小鳥 サワ(ことり サワ、1919年〈大正8年〉6月8日 -… 小鳥 サワ(ことり サワ、1919年〈大正8年〉6月8日 - 2007年〈平成19年〉5月10日)は、日本のアイヌ文化伝承者。阿寒アイヌ民族文化保存会の礎を築いた人物の1人であり、同会や阿寒アイヌ語教室で、長年にわたって指導者として活躍した。テレビの料理番組を通じてのアイヌ文化の紹介や、後進の育成にも貢献した。 北海道の阿寒湖畔で誕生した。家は貧しく、子供の頃から母を助け、家で作った菓子を売り歩くなどして働いた。阿寒湖畔小学校に入学後、アイヌであることを理由にいじめに遭うが、いじめられてもやり返す、勝気な性格であった。19歳で結婚、1943年(昭和18年)に夫の出稼ぎで樺太に渡った。翌1944年(昭和19年)には常呂町(現・北見市)に移り、戦後しばらくは弟子屈町で暮らしていた。
川端 佳夫(かわばた よしお、1918年6月8日 - 196… 川端 佳夫(かわばた よしお、1918年6月8日 - 1968年1月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県出身。1940年青山学院文学部卒。卒業後は読売新聞記者となり、厚生省嘱託、農相秘書官となる。岩崎澱粉化学工業、内外自動車各(株)取締役、東海養魚(株)社長を務める。 1949年の第24回衆議院議員総選挙では愛媛1区から民主自由党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。この間、民主自由党情報部副部長、自由党人事、遊説の各副部長となった。1952年の第25回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して落選。1953年の第26回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。 このほか東京馬主協会会長にもなった。
洪 範憙(ホン・ボミ、朝鮮語: 홍범희、1917年6月8日ま… 洪 範憙(ホン・ボミ、朝鮮語: 홍범희、1917年6月8日または6月18日 - 1972年2月27日または2月28日)は、大韓民国の官僚、政治家、教育者。槐山郡郡守、内務部次官、制憲・第4代韓国国会議員。 本貫は豊山洪氏(朝鮮語版)。号は逸谷。漢字表記は洪範熹とも。 日本統治時代の江原道原州郡または慶尚北道善山郡出身。京城京北中学校を経て、1935年に京城第二高普、1937年に普成専門学校法科、1941年に中央大学法学部卒。1945年に高等文官試験行政科に合格した後、1946年に原州に育民館を設立し、館長を務めた。朝鮮食糧営団忠清北道支部勤務を経て、1948年の初代総選挙で国会議員に当選し、国会交通逓信委員会常任委員会で活動した。
美馬 昇(みま のぼる、1917年(大正6年)6月8日 - … 美馬 昇(みま のぼる、1917年(大正6年)6月8日 - 1995年(平成7年)4月27日)は、日本の教育者。学校法人生光学園創立者。徳島県徳島市出身。藍綬褒章受章。 名東郡国府町中村(現在の徳島市国府町中)に生まれる。1929年(昭和4年)、三重実業学校教員養成所(現在の三重大学)を卒業。1933年(昭和8年)に地元である国府町中村に美馬学習塾を設立。 1941年(昭和16年)より徳島県立商業学校(現在の徳島県立徳島商業高等学校)で教務を務める。1945年(昭和20年)に徳島市中吉野町に生光商業学院を創立し、後の学校法人生光学園の基礎をかためる。 1995年(平成7年)4月27日、77歳で没する。
長谷川 謙浩(はせがわ けんこう、1916年6月8日 - 1… 長谷川 謙浩(はせがわ けんこう、1916年6月8日 - 1994年11月12日)は、日本の実業家。川崎重工業社長、会長を務めた。福島県金山町中川出身。 1941年に東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業し、同年に川崎重工業に入社した。海軍技術将校、大尉を経て、主に船舶設計を手掛け、1971年11月に取締役に就任し、1975年5月に常務、1978年6月に専務、1980年6月に副社長を経て、1981年6月に社長に就任し、在任中は、造船不況で悪化していた業績の立て直しと1985年からの急激な円高の影響による経営再建に力を注いだ。1987年6月に会長に就任し、1992年から相談役を務めた。 政府の各種審議委員会委員や日本造船工業会会長や日本航空宇宙工業会会長や日本航空機開発協会理事長などを歴任した。
