澤 春蔵(さわ はるぞう、1901年(明治34年)3月5日 … 澤 春蔵(さわ はるぞう、1901年(明治34年)3月5日 - 1972年(昭和47年)7月24日)は、日本の実業家。日本交通の創業者。 1901年(明治34年)3月、鳥取県岩美郡大岩村大谷(現在の岩美町大谷)に生まれる。1914年(大正3年)3月[要出典]、大岩小学校(現・岩美西小学校)を卒業する。春蔵は就学前に足を痛めていたため、自動車で自分の未来を開拓しようと考えた。その頃、日本国内にも自動車の数は少なく、鳥取県内では更に珍しいものだった。春蔵の得た運転免許は鳥取県内第3号であった。 1919年(大正8年)18歳の春蔵は1台のトラックで運送業を始めた。春蔵の事業は先進的だったが、閉鎖的な風土や不便な道路事情などにより、運送業としての見通しが立たなかった。
関口 林五郎(せきぐち りんごろう、1899年〈明治32年〉… 関口 林五郎(せきぐち りんごろう、1899年〈明治32年〉3月5日 - 1973年〈昭和48年〉6月26日)は、日本の医師(関口整形外科病院院長、群馬県医師会会長)、柔道家(講道館八段)。父は接骨師で柔道八段・関口孝五郎、弟は医師で柔道八段・関口恒五郎。群馬県体育協会会長、群馬県公安委員長、群馬県立前橋高等学校同窓会長。正五位、藍綬褒章、紺綬褒章、勲三等瑞宝章受章。 1899年(明治32年)3月5日、柔道家・関口孝五郎の長男として、群馬県群馬郡白郷井村(北群馬郡子持村を経て現在渋川市)に生まれる。2歳の時父が柔道場「弘道館」を開いたため前橋市に移住。旧制・群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒業後、旧制・日本医学専門学校(現・日本医科大学)に進み1923年(大正12年)卒業。
杉本 キクイ(すぎもと キクイ、1898年〈明治31年〉3月… 杉本 キクイ(すぎもと キクイ、1898年〈明治31年〉3月5日 - 1983年〈昭和58年〉3月30日)は、日本の瞽女。晩年は「高田瞽女最後の親方」と呼ばれた。8歳で巡業に出て以降、1973年(昭和48年)に廃業するまで、主に新潟県の頸城三郡と長野県の上田地方を巡った。名前はキクエ、キクヱともされる。 1898年(明治31年)3月5日、新潟県中頸城郡諏訪村東中島(現在の上越市東中島)に青木久治・ウミの長女として生まれた。6歳の時にはしかを患い、医師の誤診のため失明した。 1904年(明治37年)3月9日、7歳のキクイは杉本マセに正式に弟子入りし、瞽女となった。1か月後の4月2日には西頸城への旅に連れていかれた。
平野 義太郎(ひらの よしたろう、1897年3月5日 - 1… 平野 義太郎(ひらの よしたろう、1897年3月5日 - 1980年2月8日)は、日本のマルクス主義法学者、中国研究者、平和運動家。
山中 義貞(やまなか よしさだ、1897年3月5日 - 19… 山中 義貞(やまなか よしさだ、1897年3月5日 - 1986年2月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県出身。慶應義塾大学部理財科修業。土居村(のち土居町、現在の四国中央市)議、愛媛県議、小作調停委員、村農会長、宇摩郡煙害調査会長、愛媛県山林会評議員、土居村青少年団長、愛媛県青少年団副団長などを務める。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では愛媛2区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。1951年追放解除。 このほか芸備銀行、伊予電気鉄道各(株)監査役、愛媛新聞、山中商店、南海放送各(株)社長、第一石産、日本ベルト各(株)会長、広島銀行、伊予鉄道各(株)取締役、県工業俱楽部会長、県体育協会会長、県公安委員、全日本剣道連盟副会長を歴任した。
石崎 千松(いしざき せんまつ、1897年〈明治30年〉3月… 石崎 千松(いしざき せんまつ、1897年〈明治30年〉3月5日 - 1972年〈昭和47年〉6月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県企救郡、のちの門司市大里御所町(現北九州市門司区)で、石崎作蔵の息子として生まれた。1922年、早稲田大学商科卒。1930年アメリカアラバマ大学大学院経済学科卒、ノースウエスタン大学院政治家で学ぶ。その後は新聞記者となり、日本人会会長、同幹事、日本語学校校長となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で福岡2区(大選挙区制)から無所属で立候補して当選。当選後は日本民主党準備会、新政会、国民党、国民協同党と変わった。この間、国民党渉外部長、国民協同党中央常任委員を歴任した。
