末綱 恕一(すえつな じょいち、1898年(明治31年)11… 末綱 恕一(すえつな じょいち、1898年(明治31年)11月28日 - 1970年(昭和45年)8月6日)は、日本の数学者。東京大学教授を歴任。日本学士院会員。 1898年、大分県東国東郡中武蔵村(現:国東市武蔵町)生まれ。大分県立杵築中学校(現:大分県立杵築高等学校)時代に、数学者高木貞治の下で教科書作成に関わった真鍋仙一に師事。旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学理学部数学科に進んだ。大学では、高木貞治に師事した。1922年3月、東京帝国大学理学部数学科を卒業。 東京帝国大学を卒業後は、1922年4月より九州帝国大学工学部講師となった。1923年、同大学助教授に昇進。1924年、東京帝国大学助教授となる。
吉田 洋一(よしだ よういち、1898年7月11日 - 19… 吉田 洋一(よしだ よういち、1898年7月11日 - 1989年8月30日)は、日本の数学者。
北村 春吉(きたむら はるきち、旧姓:藤井、1897年3月1… 北村 春吉(きたむら はるきち、旧姓:藤井、1897年3月1日 - 1996年12月19日)は、滋賀県野洲市出身の数学者、旧制専門学校校長、予備校講師、サッカー選手。 1897年、滋賀県野洲郡野洲町(現:野洲市)富波甲に生まれた。滋賀師範学校(現・滋賀大学)在籍時に恩師の落合秀保と出会い、サッカーを始めた。1916年3月、滋賀師範学校卒業。 その後、東京高等師範学校に入学し、蹴球部(現:筑波大学蹴球部)に所属。在学中の1917年に第3回極東選手権大会の日本代表に佐々木等や武井群嗣らと共に選出され、2戦目のフィリピン代表戦で2得点を決めた。なお、この得点が日本代表の初得点となった(試合は2-15で敗れ、日本代表の最大差敗戦試合となっている)。
陳 建功(チン・ケンコウ、1893年9月8日 - 1971年… 陳 建功(チン・ケンコウ、1893年9月8日 - 1971年4月11日)は、中国の数学者。杭州大学副学長、中国数学会副理事長などを務めた。日本への外国人留学生初の理学博士号取得者。 浙江省紹興市出身。杭州の両級師範学校を経て、1913年から日本に留学し、1918年東京高等工業学校(のちの東京科学大学)色染科卒業。並行して夜学に通い、1919年東京物理学校(のちの東京理科大学)数学科卒業。1923年東北帝国大学理学部数学科卒業。 1924年国立武昌大学教授。1926年東北帝国大学大学院に進学。外務省の対支文化事業の特選留学生に選定され、1929年には外国人留学生として初めて理学博士(東北帝国大学)の学位を取得した。
阿部 三郎太郎(あべ さぶろうたろう、1893年 - 没年不… 阿部 三郎太郎(あべ さぶろうたろう、1893年 - 没年不詳)は、日本の数学者、教育者。立教大学予科教授、立教大学学生主事。立教大学体育会水泳部の部長としてプールの建設に尽力し、多くのオリンピック選手を育てるなど「立教水泳の恩人」と知られ、熱心なクリスチャンでもあった。 1893年生まれ。1924年、東北帝国大学理学部物理学科卒業。 1927年、立教大学予科に着任し、予科教授として数学を講じた。 1929年に立教大学体育会水泳部部長に就任。部長となった阿部はプールの建設のため、建築費の資金調達に水泳部OBの本井の協力も得て尽力した。建築費3万円のうち1万円は校友からの募金で得られ、残り2万円は銀行から借入れし、阿部と水泳部OBの野村憲夫らが保証人となって調達された。
黒河 龍三(くろかわ りゅうぞう、1892年(明治25年)1… 黒河 龍三(くろかわ りゅうぞう、1892年(明治25年)10月9日 - 1935年(昭和10年)1月)は、日本の数学者、旧制第一高等学校教授。 東京で杉村彦右衛門の二男として生まれ、外祖父・黒川春村を嗣ぎ、黒河を名乗る。旧制第一高等学校を卒業、1916年(大正5年)東京帝国大学理学部数学科卒業後すぐ第一高等学校の数学講師に就任する。1918年(大正7年)第一高等学校教授を拝命、東京高等師範学校、 東京文理科大学の講師も務める。 「竹のひご」と「えんどう豆」を使った空間幾何学の講義や、三角関数は指数関数で表され、逆三角関数は解析関数であるから、初等関数は結局代数関数、指数関数、対数関数の有限個の組み合わせであるという説明など、教科書を使わずに講義案を周到に準備し、論理学上厳格かつ極めて明快な講義を進めていった。
