加瀬 俊一(かせ としかず、1903年(明治36年)1月12… 加瀬 俊一(かせ としかず、1903年(明治36年)1月12日 - 2004年(平成16年)5月21日)は、日本の外交官、外交評論家。第二次世界大戦前後に活躍し、国際連合加盟後初の国連大使や外務省顧問、内閣総理大臣顧問などを歴任した。外交評論家の加瀬英明は息子。
1月12日生まれ:345人
加瀬 俊一(かせ としかず、1903年(明治36年)1月12… 加瀬 俊一(かせ としかず、1903年(明治36年)1月12日 - 2004年(平成16年)5月21日)は、日本の外交官、外交評論家。第二次世界大戦前後に活躍し、国際連合加盟後初の国連大使や外務省顧問、内閣総理大臣顧問などを歴任した。外交評論家の加瀬英明は息子。
加瀬 俊一(かせ としかず、1903年(明治36年)1月12… 加瀬 俊一(かせ としかず、1903年(明治36年)1月12日 - 2004年(平成16年)5月21日)は、日本の外交官、外交評論家。第二次世界大戦前後に活躍し、国際連合加盟後初の国連大使や外務省顧問、内閣総理大臣顧問、日本を守る国民会議議長などを歴任した。外交評論家の加瀬英明は息子であり、オノ・ヨーコは姪。 終戦時にポツダム宣言受諾の日本政府の決定を連合国側に通知したスイス駐在公使の加瀬俊一(しゅんいち)(1956年死去)とは同姓同名の別人である。外務省内では入省年度が早い(1920年入省)彼と区別するため「小加瀬」とも称された。 1903年(明治36年)に最年少代議士・弁護士・中央大学副学長であった父・加瀬禧逸の五男として千葉県旭町(現在の千葉県旭市大田)に生まれた。
岩橋 英遠(いわはし えいえん、1903年1月12日 - 1… 岩橋 英遠(いわはし えいえん、1903年1月12日 - 1999年7月12日)は、日本画家、文化勲章受章者、日本芸術院会員。位階は従三位。 北海道空知郡江部乙村(現在の空知管内滝川市江部乙町)に、熊本県出身の屯田兵岩橋浅次と妻きくの長男として生まれる。本名・英遠(ひでとお)。 同村立北辰尋常高等小学校を卒業後、農業を手伝いながら独学で絵を描く。21歳で上京、山内多門の画塾に入る。師の死後は安田靫彦門下となる。院展同人として活躍し、日本画新時代の一翼を担う。洋画の手法も取り入れつつ、独自の自然観照による写実的でありながら幻想的でもある印象のある絵画世界を創造し続け、享年まで日本画壇の重鎮として活躍した。
仲内 憲治(なかうち けんじ、1902年(明治35年)1月1… 仲内 憲治(なかうち けんじ、1902年(明治35年)1月12日 - 1971年(昭和46年)2月10日)は、昭和期の外交官、教育者、政治家。位階は従三位。 衆議院議員(2期)。在アフガニスタン日本大使を務めた。 千葉県海上郡、後の銚子市で生まれる。1919年(大正8年)銚子商業学校(現千葉県立銚子商業高等学校)を卒業。中央大学専門部法科で学ぶ。三井物産を経て、1922年(大正11年)外務省に入省し外務書記生に任官。1929年(昭和4年)10月、第38回高等試験外交科試験に合格。1930年(昭和5年)6月、アメリカ合衆国に派遣されクラーク大学で学ぶ。以後、外務属、外交官補、領事官補、外務事務官、領事、駐タイ国一等書記官、外務書記官、終戦連絡中央事務局連絡官などを歴任し、外務省政務局第四課長で退官した。
志賀 義雄(しが よしお、1901年(明治34年)1月12日… 志賀 義雄(しが よしお、1901年(明治34年)1月12日 - 1989年(平成元年)3月6日)は、日本の政治家、共産主義運動の活動家。衆議院議員、日本共産党中央委員、「日本共産党(日本のこえ)」委員長などを務めた。ソ連共産党から資金援助を受けていた。 福岡県門司市(現・北九州市門司区)生まれ。旧姓、川本。1906年、母方の祖父の養子となって山口県阿武郡萩町(現・萩市)へ移り、志賀姓となる。 旧制萩中学校(現・山口県立萩高等学校)から一高を経て東京帝国大学文学部に入学する。帝大在学中に学生運動に参加し、在学中の1923年(大正12年)には、前年に非合法政党として結成された日本共産党へ入党。1927年(昭和2)1月には、モスクワに赴任した福本和夫から党中央常任委員・政治部長の要職を引き継いだが、1928年(昭和3年)の三・一五事件において検挙され、1934年(昭和9年)に治安維持法により懲役10年の有罪判決を受けた。
