岩男 頴一(いわお ひでかず、1919年(大正8年)1月15… 岩男 頴一(いわお ひでかず、1919年(大正8年)1月15日 - 1976年(昭和51年)8月9日)は、昭和期の医師、政治家。参議院議員、大分県大分郡湯布院町長。 大分県速見郡、のちの由布院村(由布院町、大分郡由布院町、湯布院町を経て現由布市)で生まれた。大分中学校(現大分県立大分上野丘高等学校)を経て、1943年(昭和18年)日本大学医学科を卒業した。同年に応召し陸軍軍医として従軍した。 復員後に帰郷し岩男医院を継承した。由布院町青年団長、大分郡連合青年団長なども務め、1952年(昭和27年)の由布院盆地ダム化計画に対して反対運動を行い、計画の中止に貢献した。 1955年(昭和30年)湯布院町の発足に伴い初代町長に就任して5期在任した。
吉野 益(よしの ます、1918年〈大正7年〉1月15日 -… 吉野 益(よしの ます、1918年〈大正7年〉1月15日 - 2015年〈平成27年〉2月1日)は、日本の政治家。群馬県藤岡市長(4期)。旧姓・塚越。 群馬県藤岡市出身。群馬県立藤岡中学校(現在の群馬県立藤岡高等学校)卒業。東京中央郵便局に2年間勤務した後、1939年(昭和14年)宇都宮野砲兵第20連隊に入営し、中国大陸に派遣され帰国。1943年(昭和18年)吉野家に婿入りする。群馬県経済連に入り、多野支所長、経済連資材、肥料、畜産の各課長、畜産部長、参事を歴任する。その後、全国食肉学校理事、同副校長となる。 1978年(昭和53年)藤岡市長選挙に当選。市長就任後は、畜産の振興など産業育成策を進め、また、小中学校の新校舎の建設や都市計画事業、環境衛生施設の整備など長期的な発展力のある街づくりを目指した。
安部 舜一(あべ しゅんいち、1918年1月15日 - 20… 安部 舜一(あべ しゅんいち、1918年1月15日 - 2003年10月26日)は、日本の経営者。熊本日日新聞社社長、会長を務めた。熊本県出身。 1938年に鹿児島高等商業学校経済学科を卒業し、同年に南洋拓殖に入社。1946年7月に熊本日日新聞社に転じ、1968年に取締役に就任し、1971年に常務、1973年に専務を経て、1977年5月に社長に就任。1985年12月に会長に就任。 1988年11月に勲二等旭日重光章を受章。 2003年10月26日多臓器不全のために死去。85歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
前田 義信(まえだ よしのぶ、1918年(大正7年)1月15… 前田 義信(まえだ よしのぶ、1918年(大正7年)1月15日 - 2004年(平成16年)2月4日)は、日本の交通経済学者。 長崎県南高来郡島原町(現・島原市)に生まれる。1920年11月宇治山田市(現・伊勢市)に移住、1931年3月福岡市に移住し、1935年3月福岡県中学修猷館、1938年3月旧制福岡高等学校文科乙類を経て、1938年4月京都帝国大学経済学部に入学、1941年3月同大学の学士試験に合格する。 1941年4月辰馬汽船(後に合併により山下新日本汽船、ナビックスラインを経て現・商船三井)に入社するが、1948年3月に退社し、1950年10月京都大学経済学部大学院に入学、1956年3月に退学。
大口 駿一(おおぐち しゅんいち、1918年1月15日 - … 大口 駿一(おおぐち しゅんいち、1918年1月15日 - 1990年2月21日)は、日本の経営者。東京都出身。 1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に農林省に入省。1965年6月に大臣官房長に就任し、1966年7月に食糧庁長官を経て、1968年6月から1969年11月までに農林事務次官を務めた。 その後は、日本水産に転じ、1973年5月に専務に就任し、1980年6月には社長に就任した。1986年6月には会長に就任。 1990年2月21日心不全のために死去。72歳没。
岩月 収二(いわつき しゅうじ、1918年(大正7年)1月1… 岩月 収二(いわつき しゅうじ、1918年(大正7年)1月15日 - 2005年(平成17年)9月7日)は、日本の政治家。元愛知県安城市長(3期)。位階は従五位。 愛知県安城町(現・安城市)出身。安城町立青年学校を経て、1938年(昭和13年)3月に満州国公主嶺陸軍航空隊第七教育隊に入隊。1941年(昭和16年)3月、陸軍航空技術学校卒業。1944年(昭和19年)7月、少尉候補者試験に合格。 1946年(昭和21年)、安城町役場に奉職。1958年(昭和33年)、自治大学校卒業。総務部長時代、東海道新幹線建設に先立って用地買収に奔走した。1969年(昭和44年)5月、助役に就任。 1979年(昭和54年)の安城市長選に向けて、「市長選はしこりが残るような争いをしない方がいい」と考えた杉浦正行県議が中心となり、候補者擁立を目的とする団体「住みよい安城をつくる市民の会」が作られる。