鍋島信太郎(なべしま のぶたろう、1892年3月28日 - … 鍋島信太郎(なべしま のぶたろう、1892年3月28日 - 1973年8月22日)は、日本の数学者・数学教育学者。 和歌山県橋本市出身。和歌山県師範学校予備科卒、東京高等師範学校卒、東京高等師範学校教授、1949年東京教育大学教授。1956年定年退官、日本数学教育学会名誉会員。
金山 らく(かなやま らく、1888年(明治21年)10月2… 金山 らく(かなやま らく、1888年(明治21年)10月22日 - 1977年(昭和52年)1月7日)は、帝国大学で学んだ日本初の女子大学生の一人、日本初の女性理学士の一人として知られる数学者。東京女子高等師範学校教授。夫は画家の金山平三で、後半生は夫の画業を支えた。旧姓名の牧田 らく(まきた らく)で言及されることも多い。 京都府京都市中京区に、呉服商・牧田久吉の次女として生まれる。京都府高等女学校(現:京都府立鴨沂高等学校の前身)在学中に数学への関心を深める。らくの父は「女に学問などいらぬ」という考えの持ち主で、女子高等師範学校への進学にも反対していたが、高等女学校時代の恩師がらくの父を説得し、進学が許されたという。
竹内 端三(たけのうち たんぞう、1887年(明治20年)6… 竹内 端三(たけのうち たんぞう、1887年(明治20年)6月‐1945年(昭和20年)8月7日)は日本の数学者。東京出身。理学博士。東京帝国大学教授。
梶島 二郎(かじしま じろう、1887年1月21日 - 19… 梶島 二郎(かじしま じろう、1887年1月21日 - 1974年)は、日本の数学者。旧制鹿児島県立工業専門学校初代校長、新制鹿児島県立大学初代工学部長・第2代学長・名誉教授。 東京都出身。1906年、第七高等学校造士館理科を卒業。1909年、東京帝国大学理科大学(現東京大学理学部)数学科を卒業。1912年、東京帝国大学文科大学(現東京大学文学部)哲学科を卒業。1913年、大学院修了。東京工業大学附属予備部教授、予備部長を歴任。鹿児島県に招かれて、1945年4月1日、鹿児島県立工業専門学校校長事務取扱に着任し、5月25日付で初代校長に就任。また、鹿児島県立鹿児島工業学校校長も兼務した。 学制改革により1949年には、旧制工専校長の梶島が、新制鹿児島県立大学(初期校名は県立鹿児島大学)の教授および初代工学部長に就任。
掛谷 宗一(かけや そういち、1886年〈明治19年〉1月1… 掛谷 宗一(かけや そういち、1886年〈明治19年〉1月18日 - 1947年〈昭和22年〉1月9日)は、日本の数学者。東京文理科大学兼東京帝国大学教授。統計数理研究所初代所長。理学博士。 1886年(明治19年)、広島県深安郡坪生村生まれ(現・福山市坪生町)。広島県第二中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)を卒業後、第三高等学校を経て、1906年(明治39年)10月に東京帝国大学理科大学数学科に進んだ。2、3年生時は特待生に選定され、3年進級時にはモルレー博士記念数学賞を受賞。1909年(明治42年)7月卒業。 1911年(明治44年)第一高等学校教授、1912年(大正元年)に東北帝国大学助教授に就任。
