桑沢 洋子(くわさわ ようこ、1910年11月7日 - 19… 桑沢 洋子(くわさわ ようこ、1910年11月7日 - 1977年4月12日)は、20世紀の昭和時代に活動した日本のファッションデザイナー。桑沢デザイン研究所および東京造形大学の創立者で、服飾から生活全般にわたる分野において「産業デザイン」を提唱した。桑澤洋子と表記されることもある。 東京市神田区東紺屋町(現在の東京都千代田区)に出生。神田高等女学校(現在の神田女学園高等学校)卒業後、1928年に女子美術学校(現在の女子美術大学)師範科西洋部へ入学、1932年に卒業。卒業後は東京社に就職するが、1933年に新建築工芸学院へ入学しバウハウスの思想に触れた。写真家の田村茂と1934年に結婚するも、1951年に離婚。
安本 和夫(やすもと かすお、1910年 <明治43年> 1… 安本 和夫(やすもと かすお、1910年 <明治43年> 11月7日 - 1989年 <平成元年> 7月7日)は、日本の経営者。トーメン社長、会長を務めた。山口県出身。位階は従四位。 1935年に大阪商科大学を卒業し、同年に東洋綿花(のちのトーメン)に入社。1961年5月に取締役に就任し、1963年11月に常務、1965年6月に専務を経て、1969年11月に副社長に就任し、1971年6月には社長に昇格。1977年6月から1978年6月までに会長を務めた。 1972年4月に藍綬褒章を受章し、1982年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年7月7日肺炎のために死去。78歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
飯島 藤十郎(いいじま とうじゅうろう、1910年〈明治43… 飯島 藤十郎(いいじま とうじゅうろう、1910年〈明治43年〉11月7日 - 1989年〈平成元年〉12月4日)は、日本の実業家。山崎製パンの創業者である。 東京府北多摩郡三鷹村に生まれる。16歳で父親を亡くし、旧制中学を中退して新宿中村屋へ勤める。1931年に中村屋を辞して、現在の東京学芸大学にあたる東京府豊島師範学校二部に入学する。後に、中村屋の店主相馬愛蔵の影響でクリスチャンになり、2人の弟とともにキリスト教の洗礼を受ける。 豊島師範学校卒業後、東京市内の第一寺島小学校に赴任。赤坂中之町小学校の体育主任であった際、同僚の女性に結婚を申し込むも、小学校教師である事を理由に女性の家族から反対された事から、中等教員検定試験に合格し、東京府立航空工業学校体操教師になる。
野間 光辰(のま こうしん、1909年11月7日 - 198… 野間 光辰(のま こうしん、1909年11月7日 - 1987年4月30日)は、日本の国文学者。号は般庵。京都大学名誉教授。専門は近世日本文学で、井原西鶴研究の第一人者。 大阪府出身。旧制浪速高等学校を経て、1933年、京都帝国大学国文科卒業。藤井乙男に師事。1949年、京都大学助教授となり、1951年、教授に昇任した。 1973年、定年退官し名誉教授、皇學館大学教授を1983年まで務めた。1981年勲二等瑞宝章受章。1987年4月30日叙正四位。 1974年、藤本箕山の『色道大鏡』を刊行した。実証的な学風で知られ、井原西鶴や近松門左衛門や曲亭馬琴の研究においても成果を残している。終生、羽織はかま姿で教壇に立ち、文人の風格を漂わせる名物教授だった。
上原 謙(うえはら けん、1909年11月7日 - 1991… 上原 謙(うえはら けん、1909年11月7日 - 1991年11月23日)は、日本の俳優。戦前戦後の日本映画界を代表する二枚目スターの一人である。本名は池端 清亮(いけはた きよあき)。
岩崎 信彦(いわさき のぶひこ、1909年11月7日 - 1… 岩崎 信彦(いわさき のぶひこ、1909年11月7日 - 1987年8月25日)は、日本の経営者。東京都出身。 1933年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に住友合資に入社。1948年に住友機械工業(のちの住友重機械工業)に転じ、1955年5月に取締役に就任し、1959年11月に常務、1964年5月に専務を経て、1969年6月に副社長に就任し、1970年5月には社長に昇格。1973年11月に会長に就任し、1976年6月には相談役に就任。 1987年8月25日心不全のために死去。77歳没。
井川 伊勢吉(いかわ いせきち、1909年〈明治42年〉11… 井川 伊勢吉(いかわ いせきち、1909年〈明治42年〉11月7日 - 1990年〈平成2年〉7月4日)は、日本の実業家。大王製紙創業者。幼名高助。大王製紙前会長井川意高の祖父。 1943年(昭和18年)大王製紙設立。1981年(昭和56年)県功労賞。1984年(昭和59年)伊予三島市名誉市民。1986年(昭和61年)愛媛放送賞受賞、同年勲二等瑞宝章。 井川伊勢吉は、幼名高助といった。チビだったため、低助のアダ名がついた。伊勢吉の経営者としてのスタートは、戦時下という特殊な事情もあって苦難の連続であったが、苦労を苦労としない不屈の精神力と決断力が今日を築いたといえる。 伊勢吉について、地元商店街の関係者によると「創業者の井川伊勢吉氏は、身長が百五十センチに満たない小柄な人でしたが、働き者でね。
