小倉 ミチヨ(おぐら みちよ、1894年9月14日 - 19… 小倉 ミチヨ(おぐら みちよ、1894年9月14日 - 1967年7月10日)は、日本の性文化研究者。夫の小倉清三郎とともに性の研究雑誌『相対』を発行し、自らも記事を多数執筆した。猥褻文書出版販売違反で逮捕された際、阿部定の隣室になり、『阿部定隣室観察十日間』を執筆。晩年は精神異常者とみなされて収監され、精神病院で亡くなった。旧姓坂本、本名は道代。弟に作家の坂本石創がいる。 1894年に愛媛県西宇和郡川之石町(現・八幡浜市)の農家に生まれる。小学校を卒業すると従兄と結婚させられたが、5年後に離婚し、松山技芸女学校(現・済美高等学校)へ進学。1917年に小学校教員になる。翌年上京し、東京女子専門学校(現・東京家政大学)へ入学。
柳田 泉(やなぎだ いずみ、1894年(明治27年)4月27… 柳田 泉(やなぎだ いずみ、1894年(明治27年)4月27日 - 1969年(昭和44年)6月7日)は、日本の明治文学研究者・翻訳家。明治文学に関する資料収集・編纂、実証研究で多大な成果がある。 1894年、青森県中津軽郡豊田村(現・弘前市)生まれ。1918年に早稲田大学英文科を卒業。トルストイの小説や、『カーライル全集』、『ホイットマン全集』、『アミエルの日記』など英訳版からの重訳を含め、多くの思想哲学書を翻訳出版した。当初は英文学史研究を志したが、関東大震災で多くの書籍を火災で失ったことをきっかけに明治文学研究へと転向した。1924年には、吉野作造を中心に結成された「明治文化研究会」に参加。
能勢 朝次(のせ あさじ、1894年〈明治27年〉4月1日 … 能勢 朝次(のせ あさじ、1894年〈明治27年〉4月1日 - 1955年〈昭和30年〉2月25日)は、日本の能楽研究者・日本文学者。専門は、中世・近世文学。奈良学芸大学学長等を歴任。能楽研究の分野では、膨大な史料を分析的に使う手法と卓抜した創見で斯界に一時代を画した。 1894年、京都府北桑田郡山国村(現京都市)に生まれた。1923年、京都帝国大学文学部国文科を卒業。 卒業後は、1924年より大谷大学教授となった。以降、京都帝国大学、東京高等師範学校、東京文理科大学(1949年に新制移行後東京教育大学、後筑波大学)などでも教鞭をとった。1947年に学位論文『能楽源流考』を東京文理科大学に提出して文学博士の学位を取得。
南波 松太郎(なんば まつたろう、1894年〈明治27年〉3… 南波 松太郎(なんば まつたろう、1894年〈明治27年〉3月15日 - 1995年〈平成7年〉7月3日)は、日本の船舶工学者、海事史研究者、古地図蒐集家。本業は船舶工学だが、余技であった海事史研究でも多くの業績を残した。日本有数の古地図コレクターとしても知られており、そのコレクションの多くは神戸市立博物館に寄贈されている。 1894年(明治27年)3月15日、大阪に生まれる。 大阪府立今宮中学校在学中の同級生に、のちに地理学者となる秋岡武次郎がおり、終生にわたり親交を結んだ。 1916年(大正5年)6月、第三高等学校二部甲類卒業。9月、東京帝国大学工科大学船舶工学科入学。1919年(大正8年)7月、卒業、三菱造船神戸造船所に技師として入社。
浅賀 ふさ(あさが ふさ、1894年2月17日 - 1986… 浅賀 ふさ(あさが ふさ、1894年2月17日 - 1986年3月3日)は愛知県出身の医療社会事業家で、日本における医療ソーシャルワーカーの先駆者。米国在住期を経て小栗 将江(おぐり まさえ)と名乗った。 愛知県半田町(後の半田市)の豪商、小栗富次郎と妻しげの二女・小栗ふさとして1894年(明治27年)に生まれる。小栗家は酒造・海運・金融業等で財をなした家柄で富豪として知られた。13歳で日本女子大学付属高等女学校に入学した後、日本女子大学へ進学。ふさは女性の幸福は結婚や家庭にあるという母親の考え方に反駁していた。長兄・常太郎が三井物産の社員としてニューヨークへ赴任することになると父親に直談判。ふさも同行を許された。
山本 修二(やまもと しゅうじ、1894年1月29日 - 1… 山本 修二(やまもと しゅうじ、1894年1月29日 - 1976年1月22日)は、日本の英文学者、演劇研究者。 京都生まれ。探墓家として知られた小学校教員山本臨乗の次男。1919年京都帝国大学文学部英文科卒、1921年龍谷大学教授、1925年第三高等学校教授、1949年京都大学教養部教授、1954年定年退官、名誉教授、立命館大学教授、1967年龍谷大学教授。アイルランド演劇の研究などをおこなうほか歌舞伎評論もした。森本薫と親しく、田宮虎彦は門下生(三高時代の教え子)。