園 正造(その まさぞう、1886年1月1日 - 1969年… 園 正造(その まさぞう、1886年1月1日 - 1969年11月24日)は、日本の数学者。代数学を専門とする。京都帝国大学名誉教授。西京大学(現京都府立大学および京都府立大学女子短期大学部)初代学長。 京都市生まれ。1910年に京都帝国大学理工科大学数学科卒業。1921年、京都帝国大学教授。 日本の数学界の黎明期を支えた数学者の一人である。エミー・ネーターらと同時期に、代数学の抽象化に大きな役割を果たした。分離可能性に関する研究は後に森嶋通夫によって経済学へ応用された。 豪快な人物であったらしく、祇園から人力車で大学へ出勤したという逸話を持つ。また、数学に留まらず哲学・宗教・思想にも強い興味を持ち、雑誌「改造」などに論文を発表している。
渡辺 孫一郎(わたなべ まごいちろう、1885年〈明治18年… 渡辺 孫一郎(わたなべ まごいちろう、1885年〈明治18年〉9月1日 - 1955年〈昭和30年〉6月12日)は、明治から昭和時代にかけての日本の数学者。専門は解析学および確率論で、「確率」という用語の普及に寄与した。 渡辺藤太の長男として栃木県下都賀郡木村(のち赤津村、現在の栃木市都賀町木)に生まれる。実家は酒造業であるという。栃木中学校を経て、1908年(明治41年)東京帝国大学理学部数学科卒業。 1911年(明治44年)、第八高等学校数学教授となる。八高では視察にきた林鶴一から講義を酷評されたため、心配した校長が付近の中学校に出張させ、本人も真面目に講義法を見学したが、一向に変化がなかったという。
小倉 金之助(おぐら きんのすけ、1885年〈明治18年〉3… 小倉 金之助(おぐら きんのすけ、1885年〈明治18年〉3月14日 - 1962年〈昭和37年〉10月21日)は、日本の数学者・数学史家・随筆家。大阪医科大学(現・大阪大学医学部)教授を歴任。山形県酒田市生まれ。 生家は酒田の回漕問屋。荘内中学校を経て、1905年(明治38年)に東京物理学校(現・東京理科大学)を卒業。東京帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)化学選科に入学するが、家業を継ぐために中退し、山形に戻る。 林鶴一のもとで数学を学び、1911年(明治44年)東北帝国大学の助手となる。1916年(大正5年)に微分幾何の研究で、理学博士の学位を取得。 1917年(大正6年)から大阪医科大学(現・大阪大学医学部)塩見理化学研究所研究員。
窪田 忠彦(くぼた ただひこ、明治18年(1885年)2月2… 窪田 忠彦(くぼた ただひこ、明治18年(1885年)2月27日 - 昭和27年(1952年)10月31日)は、日本の数学者。東北帝国大学教授。統計数理研究所三代目所長。
寺沢 寛一(てらざわ かんいち、1882年7月15日 - 1… 寺沢 寛一(てらざわ かんいち、1882年7月15日 - 1969年2月5日)は、日本の理論物理学者・数学者。日本学士院会員、東京帝国大学名誉教授。学位は理学博士(1917年・東京帝国大学)。東北帝国大学教授、東京帝国大学教授、同総長事務取扱、同理学部長、同地震研究所所長、同航空研究所所長、逓信省高等逓信講習所所長、千葉工業大学学長、電気通信大学学長などを歴任。著書『自然科学者のための数学概論』は応用数学の名著として名高い。 1882(明治15)年7月15日、米沢藩士寺澤兵吉の次男として、現在の山形県米沢市上矢来町に生まれる。 興譲尋常高等小学校から米沢中学興譲館入学。後に上京し、1902年、大成中学校卒業。
藤原 松三郎(ふじわら まつさぶろう、1881年2月14日 … 藤原 松三郎(ふじわら まつさぶろう、1881年2月14日 - 1946年10月12日)は、日本の数学者・数学史家。第二次世界大戦前において、90編の欧文論文を著し、1936年にオスロで開催された国際数学者会議で招待講演を行うなど、当時の日本の数学界を代表する数学者であり、また日本数学史、中国数学史、朝鮮数学史をカバーする和漢数学史家としても大きな業績を残した。特に8000枚という膨大な遺稿「日本数学史」は『明治前日本数学史』全5巻(岩波書店、1955-1960)としてまとめられ、現在においても和算史を研究する上で最も重要かつ基本的な文献となっている。 1911年(明治44年)、東北帝国大学に数学科が設置されると、30歳で教授に就任。