牧野 潔(まきの きよし、1917年1月15日 - 没年不明… 牧野 潔(まきの きよし、1917年1月15日 - 没年不明)は、愛知県出身の元プロ野球選手。 旧名古屋第二商業学校(現名古屋市立西陵高等学校)卒業後、名古屋軍(現中日ドラゴンズ)に所属した。 1936年4月29日にプロ野球初めてリーグ戦の試合、名古屋軍対大東京軍が甲子園球場で行われ、その試合にて、先発を務めた投手である。しかし、1安打1四球1犠打で1点を失い、1死も取れないまま降板した(試合は8対5で名古屋軍が勝利している。牧野の後を投げたハーバート・ノースが勝利投手になっている。)およそ1年間の所属後、審判や社会人野球の監督などを務めた。また親戚に元近鉄バファローズの伊藤栄祐(現北海道日本ハムファイターズ打撃投手)と明治安田生命の鈴木亮がいる。
山田 耕三郎(やまだ こうざぶろう、1917年(大正6年)1… 山田 耕三郎(やまだ こうざぶろう、1917年(大正6年)1月15日 ‐ 2012年(平成24年)9月22日)は、日本の政治家。滋賀県下阪本村長、大津市議会議員、滋賀県議会議員を歴任。第20代大津市長(2期)となり、革新派の市長として福祉事業などを推進、「福祉の山耕」と呼ばれた。その後参議院議員を2期務め、一の会や連合参議院に加わった。大津市名誉市民。 1934年、滋賀県立膳所中学校(現・滋賀県立膳所高等学校)を卒業、1935年4月に島津製作所に入社。 1949年4月に下坂本村長となり、村長として大津市との合併に反対したが、在任中の1950年に合併した。1951年4月から1959年4月まで大津市議会議員を務め、在日米軍の大津キャンプ返還運動を主導した。
河田 敬義(かわだ ゆきよし、1916年1月15日 - 19… 河田 敬義(かわだ ゆきよし、1916年1月15日 - 1993年10月28日)は、日本の数学者。東京大学名誉教授。第6代統計数理研究所所長。 1916年生まれ。 東京高等学校理科乙類で学び、1935年3月に卒業。同年4月、東京帝国大学理学部数学科に入学。1938年(昭和13年)3月に卒業し、4月より東京帝国大学大学院に進んだ。1938年4月、東京帝国大学理学部副手に採用される。1939年7月、同大学理学部助手に昇進。1939年7月、東京帝国大学大学院を退学した。1941年3月、 東京文理科大学講師に就いた。同年10月、助教授昇任。 太平洋戦争終結後の1945年12月、東京大学に学位論文を提出して理学博士の学位を取得。
木下 忠良(きのした ただよし、1916年〈大正5年〉1月1… 木下 忠良(きのした ただよし、1916年〈大正5年〉1月15日 - 1991年〈平成3年〉8月17日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。兵庫県姫路市出身。 1934年(昭和9年)旧制姫路高等学校文科乙類卒業[要出典]。1937年(昭和12年)東京帝国大学法科を卒業。同年に司法官試補。裁判官生活は浦和、福岡、水戸、東京、大阪と各地に及び、大阪高裁判事、旭川地・家裁所長を経て、1970年(昭和45年)に大阪地裁所長に就任。その後、1975年(昭和50年)10月に仙台高裁長官、1977年(昭和52年)9月に大阪高裁長官に就任。 1979年(昭和54年)3月1日に最高裁判所判事に就任。裁判官出身の最高裁判事としては珍しく最高裁事務総局勤務が無かった。
吉田 昇(よしだ のぼる、1916年1月15日 - 1979… 吉田 昇(よしだ のぼる、1916年1月15日 - 1979年1月22日)は、日本の教育学者。祖父は井上哲次郎。 東京の生まれ。1939年に東京帝国大学文学部教育学科を卒業後、東京帝国大学大学院に入学する。1942年に卒業後は教育方法学や社会教育学を専門に研究し、1958年にはお茶の水女子大学教授となった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
渡辺 秀(わたなべ しゅう、1916年(大正5年)1月15日… 渡辺 秀(わたなべ しゅう、1916年(大正5年)1月15日 - 2000年(平成12年)1月31日)は、日本の倫理学、哲学者。 東京生まれ。1939年東京帝国大学文学部倫理学科卒、上智大学文学部助教授、教授。1987年定年、名誉教授。 2000年1月31日、肺炎のため死去。
高橋 秀俊(たかはし ひでとし、1915年1月15日 - 1… 高橋 秀俊(たかはし ひでとし、1915年1月15日 - 1985年6月30日)は、日本の物理学者。日本のコンピュータのパイオニア。理学博士(東京大学)。東京大学名誉教授。文化功労者。正四位勲二等旭日重光章に叙される。東京府豊多摩郡代々幡村(現・東京都渋谷区代々木)生まれ。 父の高橋穣は、心理学者・倫理学者で東北帝国大学教授や学習院大学教授を務めた。心理学者・元良勇次郎の孫。船舶工学者・元良誠三の従兄。 1937年に東京帝国大学(現・東京大学)理学部物理学科を卒業し、助手に就任。1942年に助教授に、1957年に教授に昇任した。 早くから電磁気学、特に回路論的思考を深く身につけ、分野にとらわれない自由な発想で数多の卓越した研究を行った。
