松山 幸雄(まつやま ゆきお、1930年4月3日 - 202… 松山 幸雄(まつやま ゆきお、1930年4月3日 - 2021年10月30日)は、日本のジャーナリスト。 東京都出身。1953年東京大学法学部卒、朝日新聞社に入り、政治部、ワシントン特派員、ニューヨーク支局長を経て74-76年アメリカ総局長。論説委員兼編集委員、論説副主幹、1983年論説主幹、1985年取締役。退任後は、ハーヴァード大学客員研究員、1993年共立女子大学教授。1976年ボーン・上田記念国際記者賞、1977年『日本診断』で吉野作造賞、1978年日本記者クラブ賞、1986年ベストメン、1986年『国際対話の時代』で石橋湛山賞受賞。
吉田 次郎(よしだ じろう、1930年4月3日 - )は、… 吉田 次郎(よしだ じろう、1930年4月3日 - )は、日本の地方公務員、経営者。神奈川県総務部長、テレビ神奈川社長を務めた。神奈川県横浜市出身。勲四等瑞宝章受章。 1954年に東京都立大学人文学部を卒業し、同年に神奈川県庁に入庁。総務部長、湘南国際村専務を経て、1994年6月にテレビ神奈川社長に就任し、1998年6月までに務めた。2000年春の叙勲で勲四等瑞宝章を受章。
前田 武彦(まえだ たけひこ、1929年〈昭和4年〉4月3日… 前田 武彦(まえだ たけひこ、1929年〈昭和4年〉4月3日 - 2011年〈平成23年〉8月5日)は、日本の男性タレント・放送作家・テレビ司会者。三桂所属。愛称はマエタケ。 1960年代、それまで台本を読み上げる形式が一般的だった放送司会に「フリートーク」「楽屋オチ」「世間話」といった手法を持ち込み、最盛期にはその毒舌と絶妙な話術から「フリートークの天才」と呼ばれた。 司会や脚本家のほか、作詞家として平井和正原作のアニメ『エイトマン』の主題歌の作詞(萩原哲晶作曲、克美しげる歌唱)もしている。血液型はA型。趣味はヨットで、ヨット関係の月刊誌に連載コラムをもっていた。 1929年、東京府東京市芝区(現在の東京都港区芝)に生まれる。
桜井 眞一郎(さくらい しんいちろう、1929年4月3日 -… 桜井 眞一郎(さくらい しんいちろう、1929年4月3日 - 2011年1月17日)は日本の自動車技術者。 株式会社エス・アンド・エス エンジニアリング取締役会長。日本自動車殿堂入り、オーテックジャパン初代代表取締役。神奈川県出身。戸籍上の氏名は、櫻井 眞一郎。 旧プリンス自動車工業時代より日産自動車時代に渡るまでスカイラインの開発に携わる。2代目の途中からは開発責任者(主管)として7代目の開発終盤まで長期間携わっていたことから、「GT-Rの生みの親」「ミスタースカイライン」「スカイラインの父」として知られている。 清水建設に勤務していた時代に「日本で初めてバッチャープラントとコンクリートミキサー車(生コン車)を開発した」と伝えられるが、これについては異論も出されている。
若林 真(わかばやし しん、1929年4月3日 - 2000… 若林 真(わかばやし しん、1929年4月3日 - 2000年3月14日)は、日本のフランス文学者・作家・翻訳家・批評家。慶應義塾大学名誉教授。 新潟県佐渡郡生まれ。1948年、慶應義塾大学文学部予科に入学。1949年、新制の慶應義塾大学文学部に入学。翌年、仏文学専攻に進学。同窓に山川方夫、田久保英夫がおり、親しく交流した。在学中は小説を執筆したり、『三田文学』で批評を行ったりした。1953年、慶應義塾大学文学部仏文学専攻を卒業。1956年、慶應義塾大学文学研究科仏文学専攻修士課程修了。1959年、同大学院博士課程満期退学、慶應義塾大学文学部助手。1961年同専任講師、1965年同助教授、1970年同教授。
熊谷 榧(くまがい かや、1929年4月3日 - 2022年… 熊谷 榧(くまがい かや、1929年4月3日 - 2022年2月24日)は、日本の画家。日本山岳画協会会員。東京都出身。 画家・熊谷守一の次女として東京都に生まれる。1951年、日本女子大学卒業。二児の母。 20代より山に魅せられ、多くの山を巡るうち自然と絵を描き始める。次第に父親と同じ「画家」という道を歩み出す。時同じく山スキーのとりこになり1960年代には既にヨーロッパの雪山をガイド付きで滑る。当時、日本人女性がひとりで欧州のスキーツアーを組むことはごく稀であった。 1977年、父・熊谷守一の死後、東京都豊島区千早にあった守一の旧居跡地に熊谷守一美術館を1985年創立。「父は画家だった。画家は絵だけが残ればよい。
