白木 一二(しらき かずじ、1915年11月3日 - 194… 白木 一二(しらき かずじ、1915年11月3日 - 1944年?)は、兵庫県出身のプロ野球選手(外野手)。
11月3日生まれ:408人
白木 一二(しらき かずじ、1915年11月3日 - 194… 白木 一二(しらき かずじ、1915年11月3日 - 1944年?)は、兵庫県出身のプロ野球選手(外野手)。
白 亨南(ペク・ヒョンナム、朝鮮語: 백형남、1915年11… 白 亨南(ペク・ヒョンナム、朝鮮語: 백형남、1915年11月3日 - 1950年)は、日本統治時代の朝鮮の教員、校長、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。本貫は水原白氏。 全羅北道益山郡黄登面(現・益山市)出身。咸羅公立普通学校(現・咸羅初等学校)、全州新興中学校を卒業後、日本大学文学部に入学した。これについて、3年次に中退したとも、修了したとも言われている。完州郡鳳東面私立永興学校の教員、黄登私立ケドン学校の教員と校長を務めたほか、黄登殉国青年同盟委員長、大韓独立促成国民会黄登支会副委員長、韓国光復青年会全北監察委員長と益山郡委員長、大同青年団益山軍団長、黄登軍団長などを務めた。1948年の初代総選挙に大同青年団の公認で益山郡甲選挙区から当選し、国会議員を1期務めた。
大来 佐武郎(おおきた さぶろう、1914年〈大正3年〉11… 大来 佐武郎(おおきた さぶろう、1914年〈大正3年〉11月3日 - 1993年〈平成5年〉2月9日)は、日本の逓信・経済企画官僚、外交官、政治家、経済学者。位階は正三位。 第二次世界大戦後の日本を代表する国際派のエコノミストであり、外務大臣(第108代)や総合研究開発機構研究評議会議長を務めた。 東京帝国大学工学部電気工学科卒業後、逓信省に入省した。工務局、興亜院出向を経て大東亜省に移籍した。第二次世界大戦終戦後に外務省調査局に勤務した。その後、芦田内閣の下に設置された経済安定本部で、池田勇人首相の肝煎りである所得倍増計画の策定に中心的に関わった。 大来は終戦直後から日本国内のみならず国外にも豊富な人脈を築き、また分け隔てなく留学を希望する者の紹介状を書いていた。
小山 一平(こやま いっぺい、1914年〈大正3年〉11月3… 小山 一平(こやま いっぺい、1914年〈大正3年〉11月3日 - 2011年〈平成23年〉4月2日)は、日本の政治家。 日本社会党参議院議員(3期)。参議院副議長。位階は従三位。 長野県埴科郡南条村(現・坂城町)出身。旧制上田中学校(現・長野県上田高等学校)卒業。1932年(昭和17年)から養魚業に従事し、1951年(昭和26年)上田市議会議員に当選。1955年(昭和30年)から長野県議会議員を2期務め、社会党長野県本部委員長、同県議団長を兼任する。1963年(昭和38年)から上田市長を3期務め、任期途中で辞職し、1974年(昭和49年)の第10回参議院議員通常選挙に長野県選挙区から日本社会党公認で出馬し初当選。
伊東 一夫(いとう かずお、1914年11月3日 - 200… 伊東 一夫(いとう かずお、1914年11月3日 - 2004年9月17日)は、日本近代文学研究者。主として島崎藤村や島木赤彦を研究し、島崎藤村学会会長、同名誉会長、島木赤彦研究会長を務めた。 長野県諏訪郡下諏訪町生まれ。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1940年、東洋大学文学部国文学科卒業、東洋大学文学部研究科に入学する。1941年、同文学部研究科を退学し、東洋大学文学部副手、冨山房の事務手伝い、日本文化協会研究員、旧制松本高等女学校(現・長野県松本蟻ヶ崎高等学校)教諭を兼職する。 1945年、長野県立諏訪中学校に転任。1956年、東洋大学文学部専任講師、1959年助教授、1969年教授。
戸倉 勝城(とくら かつき、1914年11月3日 - 199… 戸倉 勝城(とくら かつき、1914年11月3日 - 1997年6月6日)は、山口県出身のプロ野球選手(外野手)・監督。 豊浦中学を経て、法政大学を卒業。卒業後は、大連満倶・林兼商店でプレーイングマネージャーを務めた。1950年に社会人野球大洋漁業から河内卓司らと引き抜かれ、この年創立された毎日に入団。 35歳という高齢でのプロ入りながら、同年3月11日のパ・リーグ開幕戦(西鉄戦)で4番を打ち、初打席で木下勇から本塁打を放って初打席初本塁打とパ・リーグ第1号本塁打を記録した。この年の7月5日の大映戦(後楽園球場)では、ナイターでの第1号本塁打を記録する。最終的には21本塁打、96打点でチームの初優勝に貢献した。
