増原 義剛(ますはら よしたけ、1945年6月1日 - )は… 増原 義剛(ますはら よしたけ、1945年6月1日 - )は、日本の元政治家。自由民主党所属の元衆議院議員。広島県広島市出身。現在、広島経済大学経済学部教授。座右の銘は「人間至る所に青山あり」。
6月1日生まれ:354人
増原 義剛(ますはら よしたけ、1945年6月1日 - )は… 増原 義剛(ますはら よしたけ、1945年6月1日 - )は、日本の元政治家。自由民主党所属の元衆議院議員。広島県広島市出身。現在、広島経済大学経済学部教授。座右の銘は「人間至る所に青山あり」。
安斎 正人(あんざい まさひと、1945年6月1日 - )は… 安斎 正人(あんざい まさひと、1945年6月1日 - )は、日本の考古学者、東北芸術工科大学教授。 満洲・海城生まれ。1970年東京大学文学部考古学科卒業。1975年同大学院人文科学研究科博士課程退学。東京大学文学部助手、2007年助教、2008年東北芸術工科大学東北文化研究センター教授。2003年「旧石器社会の構造変動」で早稲田大学文学博士。
輿水肇(こしみず はじめ、1944年6月1日 - 2020年… 輿水肇(こしみず はじめ、1944年6月1日 - 2020年2月29日)は、日本の緑化造園学者。元明治大学農学部教授。農学博士(東京大学・1976年)。専門は運動場芝生や人工地盤などにおける緑化植物の植栽研究など。 公益財団法人都市緑化機構代表理事・理事長。自然環境共生技術協会会長。TOKYO GREEN 2020推進会議会長。(社)日本緑化工学会会長、(財)都市緑化技術開発機構評議員、(財)国立公園協会理事、(財)日本緑化センター理事、(社)日本公園緑地協会公園緑地研究所長、日本造園学会会長なども歴任。委員会委員は川崎市公共事業評価審査委員会委員、防災公園計画設計・管理運営ガイドライン改訂検討委員会委員鎌倉市緑政審議会会長 他、多数。
岡田 康彦(おかだ やすひこ、1943年6月1日 - )は、… 岡田 康彦(おかだ やすひこ、1943年6月1日 - )は、日本の大蔵・環境官僚、弁護士。環境事務次官などを歴任した。 愛知県宝飯郡出身。愛知県立時習館高等学校、東京大学法学部卒業。大学在学中に国家公務員上級試験で1位を取り(長野庬士と同点)、司法試験にも合格する。1966年に大蔵省に入省する。配属先は大臣官房財務参事官付。同期には長野のほか、武藤敏郎(東京五輪・パラリン競技大会組織委員会事務総長、日銀副総裁、初代財務事務次官、主計局長)、中島義雄(Kエナジー代表取締役、財政金融研究所長、主計局次長)、佐藤謙(世界平和研究所理事長、防衛事務次官)、中山成彬(国土交通大臣、文部科学大臣、初代経済産業副大臣)、中山恭子(拉致問題担当大臣、首相補佐官〈北朝鮮による拉致問題担当〉)らがいる。
長尾 亜夫(ながお つぐお、1943年6月1日 - )は、日… 長尾 亜夫(ながお つぐお、1943年6月1日 - )は、日本の実業家。元・西日本鉄道代表取締役社長。前・西日本鉄道代表取締役会長。現・西日本鉄道相談役。 福岡県出身。福岡県立田川高等学校を経て、九州大学法学部卒業。 2003年6月から2008年6月まで約5年間にわたり代表取締役社長を務め、この間、宮地岳線の一部廃止及び貝塚線への改称、天神大牟田線のスピードアップ、非接触型ICカード乗車券「nimoca」の導入などを行った。 2008年6月には、代表取締役社長を竹島和幸に譲り、代表権を有する会長に就任した。 2013年6月27日、会長を退任し、相談役に就任。
州村 衛香(すむら えいこう、女性、1943年6月1日 - … 州村 衛香(すむら えいこう、女性、1943年6月1日 - )は、日本のいけばな作家。 東京都出身。草月流師範会理事、草月会本部講師、財団法人草月会評議員、日本いけばな芸術協会特別会員、いけばな協会評議員、いけばなインターナショナル会員、IKEBANA ATRIUM主宰。
内藤 秀雄(ないとう ひでお、1943年(昭和18年)6月1… 内藤 秀雄(ないとう ひでお、1943年(昭和18年)6月1日 - )は、日本の実業家。シンメンテホールディングス代表取締役社長。 福岡県出身。1966年西南学院大学経済学部を卒業。