加藤 富夫(かとう とみお、1928年(昭和3年)4月3日 … 加藤 富夫(かとう とみお、1928年(昭和3年)4月3日 - 1977年(昭和52年)12月2日)は、日本の小説家、教員。 秋田県雄勝郡湯沢町(現・湯沢市)生まれ。1968年に文學界新人賞を受賞したほか、1971年から1975年にかけて四度芥川賞候補となった。 秋田県立横手中学校(現・横手高等学校)在学中に予科練に入隊し、土浦海軍航空隊で桜花特攻要員として訓練中、秋田県北秋田郡合川町(現・北秋田市)の大野岱で終戦を迎えた。復員後、秋田県立湯沢南高等学校(現・湯沢高等学校)から秋田大学学芸学部(現・教育文化学部)英語科に進み、1954年(昭和29年)3月に卒業。秋田県の高校英語科教員として、横手・湯沢北 ・湯沢高校などで教鞭を執った。
吉崎正義(よしざき せいぎ、1928年4月3日 - )は日本… 吉崎正義(よしざき せいぎ、1928年4月3日 - )は日本の厚生医系技官。環境庁大気保全局長、厚生省医務局長、健康政策局長などを歴任。 新潟県出身。東京大学医学部医学科卒業。1956年 厚生省入省。1970年7月1日 鳥取県厚生部長。1974年1月16日 鳥取県衛生環境部長。同年6月11日 厚生省環境衛生局水道環境部環境整備課長。1975年7月8日 厚生省医務局国立療養所課長。1977年6月21日 厚生省医務局国立病院課長。1979年8月7日 厚生省大臣官房統計情報部長。1981年12月 環境庁大気保全局長。1983年8月26日 厚生省医務局長。1984年7月1日 厚生省健康政策局長。1985年8月17日 退官。
江口 孝夫(えぐち たかお、1928年4月3日- )は、日本… 江口 孝夫(えぐち たかお、1928年4月3日- )は、日本の国文学者。江田 孝二(えだ こうじ)名義での著作もある。 千葉県生まれ。東京教育大学東洋文学科卒、東京成徳短期大学教授を務め、1999年退職。上代から近世までの日本文学・日本漢詩を研究し多数の著作を執筆、後年は特に川柳の紹介に力を尽くした。ほか大学入試の参考書も書いた。
市瀬 由自(いちのせ よしみ、1928年4月3日 - 没年不… 市瀬 由自(いちのせ よしみ、1928年4月3日 - 没年不明)は、日本の地理学者、地形学者。 長野県下伊那郡竜江村(現飯田市)に生まれ、1948年4月上京し、法政大学高等師範部地歴科に入学、資源科学研究所の嘱託研究員として勤務(1970年3月まで)する傍ら、1953年に文学部地歴科を卒業、新設された法政大学大学院人文科学研究科地理学専攻修士課程の第一期生として入学、1965年には博士課程を修了し、法政大学文学部専任講師、1968年助教授、1970年教授となり、1999年定年退職するまで、多くの学生を指導した。 河川源流部における地滑りや崩壊地の形成、付随する土砂暦の供給と運搬に関する研究に始まり、人間の生活の舞台として位置づけられる沖積平野を主に地殻運動の観点から調査し、平野の形成過程を吟味し、沿岸部の砂丘地形に関する研究や、平野の地形環境と遺跡の立地と分布に関する研究など、地形形成に関与する「河川の作用」をベースに研究を進めた。
中野 弘彦(なかの ひろひこ、1927年4月3日 - 200… 中野 弘彦(なかの ひろひこ、1927年4月3日 - 2004年3月4日)は日本画家。山口県生まれ。京都市育ち。
河合 誓徳(かわい せいとく、1927年4月3日 - 201… 河合 誓徳(かわい せいとく、1927年4月3日 - 2010年3月7日)は、日本の陶芸家、日本芸術院会員。 大分県東国東郡国見町生まれ。1940年、旧制宇佐中学校に入学するも、1943年、鹿児島海軍航空隊甲飛13期飛行練習生として入隊。上海海軍航空隊を経て、終戦により復員。1947年、京都で山本紅雲に師事。1949年、国東へ戻るが陶磁の道を諦められず、諸隈貞山に弟子入りする。1951年、京都の加藤利昌の下で下絵付に従事。1952年、京都陶芸家クラブに加入し、6代清水六兵衛に師事。1952年、日展に初入選。1953年、河合栄之助の長女登志子と結婚し、河合家の後継者となる。その後、1961年設立の日本現代工芸美術家協会へ活躍の幅を広げ、その作品は数多くの賞を受賞する。
加藤 寛(かとう ひろし、1926年(大正15年)4月3日 … 加藤 寛(かとう ひろし、1926年(大正15年)4月3日 - 2013年(平成25年)1月30日)は、日本の経済学者。学位は経済学博士(慶應義塾大学)、慶應義塾大学名誉教授。名は「かん」と有職読みすることもある。政府税制調査会会長、内閣府規制改革担当顧問、嘉悦大学学長、千葉商科大学名誉学長、日本経済政策学会会長・日本計画行政学会会長・ソ連東欧学会代表理事・公共選択学会会長等を歴任。
端田 泰三(はしだ たいぞう、1926年(大正15年)4月3… 端田 泰三(はしだ たいぞう、1926年(大正15年)4月3日 - 2008年(平成20年)11月2日)は、日本の実業家、銀行家、企業経営者。富士銀行(現みずほフィナンシャルグループ)元頭取、会長、相談役。大阪府大阪市東区(現中央区)瓦町(所謂船場地区)出身。