三池 信(みいけ まこと、1901年1月12日 – 1988… 三池 信(みいけ まこと、1901年1月12日 – 1988年2月20日)は、昭和期の政治家。郵政大臣。 佐賀県神埼郡三田川村(現・吉野ヶ里町)に、三池鉄一の長男として生まれる。佐賀高等学校理科甲類を経て、1926年九州帝国大学工学部電気科を卒業、京浜電力株式会社に入社する。奈川渡発電所(信州)所長を経て、理化学研究所特殊製鉄株式会社に移り常務取締役となる。終戦は同社羅興(現・北朝鮮咸鏡南道)工場長として朝鮮半島で迎えた。 1949年、第24回衆議院議員総選挙に吉田茂率いる民主自由党から佐賀県全県区で立候補し当選する(当選同期に池田勇人・岡崎勝男・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・藤枝泉介・木村俊夫・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二など)。
藤原 豊次郎(ふじわら とよじろう、1899年1月12日 -… 藤原 豊次郎(ふじわら とよじろう、1899年1月12日 - 1979年12月8日)は、日本の政治家。日本社会党所属の衆議院議員(1期)。 千葉県出身。1929年千葉医科大学卒。眼科医院を開業し、市川市議、千葉県議を経て、1960年の第29回衆議院議員総選挙において千葉1区から日本社会党公認で立候補して当選した。衆議院議員は1期務め、1963年の第30回衆議院議員総選挙で落選した。その後、1969年の第32回衆議院議員総選挙で諸派として立候補したが落選した。 このほか社会党市川支部長、市川市医師会会長、千葉県医師会顧問や日中友好協会千葉県会長なども歴任した。
常岡 一郎(つねおか いちろう、1899年〈明治32年〉1月… 常岡 一郎(つねおか いちろう、1899年〈明治32年〉1月12日 - 1989年〈昭和64年〉1月2日)は、日本の政治家、参議院議員(2期)、宗教家、文筆家。 1899年(明治32年)福岡県糟屋郡古賀町(現古賀市)に生まれる。慶應義塾大学部理財科に在学していたが、卒業前に結核に倒れ、同大学を中退。闘病と共に天理教の修養を始める。 1935年(昭和10年)修養団体『中心社』を創設。その後、月刊誌「中心」を主宰し中心社主幹。この他、養護施設中心学園、養護老人ホーム中心荘を経営して社会福祉に貢献、健康学園を創建。兼ねてよりの持論である5健運動を推進する。 1950年(昭和25年)第2回参議院議員通常選挙全国区に緑風会から出馬し参議院議員に当選。
人見 誠治(ひとみ せいじ、1898年(明治31年)1月12… 人見 誠治(ひとみ せいじ、1898年(明治31年)1月12日 - 1978年(昭和53年)1月16日)は、日本のジャーナリスト、マスメディア経営者。 1898年(明治31年)秋田市中亀ノ丁に生まれる。1915年(大正4年)に秋田中学校を卒業し、小学校代用教員などを務める。 1927年(昭和2年)、秋田魁新報社に入社。運動部記者、政経部記者を経て、計画部長兼地方部長、計画部長兼社会部長、業務局次長兼計画部長などを歴任し、1943年(昭和18年)取締役に就任する。以後、常務取締役業務局長、専務取締役を務め、1946年(昭和21年)11月代表取締役社長に就任、同社の経営に当たった。1953年(昭和28年)、ラジオ東北株式会社を設立(代表取締役社長)。
薄田 七郎(うすだ しちろう、1898年〈明治31年〉1月1… 薄田 七郎(うすだ しちろう、1898年〈明治31年〉1月12日 - 1983年〈昭和58年〉10月22日)は、日本の病理学者、厚生技官、医師。医学博士。台北帝国大学医学部病理学教室病理学第一講座第2代教授。 新潟県中蒲原郡木戸村大字鴉俣(現 新潟市東区山木戸)の医師・薄田敬勝の長男として出生。 1915年(大正4年)3月に新潟中学校を卒業、1919年(大正8年)7月に第二高等学校を卒業、1923年(大正12年)4月に東京帝国大学医学部医学科を卒業。 東京帝国大学医学部病理学教室に入室、1925年(大正14年)1月に泉橋慈善病院内科医員に就任、1926年(大正15年)4月に同病院病理解剖科医員に就任、1932年(昭和7年)11月に東京帝国大学から医学博士の学位を取得。
奥田 達郎(おくだ たつろう、1898年(明治31年)1月1… 奥田 達郎(おくだ たつろう、1898年(明治31年)1月12日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 広島県出身。1921年(大正10年)、東京帝国大学法学部法学科を卒業し、高等試験に合格した。台湾総督府財務局事務官、台中州大屯郡守、台北州内務部勧業課長、高雄州警務部長、警務局衛生課長、財務局税務課長、台北州警務部長、殖産局特産課長などを歴任。1939年(昭和14年)、台中州知事に就任し、さらに米穀局長、食糧局長、国土局長を務めた。 1943年(昭和18年)に退官した後は、台湾食糧営団理事長に就任した。 戦後は広島市助役に任命された。