石田 正範(いしだ まさのり、1942年6月1日 - 201… 石田 正範(いしだ まさのり、1942年6月1日 - 2011年11月20日)は、日本の企業家。CKD会長。 1942年6月1日、愛知県生まれ。大学卒業後、1965年に中京電機株式会社(現CKD)入社。CKD株式会社取締役総務部長兼広告宣伝部長、同社取締役営業本部長、同社代表取締役専務営業本部長、同社代表取締役副社長を歴任する。 2005年に同社代表取締役社長へと昇格する。就任中は、アジア事業を大幅に強化するなど手腕をみせた。2008年6月同社代表取締役会長に就任。 2011年11月20日、名古屋市の病院で死去。69歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
伊東 豊雄(いとう とよお、1941年6月1日 - )は、日… 伊東 豊雄(いとう とよお、1941年6月1日 - )は、日本の建築家。一級建築士。伊東豊雄建築設計事務所代表。 東京大学、東北大学、多摩美術大学、神戸芸術工科大学で客員教授を歴任。高松宮殿下記念世界文化賞、RIBAゴールドメダル、UIAゴールドメダル、日本建築学会賞作品賞2度、グッドデザイン大賞、2013年度プリツカー賞など受賞歴多数。多摩美術大学大学院美術研究科教授。 1941年(昭和16年)、父親が日本と日本統治時代の朝鮮を行き来して陶磁器事業をしていた関係で、朝鮮の京畿道京城府(現・大韓民国ソウル特別市)に生まれる。 2歳頃から中学生までを祖父と父の郷里である長野県諏訪郡下諏訪町で過ごす。
大黒 正一(だいこく しょういち、1941年6月1日 - )… 大黒 正一(だいこく しょういち、1941年6月1日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手。 八幡浜高校では2年生の時に夏の甲子園に出場。 1960年に大阪タイガースへ入団。1963年に阪急ブレーブスへ移籍するも一軍試合出場は無く同年で退団した。
門岡 良典(かどおか よしのり、1941年6月1日 - )は… 門岡 良典(かどおか よしのり、1941年6月1日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手。中日ドラゴンズに所属した門岡信行は弟。 高田高校から1961年に毎日大映オリオンズへ入団。僅か1試合の出場で、2年目の1962年に引退した。 門岡のオリオンズ入団は、翌年卒業する弟の信行を獲得するためだったとも言われている。
橋本 博之(はしもと ひろゆき、1941年6月1日 - )は… 橋本 博之(はしもと ひろゆき、1941年6月1日 - )は、日本の経営者。尼崎信用金庫理事長を務めた。 大阪府出身。1966年に関西大学法学部を卒業し、同年に尼崎信用金庫に入社した。1994年に理事に就任し、1996年に常務、1997年に専務、1998年に副理事長を経て、1999年1月には理事長に就任。2014年6月には会長に就任。
大木 あまり(おおき あまり、1941年6月1日 - )は、… 大木 あまり(おおき あまり、1941年6月1日 - )は、日本の俳人。本名は吉本章栄(ふみえ)。 東京府東京市豊島区目白に生まれる。詩人の大木惇夫の三女で、姉は藤井康栄(北九州市立松本清張記念館館長)と宮田毬栄(編集者・エッセイスト)。頌栄女子学院高等学校、武蔵野美術大学洋画科卒業。 1971年、母の勧めで俳誌「河」に入会、角川源義の指導を受ける。源義逝去ののち、1979年、進藤一考主宰の「人」に参加、同人。1983年、「人」を退会。「泉」の「雲の会」に時おり参加し、石田勝彦、綾部仁喜の指導を受ける。1990年、長谷川櫂、千葉皓史と「夏至」を創刊、同人。1994年、長谷川櫂主宰の「古志」に入会。