加藤 寛(かとう ひろし、1926年(大正15年)4月3日 … 加藤 寛(かとう ひろし、1926年(大正15年)4月3日 - 2013年(平成25年)1月30日)は、日本の経済学者。学位は経済学博士(慶應義塾大学)、慶應義塾大学名誉教授。名は「かん」と読むこともある。政府税制調査会会長、内閣府規制改革担当顧問、嘉悦大学学長、千葉商科大学名誉学長、日本経済政策学会会長・日本計画行政学会会長・ソ連東欧学会代表理事・公共選択学会会長等を歴任。 位階は従三位。勲等は勲一等瑞宝章。 岩手県東磐井郡千厩町(現・一関市)生まれ。豊川市長などを歴任した加藤守道の二男。名前については「かとうかん」もしくは「カトカン」と言われることが多く、本人もそのように名乗ることがあった。
島田 良二(しまだ りょうじ、1926年4月3日 - 200… 島田 良二(しまだ りょうじ、1926年4月3日 - 2005年7月1日)は、日本の文学者。千葉大学名誉教授。 旧制松本高等学校文科、東京大学文学部を経て1957年、東京大学大学院文学研究科博士課程修了。千葉県立佐倉高等学校教諭、茨城大学人文学部助教授、千葉大学教養部教授を歴任。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
渡辺 五郎(わたなべ ごろう、1926年4月3日 - 200… 渡辺 五郎(わたなべ ごろう、1926年4月3日 - 2008年2月25日 )は、日本の農林官僚。農林水産事務次官、食糧庁長官、日本中央競馬会理事長を務めた。東京都出身。 1950年に東京大学経済学部を卒業し、1951年に農林省に入省。蚕糸局糸政課(現在の農産局総務課)に配属。1962年から農林経済局金融課で勤務する。 愛知用水公団総務部長、広島県農政部長、畜産局蓄政課長、大臣官房総務課長、大臣官房秘書課長、構造改善局農政部長などを経て、1977年に国土庁土地局次長になる。 1979年7月に大臣官房長に就任し、1981年7月に食糧庁長官を経て、1983年7月から1984年7月までに農林水産事務次官を務めた。
酒井 広(さかい ひろし、1926年4月3日 - 2017年… 酒井 広(さかい ひろし、1926年4月3日 - 2017年4月20日)は、日本の司会者、アナウンサーである。NHKを経てフリーアナウンサーとなり『酒井広のうわさのスタジオ』では、ほのぼのトークと親しみのある人柄で人気を集め一時代を築いた。 東京府東京市京橋区(現在の東京都中央区)出身。1950年、法政大学卒業。法大在学中は法政大学弁論部に所属。卒業後、NHKに入局。新潟・福岡[疑問点 – ノート]の各局を経て東京アナウンスへ。特に、社会・家庭教養番組で一時代を築いた[要出典]。 1982年にNHK退職後、フリーとなり、日本テレビ(局契約)・テレビ朝日などで活躍した。1989年の第15回参議院議員通常選挙では比例区から友部達夫らが結成した年金党公認候補として立候補するが、落選。
山下 武(やました たけし、1926年4月3日 - 2009… 山下 武(やました たけし、1926年4月3日 - 2009年6月13日)は東京生まれの文芸評論家、演出家。古本関係の著述活動で著名であった。 法政大学文学部卒業。日劇の舞台監督やNET(現・テレビ朝日)の演芸番組『大正テレビ寄席』のプロデューサーとディレクターを務めた。 椎名麟三に師事し、作家活動を行う。また近代文学研究者でも活動。工学院大学を経て、芝浦工業大学に勤務。 父は落語家の柳家金語楼、異母弟はロカビリー歌手として一世を風靡した山下敬二郎、異母妹は女優・声優の有崎由見子。祖父は三遊亭金勝。叔父は先代昔々亭桃太郎。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
松山 善三(まつやま ぜんぞう、1925年4月3日 - 20… 松山 善三(まつやま ぜんぞう、1925年4月3日 - 2016年8月27日)は、映画監督、脚本家。 神戸に生まれ、横浜で育つ。 1944年、横浜第三中学校(現:神奈川県立横浜緑ケ丘高等学校)卒業。中学校の同期生に佐野浅夫(俳優)がいる。その後、岩手医学専門学校(現・岩手医科大学)薬学部に入学するが、1946年中退。雑誌社でアルバイトをしているときに、斎藤良輔門下の脚本家と知り合い、映画に興味を持つ。 1948年、助監督公募に合格して松竹大船撮影所助監督部に入社する。中村登、吉村公三郎につくかたわら、同期入社の斎藤武市、中平康、鈴木清順らと「赤八会」というグループを作り、同人雑誌にシナリオを発表する。
鳥羽 欽一郎(とば きんいちろう、1924年4月3日 - )… 鳥羽 欽一郎(とば きんいちろう、1924年4月3日 - )は、日本の経営学者、早稲田大学名誉教授。
