吉川 宏(よしかわ ひろし、1931年10月13日 - 20… 吉川 宏(よしかわ ひろし、1931年10月13日 - 2009年5月3日)は、日本の国際政治学者。専門は、国際政治学・外交史、特に国民国家の変容・平和論・マスデモクラシー下の外交政策など。北海学園大学名誉教授。 樺太生まれ。1949年各種学校北海学院入学。1950年北海学院廃止に伴い北海短期大学に編入学。1951年北海短期大学卒業。1955年北海道大学法学部卒業。 同年、同法学部助手。1958年新墾藤学園高等学校教諭。1960年北海道学芸大学学芸学部釧路分校講師。1963年北海道教育大学学芸学部釧路分校助教授。1969年北海学園大学法学部教授。1986年同大学院法学研究科教授。2003年北海学園大学退職。
木田 献一(木田 獻一、きだ けんいち、1930年10月13… 木田 献一(木田 獻一、きだ けんいち、1930年10月13日 - 2013年4月14日)は、日本の神学者。旧約聖書研究の中心人物であった。 1930年、岡山県で生まれた。青山学院大学文学部基督教学科で学び、1953年に卒業。東京教育大学大学院哲学専攻に進み、1957年に修士課程を修了した。ニューヨーク・ユニオン神学校に留学し、1961年に修士課程を修了(STM取得) 1973年より百人町教会教師となった。1975年、ミュンヘン大学に学位論文を提出して神学博士号を取得した。母校である青山学院大学教授、立教大学教授をつとめた。1996年に立教大学を定年退職。その後は山梨英和短期大学教授として教鞭をとった。
天野 源博(あまの もとひろ、1930年10月13日 - 2… 天野 源博(あまの もとひろ、1930年10月13日 - 2005年1月20日)は、日本の実業家。 愛知県西春日井郡西春町(現・北名古屋市)出身。1951年に大阪大学薬学部を卒業した後に、天野製薬に入社した。1971年から1995年までに天野製薬社長を務めた。天野製薬を医薬品や食品用の酵素剤でトップに導いた。1995年6月から会長を務め、ドラッグストアのアマノとカメラのアマノの会長も兼任した。1994年から1997年までに中部経済同友会代表幹事や名古屋商工会議所常議員を務め、中部国際空港の早期実現と愛知万博の誘致に力を入れた。日本製薬団体連合会理事や名古屋駐在オランダ王国名誉領事も務めた。 2005年1月20日、腹部大動脈りゅう破裂のために死去。
溝口 喜文(みぞぐち よしふみ、1930年(昭和5年)10月… 溝口 喜文(みぞぐち よしふみ、1930年(昭和5年)10月13日 - )は、日本の弁護士。 東京都出身。中央大学法学部卒業。東京弁護士会副会長、関東弁護士会連合会理事長、日本弁護士連合会常務理事などを歴任した。 山路ふみ子文化財団理事をつとめ、2011年山路ふみ子文化財団特別賞を受賞した。
有川 正治(ありかわ まさはる、1930年10月13日 - … 有川 正治(ありかわ まさはる、1930年10月13日 - )は、日本の俳優。京都市出身。東映京都撮影所所属。本名同じ。 京都府京都市北区紫竹生まれ。出生前に父親が死去し、養家の「有川」姓を名乗る。1949年、京都府立機械工業学校を卒業。1951年に立命館大学経済学部を中退した後は養父経営の牧場で働いていたが、俳優志望だった甥のマネージャーになるつもりで29歳の時に東映京都撮影所へ入社。甥は外交官を目指して先に俳優を辞めたものの、有川は入社3年目頃から台詞つきの役を与えられるようになり、以降、大柄な体格と強面の風貌を活かして悪役を中心に東映京都制作の時代劇映画や任侠映画、テレビ時代劇などで50年近くに渡って活躍した。
巌 俊一(いわお しゅんいち、1929年10月13日 - 1… 巌 俊一(いわお しゅんいち、1929年10月13日 - 1981年8月7日)は、日本の生態学者。 1929年兵庫県に生まれる。1953年京都大学農学部農林生物学科卒、1955年京都大学大学院農学研究科修士課程農林生物学専攻 修了、1959年京都大学大学院農学研究科博士課程農林生物学専攻退学。1961年農学博士(京都大学)。 1959年京都大学農学部昆虫学研究室助手、1964-66年カナダ国立森立研究所(ヴィクトリア)在籍。1973年名古屋大学農学部助教授、1977年京都大学農学部教授。 1971年日本応用動物昆虫学会賞を受賞したほか、個体群生態学会会長も務めた。 統計生態学的研究で業績を上げ、特に平均こみあい度に基づく空間分布解析法は世界的に有名。