嘉数 知賢(かかず ちけん、1941年〈昭和16年〉6月1日… 嘉数 知賢(かかず ちけん、1941年〈昭和16年〉6月1日 - 2024年〈令和6年〉10月15日)は、日本の政治家。沖縄県本部町出身。自由民主党所属の元衆議院議員(4回)。 1941年6月1日生まれ。1966年に早稲田大学第一政治経済学部を卒業。1980年、沖縄県議会議員に当選し、5期務めた。1994年には県議会議長に就任する。 1996年の第41回衆議院議員総選挙に宮里松正の後継者として自民党から初当選(当選同期に河野太郎・菅義偉・平沢勝栄・渡辺喜美・大村秀章・河本三郎・桜田義孝・下地幹郎・下村博文・新藤義孝・滝実・棚橋泰文・田村憲久・谷畑孝・戸井田徹・松本純など)。防衛庁長官政務官や内閣府大臣政務官を歴任。
勝呂 誉(すぐろ ほまれ、1940年6月1日 - 2026年… 勝呂 誉(すぐろ ほまれ、1940年6月1日 - 2026年1月23日)は、日本の俳優。兵庫県芦屋市出身。 兵庫県立芦屋高等学校卒。俳優座で演劇勉強中の1961年、テレビドラマ「青年の樹」でデビュー。 1962年に松竹に移籍、『下町の太陽』で倍賞千恵子と共演。公募で決まった「サニー・カップル」の愛称で青春スター路線で数本製作。歌手としてもキングレコードと契約し、倍賞とのデュエットで「二人で胸を張れ」(横井弘作詞・安部芳明作曲)を発売、他にもソロ曲「銀座浪漫」(結城忍作詞・伴謙介作曲)を発表。後年もディナーショーなどで歌い続けていた。1965年の日米合作映画『勇者のみ』では監督・主演のフランク・シナトラと共演した。
田原 賢一(たはら けんいち、1939年6月1日 - 202… 田原 賢一(たはら けんいち、1939年6月1日 - 2021年2月1日)は、日本の数学者。第10代愛知教育大学長。 兵庫県出身。1963年、大阪学芸大学(現・大阪教育大学)教育学部数学科を卒業、1964年、同大学専攻科修了。1969年、名古屋大学大学院理学研究科博士課程単位取得。理学博士。同年4月、同大学の専任講師、1969年に助教授、1981年に教授(代数学)。 2001年7月1日から2008年3月末まで愛知教育大学の学長を務めた。国立大学協会大学評価委員会委員など歴任。2015年春の叙勲で瑞宝重光章受章。 2021年2月1日、老衰のため、死去。81歳没。
工藤 治夫(くどう はるお、1939年6月1日 - )は、日… 工藤 治夫(くどう はるお、1939年6月1日 - )は、日本の実業家。サンスター代表取締役会長などを務めた。 愛媛県西条市出身。愛媛県立西条高等学校、大阪市立大学経済学部卒業後、1965年サンスター歯磨(現サンスター)入社。サンスターマーケティング代表取締役社長などを経て、2006年からサンスター取締役副会長を、2007年から同社代表取締役会長を務めるなどし、選択と集中による経営資源の配分を進めるなどした。
菅生 浩(すごう ひろし、1938年6月1日- )は、日本の… 菅生 浩(すごう ひろし、1938年6月1日- )は、日本の児童文学作家。 福島県郡山市出身。福島県立安積高等学校卒業。その後、上京して砂田弘と出会い、創作活動に専念。 1975年『巣立つ日まで』で日本児童文学者協会新人賞受賞、翌年NHK少年ドラマの原作となる。1983年『子守学校の女先生』を含む三部作で山本有三記念路傍の石文学賞受賞。 八王子市、大宮市に住んだ後、現在は郷里の郡山市在住。
阪口 美奈子(さかぐち みなこ、1937年6月1日 - 20… 阪口 美奈子(さかぐち みなこ、1937年6月1日 - 2016年5月30日)は、日本の女優、声優。坂口 美奈子(読み同じ)名義での活動もある。劇団民藝に所属していた。東京都牛込区出身。 夫は俳優、声優の前田昌明。娘は舞踏家・振付師の前田新奈。 学校法人雙葉学園在学時、劇場公開されていた『ローマの休日』のオードリー・ヘプバーンを見たことで女優を志し、卒業後に劇団民藝へ入団。1950年代後半から舞台に立ち、同劇団の看板女優として活動。テレビドラマにも出演し、吹き替えでは声優としても活動した。 出産後の舞台で腰を痛めたことで、30代後半から活動は控えめになったという。2016年5月30日に死去。78歳没。
神沼 克伊(かみぬま かつただ、1937年6月1日 - )は… 神沼 克伊(かみぬま かつただ、1937年6月1日 - )は、日本の固体地球物理学者、極地研究家。国立極地研究所ならびに総合研究大学院大学名誉教授。地震、火山、ならびに極地研究の第一人者として活躍。 神奈川県川崎市生まれ。神奈川県立湘南高等学校卒業。東京理科大学理学部物理学科卒業。東京大学大学院理学研究科博士課程修了後、東京大学地震研究所に入所し、地震や火山噴火予知の研究に携わる。地震被災地や火山に赴いての指導や執筆活動等で活躍。