早川 慎一(早川 愼一、はやかわ しんいち、1896年3月5… 早川 慎一(早川 愼一、はやかわ しんいち、1896年3月5日 - 1969年10月23日)は、日本の鉄道官僚、政治家。参議院議員(2期)。日本通運社長。 東京府出身。東京帝国大学法学部英法学科に入り、1919年、高等試験行政科試験に合格し、翌1920年東京帝国大学を卒業する。同年鉄道省に入り、大宮駅助役となり、鉄道省書記官、鉄道局長などを務め、1938年退官。同年、日本通運に入り、理事を経て、名古屋合同運送社長となる。その後、日本通運社長に就任。1947年の第1回参議院議員通常選挙において全国区から無所属で立候補して当選する。連続2回。後に緑風会に入り、同議員総会副議長、国会内では参議院経済安定、建設の両委員長を歴任する。
高階 哲夫(たかしな てつお、1896年〈明治29年〉3月5… 高階 哲夫(たかしな てつお、1896年〈明治29年〉3月5日 - 1945年〈昭和20年〉4月17日)は、日本のヴァイオリニスト、作曲家、指揮者。本名は高階哲応、出生名は瀬木三五郎、筆名は小田進吾。博報堂の創設者である瀬木博尚は伯父にあたる。 富山県中新川郡滑川町(後の滑川市山王町)で誕生した。生家の瀬木家は富山藩に仕えた家柄で、父は開達小学校(現在の滑川市立田中小学校)の校長、その三男として生まれる。伯父の瀬木博尚は博報堂の創設者。 1901年(明治34年)に天台宗の寺院・長泉寺を継承する高階家の養子となり、1906年(明治39年)に「哲応」に改名した。 富山師範学校在学中に、先輩である浄誓寺の福井直秋の後を追い、東京音楽学校(後の東京芸術大学)への進学を決意し卒業後は1年余の浜加積尋常高等小学校訓導を経た。
狩野 春ー(かのう はるかず、1896年(明治29年)3月5… 狩野 春ー(かのう はるかず、1896年(明治29年)3月5日 - 1985年(昭和60年)10月19日)は、日本の建築学者。セメントコンクリートの基礎的研究を大成した。 滋賀県生まれ。東京工業大学などで建築材科学を学問的に位置づけ、後進の教育・育成にあたる。東京工業大学教授を退職後も明治大学工学部建築学科の発足により教授として同大学建築学科の発展に尽くし、さらに工学院大学教授も歴任、多数の研究者、技術者の育成に尽くし特に学閥にとらわれることなく多数の研究者、技術者の育成に尽くした。 旧建設省営繕審議会委員、日本建築学会の材料施工委員会委員のほか建材試験センター、日本シーリング工業界、全日本プレハブ建築防水協会等々の各顧問として広く建築界に貢献した。
鈴木 康文(すずき こうぶん、1896年3月5日 - 199… 鈴木 康文(すずき こうぶん、1896年3月5日 - 1997年1月27日)は、日本の歌人。千葉県匝瑳郡栄村堀川生まれ。『橄欖』主宰者の吉植庄亮に師事し、吉植の没後は『橄欖』代表となった。九十九里浜に面する農村に生まれ、農業を続けながら海と農村の歌を詠み続けた農民歌人として知られる。代表歌集に『九十九里』、『新九十九里』、『続々九十九里』などがある。 出生時の名前は鈴木義雄であり、1927年に鈴木康文(すずき やすぶみ)に改名した。歌人としての読みは康文(こうぶん)。 1896年、千葉県匝瑳郡栄村堀川(現・匝瑳市)の農家に生まれる。旧制中学校を卒業。14歳より作歌をはじめ、文芸誌の『文章世界』(博文館)、『秀才文壇』(文光堂)などに入選。
尾澤 淸太郞(おざわ せいたろう、1896年3月5日 - 1… 尾澤 淸太郞(おざわ せいたろう、1896年3月5日 - 1964年10月30日)は、日本の拓務官僚、実業家。弁護士。階級は樺太庁警視。位階は正五位。勲等は勲五等。姓の「澤」は「沢」の旧字体、名の「淸」は「清」の異体字、「郞」はJIS X 0208では「郎」と同一の区点が割り当てられていることから、尾澤 清太郎、尾沢 清太郎などとも表記される。 樺太庁警察部警務課課長、敷香支庁支庁長、大泊支庁支庁長、樺太庁農林部林務課課長、樺太庁殖産部林務課課長、樺太開発株式会社林務課課長、樺太製材株式会社取締役などを歴任した。 岩手県出身の拓務官僚である。樺太庁属として入庁し、樺太庁警察部にて警務課の課長などを歴任した。
森下 政一(もりした まさかず、1895年〈明治28年〉3月… 森下 政一(もりした まさかず、1895年〈明治28年〉3月5日 - 1957年〈昭和32年〉3月5日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。 位階は正五位、勲等は勲三等。 大阪市財務部長、大阪市民信用組合長、大阪市教育会長、日本社会党大阪府支部連合会会長、参議院議員総会副会長を務めた。 京都府福知山市生まれ。1916年(大正5年)- 早稲田大学商科卒業。大学卒業後、米国に留学。 1925年(大正14年) 関西大学経済学部で講師、後に教授として財政学や英語経済を教える。 1930年(昭和5年) 第17回衆議院議員総選挙大阪1区落選(国民同志会)。 1936年(昭和11年) 大阪市助役就任。 1947年(昭和22年) 第1回参議院議員通常選挙大阪府選挙区初当選(日本社会党)。
紅葉川 孝市(もみじがわ こういち、1895年3月5日 - … 紅葉川 孝市(もみじがわ こういち、1895年3月5日 - 1967年12月9日)は、埼玉県北埼玉郡(現在の鴻巣市)出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。本名は岡戸 孝市(おかど こういち)。最高位は小結。身長171cm、体重90kg。引退後は年寄として後進の指導につとめた。 大相撲常設館落成の1909年6月場所に友綱部屋から初土俵を踏む。祖父の兄弟は杣ヶ花渕右エ門。 若い頃はなかなか出世せず、神経痛に苦しんだ時期にはフグで自殺を図り自ら捌いて食したが、死なないどころか逆に毒が薬になったのか神経痛が治り、それ以降地力を増して1914年5月新十両、1916年5月新入幕を果たし1920年1月と1921年5月は小結を務めた。