高田 賢治郎(たかだ けんじろう、1898年(明治31年)1… 高田 賢治郎(たかだ けんじろう、1898年(明治31年)1月12日 - 没年不詳)は、内務官僚。東京市・東京都区長。 京都府出身。1921年(大正10年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、翌年に高等試験行政科に合格した。大分県属、大阪府属、警視・群馬県警務課長、同保安課長、事務官・福岡県商工課長兼水産課長、熊本県学務部長を歴任し、1932年(昭和8年)に退官した。 1933年(昭和8年)に東京市主事となり、保健局庶務課監理係長、駒込病院事務長、監査局都市計画課長、世田谷区長、教育局防衛課長、城東区長、厚生局保護課長、神田区長、中央卸売市場長、芝区長を歴任した。
陸 直次郎(くが なおじろう、1898年1月12日 - 19… 陸 直次郎(くが なおじろう、1898年1月12日 - 1944年8月11日)は日本の作家。本名は野沢嘉哉(のざわ よしや)。東京府東京市本郷区(現・東京都文京区)本郷出身。 早稲田大学文科中退。中央新聞、時事新報、萬朝報、読売新聞に勤務。妻の清子は直次郎と死別した後、弁当屋の経営を経て小唄の師匠に転向、堀小代清の芸名で活動した。 息子は4人おり、三男はクラブ馬主「東京ホースレーシング」創業者の野沢直哉、四男は声優・俳優・演出家の野沢那智、孫にお笑いタレントの野沢直子(直哉の娘)、クリエイティブディレクターの野澤直龍(直哉の息子)、声優・俳優の野沢聡(那智の息子)、曾孫に格闘家の真珠・野沢オークレアー(直子の娘)。
木村 荘十(きむら そうじゅう、1897年〈明治30年〉1月… 木村 荘十(きむら そうじゅう、1897年〈明治30年〉1月12日 - 1967年〈昭和42年〉5月6日)は東京府出身の作家。 牛鍋チェーン店「いろは」経営者木村荘平の妾腹の十男として、東京市深川区(現在の東京都江東区)の「いろは」第7支店に生まれる。4歳のとき実母が愛人と失踪したため、東京市浅草区(東京都台東区)吉原日本堤の"いろは"第9支店に預けられ、そこが人手に渡ると、ただちに裏の家へと預けられて育った。 慶應義塾大学中退。第一次世界大戦中に渡英し、のち帰国。異母兄の第2代木村荘平と不和を生じて骨董店の店員となり、政治家の愛人と密通して共に渡満。南満州鉄道の事務員や新聞記者(満州商業新報主筆、満州日日新聞政治記者)などを経て、大連で「満蒙評論社」なる雑誌社を経営。
吉屋 信子(よしや のぶこ、1896年〈明治29年〉1月12… 吉屋 信子(よしや のぶこ、1896年〈明治29年〉1月12日 - 1973年〈昭和48年〉7月11日)は、1920年代から1970年代前半にかけて活躍した日本の小説家。初め『花物語』などの少女小説で人気を博し、『地の果まで』で文壇に登場。以後家庭小説の分野で活躍し、キリスト教的な理想主義と清純な感傷性によって女性読者の絶大な支持を獲得。戦後は『徳川の夫人たち』が大奥ブームを呼び、女性史を題材とした歴史物、時代物を書き続けた。同性愛者であったと言われており、50年以上パートナーの千代と共に暮らした。 父・雄一が新潟県警務署長を務めていた折、新潟市営所通にあった新潟県庁官舎で生まれた。父はその後行政職に転じ、新潟県内を佐渡郡長として佐渡市(旧相川町)、北蒲原郡長として新発田市(当時は新発田町)に赴任したのち栃木県に転じ、芳賀郡長として真岡市(当時は真岡町)へ、次いで下都賀郡長として栃木市(当時は栃木町)に赴任した。
細田 栄蔵(榮藏、ほそだ えいぞう、1893年〈明治26年〉… 細田 栄蔵(榮藏、ほそだ えいぞう、1893年〈明治26年〉1月12日 - 1964年〈昭和39年〉2月13日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、埼玉県議会議員(1期)、埼玉県入間郡飯能町長。 埼玉県高麗郡飯能町(のち入間郡飯能町、現:飯能市)で生まれる。埼玉県立川越中学校を中退。 1908年(明治41年)、織物製造業を継いで細田織物工場を設立した。その後、埼玉染絨取締役、埼玉県農業会理事、所沢毛織物工業所代表取締役、武蔵織物工業所代表取締役、武蔵織物工業協同組合常務理事、関東羊毛工業協同組合理事長、飯能商工会議所会頭、武蔵織物社長、西部編織社長、所沢毛織会長などを務めた。 政界では、飯能町会議員を務める。