木下 幹彌(きのした みきや、1929年10月13日 - )… 木下 幹彌(きのした みきや、1929年10月13日 - )は、日本の経営者。ウシオ電機社長を務めた。兵庫県神戸市出身。 1951年に神戸経済専門学校を卒業し、1965年7月にウシオ電機に入社した。1979年7月から1980年12月までに社長を務めた。すかいらーく監査役、リンガーハット取締役なども歴任。
髙橋 種昭(たかはし たねあき、1929年10月13日 - … 髙橋 種昭(たかはし たねあき、1929年10月13日 - 2021年10月22日)は、日本の児童福祉学者・教育者。 1956年立教大学大学院文学研究科児童福祉専攻修了。同年社会福祉法人母子愛育会愛育研究所に勤務、子どもの発達相談、母子福祉の研究調査に携わる。1976年淑徳短期大学社会福祉学科教授、1983年日本女子大学家政学部児童学科教授。1997年群馬社会福祉大学教授。日本児童学会名誉会員、日本子ども家庭総合研究所客員研究員。
井上 辰雄(いのうえ たつお、1928年(昭和3年)10月1… 井上 辰雄(いのうえ たつお、1928年(昭和3年)10月13日 - 2015年11月23日)は、日本史学者、筑波大学名誉教授。 東京生まれ。1952年東京大学文学部国史科卒業。57年同大学院(旧制)満期修了。 熊本大学法文学部助教授、教授、1976年筑波大学教授。1981年「古代王権と宗教的部民」で、文学博士(筑波大学)の学位を取得。1992年定年退官、名誉教授、城西国際大学教授、同図書館長。叙正四位。
禿河 徹映(とくがわ てつえい、1928年10月13日 - … 禿河 徹映(とくがわ てつえい、1928年10月13日 - )は日本の大蔵官僚。 北九州市出身。1952年、東京大学法学部卒業後、大蔵省に入省。 1974年大臣官房秘書課長、1977年主計局次長、1980年経済企画庁官房長、1981年証券局長。内閣官房内閣審議室長をへて、総理府次長、1985年退官。国民金融公庫副総裁、日本証券業協会副会長。事務次官候補だったが総理府に転じた。同期には越智通雄、福田幸弘などがいる。1950年組、51年組、53年組の影響もあってか事務次官は出ていない。
埴渕 一(はにぶち はじめ、1928年(昭和3年)10月13… 埴渕 一(はにぶち はじめ、1928年(昭和3年)10月13日 - 2001年(平成13年)6月1日)は、日本の実業家。キョーエイ代表取締役会長。徳島県阿南市出身。 徳島県羽ノ浦町(現:阿南市)で生まれる。父である埴渕朝夫が創業した家業の呉服屋を継ぎ、1958年(昭和33年)にキョーエイを創業。同社は徳島県下一の大手スーパーマーケットへと成長させた。 またこれまでにキョーエイ会長や徳島ニュービジネス協議会顧問などを歴任。 2001年(平成13年)6月1日、急性心不全のため72歳で没する。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
川北 徹(かわきた とおる、1927年10月13日 - 20… 川北 徹(かわきた とおる、1927年10月13日 - 2009年6月29日)は、日本の経営者。三井金属鉱業社長、相談役などを歴任。 島根県出身または鹿児島県いちき串木野市旧串木野市地域出身。鹿児島県立第二鹿児島中学校(鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1948年に熊本工業専門学校冶金学科(現熊本大学工学部)を卒業し、同年に三井鉱山に入社した。神岡鉱山(岐阜県)や竹原製錬所(広島県)で製錬技術者として業務に従事。竹原製錬所の労組委員長も務めた。三井鉱山から1950年に神岡鉱業が分離し1952年に三井鉱山から三井金属鉱業に社名変更した後は、三井金属鉱業勤務。1981年に取締役に就任し、1984年6月に常務、1987年6月に専務、1989年6月に副社長を経て、1990年6月には社長に就任した。
寺田 雷太(てらだ らいた、1926年10月13日 - )は… 寺田 雷太(てらだ らいた、1926年10月13日 - )は、愛知県出身のプロ野球選手(外野手)。
中村 雄二郎(なかむら ゆうじろう、1925年(大正14年)… 中村 雄二郎(なかむら ゆうじろう、1925年(大正14年)10月13日 - 2017年(平成29年)8月26日)は、日本の哲学者、評論家、文学博士。明治大学名誉教授。 東大哲学科卒。卒業後、文化放送に就職するが、1955年から明大に勤務し、1964年に教授となった。 早くからフランス人文主義に関心をもち、パスカルやデカルトを研究し『パスカルとその時代』(1965年)を書く。一方、近代合理主義を厳しく批判し、感性や情念の正当な位置づけを試みて『感性の覚醒』(1975年)を著した。また人間存在を根源から回復させる方法として、人間の共通感覚を重視する『共通感覚論』(1979年)を執筆。現代日本を代表する国際的な哲学者の一人。