山口 茂(やまぐち しげる、1893年(明治26年)3月5日… 山口 茂(やまぐち しげる、1893年(明治26年)3月5日 - 1974年(昭和49年)8月21日)は、日本の経済学者。金融論、経済学史等を専攻した。一橋大学名誉教授。 神奈川県高座郡大和村(現・大和市)の地主の家に生まれる。暁星中学校を経て、1917年東京高等商業学校(現・一橋大学)本科卒業。1919年同校専攻部卒業。1921年から東京商科大学(現・一橋大学)附属商学部専門部助教授を務め、三浦新七、上田貞次郎のプロゼミに参加。1922年から銀行論の講義を担当し、佐野善作、高垣寅次郎の指導を受けた。1925年からイギリス、ドイツ帝国、フランス共和国、アメリカ合衆国に留学し、1927年に帰国すると東京商科大学助教授を兼任。
佐藤 幸徳(さとう こうとく、1893年(明治26年)3月5… 佐藤 幸徳(さとう こうとく、1893年(明治26年)3月5日 - 1959年(昭和34年)2月26日)は、日本の大日本帝国陸軍軍人。最終階級は中将。 山形県出身。陸士25期、陸大33期。インパール作戦において、軍司令官の牟田口廉也中将と対立し、作戦途中に師団長による独断退却を行ったことで知られる。 山形県に生まれた佐藤は、鶴岡中学校(現山形県立鶴岡南高等学校)から仙台陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校卒業。さらに1921年(大正10年)に陸軍大学校を卒業。陸軍参謀本部勤務や部隊勤務などを経る。 1930年(昭和5年)から2年間を陸軍参謀本部の戦史課で過ごす。この戦史課勤務時代に、小磯國昭や東條英機などの「統制派」に属する人物と多く交際し、橋本欣五郎とともに桜会の規約作成にも関与した。
佐藤 保太郎(さとう やすたろう、1893年3月5日 - 1… 佐藤 保太郎(さとう やすたろう、1893年3月5日 - 1977年3月7日)は、日本の地理学者、教育者、教育学者。第二次世界大戦直後の学習指導要領改訂などに携わり教育界の発展に寄与した。奥州大学(現富士大学)教授を歴任。
黒川 武雄(くろかわ たけお、1893年3月5日 - 197… 黒川 武雄(くろかわ たけお、1893年3月5日 - 1975年3月8日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位。虎屋15代当主、参議院議員(3期)、厚生大臣(第19代)。旧姓は福田。 熊本県出身。製菓業、虎屋・黒川家の養子となる。第一高等学校を経て、1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部英法科を卒業し、第一銀行に入社。1919年(大正8年)、家業に専念し虎屋店主、さらに同会長を務め、東京和生菓子商工業協同組合理事長、全国生菓子協会会長となる。 1947年(昭和22年)4月、第1回参議院議員通常選挙に東京地方区で日本自由党から出馬し当選。のち自由党、自由民主党に所属。第3回、第5回参議院議員通常選挙で再選され3期務め、1965年(昭和40年)7月、第7回参議院議員通常選挙には出馬せず引退した。
大岬 伝左衛門(おおみさき でんざえもん、1893年3月5日… 大岬 伝左衛門(おおみさき でんざえもん、1893年3月5日 - 1926年12月23日)は、大正時代の力士。二十山部屋所属。本名は川浪 伝左衛門。青森県北津軽郡三好村(現五所川原市)出身。最高位は西十両筆頭。 1910年元横綱小錦の二十山部屋一行が五所川原で巡業を行った際、同郷の十三ノ浦の勧めで入門。翌1911年2月場所「清水川」の四股名で初土俵を踏む。順調に出世し、1914年1月場所から「大岬」に改名した。1917年1月場所新十両。この場所は1勝しかできず翌場所幕下に落ちたが、4勝1敗と勝ち越し十両復帰を果たした。1919年1月場所西十両4枚目まで躍進。この場所勝ち越して千秋楽に勝って星を増やせば入幕確実だったが、対戦相手の綾川と引き分けた。
李 光洙(イ・グァンス、1892年3月5日 - 1950年1… 李 光洙(イ・グァンス、1892年3月5日 - 1950年10月25日)は、朝鮮の文学者、思想家。「朝鮮近代文学の祖」とも言われる。本貫は全州李氏。号は「春園」(チュンウォン、춘원)。創氏改名時の日本名は「香山光郎」(かやま みつろう)。 平安北道義州府定州郡出身。10歳の時に両親をコレラで亡くす。1905年に一進会の留学生に選抜され、日本の大成尋常中学校を経て、明治学院普通学部在学中に小説の執筆活動を始める。帰国後、五山学校に赴任。一時シベリアを放浪するが、ロシア帝国の第一次世界大戦を受け帰国。日本に再留学し、早稲田大学に入学。在学中に『無情』を発表。1919年、三・一運動に先立って、ほかの朝鮮人留学生とともに「二・八独立宣言」の起草に加わった後、上海に亡命、大韓民国臨時政府樹立に加わり独立新聞の編集長に就任する。