旗田 巍(はただ たかし、1908年11月7日 - 1994… 旗田 巍(はただ たかし、1908年11月7日 - 1994年6月30日)は、日本の東洋史学者、旧・東京都立大学名誉教授。 1908年、慶尚南道馬山生まれ。1931年東京帝国大学東洋史学科卒業。卒業後満鉄調査部に所属し華北農村慣行調査に参加した。 戦後は旧・東京都立大学助教授、教授を務め、1972年に定年退官、名誉教授となる。その後は専修大学教授として教鞭をとり、1979年に退職。 戦後、人間不在の東洋史学の克服、植民地支配否定の立場からの研究を目指し、朝鮮史研究で中心的役割を果たした。 戦後、中国東北部の満洲と朝鮮半島をつながった地域ととらえる歴史観である満鮮史を批判したことで知られる。第2回日韓歴史共同研究委員会委員幹事を務めた古田博司によると、韓国の委員が戦前の日本の満鮮史研究者を批判した旗田巍を見習うべきだと発言したという。
池見 猛(いけみ たけし、1907年11月7日 - 2016… 池見 猛(いけみ たけし、1907年11月7日 - 2016年1月3日[要出典])は、日本の精神医学者、池見学園理事長・校長、文筆家。 妻は嵯峨実勝の次女池見啓子(あきこ)。大分県北海部郡丹生村(現大分市)出身。 大分県立三重農学校(現・大分県立三重農業高等学校)卒、東京医学専門学校(現・東京医科大学)卒、中央大学法学部卒、名古屋帝国大学附属医学専門部卒。 1939年「精神的傾向の遺伝学的研究」で名古屋帝国大学医学博士。1959年「精神障碍性犯罪の刑事学的研究」で中央大学法学博士。 民族科学研究所を主宰、『民族科学』を刊行。1952年東京品川簿記学校を開校、1956年池見経理学校、1968年学校法人池見学園を設立し、校長、理事長を務める。
仲 威雄(なか たけお、1907年11月7日 - 2008年… 仲 威雄(なか たけお、1907年11月7日 - 2008年11月2日)は、日本の建築工学者。東京大学名誉教授。東京生まれ。専門は建築構造と溶接で溶接技術の指導的役割を果たした他に溶接学会会長(1958-1960年)、日本圧接協会会長(1963-1965年)、摩擦接合技術協会会長(1964-1994年)、溶接研究所理事長(1964-2000年)、日本鋼構造協会副会長(1965-1988年)ほか要職を歴任。日本建築学会 名誉会員。 1932年、東京帝国大学工学部建築学科卒業。1941から1945年、東京帝国大学講師。1942年に「電気溶接に関する研究」で日本建築学会学術賞。1945年に東京帝国大学教授就任。
徳川 義寛(とくがわ よしひろ、1906年 <明治39年> … 徳川 義寛(とくがわ よしひろ、1906年 <明治39年> 11月7日 - 1996年 <平成8年> 2月2日)は、日本の官僚。宮内官僚として52年にわたり天皇家を支え、昭和天皇の側近、侍従長の役割も果たした。位階は従二位。勲一等端宝章。 尾張(名古屋)藩主徳川慶勝の孫で、実弟津軽義孝は常陸宮正仁親王妃華子の父であり、妹祥子は北白川宮永久王の妃で皇籍離脱後は香淳皇后付の女官長、皇太后宮女官長を務めた。 1906年(明治39年)、尾張徳川家分家、徳川義恕の長男として東京府に生まれる。1927年(昭和2年)、学習院高等科を卒業し、1930年(昭和5年)、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。ベルリン大学留学後、帝室博物館(現東京国立博物館)研究員。
村山 籌子(むらやま かずこ、1903年〈明治36年〉11月… 村山 籌子(むらやま かずこ、1903年〈明治36年〉11月7日 - 1946年〈昭和21年〉8月4日)は、日本の児童文学作家。動物や野菜などを主人公とした、ユーモアとウイットにあふれる童話を多数執筆した。夫は村山知義、息子は児童劇作家の村山亜土。 1903年(明治36年)、父・岡内徳次郎、母・寛(ゆたか)の長女として香川県高松市に生まれる。家業は祖父の岡内喜三が創業した漢方薬を製造販売する岡内千金丹本舗で、全国的にも名の知られた商家であった。1916年(大正5年)、香川県立高松高等女学校に入学。水泳を得意とし在学中に高松藩の游泳術である水任流を身につけ、その一方、婦人之友社の雑誌『新少女』に和歌で入賞するなど、熱心な読者投稿者でもあった。