福地 泡介(ふくち ほうすけ、1937年6月1日 - 199… 福地 泡介(ふくち ほうすけ、1937年6月1日 - 1995年1月5日)は、日本の漫画家、随筆家、アマチュア雀士、放送タレント。福地 泡介(つくりの包の己の部分が巳)の表記も用いた。本名、福地 豊。 岐阜県関市生まれ。生家は刃物製造会社を経営し、志津三郎兼氏の末裔とされる。岐阜県立関高等学校在学中から新聞や雑誌へ漫画の投稿を行い、プロを志して荻原賢次に弟子入りを志願するが断られ、京都で予備校に通いながら浪人生活を送り、早稲田大学法学部に入学。早稲田大学漫画研究会に入部。2年上級にしとうきねおと園山俊二が、1年上級に同い年の東海林さだおがいた(2年生での入部で、福地と同期入部)。1959年、福地・東海林ほか、他校の学生漫画家を加えた4人で「グループ'59」を結成し、一般誌に合作漫画の売り込みを行ったが、ほとんど採用されずにグループは数か月で解散に追い込まれた。
牟田 泰三(むた たいぞう、1937年6月1日 - )は、日… 牟田 泰三(むた たいぞう、1937年6月1日 - )は、日本の物理学者である。理学博士。研究分野は、理論物理学素粒子論。 福岡県久留米市出身。福岡県立明善高等学校、九州大学理学部物理学科卒業、東京大学大学院数物系研究科物理学専攻修了(理学博士)。京都大学理学部助手、同大学基礎物理学研究所助教授を経て、1982年から2001年まで広島大学理学部教授。2001年より2007年5月21日まで、広島大学学長。 2007年10月より2009年6月まで、福山大学学長。2011年から2015年まで、マツダ株式会社社外取締役。 広島大学学長在任中、同大相撲部をモデルとした映画「ちゃんこ」に学長役として特別出演した。
平田 隆義(ひらた たかよし、1937年6月1日 - )は、… 平田 隆義(ひらた たかよし、1937年6月1日 - )は、日本の政治家。鹿児島県奄美市長(1期)。名瀬市長(3期)。名瀬市議会議員(3期)。 鹿児島県奄美市名瀬有良出身。鹿児島県立大島高等学校を経て、1961年中央大学法学部卒。東京での社会人生活の後、帰島して印刷会社を経営。奄美大島青年会議所理事長、名瀬市議を3期務め、1994年名瀬市長成田広男の辞職に伴う市長選に立候補して初当選。連続3期務めた。 2006年3月20日に名瀬市は住用村、笠利町と合併して奄美市が誕生。これに伴い、名瀬市長は3月19日付で退任となった。奄美市発足に伴う市長選挙に立候補し、拓殖大学教授の叶芳和を723票差で破った。
初瀬 龍平(はつせ りゅうへい、1937年6月1日 - )は… 初瀬 龍平(はつせ りゅうへい、1937年6月1日 - )は、日本の政治学者。現在は京都女子大学法学部客員教授、神戸大学名誉教授。専門は、国際関係論。
池森 賢二(いけもり けんじ、1937年6月1日 - )は、… 池森 賢二(いけもり けんじ、1937年6月1日 - )は、日本の実業家、エンジェル投資家。ファンケル創業者で、同社代表取締役社長や、代表取締役会長ファウンダー、日本通信販売協会会長等を歴任した。 三重県宇治山田市(現伊勢市)で東洋紡績技術者の次男として生まれる。産業能率短期大学中退後、1959年小田原瓦斯入社。1973年小田原瓦斯退社。1980年無添加化粧品事業を創業。1981年ファンケル設立、同社代表取締役社長。1999年東京証券取引所第一部上場。2003年ファンケル代表取締役会長。2004年ファンケル取締役会長。2005年ファンケル名誉会長。2013年ファンケル代表取締役会長執行役員。2017年ファンケル代表取締役会長執行役員ファウンダー。