井村 二郎(いむら じろう、1914年11月3日 - 201… 井村 二郎(いむら じろう、1914年11月3日 - 2011年5月6日)は、日本の実業家。井村屋グループの創業者。三重県松阪市出身[1]。井村正勝は長男[1]。
山川 篤(やまかわ あつし、1914年(大正3年)11月3日… 山川 篤(やまかわ あつし、1914年(大正3年)11月3日 - 1997年(平成9年)5月29日)は、日本のフランス文学者。名古屋大学名誉教授。 愛知県(現:岩倉市)出身。東京で育ち、麻布中学校、旧制浦和高等学校卒、1938年東京帝国大学文学部仏文科卒。外務省嘱託として仏印に渡る。1948年第八高等学校教授、49年名古屋大学教養部助教授、56年文学部助教授、70年教授、71年「フローベール研究 作品批評史 1850~1870」で東大文学博士。78年名大定年退官、名誉教授。南山大学教授、83年退職。
酒井 弘(さかい ひろむ、1914年(大正3年)11月3日 … 酒井 弘(さかい ひろむ、1914年(大正3年)11月3日 - 1996年(平成8年)12月9日)は、昭和期の歌手。 兵庫県丹波篠山市出身。大阪音楽学校、武蔵野音楽学校中退後、1935年(昭和10年)に東京音楽学校に入学する。同校卒業後、テノール歌手として活躍。1937年(昭和12年)3月、ポリドールから「春の感傷」でレコードデビュー。その際は三村博という変名であった。その後、コロムビアレコードに移籍し、代表曲は「戦友の遺骨を抱いて」(この曲は各社競作)、「比島決戦の歌」、「あゝ紅の血は燃ゆる」、「僕は空へ君は海へ」など戦時歌謡中心である。戦後は東京芸術大学で助教授を務める。1982年(昭和57年)まで同校に勤務し、「発声の技巧とその活用法」などの著書のほか「日本歌曲の歌い方と日本語の発音」などの著書も発表した。
植木 幸明(うえき こうめい、1914年11月3日 - 19… 植木 幸明(うえき こうめい、1914年11月3日 - 1986年11月24日)は、日本の医学者、新潟大学名誉教授。新潟県における第二水俣病を確認したことなどで知られる。 新潟県北蒲原郡堀越村大字里に生まれ、新潟医科大学を卒業した。 1951年(昭和26年)に東京帝国大学助手となり、1956年(昭和31年)に新潟大学医学部助教授として外科学講座に着任した。当時は、中田瑞穂教授らとともに大脳の半分を摘出する手術をおこなった。 1958年(昭和33年)にはジョンズ・ホプキンズ大学へ留学し、1962年(昭和37年)には新潟大学医学部教授に昇任した。この間、1959年(昭和34年)から1967年(昭和42年)まで医学部附属脳外科研究施設長を務め、1967年(昭和42年)からは新潟大学脳研究所脳神経外科学部門教授となり、その後1972年(昭和47年)から1976年(昭和51年)、また1978年(昭和53年)から1980年(昭和55年)にかけて脳研究所所長を務め、1980年(昭和55年)に定年退官した。
井村 二郎(いむら じろう、1914年11月3日 - 201… 井村 二郎(いむら じろう、1914年11月3日 - 2011年5月6日)は、日本の実業家。井村屋グループの創業者。三重県松阪市出身。井村正勝は長男。 1932年に松阪商業学校を卒業し、父親が経営する和菓子屋を継ぐ。1947年に井村屋製菓を創業し、社長に就任。1974年に会長を経て、1979年に相談役に就任した。 2011年5月6日、肺炎のために死去。96歳没。
黒坂 周平(くろさか しゅうへい、1913年11月3日 - … 黒坂 周平(くろさか しゅうへい、1913年11月3日 - 2003年2月7日)は日本の地方史研究家、郷土史家、教師。 長野県小県郡西塩田村(現上田市)に生まれる。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て長野師範学校を卒業し、学校教師になる。1950年、『上田小県誌』史料編纂委員となる。1972年、上田市立第三中学校を退職し、郷土史研究に専念する。 1973年、東信史学会を創立し会長に就任、雑誌『千曲』を刊行。1979年、塩田平文化財研究所を設立し所長に就任。1990年喜寿を記念し論文選集(献呈論文集含む)『信濃の歴史と文化の研究』を刊行した。また平凡社の『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』の監修を務めた。
菅谷 正貫(すがや まさみち、1913年11月3日 - 19… 菅谷 正貫(すがや まさみち、1913年11月3日 - 1983年9月23日)は、日本の哲学者。 水戸市に島六郎として生まれる。正貫と改名、1937年立正大学文学部哲学科卒、菅谷敏子と結婚し菅谷姓となる。1942年立正大学文学部副手、1944年文部省教学錬成所錬成官補、1950年立正大学文学部講師、52年助教授、58年教授、59-66年文学部長、68年学監、71年学長。73-76年立正大学短期大学部学長兼任。83年立正大学退任。
