三浦 朱門(みうら しゅもん、1926年〈大正15年〉1月1… 三浦 朱門(みうら しゅもん、1926年〈大正15年〉1月12日 - 2017年〈平成29年〉2月3日)は、日本の作家。 日本大学芸術学部教授、文化庁長官(第7代)、社団法人日本文藝家協会理事長(第7代)、日本芸術院院長(第4代)などを歴任した。 東京府豊多摩郡(現:東京都中野区)東中野生まれ。父はイタリア文学者の三浦逸雄。野方第五尋常小学校(現:中野区立啓明小学校)、東京府立第二中学校(現:東京都立立川高等学校)から旧制高知高等学校を経る。同校在学中には禁じられている煙草を吸い、さらに厭戦的態度を示して無期停学になった。旧制高知高等学校3年生の時に勤労動員され、1945年7月21日、陸軍二等兵として千葉県我孫子で入隊、千葉県の仮兵舎で敗戦を迎える。
目時 春雄(めどき はるお、1925年1月12日 - 199… 目時 春雄(めどき はるお、1925年1月12日 - 1995年3月28日)は、北海道江別市出身 の元プロ野球選手。ポジションは捕手。1955年の登録名は目時 富士雄(めどき ふじお)。 札幌光星商業を卒業後、配炭公団野球部に入部。また、小樽野球協会にも所属していた。 1949年に大陽ロビンスへ入団。荒川昇治が正捕手でいた為レギュラーを獲得できずにいたが1952年に荒川が移籍したこともあって、この年に正捕手となった。1953年に大洋ホエールズと合併したが、この年もレギュラーとして出場し120試合に出場。打率.273、12本塁打を打ち、打点56は藤井秀郎に次ぐチーム2番目の成績だった。1956年からは土井淳の加入で控え捕手となった。
七尾 伶子(ななお れいこ、本名:臼井 伶子(うすい れいこ… 七尾 伶子(ななお れいこ、本名:臼井 伶子(うすい れいこ)、1925年〈大正14年〉1月12日 - 2006年〈平成18年〉7月2日)は、日本の女優、声優。 東京市赤坂区(現・東京都港区)に生まれる。 東京府立第三高等女学校(現・東京都立駒場高等学校)在学中の1942年、子供の頃から好きだった歌や芝居が忘れられず、設立されたばかりのNHK東京放送劇団の試験を受け、一期生として合格。卒業と同時に養成所に入り、2年後に卒業。初めての出演は、全国にある国立病院の傷痍軍人向け慰問放送のドラマの主役だった。 その後、ラジオ漫画『サザエさん』『西遊記』、ラジオドラマ『君の名は』に出演するなど声優の草分けとして活躍。
宮地 良彦(みやち よしひこ、1925年1月12日 - 20… 宮地 良彦(みやち よしひこ、1925年1月12日 - 2023年10月17日)は日本の物理学者。 静岡県浜松市出身。旧制第八高等学校を経て、1948年京都帝国大学物理学科卒業。1949年広島大学理論物理学研究所助手、1961年信州大学文理学部助教授、1966年理学部教授、1972年理学部長、1990年退官。同年放送大学客員教授、1991年信州大学学長を歴任。2000年勲二等旭日重光章受章。 その他、2001年から2003年まで長野県の治水・利水ダム等検討委員会委員長を務めた。 2023年10月17日午前10時35分、肺がんのため松本市の病院で死去。98歳没。死没日付をもって正四位に叙された。 句集を出版している。
二木 武(ふたき たけし、1925年1月12日 - 1998… 二木 武(ふたき たけし、1925年1月12日 - 1998年3月21日)は、日本の小児科医。 石川県金沢市生まれ。東京帝国大学医学部卒業。同小児科教室入局。1954年「乳幼児栄養失調症の蛋白代謝に関する研究」で東京大学医学博士。長野赤十字病院、東京都立小児保健院(現東京都立八王子小児病院)院長を経て、東京都立母子保健院院長、実践女子大学教授を務めた。95年定年退職。
今村 宣夫(いまむら のぶお、1924年〈大正13年〉1月1… 今村 宣夫(いまむら のぶお、1924年〈大正13年〉1月12日 - 2006年〈平成18年〉9月9日)は、日本の農林官僚。水産庁長官を務めた。愛媛県出身。 1947年に高文行政科に合格し、1948年に京都大学法学部を卒業し、同年に農林省に入省した。1974年7月に大臣官房審議官に就任し、1979年7月から1981年9月までに水産庁長官を務めた。 2006年9月9日急性肺炎のために死去。82歳没。