西元 徹也(にしもと てつや、1936年〈昭和11年〉6月1… 西元 徹也(にしもと てつや、1936年〈昭和11年〉6月1日 - 2024年〈令和6年〉4月3日)は、日本の陸上自衛官、軍事評論家。第23代陸上幕僚長、第20代統合幕僚会議議長。元隊友会会長。1佐までの職種は機甲科。 鹿児島県垂水市出身。父親の仕事の関係で小中学校の時に二度ほど横浜に住んだが、中学一年の時に垂水市にもどる。県立垂水高校卒業後、防衛大学校に入校するが、高校の野球の試合の時に鹿児島の桟橋で防大生に出会ったことがきっかけであった。防大卒業後の1959年(昭和34年)に陸上自衛隊に入隊。幹部候補生学校卒業後は機甲科に進み、初任地は北恵庭の第101戦車大隊。ここでの勤務がその後の部隊勤務の基礎ができたと語っている。
崎山 克彦(さきやま かずひこ、1935年6月1日 - )は… 崎山 克彦(さきやま かずひこ、1935年6月1日 - )は、NGO「南の島から」代表。 福岡県出身。東京都立新宿高等学校(1954年卒)を経て慶應義塾大学法学部卒。 1959年に講談社へ入社し、1964年にカリフォルニア大学大学院においてジャーナリズムを専攻した後に講談社インターナショナル・アメリカ社にて勤務した。 1991年、フィリピン・セブ島沖にあるカオハガン島を1千万円で購入した。以来、島の教育・医療・産業などを整備し、小規模ながら島内にロッジや公共トイレなどの宿泊施設を設けることでグリーンツーリズムの精神に基づく観光を島民の収入源にするなど、積極的に行動を起こしている。 1995年、著書による紹介により増加した日本人観光客らが、島民の子供たちの教育環境の向上などの目的で、NGO「南の島から(from a southern island)」を設立、自身も代表を務める。
柳田 博明(やなぎだ ひろあき、1935年6月1日 - 20… 柳田 博明(やなぎだ ひろあき、1935年6月1日 - 2006年11月20日)は、日本の化学者、地域経済総合研究所名誉評議員。東京大学名誉教授。元名古屋工業大学学長。長野県小諸市生まれ。東京都出身。
小林 實(こばやし まこと、1935年6月1日 - 2017… 小林 實(こばやし まこと、1935年6月1日 - 2017年6月18日)は、日本の自治官僚。長野県長野市出身。 長野県長野高等学校を経て、昭和33年(1958年)東京大学法学部第1類(私法コース)卒業。同年、自治庁(現総務省)に入庁し、北海道庁に配属される。同39年(1964年)栃木県総務部地方課長、同42年(1967年)京都府教育管理課長、同48年(1973年)自治省大臣官房参事官、同55年(1980年)北九州市助役、同58年(1983年)同省財政局財政課長、同61年(1986年)自治省大臣官房審議官、同62年(1987年)10月1日 同大臣総務審議官、平成元年(1989年)6月 同大臣官房長、同平成2年(1990年)7月 財政局長などを歴任後、同3年(1991年)10月 自治事務次官を務めた。
芦尾 長司(あしお ちょうじ、1934年〈昭和9年〉6月1日… 芦尾 長司(あしお ちょうじ、1934年〈昭和9年〉6月1日 - )は、日本の政治家、自治官僚。 元自由民主党所属の参議院議員(1期)。無派閥。 兵庫県神戸市に生まれる。1953年 滝川高等学校卒業。1959年京都大学法学部卒業。自治省に入省。 1975年 北海道財政課長。1977年 自治省財政局財務調査官。1979年 静岡県知事公室長。1982年 自治省財政局公営企業第一課長。1983年 宮崎県副知事。1987年 自治省行政局公務員部長。 1989年 総務審議官。1990年 国土庁地方振興局長。1992年 兵庫県副知事。 1996年 参議院兵庫補欠選挙で当選。1997年 自民党に入党。1998年 第18回参議院議員通常選挙で落選する。
加藤 多一(かとう たいち、1934年6月1日 - 2023… 加藤 多一(かとう たいち、1934年6月1日 - 2023年3月18日)は、日本の児童文学作家。 北海道紋別郡滝上町生まれ。北海道大学教育学部卒業。在学中に砂沢喜代次、斎藤秋男が顧問を務める北大童話会「童話研究」創刊に参加する。 札幌市役所に入庁し、広報課長、市民文化室長などを歴任。札幌芸術の森オープンの実務責任者となる。1986年に市役所を退職し、稚内北星学園短期大学教授に就任(1992年に退任)する。 1976年に『白いエプロン白いヤギ』が日本童話会賞A賞、『ふぶきだ走れ』が第10回北海道新聞文学賞佳作を受賞し、童話作家としてデビュー。以後、主に北海道農村部を舞台とした児童小説を多く手がける。