安寿吉(An Su Kil, アン・スギル、1911年11月… 安寿吉(An Su Kil, アン・スギル、1911年11月3日 - 1977年4月18日)は、韓国の小説家。号は南石。安は幼年期を間島で過ごした。間島は朝鮮独立運動の盛んな場所であったため、安は亡国人の苦しみを特に目の当たりにしていたのだろう。安の文学は、亡国という苦しみをひとつのテーマに置いている。 1911年11月3日、咸鏡南道咸興市に生まれる。父は安鎔浩、母は金淑卿の2男1女の長男。父の安鎔浩は間島の龍井にある光明高等女学校の校監を務めていた。安が5歳のとき、興南市西湖里に引越し、ここで戸籍を登録したので、原籍は興南市である。興南市の小学校に通い、13歳で満州の間島に引っ越す。間島中央学校を卒業し、再び咸興市に戻り、1926年3月、咸興高等普通学校に入学する。
天満 和人(てんまん かずと、1911年〈明治44年〉11月… 天満 和人(てんまん かずと、1911年〈明治44年〉11月3日 - 没年不明)は、日本の実業家、医師。産婦人科、天満医院長。米子ゴルフ倶楽部社長。 鳥取県米子市出身。山内定次郎の二男。9歳の頃に天満徳次郎の養嗣子となる。米子中学校(現・米子東高校)在学中に養父が亡くなり、養母により育成される。 松山高等学校理科乙類を卒業。1937年、大阪帝国大学を卒業。大阪帝国大学講師として8年間在職し、1943年に徳島医学専門学校教授、産婦人科を担当し、医育の傍ら教育に専念する。 1945年に大戦に応召、軍医少尉に任官、鳥取陸軍病院に勤務する。その間養母の死、徳島大空襲羅災等重なる災厄のため帰郷する。1946年に現地において産婦人科医院を開業する。
藤尾 純(ふじお じゅん、1911年11月3日 - 1987… 藤尾 純(ふじお じゅん、1911年11月3日 - 1987年3月12日)は、日本の俳優。大阪府大阪市南区心斎橋筋(現在の同市中央区)出身。本名:藤尾 徳二(ふじお とくじ)。女優の中原早苗は長女だが、早苗が幼少の頃に家を出たため、藤尾の妻・南部雪絵が1人で育てた。娘婿は映画監督の深作欣二で、孫の深作健太も映画監督である。 中外商業高等学校(現在の兵庫県立尼崎北高等学校)中退。1927年、諸口十九一座に入団し、京都座で初舞台を踏む。その後、榎本健一らの浅草カジノ・フォーリー、ムーランルージュ新宿座などで活躍した。 戦後、新風ショウを結成。喜劇の脇役として親しまれた。また、戦前から東宝の映画を中心に数多くの作品に出演していたが、1965年、東京映画製作の映画『大勝負』を最後に映画界を離れ、舞台に専念した。
大賀 小四郎(おおが こしろう、1910年(明治43年)11… 大賀 小四郎(おおが こしろう、1910年(明治43年)11月3日 - 1991年(平成3年)2月24日)はドイツ文学者、外交官。兵庫県西宮市の甲陽中学校出身(七回卒)。妻はヴァイオリニストの諏訪根自子。 1934年京都帝国大学文学部独文科卒。1937年からドイツのライプツィヒ大学に学ぶ。1939年に、帰国し外務省に入り、結婚するも、その後、外交官補としてベルリンに赴任。ドイツ留学中は朝永振一郎とも交流があった。 1945年、ドイツの敗戦とともに、アメリカ軍に捕らえられて、アメリカに拘留。この一連の出来事では、前田陽一、諏訪根自子が一緒だった。 帰国後、1949年、一高教授を経て、東京大学教養学部助教授、教授を1969年まで歴任した。
曽根 嘉年(そね よしとし、1910年11月3日 - 200… 曽根 嘉年(そね よしとし、1910年11月3日 - 2003年10月22日)は、日本の経営者、技術者。三菱自動車工業社長を務めた。 愛媛県出身。1933年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に三菱航空機名古屋製作所に入社。堀越二郎率いる軍用機設計チームで堀越の補佐を務め、九六艦戦や零戦、烈風などの機体設計に従事した。 1967年5月に三菱重工業取締役に就任し、1970年5月には常務に就任。1974年1月に三菱自動車工業副社長に就任し、1979年6月に社長に昇格。1981年6月から相談役を務めた。三菱重工業相談役も務めた。 1977年4月に藍綬褒章を受章し、1982年11月に勲二等瑞宝章を受章。
岡本 舜三(おかもと しゅんぞう、1909年11月3日 - … 岡本 舜三(おかもと しゅんぞう、1909年11月3日 - 2004年4月14日)は、日本の応用力学者、文化功労者。埼玉大学第5代学長(1974年 - 1980年)。埼玉大学名誉教授。耐震工学の専門家。東京府出身。