坂本 直道(さかもと なおみち、1892年(明治25年)3月… 坂本 直道(さかもと なおみち、1892年(明治25年)3月5日 - 1972年(昭和47年)7月30日)は、日本の実業家。南満州鉄道参与を務めた。坂本龍馬の甥の一人である坂本直寛の長男(第三子)。 高知県生まれ。1897年、父・直寛(郷士坂本家5代当主)ら一族で北海道訓子府に移住する。1906年釧路で北米・中国に鉄道枕木を輸出する目的で坂本商会を設立本拠地は釧路市となる。1911年に父が亡くなり、いったん郷士坂本家を相続する(郷士坂本家6代当主となる)が、1913年に直道が隠居する形で、郷士坂本家は義兄の彌太郎(郷士坂本家7代当主)が家督を継ぐこととなる。 1920年(大正9年)に東京帝国大学法学部を卒業して南満州鉄道に就職。
小林 真二(こばやし しんじ、1890年〈明治23年〉3月5… 小林 真二(こばやし しんじ、1890年〈明治23年〉3月5日 - 1965年〈昭和40年〉4月4日)は、群馬県出身の洋画家。浦和画家のひとり。赤城山の風景を好んで描いたことから「赤城絵かき」とも称された。 群馬県大間々町(現・みどり市)に生まれる。群馬県立前橋中学校卒業後、上京し白馬会研究所に入り黒田清輝、長原孝太郎らに師事した。風景画を主体とする。関東大震災後、埼玉県浦和町(現さいたま市)に居住。第一美術協会を創設した。光風会審査員、埼玉県展運営委員・審査員。実践女子大学講師。 志賀直哉の小説『焚火』に「画家S」として登場する。
名古屋 三吉(なごや さんきち、1890年(明治23年)3月… 名古屋 三吉(なごや さんきち、1890年(明治23年)3月5日 - 1962年(昭和37年)4月4日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 埼玉県北足立郡川口町(現:川口市)で、鋳物業・名古屋六之助の四男として生まれる。1916年(大正5年)東京帝国大学工科大学を卒業し日本製鋼所に入社。同社で勤務し、翌年欧米各国に留学した。 その後、兄の死去に伴い鋳物業を継承。川口鋳物工業組合理事長、埼玉県鉄鋼製品工業組合連合会理事長、川口商工会議所副会頭、埼玉県商工経済会評議員などを務めた。 1946年(昭和21年)埼玉県多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年8月16日に就任し、交友倶楽部に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
松浦 永次郎(まつうら えいじろう、1889年(明治22年)… 松浦 永次郎(まつうら えいじろう、1889年(明治22年)3月5日 - 1976年(昭和51年)11月8日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。静岡県小笠郡掛川町(現掛川市)出身。漫画家の所十三は曾孫(ひ孫)。 1936年、戦艦金剛艦長に抜擢され、1937年まで務めた。 その後川棚海軍工廠長・佐世保軍工廠長などの要職を歴任し、1943年12月20日に予備役に編入される。予備役編入後は大谷重工業副社長に就任した。 終戦後の1947年11月、公職追放の仮指定を受けた。
菊山 嘉男(きくやま よしお、1889年(明治22年)3月5… 菊山 嘉男(きくやま よしお、1889年(明治22年)3月5日 - 1977年(昭和52年)2月23日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。勲二等旭日重光章。 三重県出身。菊山末造の長男として生まれる。第七高等学校造士館を卒業。1913年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し千葉県属となる。 以後、大分県警察部長、朝鮮総督府事務官、同専売局長などを歴任。 1933年8月、山口県知事に就任。県会と協調して県政を行う。農山漁村経済更生計画を推進した。1936年6月、宮城県知事に転任。1939年4月、知事を退任。同年に退官した。1939年、京都市助役。
田村 幸策(たむら こうさく、1887年(明治20年)3月5… 田村 幸策(たむら こうさく、1887年(明治20年)3月5日 - 1985年(昭和60年)2月21日)は、大正・昭和前期の日本の外交官。 山口県大島郡に生まれる。1906年、山口高等商業学校(現・山口大学経済学部の前身)を卒業。1907年、高等文官試験に合格し「書記生」で外務省に入省する。 1914年に外交官領事官試験に合格して、キャリア組に昇格する。安東総領事館、奉天総領事館、在英国日本国大使館に勤務した。チェコスロバキア代理公使/広東領事館・総領事を最後に1925年に退官し、日本生命保険東京支店長を務めた。 1941年に東京帝国大学法学博士の学位を取得。戦後は、1949年から中央大学法学部教授(国際法担当)、1963年から国士館大学教授をそれぞれ務めた。