東海林 稔(しょうじ みのる、1903年〈明治36年〉11月… 東海林 稔(しょうじ みのる、1903年〈明治36年〉11月7日 - 1967年〈昭和42年〉10月1日)は、日本の地方公務員(群馬県庁職員)、政治家。日本社会党衆議院議員(4期)。 新潟県岩船郡瀬波町(現・村上市)出身。旧制新潟県立村上中学校(現・新潟県立村上高等学校)を経て、1927年(昭和2年)に北海道帝国大学農学部農業経済学科を卒業。 農林省に入り、台湾総督府技師・陸軍ジャワ司政官となり、ジャカルタ州経済部長となる。この時妻子を台湾に残した。戦後の1946年(昭和21年)に帰国。翌1947年(昭和22年)に群馬県庁に入り農地部長・経済部長などを歴任した後、1956年(昭和31年)に退職。
北條 秀司(ほうじょう ひでじ、新字体:北条、1902年(明… 北條 秀司(ほうじょう ひでじ、新字体:北条、1902年(明治35年)11月7日 - 1996年(平成8年)5月19日)は、劇作家、演出家、著述家。本名:飯野 秀二(いいの ひでじ)。 大阪市西区西長堀生まれ。 大阪市立甲種商業学校(現大阪市立天王寺商業高等学校)予科に進む。同校本科には進まず、1920年に日本電力に入社。同社で働きながら、関西大学専門部文学科(夜間)を卒業。 商業学校在学中の1919年に、室町銀之助の筆名で宝塚少女歌劇の第5回脚本公募に応募し、一等に入選する。1920年7月、宝塚公会堂劇場で入選脚本が「コロンブスの遠征」として上演された。 1926年、久松一声の誘いで宝塚歌劇団に入社の話があったが、面接での宝塚幹部の態度が傲慢だと感じ、入社拒否。
井東 安久(いとう やすひさ、明治35年(1902年)11月… 井東 安久(いとう やすひさ、明治35年(1902年)11月7日 - 昭和58年(1983年)12月1日)は日本の実業家。井東建設元代表取締役。境港商工会議所の常議員、監事、参与などを歴任。井東家の八代目。 明治35年(1902年)11月7日、鳥取県西伯郡中浜村大字佐斐神(現在の境港市佐斐神町)に父・井東藤重、母・ゑせのの長男として生まれた。出身地の佐斐神は明治20年代から桑栽培・養蚕業が主産業になった。若いころは馬車曳きの仕事をした。 昭和22年(1947年)洋瓦の製造販売を創業、昭和30年(1955年)法人に改組した。 昭和30年(1955年)4月境港商工会議所議員に就任し、その後常議員、監事を歴任、昭和52年(1977年)4月から参与を務め、地域経済の振興、発展に尽力した。
楢崎 勤(ならさき つとむ、1901年11月7日 - 197… 楢崎 勤(ならさき つとむ、1901年11月7日 - 1978年12月1日)は、昭和期の日本の編集者、小説家。 山口県萩市生まれ。同志社大学中退。1925年新潮社に入社、『新潮』の名編集者として鳴らし、太平洋戦争末期の1944-45年には、言論活動や出版が困難な時期に編集長として舵を取った。その一方で新興芸術派の小説家としても活動、戦後まもなくは、太宰治の担当だったことで知られる。のち読売新聞記者に移籍した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
田中 外次(たなか そとじ、1901年(明治34年)11月7… 田中 外次(たなか そとじ、1901年(明治34年)11月7日 - 1992年(平成4年)10月27日)は、日本の実業家。初代住友金属鉱山社長。元日本鉱業協会会長。旧姓は水谷。 長崎県長崎市に生まれる。旧制長崎県立長崎中学校(1919年卒業)を経て、1926年に東京商科大学(現・一橋大学)本科を卒業した。印南博吉(明治大学名誉教授)は志田鉀太郎ゼミの同期である。 また、坐禅クラブの「一橋如意団」に所属し、古川尭道門下で、円覚寺での禅の修行で知り合った草鹿任一の勧めで、大学卒業後は住友合資会社に入社した。 1927年に住友合資会社別子鉱業所が独立して設立された住友別子鉱山に入社。住友別子鉱山が住友炭砿と合併して改組された住友鉱業の総務部長や、同社が商号変更した井華鉱業取締役を経て、1947年井華鉱業の専務取締役となる。
難波 大助(なんば だいすけ、1899年(明治32年)11月… 難波 大助(なんば だいすけ、1899年(明治32年)11月7日 - 1924年(大正13年)11月15日)は、日本の共産主義者、極左テロリスト。大正期の反逆的な社会運動家。 1923年(大正12年)12月の虎ノ門事件で摂政宮(皇太子裕仁親王、のちの昭和天皇)を襲撃し、暗殺しようとした。審理が行われた大審院でも皇室否定の主張を曲げず、大逆罪により処刑された。 1899年(明治32年)、山口県熊毛郡周防村立野宮河内(現:山口県光市立野)の名家に難波作之進の四男として生まれた。難波家は長州藩士ではなく陪臣であり、長州藩寄組清水氏の家臣で、清水宗治の弟難波宗忠を家祖とし、戦国時代から主従関係は変わることはなかった。
小林 節太郎(こばやし せつたろう、1899年11月7日 -… 小林 節太郎(こばやし せつたろう、1899年11月7日 - 1977年8月12日)は、日本の経営者。兵庫県小野市出身。 1924年に関西学院大学高等商業部を卒業。岩井商店、大日本セルロイドでの勤務を経て、1934年1月に富士写真フイルムに転じ、1937年5月に取締役、1943年5月に常務、同年11月に専務、1958年に副社長を経て、1960年6月に社長に就任。1962年には富士ゼロックス社長にも就任。。 1964年11月に藍綬褒章を受章し、1970年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1977年8月12日急性心不全のために死去。77歳没。