守田 志郎(もりた しろう、1924年4月3日 - 1977… 守田 志郎(もりた しろう、1924年4月3日 - 1977年9月6日)は、日本の農業経済学者。 シドニー生まれ。1943年成城学園成城高等学校卒業。1946年東京帝国大学農学部農業経済学科卒業。1950年まで農林技官。1954年東京大学大学院農業経済学科修了。1952年財団法人協同組合経営研究所研究員。1961年「明治期における地主経済の展開と地方資本」で、農学博士(東京大学)の学位を取得。1968年暁星商業短期大学(現・新潟中央短期大学)教授。1972年名城大学商学部教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
上杉 千郷(うえすぎ ちさと、1923年4月3日 - 201… 上杉 千郷(うえすぎ ちさと、1923年4月3日 - 2010年6月30日)は、日本の狛犬研究家、神職。学校法人皇學館常任顧問。 岐阜県吉城郡古川町(現・飛騨市)の神社社家19代目に生まれる。神宮皇學館大學付属専門部在学中に学徒出陣、第一期海軍飛行専修予備生徒となり海軍少尉任官、沖縄戦に参加する。1944年9月に神宮皇學館大學付属専門部、1950年3月に國學院大學文学部を卒業。 1952年4月に総理府事務官となり、その後、法務大臣秘書官、郵政大臣秘書官を経て、全国神社総代会参事、全国神社会館館長、岐阜県神社庁副庁長(1971年3月)、鎮西大社諏訪神社宮司(1982年4月)、世界連邦日本宗教委員会議長(1995年4月)、長崎県神社庁長(1998年7月)、世界宗教者平和会議日本委員会評議員(1999年4月)を歴任。
土屋 公献(つちや こうけん、1923年4月3日 - 200… 土屋 公献(つちや こうけん、1923年4月3日 - 2009年9月25日)は、日本の弁護士。元日弁連会長。 旧日本軍による731部隊や重慶爆撃などの国家賠償事件で弁護団長を務めた。 在日コリアンの人権問題にも深く関わり、朝鮮総連の代理人を務め、朝鮮高級学校生徒の高校体育連盟加盟問題では日弁連に人権救済を申し立て、高校総体参加への道を開く一方、北朝鮮による日本人拉致事件では日本人拉致被害者の家族を非難したり、朝鮮総連中央本部をめぐる詐欺事件への関与などの問題も起こした。 慰安婦問題では国連において、慰安婦を「性的奴隷(Sex Slaves またはSexual Slavery)」 と定義して国連から日本政府に対し補償を実行することを働きかけるよう運動した。
林 安夫(はやし やすお、1922年4月3日 - 1944年… 林 安夫(はやし やすお、1922年4月3日 - 1944年?)は、愛知県出身のプロ野球選手(投手)。弟は元プロ野球選手の林直明。
磯邊 律男(いそべ りつお、1922年 <大正11年> 4月… 磯邊 律男(いそべ りつお、1922年 <大正11年> 4月3日 - 2012年 <平成24年> 2月12日)は、日本の大蔵官僚、実業家。国税庁長官を経て、博報堂代表取締役社長を歴任した。2001年春勲二等旭日重光章受章。位階は正四位。 大分県東国東郡武蔵町(現:国東市)生まれ。教員だった父の転勤で日本統治時代の朝鮮(現韓国)の光州の小学校と旧制中学校を卒業後、旧制五高に進み、東京帝国大学法学部政治学科を卒業した1948年に大蔵省に入省(理財局)。 国税庁査察課長時代には、吹原産業事件のほか、田中彰治衆議院議員が小佐野賢治を恐喝した虎ノ門事件の調査を担当。調査の最中には、順天堂大学医学部附属順天堂医院に入院しているはずの田中が、病院を抜け出して大蔵省5階の国税庁査察課に現れ、「課長の磯邊はいるか」と声を張り上げ、「俺のことをこそこそ調べているようだが、やれるもんならやってみろ」と啖呵を切って引き揚げた。
松原 武生(まつばら たけお、1921年4月3日 - 201… 松原 武生(まつばら たけお、1921年4月3日 - 2014年12月15日)は、日本の物理学者。 大阪市出身。旧制北野中学、旧制大阪高校を経て、大阪帝国大学理学部物理学科を卒業。同大学院に進み「結晶によるX線散漫散乱の理論的研究」で博士号。同大助教授を経て北海道大学で教授に就任。その後は京都大学教授、岡山理科大学教授を歴任。元日本物理学会会長。 場の量子論の手法を統計物理学に適用することで、グリーン関数 に関する統計力学の手法を提案した。 豊沢豊と行った半導体の不純物バンドに関する研究は、ランダム格子内の電子の運動を記述する松原-豊沢モデルとなった。 他には誘電体、超伝導、超流動も研究した。