重光 晶(しげみつ あきら、1915年1月15日 - 200… 重光 晶(しげみつ あきら、1915年1月15日 - 2000年8月27日)は、日本の外交官、外交評論家。位階は正三位。 外務省国際連合局長を経て、駐ナイジェリア特命全権大使や、駐ソビエト連邦特命全権大使を務めた。重光葵元外務大臣の甥。 石川県金沢市生まれ。東京出身。1935年静岡高等学校文科丙類卒業。1936年東京帝国大学法学部政治学科に入学。1938年に外交官試験に合格し、大学を中退した。1939年に外務省に入省し、ポーランド、ラトビア、ブルガリアでロシア語研修を受ける。 1951年から外務省条約局第三課長を務め、1952年からは外交官領事館採用試験専門試験委員(憲法)や、外務書記採用試験専門試験委員も担当した。
村松 敏雄(むらまつ としお、1915年1月15日 - 19… 村松 敏雄(むらまつ としお、1915年1月15日 - 1995年5月2日)は、日本の経営者。近畿車輛社長を務めた。静岡県出身。 1939年に東京帝国大学法学部法科を卒業し。鉄道省、日本国有鉄道での勤務を経て、1964年5月に近畿車輛常務に就任し、1970年5月に専務を経て、1977年6月に副社長に就任し、1978年6月には社長に昇格。1986年6月には相談役に就任。 1995年5月2日心筋梗塞のために死去。80歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
木元 健太(きもと けんた、1915年〈大正4年〉1月15日… 木元 健太(きもと けんた、1915年〈大正4年〉1月15日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である。本名は木元 一郎(きもと いちろう)。館林 一郎(たてばやし いちろう)の名で脚本を提供したことがある。 1915年(大正4年)1月15日、群馬県邑楽郡館林町(現在の同県館林市)に生まれる。 明治大学文芸科に進学し、在学中は映画研究会に所属した。1936年(昭和11年)に明治大学を卒業。1937年(昭和12年)日活多摩川撮影所(のちの大映東京撮影所、現在の角川大映撮影所)助監督部に入社、内田吐夢(1936年 - 1940年在籍)、伊賀山正光(当時は正徳、1934年 - 1942年在籍)、春原政久(1934年 - 1941年在籍)、千葉泰樹(1934年 - 1939年在籍)、富岡捷(1938年 - 1939年在籍)らに師事した。
小山 清茂(こやま きよしげ、1914年〈大正3年〉1月15… 小山 清茂(こやま きよしげ、1914年〈大正3年〉1月15日 - 2009年〈平成21年〉6月6日)は、日本の作曲家。神楽や祭囃子をモチーフに、日本情緒に満ちた温和な作風に特徴がある。 長野県更級郡信里村(現在の長野市)の出身。生家は山深い里の農家で幼少期には西洋音楽に触れることがなかったという。その代わりに彼の周りには、村の祭礼音楽やさまざまな童歌、村人達がうたう即興の唄や民謡があふれていた。小学校の高学年のころ、近くの町で行われた陸軍戸山学校軍楽隊の演奏に触れ、極めて強い印象を受ける。後に彼はそのことについて、文章の中で「まるで夢のような体験だった」というような事を述べている。やがて旧制長野中学校(現在の長野県長野高等学校)に入学、ハーモニカ合奏や短歌に熱中するようになった。
奥原 次郎(おくはら じろう、1914年〈大正3年〉1月15… 奥原 次郎(おくはら じろう、1914年〈大正3年〉1月15日 - 2008年〈平成20年〉7月24日)は、日本の実業家。寿工業会長。呉商工会議所会頭。 広島県呉市出身。高小卒。1935年、広島県呉市阿賀町に奥原工作所を創設。1943年に奥原工作所を改組、東亜航空工業と改称。1952年、寿工業株式会社へ商号変更。東亜航空工業、呉繊維、寿工業各社長を務める。 1965年9月、トヨタカローラ山口取締役。1971年9月、サンデーサン(現・ジョリーパスタ)取締役。1974年8月、山口トヨペット取締役。1985年、郷原ゴルフ観光社長。黒瀬観光会長を務める。勲四等に叙せらる。トヨタオート広島代表取締役名誉会長となる。
奥村 正二(おくむら しょうじ、1913年1月15日 - 没… 奥村 正二(おくむら しょうじ、1913年1月15日 - 没年不詳)は、日本の技術史家。 滋賀県生まれ。1937年九州帝国大学工学部卒業。戦後は神田で弁理士を開業するかたわら、技術史に関する著作をなした。半世紀以上、神田に在住。