加藤 仁平(かとう にへい、1894年11月7日 - 199… 加藤 仁平(かとう にへい、1894年11月7日 - 1993年4月12日)は、日本の教育史学者。 愛知県宝飯郡豊川町(現豊川市)出身。東京高等師範学校卒。1944年「伊藤仁斎の学問と教育 古義堂即ち堀川塾の教育史的研究」で、文学博士(慶應義塾大学)の学位を取得。東京高等師範学校教授、東京文理科大学教授を兼ねるが、1947年公職追放。のち関東学院大学教授となる。1978年退職。 東京高師で嘉納治五郎に学ぶ。江戸時代の教育思想が専門だが、二宮尊徳の報徳思想を広めることに努め、これが戦時中の戦争イデオロギーとなったため戦後公職追放を受けた。
島崎 こま子(しまざき こまこ、1893年11月7日 - 1… 島崎 こま子(しまざき こまこ、1893年11月7日 - 1979年6月29日)は、島崎藤村の次兄広助の次女。藤村の小説『新生』の「節子」のモデル。結婚後の氏名は長谷川こま子。 長野県吾妻村の高等小学校4年後上京。三輪田高等女学校の3年に編入、根岸の親類(藤村の長兄の家族)の家から通っていた。卒業後に妻を亡くした藤村の家に住み込んだ。最初は姉ひさと一緒だったが、姉は結婚して家を出た。 19歳の1912年半ば、藤村と関係を結び、藤村との子を妊娠する。 藤村は1913年4月にパリに留学。同年8月に藤村との子を出産するも養子に出された。この養子は10歳時に1923年の関東大震災で行方不明となる。 藤村は1916年に帰国し、関係が再燃。
粟屋 仙吉(あわや せんきち、1893年〈明治26年〉11月… 粟屋 仙吉(あわや せんきち、1893年〈明治26年〉11月7日 - 1945年〈昭和20年〉8月6日)は、日本の内務官僚、政治家。ゴーストップ事件時の大阪府警察部長、広島市への原子爆弾投下時の広島市長として知られる。東京府士族。 鉄道官吏・粟屋頴祐(えいすけ)の二男として生まれる。父の転勤先の仙台で生まれたため「仙吉」と命名される。父は山口県出身だが、鉄道に勤務していたために転勤をくりかえし、その任地の一つとして1902年鳥取の米子に来た。 1906年鳥取県立第二中学校(現在の米子東高校)に入学し、野球と柔道に熱中した。 1911年12月林重浩校長が鳥取中学校へ転任することになった際、仙吉は生徒の先頭に立って留任運動のリーダーになった。
古田 良一(ふるた りょういち、1893年11月7日 - 1… 古田 良一(ふるた りょういち、1893年11月7日 - 1967年7月12日)は、日本の日本史学者。 愛知県愛知郡熱田町(現・名古屋市熱田区)出身。京都帝国大学文科大学史学科で、内田銀蔵に師事した。1918年卒業。卒業論文は「徳川時代に於ける史学の発達」。神戸市史編纂員を経て、東北帝国大学法文学部助教授となり、1929年教授。東北大学教授となり1957年定年退官、名誉教授、宮城学院女子大学教授。1947年「東廻海運及び西廻海運の研究」で文学博士。東北史学会を創立し、「宮城県史」「仙台市史」などを編集した。
永井 英修(ながい えいしゅう、1893年(明治26年)11… 永井 英修(ながい えいしゅう、1893年(明治26年)11月7日 - 1967年(昭和42年)2月19日)は、大正から昭和期の鉱山技術者、実業家、政治家。衆議院議員。戦後の炭鉱開発を担った。 佐賀県小城郡多久村(現多久市多久町西ノ原)で永井英迅の長男として生れる。1920年(大正9年)東京帝国大学工学部採鉱学科を卒業した。 1920年、高取鉱業(佐賀県)に入社し、杵島炭鉱長、大鶴炭鉱長、鉱業部長、常務取締役を歴任。その他、湘南製作所取締役、住ノ江造船取締役、西日本坑木取締役、大日鉱業常務取締役、杵島炭礦専務取締役、大日鉱業社長、佐賀相互銀行社長、花菱商事社長、自由文化出版社代表者などを務めた。
金子 鷹之助 (かねこ たかのすけ、1892年11月7日 -… 金子 鷹之助 (かねこ たかのすけ、1892年11月7日 - 1951年5月7日)は、日本の歴史学者。東京商科大学(現一橋大学)教授を務めたが、日本の降伏後、教職追放令により免官された。 京都市出身。京都府立第二中学校(のちの京都府立鳥羽高等学校)卒業後、1915年東京高等商業学校(のちの一橋大学)本科卒業。1917年同専攻部貿易科を総代で卒業し、同校講師に就任。上田貞次郎門下。1919年同校教授。 1920年東京商科大学附属商学専門部教授。同年から1923年までイギリス、フランス、ドイツに留学。のち、東京商科大学教授兼附属商学部教授となり、1938年に全国高商文化聯合会が設立されると会長に就任。