内田 一臣(うちだ かずとみ、1915年(大正4年)6月8日… 内田 一臣(うちだ かずとみ、1915年(大正4年)6月8日 - 2001年(平成13年)7月5日)は、日本の海軍軍人及び海上自衛官。海軍兵学校卒業(第63期)。第8代海上幕僚長。 岡山県出身。旧制津山中学を経て海軍兵学校に入校。1936年(昭和11年)3月、海軍兵学校を卒業。海軍少尉候補生として遠洋航海に参加し、アメリカ合衆国各地を巡った。 1937年(昭和12年)8月、軽巡洋艦「川内」乗組みだった海軍少尉時代に第二次上海事変を迎える。同艦の乗員で急遽編成された臨時の陸戦隊小隊長として参加し、1ヶ月間に及ぶ戦闘に従事した。その際、中華民国陸軍の師団本部を殲滅し師団長を戦死させた。この功績により金鵄勲章を授与される。
右近 保太郎(うこん やすたろう、1914年6月8日 - 1… 右近 保太郎(うこん やすたろう、1914年6月8日 - 1997年9月8日)は、日本の経営者。日本火災海上保険社長、会長を務めた。福井県出身。 1938年に東京帝国大学経済学部商学科を卒業し、同年に東京海上火災保険に入社。。 1946年に日本火災海上保険に転じ、1957年に常務に就任し、1958年6月には副社長に就任し、1963年7月には社長に昇格。1981年7月に会長に就任し、1984年に取締役相談役に就任。 1975年10月に藍綬褒章を受章し、1984年11月に勲三等瑞宝章を受章。。 1997年9月8日呼吸不全のために死去。83歳没。
荒谷 真平(あらや しんぺい、1914年6月8日 - 199… 荒谷 真平(あらや しんぺい、1914年6月8日 - 1999年1月5日)は日本の医師、生化学者、歯学者。元東北大学歯学部長、歯学部教授、東京医科歯科大学歯学部生化学講座初代主任教授、国立予防衛生研究所歯科衛生部部長。 1938年、日本大学医学部卒業。卒業後、同大学生化学教授の志賀直の元で研究に従事、志賀の台北帝国大学赴任に同行。 戦後、東京医学歯学専門学校(東京医科歯科大学)にて研究、1952年東京医科歯科大学歯学部生化学講座開設に伴い教授に就任。山本肇、佐伯政友らと東北大学歯学部創設のため1966年に東北大学へ赴任、1967年同歯学部長。 1971年兼任で国立予防衛生研究所歯科衛生部部長、1977年に専従、1980年退任。
飯塚 敏子(いいづか としこ、1914年6月8日 - 199… 飯塚 敏子(いいづか としこ、1914年6月8日 - 1991年12月14日)は、日本の女優。本名・本間 敏子(旧姓・飯塚)。 戦前の松竹時代劇を代表する女優の一人である。 1914年6月8日、埼玉県大里郡武川村明戸(現・深谷市)に生まれる。生後間もなく、東京市芝区新橋(現・東京都港区新橋)にて「新橋旅館」を経営していた実家に移る。従って、現役時代の俳優名鑑等では、「東京生まれ」と書かれた物も多い。小学校の頃から、岡安喜代八について三味線と尺八を学ぶ。1927年、文化学院女学部に入学。同校の先輩に夏川静枝・入江たか子・伊達里子などがいる。家庭の事情により同校を3年で辞め、家業を手伝っていたが、1930年に雑誌「婦人公論」主催の美人投票に当選する。
水谷 豊(みずたに ゆたか、1913年(大正2年)6月8日 … 水谷 豊(みずたに ゆたか、1913年(大正2年)6月8日 - 1991年(平成3年)11月25日)は、日本の眼科医。日本で初めてコンタクトレンズを作り、臨床応用を実施。後にコンタクトレンズメーカー「日本コンタクトレンズ(ニチコン)」を創業。コンタクトレンズの発展に貢献し、「日本のコンタクトレンズの父」と呼ばれる。1975年日本医師会最高優功賞受賞、1987年勲五等双光旭日章受章。日本コンタクトレンズ学会名誉会員(1986年~1991年)。愛知県名古屋市出身。孫は水谷 武史(みずたに たけし)で、名古屋市天白区で「みずたに眼科」を開業中。 水谷は、1913年名古屋市熱田区で眼科医院を営む加藤家に生まれたが、三男の末っ子で、後に水谷家の養子となり、水谷姓となった。
オノサト・トシノブ(本名:小野里 利信、1912年〈明治45… オノサト・トシノブ(本名:小野里 利信、1912年〈明治45年〉6月8日 - 1986年〈昭和61年〉11月30日)は、日本の抽象画家、芸術家。 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)生まれ。10歳から群馬県桐生市で育つ。 津田青楓の津田洋画塾出身。戦後はヴェネツィア・ビエンナーレやその他欧米の美術展に積極的に出品・参画した。グッケンハイム美術館や、日本各地の美術館に作品が収蔵されている。モザイク状の幾何学的抽象様式が知られ、版画、シルクスクリーン作品も多い。 1912年(明治45年) - 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)に、長野県立飯田中学校の教師、小野里万蔵の長男として生まれる。 1919年(大正8年) - 父万蔵が北甘楽郡立実科高等女学校に転勤になり、一家は群馬県富岡町へ移住。