中平 亮(なかひら りょう、1894年1月1日 - 1981… 中平 亮(なかひら りょう、1894年1月1日 - 1981年3月8日)は、日本のジャーナリスト、ソ連研究家。 1894年(明治27年)、高知県高岡郡蓮池村城の医師光代、寅の次男として生まれる。1912年(明治45年)県立第一中学校(現在の追手前高校)卒業。神戸に移り、大阪税関に勤務しながらロシア語を修得。 1917年(大正6年)、大阪朝日新聞社に入社。同年12月シベリアに派遣されるが病気のため帰国。翌年シベリア出兵の従軍記者として再びウラジオストックに派遣される。1919年(大正8年)5月、過激派討伐連合軍の従軍記者となりシベリア横断中に連合軍は過激派に敗退。同年7月革命後間もないモスクワに単身潜入、逃避行の末スパイ容疑で逮捕され、同年12月に釈放になる。
国元 東九郎(くにもと とうくろう、1894年 - 1985… 国元 東九郎(くにもと とうくろう、1894年 - 1985年)は、日本の数学教育研究者、数学教師。 1894年、新潟に生まれる。新潟県高田師範学校を経て、1920年3月に東京高等師範学校理科第一部(数学)を卒業。その後、新潟師範学校の教諭、女子学習院教授、日本大学付属櫻丘高等学校の教頭を務めた。
黒沢 英一(くろさわ えいいち、1894年 - 1953年)… 黒沢 英一(くろさわ えいいち、1894年 - 1953年)は、日本の植物研究者。台湾総督府中央研究所農業部で技師を務め、植物ホルモンのジベレリンを初めて発見した。 1894年(明治27年)7月5日、茨城県筑波郡板橋村(現・つくばみらい市)の村長、黒澤蔵之助の長男として生まれる。高等小学校を卒業後、茨城県立水戸中学校(現・水戸第一高等学校)に入学したが豪農の跡取りであったため、父の強い意志により茨城県立農学校(現・水戸農業高等学校)へ入学し1912年(明治45年)3月卒業した(第12回卒業生)。当時茨城県立農学校には博物(現在の生物・地学)の授業を担当した安藤伊作(新種・フクロダガヤの発見者)が在職していた。
御木本 隆三(みきもと りゅうぞう、1893年(明治26年)… 御木本 隆三(みきもと りゅうぞう、1893年(明治26年)10月27日 - 1971年(昭和46年)6月6日)は、日本の著述家、ジョン・ラスキン研究者。 三重県志摩郡鳥羽町(現鳥羽市)に生まれる。御木本幸吉の長男。第一高等学校を経て東京帝国大学文科に学ぶ。1914年に京都帝国大学に進み、河上肇のもと、イギリスの思想家、美術評論家のジョン・ラスキンを学ぶ。同校中退後、父親の会社で働きはじめるも、ラスキンは「海の底で真珠を探してドレスを飾るために100人のダイバーを雇うべきではない」(原文は「袖に縫い付けるビーズを見つけるために100人のダイバーを雇ってはいけない」)と述べているとして家業に批判的であった。
須田 正継(すだ まさつぐ、1893年8月10日 - 196… 須田 正継(すだ まさつぐ、1893年8月10日 - 1964年9月16日)は、日本のイスラム教研究者。日中戦争期には、外交官として内蒙古に派遣されて諜報活動をおこなった。 「国士的人物」であり、「とにかく独立独歩、他からの制肘を好まず」、晩年に至っても「意気軒昂たる」ものがあったとされる。 山梨県東八代郡一桜村小城(後の一宮村→一宮町→笛吹市の一部)に生まれる。 旧制の日川中学校(山梨県立日川高等学校の前身)から東京府豊島師範学校に進んだが、さらに東京外国語学校に学び、ロシア語部選科を修了した。 1918年のシベリア出兵の際には、通訳として従軍し、沿海州からザバイカル州までを転戦した。この3年に及ぶシベリアでの活動の間に、白軍の一翼を担っていたアタマン・セミヨノフをリーダーとする中央アジア系ムスリム兵の部隊と接触し、イスラム教に帰依したといわれる。
小林 宗作(こばやし そうさく、1893年〈明治26年〉6月… 小林 宗作(こばやし そうさく、1893年〈明治26年〉6月15日 - 1963年〈昭和38年〉2月8日)は、日本のリトミック研究者・幼児教育研究家。 群馬県吾妻郡岩島村(現・東吾妻町)出身。東京音楽学校乙種師範科(現・東京芸術大学音楽学部)卒。本名は、金子 宗作(旧姓:小林)。 1893年、群馬県岩島村の農家の三男(末子)として誕生。長姉の養子となり、金子姓となるが、基本的に小林宗作の名を用いた。 1899年、吾妻郡三島小学校入学。1907年、三島小学校高等科卒業後、代用教員として勤める。1911年、音楽教師を志して上京し、東京都新宿牛込小学校に勤務する。1916年、東京音楽学校乙種師範科(高等小学校卒業者対象の1年制課程)入学。
鷹部屋 福平(たかべや ふくへい、1893年(明治26年)3… 鷹部屋 福平(たかべや ふくへい、1893年(明治26年)3月9日 - 1975年(昭和50年)4月24日)は、日本の工学者、アイヌ文化研究者。著書には橋梁や構造力学など力学関係のものが多い。北海道帝国大学、九州大学、防衛大学校などで教授を務めた。 愛知県額田郡岡崎町大字康生(現・岡崎市)に生まれる。父は岡崎藩士で画家の鷹部屋荘一郎。1899年(明治32年)4月4日、岡崎町立連尺尋常小学校(現・岡崎市立連尺小学校)に入学。1903年(明治36年)、額田郡岡崎高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)に入学。愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)に入学すると、毎日のように暗くなるまでテニスの練習を行ったという。