根津 千治(ねず せんじ、1877年9月 - ?)は日本の数… 根津 千治(ねず せんじ、1877年9月 - ?)は日本の数学者、大学講師。雑誌「數學研究」「數學倶樂部」の刊行などを行った。明治大学講師理学士。また、中央大学、錦城中学校教授。 新潟県の平民に生まれ、1898年に第一高等学校第二部理科を卒業した。第一高等学校では、水泳部だった。1901年、東京帝国大学理科大学数学科を卒業し、東京帝国大学大学院で理学士として代数学を専攻した。一学年上に刈屋他人次郎がいた。 1902年頃、京都帝国大学で、理工大学の講師を嘱託された。1908年頃、教員免許を獲得。1911年、(同級生であった)福原統五郎の記念で、有志の理学士を代表し理科大学にクリストッフェルの論文を2冊送った。
中川 銓吉(なかがわ せんきち、1876年7月18日 - 1… 中川 銓吉(なかがわ せんきち、1876年7月18日 - 1942年9月4日)は、日本の数学者、学校教授。 1876年7月、石川県で士族の中川富三と、きくの間に生まれ、1895年7月3日に第四高等学校第二部理科を卒業。1897年7月10日東京帝国大学理科大学数学科で特待生を勝ち得て、1898年に卒業した。 1898年(明治31年)8月13日、第二高等学校教授を任ぜられた。1899年9月5日、高等官七等で高等師範学校教授に任命された。 1901年11月16日、文部科学省外国留学生として、日本を発ち、ドイツに留学した。1905年2月27日に帰国した。 1904年11月25日、東京帝国大学理科大学助教授に任命された。
高木 貞治(たかぎ ていじ、1875年〈明治8年〉4月21日… 高木 貞治(たかぎ ていじ、1875年〈明治8年〉4月21日 - 1960年〈昭和35年〉2月28日)は、日本の数学者。学位は、理学博士。東京帝国大学名誉教授。第1回フィールズ賞選考委員。文化勲章受章者、文化功労者。 岐阜県大野郡数屋村(現:本巣市)に生まれる。岐阜尋常中学校(現:岐阜県立岐阜高等学校)を経て第三高等中学校(現:京都大学)へ進学し、1894年(明治27年)に卒業。 帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)数学科へ進み、卒業後にドイツへ3年間留学。ヒルベルトに師事し、多大な影響を受ける。 代数的整数論の研究では類体論の確立に貢献し、特に高木の存在定理の証明で知られる。 ヒルベルトの23の問題のうち、第9問題と第12問題(に関連した世界的な難問)を肯定的に解決した。
藤田 外次郎(ふじた がいじろう、1874年(明治7年)5月… 藤田 外次郎(ふじた がいじろう、1874年(明治7年)5月15日 - 没年不明)は日本の陸軍教授、教育者、数学者。 石川県士族の家に生まれる。1891年(明治25年)7月に予科を卒業し、9月に第四高等中学校の特待生を勝ち取った。1894年、(明治28年)7月、第四高等学校第二部理科を卒業。1898年(明治31年)7月、東京帝国大学を卒業。8月12日、高等官八等を以て陸軍教授に就任し、8月13日に陸軍砲工学校附を命じられた。8月19日、東京帝国大学大学院に入学し、帰納幾何学を専攻。学士会にも参加している。1903年(明治36年)12月1日より砲工学校に復職。1904年(明治37年)10月28日、歩兵少尉に任命され従軍、翌1905年(明治38年)12月30日に退役した。
吉江 琢兒(よしえ たくじ、1874年4月29日 - 194… 吉江 琢兒(よしえ たくじ、1874年4月29日 - 1947年12月26日)は、日本の数学者。東京帝国大学名誉教授。専門は微分方程式論。高木貞治とともに日本で最初の数学科出身の数学者。 東宮御学問所御用掛として皇太子時代の昭和天皇に数学を進講している。 1874年4月、山形県上山生まれ。誕生の翌年、元上山藩士の父・磨磋記が県庁勤務から東京の陸軍省会計課勤務となり、東京に移住。芝小学校に入学。10歳の時に父の転勤に伴い広島の小学校に転校、広島県尋常中学校を経て、1891年第三高等中学校に入学。同級に高木貞治、一級上に林鶴一がいた。三高では河合十太郎に数学を学び、リヒャルト・デーデキントの「連続性と無理数」を強制的に読まされたという。