久保田 万太郎(くぼた まんたろう、1889年〈明治22年〉… 久保田 万太郎(くぼた まんたろう、1889年〈明治22年〉11月7日 - 1963年〈昭和38年〉5月6日)は、日本の小説家、劇作家、俳人。俳号はじめ暮雨。のち傘雨。他に筆名千野菊次郎。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は従三位・勲一等。 浅草生まれ。耽美派(三田派)の新進作家として登場。劇作でも慶大在学中から注目され、築地座を経て文学座創立に参加。新派、新劇、歌舞伎の脚色・演出と多方面に活動を展開。日本演劇協会会長を務め、文壇・劇壇に重きをなした。小説戯曲共に多くは浅草が舞台で、江戸情緒を盛り込んだ情話で長く活躍。文人俳句の代表作家 としても知られ、俳誌「春燈」を創刊・主宰した。
藤田 欽哉(ふじた きんや、1889年11月7日 - 197… 藤田 欽哉(ふじた きんや、1889年11月7日 - 1970年)は、日本のゴルフ場設計技術者。 霞ヶ関カンツリー倶楽部の設計を担当したことで知られ、日本におけるゴルフ場設計の「レジェンド」とも評される。 1889年(明治22年)、東京市駒込五丁目910番地、岩崎家の染井墓地内別邸にて豊川小太郎の次男として生まれる。この時, 母方の祖母の藤田家(初代六兵衛道真)を継ぐため7代目になるための約束を交わされる。[要出典]三菱銀行部長を務めた豊川良平の甥に当たる。六義園の邸内で育ったことが、広い土地の判断力を養ったとされる。 早稲田大学(当時は旧制専門学校)に進学し、1910年(明治43年)卒業。しかし、チフスに罹患して入院生活を送る。
稲葉嶽 光之助(いなばだけ みつのすけ、1889年11月7日… 稲葉嶽 光之助(いなばだけ みつのすけ、1889年11月7日 - 1978年5月7日)は、現在の千葉県市川市河原出身で濱風部屋、千田川(大阪相撲)に所属した力士。本名は雪吹 光之助(旧姓:及川)。身長173cm、体重94kg。東京相撲での最高位は東前頭14枚目(1916年5月場所)。 1911年2月に初土俵を踏み、1915年6月十両昇進。1916年5月に入幕したが1勝8敗1預の大負けだった。翌場所(1917年1月場所)は十両に落ち、2場所とも十両にあったが不振が続いた。場所後の巡業では出羽海部屋一行に加わったが、同年12月巡業先の埼玉県大宮で酒の席で暴行事件を起こした。一行の組長の入間川(元小結両國のち6代出羽海)は稲葉嶽をその場で破門を宣言した。
尹 白南(いん はくなん、1888年11月7日 - 1954… 尹 白南(いん はくなん、1888年11月7日 - 1954年9月29日)は、日本統治時代の朝鮮・大韓民国の俳優、脚本家、映画監督、小説家、ジャーナリスト、演劇演出家。本名は尹 教重。本貫は坡平尹氏。 李氏朝鮮忠清南道公州府出身。大韓帝国国費留学生として早稲田大学に入学したのち、東京高等商業学校(現一橋大学)に移り、同校を卒業した。日韓併合後毎日新報記者となり、のち俳優、映画製作などに携わるようになる。1930年に東亜日報に朝鮮初の大衆小説「大盜傳」を連載し人気を博す。1931年には劇芸術研究会を創立し新劇場運動の先駆者としての役割を果たした。1937年満州国に移住し、歴史小説を執筆。日本の降伏後帰国し、朝鮮映画建設本部本部長兼代表委員長に就任。
鈴木 理一郎(すずき りいちろう、1887年(明治20年)1… 鈴木 理一郎(すずき りいちろう、1887年(明治20年)11月7日 - 1980年(昭和55年)11月15日)は、日本の政治家。初代掛川市長。 1887年(明治20年)、佐野郡伊達方村(現在の掛川市)で、江戸時代初期から大庄屋として掛川藩御用達を務めた旧家・鈴木家に生まれる。1907年(明治40年)、静岡県立静岡中学校卒業。京都帝国大学法科大学政治学科を卒業し、実業界に入る。1923年(大正12年)、35歳で掛川町長になり5期、さらに1954年(昭和29年)、初代掛川市長となり2期、25年間在職した。 掛川信用組合発足とともに理事に就任。昭和初期の金融恐慌に手腕を発揮し、1946年(昭和21年)、同組合長となる。
上月 良夫(こうづき よしお、1886年11月7日 - 19… 上月 良夫(こうづき よしお、1886年11月7日 - 1971年4月3日)は、日本の陸軍軍人、陸軍中将。熊本県出身。陸士21期、陸大29期。
小田 観螢(おだ かんけい、1886年〈明治19年〉11月7… 小田 観螢(おだ かんけい、1886年〈明治19年〉11月7日 - 1973年〈昭和48年〉1月1日)は、日本の歌人。本名は小田哲弥。北海道歌壇の草分け、北海道歌壇の功労者とされる。二度にわたって妻を喪いながらも歌を詠み続けたことから、「逆境の歌人」とも呼ばれる。 岩手県九戸郡宇部村(後の久慈市)で誕生した。伯父である小田為綱の教育の賜物で、13歳のとき中国の歴史書『一八史略』を読み、周囲を驚かせた。 1900年(明治33年)、家が破産したために学業を断念、母方の叔母を頼って一家で北海道小樽にわたり、観螢は奥沢小学校の代用教員として勤めた。その後も北海道各地に転任し、開拓民の子供たちに教えつつ、自らも農業に携わる、半農半教の生活を送った。