大羽 綾子(おおば あやこ、1912年6月8日 - 没年不明… 大羽 綾子(おおば あやこ、1912年6月8日 - 没年不明)は、日本の労働官僚・婦人問題評論家・翻訳家。 東京生まれ。父は元日本興業銀行理事の二宮基成(1873年2月3日 - 1920年1月9日)。東京女子大学英文科卒。労働省に入り、婦人労働課長。婦人雇用研究室長。国際婦人連絡会代表委員などを務め、女性の地位向上に尽くした。
山代 巴(やましろ ともえ、1912年〈明治45年〉6月8日… 山代 巴(やましろ ともえ、1912年〈明治45年〉6月8日 - 2004年〈平成16年〉11月7日)は、日本の作家である。マルクス主義の立場に立つ作家・運動家であり、代表作『荷車の歌』で農村女性を描いて人気を得た。戦後民衆文化史研究の文脈でも注目されている。旧姓は徳毛 巴。 広島県芦品郡栗生村(今の府中市栗柄町)に生まれた。1929年(昭和4年)、東京女子美術専門学校(今の女子美術大学)に入学した。 家の没落で学資が途絶えて学校を中退した後、貧民救済事業の先駆者とされる涌井まつとの出会いを機に、労働者解放運動へと身を投じた。1932年(昭和7年)、日本共産党に入党した。その後は女工向けの夜学やサークル活動を行なう一方で、反戦デモや党防衛カンパ闘争などの非合法の活動にも参加した。
高見 寛恭(たかみ かんきょう、1910年(明治43年)6月… 高見 寛恭(たかみ かんきょう、1910年(明治43年)6月8日 - 1996年(平成8年))は、日本の真言宗の僧侶・高野山大学教授。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
本多 修郎(ほんだ しゅうろう、1909年6月8日 ‐ 19… 本多 修郎(ほんだ しゅうろう、1909年6月8日 ‐ 1990年12月11日)は、日本の哲学者・科学史家。東北大学名誉教授。科学史・技術史を研究。 福島県耶麻郡長瀬村(現猪苗代町)出身。喜多方中学、二高理科を経て東北帝国大学哲学科卒。次いで東京帝国大学大学院に学ぶ。高橋里美、三宅剛一に師事。東北大学助教授、1950年教授。1962年「ヘーゲル弁証法と数学・自然科学」で文学博士の学位を取得。1973年定年退官、名誉教授。東北福祉大学教授。父寅多、母クラ、次男。
岩村三千夫(いわむら みちお、1908年6月8日 - 197… 岩村三千夫(いわむら みちお、1908年6月8日 - 1977年5月16日)は、日本の中国問題評論家。 新潟県生まれ。早稲田大学卒業。1937年読売新聞社に入社し、上海特派員・香港支局長・東亜部次長・シンガポール支局長・論説委員を務める。 1946年、中国研究所の創立に携わり、理事を務める。1949年には日中友好協会の設立に携わり、日中友好事業を進めた。
申 性均(シン・ソンギュン、朝鮮語: 신성균、1907年6月… 申 性均(シン・ソンギュン、朝鮮語: 신성균、1907年6月8日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の政治家。谷城面長、制憲韓国国会議員。 全羅南道谷城郡出身。谷城公立小学校、行橋県立中学校、早稲田大学専門部法科卒。谷城面長を経て、光復後は谷城郡建国準備委員会委員長、韓国独立党全州特別党委員長・全羅北道党委員長・中央部財務部長兼秘書部長、新韓正義社全州支社社長、建国消費組合理事、無所属の国会議員、国会内務治安委員会委員長を務めた。朝鮮戦争の際、北朝鮮に拉致された。
石田 恒信(いしだ つねのぶ、1905年〈明治38年〉6月8… 石田 恒信(いしだ つねのぶ、1905年〈明治38年〉6月8日 - 1991年〈平成3年〉2月18日)は、大正時代に活躍した競泳選手。関西学院大学在学中の1924年、パリオリンピックに出場した。大学卒業後は阪神電気鉄道に入社。第二次世界大戦戦中・戦後の困難な時期に阪神甲子園球場の球場長を務めた。 大阪府出身。旧制茨木中学校(現在の大阪府立茨木高等学校)に学ぶ。茨木中学校は体育教諭・杉本伝の指導のもとで水泳の盛んな学校であった。1920年(大正9年)8月、茨木中学校は石田(3年生)、入谷唯一郎・高石勝男(2年生)ら5人の選手で第4回戸田全日本競泳大会(静岡県戸田湾、東京帝国大学主催)に出場して優勝を果たす。
忽那 吉之助(くつな きちのすけ、1903年(明治36年)6… 忽那 吉之助(くつな きちのすけ、1903年(明治36年)6月8日 - 1982年(昭和57年)10月21日)は、日本の小説家、教員。梶井基次郎らと同人誌『青空』を創刊した。大学卒業後の後半生は主に中等教育の教職に就いた。就職以後の氏名は野村 吉之助。 愛媛県温泉郡浅海村(現在の松山市)に造り酒屋の6人きょうだいの末弟として生まれる。父を小学生の時に失い、母・きょうだいとともに兵庫県神戸市に転居した。忽那がのちに記したところ(『青空』掲載の「記憶」)では、家計は22歳の長兄の収入だけが頼りだったという。 兵庫県立第一神戸中学校(現在の兵庫県立神戸高等学校)卒業後、京都の第三高等学校(現在の京都大学)文科乙類に入学した。