水野 敏雄(みずの としお、1893年 - 1981年)は、… 水野 敏雄(みずの としお、1893年 - 1981年)は、日本の教育学研究者。島根大学第4代学長。 東京市に生まれる。1911年、第一高等学校入学、1914年、東京帝国大学文科大学哲学科入学。1920年、山口高等学校(現・山口大学)教授。1927年、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)教授。1937年、文部省教学局指導部指導課長。1945年、岡崎高等師範学校(現・名古屋大学教育学部)校長。1950年に公職追放を受ける。日本育英会理事、理事長を経て、1962年から1968年まで島根大学学長。
渥美 清太郎(あつみ せいたろう、1892年(明治25年)9… 渥美 清太郎(あつみ せいたろう、1892年(明治25年)9月9日- 1959年(昭和34年)8月20日)は、日本の演劇研究者、評論家である。筆名は鈍太郎、今谷久平。 東京市下谷区(現在の東京都台東区下谷)七軒町に生まれる。幼年期より、演劇や歌舞伎等の芝居に興味を持ち、独学で脚本や資料を研究した。郁文館中学校卒業後、青山学院高等部に在学する傍らに、上野図書館(現在の国際子ども図書館)に勤務する。 1911年(明治44年)に演芸画報社に入社し、雑誌『演芸画報』の編纂に携わった。1943年(昭和18年)に廃刊するが、同年その後継である『演劇界』の編纂にも携わった。その後は、歌舞伎や日本舞踊、琴や尺八等の邦楽を研究し、多くの著書や辞典を刊行した。
西宮 藤朝(にしのみや とうちょう、1891年12月7日 -… 西宮 藤朝(にしのみや とうちょう、1891年12月7日 - 1970年5月19日)は、文芸評論家・翻訳家・フランス哲学研究者、教育家。 秋田県生まれ。16歳の時一家で東京に移り、大成中学校をへて早稲田大学文学部英文科卒。1918年『早稲田文学』の編集に従事、評論、翻訳を行う。1924年、早大講師、立正大学教授、1942年豊南学園を設立し校長・理事長を務めた。トルストイ、ジャン=マリー・ギュイヨーの影響を受けた。
中野 義照(なかの ぎしょう、1891年10月5日 - 19… 中野 義照(なかの ぎしょう、1891年10月5日 - 1977年1月31日)は、真言宗の僧、インド哲学研究者。 1891年、愛媛県今治市生まれ。旧姓は白石。11歳で得度する。東京帝国大学文学部印度哲学科で学び、1921年に卒業。高楠順次郎に師事した。卒業後は九州帝国大学講師となり、1929年には高野山大学教授、1933年より中国天津日本図書館長、北京大学文学院教授。 戦後日本へ帰国し、1946年より高野山大学教授に復帰。同文学部長、1951年学長を務めた。1952年「ヤーヂユニヤワルキヤ法典の研究」を九州大学に提出して文学博士号を取得。1958年、密教文化研究所長となる。1964年には再度学長を務める。
村山 智順(むらやま ちじゅん、1891年5月7日 - 19… 村山 智順(むらやま ちじゅん、1891年5月7日 - 1968年9月17日)は、日本統治時代の朝鮮で朝鮮総督府が作成した朝鮮の社会や民俗文化に関する数多くの報告書の執筆、編纂に関わった日本の宗教学、民俗学研究者。後に出家して日蓮宗の僧侶となり、新潟県刈羽郡北条町(後の柏崎市旧広田)の妙広寺で住職を務めたが、晩年は東京都に移り住んだ。 新潟県刈羽郡北条(後の柏崎市)に生まれるが、幼くして母を亡くし、地元の日蓮宗法布山妙広寺に預けられる。 住職であった村山智全(1867年 - 1943年)が寺の中に設けていた私塾である四恩報学舎に学び、その後、一時期、東京の中学校に在籍した後、帰郷して小千谷中学校を卒業し、第一高等学校を経て、1916年に東京帝国大学文学部哲学科社会学専修に入学し、1919年7月に卒業した。
高橋 禎二(たかはし ていじ、1891年5月6日 - 195… 高橋 禎二(たかはし ていじ、1891年5月6日 - 1953年3月17日)は、日本の哲学研究者、翻訳家。 千葉県出身。東京帝国大学哲学科卒。第四高等学校教授。ドイツ文学ではシュテファン・ツヴァイクの作品などを多く翻訳した。