横山 光次(よこやま みつつぐ、1933年6月1日 - )は… 横山 光次(よこやま みつつぐ、1933年6月1日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手。
山本 英樹(やまもと ひでき、1933年6月1日 - 201… 山本 英樹(やまもと ひでき、1933年6月1日 - 2018年3月25日)は、日本の経営者。日東電工社長を務めた。大阪府出身。 1956年に大阪大学薬学部を卒業し、同年に日東電気工業(のちの日東電工)に入社。1983年6月に取締役に就任し、1989年6月に常務、1995年6月に専務を経て、1996年6月に社長に就任。2001年4月に会長に就任。 2018年3月25日慢性閉塞性肺疾患のために死去。84歳没。
稲葉 京子(いなば きょうこ、1933年6月1日 - 201… 稲葉 京子(いなば きょうこ、1933年6月1日 - 2016年11月19日)は、日本の歌人。歌誌「短歌」選者。 愛知県江南市生まれ。本名は大竹京子。1952年愛知県立尾北高等学校卒。小学校教師となるが、体力がなく翌年退職。童話を書くようになり、与田準一の紹介で同人誌「童話」に入会。1957年『婦人朝日』に投歌、選者の大野誠夫の薦めで「砂廊」(のち「作風」)入会。同年、「中部短歌会」にも入会。1958年銀行員と結婚。 童話を書いていた経験から、初期作品は少女の夢想のような物語性が濃い。第一歌集『ガラスの檻』は青井史に「現代のメルヘン」と評された。後年は人生の悲哀を深く見つめた作風へと変化した。
日下 弘(くさか ひろし、1932年6月1日 - 1989年… 日下 弘(くさか ひろし、1932年6月1日 - 1989年2月13日)は、日本のデザイナー、装丁家。 東京生まれ。東京芸術大学美術学部卒業。1956年、同研究科修了。 1950年代、デザイン事務所「デスカ・DESKA (DESigners Kono Associates)」(河野鷹思と、河野の妻の静子が創設)に参加。仲條正義、福田繁雄、江嶋任、森下俊彦らがメンバーだった。 60年代~70年代、創元推理文庫のブックデザインを多数担当した。また、角川文庫のJ・D・サリンジャー作品、アルベルト・モラヴィア作品のデザインも担当。 1961年東京芸術大学講師、1964年女子美術大学講師、1966年日本エディタースクール講師、1969年愛知県立芸術大学講師を経て、後に東京学芸大学教育学部教授を務めた。
石松 愛弘(いしまつ よしひろ、1932年6月1日 - 20… 石松 愛弘(いしまつ よしひろ、1932年6月1日 - 2025年11月28日)は、日本の脚本家、小説家。 福岡県飯塚市に生まれ、大牟田市、宗像市に育つ。福岡県立宗像高等学校、東京大学文学部美学美術史学科卒。大学在学中から東宝のシナリオ研究会に所属。最初は東宝の入社試験を受けるが、採用者が決定する直前になって「胸に影」があったのが理由となって採用取り消しとなり、その代わりに大映を紹介してもらい、卒業後大映に入社し、白坂依志夫、舟橋和郎、増村保造らに師事。 1960年『弾痕街の友情』でデビューし、1962年に大映と脚本家契約をする。 以来、テレビと映画の別なく骨太なハードボイルド、任侠作品を数多く執筆し、大映のみならずカラーの異なる東宝、東映、日活といった各社でも活躍。
横山 武(よこやま たけし、1932年6月1日 - )は、日… 横山 武(よこやま たけし、1932年6月1日 - )は、日本の福音派牧師。 山形県出身。青山学院大学、慶應義塾大学を卒業。東京神学塾卒業し、日本バプテスト教会連合東京中央バプテスト教会牧師を務める。お茶の水聖書学院講師となる。 その他、東京基督教大学監事、キングスガーデン埼玉理事長、CS成長センター顧問などに在任した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