岩田 専太郎(いわた せんたろう、旧字体:專太郞、1901年… 岩田 専太郎(いわた せんたろう、旧字体:專太郞、1901年〈明治34年〉6月8日 - 1974年〈昭和49年〉2月19日)は、日本の画家、美術考証家。連載小説の挿絵を多く手がけ、数多くの雑誌・書籍の表紙で「専太郎張り」と呼ばれる画風の美人画を発表した。昭和の挿絵の第一人者として知られる。妹は女優の湊明子。 1901年(明治34年)6月8日、東京市浅草区黒船町(現在の東京都台東区寿)に生まれる。生家は印刷業で、版木の名人と言われた父方のおじや絵双紙屋のおばがいるという環境だった。幼い頃から絵が好きで画才を示し、妹の湊明子の回想では、彼女が尋常小学校に入学したときに講堂に兄の絵が飾られていたという。
尾形 亀吉(おがた かめきち、1900年6月8日- 1971… 尾形 亀吉(おがた かめきち、1900年6月8日- 1971年10月1日)は日本文化史学者。尾形裕康(早稲田大学教授・日本教育史)は兄。 福島県出身、東京文理科大学国史科卒。日本大学経済学部教授、1948年「近世奢侈の社会経済史的研究」で日大経済学博士、1956年「日本中世芸能史研究」で日大文学博士。日本大学芸術学部長、同理事などを経て、本州大学・本州女子短期大学初代学長に就任。1968年病気療養のため辞任。 1965年、長野県塩田町(現在の上田市)の要請を受け、同地での大学設置に尽力し、1967年に文部省からの認可を得た。この当時、地方の町村が大学を招致したのは画期的として全国の注目を集めた。
丸山 薫(まるやま かおる、1899年〈明治32年〉6月8日… 丸山 薫(まるやま かおる、1899年〈明治32年〉6月8日 - 1974年〈昭和49年〉10月21日)は、日本の詩人。男性。海軍軍人の松田千秋は義弟(妹こまの夫)にあたる。 官吏をしていた父の任地大分県大分市で生まれる。1歳で長崎市へ移り、以後東京、京城、松江などを転々としたが、父が亡くなったあと、小学6年の秋に母方の祖父を頼って家族4人で愛知県豊橋市に移り住んだ。身内はそこで旅館業をしていたという。豊橋市立八町小学校を卒業し、愛知県立第四中学校(現・愛知県立時習館高等学校)を卒業。海洋への憧れから、周囲の反対を押し切って東京高等商船学校(現・東京海洋大学)を志し、2度目の受験にして合格するが、まもなく脚気のため退学する。
松尾 國三(まつお くにぞう、明治32年(1899年)6月8… 松尾 國三(まつお くにぞう、明治32年(1899年)6月8日 - 昭和59年(1984年)1月1日)は、日本の歌舞伎役者・実業家・芸能プロモーター。旅役者から立身出世して興行界やレジャー産業で幅広く活躍、「昭和の興行師」や「芸能界の黒い太陽」の異名をもつ。佐賀県伊万里市出身。 松尾の没後、松尾一族が日本ドリーム観光から手を引くことになった事情については日本ドリーム観光の項を参照。現在は松尾の娘・昌出子(ひでこ)と孫・國之(くにゆき)が株式会社富士プロジェクト(富士興業の後身)・松尾育英会・松尾芸能振興財団の3事業を継承。富士プロジェクトは現在、賃貸不動産業をメインにサッカースクールの経営を行うクーバー・コーチング・ジャパンを子会社で行っており、松尾芸能振興財団は松尾芸能賞の主催および松尾の原点である子供歌舞伎・松尾塾の運営、松尾育英会は共同生活による大学修学支援事業を行っている。
岡部 三郎(おかべ さぶろう、1892年(明治25年)6月8… 岡部 三郎(おかべ さぶろう、1892年(明治25年)6月8日 - 1978年(昭和53年)4月18日)は、大正から昭和時代の土木工学者、内務官僚。 福島県に生まれる。1916年(大正5年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業後内務省に奉職し、1920年(大正9年)まで信濃川の分水工事に従事する。1921年(大正10年)横浜港拡張工事のため横浜土木出張所に赴任したが、工事中に関東大震災に見舞われ、同港の復旧工事に当たった。1924年(大正13年)には大阪市の顧問に転じ、堂島川、土佐堀川、道頓堀川などの可動堰や日本初の沈埋式の安治川河底トンネルの設計に当たった。 1927年(昭和2年)官職を辞し東京市土木局橋梁課長となり、吾妻橋、厩橋、両国橋など多くの橋の修理と架設に当たった。