高橋 磌一(たかはし しんいち、1913年(大正2年)1月1… 高橋 磌一(たかはし しんいち、1913年(大正2年)1月15日 - 1985年(昭和60年)8月6日)は、昭和期の歴史学者(日本中世史・近世史)。歴史教育者協議会委員長などを歴任した。 東京府に生まれ、三多摩壮士の母方の祖父の下で小学生時代から『日本外史』の素読などに親しむ。 暁星中学校を経て昭和5年(1930年)に慶應義塾大学文学部予科、昭和8年(1933年)に文学部国史学科に入学し幸田成文の薫陶を受ける。昭和11年(1936年)に卒業し、大学院に籍を置く傍ら、錦秋高等女学校で文法を担当。昭和16年(1941年)に暁星中学校教諭となり、昭和17年(1942年)に召集。一度解除されるが、昭和20年(1945年)に再度招集を受け、中国に出征した。
大室 孟(おおむろ つとむ、1912年(明治45年)1月15… 大室 孟(おおむろ つとむ、1912年(明治45年)1月15日 - 2001年(平成13年)2月14日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官。最終階級は日本陸軍では陸軍少佐、航空自衛隊では航空幕僚長たる空将。 陸軍大佐大室勝の息子として生まれる。鹿児島一中、東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、陸軍士官学校本科に入校。日本陸軍時代は司令部偵察機操縦者として活躍し、特に日中戦争時には九七式司令部偵察機をもって多大な功績を挙げ、偵察隊としては異例の功四級金鵄勲章および個人感状拝受の栄誉を受ける。太平洋戦争時代は主に一〇〇式司令部偵察機「新司偵」を愛機として、各司偵隊の隊長を務めた。 戦後は公職追放を経て、航空自衛隊に入隊し、創設時は教官としてパイロットの養成に尽力した。
阿部 正三郎(あべ しょうざぶろう、1912年1月15日 -… 阿部 正三郎(あべ しょうざぶろう、1912年1月15日 - 1940年代)は、日本の俳優である。本名阿部 正太郎(あべ しょうたろう)、旧芸名片岡 市女男(かたおか しめお)。1930年代の松竹蒲田撮影所において、磯野秋雄、三井秀男(のちの三井弘次)との「与太者トリオ」で知られる。 1912年(明治45年)1月15日、東京府東京市浅草区阿部川町(現在の東京都台東区元浅草3-4丁目)に生まれる。生年月日については、『一九三三年版 オール松竹俳優名鑑』には同年「2月15日」とされている。父・阿部三之助は、芝居関係の仕事をしていた人物であるとされる。 数え年9歳になった1920年(大正9年)、父の仕事をきっかけに、新派の河合武雄一座に入門し、九州巡業で初舞台に立つ。
池田 満枝(いけだ みつえ、1912年〈明治45年〉1月15… 池田 満枝(いけだ みつえ、1912年〈明治45年〉1月15日 - 2001年〈平成13年〉1月9日)は、日本の58・59・60代内閣総理大臣である池田勇人の妻。広島県、現在の竹原市出身。 医師である大貫四郎吉の二女として生まれた。後に夫となる池田勇人とは、母親同士が従姉妹で再従兄妹に当たる。実兄の大貫修郎は陸軍少尉・軍医で、旧制崇徳中学校、旧制千葉医科大学を卒業し、戦後地元の竹原で開業医となった。 広島の名門である山中高等女学校在学中に父を亡くし、卒業式の前日に母・池田秀を亡くしている。その後、名古屋市の母方の親戚に引き取られ金城女子専門学校に進学し卒業。金城女子専門学校在学中に脚気にかかって地元の広島へ戻り、同じく母方の親戚である池田家に身を寄せたことがきっかけで、池田勇人と出会う。
島口 重次郎(しまぐち じゅうじろう、1912年〈明治45年… 島口 重次郎(しまぐち じゅうじろう、1912年〈明治45年〉1月15日 - 1968年〈昭和43年〉3月17日)は、日本の社会運動家、実業家、政治家。衆議院議員(3期)。 青森県弘前市で生まれる。小学校卒業後、市内のタンス店に職工として勤め、その後、無産運動に加わる。1932年、全農青年部青森県連合会執行委員に就任。1934年、日本共産党に入党したが、同年に検挙され懲役3年となり服役した。 戦後、日農の再建に尽力し、また日本社会党の結成に加わり、同青森県連選挙対策部長、同書記長、同委員長、弘前市議会議員、青森県議会議員などを務めた。 1958年5月、第28回衆議院議員総選挙に青森県第二区から出馬して当選。
東 愛吉(ひがし あいきち、1911年〈明治44年〉1月15… 東 愛吉(ひがし あいきち、1911年〈明治44年〉1月15日-1973年〈昭和48年〉6月19日)は、日本の陸軍軍人。終戦時の階級は陸軍少佐。栄典は勲四等瑞宝章。大日本帝国陸軍第7飛行師団の参謀や陸上自衛隊第13普通科連隊長などを務めた。 1911年1月15日、鹿児島県宮之城村(現さつま町)に生まれる。盈進小学校、鹿児島県立第二中学校(現・鹿児島県立甲南高校)を経て、陸軍士官学校(45期)、陸軍大学校を卒業。陸大の同期(55期)に三笠宮崇仁親王がいる。その後、太平洋戦争時は陸軍参謀本部に勤務。 戦後、帰郷し公職追放により軍人を辞めたが、1953年、追放解除後に勧誘を受けた警察予備隊に二等陸佐として横須賀市久里浜幹部学校に入隊した。