宮下 稔(みやした みのる、1924年1月12日 - 200… 宮下 稔(みやした みのる、1924年1月12日 - 2007年8月11日)は、日本の鉄道技術者、実業家。京阪電気鉄道社長、会長などを務めた。 鳥取県岩美郡岩美町出身。1945年、京都帝国大学工学部機械工学科卒業後、当時の京阪神急行電鉄(1943年に阪神急行電鉄と京阪電気鉄道が合併して発足。企業としては現在の阪急阪神ホールディングス)に入社。車両部門(守口車両部)に配属される。元は軍艦の建造を志望していたが、太平洋戦争の敗戦により鉄道に方向を変更した。 1949年に京阪電気鉄道が京阪神急行電鉄から分離して再発足すると京阪に移り、1967年に車両部長となる。この時代に通勤電車の混雑対策として、日本で初となる5扉通勤電車の京阪5000系電車(1970年製造)を開発した。
加島 祥造(かじま しょうぞう、1923年1月12日 - 2… 加島 祥造(かじま しょうぞう、1923年1月12日 - 2015年12月25日)は、日本の詩人、アメリカ文学研究者、翻訳家、随筆家、タオイスト、墨彩画家。 詩作のみならず、アメリカ文学の翻訳にて名声を得た後、壮年期より漢詩を経て老荘思想に大きな影響を受け、文筆のみならず絵画なども含めた幅広い創作活動や執筆活動を通して、90代で没するまで、西洋と東洋の双方を見渡す位置から、私生活でも徹底したタオイストとしての一貫した姿勢を生きた。 翻訳者としては、訳書により、一ノ瀬直二、久良岐基一といった別名義を用いて活動しており、死後になり、改めて関係者よりその事実が明かされた。 東京市神田区にて、大家族の商家の家系に生まれ育つ。
一ノ瀬 直二(いちのせ なおじ、1923年1月12日 - 2… 一ノ瀬 直二(いちのせ なおじ、1923年1月12日 - 2015年12月25日)は、日本の英米文学翻訳家。 1947年、早稲田大学英文科卒。マリオ・プーヅォ『ゴッドファーザー』の翻訳がある。 詩人・翻訳家の加島祥造の死後、加島のペンネームであったことが発表された。
内海 桂子(うつみ けいこ、本名:安藤 良子(あんどう よし… 内海 桂子(うつみ けいこ、本名:安藤 良子(あんどう よしこ)、1923年〈大正12年〉1月12日 - 2020年〈令和2年〉8月22日)は、日本の芸人、漫才師、女優。漫才協会名誉会長、マセキ芸能社所属。 内海好江と約半世紀に渡って音曲漫才コンビ内海桂子・好江(1950年 - 1997年)を組んで人気となった。今村昌平との縁で横浜放送映画専門学院(当時)の専任講師も務めた。 桂子の当時の相方と好江の母親が兄弟弟子という縁で、当時14歳の好江を預けられる形でコンビを組んだ。好江とは14歳差で血縁関係はない。 好江の没後は漫才協団会長として東京演芸界を率いる傍ら、最古参の現役ピン芸人として都々逸や漫談、「名鳥名木 何の木に留めた」、「○○尽くし」などの軽口もこなした。
岩田 慶治(いわた けいじ、1922年1月12日 - 201… 岩田 慶治(いわた けいじ、1922年1月12日 - 2013年2月17日)は、日本の文化人類学者。国立民族学博物館名誉教授、東京工業大学名誉教授。 1922年、神奈川県横浜市で生まれた。旧制富山高校で学び、地理学に関心を持っていた。戦後の1948年、京都大学文学部市学科を卒業。卒業論文は、オーストラリアのアルンタ族の地域観に関するものであった。 その後は大阪市立大学助教授に就いた。東京工業大学教授の後、国立民族学博物館教授となった。1986年に国立民族学博物館を定年退官し、名誉教授となり、東京工業大学の名誉教授となった。その後は大谷大学教授として教鞭をとった。2013年2月17日、肺炎により死去。
桐榮 良三(とうえい りょうぞう、1922年1月12日 - … 桐榮 良三(とうえい りょうぞう、1922年1月12日 - 2003年2月16日)は、日本の化学工学者。京都大学名誉教授。主な専門は乾燥工学。工学博士(1953年)(学位論文「固体乾燥の応用的研究」)。香川県出身。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
嵯峨 公元(さが きんもと、1922年〈大正11年〉1月12… 嵯峨 公元(さが きんもと、1922年〈大正11年〉1月12日 - 1998年〈平成10年〉10月26日)は、日本の旧華族。嵯峨実勝の長男。母は浜口吉右衛門の娘・尚子。嵯峨家31代当主。長姉が愛新覚羅溥傑夫人の浩。妻は春陽堂書店社長・和田利彦の次女。 東京帝国大学を卒業して陸軍に入り、終戦時は陸軍少尉。1941年、杉並の邸宅を鈴木三郎助(味の素創業社長)に売却し、横浜市港北区日吉に移住する。 1961年に、長姉の浩が北京の夫・溥傑の元に帰ってから亡くなるまで支えた。父の跡を継いで第2代町田学園園長、町田学園第4代理事長を務める傍ら、姉を支えるために1964年に冷凍船株式会社を設立し、三国間貿易を始めた。