森本 哲郎(もりもと てつろう、1925年〈大正14年〉10… 森本 哲郎(もりもと てつろう、1925年〈大正14年〉10月13日 - 2014年〈平成26年〉1月5日)は、日本のジャーナリスト、評論家。東京新聞記者、朝日新聞記者を経て評論家に転身し、東京女子大学教授なども歴任した。 東京府生まれ。府立十中、府立高等学校を経て、1948年(昭和23年)、東京大学文学部哲学科を卒業。文学部時代には風刺雑誌『VAN』の編集長を務めた。大学院に進学し、翌年には在学のまま東京新聞社に入社、社会部記者となる。1950年(昭和24年)、東京大学大学院文学研究科社会学専攻修士課程を修了。 1953年(昭和28年)、招聘を受けて朝日新聞社に移り、学芸部に籍を置く。1954年(昭和29年)2月、マリリン・モンローが来日した際には握手を交わした。
木村 利三郎(きむら りさぶろう、1924年10月13日 -… 木村 利三郎(きむら りさぶろう、1924年10月13日 - 2014年5月17日)は、日本の画家、版画家。ニューヨークで活動し、都市を主題とした作品群を多く手掛けた。 神奈川県横須賀市出身。1947年神奈川師範学校(現・横浜国立大学)卒業。国語教師を経て法政大学文学部哲学科に学び、谷川徹三に師事。美術評論家を志して久保貞次郎の創造美育運動に関わり、靉嘔、池田満寿夫らと知り合う。 その後は画家に転じて、1964年に渡米。マンハッタンにアトリエを構え、シルクスクリーンの作品を発表した。
山田 豊三郎(やまだ とよさぶろう、1922年(大正11年)… 山田 豊三郎(やまだ とよさぶろう、1922年(大正11年)10月13日 - 2009年(平成21年)7月18日)は、日本の政治家。第21代大津市長(1980年 - 2004年)。 市助役などを務めた後、6期にわたり大津市長を務め市の都市整備などを行った。「豊さん」、「山豊さん」のあだ名で親しまれた。元全国市長会相談役。大津市名誉市民。旭日中綬章。趣味は映画、歌謡、ダンス。 滋賀県野洲郡玉津村赤野井(現・守山市)の農家、堀出家に出生。のち、大津市出身の山田美惠子と結婚し、山田姓に改める。 1943年11月に満州国立新京法政大学特修科経済学部卒業。1944年、学徒出陣で遼陽の第33連隊に配属、第120師団輕重隊に配属される。
塩川 正十郎(しおかわ まさじゅうろう、1921年〈大正10… 塩川 正十郎(しおかわ まさじゅうろう、1921年〈大正10年〉10月13日 - 2015年〈平成27年〉9月19日)は、日本の政治家。位階は正三位。 自由民主党から立候補し衆議院議員(11期)。この間財務大臣(第2代)、自治大臣(第42代)、国家公安委員会委員長(第52代)、内閣官房長官(第50代)、文部大臣(第108代)、運輸大臣(第52代)、自由民主党総務会長などを歴任。 財団法人国民政治協会(自民党の政治資金団体)会長、財団法人自由国民会議(同党の党友組織)所属。 その他、東洋大学総長、財団法人関西棋院理事長、特定非営利活動法人武士道協会理事長、『ベストヒット歌謡祭』(旧『全日本有線放送大賞』)実行委員会名誉会長なども務めた。
末廣 重二(すえひろ しげじ、1921年10月13日 - 2… 末廣 重二(すえひろ しげじ、1921年10月13日 - 2003年12月8日)は、日本の国土交通技官、理学博士。気象庁長官を務めた。 東京都出身。1946年に名古屋帝国大学理学部を卒業し、同年に気象庁に入庁。1979年に観測部長を経て、1983年4月から1985年3月までに長官を務めた。 1994年11月に勲二等瑞宝章を受章。 2003年12月8日に肺炎のために死去。82歳没。
小倉 馨(おぐら かおる、1920年(大正9年)10月13日… 小倉 馨(おぐら かおる、1920年(大正9年)10月13日 - 1979年(昭和54年)7月13日)は、広島平和文化センター事務局長、広島平和記念資料館館長等を歴任した広島市職員である。日系アメリカ人2世。 広島県佐伯郡廿日市町(現・廿日市市)出身である。1920年、両親のアメリカ在住中にワシントン州シアトル市で生まれた。現地の小学校を卒業後に帰国する。帰国後は旧制崇徳中学校を経て、1942年(昭和17年)に旧制山口高等商業学校(現・山口大学経済学部)を卒業し、兵役に就いてセレベス島で終戦を迎える。 1948年(昭和23年)から広島アメリカ文化センター、1953年(昭和28年)から東京国際文化会館に勤務している。