森 一生(もり かずお、1911年1月15日 - 1989年… 森 一生(もり かずお、1911年1月15日 - 1989年6月29日)は、日本の映画監督、演出家である。通り名で「もり いっせい」とも呼ばれる。
中村 通夫(なかむら みちお、1911年1月15日 - 20… 中村 通夫(なかむら みちお、1911年1月15日 - 2005年2月1日)は、日本の国語学者、中央大学名誉教授。 東京出身。1935年東京帝国大学文学部国文科卒。文部省勤務。戦後、中央大学助教授、教授。1981年、定年、名誉教授。 1953年、「『来れる』『見れる』『食べれる』などという言い方についての覚え書」(『金田一博士古稀記念言語·民俗論叢』三省堂)で、早い時期にら抜き言葉を指摘した人である。
松平 精(まつだいら ただし、1910年1月15日 - 20… 松平 精(まつだいら ただし、1910年1月15日 - 2000年8月4日)は、鉄道技術研究所(現:鉄道総合技術研究所)の技術者。 1910年、東京市浅草区に旧杵築藩主能見松平家の子爵・松平親信の三男として生まれる。 学習院高等科を経て、東京帝国大学(現:東京大学)工学部船舶工学科に進学。造船所の実習では肉体労働が多く、知識を使うところが少なく感じたが、三菱航空機の工場を見学すると学問的であるため、航空機の道を選択する。 1934年に大学卒業後、同年設立された海軍航空技術廠へ「有識工員」として入る。飛行機部研究科に配属されたが、1年間の現場実習の後、陸軍飛行連隊で1年間の兵役に就いた。 本格的な研究生活が始まったのは1936年のことで、当時海軍では1人も専門家がいなかった飛行機の振動問題を手掛けるよう命じられた。
李 燦(リ チャン、리찬、日本名:青葉薫、1910年1月15… 李 燦(リ チャン、리찬、日本名:青葉薫、1910年1月15日 - 1974年1月14日)は、「金日成将軍の歌 (김일성 장군의 노래)」の作詞などによって知られる朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の詩人。 咸鏡南道北青郡出身。京城第二高等普通学校(後の景福高等学校(朝鮮語版))を卒業し、日本の立教大学と早稲田大学に学んだ。この当時に、林和などと知り合い、社会主義系の文学運動に加わった。 1931年の冬至に結成された朝鮮プロレタリア芸術家同盟 (KAPF) に加わり、中央委員として活動した。1932年に検挙されて、約2年間、投獄の苦難を体験し、以後は故郷である北清に戻り、詩集を発表した。KAPFの活動をしていた初期には、現実参加的な叙述詩を書いたが、服役後に刊行した詩集『待望 (대망)』(1937年)、『焚香 (분향)』(1938年)、『望洋 (망양)』(1940年)には虚無的な情緒で、弱気な知識人としての苦悩を告白する内容が入っている。
千葉 元江(ちば もとえ、1909年(明治42年)1月15日… 千葉 元江(ちば もとえ、1909年(明治42年)1月15日 - 1992年(平成4年)11月5日)は日本の政治家。青森県青森市長(1期)。 青森県青森市出身。青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校)、官立弘前高等学校を経て、1933年、東京帝国大学法学部を卒業する。卒業後は陸軍に入り、翌年満期除隊。1937年に高等文官試験行政科に合格、翌年台湾総督府に入り、台中妙農林課長などを歴任した。太平洋戦争中の1942年に陸軍司政官となり、ビルマに派遣され、終戦を迎えた。1946年に復員した。 1947年、青森県庁に入り、人事課長、総務、商工水産の各部長などを経て、1949年に副知事に就任した。副知事は1952年まで務め、その後は青森県北洋漁業協同組合理事、同副組合長、鮭鱒漁業協同組合理事などを務めた。
打田 峻一(うちだ しゅんいち、1909年1月15日 - 1… 打田 峻一(うちだ しゅんいち、1909年1月15日 - 1992年6月19日)は、日本の法学者・弁護士・元国家公務員。 専修大学名誉教授。多数の門下生(研究者)を育てる。 「打田畯一」とも表記される。 1909年1月15日、東京市麹町区三番町に生まれる。東京府立第一中学校・第一高等学校を経て、1932年に東北帝国大学法文学部卒業、1934年には同大学院(旧制)修了。 その後、東京で弁護士として活動し、1945年東京大空襲の戦災に遭遇。再び東北大学の勝本正晃の下で助手を務め、1948年に衆議院法制局入局。1957年から1979年に定年退職するまで専修大学法学部教授にあった。1992年、脳梗塞のため死去。
木村 俊夫(きむら としお、1909年(明治42年)1月15… 木村 俊夫(きむら としお、1909年(明治42年)1月15日 - 1983年(昭和58年)12月1日)は、日本の政治家。元衆議院議員。 1909年(明治42年)三重県東員町生まれ。後に東員町名誉町民となる。祖父・木村誓太郎、父・木村秀興はいずれも衆議院議員。津中学校、第三高等学校 (旧制)文科丙類を経て、1938年(昭和13年)東京帝国大学法学部法律学科と政治学科を卒業。高等文官試験に合格して逓信省に入省。戦時下、逓信省と鉄道省が統合した運輸通信省を経て、運輸省に移る。戦後佐藤栄作に口説かれ、運輸省海運総局総務課長から政界に転身、1949年(昭和24年)の第24回衆議院議員総選挙で旧三重1区から保守系無所属で当選。