宮田 敬助(みやた けいすけ、1921年(大正10年)1月1… 宮田 敬助(みやた けいすけ、1921年(大正10年)1月12日 - 2013年(平成25年)8月9日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。群馬県出身。 海軍大尉で終戦を迎えた後、警察予備隊・保安隊への入隊を経て海上自衛隊に転官し、少年術科学校長、第3護衛隊群司令、第11代護衛艦隊司令官、第17代横須賀地方総監などの要職を歴任した。海上自衛隊における最終階級は海将。 旧制沼田中学校を経て海軍兵学校を第69期で卒業。卒業後は重巡洋艦「那智」に乗組む。その後、重巡洋艦「三隈」乗組みを経て、戦艦「大和」乗組みとなり、太平洋戦争を迎えた。その後、駆逐艦の水雷長等で勤務し、戦争末期には人間魚雷「回天」を運用する部隊に配属され、大神基地で終戦を迎えた。
北田 卓史(きただ たくし 1921年1月12日 - 199… 北田 卓史(きただ たくし 1921年1月12日 - 1992年8月24日)は、日本のイラストレーター。本名、北田孝幸。 東京都に生まれ、東京工業専修学校機械科(今の東京工業大学附属科学技術高等学校)卒業。 児童文学の挿絵を多数描いた。マジックのような単一な線、四角い眼、無機質な表情、大人を描いても手足が短い子供のような頭身などが特徴。 乗り物をテーマにした作品が多い。中でもタクシーが好きで、代表作の一つ「車のいろは空のいろシリーズ」もタクシーの話。卓史は本名でなく、タクシーから命名したとされる。イラスト右下の署名は「TAXI」。 児童美術科連盟会員。1958年と1959年に日本童画会賞、1962年に小学館絵画賞佳作賞を受賞。
木村 勉(きむら つとむ、1921年1月12日 - 生死不明… 木村 勉(きむら つとむ、1921年1月12日 - 生死不明)は、和歌山県出身のプロ野球選手(外野手)。 粉河中学ではエースを務め、1学年下の伊勢川真澄とバッテリーを組んでいた。 1939年に南海軍に投手として入団するが、この年は僅か3試合の出場に留まる。なお、この年は鶴岡一人や岡村俊昭といった、後にコーチや監督として南海黄金期を支える人物も入団している。2年目から外野手に転向すると出場が増加し始め、3年目の1941年には捕手に転向。そこでレギュラーとなるが、その年末に応召。 戦後の1946年に南海改め近畿グレートリングに復帰するも、1年で解雇。翌1947年に国民リーグの唐崎クラウンに数少ないプロ野球経験者として入団。
江見 康一(えみ こういち、1921年(大正10年)1月12… 江見 康一(えみ こういち、1921年(大正10年)1月12日 - 2011年12月22日)は日本の経済学者。財政学専攻。生存科学研究所理事長。一橋大学・帝京大学名誉教授。
三國(三国) 一朗(みくに いちろう、1921年1月12日 … 三國(三国) 一朗(みくに いちろう、1921年1月12日 - 2000年9月15日)は、日本の放送タレント、エッセイストである。
遠藤 正介(えんどう しょうすけ、1921年〈大正10年〉1… 遠藤 正介(えんどう しょうすけ、1921年〈大正10年〉1月12日 - 1977年〈昭和52年〉5月4日)は、日本の官僚、実業家。妻は、遠藤マツ子。遠藤周作は、実弟。ペンネームは吹田紀夫。 鳥取県生まれ。1926年、父常久の転勤(第三国立銀行から安田銀行)で、一家で満洲関東州大連に移る。1935年6月23日、カトリック夙川教会聖テレジア大聖堂で主任司祭永田辰之助神父より兄弟で受洗。1933年、旧制灘中学校に入学。四修で第一高等学校に合格。1942年に東京帝国大学法学部を卒業し逓信省へ入省、1971年に電電公社理事、1973年に総務理事に就任。1977年2月に田村電機製作所社長に内定。趣味は、ゴルフ、観劇。
佐藤 静夫(さとう しずお、1919年1月12日 - 200… 佐藤 静夫(さとう しずお、1919年1月12日 - 2008年5月6日)は、日本の文芸評論家である。東京出身。上智大学文学部卒。 戦後まもなくから、新日本文学会に所属し、雑誌の編集をしながら、評論を書く。このころ、宮本百合子の知遇をうけたという。1950年代後半から、リアリズム研究会の創立に参画し、機関誌『現実と文学』に「戦後民主主義文学運動史」(のち啓隆閣から刊行)を連載、知名度を高める。1965年の日本民主主義文学同盟創立の際には、機関誌『民主文学』の初代編集長をつとめ、その後は、文学同盟の副議長をつとめた。 戦後文学史の研究と、宮本百合子研究を仕事の中軸にすえ、『戦後文学の三十年』(光和堂、多喜二・百合子賞受賞)、『宮本百合子と同時代の文学』(本の泉社)などの著書がある。