北本 正雄(きたもと まさお、1920年〈大正9年〉10月1… 北本 正雄(きたもと まさお、1920年〈大正9年〉10月13日 - 2023年〈令和5年〉3月12日)は、日本の政治家。位階は従四位。元東京都北区長。 東京府東京市王子区(現在の東京都北区)出身。 1950年(昭和25年)中央大学法学部を卒業する。 東京府北区に奉職し、同区立図書館長、教育委員会社会教育課長、財政課長、総務課長、総務部長、助役を歴任した。 1983年(昭和58年)北区長に就任、2003年(平成15年)まで5期20年務める。 2023年(令和5年)3月12日に死去。102歳没。日本政府は没日付にて従四位に追叙した。
野田 只夫(のだ ただお 1920年10月13日 – 200… 野田 只夫(のだ ただお 1920年10月13日 – 2009年5月13日)は、日本の歴史家。 京都府生まれ。1941年に京都府師範学校本科を、1942年に同校専攻科を卒業。その後終戦まで兵役につき、1947年に立命館大学文学部史学科に入学し、1950年に卒業。卒業論文は「酒屋土倉の一考察」。同年、京都学芸大学助手に任じられ、1960年に同大学助教授に昇任。1966年に京都教育大学助教授となり、1975年に同大学教授に昇任。1984年に定年退官し、京都教育大学名誉教授。逝去にあたり、従四位に叙せられ、勲四等瑞宝小綬章を受章する。 専門は日本中世史で、社会経済史、文化史、部落史の研究につとめ、『丹波国山国荘史料』と『丹波国黒田村史料』の編さんを行ったことでも知られる。
服部 正也(はっとり まさや、1918年10月13日 - 1… 服部 正也(はっとり まさや、1918年10月13日 - 1999年11月29日)は、日本の銀行家、実業家。日本人初の世界銀行副総裁。 服部岱三・芳枝夫妻の長男として1918年(大正7年)三重県三重郡三重村(現:四日市市)に生まれる。幼少時は父の海外転勤に従いロンドンで7年間、上海で3年間を過ごした。長崎県の旧制大村中学校、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学法学部を卒業。卒業後台湾銀行に入行したがすぐ海軍予備学生となり、海軍大尉としてラバウルで終戦を迎え、そのまま現地で日本人戦犯の弁護人も務めた。 47年復員後日本銀行に入行。1950年フルブライト基金によりミネソタ大学大学院にて留学し財政、金融を学ぶ。
清水 義弘(しみず よしひろ、1917年(大正6年)10月1… 清水 義弘(しみず よしひろ、1917年(大正6年)10月13日 - 2007年(平成19年)1月7日)は、日本の教育社会学者。東京大学名誉教授。 佐賀県出身。1941年東京帝国大学社会学科卒。東京学芸大学助教授、東京大学教育学部助教授、1965年同教授、1978年定年退官、名誉教授、上智大学教授。1967年日本教育社会学会会長。中央教育審議会委員。地方自治体にも関わり、東京都大田区生涯学習振興会議会長なども務めた。
宮崎 道生(みやざき みちお、1917年10月13日 - 2… 宮崎 道生(みやざき みちお、1917年10月13日 - 2005年4月1日)は、日本史学者、新井白石の研究者。 三重県尾鷲市出身。1941年、東京帝国大学文学部国史学科卒業、文学部大学院、文学部副手・助手を経て、1945年、弘前高等学校教授。1949年、弘前大学文理学部助教授。1961年、文学博士。1965年、弘前大学人文学部教授、1972年、岡山大学法文学部教授。1978年、國學院大學教授。1988年、定年退任、講師となる。1991年退任。1997年春、勲三等瑞宝章受勲。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
田村 良平(たむら りょうへい、1917年10月13日 - … 田村 良平(たむら りょうへい、1917年10月13日 - 1995年12月16日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(7期)。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問 。元自民党参議院議員の田村公平は長男。 高知県土佐山田町(現香美市)で、政治家・田村實、淑美の三男として生まれる。1940年早稲田大学政治経済学部卒。1947年に高知県議に初当選。5期務めた。1963年の第30回衆議院議員総選挙で吉田茂元首相の後継者として高知県全県区から立候補し当選する(当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・藤尾正行・佐藤孝行・中川一郎・三原朝雄・鯨岡兵輔・西岡武夫・奥野誠亮など)。