高橋 勇治(たかはし ゆうじ、1909年(明治42年)1月1… 高橋 勇治(たかはし ゆうじ、1909年(明治42年)1月15日 - 1992年(平成4年)2月6日)は、日本の外国法学者、東京大学社会科学研究所名誉教授。 高知県出身。旧制高知県立城北中学校、旧制高知高等学校、東京帝国大学法学部卒業。北京大学教授、敗戦で法政大学教授、1947年東京大学社会科学研究所助教授、1952年教授、1969年定年退官、名誉教授。千葉大学教授、1974年定年。没後正四位叙勲。中国憲法が専門で、戦後は中華人民共和国、北朝鮮の支持者となった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
福島 慎太郎(ふくしま しんたろう、1907年1月15日 -… 福島 慎太郎(ふくしま しんたろう、1907年1月15日 - 1987年4月2日)は、日本の外交官、内閣官房次長、調達庁長官。 東京都出身。礫川小学校、旧制府立五中、旧制一高を経て、東京帝国大学法学部卒。1930年に外務省入りし、英語研修(米国)、フィリピン在勤などを経て1947年から内閣総理大臣秘書官、同年終戦連絡大阪事務局長、1948年の大阪連絡大阪事務局長。同年芦田内閣では内閣官房次長(現在の内閣官房副長官)に就任。 1949年9月に毎日オリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)の球団社長となり、1951年からはパシフィック・リーグ会長も兼ねて日本プロフェッショナル野球協約制定の中心役となった。
木下 昇(きのした のぼる、1907年〈明治40年〉1月15… 木下 昇(きのした のぼる、1907年〈明治40年〉1月15日 - 没年不詳)は、日本の政治家。初代名和町長。 鳥取県出身。木下鶴吉の養嗣子となった。米子中学校(現・米子東高校)卒業後、農耕に精励する。民生委員、農業会常務理事、農業委員、県郡養蚕連副会長監事、小学校PTA会長、村会議員、鳥取県町村長会副会長等を歴任した。 1950年(昭和25年)11月から1954年(昭和29年)3月まで光徳村長を務めた。その後、合併で発足した名和町長を同年4月から1966年(昭和41年)4月まで務めた。 住所は鳥取県西伯郡名和町大字東坪(現・大山町東坪)。
竪山 利忠(たてやま としただ、1907年1月15日-199… 竪山 利忠(たてやま としただ、1907年1月15日-1993年12月6日)は、日本の労働運動家・社会学者(労働社会学)。創価大学名誉教授・拓殖大学元教授。戦前は社会主義運動から日本共産党で活動し、転向後は寧ろ反共・右派の労働運動の理論家となった。電機労連委員長から民間連合会長になった竪山利文は弟。 鹿児島県谷山村(現・鹿児島市の一部)松崎に生まれる。1924年3月、鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業。1926年3月に第七高等学校造士館 (旧制)文科を卒業し、同4月に東京帝国大学経済学部経済学科入学。帝大入学と同時に新人会に入り、浜松日本楽器大争議に派遣される。新人会幹事長を経て日本共産青年同盟に加盟。
真下 三郎(ましも さぶろう、1907年1月15日 - 20… 真下 三郎(ましも さぶろう、1907年1月15日 - 2007年3月7日)は、日本の国語学者、広島大学名誉教授。専攻は近世文学・国語学。女性語について研究した。 京都府京都市出身。1933年、東京帝国大学国語国文学科卒。広島文理科大学助教授、広島大学教授。1971年、定年退官、名誉教授、甲南女子大学教授。 2007年3月7日、慢性腎不全のため死去。100歳没。 真下は多彩な文献から多くの用例を収集し、そこから言語体系を抽出するよりも、個々の用例そのものを検討した。言語体系の抽出が現代言語学の要件だとすれば、一見すると真下は古いタイプの国語学者のように思えるが、そもそも真下が研究活動に従事していた当時は、ソシュールを批判した時枝誠記の言語過程説が強い影響力を持っていた時期でもあることから、真下が体系の抽出ではなく個々の用例に目を向けたのは、差異や体系に言語の本質を求めるソシュールへの批判が込められていたとされる。