秋山 ちえ子(あきやま ちえこ、1917年1月12日 - 2… 秋山 ちえ子(あきやま ちえこ、1917年1月12日 - 2016年4月6日)は、日本のラジオパーソナリティ、エッセイスト、時事評論家。本名、橘川ちゑ(きっかわ ちえ)。 宮城県仙台市出身。1935年に東京女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)を卒業後、聾唖学校の教師となる。この時、取材に訪れた川端康成と知り合い、北条誠を川端に紹介する。結婚後、中華民国に4年滞在。1948年(昭和23年)から1956年(昭和31年)まで、NHKラジオ番組『私の見たこと、聞いたこと』のレポーターを担当し、主婦の視点から見た日本の現状をわかりやすく説明した。1954年(昭和29年)にラジオ番組「私の見たこと聞いたこと」で第2回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞(書籍ではなく、ラジオ番組に対しての授与)。
足立 龍雄(あだち たつお、大正5年(1916年)1月12日… 足立 龍雄(あだち たつお、大正5年(1916年)1月12日 - 2000年(平成12年)3月15日)は日本の実業家。中村屋社長・会長。東京商科大学(現一橋大学)卒業。 王子製紙社長、日本商工会議所会頭などを歴任した足立正の次男である。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
岡 晴夫(おか はるお、1916年〈大正5年〉1月12日 -… 岡 晴夫(おか はるお、1916年〈大正5年〉1月12日 - 1970年〈昭和45年〉5月19日)は戦前から戦後にかけて活躍した流行歌手。本名は佐々木 辰夫(ささき たつお)。愛称は「オカッパル」「オカッパレ」 千葉県木更津市に生まれる。幼い頃に両親を亡くし、祖父の手で育てられる。小学校時代は唱歌の授業が嫌いで、成績はいつも「丙」だったという。6年生の時に音楽の先生から人前で歌を歌うことを勧められ、歌うことに興味を持ったという。16歳の時に上京し、万年筆屋の店員をしながら坂田音楽塾に通う。その一年後には上野松坂屋に勤める。 1934年(昭和9年)に、上原げんとと出会い、その後に妻となる奥田清子とも出会う。
小柴 幹治(こしば かんじ、1916年1月12日 - 没年不… 小柴 幹治(こしば かんじ、1916年1月12日 - 没年不明)は、北海道函館市出身の日本の俳優。 本名は蓮見章。別名・旧芸名に三条雅也、三條雅也、美浦平八郎、小柴完二を持つ。 1979年(昭和54年)に発行された『日本映画俳優全集 男優篇』では、存命人物として大阪府守口市の連絡先が示されているが、既に引退しており、以後の消息は不明である。
岡 芳包(おか よしかね、1915年〈大正4年〉1月12日 … 岡 芳包(おか よしかね、1915年〈大正4年〉1月12日 - 1991年〈平成3年〉9月1日)は、日本の医学者。生理学者。 大阪府大阪市出身。大阪府立市岡中学校、浪速高等学校、大阪帝国大学医学部卒業。 1943年に大阪帝国大学(現大阪大学)講師、1945年に同大学助教授に就任。1945年7月、大阪大学医学博士。論文の題は「生体肝組織における酸化還元電位的場に関する研究」。 その後、1948年7月に新設の徳島医科大学(現徳島大学)初代教授に就任。1951年に新制大学の発足に伴い徳島大学教授となり、1967年に同大学医学部長に就任。 1975年より日本学術会議10・11期会員に選出、国際学術交流委員会会員・生理科学研究連絡委員会等を歴任。
神谷 美恵子(かみや みえこ、1914年(大正3年)1月12… 神谷 美恵子(かみや みえこ、1914年(大正3年)1月12日 - 1979年(昭和54年)10月22日)は、日本の精神科医。哲学書・文学書の翻訳やエッセイの著者としても知られる。 「戦時中の東大病院精神科を支えた3人の医師の内の一人」、「戦後にGHQと文部省の折衝を一手に引き受けていた」、「美智子皇后の相談役」などの逸話でも知られる。 神谷美恵子(結婚前は前田美恵子)は1914年(大正3年)1月12日に内務省職員である父前田多門とその妻房子の長女として岡山市に生まれた。兄弟には兄の陽一の他、後に一男二女が生まれている。父の多門はその年の4月に長崎県の理事官へと転任し、一家は長崎へと転居、翌年には内務省本省勤務となり東京へ転居している。