太田 収(おおた おさむ、1890年〈明治23年〉1月12日… 太田 収(おおた おさむ、1890年〈明治23年〉1月12日 - 1938年〈昭和13年〉5月28日)は、日本の実業家。山一証券社長を務めた。投機に失敗し自殺した。証券業界における初の東京帝大出身者。 岡山県吉備郡庭瀬村(庭瀬町、吉備町を経て、現在の岡山市北区)出身。のちに家督を相続する。1916年、東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。 同郷の先輩野崎広太の勧めで、小池国三の小池合資会社(のちの山一證券)に入る。古荘四郎彦、河合良成らと、兜町で働く東京帝大法科出の遊会「十八日会」を作り親交した。1926年、山一証券常務に昇進。鐘紡株で巨利を得、社長の杉野喜精に「証券業の天才」と評された。1935年に社長就任。
山根 徳太郎(やまね とくたろう、1889年1月12日 - … 山根 徳太郎(やまね とくたろう、1889年1月12日 - 1973年7月28日)は、日本の考古学者。文献史料に記載されていたが所在地が不明のままであった難波宮の研究を行い、難波宮の大極殿跡を発掘した。
安江 仙弘(やすえ のりひろ、1888年〈明治21年〉1月1… 安江 仙弘(やすえ のりひろ、1888年〈明治21年〉1月12日 - 1950年〈昭和25年〉8月14日)は、日本陸軍の軍人。陸士21期。最終階級は陸軍大佐。帝国陸軍におけるユダヤ問題の専門家として知られる。 旧松本藩士・台湾総督府官吏、安江仙政の長男として現在の秋田県秋田市中通4丁目で生まれた。安江が生まれた家は、平田篤胤の生家であった。 京華中学校、陸軍中央幼年学校予科(のちの東京陸軍幼年学校)、陸軍中央幼年学校を経て、1909年5月、陸軍士官学校(21期、同期には石原莞爾(陸軍中将)、樋口季一郎(陸軍中将)がいる)を卒業し、陸軍歩兵将校となった。 1918年、シベリア出兵に出征し、シベリアでグリゴリー・セミョーノフなど白衛軍の将校と接しているうちに、『シオン賢者の議定書』という反ユダヤ主義の古典の存在を知り、日本に帰国後同書を翻訳。
藤本 喜久雄(ふじもと きくお、1888年〈明治21年〉1月… 藤本 喜久雄(ふじもと きくお、1888年〈明治21年〉1月12日 - 1935年〈昭和10年〉1月9日)は、大日本帝国海軍の造船官。最終階級は海軍造船少将、位階勲等は従四位勲三等。石川県出身。 斬新な発想の持ち主で、新技術の導入に熱心であった。長門型戦艦の悩みの種であった、艦橋に煙突の排煙が逆流してしまう問題を、第1煙突を後ろに大きく曲げて「屈曲煙突」にする独自の発想で解決した。先輩の造船官である平賀譲から「屈曲煙突は戦艦の威容を損ねる」と批判されたものの、長門型の艦容は「芋虫煙突」と日本国民から親しまれた。同様の煙突は、他国海軍でも採用された。 1927年に、艦艇設計の責任者である海軍艦政本部第四部基本設計主任に就任し、最上型重巡洋艦・初春型駆逐艦などを設計した。
宮澤 裕(みやざわ ゆたか、1884年〈明治17年〉1月12… 宮澤 裕(みやざわ ゆたか、1884年〈明治17年〉1月12日 - 1963年〈昭和38年〉5月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)。 長野県庁勤めを経て、一時実業界入った後、逓信、内務各大臣秘書官。その間、昭和3年(1928年)郷里の広島3区から衆議院議員に当選して政界入り。以来連続6回当選し、鉄道政務次官、商工省参与などを歴任。内閣総理大臣などを務めた宮澤喜一は長男。 広島県沼隈郡金見村(現・福山市金江町金見)の小さな農家に生まれた。父・鹿吉の時代は生活は楽でなかった。だが教育熱心な鹿吉は、裕が村の小さな小学校を卒業すると、苦しい家計をやりくりして福山中学校に通わせた。裕は中学を卒業すると、さらに上級の高校を目指そうとした。
北村 一郎(きたむら いちろう、1884年(明治17年)1月… 北村 一郎(きたむら いちろう、1884年(明治17年)1月12日 - 1968年(昭和43年)9月18日)は、日本の大正・昭和期における歯科医。名古屋大学教授・愛知県歯科医師会長。長崎県出身。 1884年(明治17年)、本籍は父親の郷里である長崎県で幼少時も長崎で暮らすが、検事であった父の勤務先東京で生まれた。1911年(明治44年)第三高等学校を経て東京帝国大学医科大学を卒業する。 卒業後「ただ歯科をやりたかった」と言う理由で当時唯一の官制歯科学教室であった石原久の教室に入局した。しかし、「歯科医学専門学校は内容を整備して着々と国家的に其存在の根を固め、帝国大学に歯科医学科の無きに係らず歯科医学士の称号を獲得し、其学会は漸次形式内容を整えて学会に加えんとするに至った。