渡辺 惣蔵(惣藏、わたなべ そうぞう、1907年(明治40年… 渡辺 惣蔵(惣藏、わたなべ そうぞう、1907年(明治40年)1月15日 - 1985年(昭和60年)1月25日)は、日本の社会運動家、政治家。衆議院議員。 北海道札幌郡札幌村大字苗穂村(現:札幌市東区苗穂町)で生まれる。小学校卒業後、農業をしながら通信教育で学び、1929年、日本大学専門部政治科を卒業。 日大在学中から無産政党運動に加わる。1932年、武蔵野館争議など多くの映画争議を指導した。全国大衆党中央委員、労農大衆党中央委員、社会大衆党中央委員、同中央青年隊長、全国労働組合同盟中央委員・出版部長、全国映画劇場従業員組合書記長、豊島区会議員などを歴任。1938年、人民戦線事件で検挙され一年半にわたり拘留された。
北原 覚雄(きたはら かくお、1906年1月15日 - 19… 北原 覚雄(きたはら かくお、1906年1月15日 - 1977年1月23日)は、日本の農芸化学者。専門は応用微生物学。 長野県上伊那郡長藤村(現・伊那市)生まれ。1923年旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)卒業、1926年旧制大阪高等工業学校卒業、1929年京都帝国大学農学部農林化学科卒業。同年京都帝大講師、助教授となり、1940年農学博士取得。1947年京都大学食糧科学研究所教授、1953年東京大学応用微生物研究所第1研究部(現・東京大学定量生命科学研究所)主任教授に転じた。1963年同大学同研究所所長。 1966年に退官、東京農業大学教授となり、1976年から同大客員教授となった。
池上 隆祐(いけがみ たかすけ、1906年(明治39年)1月… 池上 隆祐(いけがみ たかすけ、1906年(明治39年)1月15日 - 1986年(昭和61年)4月3日)は、日本の民俗学者、政治家。衆議院議員、信濃木崎夏期大学理事長。 1906年、長野県東筑摩郡松本町(現松本市)で、商家・池上良三の五男として生まれた。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校理科乙類を経て、東京帝国大学で学んだ。学生時代は柳田国男に師事し、赤羽一雄ら信州白樺派の教員とも交流を持った。 卒業後は農林省研究所に勤務。義兄の有賀喜左衛門とともに民俗学雑誌『郷土』の編集と発行にあたり、菅江真澄遊覧紀の刊行にあたっては信濃の部を担当した。長野県をたびたび訪れた折口信夫らとも交誼を深めた。
椎井 康雄(靖雄、しい やすお、1906年(明治39年)1月… 椎井 康雄(靖雄、しい やすお、1906年(明治39年)1月15日 - 1989年(平成元年)5月25日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 宮崎県宮崎郡佐土原町(現宮崎市)出身。1920年(大正9年)宮崎商業学校(現宮崎県立宮崎商業高等学校)を卒業した。 1937年(昭和12年)昭和水産合資会社常任理事に就任。その他、対満薬品工業社長、ツシマ化粧品社長、宮崎県運搬業組合長、社団法人華陽会理事会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で宮崎県地方区に日本社会党公認で出馬して当選(補欠、任期3年)し、参議院議員に1期在任した。その後、1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で全国区に立候補したが落選した。
藤原 釜足(ふじわら かまたり、1905年〈明治38年〉1月… 藤原 釜足(ふじわら かまたり、1905年〈明治38年〉1月15日 - 1985年〈昭和60年〉12月21日)は、日本の俳優。本名は安惠 重男、戦時中の芸名は藤原 鶏太。身長156cm。 実生活に根ざした芸風で知られた、黒澤明作品常連の名脇役。女優の沢村貞子は元妻。他に安恵一夫、藤原秀臣という芸名も用いた。 1905年1月15日、東京市深川区(現東京都江東区)に生まれる。家業の印刷屋不振のため、10歳で麹町の菓子屋に奉公に出る。四ツ谷第三小学校夜間部卒業。薬剤師を目指していた時期もあるが、浅草オペラ全盛時代とあってオペラ俳優に憧れ、滝野川俳優養成所に入る。 卒業後、浅草金龍館に出ていた黒木憲三に弟子入り。
宮島 肇(みやじま はじめ、1904年1月15日 - 199… 宮島 肇(みやじま はじめ、1904年1月15日 - 1991年2月25日)は、日本の哲学・教育学者。横浜国立大学名誉教授。 鹿児島県出身。東京文理科大学卒。1951年「文化哲学の基礎研究」で東京教育大学文学博士。横浜国立大学教授。1969年定年退官、名誉教授、関東学院大学教授。1969年横浜文化賞受賞。1981年から1984年まで神奈川県教育文化研究所の初代所長をつとめる。 息子は社会学者の宮島喬、経済学者の宮島洋、政治学者の宮島泉。