黒田 成俊(くろだ しげとし、1932年6月1日 - )は、… 黒田 成俊(くろだ しげとし、1932年6月1日 - )は、日本の数学者。東京大学名誉教授、学習院大学名誉教授。専門は関数解析、数理物理。 1932年生まれ。黒田成勝の長男で、高木貞治の孫。1955年 東京大学理学部物理学科卒業、東京大学理学部助教授、教養学部教授,学習院大学理学部教授を経て、東京大学名誉教授、学習院大学名誉教授。理学博士。シュレーディンガー作用素の数学的散乱理論で先駆的な業績を挙げた。 師は加藤敏夫。池部晃生、藤田宏とともに東京大学物理学科の加藤研究室に在籍していた。1970年 ニースで開催された国際数学者会議では全体講演者の加藤敏夫とともに招待講演者を務めた。 この項目は、数学者に関連した書きかけの項目です。
佐藤 大八郎(さとう だいはちろう、 1932年(昭和7年)… 佐藤 大八郎(さとう だいはちろう、 1932年(昭和7年)6月1日 - 2008年(平成20年)5月28日)は、日本の数論学者。学位はDoctor of Philosophy(カリフォルニア大学ロサンゼルス校・1963年)。東京福祉大学教授。完全k乗二項係数図形における「Sato-Strausの定理」を発見した。 静岡県富士宮市出身。東京教育大学を卒業後に渡米し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校でMsc(Master of Science)とPh.D.(Doctor of Philosophy)の学位を取得した。その後、カナダのサスカチュワン大学、レジャイナ大学で教鞭を執り1997年に退職。2000年から2006年まで東京福祉大学教授を務めた。
有本 義明(ありもと よしあき、1931年6月1日 - )は… 有本 義明(ありもと よしあき、1931年6月1日 - )は、兵庫県芦屋市出身のスポーツライター・解説者、野球監督。 現在はスポーツニッポン特別編集委員。 父・臣次は育英商から関西大を出て野球に親しみ、西宮市出身で甲陽中にも在籍した天知俊一と一緒の写真もあった。有本が幼い頃にキャッチボールすると「ちゃんと捕れるじゃないか」と喜んでくれた。 1945年8月15日の終戦後、9月に新学期を迎えると、当時芦屋中2年生の有本は剣道部に入部。小学生時代から壁当てや天井投げをして野球に親しんでいたが、野球部はなかった。芦屋中進学は甲南中受験に失敗したからであり、この時も西脇の疎開先で転校手続きに入っていた。そんな折、10月に校内軟式野球大会が芦屋・打出浜の海技専門学校であった。
和田 英一(わだ えいいち、1931年6月1日 - )は、日… 和田 英一(わだ えいいち、1931年6月1日 - )は、日本の計算機科学者。東京大学名誉教授、IIJ技術研究所研究顧問。
高根 正昭(たかね まさあき、1931年6月1日 - 198… 高根 正昭(たかね まさあき、1931年6月1日 - 1982年9月2日)は、日本の社会学者。 東京出身。1954年学習院大学法学部政治学科卒業、1965年スタンフォード大学大学院コミュニケーション専攻修士課程修了、1972年カリフォルニア大学大学院社会学専攻博士課程修了、社会学博士。カリフォルニア州立大学助教授を経て、上智大学教授となった。直腸癌のため51歳で死去した。
木原孝博(きはら たかひろ、1931年6月1日- )は、日本… 木原孝博(きはら たかひろ、1931年6月1日- )は、日本の教育学者。岡山大学名誉教授。 岡山県英田郡英田町(現美作市)出身。1955年東京大学教育学部卒、1957年同大学院人文科学研究科修士課程修了。名古屋大学医学部精神科医局員、1959年岡山大学助手、1962年講師、1968年助教授、1978年教授。1995年定年退官、名誉教授、倉敷市立短期大学学長。
井川 良久(いかわ よしひさ、1931年6月1日 - 200… 井川 良久(いかわ よしひさ、1931年6月1日 - 2009年2月21日)は、元NHKアナウンサー。 陸軍幼年学校と早稲田大学に在籍後に、1955年、NHK入局。落ち着いた低音の語り口は、高度成長期の多くの人々の印象に刻まれた。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(アナウンサーPJ)。