山中 清一郎(やまなか せいいちろう、1916年10月13日… 山中 清一郎(やまなか せいいちろう、1916年10月13日 - 2002年12月11日)は、日本の経営者。三井信託銀行社長を務めた。東京都出身。 1939年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に三井信託銀行に入行。同年、短期現役海軍主計科士官(2期)を志願。同年5月、海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。同年9月に卒業。第三遣支艦隊司令部付・瑞穂に配属。以後、威海衛陸戦隊付、軍令部出仕兼海軍省出仕軍需局第三課勤務を歴任し、1941年5月、主計大尉に昇進。1942年5月、新竹海軍航空隊副官兼主計長に就任し、1943年7月、予備役に編入。1944年1月、召集され第一軍需部(上海)員に任じられ、上海衣糧廠糧食課長に転じ、同年11月、海軍主計少佐に昇進した。
志村 敏夫(しむら としお、1914年10月13日 - 19… 志村 敏夫(しむら としお、1914年10月13日 - 1980年7月7日)は、日本の脚本家、映画監督である。 1914年(大正3年)10月13日、静岡県志太郡島田町(現在の同県島田市)に生まれる。 1936年(昭和11年)、22歳になるころ、高田稔の高田プロダクションと新興キネマが共同製作した牛原虚彦監督の『五々の春』に脚本参加する。1940年(昭和15年)には、東宝映画に所属し、斎藤寅次郎監督作の脚本を書いた。 第二次世界大戦後、1947年(昭和22年)、新東宝設立に参加、萩原遼監督『大江戸の鬼』でチーフ助監督を務める。1948年(昭和23年)、同社と竹井プロダクションの共同製作作品『群狼』で監督としてデビューする。
穂積驚(ほづみ みはる、1912年10月13日 - 1980… 穂積驚(ほづみ みはる、1912年10月13日 - 1980年1月19日)は長崎県出身の小説家である。本名は森健二(もりけんじ)。
朝田 静夫(あさだ しずお、1911年10月13日 - 19… 朝田 静夫(あさだ しずお、1911年10月13日 - 1996年11月8日)は、元運輸事務次官および元日本航空社長。大阪府大阪市出身。丸紅社長の朝田照男は長男。 朝田栄治郎・玉夫妻の次男として生まれる。妻の久子は東洋綿花(現・トーメン)元代表取締役・田中彦三郎の長女。弟の朝田能雄は京都大学卒業後、三和銀行本店総務部長を経て、トーヨー・アド取締役社長を務めた。 生野中学、旧制浪速高校を経て、東京帝国大学法学部を卒業し、逓信省(総務省、日本郵政の前身)に入省。本所郵便局に配属。戦後の省庁再編で運輸省に移り、官房長、海運局長を経て、事務方トップの事務次官に就任。海運業界再編などを手掛けた。 退官後、政府の特殊会社だった日本航空に取締役として入社(天下り)、専務、副社長を経て、1971年社長に就任。
榊原 仟(さかきばら しげる、1910年(明治43年)10月… 榊原 仟(さかきばら しげる、1910年(明治43年)10月13日 - 1979年(昭和54年)9月28日)は、日本の医学者。心臓外科の世界的権威として知られた。 福井県福井市宝永上町に開業医の四男として生まれ、兄に榊原亨がいる。幕臣・榊原職直の後裔である。 旧制福井中学(現福井県立藤島高等学校)を経て、第六高等学校時代の1930年(昭和5年)、帝大生であった次兄・周と上京中の母が和田倉門辺りでタクシー乗車中に交通事故に遭い、母は頸髄損傷が元で、周も間もなく亡くなった。その後東京帝国大学に進み医学部を卒業。都築正男教授の医学部第二外科講座に入局。大学同期に、若月俊一、津川武一、近藤宏二など。 第二次世界大戦中は軍医としてフィリピン戦線に従軍し、1943年(昭和18年)には東京帝大医学部の支援で同仁会が設立した上海同仁大学の教授として赴任するが、日本の降伏後に同大は接収されたため、46年に帰国し東京帝大医学部第二外科講座で医局長を担う。
岸井 明(きしい あきら、1910年10月13日 - 196… 岸井 明(きしい あきら、1910年10月13日 - 1965年7月3日)は日本のコメディアン、俳優、歌手。