高橋 亀吉(たかはし かめきち、旧字体: 高橋 龜吉、189… 高橋 亀吉(たかはし かめきち、旧字体: 高橋 龜吉、1891年(明治24年)1月27日(戸籍上では1894年(明治27年)9月23日) - 1977年(昭和52年)2月10日)は、経済評論家・経済史研究者。石橋湛山と並ぶ、日本の民間エコノミストの草分け的存在である。新平価解禁派。文化功労者。 山口県徳山村(現・周南市)に、船大工の長男として生まれる。1906年5月、家業の衰退から高等小学校卒業後に大阪の袋物問屋に丁稚奉公へ出る。1907年、朝鮮へ渡航し二田商会に入り、日本人居留民相手の営業や販売、貿易実務・電信局の請負などに従事した。 やがて本格的に商売の勉強を志し、早稲田大学の講義録で旧制中学の内容をマスター。
波多野 乾一(はたの けんいち、1890年12月23日 - … 波多野 乾一(はたの けんいち、1890年12月23日 - 1963年12月29日)は、日本の新聞記者、中国研究者、中国演劇(京劇)研究者。 大分県出身。東亜同文書院卒業。1913年、大阪朝日新聞社入社。北京特派員、時事新報社北京特派員。戦後は産業経済新聞論説委員。榛原茂樹の筆名も用いた。
渡辺 素舟(渡邊 素舟、わたなべ そしゅう、1890年11月… 渡辺 素舟(渡邊 素舟、わたなべ そしゅう、1890年11月16日 - 1986年1月16日)は、工芸研究者。 愛知県西春日井郡新川村(現・清須市)出身。本名は清重郎。1916年東洋大学専門部哲学科卒。1931年帝国美術学校講師、多摩帝国美術学校教師、1939年東京高等工芸学校講師、1948年多摩造形芸術専門学校教授。1953年校名変更で多摩美術大学教授、1965年定年退任、名誉教授。1961年「東洋文様史の研究」で東洋大学文学博士。日本工芸会評議員。東洋に伝わる建造物や工芸品、着物の文様を系統的に研究した先駆者。
大竹 博吉(おおたけ ひろきち、1890年3月8日 - 19… 大竹 博吉(おおたけ ひろきち、1890年3月8日 - 1958年1月22日)は、日本の出版人、ソ連研究家。 愛知県額田郡岡崎町大字康生(現・岡崎市)で人力車夫をしていた大竹岩吉の三男として生まれた。尋常小学連尺学校(現・岡崎市立連尺小学校)1年の時に横浜市に移住。小学校卒業後、印刷工として小僧奉公に出る。文選の技術を習得すると郷里の岡崎に戻り、籠田町の手島喜代三郎の岡崎活版所に就職。文章を認められ、まもなく日刊新聞『新三河』の編集部に抜擢される。「新三河は停雪(大竹の雅号)でもっている」と言われたほど評判を呼んだという。のち上京し、『國民新聞』や『東京日日新聞』、『読売新聞』などで記者を務めた。
高木 八尺(たかぎ やさか、1889年(明治22年)12月2… 高木 八尺(たかぎ やさか、1889年(明治22年)12月25日 - 1984年(昭和59年)4月28日)は、日本の政治学者、アメリカ研究者、政治家。位階は従三位。勲等は勲一等。東京大学名誉教授、日本学士院会員。 東京帝国大学教授、太平洋問題調査会常任理事、貴族院議員、東京大学教授などを歴任した。 英学者・神田乃武の子として東京に生まれる。外戚の佐賀藩士の高木家の養子となる。第一高等学校を経て、1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。新渡戸稲造、内村鑑三の影響を受ける。1918年(大正7年)、母校でアロンゾ・バートン・ヘボンの寄付で設置された米国憲法・歴史及び外交講座(通称「ヘボン講座」)の初代担当者となる。
新関 良三(にいぜき りょうぞう、1889年8月4日 - 1… 新関 良三(にいぜき りょうぞう、1889年8月4日 - 1979年4月27日)は、ドイツ文学者、演劇研究者。1943年恩賜賞受賞。1963年日本学士院会員。1967年文化功労者。文学博士。学習院教授、埼玉大学学長。河北町名誉町民。息子の新関欽哉は外交官、オーストリア、ソ連大使などを務めた。 山形県西村山郡谷地村横町(現・河北町谷地)生まれ。旧姓・平泉。谷地尋常高等小学校から西村山郡立西村山中学校(現・山形県立寒河江高等学校)に入学後、山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に転じる。東京高等商業学校(現・一橋大学)に進む。1912年、山形市の伯母新関せいの養子となる。第一高等学校文科を経て、1915年東京帝国大学文科大学独文科卒。
渋沢 青花(しぶさわ せいか、1889年2月18日 - 19… 渋沢 青花(しぶさわ せいか、1889年2月18日 - 1983年5月19日)は、日本の編集者、児童文学作家、児童文学研究者。本名・寿三郎。別名・孤星、素風。 1889年(明治22年)、東京八丁堀に生まれ、まもなく浅草千束町に移る。浅草尋常高等小学校に入学、小学校時代、友人であった小宮山豊作や久保田万太郎の影響で文学に関心を持つ。東京府立第三中学校を経て早稲田大学英文科に入学し、片上伸に師事する。 1912年(明治45年)早稲田大学文学部英文学科を卒業。島村抱月の紹介で実業之日本社に入社する。はじめ、1913年(大正2年)に大隈重信、渋沢栄一らによって創刊された『実業講習録』編集部に勤務するが、同社の雑誌『少女の友』に少女小説「悲しき海へ」を寄稿したのがきっかけで、1914年(大正4年)同誌へ配属された。