岩城 隆徳(いわき たかのり、1890年(明治23年)6月8… 岩城 隆徳(いわき たかのり、1890年(明治23年)6月8日 - 1979年(昭和54年)9月21日)は、大正から昭和期の政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・青山、旧名・幸徳。 子爵・青山幸宜の五男として生まれ、子爵・岩城隆邦の養子となる。養父の死去に伴い、1911年(明治44年)4月21日、子爵を襲爵し、同月、隆徳と改名した。 学習院を経て、1914年、東京帝国大学理科大学植物学科を卒業。さらに同大学院で学び、同大経済学部を修了した。 1916年(大正5年)帝室林野局技手に就任。以後、内務省社会局嘱託、日東印刷取締役、興亜産業取締役などを務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して活動し、1939年(昭和14年)7月9日まで2期在任した。
千家 元麿(せんげ もとまろ、1888年〈明治21年〉6月8… 千家 元麿(せんげ もとまろ、1888年〈明治21年〉6月8日 - 1948年〈昭和23年〉3月14日)は、日本の詩人。人道派的な詩人として知られる。新しき村の関係者。 出雲国造家当主の千家尊福の長男(庶子)として東京市麹町区(現・東京都千代田区)三番町の父の別邸に生まれる。母は画家の小川梅崖(本名・豊子)。浦和、静岡、麻布六本木の小学校を転じたのちに、慶應義塾幼稚舎から慶應義塾普通部に入り、寄宿舎に入ったが1年で退学し、東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)に転校して、校長の自宅に預けられた。1904年(明治37年)学業に興味を失い実家に戻る。さらに家出事件を起こし、仙台に預けられるも半年ほどで東京に帰る。
白鳥 敏夫(しらとり としお、1887年(明治20年)6月8… 白鳥 敏夫(しらとり としお、1887年(明治20年)6月8日 - 1949年(昭和24年)6月3日)は、大正、昭和期の日本の外交官・政治家。戦前期における外務省革新派のリーダー的存在で、日独伊三国同盟の成立に大きな影響を与えた。 東洋史学者の白鳥庫吉は叔父。外務大臣を務めた外交畑の長老石井菊次郎も叔父にあたる。また外務官僚の出淵勝次は義兄(妻の姉の夫)にあたる。息子に白鳥正人元北陸財務局長。 千葉県の長生郡茂原町(現在の茂原市)に生まれた。東京・日本中学、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月、東京帝国大学法科大学経済学科卒。 1913年(大正2年)10月に高等文官試験・外交官及び領事官試験に合格。
犬丸 徹三(いぬまる てつぞう、1887年〈明治20年〉6月… 犬丸 徹三(いぬまる てつぞう、1887年〈明治20年〉6月8日 - 1981年〈昭和56年〉4月9日)は、日本の実業家。元帝国ホテル社長。元日本ホテル協会会長。元東京モノレール社長。 元帝国ホテル社長犬丸一郎の父。 石川県能美郡根上村字福島(現能美市)に生まれた。父・犬丸六右衛門、母・いその長男。 小松の芦城小学校高等科、旧制小松中学校(現・小松高校)を経て東京高商(現・一橋大学)に入学。 1908年文部省が専門部廃止の方針を明らかにしたため、全学生がこれに猛反対し商科大学昇進を叫んで同盟休校敢行にまで発展した事件が起きた。犬丸は級友に選出され、ストライキ指導者の一人として校長に直接談判したり、文部省へ押しかけ大臣に面会を要請してひかなかった。
加藤 泊治郎(かとう はくじろう、1887年(明治20年)6… 加藤 泊治郎(かとう はくじろう、1887年(明治20年)6月8日 - 1951年(昭和26年)2月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓、三隅。 山口県出身。三隅熊五郎の五男として生れ、加藤家の養子となる。山口中学校を経て、明治43年(1910年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、砲兵少尉に任官し、長崎重砲大隊付となる。大正5年(1916年)8月、兵科を憲兵科に移し憲兵中尉となり、憲兵練習所で学んだ。以後、名古屋憲兵、青島憲兵、豊橋憲兵、浜松憲兵、姫路憲兵、京都憲兵、台湾憲兵隊、牛込憲兵の各分隊長を歴任。昭和5年(1930年)8月、憲兵司令部員となり、さらに中国政府応聘、憲兵司令部第3課長、麹町憲兵分隊長、宇都宮・延吉・奉天の各憲兵隊長、関東憲兵隊司令部総務部長、東京憲兵隊長などを経て、昭和15年(1940年)8月、陸軍少将に進級した。
今井 登志喜(いまい としき、1886年6月8日 - 195… 今井 登志喜(いまい としき、1886年6月8日 - 1950年3月21日)は、西洋史家、東京帝国大学名誉教授。 1886年、長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)で生まれた。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を卒業し、第一高等学校に進学。東京帝国大学文科大学史学科に進み、1911年に卒業した。 1916年、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)教諭に就いた。1920年より第一高等学校教授。1923年、東京帝国大学文学部助教授となり、同年から1926年まで文部省在外研究員として欧米に研究留学。1930年、教授に昇格した。また、1939年10月には文学部長に就任した。1947年、東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となった。
