門学校(現在の早稲田大学)を1897年(明治30年)に卒業して、熊本県立商業学校で英語や地理を教え、間もなく教頭になる。その後佐賀県立佐賀中学校、暁星中学校等の教壇に立つ。 同郷の大先輩である清浦奎吾が農商務大臣に就任すると、清浦の要請で農商務省特許局嘱託の農商務大臣秘書に転身し、清浦と久米金弥特許局長が創設した工業所有権保護協会の機関誌『工業所有権雑誌』の主幹も務める。
作田 荘一(さくた しょういち、古い文書では“莊一”、読みを… 作田 荘一(さくた しょういち、古い文書では“莊一”、読みを「そういち」とするのは誤り 1878年12月1日 - 1973年2月9日)は、日本の経済学者。満洲建国大学初代副総長、同名誉教授。経済学博士。作田啓一(京都大学名誉教授)の父。戦前日本における統制経済の権威である。 山口県に藤本家の5男として生まれる。藤本家の家計の都合により高等小学校から上級学校への進学が困難であったため作田家の養子となり作田姓となる。山口高等学校(旧制山高)を経る。1905年、東京帝国大学法科大学経済学科卒業。1908年から1911年まで、中国の武昌湖北法政学堂(現在の武漢大学法学院)で経済学を教える。高等文官試験に合格し逓信事務官となる。
伊藤 眞雄(いとう まさお、1878年〈明治11年〉8月9日… 伊藤 眞雄(いとう まさお、1878年〈明治11年〉8月9日 - 1937年〈昭和12年〉10月8日)は、日本の経済学者。兵庫県立神戸高等商業学校初代校長、元大阪商科大学教授。専門は応用経済学。 新潟県刈羽郡の士族・伊藤男松の長男として新潟県北蒲原郡新発田町(現 新発田市)に出生。 1897年(明治30年)3月に新潟県尋常中学校を卒業、1900年(明治33年)7月に第四高等学校を卒業、1904年(明治37年)3月に京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。 1904年(明治37年)4月に堺中学校嘱託教授に就任、1905年(明治38年)4月に大阪高等商業学校嘱託教授に就任、9月に同校教諭に就任、1906年(明治39年)3月に堺中学校を退職、1912年(大正元年)9月から1915年(大正4年)2月までイギリスのロンドン・スクール・オブ・エコノミクスとドイツに留学、1917年(大正6年)2月に職制改正により大阪高等商業学校教授に就任、12月に同校校長事務取扱に就任、1918年(大正7年)4月に同校校長事務取扱を退任、1926年(大正15年)7月から1927年(昭和2年)11月まで欧米を視察、1928年(昭和3年)7月に大阪商科大学予科教授を兼任、1929年(昭和4年)3月に大阪商科大学教授に就任、同大学高等商業部教授を兼任、4月に同大学を依願退職、兵庫県立神戸高等商業学校校長事務取扱に就任、8月に兵庫県立神戸高等商業学校初代校長に就任。
井浦 仙太郎(いうら せんたろう、明治11年(1878年)6… 井浦 仙太郎(いうら せんたろう、明治11年(1878年)6月10日 - 昭和30年(1955年)11月2日)は、日本の経済学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。位階は正三位。 東京府士族。1897年東京府尋常中学校(現東京都立日比谷高等学校)卒業。1901年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1903年同校専攻部卒業。1904年福岡市立福岡商業学校(現福岡市立福翔高等学校)教諭。1905年市立大阪高等商業学校(現大阪公立大学)教諭。 1908年 神戸高等商業学校(現神戸大学)教授。1910年から1913年まで商業学研究のためアメリカ合衆国、ドイツ帝国、イギリスに留学。1911年小樽高等商業学校(現小樽商科大学)教授。
服部 文四郎(はっとり ぶんしろう、1878年1月8日 -… 服部 文四郎(はっとり ぶんしろう、1878年1月8日 - 1955年2月16日)は、日本の経済学者。学位はPh.D.(プリンストン大学)、経済学博士。早稲田大学教授、早稲田大学専門部政経科長、専修大学学監、千葉商科大学初代学長、明治学院大学初代経済学部長等を歴任。 1878年滋賀県生まれ。1902年東京専門学校(現・早稲田大学)英語政治科卒。1906年プリンストン大学大学院修了し、Ph.D.学位取得。アメリカ留学後、早稲田大学(旧制)の留学生としてイギリス、フランス、ドイツへ渡り、1908年に帰国。1909年早稲田大学講師を経て同大教授に就任し、貨幣論、金融論、経済原論を担当。1927年より早稲田大学専門部政経科長就任。