河田 清史(かわた きよし、1909年〈明治42年〉11月3… 河田 清史(かわた きよし、1909年〈明治42年〉11月3日 - 1991年〈平成3年〉)は、日本の翻訳家、文筆家。本名・篠原善太郎。創価学会系の東西哲学書院 元代表取締役。 東京生まれ。1935年、東京帝国大学文学部美学専攻卒業。1939,40年に宝塚歌劇の脚本を執筆。アジア文学に関心が深く『ラーマーヤナ』の抄訳を数回行った。
旗 一兵(はた いっぺい、1908年11月3日 - 1988… 旗 一兵(はた いっぺい、1908年11月3日 - 1988年10月28日)は、昭和期に活躍した日本のテレビプロデューサー、映画評論家、演劇評論家、雑誌編集者、新聞記者。フジテレビプロデューサー、吉本興業企画課長、東京日日新聞社(現・毎日新聞)芸能部記者、日本移動演劇連盟劇団課長、キネマ旬報社編集者などを務めた。本名は金田福太郎。 1908年(明治41年)11月3日生まれ。東京府東京市芝区(現在の東京都港区)高輪出身。 1931年(昭和6年)、立教大学文学部卒業。学生時代から映画や演劇の研究を行い、大学在学中の1929年(昭和4年)には立教大学雑誌部出版の『立教大学文学』に「発声映画に関する常識」と題する論評を発表している。
河合 弘道(かわい ひろみち、1907年(明治40年)11月… 河合 弘道(かわい ひろみち、1907年(明治40年)11月3日 - 1991年(平成3年)12月15日)は日本の政治家。鳥取県米子市長(5期)、金光教米子教会長。位階は従五位。 鳥取県西伯郡米子町(現在の米子市)道笑町に生まれる。 明道校から米子中学校(現在の米子東高校)へ進学する。 1931年(昭和6年)日本大学社会学科卒業。同大学社会学研究室助手となり、やがて講師、次いで1938年(昭和13年)予科の教授となる。 1946年(昭和21年)故郷米子に帰り、金光教米子教会長に就任。 戦後のすさんだ人々の心を導くと共に、社会教育の振興に取り組んだ。中でもボーイスカウトの再建、児童福祉施設わかば園の経営などの活動を通じて、次第に市政の在り方に関心を寄せ、彼を囲む市民の幅広い支持を得て、1963年(昭和38年)市長選に立候補し当選、1983年(昭和58年)4月までの5期20年に亘る長期間在職した。
中村 一雄(なかむら かずお、生年不明〈1907年11月3日… 中村 一雄(なかむら かずお、生年不明〈1907年11月3日~1908年11月2日〉 - 1990年11月2日)は、日本の競馬騎手、調教師、競走馬生産者。
真鍋 信喜(まなべ のぶき(「のぶよし」との記載もあり)、1… 真鍋 信喜(まなべ のぶき(「のぶよし」との記載もあり)、1907年11月3日 - 没年不詳)は、日本のジャーナリスト、新聞編集者。 真鍋盛太郎の二男として福岡市に生まれる。1925年福岡県立中学修猷館を経て、1937年3月九州帝国大学法文学部を卒業(法学士)。 卒業後、満洲国通信社に入社。戦後、1948年信濃毎日新聞に論説委員として入社し、1956年編集副主幹を経て、1962年取締役に選任され、1970年論説主幹に就任する。1976年退社。 その後、長野県教育委員長などを務めた。
高橋 良麿(たかはし よしまろ、1907年(明治40年)11… 高橋 良麿(たかはし よしまろ、1907年(明治40年)11月3日 - 1991年(平成3年)2月20日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。最後の官選和歌山県知事。 大分県出身。高橋兼太郎の二男として生まれる。第五高等学校を卒業。1928年10月、高等試験行政科試験に合格。1929年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し、熊本県属となる。 1941年、岩手県書記官・経済部長に就任。1942年3月から1943年12月まで南西方面海軍民政府セレベス民政部経済部長を務めた。以後、岡山県部長・警察部長、東京都経済局食糧課長、警視庁刑事部長、京都府警察部長を歴任。 1947年2月、和歌山県知事に就任。
熊谷 太三郎(くまがい たさぶろう、1906年11月3日 -… 熊谷 太三郎(くまがい たさぶろう、1906年11月3日 - 1992年1月15日)は、日本の実業家、政治家。 科学技術庁長官(第32代)、参議院議員(4期)、福井市長(官選第10代、公選初代)。熊谷組2代目社長。行政、事業の両面で原子力発電所の建設を推進した。 建設業を営む熊谷三太郎の二男として福井県福井市豊島上町に生まれた。旧制福井県立福井中学校、旧制第一高等学校を経て、京都帝国大学経済学部に入学し1930年に卒業。一高在学時には、アララギ会に入会。このとき、斎藤茂吉や土屋文明から短歌の指導を受けている。 その後、家業の建設業に従事していたが、1933年4月、飛島組(現在の飛島建設)社長の後援により福井市会議員選挙に市議でもあった父の後継として当選。