村崎 凡人(むらさき ただひと、1914年(大正3年)1月1… 村崎 凡人(むらさき ただひと、1914年(大正3年)1月12日 - 1989年(平成1年)5月10日)は、日本の国文学者・歌人・教育者。徳島文理大学等を経営する村崎学園の理事長。徳島県徳島市出身。息子は村崎学園理事長村崎正人、孫は村崎文彦。 徳島県徳島市出身。旧制徳島中学校、早稲田大学文学部卒業。窪田空穂に師事し、歌誌「槻の木」同人となる。大学卒業後は早稲田図書出版社で勤めた。 村崎学園の創業者であり祖母である村崎サイの「自立協同」の遺志を継ぎ、1949年に同学園の理事長に就任する。1961年に徳島女子短期大学(現・徳島文理大学短期大学部)、1966年に徳島女子大学(現・徳島文理大学)を創設するなど、村崎学園を幼稚園から大学院までを一貫する総合学園に成長させるなどの実績をあげた。
福沢 武一(ふくざわ ぶいち、1914年1月12日 - 20… 福沢 武一(ふくざわ ぶいち、1914年1月12日 - 2003年5月15日)は、日本の歌人、万葉学者、日本語学者。専門は万葉集、方言。 長野県上伊那郡伊那町(現伊那市)生まれ。東京大学文学部を卒業後、1941年から1973年まで長野県下各地の高等学校に勤務した。北信地方に赴任した際、言葉が奇異に感ぜられ方言に興味を抱くようになったという。1951年「万葉集」の研究に端を発して短歌の製作を始める。 1975年長野大学教授、1983年上田女子短期大学教授に就任。 2003年5月15日死去、89歳没。 詠風は独特であり、素材にも表現形式にも特異な趣があったという。 万葉集研究で知られた。 また戦後長野県方言の語彙研究をリードし、大橋敦夫からは「丹念に方言を収集し、方言語彙研究に独自の境地を開いた」と評されている。
磯田 一郎(いそだ いちろう、1913年1月12日 - 19… 磯田 一郎(いそだ いちろう、1913年1月12日 - 1993年12月3日)は、日本の銀行家、元ラグビー日本代表選手。 住友銀行頭取・会長、経団連副会長などを歴任した日本を代表する銀行家で、住銀の高収益体質を確立し都市銀行上位行に発展させるなどの功績を挙げるなど、「住友銀行中興の祖」「住友銀行の天皇」と称された。しかし晩年には住銀と反社会的勢力の関係を近づけさせてしまうなど負の側面が目立ち、最終的にイトマン事件が原因で引責辞任した。 海軍軍人だった父親の赴任先、京都の舞鶴に生まれ、父が退役後、岡山の三井物産船舶部(後の商船三井)に入社したため岡山で育つ。岡山市立内山下小学校から旧制岡山一中(後の岡山県立岡山朝日高等学校)に進むが、父の転勤で旧制第二神戸中学校(のち兵庫県立兵庫高等学校)に転校。
磯崎 千利(いそざき ちとし、1913年(大正2年)1月12… 磯崎 千利(いそざき ちとし、1913年(大正2年)1月12日 - 1993年(平成5年)6月20日)は、大日本帝国海軍の軍人、戦闘機搭乗員。 操練19期。最終階級は大尉。 愛媛県松山市出身。松山中学卒業後、海兵団を経て1932年(昭和7年)10月、操縦練習生となる。同期生に半田亘理。1933年(昭和8年)3月、同課程を修了し、龍驤飛行機隊に配属される。そこでのちに撃墜王となる赤松貞明と知り合い、親交を深める。のち内地に転属し、霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊附教官。この時の教え子の一人に、岩本徹三(操練34期)がいる。 日中戦争(支那事変)勃発後の1937年(昭和12年)10月、加賀飛行機隊を経て1939年(昭和14年)末より第十二航空隊に配属され桂林攻撃に参加するが、この時よりすでに撃墜王として武名をはせていた赤松や岩本とは異なり、戦線を通じて大きな空戦に恵まれることはなかった。
石塚 経雄(いしづか つねお、1913年1月12日 - 19… 石塚 経雄(いしづか つねお、1913年1月12日 - 1992年11月25日)は、日本の哲学研究者。 徳島県生まれ。1938年東京文理科大学哲学科卒。1975年「実存的人格主義と弁証法的自己否定の倫理 N・ベルジャーエフを巡って」で東京教育大学文学博士。静岡大学教養部助教授、65年教授。71年同附属図書館長、76年定年退官、名誉教授、浜松短期大学教授、学長。
松村 正恒(まつむら まさつね、1913年1月12日 - 1… 松村 正恒(まつむら まさつね、1913年1月12日 - 1993年2月28日)は、愛媛県大洲市出身の日本の建築家である。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
