佐々木 章(ささき あきら、1906年(明治39年)2月16… 佐々木 章(ささき あきら、1906年(明治39年)2月16日 - 1963年(昭和38年))は昭和期の歌手、作曲家。 北海道函館市出身。函館商業学校中退。1936年(昭和11年)末より大村能章に声楽を師事した。1937年(昭和12年)9月に発売された「露営の歌」の吹き込みに参加。 戦後は作曲家として活動。デビュー前の三波春夫などを指導した。 この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。
原田 源三郎(はらだ げんざぶろう、1904年2月16日 -… 原田 源三郎(はらだ げんざぶろう、1904年2月16日 - 1995年11月2日)は、日本の工学者、実業家。日本磁力選鉱の創業者。 現在の福岡県北九州市出身。明治専門学校(現九州工業大学)工学部電気工学科卒業後、九州帝国大学(現九州大学)で冶金を専攻。 大学卒業後は特殊合金、大倉鉱業、満洲本渓湖特殊鋼等で鉄鉱石に関する研究活動に従事、原料鉱石等の処理技術を習得。さらに、昭和19年(1944年)原料処理に欠かせない「原田式交流磁選機」を開発。これらの業績により、戦後、八幡製鐵所の高炉ガス灰処理研究を製鐵所から依頼され、ガス灰処理技術での事業化の確信を得て、昭和24年(1949年)日本磁力選鉱を設立。
毛里 英於菟(もうり ひでおと、1902年〈明治35年〉2月… 毛里 英於菟(もうり ひでおと、1902年〈明治35年〉2月16日 - 1947年〈昭和22年〉2月23日)は、日本の大蔵官僚。代表的な革新官僚であり、またそのイデオローグ・政策立案者として活躍した。筆名は鎌倉 一郎(かまくら いちろう)。 『門司新報』社長で衆議院議員でもあった毛里保太郎の次男、妻は亀井貫一郎と亀井凱夫の妹。福岡県に生まれ、小倉中学校、第五高等学校から東京帝国大学法学部を卒業後、大蔵省へ入省。企画院の幹部を歴任した。 1935年(昭和10年)、満洲国財務部に勤務していた毛里はジャーナリストの杉原正巳と意気投合し、後に杉原が主宰する雑誌『解剖時代』に次々と論文を投稿した。杉原の活動は陸軍統制派の永田鉄山の援助を受けたものであった。
藤阪 修美(ふじさか ながとみ、1902年 <明治35年> … 藤阪 修美(ふじさか ながとみ、1902年 <明治35年> 2月16日 - 2000年 <平成12年> 5月23日)は、日本の実業家。位階は正四位。 大阪府出身。1924年、関西学院高等学部商科を卒業し、大阪瓦斯に入社。1960年から1969年までに大阪ガス社長を務め、都市ガスの原料を石炭から石油に転換した。1964年から1968年までに日本ガス協会会長を務めた。1972年に勲二等旭日重光章を受章した。 2000年5月23日、老衰のために大阪市の病院で死去。98歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
島田 依史子(しまだ いしこ、1902年2月16日 - 19… 島田 依史子(しまだ いしこ、1902年2月16日 - 1983年8月23日)は、日本の教育者。本名はイシ。 東京都出身。共立女子職業学校卒。現在の学校法人文京学院の創立者。大正から昭和にかけて「女性の自立」のために職業教育を行った。 文京学院大学女子中学校・高等学校 文京学院大学文京幼稚園 | 文京学院大学ふじみ野幼稚園 文京学院短期大学 | 文京学院大学医学技術専門学校 文京学院大学の人物一覧 | 島田依史子 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、教育に関連した書きかけの項目です。
増谷 文雄(ますたに ぶんゆう 1902年2月16日 - 1… 増谷 文雄(ますたに ぶんゆう 1902年2月16日 - 1987年12月6日)は、日本の仏教学者・翻訳家。都留文科大学第3代学長。 1902年、福岡県小倉市(現・北九州市小倉)で生まれた。幼名茂樹 小学校4年のころ文雄(ぶんゆう)と称して度牒をさずけられた。(『新しい仏教のこころ』P.14) 第五高等学校を経て、東京帝国大学文学部宗教学科に進んだ。1925年に卒業。 卒業後は、浜松高等工業学校で教職に就いた。その後、東京外国語大学教授となった。東京大学・立教大学・東京教育大学の各講師、大正大学教授などを務めた。1961年、学位論文『アーガマ資料による仏陀の生涯の研究』を東京大学に提出して文学博士の学位を取得。