吉田 留三郎(よしだ とめさぶろう、1906年11月3日 -… 吉田 留三郎(よしだ とめさぶろう、1906年11月3日 - 1978年5月25日)は、日本の評論家、上方芸能評論家。愛称は「留サン」。 大阪府大阪市出身。旧制大阪府立生野中学校、松江高等学校を経て、京都帝国大学文科卒業。 学生時代から寄席に通い詰め、戦前は吉本興業、戦後は松竹芸能に在籍。織田作之助、秋田實らとともに、上方芸能の発展に寄与した。 1977年、秋田が死去した後、秋田が育てた漫才師のミヤコ蝶々、夢路いとし・喜味こいしらに呼び掛け、玉造稲荷神社に記念碑を建設した。 1978年に死去。生前の業績を讃え、雑誌『上方芸能』第58号で「吉田留三郎の死と総合芸能時代の終焉」と題する特集が組まれた。
宮武 徳次郎(みやたけ とくじろう、1906年 <明治39年… 宮武 徳次郎(みやたけ とくじろう、1906年 <明治39年> 11月3日 - 1989年 <平成元年> 8月23日)は、日本の経営者。大日本製薬社長、会長を務めた。香川県高松市出身。位階は正五位。 1928年に高松高等商業学校を卒業し、同年に大日本製薬に入社。1947年に取締役に就任し、1949年に常務、1950年に専務を経て、1956年には社長に就任。社長在任時にはサリドマイド事件の対応に追われた1981年から1985年までに会長を務めた。 1977年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1989年8月23日心不全のために死去。82歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
新名 丈夫(しんみょう たけお、1906年(明治39年)11… 新名 丈夫(しんみょう たけお、1906年(明治39年)11月3日 - 1981年(昭和56年)4月30日)は、日本の評論家、元毎日新聞記者。 香川県高松市に生まれる。1932年(昭和7年)、慶應義塾大学法学部卒。慶應義塾大学では弁論部に所属した。同年、東京日日新聞(現、毎日新聞)に入社した。 太平洋戦争中、黒潮会(海軍省記者クラブ)の主任記者であった新名は、1944年(昭和19年)2月23日付東京日日新聞(現・毎日新聞)一面に、「勝利か滅亡か、戦局は茲(ここ)まできた」、「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋飛行機だ」という記事を執筆、これに東條英機首相が反発し二等兵として陸軍に懲罰召集を受けることになった。
国松 孝二(國松孝二、くにまつ こうじ、1906年11月3日… 国松 孝二(國松孝二、くにまつ こうじ、1906年11月3日 - 2006年5月8日)は、日本のドイツ文学者。旧制武蔵高等学校教員、九州帝国大学教授、東京大学教授、立教大学教授、専修大学教授を歴任。 兄は経済地理学者の国松久弥。 千葉県船橋町(現船橋市)生まれ。旧制水戸高等学校を経て、1930年東京帝国大学文学部独文科卒。1931年旧制武蔵高等学校教員。1945年九州帝国大学教授。1950年東京大学教養学部教授、1956年同文学部教授、1967年定年退官、立教大学教授。1970年から専修大学教授、1977年、退職。 中世から近現代までのドイツ語ドイツ文学に精通し、ゲーテ、 シュトルム 、ハンス・カロッサ等の名作の名訳を残した。
宮川 正澄(みやかわ まさすみ 1906年(明治39年)11… 宮川 正澄(みやかわ まさすみ 1906年(明治39年)11月3日 - 1994年(平成6年)4月17日)は、日本の医学者、病理学者。医学博士。元名古屋大学医学部教授。名古屋大学名誉教授。名古屋医科大学(現名古屋大学医学部)卒業。日本における実験動物の無菌飼育に新たな道を開いた。石川県出身。 1938年 名古屋大学 医学博士 論文の題は 「白血球の游走速度とグリコーゲンに関する研究」。 この項目は、医学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:医学/Portal:医学と医療)。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
滑川 道夫(なめかわ みちお、1906年11月3日 - 19… 滑川 道夫(なめかわ みちお、1906年11月3日 - 1992年12月13日)は、日本の教育者、教育学者。 秋田県湯沢市生まれ。生家は旧士族で父親は道太郎。両親ともに教師。教員準備場から秋田師範学校に進んだ。父の指導を受け自由律俳句に親しみ、俳号は三千夫。万葉研究家境田四郎教諭のもと、文学教育の重要性に目覚め、専攻科を卒業。秋田師範付属小学校の訓導時代の1930年『北方教育』を創刊し、生活綴方運動を展開し「東京綴方の会」に参加。1932年上京し成蹊学園訓導となり、日本大学卒業。また教育科学研究会言語教育部会に参加。戦後、1946年児童雑誌『銀河』創刊に参加、1957年成蹊学園教育研究所長、1966年東京成徳短期大学教授、東京教育大学教授として国語教育、児童文化を研究。