林 鶴一(はやし つるいち、1873年(明治6年)6月13日… 林 鶴一(はやし つるいち、1873年(明治6年)6月13日 - 1935年(昭和10年)10月4日)は、日本の数学者、数学史家。京都帝国大学理工科大学助教授、東北帝国大学理科大学教授を務めた。 徳島県生まれ。旧制徳島中学校(現徳島県立城南高等学校)、第三高等学校を経て、1897年(明治30年)に東京帝国大学理科大学数学科を卒業。東京帝国大学では高木貞治・吉江琢児と同期であり、藤沢利喜太郎による「藤澤セミナリー」に参加して、「e及びπの超越に就て」という課題の報告を提出した。 東京帝国大学卒業後に京都帝国大学理工科大学助教授を務めたが、その職を辞し、松山中学校教師や東京高等師範学校講師に就いた。
河合 義文(かわい よしふみ、1869年(明治2年)5月 -… 河合 義文(かわい よしふみ、1869年(明治2年)5月 - 没年不詳)は、日本の教育者・数学者。 富山県出身、第一高等中学校卒業、1894年(明治27年)、東京帝国大学理科大学物理学科を卒業すると1895年に現・金沢市の第四高等学校教授に就任、やがて四高生の風紀の乱れを嘆く北条時敬校長に応え、1897年(明治33年)頃から「三々会」という修養の集まりに講師として西田幾太郎、堀維孝、三竹鉄五郎らと参加する。主担当の数学を教えるかたわら、1910年(明治43年度)から1916年(大正5年度)のあいだの5年間、物理担当の西英盛(明治5年生まれ)をたすけて大学で専攻した物理学も教えた。 1913年1月と9月(44歳前後)に学術調査のため出張を承認されている。
樺 正董(かば せいとう、かば まさしげ、文久3年6月7日(… 樺 正董(かば せいとう、かば まさしげ、文久3年6月7日(1863年7月22日) - 大正14年(1925年)12月27日)は、日本の数学教育家・数学者。数学教育近代化の先駆的役割を果たした。 1960年の安保闘争のとき、死去した東大女子学生樺美智子の曾祖父、社会学者樺俊雄の祖父。 鳥取市定府内町に生まれる。藤六、とめの長男。家庭は織物屋兼紺屋だった。 13歳の時故郷を出て大阪へ行く。これは、勉強するのに都合の良い所を見付けようとしたのであった。。しかし金は無く、ただ着のみ着ままで出たため、大阪に着いたら最早一厘の貯えもなかった。そこで、或る家に奉公することになった。主人の使い歩き、時には子守なども命令された。
沢田 吾一(さわだ ごいち、1861年10月26日(文久元年… 沢田 吾一(さわだ ごいち、1861年10月26日(文久元年9月23日) - 1931年3月12日)は、日本の数学者、日本の数字・数学史学者。 美濃国厚見郡一色村(現・岐阜市)出身。明治15年(1881年)陸軍省御用掛となり、参謀本部測量課に勤務。1886年第一高等中学校(現・東京都立日比谷高等学校)数学授業嘱託、1887年同教師。1891年帝国大学理科大学物理学科卒。菊池大麓に師事。1896年大学院中退。1892年第四高等学校教授、96年陸軍中央幼年学校教授、97年東京高等商業学校(現・一橋大学)教授。1917年定年退官。東京帝国大学文学部国史学科に入学し、1923年、63歳で卒業。1927年大著「奈良朝時代民政経済の数的研究」を刊行した。
藤沢 利喜太郎(ふじさわ りきたろう、文久元年9月9日〈18… 藤沢 利喜太郎(ふじさわ りきたろう、文久元年9月9日〈1861年10月12日〉 - 昭和8年〈1933年〉12月23日)は、日本の数学者、統計学者、教育学者。東京帝国大学理科大学教授、帝国学士院会員、貴族院帝国学士院会員議員、理学博士。 明治期より日本の数学教育の確立と西欧の数学の移入に尽力した。 佐渡国(現: 新潟県佐渡市)に幕臣・藤沢親之の長男として生まれる。1882年、東京大学理学部を卒業、翌年からヨーロッパに留学し、ロンドン大学、ベルリン大学、ストラスブール大学に学ぶ。ストラスブール大学では幾何学の専門家のテオドール・ライエが担当したゼミナールに参加する一方、エルヴィン・クリストッフェルの下で偏微分方程式論などを研究し、同大学に学位論文を提出した。