万井 正人(まんい まさんど、1921年4月3日 - 200… 万井 正人(まんい まさんど、1921年4月3日 - 2006年1月4日)は、日本の医学者。京都大学名誉教授、医学博士。専門は運動生理学。抗老化医学、作業能率や安全性、疲労の予防・回復などにかかわる研究を行う。1997年には、誰でもどこでも簡単にでき高齢者から子どもまで楽しめるスポーツとして、スカイクロスを考案。 1944年、京都帝国大学医学部医学科を卒業し、同大学医学部副手、大阪医科大学講師、龍谷大学講師、皇學館大学講師・助教授、京都大学助教授・教授を歴任。1984年に京都大学を退官後、名誉教授。また大阪産業大学教授をつとめた。1994年、勲三等瑞宝章受章。 2006年1月4日、京都市内の自宅で心不全のため85歳で死去した。
刺賀 信雄(さすが のぶお、1921年 <大正10年> 4月… 刺賀 信雄(さすが のぶお、1921年 <大正10年> 4月3日 - 2008年 <平成20年> 4月22日)は、日本の経営者。日本板硝子社長を務めた。位階は従四位。 東京都出身。1944年に神戸商業大学を卒業し、1948年に日本板硝子に入社。1971年5月に取締役に就任し、1976年6月に常務、1980年6月に専務を経て、1982年6月には社長に就任。1988年6月に会長に就任し、1994年6月には相談役に就任。 1991年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2008年4月22日に老衰のために死去。87歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
吉葉山 潤之輔(よしばやま じゅんのすけ、1920年4月3日… 吉葉山 潤之輔(よしばやま じゅんのすけ、1920年4月3日 - 1977年11月26日)は、北海道厚田郡厚田村(現:石狩市)出身で高島部屋に所属した大相撲力士。第43代横綱。本名は池田 潤之輔(いけだ じゅんのすけ)。 1920年4月3日に、北海道厚田郡厚田村(現:石狩市)で裕福だった網元の家に三男として生まれる。幼少期から身体が大きく、網元を営んでいたことから家族全員が怪力だったが、潤之輔少年は特に体格も大きく、力も強かった。やがて不漁が3年続いた末に家業が倒産してしまったことで、高等小学校卒業後は北海道製糖へ就職したが、学歴が無いことで技術を習得しようと一念発起し、単身で上京した。夜行列車で上野駅へ到着すると二人の若い力士が迎えに来ており、なぜか高島部屋へ連れて行かれた。
大西 尹明(おおにし ただあき、1918年4月3日 - 20… 大西 尹明(おおにし ただあき、1918年4月3日 - 2001年6月5日)は、日本の翻訳家。 東京出身。早稲田大学英文科卒業、戦後、明治大学政治経済学部教授を務めた。 1968年に川瀬広保らが創設した明治大学SF研究会の会長。レイ・ブラッドベリ『ウは宇宙船のウ』、H・P・ラブクラフトの作品などSF、怪奇小説の翻訳で知られる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
岡部 桂一郎(おかべ けいいちろう、1915年(大正4年)4… 岡部 桂一郎(おかべ けいいちろう、1915年(大正4年)4月3日 - 2012年(平成24年)11月28日)は歌人。 兵庫県神戸市生まれ。神戸尋常小学校、関西学院中等部を経て、熊本薬学専門学校(現熊本大学薬学部)卒業。 1937年(昭和12年)、山下陸奥の歌誌「一路」入会。1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)にかけて、作歌を中断。1947年(昭和22年)、上京し国立習志野病院の薬局長として勤務。1948年(昭和23年)、「一路」を退会し、山形義雄、芝山永治らと「工人」を創刊。1950年(昭和25年)、金子一秋、葛原繁、三木あや、山崎一郎らとともに「泥の会」の活動を開始。1954年(昭和29年)、山崎方代らと同人誌「黄」を創刊。
登坂 重次郎(とさか じゅうじろう、1913年4月3日 – … 登坂 重次郎(とさか じゅうじろう、1913年4月3日 – 1997年3月22日)は、日本の政治家。元衆議院議員(自由民主党所属)。現在の茨城県常総市出身。 会社員・登坂長吉の三男として生まれる。生後間もなく父母と死別し、父方の伯父・豊島重太郎に育てられる。1932年茨城県立水海道中学校(現在の茨城県立水海道第一高等学校)を卒業後、母校・水海道中学校の事務職員等を経て、1940年土浦税務署に入職する。1944年大蔵省本省に出向し、東京財務局(現在の関東財務局)長・池田勇人の秘書となる。以後池田に師事し、1948年池田の総選挙出馬を期に大蔵省を退官し、個人秘書となる。 1963年の第30回衆議院議員総選挙に、旧茨城3区から無所属で立候補し当選(当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・佐藤孝行・藤尾正行・中川一郎・三原朝雄・鯨岡兵輔・西岡武夫・奥野誠亮など)。