小林 武(こばやし たけし、1906年11月3日 - 198… 小林 武(こばやし たけし、1906年11月3日 - 1987年4月4日)は、日本の政治家。日本社会党参議院議員(2期)。日本教職員組合中央執行委員長。 北海道石狩郡石狩町(現:石狩市)生まれ。1928年北海道札幌師範学校(現:北海道教育大学札幌校)卒。帯広市立三条中学校等の教師を務め、1951年北海道教職員組合委員長、1953年日本教職員組合委員長に就任する。勤務評定闘争や学力テスト闘争を指導し、1958年には高知県で闘争反対の父母の集団暴行に遭い重傷を負った。1962年に教職を辞めた。 日教組の日本社会党支持路線を決定し、1962年の第6回参議院議員通常選挙で全国区から日本社会党公認で立候補して当選。
保柳 睦美(ほやなぎ むつみ、1905年11月3日 - 19… 保柳 睦美(ほやなぎ むつみ、1905年11月3日 - 1987年8月16日)は、日本の地理学者。理学博士(東京帝国大学)。防衛大学校教授、東京都立大学 (1949-2011)教授、立教大学教授などを歴任。 長野県更級郡稲荷山町(現千曲市)生まれ。旧制東京府立第一中学、旧制第一高等学校を経て、1930年東京帝国大学理学部地理学科卒業。1947年「亜細亜乾燥地域における最近の気候変化・土地の砂漠化問題」で、理学博士(東京帝国大学)。 京城帝国大学助教授、文部省視学官、防衛大学校教授を経て、1960年東京都立大学 (1949-2011)教授、1967年立教大学教授。
毛利 菊枝(もうり きくえ、1903年〈明治36年〉11月3… 毛利 菊枝(もうり きくえ、1903年〈明治36年〉11月3日 - 2001年〈平成13年〉8月20日)は、日本の女優。本名は森 キク(旧姓:小林)。夫は美術史家の森暢。 杉村春子、山本安英らと同世代の新劇女優であり、岸田國士に師事。幾つかの劇団を経て、京都市に劇団くるみ座を創設し、長く代表をつとめた。戦後は映画やテレビドラマにも多く出演し、老け役で活躍した。 1903年(明治36年)、群馬県利根郡沼田町(現沼田市)に生まれる。群馬県立高崎高等女学校(現群馬県立高崎女子高等学校)中退。 1925年(大正14年)、岸田國士主宰の新劇研究所に第1期生として入る。1929年(昭和4年)、喜劇座『御意に任せて』で初舞台を踏む。
日野原 節三(ひのはら せつぞう、1903年〈明治36年〉1… 日野原 節三(ひのはら せつぞう、1903年〈明治36年〉11月3日 - 1991年〈平成3年〉12月4日)は、昭和時代の実業家。昭和電工社長時代に「昭電疑獄」の中心人物となった。山梨県東八代郡出身。 1927年、東京帝国大学法学部独法科卒業。昭和化成や秩父木材工業などの役員を務めた後、第二次世界大戦後に日本水素工業の社長となる。1947年、芦田均の支援者でもあった妻の兄菅原通済の推薦によって社長の森暁が公職追放となった昭和電工の社長に迎えられた。社長就任後、会社再建のために復興金融金庫から巨額の融資を受けようと考え、GHQを含む関係者に贈賄や政治献金を行った。これが国会で問題視されて、1948年に日野原は逮捕され、芦田内閣も総辞職に至った。
飯田 道彦(いいだ みちひこ、1903年11月3日 - 19… 飯田 道彦(いいだ みちひこ、1903年11月3日 - 1967年12月19日)は、日本の経営者。日動火災海上保険元社長。神奈川県出身。 1928年に東京商科大学を卒業し、同年に日動火災海上保険に入社。 1950年に取締役に就任し、1953年に常務を経て、1954年から1961年までに社長を務めた。 1967年12月19日腹膜炎のために死去。64歳没。
伊豆川 浅吉(いずかわ あさきち、1903年(明治36年)1… 伊豆川 浅吉(いずかわ あさきち、1903年(明治36年)11月3日 - 1968年(昭和43年)8月24日)は、日本の水産学者、歴史学者。元東京水産大学教授。専門は漁業史、水産経済学。 1903年11月3日、神奈川県小田原市に生まれる。1922年4月に横浜高等工業学校応用化学科に入学し、1925年3月に卒業。1927年に旭水産に入社し、1928年に小田原市場に入社する。 1935年、法政大学経済学部を卒業し、1937年に法政大学大学院を修了、小野武夫に師事する。アチック・ミューゼアム研究所員、東京帝国大学助手を経て、1948年に鹿児島水産専門学校教授(後の鹿児島大学水産学部)に就任する。1950年、『日本鯨漁業の経済的研究』で農学博士(九州大学)を取得する。