長澤 龜之助(ながさわ かめのすけ、1861年1月2日(万延… 長澤 龜之助(ながさわ かめのすけ、1861年1月2日(万延元年11月22日) - 1927年(昭和2年)10月16日)は、日本の数学者、教育者。数多くの書籍を出版したことで知られる。 筑後国の久留米に生まれた。長崎師範学校を卒業し、1882年、川北朝鄰に師事した。1917年、林鶴一とともに関流八伝免許状を認められた。東洋英和学校で教職を務め、明治39年、雑誌「XY」を創立した。1888年、チャーレス・スミス(英語版)の代数学の邦訳書を出版した。この作品は日本で横書きの最初期の書籍であった。1927年没した。生涯で120以上の書籍を書いたと言われ、後に著書一覧ができるほどであった。墓所は多磨霊園。
隈本 有尚(くまもと ありたか、1860年7月24日(万延元… 隈本 有尚(くまもと ありたか、1860年7月24日(万延元年6月7日) - 1943年(昭和18年)11月26日)は、日本の教育者、天文学者、数学者、心理学者、占星術師。福岡県立中学修猷館初代館長、長崎高等商業学校初代校長、朝鮮総督府中学校初代校長。 久留米藩士の子として後の久留米市螢川町に生まれる。幼名は井上木六郎。生後まもなく隈本家の養子となる。1872年(明治5年)11歳で久留米藩の藩校である好生館(洋学所、同年11月柳河藩の洋学校と合併し宮本中学校となる)に入学し、柘植善吾や英人宣教師ジョージ・オーウェンから、英語、幾何学、地理、博物学を学ぶ。 1875年(明治8年)官立東京英語学校、1876年(明治9年)官立東京開成学校予科(1877年(明治10年)に官立東京英語学校と統合して東京大学予備門となる)理科を経て、1878年(明治11年)9月東京大学理学部に第一期生として入学し、星学を専攻する。
澤山 勇三郞(さわやま ゆうざぶろう、1860年7月17日(… 澤山 勇三郞(さわやま ゆうざぶろう、1860年7月17日(万延元年5月29日)- 1936年(昭和11年)10月23日)は日本の数学者、陸軍教授。澤山-テボーの定理やフォイエルバッハの定理について20通り以上の証明を与えたことで知られる。 1860年(万延元年)、酒造業の武安治平の五男として長州藩厚狭郡二俣瀬村(現・宇部市)に生まれる。家業を継ぐ予定であったが、本人の強い希望で16歳のとき山口県の鴻城学舎に入り、英語・数学を学ぶ。当時県内には優れた英語教育者が少なかったので、ハワイ帰りで地元の刑務所に服役していた者から英語を学んだというエピソードがある。24歳で萩中学校の準助教諭となり、29歳の時に数学の中等教員の免状を得た。
寺尾 寿(てらお ひさし、安政2年9月25日(1855年11… 寺尾 寿(てらお ひさし、安政2年9月25日(1855年11月4日) - 大正12年(1923年)8月6日)は、明治・大正時代の福岡県出身の日本の天文学者、数学者。近代日本天文学の基礎を固めたことで知られている。門下生には平山信、木村栄、平山清次らがいる。
菊池 大麓(きくち だいろく、1855年3月17日〈安政2年… 菊池 大麓(きくち だいろく、1855年3月17日〈安政2年1月29日〉- 1917年〈大正6年〉8月19日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の数学者、教育行政官。男爵、理学博士。 東京帝国大学(東京大学の前身)理科大学長・総長、文部次官・大臣、学習院長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、帝国学士院院長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。 蘭学者の箕作秋坪とつね夫妻の次男として江戸天神下(現:新宿区喜久井町)の津山藩の下屋敷に生まれ、父の実家・菊池家の養嗣子となった。秋坪は蘭学者箕作阮甫の弟子で、つねはその阮甫の三女である。 蕃書調所(東京大学の前身)で英語を学び、1867年(慶応3年)に幕府派遣で、1870年(明治3年)に新政府派遣で、2度に渡り英国に留学した。