岸 良子(きし よしこ、1901年〈明治34年〉2月16日 … 岸 良子(きし よしこ、1901年〈明治34年〉2月16日 - 1980年〈昭和55年〉6月14日)は、日本の56・57代内閣総理大臣である岸信介の妻。山口県出身。 山口県の士族である岸信政の娘として生まれる。実践高等女学校を卒業後、東京帝国大学法学部に在学中だった従兄の岸信介(信政の養子)と結婚を前提に同棲、1919年(大正8年)11月に結婚。 1921年(大正10年)に長男・信和、1928年(昭和3年)に長女・洋子をそれぞれ出産。 1980年(昭和55年)6月14日、心不全のため東京都港区の山王病院で死去。79歳没。
原田 種夫(はらだ たねお、1901年(明治34年)2月16… 原田 種夫(はらだ たねお、1901年(明治34年)2月16日 - 1989年(平成1年)8月15日)は日本の小説家、詩人。本名は種雄(たねお)。 福岡市博多区中洲(西大橋たもと)に文学碑が建立されている。
久保 一雄(くぼ かずお、1901年2月16日 - 1974… 久保 一雄(くぼ かずお、1901年2月16日 - 1974年1月26日)は、日本の映画美術監督、洋画家。 群馬県藤岡市生まれ。 日本映画美術監督協会の創立者の一人。独立美術協会会員。 川端画学校洋画部で学んだ後、日活撮影所に入所。 撮影所の労働運動に関わり、「三・一五事件」で検挙される。転向しないままに奈良刑務所を出所後、PCLに入社。『人情紙風船』(山中貞雄監督)では岩田専太郎の美術考証にもとづいて、装置を担当。戦中・戦後にかけて、成瀬巳喜男、木村荘十二、山本嘉次郎、マキノ雅弘、黒澤明ら有力な監督の下で美術を担当。フリーとなってからは、山本薩夫、今井正の独立プロの映画制作に協力した。 戦前戦後の映画関連の労働運動経験者としても、山本薩夫『私の映画人生』(新日本出版社、1984年)、井上雅雄『文化と闘争――東宝争議1946-1948』(新曜社、2007年)で言及されている。
野村 実(のむら みのる、1901年2月16日 - 1996… 野村 実(のむら みのる、1901年2月16日 - 1996年2月19日)は、日本の医師、シュヴァイツァー研究家。 東京生まれ。1925年九州帝国大学医学部卒。1934年東京で結核病院を開業。1951年白十字会村山サナトリウム院長。1954年アフリカにシュヴァイツァーを訪ね、翌年のノーベル賞受賞に随行した。1959年東京コロニー理事長。キリスト教海外医療協力会会長。1970年日本シュヴァイツァー友の会会長。1983年にキリスト教功労者を受賞。
島 耕二(しま こうじ、本名・鹿児島武彦、1901年2月16… 島 耕二(しま こうじ、本名・鹿児島武彦、1901年2月16日 - 1986年9月10日)は、日本の俳優、映画監督。女優の大谷良子、片山夏子、轟夕起子は元妻。俳優の片山明彦は実子(大谷と間の子)。映画・テレビドラマの監督の湯浅憲明は甥。 1901年(明治34年)2月16日、長崎県長崎市に、医者の息子として生まれる。日本映画俳優学校を第一期生として卒業し、1925年(大正14年)、日活大将軍撮影所に入社する。現代的な二枚目俳優として内田吐夢、阿部豊、溝口健二などの作品に出演する。しかし、1934年(昭和9年)の労働争議で内田、村田実、伊藤大輔らとともに日活を脱退し、新映画社の創立に参加する。解散後、新興キネマを経て、日活多摩川撮影所に入り、『明治一代女』、『真実一路』などの作品に出演し、日活黄金期を支えるスター俳優としての地位を確立する。
下店 静市(しもみせ しずいち、1900年2月16日 - 1… 下店 静市(しもみせ しずいち、1900年2月16日 - 1974年6月26日)は、日本の美術史家。 奈良県出身。立命館大学中退。東京帝国大学美学美術史研究室に学び、1928年「京都美術大観」編集に参加。様式と風土の関連から日本・東洋美術史を研究し、「絵そらごと」「俯瞰法」などの概念を基礎づける。帝塚山大学教授。1960年「日本古代絵画史研究」で関西大学文学博士。