瀬木 博信(せき ひろのぶ、1903年〈明治36年〉11月3… 瀬木 博信(せき ひろのぶ、1903年〈明治36年〉11月3日- 1971年〈昭和46年〉11月10日)は、日本の実業家。博報堂の元社長。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
馬場 義続(馬場 義續。、ばば よしつぐ、1902年11月3… 馬場 義続(馬場 義續。、ばば よしつぐ、1902年11月3日 - 1977年2月24日)は、日本の検察官。位階は正三位。元検事総長。子に馬場義宣(弁護士、学習院大法科大学院教授、元最高検公安部長、法務省保護局長)。 福岡県(現 朝倉市秋月)出身。生家は貧乏であったが、幼少期よりすべての科目で秀才の誉れが高く、特に数学では並外れた才能を持っていたため、上級学校進学の援助者があり、田川中学、五高を経て、1927年3月に東京帝国大学法学部法律学科英法科卒業。同年12月に高文行政科・司法科試験に二度目で八番で合格。 翌年の1928年に司法官試補、1929年に検事任官。同期の柳川真文、井本臺吉らと共に“3羽ガラス”と称され、一期下に田中萬一がいた。
木戸 吉備夫(きど きびお、1902年 <明治35年> 11… 木戸 吉備夫(きど きびお、1902年 <明治35年> 11月3日 - 1981年 <昭和56年> 11月4日)は、日本の経営者。日本酸素社長、会長を務めた。位階は正五位。 京都府出身。1927年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に安田銀行(のちの富士銀行)に入行。1950年1月に日本酸素常務に就任し、1959年6月に副社長を経て、1963年6月に社長に就任。1974年12月に会長を経て、1978年9月には相談役に就任。 1972年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1981年11月4日心筋梗塞のために死去。78歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
高木 新平(たかぎ しんぺい、1902年〈明治35年〉11月… 高木 新平(たかぎ しんぺい、1902年〈明治35年〉11月3日 - 1967年〈昭和42年〉4月21日)は、日本の俳優、映画監督、映画プロデューサー。初期には片岡 慶左衛門(かたおか けいざえもん)、片岡 慶三郎(かたおか けいさぶろう)と名乗った。本名は慶吉(-けいきち)。身のこなしの軽さから「鳥人」として知られる。 1902年(明治35年)11月3日、長野県下諏訪町に「高木慶吉」として生まれる。神田英語学校卒業。 1920年(大正9年)、マキノ俳優養成所に入り、牧野省三に師事した。1923年(大正12年)6月、片岡 慶左衛門、片岡 慶三郎の名で映画に出演し始める。1925年(大正14年)の東亜キネマからの牧野の分離独立後も、東亜キネマに残留する。
金原 節三(きんばら せつぞう、1901年11月3日 - 1… 金原 節三(きんばら せつぞう、1901年11月3日 - 1976年10月29日)は、日本陸軍軍医(耳鼻咽喉科)、陸上自衛隊医官。第三代陸上幕僚監部衛生監。陸将。医学博士。 愛知県名古屋市出身。1919年(大正8年)3月、静岡県立静岡中学校卒業。第八高等学校を経て、陸軍に入り、1926年(大正15年)東京帝国大学医学部(陸軍依託学生)卒業。同年6月、陸軍二等軍医。同年8月、陸軍軍医学校(~昭和2年6月)。1928年(昭和3年)5月、済南事変のため出征(~昭和4年4月)、1929年(昭和4年)4月、東京帝大大学院耳鼻咽喉科・増田胤次教授に師事(~昭和6年3月)。1929年(昭和4年)8月(一等軍医)。
山口 誓子(やまぐち せいし、1901年(明治34年)11月… 山口 誓子(やまぐち せいし、1901年(明治34年)11月3日 - 1994年(平成6年)3月26日)は、日本の俳人。京都府京都市出身。本名は山口新比古(やまぐち ちかひこ)。 高浜虚子に師事。昭和初期に水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝とともに「ホトトギスの四S」とされたが、のちに同誌を離反した秋桜子に従い「ホトトギス」を離脱。従来の俳句にはなかった都会的な素材、知的・即物的な句風、映画理論に基づく連作俳句の試みなどにより、秋桜子とともに新興俳句運動の指導的存在となる。戦後は「天狼」を主宰し現代俳句を牽引した。大正11年、初めて虚子に会い、俳号を「誓子(ちかひこ)」から「誓子(せいし)」と改めた。