三浦 新七(みうら しんしち、1877年〈明治10年〉6月1… 三浦 新七(みうら しんしち、1877年〈明治10年〉6月12日 - 1947年〈昭和22年〉8月14日)は、日本の経済学者、実業家、政治家。専門は経済史。1942年(昭和17年)帝国学士院会員。研究者、財界人、政治家として活躍した。 山形県山形市旅籠町三浦新兵衛の四男として生まれる。のちに、一族の宗家である四日町の豪商三浦権四郎の養嗣子となった。 旧制山形中学校(現:山形県立山形東高等学校)を経て、東京高等商業学校(現:一橋大学)卒。1903年(明治36年)からイギリス・ドイツに留学し、ライプツィヒ大学でランプレヒトに師事し、歴史学を研究する。 帰国後の1911年(明治44年)、母校である東京高等商業学校の教授となり経済史、文明史を教えた。
神戸 正雄(かんべ まさお、旧字体:神戶 正雄、1877年(… 神戸 正雄(かんべ まさお、旧字体:神戶 正雄、1877年(明治10年)4月19日 - 1959年(昭和34年)10月16日)は、日本の法学者・経済学者・政治家(京都市長で、公選第一号の市長)。文化功労者。愛知県一宮市出身。 日本における消費税提唱の先駆者として知られる。 1877年(明治10年)、愛知県一宮に生まれる。旧制愛知一中(現:愛知県立旭丘高等学校)、三高、一高を経て、1900年東京帝国大学法科大学政治科卒業、同大学大学院(財政学専攻)卒業。 1902年京都帝国大学法科大学助教授に就任。1904年(明治37年)ドイツ・イギリスに留学する。海外渡航が極めて困難な時代にあって、視察旅行とは違い実際に現地に居住し学究できたことは、神戸の人格形成に大きな影響を与えたと言われている。
森本 厚吉(もりもと こうきち、1877年3月2日(明治10… 森本 厚吉(もりもと こうきち、1877年3月2日(明治10年3月2日) - 1950年(昭和25年)1月31日)は、日本の経済学者・教育者・文化生活研究家。
渡部 善次郎(わたなべ ぜんじろう、1877年〈明治10年〉… 渡部 善次郎(わたなべ ぜんじろう、1877年〈明治10年〉 - 1939年〈昭和14年〉)は、日本の教育者、経済学者。松山高等商業学校第2代校長。 1877年(明治10年)、愛媛県下浮穴郡田窪村(後の温泉郡重信町、現・東温市)に生まれる。 1897年(明治30年)に松山中学校を卒業し、文部省中等教員検定試験に合格して松山中学校の教員となった。 自学の志が高く、東京に出ると、東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)で学ぶ。しかし、1903(明治36年)に東京英語専修学校が閉校すると、同年、早稲田大学に編入して、翌1904年(明治37年)に大学部政治経済学科を卒業する。 同年、留学のためアメリカに渡り、1905年(明治38年)にイェール大学に入学すると、1907年(明治40年)に経済学を修めて大学院を卒業し、修士(MA)の学位を取得した。
須藤 吉之祐(すどう きちのすけ、1876年12月19日 -… 須藤 吉之祐(すどう きちのすけ、1876年12月19日 - 1956年10月2日)は、日本の経済学者、教育者。立教大学元学長、立教大学経済学部元教授。 1894年(明治27年)、立教学校(現・立教大学)卒業。同期には木村重治(立教大学元学長)がいる。 1897年(明治30年)にアメリカに留学し、ペンシルベニア大学に入学。1900年(明治33年)に同大学を卒業。 その後、母校である立教大学の教員となり、経済学部教授を務める。 1932年(昭和7年)9月に、杉浦貞二郎の後任として木村重治が立教大学学長に就任し、経済学部長を兼任すると、経済学科長に河西太一郎、商学科長に須藤吉之祐が着任した。 1936年(昭和11年)7月、立教大学学長(事務取扱)に就任し、翌年3月まで務めた。