田山 力哉(たやま りきや、1930年6月1日 - 1997… 田山 力哉(たやま りきや、1930年6月1日 - 1997年3月23日)は、日本の映画評論家である。 兵庫県神戸市出身。旧制都立武蔵中学校を経て早稲田大学第一政治経済学部経済学科卒業。 日新火災海上保険を経て、1961年に日本放送協会に入局し、国際局に勤務した。並行して、映画雑誌の『キネマ旬報』『映画評論』には1950年代初めから読者投稿を繰り返し常連採用者となっていた。 やがて、読者から常連執筆者となり、1969年にNHKを退局。以後、フリーランスの立場で映画評論やフランス語翻訳などの執筆活動を行い、毒舌の辛口映画評論家として知られた。特にフランス映画に強く、1972年以降フランスのカンヌ国際映画祭には繰り返し出席してレポート記事を執筆した。
熊井 啓(くまい けい、1930年6月1日 - 2007年5… 熊井 啓(くまい けい、1930年6月1日 - 2007年5月23日)は、日本の映画監督。妻はエッセイストでポプリ研究家の熊井明子。多くの監督作が『キネマ旬報ベスト・テン』に選出され、ベルリン国際映画祭やヴェネツィア国際映画祭の各賞を受賞した。日本を代表する社会派映画の巨匠である。 長野県南安曇郡豊科町(現安曇野市)生まれ。田町小学校、県立松本中学校(現長野県松本深志高等学校)、松本高等学校 (旧制)から学制改革により信州大学文理学部卒業。大学時代は演劇と映画の日々を送っていたが、関川秀雄監督の誘いで卒業後は独立プロの助監督へ。さらに1954年日活撮影所監督部に入社する。そこで久松静児、田坂具隆、阿部豊、牛原陽一などの助監督に付くかたわら脚本家としての仕事もこなす。
塚崎 幹夫(つかざき みきお、1930年6月1日 - )は、… 塚崎 幹夫(つかざき みきお、1930年6月1日 - )は、フランス文学者、評論家、富山大学名誉教授。 神戸市生まれ。1953年京都大学仏文科卒、同大学院を経て富山大学教養部助教授、教授。ロジェ・カイヨワの翻訳のほか、多彩な著書で知られる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
小枝 英勲(こえだ ひでのり、1929年〈昭和4年〉6月1日… 小枝 英勲(こえだ ひでのり、1929年〈昭和4年〉6月1日 - 2014年〈平成26年〉8月12日)は、日本の政治家。岡山県久米郡中央町長。岡山県議会議員・議長。(自由民主党)。 岡山県久米郡加美村(加美町→中央町を経て、現在の美咲町)原田に生まれる。旧制岡山県立津山中学校(現在の岡山県立津山中学校・高等学校)を経て、明治大学法学部を卒業する。卒業後は、アメリカのスタンフォード大学大学院に学び、修了する。帰国後は全国農業協同組合中央会に入り、経理課長、教育部次長などを務める。その後、帰郷し、1976年の衆議院議員総選挙に岡山1区から新自由クラブ公認で立候補したが、落選した。3年後の1979年の総選挙では無所属で立候補したが落選した。
豊田 達郎(とよだ たつろう、1929年6月1日 - )は、… 豊田 達郎(とよだ たつろう、1929年6月1日 - )は、日本の実業家。学位は経営学修士(ニューヨーク大学経営大学院)。トヨタ自動車株式会社相談役、公益財団法人トヨタ財団会長(第2代)、学校法人トヨタ学園理事長(第2代)。
木下 順一(きのした じゅんいち、1929年〈昭和4年〉6月… 木下 順一(きのした じゅんいち、1929年〈昭和4年〉6月1日 - 2005年〈平成17年〉10月27日)は、日本の作家、雑誌編集長。北海道函館市真砂町(後の大手町)出身。東京都台東区上野の文部省図書館職員養成所(後の図書館情報大学)卒業。 図書館職員養成所時代から小説家を志し、学友たちと文芸雑誌を創刊し、小説を掲載するなどの活動を行なっていた。21歳のときに書いた小説『怪物』は、作家の埴谷雄高から評価を受けた。 1962年(昭和37年)、地元の函館で季刊誌『函館百点』(後に『はこだて』、さらに後に『街』と改題)の創刊メンバーに加わり、創刊後も編集と発行に携わった。1975年(昭和50年)からは函館文学学校の講師を務め、雑誌と学校で地元の人材育成と地域文化に貢献した。