今 和次郎(こん わじろう、1888年〈明治21年〉7月10… 今 和次郎(こん わじろう、1888年〈明治21年〉7月10日 - 1973年〈昭和48年〉10月27日)は、日本の建築学者、民俗学研究者。考現学の第一人者。 医学者今裕の甥。銅版画家今純三の兄。息子の今保太郎は東映の美術監督。 早稲田大学理工学部建築学科で長く教壇に立ち、日本建築士会会長他、団体の要職も多く務める。民家、服装研究などで業績があり、考古学に対し現在の通常の人々の日常生活や行動を考察する「考現学」を提唱し、建築学、住居生活や意匠研究などでも活躍した。文化女子大学短期大学部・現文化学園大学短期大学部との関わりもあり家政学を教えていたこともあるが、旧来の家政学や社会政策学への批判認識から生活学を提唱した。
小笠原 登(おがさわら のぼる、1888年(明治21年)7月… 小笠原 登(おがさわら のぼる、1888年(明治21年)7月10日 - 1970年(昭和45年)12月12日)は日本の医学者(専攻は皮膚科学)でハンセン病(らい病)の研究者。元京都帝国大学医学部助教授。僧侶。 愛知県出身。京都帝国大学医学部卒業後、同大学医学部の皮膚科特別研究室助教授となり、1948年まで在職した。彼はハンセン病の発病は体質を重視すべきことや不治ではないことを主張し、当時行われていた患者の強制隔離・断種に反対したが、学会から葬り去られる結果となった。 愛知県海部郡甚目寺村(現:あま市)にある真宗大谷派円周寺の小笠原篤実の二男(戸籍では三男)として生まれる。祖父小笠原啓実は住職であり、尾張藩医浅井家の漢方医術を学んだ漢方医で、らい病、淋病、梅毒などを得意としていた。
松田 喜一(まつだ きいち、1887年(明治20年)12月1… 松田 喜一(まつだ きいち、1887年(明治20年)12月1日 - 1968年(昭和43年)7月30日)は、熊本県出身の日本の農業研究者・教育者・著述家である。 農業試験場技師時代に松田式麦作法を考案するなど、革新的な食料増産技術の発展に貢献。 自ら日本初の民間農業実習所を開き48年間に亘り生徒を受け入れ後進育成に献身するなど、明治から昭和にかけて日本の農業発展に貢献した。また、全国各地に赴き講演を開き農業技術・精神の普及に尽くした。実習所で直接教育を受けた生徒は約三千六百名、講演で講習を受けた者は延べ約四万名に及ぶ。その傍ら雑誌『農友』を自ら執筆、50年間に亘り刊行し、その他50冊におよぶ著書も執筆した。
児島 喜久雄(こじま きくお、兒島 喜久雄、1887年〈明治… 児島 喜久雄(こじま きくお、兒島 喜久雄、1887年〈明治20年〉10月10日 - 1950年〈昭和25年〉7月5日)は、白樺派の画家、美学・美術史の研究者。特にレオナルド・ダ・ヴィンチの研究により知られている。東北帝国大学助教授を経て、東京帝国大学・東京大学教授。 1887年(明治20年)、東京府四谷区舟町(現在の東京都新宿区舟町)で児島益謙の五男として出生。学習院初等科在学中より里見弴と親しく、1903年、16歳の時に画家の三宅克己に入門。1908年、里見らの回覧雑誌『麦』に参加。第一高等学校在学時には、岩元禎の指導も受けた。 1909年、東京帝国大学文科大学文学科に入学。哲学科で美学を専攻した。
土佐林 義雄(とさばやし よしお、1887年〈明治20年〉8… 土佐林 義雄(とさばやし よしお、1887年〈明治20年〉8月 - 1957年〈昭和32年〉11月28日)は、 日本のアイヌ民族研究者。北海道大学教授。 1887年8月、山形県米沢市に生まれる。 米沢中学校を経て、1909年4月に早稲田大学理工科予科入学。1911年9月に家事都合で中退後、1912年6月から同大理工科建築学研究室の佐藤功一の助手となり工芸美術を専攻。1915年1月から建築学会の書記となり、『建築雑誌』の編輯にあたる。 1922年4月から北海道大学予科の講師となり、図画を担当する。1940年9月から教授となり、高等官六等に叙される。1943年に従六位に叙される。1949年5月に同大教授を退官。
君島 一郎(きみじま いちろう、1887年〈明治20年〉4月… 君島 一郎(きみじま いちろう、1887年〈明治20年〉4月16日 - 1975年〈昭和50年〉4月25日)は、日本の銀行家、野球研究者。元朝鮮銀行副総裁。叔父に九州帝国大学(現・九州大学)元教授である君島武男がいる。 1887年4月16日、栃木県生まれ。栃木県塩谷郡塩原町(現・那須塩原市)の君島五郎の長男。君島家は塩原温泉草分けの旧家で、代々「明賀屋」と称し、温泉宿業を営んでいる。 1905年3月、栃木中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)卒業。旧制第一高等学校へと進学する。第一高等学校では野球部に所属し、2年先輩であった中野武二の後継者として、1907年から1908年までの2年間二塁手を務めた。