金田一 春彦(きんだいち はるひこ、1913年〈大正2年〉4… 金田一 春彦(きんだいち はるひこ、1913年〈大正2年〉4月3日 - 2004年〈平成16年〉5月19日)は、日本の言語学者、国語学者、邦楽研究家。日本語の音韻が専門。国語辞典などの編纂、日本語の方言におけるアクセント研究で知られる。邦楽にも造詣が深く、平曲研究の第一人者。著書に『日本語の特質』(1980年)、『日本語(新版)』(1988年)、『平曲考』(1997年)など。文学博士。栄典は勲三等旭日中綬章、紫綬褒章、瑞宝重光章。 その他の表彰歴として文化功労者、東京都名誉都民など。 父の京助も文学博士で日本学士院会員。長男の真澄も文学博士で慶應義塾大学名誉教授、次男の秀穂は言語学者で杏林大学外国語学部教授、長女の美奈子はフリーライター。
金 煥基(キム・ファンギ、朝鮮語: 김환기、1913年4月3… 金 煥基(キム・ファンギ、朝鮮語: 김환기、1913年4月3日〈太陰暦: 1913年2月27日〉 - 1974年7月25日)は、大韓民国の洋画家。全羅南道新安郡の安佐島(朝鮮語版)出身。 本貫は金海金氏。号は樹話(スファ、수화)。金 煥其(読み、ハングル同じ)という表記も見られる。卞東琳の夫であった。 日本統治時代の全羅南道新安郡に生まれた。1936年に日本大学美術学部卒業。その後吉鎮燮などと白蛮会を組織する一方、東京で個展を開いた。1946年から1949年までソウル大学校美術大学で教授を務め、新写実派展に出品した。幾度となく国展審査委員を務め、1952年に弘益大学校美術大学教授、1954年に芸術院の会員となった。
阿部 宗明(あべ ときはる、1911年4月3日 - 1996… 阿部 宗明(あべ ときはる、1911年4月3日 - 1996年8月9日)は、日本の魚類学者。とりわけ東アジアのフグの分類に関する業績を残している。1949年にフグ科の属としてトラフグ属を提案している。この他、数々の新種を発見し、また、献名も多く受けている。『日本産魚類図説』の編纂に第49巻より携わる。 1911年(明治44年)4月3日、東京の田端に生まれる。1919年(大正8年)、家族で台湾に移住する。1932年(昭和7年)に台北高等学校を卒業後、魚類学の道に進むため上京して東京帝国大学理学部動物学科に入学する。田中茂穂に師事する。1935年(昭和10年)、同学科を卒業し、東京帝国大学理学部大学院に進学する。
松谷 義範(まつたに よしのり、1911年4月3日 - 19… 松谷 義範(まつたに よしのり、1911年4月3日 - 1996年7月6日)は、日本の実業家、神学者。 山口県出身。1936年東京帝国大学文学部哲学科卒。教師、薬品メーカー勤務をへて、1948年東邦薬品を創設、社長となる。のち会長。神学の著作・翻訳も多く、演劇にも一家言を持つ。墓所は多磨霊園
木村 武夫(きむら たけお、1910年4月3日 - 1986… 木村 武夫(きむら たけお、1910年4月3日 - 1986年12月29日)は、日本史学者、社会事業学者。栄照寺住職。 京都市生まれ。別名・武応。1933年京都帝国大学文学部国史学科卒。大阪経済大学助教授、教授、龍谷大学教授、神戸女子大学教授、種智院大学教授。
佐々木 義武(ささき よしたけ、1909年4月3日 - 19… 佐々木 義武(ささき よしたけ、1909年4月3日 - 1986年12月13日)は、日本の政治家、官僚。位階は正三位、勲等は勲一等。衆議院議員(9期)、科学技術庁長官・通商産業大臣を歴任した。 秋田県河辺郡河辺町(後の秋田市)生まれ。秋田中学(後の秋田県立秋田高等学校)時代は野球部員として甲子園出場の経験がある。1933年東京帝国大学経済学部を卒業後、南満州鉄道に入社し、調査部に配属される。その後興亜院に転じ、ここで大蔵省出身の大平正芳、農林省出身の伊東正義らと知り合い、第二次世界大戦後も「九賢会」と称する会合を持って交流を深めた。以後企画院、大東亜省、内閣調査局にて調査官を歴任した。 戦後の1947年、経済安定本部に転じ、初代経済復興計画室長として、傾斜生産方式による政策の遂行に辣腕を振るった。
杉浦 茂(すぎうら しげる、1908年4月3日 - 2000… 杉浦 茂(すぎうら しげる、1908年4月3日 - 2000年4月23日)は、日本の漫画家である。東京府東京市本郷区湯島新花町(現在の東京都文京区湯島2丁目)生まれ。戦前はユーモア漫画や教育漫画を多く描いたが、戦後に手掛けた多くの独特でナンセンスなギャグ漫画は熱狂的な人気を呼び、88歳まで執筆活動を続けた。初期の筆名に杉浦シゲルがある。 杉浦の創作活動は3期に分けられる。戦前の第1期ではユーモア漫画や教育漫画を、徴兵を挟んで終戦の翌年からの第2期では、一転してナンセンスな子供向け漫画を多く手掛けた。この時期のうち、1953年から1958年までは、その殺人的な仕事量と、多くの代表作が生み出されたことから「杉浦茂の黄金期」とされ、「奇跡の5年間」とも表される。