裏松 友光(うらまつ ともみつ、1885年(明治18年)11… 裏松 友光(うらまつ ともみつ、1885年(明治18年)11月7日 - 1949年(昭和24年)11月24日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 陸軍将校、子爵・裏松良光の二男として生まれる。父の死去に伴い、1915年(大正4年)10月30日、子爵を襲爵した。 1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。その後、内閣調査局参与、商工省参与、土木会議議員、大蔵省委員、大東亜省委員、南方開発金庫監事、南鮮合同電気監査役、朝鮮電力監査役などを務めた。 1924年(大正13年)9月27日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1946年(昭和21年)3月26日まで四期在任した。
松本 信一(まつもと しんいち、1884年11月7日 - 1… 松本 信一(まつもと しんいち、1884年11月7日 - 1984年8月1日)は、日本の医学者、皮膚科医。京都帝国大学名誉教授、元大阪医科大学学長。福島県会津若松市生まれ。 再感染免疫をスピロヘータを使用した実験等、病理組織学や細胞免疫学の各方面から梅毒の研究を行う。1917年5月14日、医学博士の学位を受けた。1966年文化功労者、1976年勲一等瑞宝章。主著に『皮膚病学』等。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
礒川 重作(磯川 重作とも、いそかわ しげさく、1878年〈… 礒川 重作(磯川 重作とも、いそかわ しげさく、1878年〈明治11年〉11月7日 - 1956年〈昭和31年〉12月26日)は、日本の教育家である。 東京府の生まれ。東京高等師範学校(現在の筑波大学)卒業後、東京府南多摩郡町田村(現在の東京都町田市)日新小学校の教師を務める。 その後同学校の校長を経て1902年(明治35年)から31年間、稲城第一小学校の校長を務め、地域教育の近代化に貢献した。校長就任中は徳富蘇峰の秘書であった並木仙太郎らと共に、蘇峰の葬儀に出席した。1956年(明治31年)に78歳で亡くなった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
河崎 清(かわさき きよし、1870年11月7日(明治3年1… 河崎 清(かわさき きよし、1870年11月7日(明治3年10月14日) - 1925年(大正14年)11月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。旧姓・小畑。 若狭国遠敷郡平野村(福井県遠敷郡平野村、松永村を経て現小浜市平野)で、小畑多四郎の三男として生まれた。福井県福井中学校(現・福井県立藤島高等学校)で学ぶ。福井県議、同参事会員、地方森林会議員、南米殖民会社、海外興業各業務代理人、河野水電(株)専務取締役、公洲電気(株)監査役、永平寺鉄道(株)社長となる。 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙において福井5区から立憲政友会公認で立候補して当選する。1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙では政友本党公認で立候補して再選した。
井上 孝哉(いのうえ こうさい、1870年11月7日(明治3… 井上 孝哉(いのうえ こうさい、1870年11月7日(明治3年10月14日) - 1943年(昭和18年)11月22日)は、日本の官僚・政治家。元衆議院議員。岐阜県出身。岐阜中学(現在の岐阜県立岐阜高等学校)、第一高等学校を経て東京帝国大学(現在の東京大学)卒業。 東京帝国大学卒業後、高等文官試験行政科に合格。内務書記官などを経て、1908年に佐賀県知事に就任。1917年、富山県知事に就任。1919年、神奈川県知事に就任。1922年、大阪府知事に就任。1923年、内務次官に就任した。 1919年ごろ現職の知事も衆議院議員に立候補できる制度が制定された。当時この制度を利用していたのは井上孝哉と警視総監を務めた宮田光雄の2名だけであった。
神山 閏次(かみやま じゅんじ、1870年11月7日(明治3… 神山 閏次(かみやま じゅんじ、1870年11月7日(明治3年10月14日)- 1943年(昭和18年)3月8日)は、日本の内務・農商務官僚。官選群馬県知事、錦鶏間祗候。 熊本県出身。熊本藩士・神山譲の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1895年(明治28年)帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し県治局属となる。 1896年(明治29年)5月、青森県参事官に就任。以後、司法大臣秘書官兼司法省参事官、衆議院書記官兼内務省参事官、農商務大臣秘書官兼衆議院書記官兼農商務省参事官、農商務省水産局長などを歴任。 1908年(明治41年)8月、群馬県知事に就任。