大山 文雄(おおやま あやお、1883年(明治16年)1月1… 大山 文雄(おおやま あやお、1883年(明治16年)1月12日 - 1972年(昭和47年)10月19日)は、日本の陸軍法務官、政治家。最終階級は陸軍法務中将。陸軍省法務局長、初代岡山県井原市長。 岡山県後月郡西江原村(西江原町を経て現井原市)で、後に井原町長を務めた大山邦一、房与夫妻の長男として生まれる。西江原村立尋常義之小学校を経て、岡山県立商業学校に入学したが中退。郡役所書記を経て、1904年7月、日本大学専門部正科を卒業。同年12月、判事検事登用試験に合格。同年12月、司法官試補となり第5師団法官部員として修習し、陸軍を志願して1905年3月、陸軍理事試補に任官し留守第11師団法官部員に就任した。
新美 卯一郎(にいみ ういちろう、1879年1月12日 - … 新美 卯一郎(にいみ ういちろう、1879年1月12日 - 1911年1月24日)は、明治期の社会主義者である。幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人。 熊本県出身。熊本県尋常中学校卒業。東京専門学校中退。 1907年松尾卯一太と『熊本評論』創刊。宮崎民蔵(宮崎滔天の次兄)によって組織されていた土地復権同志会に紙面を提供する。1910年の幸徳事件(大逆事件)で検挙され、1911年1月24日8時55分、市ヶ谷刑務所で絞首刑が執行された。32歳没。
手塚 縫蔵(てづか ぬいぞう、1879年1月12日 - 19… 手塚 縫蔵(てづか ぬいぞう、1879年1月12日 - 1954年8月16日)は日本の教育者。基督者。 長野県東筑摩郡広丘村(現塩尻市)生まれ。長野県師範学校に入学し、信濃毎日新聞主筆の山路愛山からキリスト教に関する感化を受け、在学中に長野教会で高木信吉牧師から受洗する。明治35年(1902年)、太田水穂が校長を務める東筑摩郡和田尋常小学校に赴任。同37年(1904年)に休職して上京し、植村正久の東京神学社に学ぶ。復職後は上高井郡川田、須坂の各尋常小学校の訓導、東筑摩郡会田尋常小学校校長を経て、明治44年(1911年)長野市後町尋常小学校首席訓導に転じ、教師仲間と「東西南北会」を結成し、形式主義的な教育に対抗して、教師自身の人格を高め、生徒の個性や人格を尊重するという「人格主義教育」を唱えた。
緑嶌 友之助(みどりしま とものすけ、1878年1月12日 … 緑嶌 友之助(みどりしま とものすけ、1878年1月12日 - 1952年12月16日)は、石川県上新川郡(現:富山県滑川市)出身の大相撲力士。本名は高木 友之助(たかぎ とものすけ)。 1878年1月12日に石川県上新川郡で農家を営む家に二男として生まれた。父親は土地相撲で「緑山」の四股名で大関を務め、友之助も17歳の時点で5斗俵を差し上げて村人を大いに驚かせるほどの怪力を持っていた。当初は京都相撲に加入していたが、兄弟子からいじめを受けたために間もなく帰郷。 春日山部屋(師匠は元幕下二段目・朝日森の)へ、序二段・春柳(後の三段目・小猫又)の世話で入門した。 東京相撲では1898年1月場所で初土俵を踏むとすぐに頭角を現し、1901年1月場所で新十両昇進、1902年5月場所で新入幕を果たした。
光田 健輔(みつだ けんすけ、1876年(明治9年)1月12… 光田 健輔(みつだ けんすけ、1876年(明治9年)1月12日 - 1964年(昭和39年)5月14日)は、日本の病理学者、皮膚科医。生涯をハンセン病の撲滅に捧げ、国立長島愛生園初代園長等を歴任した。生前は「救癩の父」と崇められ、文化勲章やダミアン・ダットン賞を受けた。その一方で、患者の絶対隔離政策を推進する「癩予防法」改正、無癩県運動や「らい予防法」制定の中心人物であり、日本の対ハンセン病政策の明暗を象徴する人物ともされる。贈正三位勲一等瑞宝章。 1876年(明治9年)1月12日、山口県佐波郡中関村(現・防府市)に生まれる。 高等小学校卒業後に上京し、医師・賀古鶴所宅で住み込み書生をしながら苦学して、医術開業前期試験に合格した。
長嶺 俊之助(ながみね しゅんのすけ、1875年(明治8年)… 長嶺 俊之助(ながみね しゅんのすけ、1875年(明治8年)1月12日 - 1945年(昭和20年)11月29日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 秋田県出身。秋田尋常中学校を経て、1894年(明治27年)12月、士官候補生(8期)として陸軍に入る(原隊は歩兵第5連隊)。1896年(明治29年)11月、陸軍士官学校を卒業し、翌年6月に陸軍歩兵少尉任官。 日露戦争では歩兵第5連隊中隊長、後備歩兵第5連隊副官として黒溝台会戦に参加した。盛岡連隊区司令官などを経て、1924年(大正13年)2月、歩兵第31連隊長に就任。1927年(昭和2年)7月、陸軍少将昇進と同時に待命となり、同年12月、予備役に編入された。