圓城寺 次郎(えんじょうじ じろう、1907年(明治40年)… 圓城寺 次郎(えんじょうじ じろう、1907年(明治40年)4月3日 - 1994年(平成6年)3月14日)は日本のジャーナリスト、実業家。日本経済新聞社社長。 千葉県印旛郡公津村下方(現:成田市下方)の農家の次男として生まれる。農家とは言っても圓城寺家は成田の近郷にその名を知られた旧家だった。旧制成田中学(現:成田高等学校)四年の時、虫垂炎を患い、更に心臓も病むようになる。健康状態が思わしくない状態が続き、圓城寺本人は東京の大学へ進むつもりでいたが、千葉医専(現:千葉大学医学部)で診察を受けると「こんな体で東京に行くなんて死に行くようなもんだ」と医者におどかされてしまう。このため、いったん進学をあきらて、自宅で無為徒食の生活を三年続けた。
下田 武三(しもだ たけそう、1907年 <明治40年> 4… 下田 武三(しもだ たけそう、1907年 <明治40年> 4月3日 - 1995年 <平成7年> 1月22日)は、日本の外交官。外務事務次官、駐米大使、最高裁判所判事、日本野球機構コミッショナー。東京府出身。位階は従二位。 外交官、外務省官僚としてポツダム宣言の翻訳を初め、日米安全保障条約、沖縄返還、日米繊維交渉など、戦後の日米交渉に深く関与した。プロ野球のコミッショナーとしては、時代の求めていたプロ野球と野球界の近代化に手腕を振るった。 教育学者の下田次郎の三男として東京に生まれ、東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)、1925年に東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。
田中 祐之(たなか すけゆき、1907年4月3日 - 198… 田中 祐之(たなか すけゆき、1907年4月3日 - 1986年10月29日)は、日本の経済学者。元東京経済大学学長事務取扱。 大阪府出身。成器商業学校(現大阪学芸高等学校)を経て、1929年神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。1932年東京商科大学(現一橋大学)学部卒業。東京経済大学経済学部長などを務め、1951年から東京経済大学学長事務取扱。1953年退任。1979年勲三等瑞宝章受章。1986年叙正五位。
三浦 秀文(みうら しゅうぶん、1907年4月3日 - 19… 三浦 秀文(みうら しゅうぶん、1907年4月3日 - 1985年2月23日)は、日本の新聞編集者、実業家。元中日新聞社代表取締役社長、共同通信社理事会長。愛知県出身。 1907年(明治40年)、愛知県丹羽郡岩倉町(現在の岩倉市)で三輪陸太郎の三男として出生し、母方の実家を継いで三浦姓となった。1933年(昭和8年)に京都帝国大学法学部を卒業し、新愛知新聞社へ入社する。1942年(昭和17年)に戦時統制で新愛知と競合紙の名古屋新聞が合併して新たに中部日本新聞社が発足し、終戦を経て編集局長に起用された。 常務、専務を経て1964年(昭和39年)に副社長へ至り、翌1965年(昭和40年)に与良ヱ社長の主導で中日新聞社との統合交渉を進めていた東京新聞社の代表取締役副社長を兼務。
飯塚 浩二(いいづか こうじ、1906年4月3日 - 197… 飯塚 浩二(いいづか こうじ、1906年4月3日 - 1970年12月4日)は、日本の地理学者。人文地理学が専門。20世紀の日本を代表する地理学者の一人。 1906年、東京市本郷区(現:東京都文京区)で動物学者・飯塚啓の息子として生まれた。東京帝国大学経済学部で学び、1930年に卒業。1932年にフランス政府の給費学生の試験に合格し渡仏。留学してソルボンヌ大学地理学教室で学んだ。 1934年に帰国し、外務省国際文化事業部嘱託として勤務。1941年に立教大学経済学部教授に就いた。1943年、母校の東京帝国大学教授に就任し、同大の附属東洋文化研究所に勤務。東大の学部でも人文地理学の講義を受け持った。