大津 正(おおつ まさし、1909年10月13日 - 199… 大津 正(おおつ まさし、1909年10月13日 - 1997年1月29日)は、日本の政治家秘書。共に内閣総理大臣となった岸信介・佐藤栄作兄弟の下で秘書を務めた。山口県熊毛郡田布施町生まれで、この二人とは同郷である。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、政治に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 政治学/ウィキプロジェクト 政治)。
次田 真幸(つぎた まさき、1909年(明治42年)10月1… 次田 真幸(つぎた まさき、1909年(明治42年)10月13日 - 1983年(昭和58年)11月15日)は、上代日本文学者。 妻・万貴は、文学博士田中義能の四女。弟次田香澄は中世日本文学者。 東京小石川に生まれる。父の次田潤は国文学者で、その長男。父の転勤にしたがい鹿児島、釜山、伊勢、鹿児島、佐賀、東京と移転、水戸高等学校(旧制)卒、1933年東京帝国大学文学部国文科卒。 1937年第四高等学校教授、40年第二高等学校教授、43年東京女子高等師範学校教授、49年お茶の水女子大学助教授、53年教授、75年定年退官、名誉教授、幾徳工業大学教授。80年退職。没後正四位。
松野 幸泰(まつの ゆきやす、1908年(明治41年)10月… 松野 幸泰(まつの ゆきやす、1908年(明治41年)10月13日 - 2006年(平成18年)5月22日)は、日本の政治家。岐阜県知事、自由民主党衆議院議員。孫は自民党衆議院議員の棚橋泰文。妻は43年間穂積村・町長(現:瑞穂市)を務めた松野友。子に元岐阜県議会議員松野幸昭と前瑞穂市長の松野幸信がいる。 岐阜県本巣郡穂積村(現・瑞穂市)出身。名古屋育英商業学校(現:東邦高校)卒業、岐阜県農業講習所(現:岐阜農林大学校)入所。その後、兵役を経て、家業の農業に従事した後、1933年(昭和8年)9月「松野メリヤス」を創業。 穂積村会議員で、戦時中は翼壮の構成員となる。そのため戦後は公職追放を受ける。追放解除後は岐阜県会議員、岐阜県議会議長を経て、1958年(昭和33年)10月、岐阜県知事選に出馬し初当選。
松本 秋男(まつもと あきお、1908年〈明治41年〉10月… 松本 秋男(まつもと あきお、1908年〈明治41年〉10月13日 - 1992年〈平成4年〉1月2日)は、日本の工学者・元官僚。工学博士。北海道大学名誉教授、元北見工業大学学長、元電気通信学会副会長。北海道札幌市出身。 1931年(昭和6年)北海道帝国大学工学部を卒業し、逓信省入省。国際電気通信(現KDDI)技術研究所長などを経て、1947年(昭和22年)北海道大学工学部教授。1959年(昭和34年)電気通信学会副会長。1970年(昭和45年)北海道大学停年退官。同名誉教授。1970年(昭和45年)北見工業大学理事・北見工業大学2代学長に就任。1978年北見工業大学退官。 電気工学を専門とし、伝達回路網学を研究。
星川 長七(ほしかわ ちょうしち、1908年10月13日 -… 星川 長七(ほしかわ ちょうしち、1908年10月13日 - 1996年9月17日)は、日本の法学者。 山形県新庄市出身。早稲田大学法学部卒業。早稲田大学法学部教授を務めた後、1987年から1991年まで初代駿河台大学学長を務めた。1980年、勲三等瑞宝章を受章。1996年9月17日、腎不全のため死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
福田 篤泰(ふくだ とくやす、1906年10月13日 - 1… 福田 篤泰(ふくだ とくやす、1906年10月13日 - 1993年8月7日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(10期)、総理府総務長官、行政管理庁長官、郵政大臣などを歴任した。 東京府出身。府立第三中学校、旧制浦和高等学校を経て、1930年東京帝国大学経済学部を卒業後、外務省に入省。情報局秘書課長などを経て吉田茂首相秘書官となる。吉田の名代として林譲治や益谷秀次との折衝を任されるなど信頼を得ていた。 1949年第24回衆議院議員総選挙に旧東京7区から民主自由党公認で立候補し当選、以後当選10回で、吉田政権時代の中央官僚出身政治家にしては珍しく、保守合同後は大野伴睦派-村上勇派-三木武夫派と、党人派系の派閥を遍歴している。