緒方 武(おがた たけし、1873年〈明治6年〉1月12日 … 緒方 武(おがた たけし、1873年〈明治6年〉1月12日 - 1940年〈昭和15年〉6月4日)は、熊本県出身の日本の剣道家(教士)、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は、陸軍歩兵中尉(従七位勲六等)、元熊本県議会議員。 明治6年(1873年)1月12日、父清彦、母千伊の長男として熊本県西合志村梅屋敷(現合志市)に生まれる。 心通学舎(現・合志小学校)から済々黌で学び、東京師範学校に入る。剣道は新陰流(戸波派)宮川末五郎の相伝を受け、第十九代当主となる。 明治30年(1897年)から明治33年まで第五高等学校に奉職。同僚に夏目漱石がいる。 明治33年(1900年)三宅多留次と武徳祭にて柔道試合。 明治36年(1903年)より紫溟会から熊本県議会議員選挙に出馬、当選。
馬上 孝太郎(もうえ こうたろう、1873年(明治6年)1月… 馬上 孝太郎(もうえ こうたろう、1873年(明治6年)1月12日 - 1945年(昭和20年)5月25日)は、日本の教育者。 福島県出身。1899年(明治32年)、東京高等師範学校文科を卒業。秋田県師範学校教諭、東京高等師範学校舎監・教授、学習院教授、女子学習院教授・学生監を歴任。1924年(大正13年)より東京高等師範学校教授・附属中学校主事を務め、1941年(昭和16年)に退官した。 その他、茗渓会理事長、帝国教育会理事を務めた。 1945年(昭和20年)5月25日の空襲で戦災死した。墓所は多磨霊園。
井口 阿くり(いのくち あくり、1871年1月12日(明治3… 井口 阿くり(いのくち あくり、1871年1月12日(明治3年11月22日) - 1931年(昭和6年)3月26日)(通名:井口 あくり、本名:藤田 阿久利)は、日本の体育学者。女子体育の母・日本体育の母。 現在の秋田県秋田市南通亀の町出身。アメリカ留学後女子高等師範学校や日本体育会体操学校の教授を勤め、学校体育にスウェーデン体操を導入した。女子体育の先駆者で「日本女子体育の母」と呼ばれる。1911年(明治44年)藤田積造と結婚し藤田姓となる。 1871年1月12日(明治3年11月22日)、秋田久保田城下亀ノ町廓に住む父井口糺(タダス)、母ミヱの間に9人兄弟の四女として出生。糺は戊辰戦争において久保田藩を勤王に導いた傑士で、大正天皇即位のおり従五位を追贈されている。
山下 啓次郎(やました けいじろう、1868年1月12日〈慶… 山下 啓次郎(やました けいじろう、1868年1月12日〈慶応3年12月18日〉- 1931年〈昭和6年〉2月6日)は明治・大正期に司法省の建築家として五大監獄を設計した。族籍は鹿児島県士族。 妻の直子は「日本のミスコン優勝者第一号」の末弘ヒロ子の姉。孫(二男・啓輔の子)のジャズピアニスト山下洋輔は啓次郎の事跡を訪ね、小説『ドバラダ門』を書いた。 1868年(慶応3年)、薩摩国鹿児島郡鹿児島近在西田村(後の鹿児島市西田町)に、薩摩藩士・山下房親の次男として生まれる。1876年(明治9年)、上京。第一高等中学校を経て1892年(明治25年)、帝国大学工科大学造家学科(後の東京大学工学部)卒業。辰野金吾のもと建築を学んだ。
石井 研二(いしい けんじ、1867年1月12日(慶応2年1… 石井 研二(いしい けんじ、1867年1月12日(慶応2年12月7日) - 1936年(昭和11年)4月3日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 伊豆国賀茂郡、のちの静岡県賀茂郡中大見村(田方郡中大見村、中伊豆町を経て現伊豆市)に生まれる。慶應義塾に学ぶ。韮山村会議員、君沢・田方二郡連合会議員、静岡県会議員、同参事委員を歴任した。財界では、三島乾燥、沼津委託倉庫各社長、東海起業取締役を務めた。 1920年(大正9年)5月の第14回衆議院議員総選挙では静岡県第10区から憲政会所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
作田 右手雄(さくた うたお、1866年1月12日 - 不明… 作田 右手雄(さくた うたお、1866年1月12日 - 不明)は、日本の裁判官。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