黄 小娥(こう しょうが、1913年1月12日 - 没年不詳… 黄 小娥(こう しょうが、1913年1月12日 - 没年不詳)は、熊本県山鹿市出身の占い師である。1961年に『易入門』を出版し、占いブームを引き起こした。本名は川津 久佳、川津 久於、川津 久子などとされておりはっきりとしていない。 『易入門』の著者紹介では、生まれや育ち、国籍も不明で、親も夫もなく天涯孤独であるとされており、本名や経歴は明かされていなかった。 しかし、同書の人気が高まると週刊誌の暴露記事などで経歴が明らかとされた。熊本県山鹿市の履物屋の娘として生まれたが、幼い頃に母と死に別れ、継母の元で育った。熊本県立山鹿高等女学校卒業後、17歳で熊本市の建築材料店経営者と結婚し一男一女をもうけたが、戦後に離婚しひとり家を出たという。
山本 正男(やまもと まさお、1912年1月12日 - 20… 山本 正男(やまもと まさお、1912年1月12日 - 2007年10月10日)は、日本の美術史学者。専攻は美学、芸術史。第4代東京芸術大学学長、初代沖縄県立芸術大学学長。長野県長野市出身。 日本学術会議第13・14期会員、文部省学術審議会委員、日本美学会委員などを歴任した。
北野 ミヤ(きたの ミヤ、1912年1月12日 - 2004… 北野 ミヤ(きたの ミヤ、1912年1月12日 - 2004年4月23日)は、メジロ商事株式会社、有限会社メジロ牧場の元会長。長野県上田市生まれ。 「メジロティターンの子で天皇賞を勝て」という夫・北野豊吉の遺言を受け、メジロ牧場を引き継ぐ。1991年には遺言どおりメジロティターンの仔・メジロマックイーンで天皇賞(春)を勝った。そのほか1986年の牝馬三冠馬・メジロラモーヌ、メジロライアン、メジロパーマー、メジロドーベル、メジロブライトなどGIホースを次々と生産。メジロ牧場の最盛期を築き、ファンや関係者からは「メジロのおばあちゃん」と呼ばれ親しまれたが、一方でメジロマックイーンが勝った1990年の菊花賞について「もう一頭のメジロに勝って欲しかった(同じく1990年の菊花賞で1番人気だったが3着に敗れたメジロライアンを指す)」と発言するなど、歯に衣着せぬ言動をすることもあった。
宮島 初子(みやじま はつこ、1911年1月12日‐1981… 宮島 初子(みやじま はつこ、1911年1月12日‐1981年12月27日)は、昭和時代の教育者。北海道出身。学校法人宮島学園創立者。ファッションドレスメーカー専門学校創立者。北海道調理師専門学校創立者。 札幌市立高等女学校(現北海道札幌東高等学校)を卒業し、結婚。結婚後から洋裁を始め、上京して杉野学園ドレスメーカー女学院で学んだ。卒業後札幌に戻り、1937年、ファッション洋裁塾を設立。これが、現在のファッションドレスメーカー専門学校であり、最古の専門学校のひとつである。1975年には、北海道調理師専門学校を併設。また、1983年には、ファッションドレスメーカー専門学校で最優秀卒業生を表彰する「宮島初子賞」が制定された。
山崎 安雄(やまざき やすお、1910年1月12日 - 19… 山崎 安雄(やまざき やすお、1910年1月12日 - 1964年7月3日)は、日本の出版者、評論家。 埼玉県熊谷生まれ。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、同志社大学予科中退、文化学院文学部卒業。1938年毎日新聞社入社。出版局図書編集部勤務、出版局参事。出版をめぐる著作を多く書いた。
南須原 静也(なすはら しずや、1910年 <明治43年> … 南須原 静也(なすはら しずや、1910年 <明治43年> 1月12日 - 1990年 <平成2年> 12月8日)は、日本の経営者。三井倉庫社長、会長を務めた。位階は従四位。 静岡県出身。1932年に東京商科大学を卒業し、同年に三井倉庫に入社。1960年5月に取締役に就任し、1995年5月に常務、1968年5月に専務を経て、1972年5月に社長に就任。1981年6月に会長を経て、1985年6月から相談役を務めた。 1974年11月に藍綬褒章を受章し、1980年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1990年12月8日急性呼吸不全のために死去。80歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