三田村 甚三郎(みたむら じんざぶろう、1867年11月7日… 三田村 甚三郎(みたむら じんざぶろう、1867年11月7日(慶応3年10月12日) - 1934年(昭和9年)2月13日)は、福井県武生市(現越前市)出身の日本の実業家、政治家。 越前打刃物の名産地として知られる越前市越前府中(現越前市あおば町)でも有数の打物問屋に長男・欽二として出生。明治29年、家督を相続し、甚三郎を襲名。福井県立福井中学校(現福井県立藤島高等学校)を経て、東京専門学校(現早稲田大学)に入学し政治学を学ぶ。 福井新聞、有限責任信用組合武生金庫(現武生信用金庫)、武岡軽便鉄道株式会社(福井鉄道南越線)を設立。 福井県会議員を歴任後、衆議院議員に二期当選(1898-1902、1930-32)18年間無報酬で武生町長を務める。
関場 不二彦(せきば ふじひこ、1865年11月7日(慶應1… 関場 不二彦(せきば ふじひこ、1865年11月7日(慶應1年9月19日)- 1939年(昭和14年)8月25日)は、日本の外科医、医史学者である。スクリバ門下十哲の一人で、北海道医学界の中心的存在であった。北海道医師会、札幌医師会の初代会長。『卵巣腫瘍ノ臨床上知見及外科的療法ノ追加』で医学博士(東京帝大)。 戦国時代末期は蒲生家に仕え、江戸時代中期に会津松平家家臣となる。曽祖父は北方警備で利尻島に赴き現地で病没(28歳)。祖父は戊辰戦争時に敢死隊指図役として若松城下で討死にした(62歳)。父の忠武は朱雀隊士で、斗南藩権少属を経て、青森県に採用され県の東京出張所員として上京。のち内務省官吏となる。
佐藤 政吉(さとう まさきち、安政4年(1857年)11月7… 佐藤 政吉(さとう まさきち、安政4年(1857年)11月7日 - 昭和9年(1934年)11月17日)は、神奈川県中郡秦野町の実業家、政治家、クリスチャン。 1857年(安政4年)、曽屋村の製油業「大安(だいやす)」を経営する商家に生まれ、1874年(明治7年)に17歳で父が亡くなったことで家業を継ぐ。明治20年頃から醤油醸造業にも進出し、成功を収める。さらに、地方銀行業の草分けとなる相模銀行の前身「共伸社」の設立に関わり、その後、相模銀行取締役、秦野銀行頭取を務める。 曽屋村からコレラ蔓延による死者を出したことを憂えて、町内他の篤志家と協力して、国内初の民間による上水道、曽屋水道の設置に貢献する。
新山 荘輔(にいやま そうすけ、安政3年10月10日(185… 新山 荘輔(にいやま そうすけ、安政3年10月10日(1856年11月7日) - 昭和5年(1930年)11月7日)は、獣医学博士、下総御料牧場長、新冠御料牧場長、馬政官、農商務技師、宮中顧問官。日本の官民両面における畜産業、特に馬産事業の貢献者。正三位旭日重光章受章。 種畜の改良、繁殖、育成等を通じた飼養管理や治療法等の功績により『日本獣医学の生みの親』として知られる。 岩山敬義によって創設された駒場農学校(後の東京大学農学部)で獣医学を学び、ヨーロッパの畜産業の視察のため藤波言忠子爵に随行した。この間、ドイツ語が堪能であったことから渡欧中だった伊藤博文一行と会い、通訳や翻訳の仕事にあたり、明治憲法制定に一役買ったとされる。
二代目 中村 翫右衛門(なかむら かんえもん、嘉永4年10月… 二代目 中村 翫右衛門(なかむら かんえもん、嘉永4年10月14日〈1851年11月7日〉 - 1919年〈大正8年〉4月27日)は歌舞伎俳優。本名、三井 梅之助。初名、初代中村梅之助、梅雀から1913年中村翫右衛門と改名。4代目市川門之助、4代目中村芝翫の門弟。三代目中村翫右衛門は次男金次郎。屋号、駒村屋。 故郷は本庄で、長兄の中村芝三郎、次兄の梅三郎とともに深谷で地方歌舞伎の劇団「児桜座」を組み、旅回りなどをしていた。明治初期に20代で一座を離れて上京し、浅草の小芝居小屋「柳盛座」の役者となり、中村梅雀を名乗る。人気役者として柳盛座座長を務め、39歳のときに、東京市下谷区竹町で小間物の行商していた三井鋳三郎の娘婿となった。
西山 関一郎(關一郎、にしやま かんいちろう、1848年11… 西山 関一郎(關一郎、にしやま かんいちろう、1848年11月7日(嘉永元年10月12日)- 1903年(明治36年)7月4日)は、明治期の医師、政治家。衆議院議員、島根県会議長。 出雲国神門郡荻杼村(島根県簸川郡川跡村、出雲町を経て現出雲市)で、医師、2代・西山沙保、やゑの長男として生まれる。儒学を今市の伊藤宜堂に学んだ。その後、神戸洋学館で英語を学び、1870年(明治3年)大阪医学校(現大阪大学医学部)に入学し4年間修学。その後上京し、佐々木東洋の私塾主幹に就任。1874年(明治7年)に帰郷し開業した。 1876年(明治9年)9月に公立松江病院が開設され院医に就任。1977年(明治10年)12月、院長心得となり1881年(明治14年)まで在任。