君島 一郎(きみじま いちろう、1887年(明治20年)4月… 君島 一郎(きみじま いちろう、1887年(明治20年)4月16日 - 1975年(昭和50年)4月25日)は、日本の銀行家、野球研究者。元朝鮮銀行副総裁。
板野 新夫(いたの あらお、1887年(明治20年)4月11… 板野 新夫(いたの あらお、1887年(明治20年)4月11日 - 1972年(昭和47年)4月12日)は、日本の農業研究者・教育者であり、日本の農業研究の第一人者である。岡山県総社市出身。 1887年(明治20年)に岡山県下道郡秦村(現・総社市)の農家の家庭に生まれる。その後、1900年(明治33年)旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学した。 高梁中在学中に米国に留学した新島襄に憧れ、また、新渡戸稲造の農業経営の理念に感化され、卒業後、1905年(明治38年)すぐに単身で渡米し農学の専攻を志した。 渡米後の板野は、最初に飲食店やホテルで働いて、学費を稼ぎながらドイツ語とラテン語を勉強した。
千葉 命吉(ちば めいきち、1887年3月26日 - 195… 千葉 命吉(ちば めいきち、1887年3月26日 - 1959年12月29日)は明治 - 昭和時代の教育研究者、教育者。奈良女高師付属小学校訓導などをへて、大正9年(1920年)広島師範付属小学校の主事(現在の校長と同等)となる。大正10年(1921年)八大教育主張講演会で子供の独創性を重視する「一切衝動皆満足論」を発表。大正11年(1922年)ドイツに留学、独創学を研究。昭和3年(1928年)大日本独創学会を設立した。著作に「独創主義教育価値論」「独創教育学」など。 千葉命吉の創造教育論というのは1919年1月の『創造教育の理論及実際』でではじめて提唱された。その独創的理論が評価され大正9年(1920年)に小学校校長に抜擢された。
後藤 末雄(ごとう すえお、1886年10月25日 - 19… 後藤 末雄(ごとう すえお、1886年10月25日 - 1967年11月10日)は、作家、フランス文学者、比較文学・比較思想史研究者。 東京にて後藤五郎の六男に生まれる。「金座の後藤」と称された工芸の旧家に生まれ、幼くして母を失う。浅草橋の小学校に通い、同級生には木村荘太や桜間弓川がいた。府立三中、一高を経て、東京帝国大学英文科在学中、和辻哲郎、谷崎潤一郎、木村荘太らと第2次『新思潮』の創刊に参加し、小説家として出発する。1913年、東大仏文科を卒業し、陸軍士官学校の教師となる。華々しくデビューした谷崎に対し、他の同人が創作から脱落していく中で、森鷗外らの愛顧を得て創作を続けるが、大正5年(1916年)、「女の哀話」もの小説を「遊蕩文学」として赤木桁平に攻撃され、なおも創作を続けた。
佐々木 喜善(ささき きぜん、1886年〈明治19年〉10月… 佐々木 喜善(ささき きぜん、1886年〈明治19年〉10月5日 - 1933年〈昭和8年〉9月29日)は、日本の民俗学者、作家、文学者、文学研究者、民話・伝説・習俗・口承文学の収集家、研究家。一般には学者として扱われるが、佐々木自身は資料収集者であり学者ではないと称している。 オシラサマやザシキワラシなどの研究と、400編以上に上る昔話の収集は、日本の民俗学、口承文学研究の大きな功績で、「日本のグリム」と称される。 岩手県土淵村(現在の岩手県遠野市土淵)の裕福な農家に育つ。母方の祖父である万蔵は近所でも名うての語り部で、喜善はその祖父から様々な民話や妖怪譚を吸収して育つ。その後、祖父の医者になる期待を背負い、明治35年、岩手県医科学校(現在の岩手医科大学)に入学するも、医師としての将来を思い描くことができず、2年後に中退する。
富村 登(とみむら のぼる、1886年9月7日 - 1964… 富村 登(とみむら のぼる、1886年9月7日 - 1964年)は、茨城県の地方史研究者、医師。 茨城県水海道(現常総市)で、医師・富村玄仙の長男として生まれた。獨逸学協会中学校(現獨協中学校・高等学校)、第一高等学校卒。1911年東京帝国大学医学部卒。1912-13年東大医科学教室副手。1914年日本郵船船医嘱託(欧州航路)。 父の死去に伴い、故郷で1915年開業、地方史研究家。
武内 義雄(たけうち よしお、1886年(明治19年)6月9… 武内 義雄(たけうち よしお、1886年(明治19年)6月9日 - 1966年(昭和41年)6月3日)は、日本の東洋学者・中国哲学研究者。字は「誼卿」、「述庵」。東北帝国大学名誉教授。戦後の皇太子明仁親王に倫理(修身)を教えた。 1886年、三重県内部村小古曽(現四日市市)に真宗高田派の学僧・武内義淵の子として生まれた。第三高等学校で学び、京都帝国大学文科大学(現在の京大文学部)に入学。狩野直喜による「清朝学術沿革史」講義に深い感銘を受け、在学中はその指導を受けた。1910年、京大文科・支那哲学史講座を卒業。 卒業後は一度帰郷するが、勉学の志のため大阪に出て、大阪府立図書館に勤務。西村天囚と知り合い、漢文愛好者による修練会「景会」に加わった。