十六代目 市村羽左衛門(じゅうろくだいめ いちむら うざえも… 十六代目 市村羽左衛門(じゅうろくだいめ いちむら うざえもん、1904年(明治37年)1月15日 - 1952年(昭和27年)10月4日)とは、大正から昭和時代前期にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は橘屋。定紋は根上り橘、替紋は渦巻。俳名に可江(かこう)がある。本名市村 勇(いちむら いさむ)。 京橋区築地に生まれ、のち十五代目市村羽左衛門の養子となる。二代目市村吉五郎は養父を共にする弟にあたる。1910年(明治43年)4月、東京歌舞伎座『鞍馬山祈誓掛額』の牛若丸で四代目市村竹松を襲名し初舞台。以後成駒屋五代目中村福助、片岡千代之助らとともに若手の旗手として将来を嘱望された。1925年(大正14年)1月には七代目(自称・十五代目)市村家橘を襲名。
牧田 與一郎(まきた よいちろう、1903年1月15日 - … 牧田 與一郎(まきた よいちろう、1903年1月15日 - 1971年12月7日)は日本の実業家。三菱重工業社長として三菱グループを指導し、三菱自動車工業を設立。「牧田天皇」「横紙破り」「赤鬼のオマキ」と呼ばれた。
菅原 卓(すがわら たかし、1903年1月15日 - 197… 菅原 卓(すがわら たかし、1903年1月15日 - 1970年5月3日)は、日本の実業家で劇作家、演出家でもある。菅原電気商会元社長。 第二次世界大戦後、アメリカ演劇を日本に紹介したことで知られる。弟は劇作家の内村直也。 東京生まれ。1925年、慶應義塾大学経済学部卒。コロンビア大学で演劇を学ぶ。 岸田國士に師事し、1932年雑誌『劇作』を創刊。左翼演劇に反対して演劇の芸術性を擁護し、劇作派と呼ばれる。1934年戯曲「北へ帰る」を発表。 1939年、菅原電気商会社長となる。 戦後、1949年、ピカデリー実験劇場運営委員長に就任し、戦後の演劇復興に尽力し、1950年水谷八重子(初代)とともに現代劇運動を起こす。
出口 宇知麿(でぐち うちまる、1903年(明治36年)1月… 出口 宇知麿(でぐち うちまる、1903年(明治36年)1月15日 - 1973年(昭和48年)5月6日)は、日本の宗教家。大本教主補佐。教祖の出口王仁三郎の第三女・八重野の夫。本名は伊佐男で、「宇知麿」は王仁三郎に命名された宗教名。 愛媛県喜多郡大洲村(現・大洲市)の佐賀家に生まれる。1918年(大正7年)8月23日、綾部の皇道大本へ初参拝。10月に愛媛県立八幡浜商業学校(現愛媛県立八幡浜高等学校)本科1年を中退して、綾部へ移住し、大本で奉仕生活に入る。 1922年(大正11年)、王仁三郎の近侍となる。 1924年(大正13年)2月、八重野と結婚して出口家に婿入りする。同年4月、大本教主補佐に任命される。
知里 幸恵(ちり ゆきえ、旧字体: 知里 幸惠、1903年〈… 知里 幸恵(ちり ゆきえ、旧字体: 知里 幸惠、1903年〈明治36年〉1月15日〈戸籍上:6月8日〉 - 1922年〈大正11年〉9月18日)は、北海道幌別郡登別村(現:登別市登別本町2丁目)出身のアイヌ女性。19年という短い生涯ではあったが、その著書『アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ伝統文化の復権復活へ重大な転機をもたらしたことで知られる。 生誕100年を迎える2003年頃から、マスコミや各地のセミナー等でその再評価の声が高まり、また幸恵への感謝から「知里幸恵」記念館の建設運動が活発化した。2008年10月には、NHKの『その時歴史が動いた』で幸恵が詳細に取り上げられ、インターネット書店「アマゾン」の「本のベストセラー」トップ10に『アイヌ神謡集』が入った。
梅原 北明(うめはら ほくめい、1901年〈明治34年〉1月… 梅原 北明(うめはら ほくめい、1901年〈明治34年〉1月15日 - 1946年〈昭和21年〉4月5日)は、日本の作家・編集者。本名は梅原 貞康。昭和初期のエログロナンセンス文化を代表する出版人である。宗教研究家の梅原正紀は息子。別名・烏山朝太郎、談奇館主人、大塚倭堂、吾妻大陸ほか多数。 1901年、富山県富山市の士族の次男として生まれる。父・貞義は生命保険の代理店を営んでおり、生活はゆとりがあったとされる。京都の平安中学を卒業し、早稲田大学予科に進学。同校在学中に片山潜のグループと接し、社会主義思想に触れた。1920年に中退して関西で部落解放運動に従事。1924年から新聞社や雑誌社に勤める傍ら小説を執筆。
石坂 洋次郎(いしざか ようじろう、1900年〈明治33年〉… 石坂 洋次郎(いしざか ようじろう、1900年〈明治33年〉1月15日 - 1986年〈昭和61年〉10月7日)は、日本の小説家。青森県弘前市代官町生まれ。慶應義塾大学国文科卒。『若い人』で文壇に登場。戦後は新聞小説に活躍。『青い山脈』をはじめとする青春物で、国民的な人気を博した。数多くの作品が映像化されている。 弘前市立朝陽小学校、青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校)に学び、慶應義塾大学文学部を卒業。大学時代、心酔していた郷里の作家葛西善蔵を鎌倉建長寺の境内の寓居に訪ねるも、酒に酔った葛西から故郷の踊りを強要され、さらに相撲で捻じ伏せられた上、長刀を頭の上で振り回されて幻滅と困惑を感じる。