高橋 卯之助(たかはし うのすけ、男性、1833年(天保4年… 高橋 卯之助(たかはし うのすけ、男性、1833年(天保4年) - 1902年(明治35年)1月26日)は、日本の数学者。明治6年の太陰暦の廃止、太陽暦への改暦の準備を行った。通称は卯之助だが、後に卯と改めた。本名は高橋義泰。
剣持 章行(けんもち あきゆき、旧字体: 劍持章行、1790… 剣持 章行(けんもち あきゆき、旧字体: 劍持章行、1790年12月8日(寛政2年11月3日)- 1871年7月27日(明治4年6月10日))は日本の数学者、和算家。諱は章行。字は成紀。号は豫山または任数堂。通称は要七。後半生は関東各地を遊歴し、香取、海上、印旛、匝瑳、常陸、武州等を中心に、約1000人の門弟を持った。 上野国吾妻郡沢渡(現在の群馬県中之条町)に生まれ、本業は農業。幼いころから数学を好んだ。小野榮重に師事し、1824年(文政7年)には「小野栄重門人 上毛吾妻郡澤渡邑 剣持要七郎章行」として清水寺(高崎市石原町)観音堂に算額を奉納している。1827年(文政10年)栄重から免許皆伝を与えられた。
森口繁一 は、日本の応用数学者。東京大学名誉教授。
松本 幸夫 は、日本の数学者。東京大学名誉教授。専門は位相幾… 松本 幸夫 は、日本の数学者。東京大学名誉教授。専門は位相幾何学。主に幾何学的トポロジーや低次元トポロジーの分野の研究を行った。
竹崎正道 は、日本の数学者。宮城県仙台市出身。専門は作用素環… 竹崎正道 は、日本の数学者。宮城県仙台市出身。専門は作用素環論、関数解析学。
小野寺 一浩(おのでら かずひろ)は、日本の数学者。専門は代… 小野寺 一浩(おのでら かずひろ)は、日本の数学者。専門は代数学(特に多重ゼータ関数、多重三角関数)。千葉工業大学先進工学部教育センター(先進工学部)准教授。 整数論への応用を見据えた多重化した三角関数・ゼータ関数の性質を主に研究している。 特にMordell–Tornheim型多重Hurwitzゼータ関数やその一般化に関する成果を発表している。 主な研究キーワード:ゼータ関数、多重ゼータ関数、Wittenゼータ関数、零点の位数、特殊値、多重三角関数
池田 薫(いけだ かおる)は、日本の数学者。慶應義塾大学教授… 池田 薫(いけだ かおる)は、日本の数学者。慶應義塾大学教授。専門は微分積分学、戸田格子の量子化の研究。 この項目は、数学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
神吉 雅崇(かんき まさたか)は、日本の数学者。関西大学シス… 神吉 雅崇(かんき まさたか)は、日本の数学者。関西大学システム理工学部准教授。専門は可積分系。
中野 史彦(なかの ふみひこ)は、日本の数学者(博士(数理科… 中野 史彦(なかの ふみひこ)は、日本の数学者(博士(数理科学))、学習院大学教授である。専門は偏微分方程式、数理物理学である。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
見村 万佐人(みむら まさと、英: Masato Mimur… 見村 万佐人(みむら まさと、英: Masato Mimura)は、日本の数学者、東北大学大学院理学研究科准教授。幾何学的群論(Geometric Group Theory)および離散数学(特にエクスパンダー族)を専門とする。 主な研究分野は幾何学的群論と離散構造。具体的には「群の剛性現象」と「(ラベルつき)ケイリーグラフの収束」を2つの主軸とし、エクスパンダー族、粗い幾何(coarse geometry)、固定点性質、従順性、Kazhdanの性質(T)、極値組合せ論的現象(セメレディの理論や擬ランダム性を含む)などを扱う。 群のケイリーグラフを通じて、コンパクト多様体や複体の基本群の性質、無限次元バナッハ空間への群作用などを研究している。