徳田 御稔(とくだ みとし、1906年10月13日 - 19… 徳田 御稔(とくだ みとし、1906年10月13日 - 1975年1月29日)は、日本の動物学者。 兵庫県神戸市に生まれる。北海道帝国大学農学部を卒業後、京都帝国大学理学部大学院に進学、第1講座駒井卓教授の指導を受けた。大学院入学後から、日本および近隣の大陸や島嶼のネズミ類の分類・生物地理の研究を精力的に行い、1941年には日本動物学会賞を受賞した。しかし、第2次世界大戦後は進化学やルイセンコ論争への啓蒙的な活動が主となり、戦前・戦中に行ったネズミ類分類の研究には関与しなくなった。ルイセンコ派として佐藤七郎らと共に、獲得形質が遺伝することを薬剤耐性の獲得で説明しようと試みたが(「ヤロビ農法」も参照のこと)、駒井卓は反ルイセンコ派の急先鋒となっていった。
大村 英之助(おおむら えいのすけ、1905年10月13日 … 大村 英之助(おおむら えいのすけ、1905年10月13日 - 1986年3月23日)は、日本の映画プロデューサー、実業家。 1935年、芸術映画社社長となり、文部大臣賞を受けた石本統吉監督の記録映画『雪國』、瀬尾光世監督・撮影の長編アニメーション映画『桃太郎の海鷲』のプロデューサーとしても知られる。戦後も1961年、持永只仁、松本酉三とともに、人形アニメの会社「MOMプロダクション」(後にビデオ東京プロダクションに再編)を設立。第7回モスクワ国際映画祭児童映画部門銀賞、1972年度教育映画祭最高賞を受賞した人形アニメーション『てんまのとらやん』の企画を担当した。 一方、東京帝国大学経済学部在学中に日本共産党に入党し、地下活動に入り、何度も検挙され、戦後は一時、日本共産党の文化部長を務める。
関 英男(せき ひでお、1905年(明治38年)10月13日… 関 英男(せき ひでお、1905年(明治38年)10月13日 - 2001年(平成13年)12月16日)は日本の電気工学者。 山形県出身。1932年(昭和7年)東京工業大学電気工学科卒業。逓信省小山送信所勤務、高電力短波送信機の運用保守に従事。1934年(昭和9年) 逓信省福岡受信所勤務、雑音の研究を行う。 1955年(昭和30年) 退官、岩崎通信機技師長に就任。シンクロスコープの開発に尽力。工学博士。東京工業大学・ハワイ大学・電気通信大学・千葉工業大学・東海大学の教授を歴任。電子情報通信学会名誉会員、IEEEフェロー。紫綬褒章、勲三等瑞宝章受章。電波工学の世界的権威として知られ、当時の最先端技術を牽引した。
石橋 英樹(いしばし ひでき、1904年10月13日 - 没… 石橋 英樹(いしばし ひでき、1904年10月13日 - 没年不詳)は、日本の実業家、電気技術者。 石橋茂樹の長男として、福岡県に生まれる。1922年福岡県立中学修猷館、1925年3月旧制福岡高等学校理科甲類を経て、1928年九州帝国大学工学部電気工学科を卒業。 1928年三菱電機神戸製作所に入社。同年から1930年まで米国ウェスティングハウス社に留学。1954年技術部長、1958年神戸製作所長を経て、1960年11月取締役となる。1963年11月電子事業部長を委嘱される。1966年11月退任。 1967年5月三菱プレシジョン副社長を経て、1969年5月社長に就任。
吉満 義彦(よしみつ よしひこ、1904年〈明治37年〉10… 吉満 義彦(よしみつ よしひこ、1904年〈明治37年〉10月13日 - 1945年〈昭和20年〉10月23日)は、日本の哲学者。日本における最初のキリスト教哲学者。 鹿児島県奄美群島徳之島の亀津(現大島郡徳之島町)出身。鹿児島一中、第一高等学校文科丙類(仏語)を経て、1928年東京帝国大学倫理学科卒。在学中、岩下壮一に出会いプロテスタントからカトリックに改宗。フランスでジャック・マリタンに師事。1931年上智大学講師、東京公教神学校講師。雑誌『創造』、『カトリック研究』などに寄稿。また、戦時中の「近代の超克」企画に参画した。
万沢 遼(まんざわ とおし、1904年10月13日 - 19… 万沢 遼(まんざわ とおし、1904年10月13日 - 1993年8月11日)は、日本の文学者、翻訳家。 北海道出身。1927年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒、獨協学園高等学校教諭、獨協大学教授。1975年定年、名誉教授。ドイツ語、英語などの翻訳を行った。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