後藤 是山(ごとう ぜざん、本名: 祐太郎、1886年6月8… 後藤 是山(ごとう ぜざん、本名: 祐太郎、1886年6月8日 - 1986年6月4日)は、日本の文化人。熊本市名誉市民。
亀井 高孝(かめい たかよし、1886年6月8日 - 197… 亀井 高孝(かめい たかよし、1886年6月8日 - 1977年10月4日)は、日本の西洋史学者。
橋本 富三郎(はしもと とみさぶろう、1886年6月8日 -… 橋本 富三郎(はしもと とみさぶろう、1886年6月8日 - 1955年5月3日)は、滋賀県甲賀郡水口町(現・甲賀市水口町)出身の文化人、実業家、地方政治家。 1886年6月8日、甲賀郡水口町に生まれる。早稲田大学政治経済学科卒業後、倉敷紡績へ入社。万寿工場人事課長を歴任し、アメリカ視察も経験する。 帰国後は、倉敷中央病院事務長、倉敷絹織(現・クラレ)工場長を務め、その後、合同新聞(現・山陽新聞)社長となる。 戦後、1945年11月より、岡山市長に就任し、1947年まで1期務めたが、公職追放となる。 引退後は、俳句や書画道を楽しんだ。号は「魚青」である。 1955年5月3日死去。享年70。死後、「魚青句鈔」が出版されている。
土岐 善麿(とき ぜんまろ、1885年(明治18年)6月8日… 土岐 善麿(とき ぜんまろ、1885年(明治18年)6月8日 - 1980年(昭和55年)4月15日)は、日本の歌人・国語学者。
寺田 利吉(てらだ りきち、前名・信三、1884年〈明治17… 寺田 利吉(てらだ りきち、前名・信三、1884年〈明治17年〉6月8日 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。岸和田名誉職市長。寺田銀行頭取。大阪紡績、寺田紡績工廠各社長。 大阪府・先代利吉の長男。1901年、大阪府立第二中学校を卒業する。1903年、岸和田紡績に入社する。1918年、家督を相続し信三を改め襲名する。 公共慈善に対しては深甚な理解を持ち、常に私財を投じる。趣味は書画、茶道。住所は大阪府岸和田市岸城町、同市堺町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
長島 毅(ながしま はたす、1880年(明治13年)6月8日… 長島 毅(ながしま はたす、1880年(明治13年)6月8日 - 1948年(昭和23年)3月18日)は、日本の裁判官。大審院長を務めた。
窪田 空穂(くぼた うつぼ、1877年(明治10年)6月8日… 窪田 空穂(くぼた うつぼ、1877年(明治10年)6月8日 - 1967年(昭和42年)4月12日)は、日本の歌人・国文学者。日本芸術院会員。元早稲田大学教授。文化功労者。本名は窪田 通治。息子に、同じく歌人の窪田章一郎がいる。 草創期の「明星」に参加。浪漫傾向から自然主義文学に影響を受け、内省的な心情の機微を詠んだ。古典の評釈でも功績が大きい。詩歌集に『まひる野』(1905年)、歌集に『土を眺めて』(1918年)など。 長野県東筑摩郡和田村(現・松本市和田)生まれ。長野県尋常中学校(現長野県松本深志高等学校)から東京専門学校文学科に進学するも、一度中退。代用教員として働いていたときに校長の影響で作歌を始める。
野村 淳治(のむら じゅんじ、1876年(明治9年)6月8日… 野村 淳治(のむら じゅんじ、1876年(明治9年)6月8日 - 1950年(昭和25年)12月15日)は、石川県出身の法学者。 石川県士族・野村宗貞の長男として生まれる。1900年(明治33年)東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し、大学院に入り、1901年(明治34年)文官高等試験に合格し、東京帝国大学法科大学助教授となる。1902年(明治35年)法学研究のためフランスとドイツに留学する。 1906年(明治39年)から退官まで、一木喜徳郎の後任として国法学講座を担当した。1910年(明治43年)に法学博士となり、後に教授となる。1937年(昭和12年)に退官し、東京帝国大学名誉教授となる。専門は行政法及び憲法。