中村 柳一(なかむら りゅういち、1886年(明治19年)4… 中村 柳一(なかむら りゅういち、1886年(明治19年)4月26日 - 1972年(昭和47年)11月28日)は、日本の教諭、日本語(国語)の教育者、研究者。日本語方言の開合研究の黎明期に、日本統治下の台湾に勤務した時の経験から、初めて越後方言の開合音(アウ・オウの別)について報告した。 明治19年(1886年)に新潟県刈羽郡高田村堀(現柏崎市堀)に生まれた。明治40年(1907年)に高田師範学校を卒業し、同年に小学校教員免許を取得し、同校の訓導を務めた。後に新潟県の大貫尋常小学校、富山県立魚津中学校で教職を歴任した。 大正6年(1917年)には台湾総督府国語学校に助教授として赴任し、国語(日本語)教育に従事した後、台北女子高等学校普通学校に教諭を担任した。
池田 亮次(いけだ りょうじ、1886年〈明治19年〉3月1… 池田 亮次(いけだ りょうじ、1886年〈明治19年〉3月16日 - 1972年〈昭和47年〉3月28日)は日本の研究者・実業家である。日立製作所常務。後、第二次世界大戦中の統制会理事長。日本エレベーター(現:日本ケーブル)代表取締役。広島県福山市出身。 1886年(明治19年)、広島県深安郡山野村(現:福山市)で生まれる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1905年(明治38年)第六高等学校二部乙類に進学、1909年(明治42年)6月、同校を卒業し、東京帝国大学工学部電気科へ進学した。1912年(明治45年)同大学を卒業後、日立製作所へ就職した。 帝大卒業後、日立製作所へ入社したが、これは当時、創業したばかりの日立製作所(創業:1910年・明治43年)の社長であった小平浪平の影響が大きかった。
八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年(明治19年)1月28… 八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年(明治19年)1月28日 - 1976年(昭和51年)1月19日)は、電気工学、通信工学を専門とする日本の研究者、教育者。八木・宇田アンテナの発明家として知られる。東北帝国大学、大阪帝国大学教授、内閣技術院総裁を歴任し、東京工業大学、大阪帝国大学、武蔵工業大学で学長を務めた。八木アンテナ株式会社社長として企業家、参議院議員として政治家の経歴も持つ。日本学士院会員。勲一等瑞宝章受章、文化勲章受章、贈勲一等旭日大綬章(没時陞勲)。栄典は従二位。 電気工学を専門とし、宇田新太郎と共に開発した「八木・宇田アンテナ」の共同発明者として知られている。東北帝国大学や大阪帝国大学での研究指導、教育や、東京工業大学、武蔵工業大学などで学長として奉職するなど、長年にわたり学術研究、教育分野で活躍した。
藤沢 衛彦(ふじさわ もりひこ、1885年8月2日 - 19… 藤沢 衛彦(ふじさわ もりひこ、1885年8月2日 - 1967年5月7日)は、日本の小説家、民俗学者、児童文学研究者。 明治18年(1885年)8月2日、東京生(埼玉県、福島県の説もあり)。 1907年明治大学卒業、藤沢 紫浪の筆名で通俗小説などを刊行する。1914年日本伝説学会を設立し、1917年から『日本伝説叢書』13巻を編纂、1921年より『日本歌謡叢書』を編纂、1926年から1927年まで雑誌『伝説』を刊行。 1922年、日本童話学会を創設。1926年童話作家協会、日本風俗史研究会を設立。 1932年より明治大学に新設された専門部文科で教授に就き、風俗史・伝説学などを講じた。1946年社会科、新聞科専任となり、1958年定年退職。
山崎 楽堂(やまざき がくどう、1885年(明治18年)1月… 山崎 楽堂(やまざき がくどう、1885年(明治18年)1月19日 - 1944年(昭和19年)10月29日)は日本の建築家、能楽研究者、能楽評論家。法政大学教授。本名は静太郎(せいたろう)。息子は、能楽評論家で前横浜能楽堂館長の山崎有一郎。 1885年(明治18年)1月19日、和歌山県に生まれる。山崎家は旧紀州藩士の家で、父・九一郎は大蔵流の名家松井氏に狂言を学び、楽堂も幼時から能・狂言に親しんだ。1909年(明治42年)に東京帝国大学建築学科を卒業。同期に後藤慶二、長谷部鋭吉などがいる。千葉高等園芸学校講師、法政大学教授などを務め、梅若能舞台、細川家能舞台、染井能楽堂、久良岐能舞台の設計に携わる。