中島 九郎(なかじま くろう、1886年3月5日 - 195… 中島 九郎(なかじま くろう、1886年3月5日 - 1959年)は、日本の農学者・経済学者。農学博士。北海道大学名誉教授。札幌短期大学学長事務取扱。佐賀県出身 1910年東北帝国大学農科大学助手、1912年同助教授を経て、1922年北海道帝国大学農学部教授(農政学・農業経済学を担当) この他、北海学院兼任教授も務めた。 大正から昭和前期にかけて農政学の第一人者。農業経済学にも精通。恩師は、上原轍三郎。また、北大史のパイオニアで、『北海道帝國大學沿革史』という北大の通史編集や『佐藤昌介』等の北大著名人の人物伝を執筆した。
豊田 利三郎(とよだ りさぶろう、1884年(明治17年)3… 豊田 利三郎(とよだ りさぶろう、1884年(明治17年)3月5日 - 1952年(昭和27年)6月3日)は、日本の実業家。位階は従五位。勲等は勲四等。 株式会社豊田自動織機製作所社長(初代)、豊田紡織株式会社社長(第3代)、トヨタ自動車工業株式会社社長(初代)、豊田工機株式会社社長(初代)などを歴任した。 豊田佐吉の婿養子(長女愛子の夫)で、豊田自動織機製作所及びトヨタ自動車工業の初代社長である。ただし、トヨタ自動車工業の実質的な創業者は、佐吉の実子で利三郎の義弟にあたる豊田喜一郎であるとされる。利三郎は元々は車作りに反対していたが、喜一郎の細かい計画や上海自動縫の西川からの資金援助で豊田自動車(後のトヨタ自動車)を設立した。
島田 勝之助(しまだ かつのすけ、1884年(明治17年)3… 島田 勝之助(しまだ かつのすけ、1884年(明治17年)3月5日 - 1960年(昭和35年)2月10日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。北海道炭礦汽船会長、貴族院勅選議員。 東京府で島田慶助の三男として生まれる。1903年(明治36年)東京外国語学校仏語科を卒業した。 卒業後、三井物産に入社した。1931年(昭和6年)ロンドン支店長に就任し、1934年(昭和9年)取締役となる。1935年(昭和10年)三井合名に転じて理事に就任。1936年(昭和11年)常務理事となり、北海道炭礦汽船取締役、三井鉱山取締役、三井農林会長を兼務した。1939年(昭和14年)三井合名、三井鉱山の役員を辞して北海道炭礦汽船取締役会長に就任した。
塩沢 幸一(しおざわ こういち、1883年(明治16年)3月… 塩沢 幸一(しおざわ こういち、1883年(明治16年)3月5日 - 1943年(昭和18年)11月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。長野県伊那郡大草村(現上伊那郡中川村)出身。実家は養命酒で有名な養命酒製造で塩沢はその四男。妻すがは代議士・北原阿智之助次女。文芸評論家の中沢臨川は次兄。
上ヶ汐 福治郎(あげしお ふくじろう、1881年3月5日 -… 上ヶ汐 福治郎(あげしお ふくじろう、1881年3月5日 - 1935年6月12日)は、現在の茨城県筑西市下館地区出身で若藤部屋、伊勢ノ海部屋、友綱部屋に所属した力士。本名は渡辺 福次郎(わたなべ ふくじろう)。8代若藤。身長171cm、体重は79kg。最高位は西前頭3枚目。得意技は右四つ、上手投げ、掬い投げ。 1899年5月場所序ノ口。その後応召されて、日露戦争に従軍。復帰後、1907年5月場所に十両昇進。1909年1月場所に入幕を果たす。二枚鑑札となっていたが、1913年5月場所限り引退。年寄・若藤として巡業の先乗りに手腕を発揮し、理事も務めたが、弟子の沖ツ海福雄の急死に気落ちし、部屋を復活させようとした矢先の1935年6月12日、胃癌で死去。
佐竹 三吾(さたけ さんご、1880年(明治13年)3月5日… 佐竹 三吾(さたけ さんご、1880年(明治13年)3月5日 - 1976年(昭和51年)5月24日)は、明治末から昭和期の鉄道官僚、政治家、実業家。貴族院議員(勅選)、法制局長官。 岐阜県養老町出身。米穀商・佐竹柳三郎の三男として生まれ、佐竹鉄治郎の養子となる。岐阜中学、城北中学を経て第一高等学校に入学。1905年(明治38年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を優等で卒業し銀時計を授与された。卒業後農商務省嘱託となり、同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務属・商工局勤務、法制局参事官、満鉄理事を経て、1908年(明治41年)6月から1910年(明治43年)5月まで欧米に留学した。
桜井 賢三(櫻井賢三、さくらい けんぞう、1880年(明治1… 桜井 賢三(櫻井賢三、さくらい けんぞう、1880年(明治13年)3月5日 - 1950年(昭和25年)12月29日)は、日本の教育者。 岐阜県安八郡墨俣町(現在の大垣市)出身。1906年(明治39年)、東京高等師範学校英語科を卒業した後、1910年(明治43年)に京都帝国大学文学部哲学科を卒業した。福島県立相馬中学校校長、山口県室積師範学校校長、静岡県師範学校校長、東京府豊島師範学校校長、京都府立女子専門学校校長を歴任。1935年(昭和10年)、東京府立第一高等女学校校長に就任し、東京府立第十四高等女学校校長も兼ねた。 東京高師時代(明治35年、1902年)、日本で初めてサッカーのチームができた際の選手の一員として、1904年には初めての外国人チーム(横浜のYCAC)との試合を現在の横浜スタジアム(当時の横浜公園)でやったことでも知られる。