石井 英一(いしい えいいち、1908年1月12日 - 19… 石井 英一(いしい えいいち、1908年1月12日 - 1989年12月10日)は、日本の官僚、実業家。運輸省資材局長。東洋電機製造社長。 香川県三豊郡比地二村(現 三豊市高瀬町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制松山高等学校を経て、東京帝国大学法学部独法科卒業。 1933年(昭和8年)鉄道省入省。東鉄貨物課長、北京大使館交通課長を務める。1950年(昭和25年)日本国有鉄道(国鉄)門司鉄道管理局長に異動。1953年(昭和28年)3月23日から24日にかけて、門司地方国鉄職員戦没者合同慰霊祭を行った。 1954年(昭和29年)運輸省自動車局長に昇任。同年10月12日の第19回参議院運輸委員会の会議に於いて、嬉野線国鉄バス事故について答弁を行った。
片岡 弥吉(かたおか やきち、1908年1月12日 - 19… 片岡 弥吉(かたおか やきち、1908年1月12日 - 1980年2月21日)は、日本の日本史学者。 長崎県生まれ。日本大学卒業。カソリック教徒として長崎でのキリスト布教史、キリシタン研究で知られる。1964年『浦上四番崩れ』で日本エッセイストクラブ賞受賞。1951年純心女子短期大学助教授、後に教授、副学長。 実娘のSr.片岡千鶴子、Sr.片岡瑠美子は各・長崎純心聖母会の修道女で、前者は長崎純心学園理事長ほか、後者は長崎純心大学学長ほかを務めた。他に多くの子女がいる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
浅香 忠雄(淺香、あさか ただお、1908年(明治41年)1… 浅香 忠雄(淺香、あさか ただお、1908年(明治41年)1月12日 - 1985年(昭和60年)5月28日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(5期)。 大阪府堺市出身。1925年(大正14年)堀川商工専修学校を卒業した。 木村屋製パン社長、浅香産業社長、朝鮮耐火煉瓦社長、大阪変圧器顧問、三洋電機顧問、大阪工業大学常任顧問などを務めた。 大阪府会議員に選出され、大阪府教育委員会委員長、大阪府立新制大学設立委員長にも在任した。1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に大阪府第3区から民主自由党公認で立候補して初当選。以後、1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続5期在任した。
田上 穰治(たがみ じょうじ、1907年(明治40年)1月1… 田上 穰治(たがみ じょうじ、1907年(明治40年)1月12日 - 1991年(平成3年)10月21日 )は、日本の法学者。一橋大学名誉教授。法学博士。専門は公法学(憲法・比較憲法・行政法)。キリスト教徒であったが、キリスト教徒の殉職自衛官の訴訟では国側の証人として、宗教上の人格権を否定した。美濃部達吉門下。弟子に長谷川正安、杉原泰雄、山内敏弘など。 1907年(明治40年)1月12日、静岡県三島市に生まれる。1923年(大正12年)、徳島県立徳島中学校卒業。1927年(昭和2年)、第一高等学校文科乙類卒業。1929年(昭和4年)12月、高等試験司法科合格。1930年(昭和5年)、東京帝国大学法学部法律学科卒業。
真野 春美(まの はるみ、1907年1月12日 - 没年不明… 真野 春美(まの はるみ、1907年1月12日 - 没年不明)は、京都府出身のプロ野球選手(二塁手,遊撃手)、パシフィック・リーグ審判員。
田上 穰治(たがみ じょうじ、1907年(明治40年)1月1… 田上 穰治(たがみ じょうじ、1907年(明治40年)1月12日 - 1991年(平成3年)10月21日 )は日本の法学者。専門は公法学(憲法・比較憲法・行政法)。一橋大学名誉教授。美濃部達吉の弟子。クリスチャン。
李 丙吉(イ・ビョンギル、朝鮮語: 이병길、1905年(光武… 李 丙吉(イ・ビョンギル、朝鮮語: 이병길、1905年(光武9年 / 明治38年)1月12日 - 1950年12月28日)は、日本の官僚、実業家。位階は正四位。爵位は侯爵。本貫は牛峰李氏。 1905年に李恒九男爵の長男として生まれた。李完用の次男が恒九であり、丙吉は孫にあたる。その後、李完用の長男である李升九の養子に入り、1926年に(大正15年)に李完用が死去すると、侯爵を襲爵した。学習院高等科を卒業し、1927年(昭和2年)京都帝国大学に入学。1931年(昭和6年)に帝大を卒業し、朝鮮総督府学務局編集嘱託を経て、1934年(昭和9年)に宮内省式部職御用掛に任命された。1939年(昭和14年)から国民精神総動員朝鮮連盟参事を兼任。