伊月 一郎(いづき いちろう、1848年(嘉永元年)11月7… 伊月 一郎(いづき いちろう、1848年(嘉永元年)11月7日 – 1891年(明治24年)6月3日)は、徳島藩出身の日本海軍軍人。最終階級は海軍大佐。日本海軍が組織的に外国へ派遣した最初の留学生として知られ、イギリス海軍式の教育を導入し、のちの海軍兵学校創立にも貢献した人物である。 伊月一郎は嘉永元年11月、藩医・伊月柳安の長男として、江戸三田四国町の徳島藩中屋敷に生まれ、その後八丁堀の藩邸に移った。文久2年、江戸在勤の藩士全員が引き上げることになり帰郷した。 慶応元年、徳島巽浜に洋学校が開設されると、伊月は同校で蘭学を学んだ。さらに慶応2年には藩命により芳川顕正らとともに長崎へ国内留学したが、維新の動乱により全員が帰藩した。
岡田 魯人(おかだ ろじん、天保11年10月14日(1840… 岡田 魯人(おかだ ろじん、天保11年10月14日(1840年11月7日) - 明治38年(1905年)5月8日)は、明治時代の俳人。 義仲寺無名庵14世庵主となり無名庵復興に尽くした。 天保11年10月14日(1840年11月7日)近江国蒲生郡船木村(後の岡山村、現滋賀県近江八幡市船木町)に生まれる 。本名存修、別に魯台、梅下庵、泊船居、椿杖斎、種々庵宗碩と号した。青年時多くの勤王家と交わり、明治維新後、兵部省に勤め、糾問使、陸軍省軍務局理事、軍務局大録事を歴任した。 幼い時より俳諧に親しみ寛揚、柴人に師事し、陸軍省を退官した明治18年(1885年)東海道・山陽道・西海道などを俳諧行脚し、近江八幡に草庵を結ぶ。
赤沢 仁兵衛(あかざわ にへい、天保8年10月10日(183… 赤沢 仁兵衛(あかざわ にへい、天保8年10月10日(1837年11月7日) - 大正9年(1920年)3月6日)は、赤沢式栽培法の開発で知られる農業技術者。「川越の甘藷先生」とも呼ばれる。サツマイモはどのような条件下でもある程度はできる作物なので、栽培法を研究した人物はいなかったが、仁兵衛は徹底的に栽培方法を研究し、農村に増収をもたらした。赤沢式栽培法は今日でも基本的に継承されており、小学校の道徳教育の時間に用いられる教科書でも取り上げられることが多い。 1837年(天保8年)、武蔵国入間郡今福村(現埼玉県川越市)に赤沢又助の三男として生まれる。 1865年(慶応元年)3月、赤沢家の本家にあたる赤沢伊兵衛の長女・千代と結婚し婿養子となる。
片岡 源馬(かたおか げんま、天保7年10月9日(1836年… 片岡 源馬(かたおか げんま、天保7年10月9日(1836年11月7日) - 明治41年(1908年)11月2日)は、江戸時代後期(幕末)の武士(土佐藩士)、明治時代の官僚。明治維新後は片岡 利和(としかず)と称した。爵位は男爵。位階勲等は正三位勲二等。次代は従五位男爵片岡丈人。 天保7年(1836年)10月、土佐郡潮江村(現・高知市)の土佐藩士・永野源三郎の次男として生まれたが、佐川領主の家老深尾氏の家臣・那須橘蔵利家の養子となって那須盛馬と称し、佐川の鳥之巣村に移り住む。文久元年(1861年)、武市瑞山が結成した土佐勤王党に参加するが、八月十八日の政変を契機として前藩主山内豊信が勤王党弾圧を開始したことから、謹慎に処されている。
新 貞老(あたらし さだお、1827年11月7日(文政10年… 新 貞老(あたらし さだお、1827年11月7日(文政10年9月18日) - 1900年(明治33年)3月9日)は、幕末の鳥取藩士。明治時代の官吏。国学者。神職。佐渡県権知事、相川県権令。本姓は衣笠。通称は初め田中良達、新庄恒蔵、五郎。変名に池田謙斎。雅号に真木園。 因幡国高草郡村上村に生まれる。新武男の父。国学を飯田秀雄に、紀州にて医学を、和歌を加納諸平に学ぶ。 1860年(万延元年)国書掛となり、国学局教授に転任。1862年(文久2年10月)国事周旋方となり京都に上った。1863年(文久3年)本圀寺事件に参加し、大坂の獄につながれ、1867年(慶応3年)赦されて出獄した。 1868年(明治元年4月)内国事務局書記、12月には権弁官となり、1869年(明治2年2月)奥羽民政巡察使を兼任し奥羽巡回中、7月に佐渡県権知事となる。
徳富 一敬(とくとみ かずたか、いっけい、文政5年9月24… 徳富 一敬(とくとみ かずたか、いっけい、文政5年9月24日(1822年11月7日) - 大正3年(1914年)5月26日)は、幕末から明治にかけての日本の儒学者(朱子学者)、官僚、教育者。徳富蘇峰、徳富蘆花の父。淇水(きすい)と号した。 肥後国葦北郡水俣郷(後の熊本県水俣市)に、惣庄屋の長男として生まれ、幼児には万熊、後には太多助、太多七などと称した。一敬の父は辛島塩井の高弟で、津奈木手永惣庄屋の徳富美信。美信は鶴眠と号し、肥後を訪れた頼山陽に会っている。 一敬は1837年から、近藤英助の私塾で教えを受けつつ藩校時習館に学ぶが、1842年に父の死去により惣庄屋の務めのため帰郷した。1845年に横井小楠の門下となった。