石黒 大次郎(いしぐろ だいじろう、1880年〈明治13年〉… 石黒 大次郎(いしぐろ だいじろう、1880年〈明治13年〉3月5日 - 1973年〈昭和48年〉12月30日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 新潟県刈羽郡、のちの中通村出身。1902年(明治35年)東京専門学校邦語行政科卒。農業を営み、刈羽郡会議員、新潟県議、同参事会員、刈羽郡農会長、新潟県農会長、百三十九銀行支配人、同取締役頭取、柏崎米穀取引所理事となる。 1924年(大正13年)第15回衆議院議員総選挙において新潟9区から憲政会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1973年死去。
牛場 清次郎(うしば せいじろう、1880年(明治13年)3… 牛場 清次郎(うしば せいじろう、1880年(明治13年)3月5日 - 1938年(昭和13年)11月21日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。ジャーナリスト。 三重県度会郡、のちの浜郷村(宇治山田市を経て現伊勢市)出身。牛場林造の二男として生まれた。1901年(明治34年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語政治科を卒業。『神戸又新日報』記者、『柏崎日報』主筆を経て、雑誌『実業倶楽部』を発刊・経営した。 三重県会議員を務めた後、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に三重県第2区から出馬し、当選を果たした。
永井 松三(ながい まつぞう、1877年(明治10年)3月5… 永井 松三(ながい まつぞう、1877年(明治10年)3月5日 - 1957年(昭和32年)4月19日)は、日本の外交官。外務次官、駐ドイツ大使。IOC委員、貴族院勅選議員。 現在の愛知県名古屋市に永井松右衛門の長男として生まれる。 1895年(明治28年)に高等師範学校尋常中学科(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業後、私立東京英語学校を経て、第一高等学校、東京帝国大学を卒業。 1902年(明治35年)に外務省入省。天津、ニューヨーク、ワシントンDCに在勤する。1912年(明治45年)2月に駐サンフランシスコ総領事、その後、駐ベルギー大使、1930年12月から1932年5月まで外務次官、駐ドイツ大使などを歴任する。
内藤 浜治(ないとう はまじ、1877年〈明治10年〉3月5… 内藤 浜治(ないとう はまじ、1877年〈明治10年〉3月5日 - 1937年〈昭和12年〉9月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県加西郡、のちの多加野村(現加西市)で生まれた。1897年(明治30年)東京帝国大学農学科卒。日露戦争に参加、陸軍騎兵中尉に進む。兵庫県立農学校、同赤穂農学校教諭兼校長を歴任し、兵庫県会議員、同参事会員、村長を務める。また、加西郡農会副会長、同畳表同業組合長、同畜産組合長、播州紡績、北播水力電気、日本製棉製紙、播磨縄莚各(株)取締役、播州石粉、播州算盤各(株)社長、中播電気、播州水力電気、北条銀行、関西土木電気興業各(株)監査役となる。 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙において兵庫9区から憲政会公認で立候補して当選する。
川名 兼四郎(かわな かねしろう、1875年3月5日 - 1… 川名 兼四郎(かわな かねしろう、1875年3月5日 - 1914年11月7日)は、日本の法学者。専門は民法。梅謙次郎に師事。弟子に末弘厳太郎、岩田新など。 千葉県出身。東京帝国大学卒業後、1900年に東京帝国大学助教授となる。1903年から1906年までドイツに留学して民法を研究し、帰国翌年の1907年に教授となった。1911年刊行の『法律大辞書』(復刻版 ISBN 4820529935) の主要執筆者一覧にも「東京帝国大学法科大学教授」として名を連ねる。末弘厳太郎の指導教官。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
野村 益三(のむら ますぞう、1875年(明治8年)3月5日… 野村 益三(のむら ますぞう、1875年(明治8年)3月5日 - 1959年(昭和34年)12月25日)は、明治から昭和期の教員、政治家、華族。貴族院子爵議員。 外務省出仕・野村靖の長男として生まれる。父の死去に伴い、1909年(明治42年)2月19日に子爵を襲爵した。 東京帝国大学農学部を修了し、1910年(明治43年)ドイツ帝国に留学した。 1905年(明治38年)和歌山県立粉河中学校教諭に就任。以後、愛知県立第五中学校教諭、愛知県立第五中学校教諭、神奈川県立第四中学校教諭などを歴任。その他、教科書調査会副会長、帝国水産会長、南洋水産協会長、産業組合中央金庫評議員、大日本育英会評議員、帝国教育会評議員会議長、大日本農会理事、東京農業大学理事、国語審議会委員、教育評議会委員、文政審議会委員、物価審議会委員、農林計画委員会委員などを務めた。