半井 桃水(なからい とうすい、1861年1月12日(万延元… 半井 桃水(なからい とうすい、1861年1月12日(万延元年12月2日)- 1926年(大正15年)11月21日)は、日本の小説家。 本名は冽(「きよし」、または「れつ」)だが「洌」との表記もある。幼名は泉太郎(せんたろう)。 半井湛太郎・藤の4人弟妹の長男として対馬厳原藩、現在の長崎県対馬市厳原町に生まれる。父の仕事の関係で少年期は釜山で過ごす。家計を助けるため12歳から釜山で働き始めるが、英語を学ぶため日本へ戻され、進学する。1875年(明治8年)に上京して尺振八の共立学舎に学び、いくつかの新聞社を転々としたあと(1888年・明治21年)に東京朝日新聞の記者となり、朝鮮語が話せることから通信員として釜山に7年間駐在する。
田中 源太郎(たなか げんたろう、1859年1月12日〈安政… 田中 源太郎(たなか げんたろう、1859年1月12日〈安政5年12月9日〉- 1923年〈大正12年〉2月9日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、大地主。埼玉県多額納税者。族籍は埼玉県平民。 武蔵国葛飾郡樋籠村(のち埼玉県北葛飾郡幸松村、現:春日部市)で、北葛飾郡有数の大地主であり、同郡随一の素封家・田中為次郎の長男として生まれる。家業の酒造業を継承した。 樋籠村戸長、八丁村連合戸長を歴任し、庄内古川改修などに尽力した。1911年(明治44年)、立憲政友会所属で埼玉県会議員に当選した。同年10月13日に就任した。1915年(大正4年)、県会議員に再選された。 1918年(大正7年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられた。
信谷 定爾(のぶたに さだじ、1857年1月12日(安政3年… 信谷 定爾(のぶたに さだじ、1857年1月12日(安政3年12月17日) - 1893年(明治26年)11月9日)は、教育者。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。下総国生実藩士。
片岡 七郎(かたおか しちろう、1854年1月12日〈嘉永6… 片岡 七郎(かたおか しちろう、1854年1月12日〈嘉永6年12月14日〉 - 1920年〈大正9年〉1月2日)は、日本の海軍軍人。海軍大将正二位勲一等男爵。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下薬師馬場町(鹿児島県鹿児島市薬師町を経て現薬師)で、薩摩藩士・片岡喜藤太の次男として生まれた。少年期のうちに薩英戦争や戊辰戦争が終わっており、西南戦争も兵学寮の生徒だったために参加していない。まだ兵学寮も制度が固まっておらず、カリキュラムを修了した順に卒業させていた。日高壮之丞大将と同時に入寮したものの、日高はそのまま兵学寮で練成を終えて第2期卒業を果たし、一方で片岡は、伏見宮兄弟(愛賢王→伏見宮博恭元帥と菊麿王→山階宮菊麿大佐)のドイツ留学に随員として1年半派遣されたため、日高より1期遅い第3期卒業生扱いとなっている。
石川 素童(いしかわ そどう、天保12年12月1日(1842… 石川 素童(いしかわ そどう、天保12年12月1日(1842年1月12日) - 大正9年(1920年)11月16日)は、尾張国大曽根出身の僧侶。 天保12年12月1日(1842年1月12日)、尾張国大曽根において出生。9歳のときに仏門に入る。長門国・信濃国・尾張国など各地で修行を積み、地元泰増寺に戻る。元治元年(1864年)には總持寺、1875年(明治8年)には豊橋龍拈寺の住職に就任。さらには彦根清涼寺、東京豪徳寺、小田原最乗寺の住職を歴任し、1905年(明治38年)には当時石川県鳳至郡にあった曹洞宗大本山總持寺の貫首に至った。翌年には曹洞宗管長となる。焼失した總持寺の再興に際して、神奈川県鶴見への移転を主導したとされる。
建野 郷三(たての ごうぞう、1842年1月12日(天保12… 建野 郷三(たての ごうぞう、1842年1月12日(天保12年12月1日) - 1908年(明治41年)2月16日)は、幕末の小倉藩士、明治期の官僚・外交官・実業家。大阪府知事、元老院議官。旧名・牧野弥次左衛門。 豊前国京都郡延永村(現:行橋市延永)に生まれる。小倉藩士・建野建三の養子となり「郷三」と改名。第二次長州征討において長州藩との戦いに従軍した。明治3年(1870年)、イギリスに留学し法律学を学んだ。 1877年(明治10年)11月、宮内省御用掛三等侍補心得となる。以後宮内権大書記官、兼太政官権大書記官を歴任。1879年(明治12年)、グラント前米国大統領の来日に当たり接伴掛を務めた。 1880年(明治13年)5月、大阪府知事に就任し約9年間在任、在任中に大阪府と堺県の合併を実現させた。