鈴木 重義(すずき しげよし、1902年10月13日 - 1… 鈴木 重義(すずき しげよし、1902年10月13日 - 1971年12月20日)は、福島県出身のサッカー選手、サッカー指導者。1936年のベルリンオリンピックのサッカー日本代表監督を務めた。 豊島師範附属小学校、東京高等師範学校附属中学校から1920年に早稲田高等学院に入学。同校でサッカー部(ア式蹴球部)を設立した。在学中、ビルマ人留学生チョウ・ディンからショートパス等の蹴球指導を受け、実力を伸ばした。 1923年に早稲田大学に入学。1924年にア式蹴球部を創設した。在学中、野津謙らと全国高等学校ア式蹴球大会を開催した。 1927年、上海で開催された第8回極東大会のサッカー日本代表に選出され、主将としてフィリピン代表戦では先制ゴールを決めるなど、日本代表として最初の国際大会勝利に貢献した。
小川 マリ(おがわ まり、1901年10月13日 - 200… 小川 マリ(おがわ まり、1901年10月13日 - 2006年5月8日)は、日本の洋画家。日本の女性洋画家の草分け。本名は三雲 マリ。夫は三雲祥之助。 北海道札幌市出身。父は北海道で最初の百貨店である五番館を設立した小川二郎。兄は北海道開発局2代目局長を務めた小川譲二。庁立札幌高等女学校(現北海道札幌北高等学校)、東京女子大学卒業。大学職員として勤務しながら、武蔵野の風景に魅せられ、独学で洋画を始める。1932年に独立美術協会展に初入選し、1938年頃から画業に専念。 太平洋戦争中は札幌に疎開し、1945年に三雲祥之助と結婚。夫婦で全道美術協会(全道展)創立に参画。札幌洋画研究所の講師も夫婦で務めた。
布川 角左衛門(ぬのかわ かくざえもん、1901年10月13… 布川 角左衛門(ぬのかわ かくざえもん、1901年10月13日 - 1996年1月29日)は日本の編集者、実業家。栗田出版販売会長、筑摩書房代表取締役、普連土学園理事長。 新潟県長岡市生まれ。父母の離婚後、父に引き取られ、小学校1年から静岡県沼津市にて義母に育てられる。 旧制沼津中学校(静岡県立沼津東高等学校)を経て法政大学文学部哲学科に進み、野上豊一郎や安倍能成に師事する。 1928年、岩波書店編集部に入社し、岩波文庫、岩波全書などの編集にあたる。1945年、終戦後、東京拘置所から三木清の遺体を東畑精一と引き取り、荷車を借りて東畑邸まで運ぶ。1956年、編集部長を最後に55歳で定年退職した後、63歳で栗田出版販売の社長に就任。
濱 徳太郎(はま とくたろう、1901年(明治34年)10月… 濱 徳太郎(はま とくたろう、1901年(明治34年)10月13日 - 1975年(昭和50年)5月29日)は、日本の美学者、作曲家。 長野県諏訪郡湊村(現岡谷市)の素封家の出身。長野県諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、慶應義塾普通部卒業後、松本高等学校 (旧制)理科乙類に入学。在学中にオーケストラを結成、同校初期の寮歌である「春寂寥」「夕暮るる」「血は燃えさかる(雲にうそぶく)」を作曲し、6年間在籍した。東京帝国大学文学部で美学を専攻し、オートバイや自動車に強く惹かれる。1928年に卒業、大学院に進み、建築史を研究する。1931年、帝国美術学校(武蔵野美術大学の前身)教授。1932年5月から1935年11月までヨーロッパ留学。
西田 隆男(にしだ たかお、1901年〈明治34年〉10月1… 西田 隆男(にしだ たかお、1901年〈明治34年〉10月13日 - 1967年〈昭和42年〉9月21日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)、労働大臣(第10代)。 福岡県嘉穂郡稲築町(現嘉麻市)に生まれる。1924年早稲田大学専門部法科を卒業。炭鉱夫から身を起こし、やがて筑前炭鉱・第二筑前炭鉱の経営者となる。1947年、第23回衆議院議員総選挙に旧福岡2区より立候補し当選。民主党に所属する。炭鉱国管疑獄では、1948年衆議院不当財産取引調査委員会に証人喚問されている。その後、参議院福岡県選挙区に転じ2回当選。国民民主党解党後の改進党結党には参加せず、院内会派民主クラブに参加した。
田中 弥(たなか わたる、1900年10月13日 - 193… 田中 弥(たなか わたる、1900年10月13日 - 1936年10月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大尉。