宮崎 直哉(みやざき なおや)は、日本の数学者。慶應義塾大学… 宮崎 直哉(みやざき なおや)は、日本の数学者。慶應義塾大学経済学部経済学科教授。 この項目は、数学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
太田 慎一(おおた しんいち)は、日本の数学者。 大阪大学大… 太田 慎一(おおた しんいち)は、日本の数学者。 大阪大学大学院理学研究科 数学専攻 教授(栄誉教授)。 専門は幾何学、特に解析学や確率論と関係が深い微分幾何学や幾何解析学。
高木 剛(たかぎ つよし)は、日本の応用数学者。東京大学大学… 高木 剛(たかぎ つよし)は、日本の応用数学者。東京大学大学院情報理工学系研究科数理情報学専攻教授。専門は暗号理論など。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
井関 裕靖(いぜき ひろやす)は、日本の数学者、慶應義塾大学… 井関 裕靖(いぜき ひろやす)は、日本の数学者、慶應義塾大学理工学部教授、理学博士。
伊山 修(いやま おさむ)は、日本の数学者。東京大学大学院数… 伊山 修(いやま おさむ)は、日本の数学者。東京大学大学院数理科学研究科教授。専門は表現論、とくに整環の表現論。博士課程の指導教員は土方弘明で、日本の表現論の草分け的存在である岩堀長慶の孫弟子にあたる。 1991年札幌北高校を卒業して京都大学理学部に進学。京都大学大学院理学研究科に進み、1998年3月に博士号を取得。姫路工業大学(兵庫県立大学)助手、同 講師を経て、2005年名古屋大学多元数理科学研究科助教授、2009年には30代半ばで教授となっている。2020年 東京大学数理科学研究科教授。多元環および整環の表現論の研究から出発して、Cohen–Macaulay加群の表現論の分野において斬新なアイデアを適用し、多くの未解決問題を解決した。
高田 英行(たかだ ひでゆき)は、日本の数学者。専門は数理フ… 高田 英行(たかだ ひでゆき)は、日本の数学者。専門は数理ファイナンス、応用数学。東邦大学理学部情報科学科教授。高校生時代に発見した高田の定理で知られる。 岩手県出身。1989年、岩手県立盛岡第一高等学校1年生在籍時に、円に内接する五角形に関する高田の定理を予想した。この定理は『大学への数学』への投稿をきっかけに東京理科大学教授の大槻富之助により証明され、高田の定理と命名された。この業績は高校生による発見としてメディアで話題となった。 専門は応用数学、統計数学、特に数理ファイナンス。金融市場のダイナミクスを確率解析とコンピュータを用いて研究。クレジットデリバティブのプライシング、ヘッジ、リスクマネジメントに関する理論モデルと数値計算技術を主なテーマとする。
今野 一宏(こんの かずひろ)は、日本の数学者、九州大学教授… 今野 一宏(こんの かずひろ)は、日本の数学者、九州大学教授、大阪大学大学院理学研究科教授、関西大学教授。 宮城県に生まれる。宮城県古川高等学校卒業。1982年京都大学理学部卒業。1984年東北大学大学院理学研究科修士課程修了。1987年博士課程修了。
黒木 玄(くろき げん)は、日本の数学者。学位は、博士(数理… 黒木 玄(くろき げん)は、日本の数学者。学位は、博士(数理学)(名古屋大学)。インターネット黎明期に知識人や研究者が集った「黒木のなんでも掲示板」で知られ、岩田規久男らの「昭和恐慌研究会」にも参加。「匿名」による批判を禁止する、通称「黒木ルール」も提唱した。また、ソーカル事件の日本への紹介や、かけ算の順序問題への提言でも実績がある。数学では表現論の研究に取り組み、τ関数の量子化でも実績がある。2023年東北大学大学院理学研究科数学専攻多様体論講座助教。 秋田県出身。秋田県立本荘高等学校を経て、東北大学理学部数学科卒業。東北大学大学院理学研究科数学専攻修士課程を修了し、同大学理学部数学科助手に就任(遅くとも1992年には着任。