日満(にちまん、1873年3月5日 - 1951年1月7日)… 日満(にちまん、1873年3月5日 - 1951年1月7日)は、大石寺第63世法主。讃岐阿闍梨。自照院。道号は慈円。秋山姓。
浪越 鷹太郎(なみこし たかたろう、1872年〈明治5年〉3… 浪越 鷹太郎(なみこし たかたろう、1872年〈明治5年〉3月5日 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家、香川県多額納税者。香川県三豊郡仁尾村長。南海舎密工業社長。仁尾塩田専務取締役。讃岐米肥料取締役。 香川県三野郡仁尾村(現・三豊市)、浪越家の長男。1896年、村会議員に当選する。1898年、家督を相続する。農会長としてその創設当初より多年に及び郡農会代議員、評議員等を歴任する。1907年、仁尾村長に就任する。 農業を営み、傍ら会社の重役であった。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。住所は香川県三豊郡仁尾町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
横手 千代之助(よこて ちよのすけ、明治4年1月15日(18… 横手 千代之助(よこて ちよのすけ、明治4年1月15日(1871年3月5日) - 昭和16年(1941年)11月14日)は日本の衛生学者。東京帝国大学医学部教授。 1894年東京大学医科大学卒業後、直ちに衛生学助手、1898年に助教授となり、1908年に衛生学二代教授となった。なお初代教授は緒方正規である。東京市衛生試験所技師、伝染病研究所技師などを兼任。1931年に退官。その後、上海自然科学研究所所長となった。 学校や工場などの環境衛生の向上を提唱した。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
伊東 祐賢(いとう すけたか、1869年3月5日〈明治2年1… 伊東 祐賢(いとう すけたか、1869年3月5日〈明治2年1月23日〉- 1945年〈昭和20年〉1月25日)は、明治後期から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、富山県下新川郡泊町長。幼名・柳太郎。 越中国新川郡沼保村(富山県下新川郡泊町沼保を経て現朝日町沼保)で、温泉業・伊東次郎左衛門祐明の長男として生まれる。祐明の養子・祐寛の相続人となり1891年(明治24年)家督を相続した。岡田信之に師事し漢籍を修めた。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)を卒業し、上京して専修学校(現専修大学)で経済学を学んだ。 家業の小川温泉の経営を行う。1912年(明治45年)の大洪水で小川温泉が多大な損害を受けたため、移転も検討されたが泊町での再建が決定され、1913年(大正2年)7月、小川温泉株式会社が設立され社長に就任した。
祝 辰巳(いわい たつみ、1868年3月5日〈慶応4年2月3… 祝 辰巳(いわい たつみ、1868年3月5日〈慶応4年2月3日〉- 1908年〈明治41年〉5月25日)は、日本の台湾総督府・大蔵官僚。台湾総督府民政長官。位階および勲等は正四位・勲二等。 出羽国村山郡(現:山形県上山市)で上山藩士の子として生まれる。1892年(明治25年)、帝国大学法科大学を卒業。同年10月、大蔵省試補となり、大臣官房第二課に配属された。以後、主計局勤務、沖縄県収税部長・収税長を歴任。 1896年(明治29年)、台湾総督府に転じ、民政局財務部調査課長兼関税課長に就任。その後、財務局主計課長、財務局長事務取扱、民政部財務局長、兼専売局長、民政局殖産局長などを歴任。 1906年(明治39年)11月、民政長官に就任し、現職で死去した。
河野 齢蔵(こうの れいぞう、元治2年2月8日(1865年3… 河野 齢蔵(こうの れいぞう、元治2年2月8日(1865年3月5日) - 昭和14年(1939年)4月3日)は高山植物学の権威、教育家、山岳写真家の草分け。河野常吉は実兄、著述家の河野義行は孫娘の夫にあたる。 信濃国安曇郡犬飼新田村(現長野県松本市島内)に庄屋を務めた河野通重の四男として生まれる。1889年長野師範学校卒業。上水内学校訓導を命ぜられ、1890年に大町小学校長となる。 1897年長野師範教諭、同年長野高等女学校教諭、1902年下伊那高等女学校教諭などを経て、1906年長野県諏訪高等女学校、長野県松本女子師範学校などの教頭、1913年上伊那農学校校長、1916年長野高等女学校校長、1922年諏訪高等女学校校長などを歴任した。