中平 解(なかひら さとる、1904年〈明治37年〉1月12… 中平 解(なかひら さとる、1904年〈明治37年〉1月12日 - 2001年〈平成13年〉11月12日)は、日本のフランス語学研究者。日本民俗語学者。 1904年(明治37年)1月12日、愛媛県南宇和郡一本松村広見(現・愛南町)に生まれる。父・中平幾男、母・栄。「わたしの家は三万石の〔伊予〕吉田藩〔宇和島藩の支藩〕の小船頭の役をしていて、祖父は殿様が参勤交代のときに大阪まで行ったようである」。「祖父は四万十川が氾濫したとき、政府(県かもしれない)が呉れた米を、御上のくれた物は食べないと言って頑張った、という話を聞いたこともあるが、わたしのアマノジャクも、この祖父の性質を受けているのかもしれない」。
野村 末一(のむら すえかず、1904年(明治37年)1月1… 野村 末一(のむら すえかず、1904年(明治37年)1月12日 - 1975年(昭和50年)9月28日)は、日本の実業家。三井東圧化学(現三井化学)社長や、日本化学工業協会会長を務めた。 1924年名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業、三井鉱山入社。1931年三池窒素工業入社。1937年東洋高圧工業入社。1946年東洋高圧工業取締役に昇格。1947年東洋高圧工業専務取締役。1957年東洋高圧工業取締役副社長。1963年から東洋高圧工業取締役社長を務め、1968年には三井銀行本店で三井化学工業の石毛郁治取締役社長との間で、合併調印式を行い、合併後の三井東圧化学でも社長を務めた。同年日本化学工業協会会長。
西田 信春(にしだ のぶはる、1903年1月12日 - 19… 西田 信春(にしだ のぶはる、1903年1月12日 - 1933年2月11日)は、日本の戦前の社会運動家・平和運動家。 北海道新十津川村出身。出生は岩見沢市で4歳から新十津川で幼児期をすごす。札幌第一中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学文学部倫理学科に入学。東大時代はボート部に所属し、社会科学、社会主義を学ぶ。小樽高等商業学校での軍事演習に対する抗議行動に端を発した軍事教育批判が全国の大学に広がる中、治安維持法改悪により私有財産制の否定や平和運動が処罰の対象となった1925年秋、新人会に参加し、石堂清倫らと活動を始める。1926年5月より大衆教育同盟本部書記などを務め、社会科学研究会でも活動。
ハナヤ勘兵衛(はなや かんべい、または、はなや かんべえ、1… ハナヤ勘兵衛(はなや かんべい、または、はなや かんべえ、1903年1月12日 - 1991年5月15日)は、日本の写真家。本名は桑田和雄。 1903年に大阪市西区江戸堀で生まれる。大阪府立堺中学校(現・大阪府立三国丘高等学校)を卒業後、写真家になるために上海に渡り、その後香港やシンガポールにも渡る。1927年に帰国後、玉子と結婚。1929年に芦屋で写真材料店を開き、「ハナヤ勘兵衛」と名乗るようになった。 1930年に、中山岩太が中心となり結成された「芦屋カメラクラブ」に紅谷吉之助、高麗清治らとともに参加し、関西での新興写真運動の中心的存在の一人として活躍。その作品には、多重露光やフォトモンタージュを駆使したものが多く、強烈なモダニズムを感じさせ、1932年に創刊された雑誌『光画』にも、その作品が掲載された。
安川 寛(やすかわ ひろし、1903年1月12日 - 199… 安川 寛(やすかわ ひろし、1903年1月12日 - 1999年2月18日)は、日本の経営者、工学博士。安川電機社長、会長を務めた。福岡県北九州市出身。 旧制小倉中学校を経て、1927年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、1934年に東京帝国大学大学院を修了。東京大学で講師、航空研究所嘱託として勤務し、1936年に安川電機製作所取締役に就任。1944年に社長に就任し、1972年に会長を経て、1985年に名誉顧問に就任。 北九州商工会議所会頭、福岡大学理事長、エフエム九州社長、日本電機工業会会長、日本経営者団体連盟常任理事なども歴任。 1964年に藍綬褒章を受章し、1973年に勲二等瑞宝章を受章。