緒方 富雄(おがた とみお、1901年11月3日 - 198… 緒方 富雄(おがた とみお、1901年11月3日 - 1989年3月31日)は、日本の血清学者、医学史学者。血清研究以外にも、病理学、蘭学研究、出版、社会事業など様々な分野で活躍し、その業績は数多い。緒方洪庵の曾孫にあたる。 1901年(明治34年)、緒方洪庵の本家3代目・緒方銈次郎の三男として大阪府に生まれる。1919年(大正8年)兵庫県立神戸第一中学校を卒業後、第三高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学医学部に進学。1926年(大正15年)に同大を卒業。講師を勤めながら、1932年(昭和7年)医学博士。1936年(昭和11年)東京大学医学部助教授、1949年(昭和24年)東京大学医学部教授、東京大学医学図書館館長を務めた。
新島 繁(にいじま しげる、1901年11月3日 - 195… 新島 繁(にいじま しげる、1901年11月3日 - 1957年12月19日)は、日本のドイツ文学者、思想評論家、翻訳家。 専門はドイツ文学で、多数の翻訳を手掛けた。文学作品の翻訳時には本名の野上 巖(のがみ いわお)を用いた。 山口県生まれ。東京帝国大学独文科を卒業した。日本大学予科教授となり、1929年プロレタリア科学研究所に参加する。しかし、1931年に日本大学を辞職させられる。 1932年に唯物論研究会に参加し、その後治安維持法違反などの嫌疑で投獄される。獄中の1940年に転向して保釈されたが、太平洋戦争後、日本民主主義文化連盟、民主主義科学者協会などの創立にかかわる。 1955年、神戸大学教授に就いた。
手島 右卿(てしま ゆうけい、1901年〈明治34年〉11月… 手島 右卿(てしま ゆうけい、1901年〈明治34年〉11月3日 - 1987年〈昭和62年〉3月27日)は、日本の書家、文化功労者。高知県安芸町(現安芸市)出身。本名・南海巍(なみき)。ニックネームは「ライオンの右卿」[要出典]。 妻は仮名書家の手島小華、長弟と次弟は、いずれも書家の高松慕真と南不乗。 1915年(大正4年)、川谷尚亭の門をたたき、師逝去の後は1935年(昭和10年)に上京、比田井天来の門下となる。その後、大日本書道院第1回展では天来の単独審査を手伝うなど、次第に頭角を現し、以後日展の参事や審査員、文部省指導書編集委員などを歴任。 常々、「書は人間の霊知の所産である」として、東洋的な精神性と現代感覚を融合した「象書」を創始。
秋元 不死男(あきもと ふじお、1901年11月3日 - 1… 秋元 不死男(あきもと ふじお、1901年11月3日 - 1977年7月25日)は、日本の俳人。神奈川県横浜市出身。本名は不二雄。前号は東京三(ひがし きょうぞう)。別号に秋元地平線。島田青峰に師事し「土上」「天香」に参加。新興俳句運動に加わり、京大俳句事件に連座して投獄される。戦後は「天狼」参加を経て「氷海」を創刊・主宰。劇作家の秋元松代は妹。息子の秋元近史は『シャボン玉ホリデー』を手がけたテレビディレクター・プロデューサー。 横浜市中区元町生まれ。漆器の輸出商の次男で、長男は不死男が生まれた日に病没。他に姉一人、弟・妹が二人ずついたが、父は不死男が13歳のときに病没。以後母親が和裁の賃仕事や夜店の行商をして家計を支えた。
吉川 潔(きっかわ きよし、1900年〈明治33年〉11月3… 吉川 潔(きっかわ きよし、1900年〈明治33年〉11月3日 - 1943年〈昭和18年〉11月25日)は、日本海軍の軍人。戦死後、二階級特進して海軍少将。広島県広島市段原町出身。海兵50期。 父は漢学者。七男四女のうち、四男。旧制広陵中学(現・広陵高等学校)を卒業後、海軍兵学校を受験するが身長と胸囲不足で不合格。口惜しさから器械体操と陸軍被服廠での積荷作業で体を鍛え上げた。翌1919年(大正8年)兵学校(海兵50期)に合格。兵学校時代は成績も下の方で「寡黙の吉川」といわれるほど目立たなかった。「量も大切だが最後を決するのは質と精神だ」を口癖としていたという。 1922年(大正11年)6月1日、海軍兵学校を卒業し、同日附で少尉候補生。
山脇 義勇(やまわき よしとし、1900年11月3日 - 1… 山脇 義勇(やまわき よしとし、1900年11月3日 - 1987年7月14日)は、日本の経営者。ダイセル化学工業社長、会長を務めた。高知県出身。位階は正四位。 1922年に山口高等商業学校を卒業し、同年に岩井商店に入社。1940年5月にダイセル化学工業に転じ、1946年12月に取締役に就任し、1949年1月に常務、1955年1月に専務を経て、1961年1月に副社長に就任し、1964年1月には社長に昇格。1971年1月に会長に就任し、1972年2月には相談役に就任。 1967年に藍綬褒章を受章し、1972年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1987年7月14日肝臓癌のために死去。86歳没。死没日付をもって正四位に叙された。