河合 亀太郎(かわい かめたろう、1876年6月8日 - 1… 河合 亀太郎(かわい かめたろう、1876年6月8日 - 1959年7月19日)は、日本の薬学博士、実業家、薬剤師。肝油ドロップの創製者でもある。 静岡県豊田郡中瀬村(現浜松市浜名区中瀬)で河合八蔵の子として生まれ、1888年に豊田郡下野部村(現磐田市下野部)にある野部小学校(現磐田市立豊岡北小学校)を卒業する。その後、将来は官吏になる夢を描いていたが、父親の病死のために16歳の時に官吏になる夢を諦めて中学を中退する。中学を中退した後は、東京薬学校(現東京薬科大学)に入学する。1893年には東京薬学校(現東京薬科大学)を首席で卒業し薬剤師となり、北里研究所に入り第一高等学校教授の助手をつとめた。
三宅 磐(みやけ いわお、1876年(明治9年)6月8日 -… 三宅 磐(みやけ いわお、1876年(明治9年)6月8日 - 1935年(昭和10年)5月23日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。 岡山県岡山市出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)英語政治科卒業。大阪朝日新聞記者、東京日日新聞記者を経て、1909年(明治42年)、横浜市市政顧問に就任。1910年(明治43年)に横浜貿易新報社を創設し、初代社長に就任した。大正期に横浜市会議員、神奈川県会議員を経て、1927年(昭和2年)の衆議院補欠選挙に出馬し、当選。以後、4回の当選回数を数えた。1932年(昭和7年)に発足した立憲民政党横浜支部の初代支部長に就任。党内では同じく新聞人出身の永井柳太郎と親しかった。
沖 禎介(おき ていすけ、1874年(明治7年)6月8日 -… 沖 禎介(おき ていすけ、1874年(明治7年)6月8日 - 1904年(明治37年)4月21日)は、明治期の諜報活動家(スパイ)。長崎県平戸市出身。 東京専門学校(現在の早稲田大学)中退後、横浜で貿易業に従事。1901年(明治34年)に中国に渡り、北京の東文学社の教師となる。1903年(明治36年)には文明学社を設立した。 1904年(明治37年)、日露戦争開戦に際しては民間人ながら陸軍の特務機関に協力し、ロシア軍の輸送路破壊工作に従事する。横川省三とともにラマ僧に変装して満州に潜伏しているところをロシア兵に捕獲され、ハルピン郊外で処刑される。 処刑に際して当初は絞首刑を予定されていたが、彼らの態度が立派だったため現地の司令官がロシア皇帝ニコライ2世に請願し、銃殺刑に変更されたと言われている。
大山 幸太郎(おおやま こうたろう、1873年6月8日 - … 大山 幸太郎(おおやま こうたろう、1873年6月8日 - 1967年7月28日)は、日本の教育者、哲学者。 秋田県弁天村(現在の湯沢市)出身。1895年に秋田県尋常師範学校を卒業し、横堀尋常高等小学校訓導となる。横堀小学校時代に全国初の父兄会を開いている。その後上京し、巣鴨の東福寺で4年間独学し、この間に新井奥邃と出逢った。 1914年から文部省に勤務し、1915年からドイツに9年間留学した。 帰国後に母校の秋田師範学校で哲学を講義した。 「真人」の語を造り、没後に教え子たちにより真人学会が結成された。
楠瀬 熊治(くすのせ くまじ、慶応元年5月15日(1865年… 楠瀬 熊治(くすのせ くまじ、慶応元年5月15日(1865年6月8日) - 昭和8年(1933年)6月17日)は、日本の海軍軍人、火薬学者。最終階級は海軍造兵中将従三位工学博士。東京帝国大学名誉教授。 土佐国土佐郡潮江村(現高知県高知市)に沢村辰吾の三男として生まれ、楠瀬好静の養子となった。1891年(明治24年)に東京帝国大学工科大学火薬学科を卒業した後、フランスに留学した。1894年(明治27年)に帰国後、海軍少技士となった。1904年(明治37年)、造兵少監となり、翌年に造兵監督官としてイギリスに出張。1907年(明治40年)、造兵中監に昇進し、翌年に帰国。1911年(明治44年)、造兵大監となり、下瀬火薬製造所長、造兵廠火薬部長、海軍大学校教官などを務めた。
宮入 慶之助(みやいり けいのすけ、1865年6月8日〈慶応… 宮入 慶之助(みやいり けいのすけ、1865年6月8日〈慶応元年5月15日〉 - 1946年〈昭和21年〉4月6日)は日本の寄生虫学者、衛生学者。九州帝国大学教授。 信濃国更級郡西寺尾村(現・長野市松代町西寺尾)に松代藩士祐筆の宮入敬長の三男として生まれる。1890年東京帝国大学医科大学を卒業。1895年第一高等学校教授。1900年、内務技師として日本薬局方調査会の幹事を務め、1902年、ドイツのフリードリヒ・レフラー教授の下へ留学する。 帰国後1904年に京都帝国大学福岡医科大学(現・九州大学医学部)衛生学の初代教授に就任し、翌年医学博士の学位を得る。1912年九州帝国大学医学部衛生学第一講座担任に就任。