可知 貫一(かち かんいち、1885年 - 1956年)は、… 可知 貫一(かち かんいち、1885年 - 1956年)は、日本の農業土木技術者、研究者。岐阜県出身。円筒分水工の発明者。 岐阜県恵那郡阿木村(現在の中津川市阿木)出身。父の与一は東野村小学校初代校長や阿木村村長を務め、自由民権活動家。母方の祖父の鷹見豊次郎も巌邑尋常高等小学校の校長で、貫一は同校の高等科に通った。 岐阜中学校を経て明治40年(1907年)に第六高等学校 (旧制)卒業、東京帝国大学農科大学農学科へ進み明治43年(1910年)卒業して東京高等農林学校で教鞭を執る。 明治45年(1911年)に岐阜県へ技師として赴任。円筒分水工を考案し、大正3年(1914年)に可児郡小泉村に第1号が設置された。
村田 正太(むらた まさたか、1884年10月5日 - 19… 村田 正太(むらた まさたか、1884年10月5日 - 1974年12月20日)は、日本の医師、医学研究者。梅毒血清反応「村田法」の創始者。ハンセン病研究者。エスペランティスト。1926年から1933年まで大阪府外島保養院院長を務めたが、外島事件で辞任した。患者を一人の人間として対等に「キミ」と呼び、遇したのは当時としてはたいへん珍しい。その後職に就かず、神奈川県二宮町で個人的研究生活に入る。 法律を勉強していた時に知った女性がらいに罹患し、生涯らいに尽そうと決意した。光田健輔を紹介され、同氏の指示をうけ、医学の道に進む。東京伝染病研究所では、梅毒血清反応を研究。村田反応を創設した。大阪府外島保養院院長席が空席をなり、村田が起用された。
浅川 伯教(あさかわ のりたか、1884年(明治17年)8月… 浅川 伯教(あさかわ のりたか、1884年(明治17年)8月4日 - 1964年(昭和39年)1月14日)は、朝鮮古陶磁研究者。山梨県北巨摩郡甲村五丁田(現在の北杜市高根町五町田)出身。浅川巧は弟。 山梨県師範学校に学び、県内で小学校教諭となった。甲府キリスト教会での小宮山清三との出会いから朝鮮王朝の美術に憧れ、1913年(大正2年)、韓国併合3年目の朝鮮半島に渡る。当初は朝鮮陶磁の「青磁」に惹かれていたが、偶然目にした日常の器「白磁」に魅了され、柳宗悦(思想家、民藝運動創始者)に紹介。これが朝鮮王朝時代の白磁が日本で注目されるきっかけとなる。 1924年(大正13年)、日本統治下の京城(現ソウル)に、柳宗悦や弟の巧とともに、文化擁護と継承のため「朝鮮民族美術館」を設立。
神戸 伊三郎(かんべ いさぶろう、1884年(明治17年)1… 神戸 伊三郎(かんべ いさぶろう、1884年(明治17年)1月3日 - 1963年(昭和38年)6月7日)は日本の理科教師、科学教育研究者。栃木県生まれ。大正期のもっとも指導的な理科教育研究者の一人である。 大正から昭和にかけて、主に奈良女子高等師範学校の教師を務め、第二次世界大戦前の国定教科書時代の、もっとも指導的な教育研究者の一人である。児童・生徒用の科学読みものや教科書を多数執筆。1922年(大正11年)に『学習本位理科の新指導法』を出版し、千葉命吉の影響を受けた児童中心の創造教育の立場に立ち、当時主流だった、「事実から法則を引き出し実験で確認する」ヘバルト派の帰納法ではなく、デューイ・及川平治の仮説実験的認識論の教育法を採り入れ、「実験前の予想の必要性」を重視した「新学習過程」を提唱した。
衛藤 利夫(えとう としお、1883年11月14日 - 19… 衛藤 利夫(えとう としお、1883年11月14日 - 1953年7月7日)は、日本の満州文化史研究者、図書館員。 熊本県上益城郡飯野村(現益城町)出身。五男は衛藤瀋吉。1908年第五高等学校文科退学、東京帝国大学文学部選科に入る、1912年選科修了(大塚保治に師事)。1915年東京帝大司書。1919年満鉄大連図書館司書、1920年奉天簡易図書館主事。1922年満鉄奉天図書館長、1932年大同学院顧問。1941年奉天図書館長を辞任、日本図書館協会理事。1946年同理事長。
野上 豊一郎(のがみ とよいちろう、1883年9月14日 -… 野上 豊一郎(のがみ とよいちろう、1883年9月14日 - 1950年2月23日)は、日本の英文学者、能楽研究者。「臼川」(きゅうせん)と号した。法政大学総長を務め、能研究の発展にも多大な寄与をした。レジョンドヌール・オフィシェ勲章受章者。 1883年、大分県臼杵市生まれ。臼杵中学、第一高等学校を経て1908年に東京帝国大学文科大学英文科を卒業。同級生に安倍能成・藤村操・岩波茂雄がいて、共に夏目漱石に師事した。 東京帝大卒業後、国民新聞社の文芸記者となる。1909年に法政大学講師となり、1920年に同大学教授となる。予科長・学監・理事を歴任し、森田草平・内田百閒・井本健作など漱石門下の文学者を教授陣に招聘するが、1933年に学内紛争(法政騒動)で辞職(1941年復職)。