福原 武(ふくはら たけし、1904年〈明治37年〉4月3日… 福原 武(ふくはら たけし、1904年〈明治37年〉4月3日 - 1996年〈平成8年〉1月21日)は、日本の生理学者、医師。医学博士。岡山大学医学部生理学教室生理学第二講座初代教授。岡山大学名誉教授、日本生理学会特別会員。 新潟県新潟市寄居町(現 新潟市中央区寄居町)出身。1921年(大正10年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1924年(大正13年)3月に新潟高等学校を卒業、1928年(昭和3年)3月に新潟医科大学を卒業。 1928年(昭和3年)4月に新潟医科大学生理学教室(担任:横田武三教授)助手に就任、1930年(昭和5年)4月に講師に就任、1932年(昭和7年)2月に新潟医科大学から医学博士号を取得、1933年(昭和8年)4月に新潟医科大学生理学教室助教授に就任、1938年(昭和13年)11月に永井潜の推薦で北京大学医学院生理学教室初代教授に就任、太平洋戦争後、1945年(昭和20年)12月に日本に帰国、1946年(昭和21年)6月に新潟医科大学薬理学教室(担任:木原玉汝教授)助教授に就任、1948年(昭和23年)7月に米子医科大学生理学教室初代教授に就任、1949年(昭和24年)5月に鳥取大学医学部生理学教室初代教授に就任、1954年(昭和29年)7月に岡山大学医学部生理学教室生理学第二講座初代教授に就任、1956年(昭和31年)5月に岡山で第33回日本生理学会総会を主催、1966年(昭和41年)7月に岡山で第8回日本平滑筋学会総会を主催、1970年(昭和45年)3月に岡山大学を定年退官、6月に川崎医科大学生理学教室初代教授に就任、1976年(昭和51年)3月に同大学を退任、同大学客員教授に就任。
森末 義彰(もりすえ よしあき、1904年4月3日 - 19… 森末 義彰(もりすえ よしあき、1904年4月3日 - 1977年12月17日)は、日本史学者、東京大学名誉教授。 1904年、香川県生まれ。1922年に第五高等学校に入学し、1925年に卒業。東京帝国大学文学部国史学科に進学し、1928年に卒業論文「江戸初期に於ける演劇と社會との関係」をまとめて卒業した、史料編纂所業務嘱託、1932年史料編纂官補、1936年史料編纂官。 戦後、1954年に東京大学史料編纂所教授となり、1962年より所長を務めた。1965年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は白百合女子大学教授として教鞭をとった。 「国書総目録」編集委員のひとり。
古池 信三(こいけ しんぞう、1903年(明治36年)4月3… 古池 信三(こいけ しんぞう、1903年(明治36年)4月3日 – 1983年(昭和58年)10月7日)は、昭和期の日本の政治家、官僚。位階は正三位。郵政大臣、国際電信電話(KDD、現KDDI)会長及び社長。 岐阜県大野郡高山町(現高山市)に生まれた。広瀬末吉の二男。古池喜代次郎の養子となった。古池家は清和源氏村上氏流の庶流で、美濃国恵那郡を本拠としていた一族だといわれている。 旧制斐太中学校(現岐阜県立斐太高等学校)、第一高等学校を経て、1928年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、逓信省に入省する。京都中央電話局加入課長、簡易保険局弁済課長、名古屋逓信局庶務課長、広島逓信局規画課長、電気局検査課長、電力管理準備局評価課長、電気庁第一部監督課長、官房総務課長、総務局需品課長、運輸省官房会計秘書各課長、札幌逓信局長、商工省電力局長、名古屋商工局長などを歴任。
会田 由(あいだ ゆう、1903年4月3日 - 1971年2… 会田 由(あいだ ゆう、1903年4月3日 - 1971年2月27日)は、日本のスペイン文学者、翻訳家。『ドン・キホーテ』の日本初の完訳者であり、日本のスペイン文化研究の先駆者である。 1903年、熊本県生まれ。1927年、東京外国語学校スペイン語科を卒業。在学中は永田寛定の下で学ぶ。 戦後の1949年、東京外国語大学講師となり、のち教授を務めた。その間、東京大学教養学部でも非常勤講師として、スペイン語授業を担当、スペイン文化研究の先鞭をつけた。1965年より神奈川大学教授を務めた。 数多くのスペイン語文学を翻訳したが、特に『ドン・キホーテ』の和訳を1962年に完結させ、最初の完訳者となった。翻訳は師の永田寛定訳(岩波文庫版)が先行していたが、手間取っているうちに会田が先に完成させ、以後数社の「外国文学全集」に収録され、重刷された。
中村翠恒(なかむら・すいこう、1903年4月3日ー1985年… 中村翠恒(なかむら・すいこう、1903年4月3日ー1985年9月8日)は昭和期の九谷焼の陶芸家。日展参与。元石川県陶芸協会会長。石川県指定無形文化財九谷焼技術保存会初代会長。戦前から帝展、新文展で活躍する。 明治36年生まれ。石川県加賀市出身。名工初代 中村秋塘の次男。本名は恒。 大正13年石川県立工業学校卒業。京都国立陶磁研究所に進み、安達陶仙、二代伊東陶山、河村蜻山、板谷波山らに師事する。 三代 秋塘を襲名。のち甥に譲り以降翠恒を名乗る。昭和60年9月8日老衰により石川県立中央病院にて死去。享年82歳。 昭和3年に第9回帝展において「彩釉彫牡丹文壷」が初入選。戦前は「秋塘」の名で出品している。