清水 松三郎(きよみず まつさぶろう、1862年6月8日(文… 清水 松三郎(きよみず まつさぶろう、1862年6月8日(文久2年5月11日)- 1905年(明治38年)10月18日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員、愛知県愛知郡岩崎村長。 尾張国愛知郡、のちの愛知県愛知郡岩崎村(日進村、日進町を経て現日進市)で、里正・治左衛門の息子として生まれた。志水大三郎に師事し、さらに1875年(明治8年)佐藤牧山について漢学を修めた。1879年(明治12年)上京して諸学を学んだ。帰郷して農業を営む。 1883年(明治16年)1月、岩崎村戸長に就任。以後、愛知県勧業委員、愛知郡第四高等小学校学務委員、岩崎村外二ヶ村戸長、岩崎村会議員、愛知郡米野木村外七ヶ村連合会議員などを歴任。
国谷 亨(國谷 亨、くにたに とおる、1860年6月8日〈慶… 国谷 亨(國谷 亨、くにたに とおる、1860年6月8日〈慶応3年8月18日〉 - 1932年〈昭和7年〉9月1日)は、日本の政治家、鳥取県多額納税者。衆議院議員(当選1回)。旧姓・船田。幼名・今吉。 伯耆国汗入郡御来屋村(のち鳥取県西伯郡名和町御来屋、現・大山町御来屋)出身。船田専蔵の三男。8歳の時に生母の実家富長村国谷家の養子となった。 神田共立学舎に入り英語、漢学、数学を修めた。1886年に東京専門学校に入学許可され、政治科と英語科を兼修した。1888年に養父国谷礼蔵が病気となったため故郷から帰郷して家務を見るよう督促があったのでやむなく学業半ばにして帰郷した。農業を営む。 庄内村会議員、西伯郡会議員となる。
岩男 三郎(いわお さぶろう、1851年6月8日(嘉永4年5… 岩男 三郎(いわお さぶろう、1851年6月8日(嘉永4年5月9日) - 1909年(明治42年)7月15日)は、幕末期の肥後熊本藩士、維新後は官吏、各県知事などを歴任した。 熊本城下坪井で、熊本藩士・岩男伝之允の三男として生まれる。藩校時習館で学ぶ。横井小楠の高弟で、幕末期には野々口為志、鵜殿豊之進、横井左平太、横井忠平らと交わり、勝海舟の神戸海軍操練所で航海術を学び、長崎に遊学、熊本藩の洋学所管術となる。 維新後は福澤諭吉に師事して慶應義塾に入学、卒業後の明治3年(1870年)、民部省監督権正となり東北に派遣される。山形県大参事となったが罷免される。明治5年(1872年)、熊本藩主細川護久の弟・長岡護美の従者としてアメリカに留学。
小川 松民(おがわ しょうみん、1847年6月8日(弘化4年… 小川 松民(おがわ しょうみん、1847年6月8日(弘化4年4月25日)- 1891年(明治24年)5月29日)は、明治時代の漆芸家。本名は繁次郎。 江戸の日本橋に金具師であった小川忠蔵の子として生まれる。1862年(文久2年)に中山胡民の門人となり蒔絵を学んだ。後に池田孤村の門人となり、尾形光琳の画風を学ぶ。この経験を活かし、古作の蒔絵を模造した漆器の制作にあたった。 明治維新後の1870年(明治3年)に独立して、浅草馬道町に転じる。1876年(明治9年)に開催されたフィラデルフィア万博に出品し視察するために渡米した。帰国後は再度蒔絵を使用した漆器の制作にあたり、1877年(明治10年)に開催された第1回内国勧業博覧会には松民の作品が出品された。
山口 素臣(やまぐち もとおみ、1846年6月8日〈弘化3年… 山口 素臣(やまぐち もとおみ、1846年6月8日〈弘化3年5月15日〉- 1904年〈明治37年〉8月7日)は、日本の陸軍軍人。第5師団長、歩兵第3・10旅団長を歴任し数々の戦役に悉く従軍した事から「戦将中の戦将」と評された。階級は陸軍大将従二位勲一等功二級子爵。 山口藩士・山本芳の息子として萩に生まれ、同藩士・山口義惟の養子となる。戊辰戦争に奇兵隊嚮導役として従軍し北陸、奥羽を転戦。維新後は陸軍に仕官する。 明治3年(1870年)9月に大坂陸軍教導団第2教導隊に入り明治4年(1871年)4月、陸軍軍曹に任命される。同年中に少尉、中尉、大尉と累進し1873年(明治6年)10月より陸軍少佐。翌年1月、近衛歩兵第1連隊が創設されると第1大隊長に就任し、佐賀の乱に参戦。
真田 正穀(さなだ まさよし、天保5年(1834年)6月8日… 真田 正穀(さなだ まさよし、天保5年(1834年)6月8日 – 大正4年(1915年))は、土佐藩士。土佐藩の海軍・軍艦行政を担った官僚的藩士で、維新後は中央・地方官を歴任した。旧姓は武藤、別名・号に武藤広陵、颿(はやめ)があり、明治期に正穀、のち真田庵と改名した。 土佐藩の上士身分である御馬廻に属し、藩船運用・軍艦行政・蒸気機関教育などを担当した、土佐藩における海軍行政の専門家である。吉田東洋門下としても知られる。 天保5年(1834年)6月8日、土佐国高知城下下金子橋に生まれる。父は御馬廻・武藤万作。正穀は次男で、実兄の武藤清八は御山奉行を務めた。身分は上士・御馬廻である。 若年より藩政実務に通じ、藩船夕顔の船将を務めた。