淡海 槐堂(おうみ かいどう、文政5年12月1日〈1823年… 淡海 槐堂(おうみ かいどう、文政5年12月1日〈1823年1月12日〉 - 1879年〈明治12年〉6月19日)は勤王家・文人。漢詩人の江馬天江は実弟。 本姓は下坂氏。名は緝、字は敬天。号は槐堂のほか、重涂・頑山史。近江の人。 近江国坂田郡中村(現在の滋賀県長浜市)の下坂篁斎の子として生まれる。3歳のときに京都の薬種商武田家の養子となる。安政2年(1855年)に、醍醐家に仕えて功績が認められて同家の侍となり、板倉姓を賜り、従六位下筑前介に叙任されている。 勤王の志に篤く、七卿落ちや天誅組・長州藩などを資金援助。坂本龍馬・中岡慎太郎にも惜しみなく支援を行っている。 元治元年(1864年)に起きた禁門の変後に幕府に捕らえられ3年間獄中の身となる。
戸松 拳也(とまつ けんや、1月12日 - )は、日本の男性… 戸松 拳也(とまつ けんや、1月12日 - )は、日本の男性声優。埼玉県出身。フリー。 専修大学文学部、青二塾東京校36期卒業。 2016年4月から2019年9月までは青二プロダクションに所属していたが、2019年10月1日よりフリー。同日よりYouTubeにチャンネルを開設し、動画投稿を始める。 趣味には落語鑑賞、現代美術鑑賞、描画、ゲーム、ギター演奏、読書、バスケットボールをそれぞれ挙げている。特技には作詞、作曲、編曲、デスクトップミュージックをそれぞれ挙げている。 叔母に声優の高橋美紀がいる。声優になろうと思ったきっかけは、高橋から声の表現のレッスンを受けたことと語っている。母は高橋の声優デビュー当時より、イベントやライブでの衣装制作やFC会報、CDジャケットなどのデザイン関係全般を担当しており、高橋が主宰する声の魔法館ヴア・シャルムでは宣伝美術も担当している戸松奈美子。
五十嵐 みずも(いからし みずも、1月12日 - )は、新潟… 五十嵐 みずも(いからし みずも、1月12日 - )は、新潟県新発田市出身のシンガーソングライター。 中学校の頃からノートの端などに詩を描き始める。音楽活動を始めたのは高校の時でアラニス・モリセットに影響を受けたのをきっかけにバンド活動を始めた。2003年にはデビューシングルの『水面』を発売し、以降はスマイルスタジアムや月刊新潟Komachiなどの新潟県内のテレビ番組や雑誌などを中心に取り上げられている。2008年より、新潟総合テレビのキャンペーンソング『大好き!にいがた!』を歌い、新潟県を中心に人気を博している。 新潟総合テレビ『大好き!にいがた!』キャンペーンソング この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。
大津 奈美子(おおつ なみこ、1月12日 - )は、日本の女… 大津 奈美子(おおつ なみこ、1月12日 - )は、日本の女性声優・ナレーター。 FMマリノ(78.0MHz) パーソナリティ(1996年-2001年) 大阪のタレント事務所キャラ所属ナレーター、声優(2001年-2012年) 2013年からはフリーのナレーター、声優、アナウンサー、FM香川パーソナリティ、MC、講師として 関西、広島、四国で活躍中。 趣味は三味線、日本民謡、登山。 この項目は、声優(ナレーターを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:アニメ/PJ:アニメ/PJ:声優)。
麗 泉里(うらら せんり、1月12日 - )は、元宝塚歌劇団… 麗 泉里(うらら せんり、1月12日 - )は、元宝塚歌劇団月組の娘役。 長野県東御市、市立東部中学校出身。身長162cm。血液型A型。愛称は「せんり」。 2010年、宝塚音楽学校入学。 2012年、音楽学校卒業後、宝塚歌劇団に98期生として入団。入団時の成績は20番。宙組公演「華やかなりし日々/クライマックス」で初舞台。 2013年、組まわりを経て月組に配属。 2017年、珠城りょう・愛希れいかトップコンビ大劇場お披露目となるショー「カルーセル輪舞曲」で、初のエトワールに抜擢。 2023年のショー「万華鏡百景色」で再びエトワールを務める。 2024年7月7日、月城かなと・海乃美月トップコンビ退団公演となる「Eternal Voice/Grande TAKARAZUKA 110!」東京公演千秋楽をもって、宝塚歌劇団を退団。