荒木 栄蔵(荒木 榮藏、あらき えいぞう、旧姓・鍵岡、186… 荒木 栄蔵(荒木 榮藏、あらき えいぞう、旧姓・鍵岡、1865年3月5日〈慶応元年2月8日〉 - 1934年〈昭和9年〉9月24日)は、日本の商人(皮革商、皮革貿易商)、資産家、実業家。族籍は大阪府平民。 和歌山市生まれ。鍵岡惣四郎の三男。1881年、荒木栄蔵の養子となる。1913年に先代が逝去し、義弟栄典の後を襲い家督を相続する。 荒木商店という商号の下に家業を継承し、皮革貿易商に従事する。大阪皮革商同業組合組長、六甲製革取締役、西浜土地建物取締役・同社長、共榮合名会社代表社員などをつとめる。 また公共事業に尽力する。賞勲局総裁より褒章を、また日本赤十字社社長より有功章を下賜される。 『部落の人豪』によると「西浜部落の大資産家である」という。
朝倉 外茂鉄(あさくら ともてつ、文久3年1月16日(186… 朝倉 外茂鉄(あさくら ともてつ、文久3年1月16日(1863年3月5日) - 昭和2年(1927年)6月14日)は、日本の衆議院議員、弁護士。 加賀国金沢出身。石川県専門学校、東京英和学校を経て、1885年(明治18年)に東京大学法学部選科に入学した。その後本科に移り、1889年(明治22年)に帝国大学法科大学英法科(東京大学から改称)を卒業した。渋沢栄一の知遇を得て第一銀行法律顧問となり、さらに浅野総一郎の法律顧問も務めた。また東京法学院、東京専門学校、東京商業学校、専修学校、日本法律学校などの講師に就任した。1890年(明治23年)に弁護士となり、1896年(明治29年)には日本弁護士協会の結成に参加した。
阪谷 芳郎(さかたに よしろう、1863年3月5日〈文久3年… 阪谷 芳郎(さかたに よしろう、1863年3月5日〈文久3年1月16日〉- 1941年〈昭和16年〉11月14日)は、日本の大蔵官僚、政治家。子爵、法学博士。大蔵大臣、東京市長、貴族院議員などを歴任した。父親は阪谷朗廬。曾孫の橋本久美子は首相を務めた橋本龍太郎の妻である。 後月郡西江原村(現:岡山県井原市)、幕末に開国派として活躍した漢学者、阪谷朗廬の四男として生まれる。1873年(明治6年)に父の友人である箕作秋坪の三叉学舍に入り、1876年(明治9年)には東京英語学校に入学、1880年(明治13年)には東京大学予備門を卒業。 1884年(明治17年)、東京大学文学部政治学科(現:法学部第3類)を卒業後、大蔵省に入省する。
飯尾 麒太郎(いいお きたろう、1862年3月5日(文久2年… 飯尾 麒太郎(いいお きたろう、1862年3月5日(文久2年2月5日) - 1908年(明治41年)2月6日)は、明治時代の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。 小松藩郷士・飯尾才右衛門、武川氏の長男として伊予国新居郡萩生村(中萩村、中萩町を経て現愛媛県新居浜市)に生まれる。尾埼山人について漢学を修めた。1888年(明治21年)新居郡会議員に当選したのを皮切りに、愛媛県会議員を務めた。1898年(明治31年)愛媛県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年6月8日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。 1888年(明治21年)5月、飯尾製糸場を設けて機械製糸を開始し、県内屈指の製糸工場となった。
川真田 徳三郎(かわまた とくさぶろう、1860年3月5日(… 川真田 徳三郎(かわまた とくさぶろう、1860年3月5日(安政7年2月13日) - 1918年(大正7年)11月22日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。 阿波国麻植郡(ごおり)鴨島字上下島(現在の徳島県吉野川市鴨島町上下島)出身。初名は国三郎。 麻植郡会議員、徳島県会議員、所得税調査委員、徴兵参事員などを務める。阿波商業会議所会頭などを経て、1890年の第1回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以降、第2回、第7回から第13回総選挙で立憲政友会より9回当選を果たす。 また阿波国共同汽船専務、阿波藍社長、徳島鉄道社長、阿波藍同業組合組長などを歴任。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
六代目 藤井 佐次兵衛(ふじい さじへえ、安政5年1月20日… 六代目 藤井 佐次兵衛(ふじい さじへえ、安政5年1月20日(1858年3月5日) - 1931年(昭和6年)3月25日)は、三河国幡豆郡佐久島村(現・愛知県西尾市佐久島)出身の漁業者・地方自治功労者。佐久島村漁業組合の設立に尽力し、1908年(明治41年)には佐久島村長を務めた。 安政5年1月20日(1858年3月5日)、三河国幡豆郡佐久島村(現・愛知県西尾市佐久島)西側97番地に生まれた。藤井佐次兵衛の長男である。幼名を覚三郎といい、やがて六代目藤井佐次兵衛を襲名した。 四番組長、学務委員、地積取調委員、戸長、佐久島村会議員などを歴任した。農事改良、金融の利便向上、防波堤の築造などに力を注ぎ、1903年(明治36年)2月1日には筒井新次郎、筒井由次郎、筒井金兵衛、筒井浅次郎らと協力して佐久島村漁業組合を設立した。