栗原 嘉名芽(くりはら かなめ、1899年2月16日 - 1… 栗原 嘉名芽(くりはら かなめ、1899年2月16日 - 1990年5月1日)は、日本の音響学者。 東京出身。東京帝国大学理学部物理学科卒業。東京高等商船学校教授。日本大学教授。東京学芸大学教授。日本女子大学文学部国文科教授。聖徳学園短期大学教授、同名誉教授。歌人として『青影』同人。日本科学協会顧問。
宗藤 圭三(むねとう けいぞう、1898年2月16日 - 1… 宗藤 圭三(むねとう けいぞう、1898年2月16日 - 1989年9月29日)は、日本の統計学者。 広島県賀茂郡寺西町(現東広島市)出身。1921年同志社大学法学部経済科卒、同助手、1922年講師、1927年教授、1933年法学部長、1937年「統計学原理」で京都帝国大学経済学博士。1949年同志社大学経済学部長、教授、1968年定年、名誉教授となる。
平井 昌平(1897年〈明治30年〉2月16日 - 1957… 平井 昌平(1897年〈明治30年〉2月16日 - 1957年〈昭和29年〉4月3日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校46期生。最終階級は海軍少将。終戦時は呉海軍工廠総務部長。 1897年(明治30年)2月16日に山梨県北都留郡広里村(現:大月市大月町)で、父・保太郎、母・いちの四男として生まれる。 真木尋常小学校、広里高等小学校を卒業後、長兄の薦めもあり、東京に出ていた別の兄を頼って麻布中学へ進学する。麻布中学卒業後は、海軍兵学校へ進学し、1918年(大正7年)に46期生として卒業する。 1927年(昭和2年)には井上良馨元帥の副官となる。 1934年(昭和9年)には少佐に昇進しており、軍の特命を受けてアメリカ合衆国へ実情偵察を目的として出張する。
森島 守人(もりしま もりと、1896年2月16日 - 19… 森島 守人(もりしま もりと、1896年2月16日 - 1975年2月17日)は、日本の外交官、政治家。位階は従三位。 衆議院議員(3期)。満州事変発生時に現地・奉天総領事代理の地位にあり、日米開戦時のニューヨーク総領事、ポルトガル公使などを務めた。 石川県金沢市の医師 森島彦夫・民生夫妻の長男として生まれる。金沢第一中学校、第一高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部独法科を卒業。同年外務省入省。1928年から1935年まで、ハルビン総領事及び奉天総領事代理を務めた。1931年9月、奉天近郊で起きた柳条湖事件(時の外相は幣原喜重郎)から翌1932年3月の満洲国成立までに至る対応で苦慮し、1933年2月に蜂谷輝雄が奉天総領事に着任した。
有沢 広巳(ありさわ ひろみ、有澤 廣巳、1896年(明治2… 有沢 広巳(ありさわ ひろみ、有澤 廣巳、1896年(明治29年)2月16日 - 1988年(昭和63年)3月7日)は、日本の統計学者、経済学者。位階は正三位。 法政大学元総長。東京大学名誉教授、法政大学名誉教授。統計学が専門分野で、実証に徹した。 高知県出身。高知中学を経て、第二高等学校卒業。東京帝国大学では法学部から独立したばかりの経済学部の第一期生として統計学を糸井靖之の演習にて学ぶ。また河合栄治郎の講義を熱心に聴いた。大内兵衛に師事し、マルクス経済学を学ぶ。1922年(大正11年)に同大学を卒業後、助手を経て1924年(大正13年)に同大経済学部統計学講座の助教授となる。同年、同大講師の猪間驥一を大学から追放した。
日高 第四郎(ひだか だいしろう、1896年2月16日 - … 日高 第四郎(ひだか だいしろう、1896年2月16日 - 1977年12月14日)は、日本の教育学・文教官僚。 日高秩父・リキ夫妻の四男として東京府(現:東京都)に生まれる。1922年京都帝国大学文学部哲学科卒。広島高等学校教授、第三高等学校教授、第一高等学校教授、1946年文部省学校教育局長となり、戦後の学制改革に参加。のち国立教育研究所長、1951年文部事務次官。文部事務次官時代の1952年2月、女子及び年少者の人身売買に関する件で衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された。同年国際基督教大学教授。1966年定年退職、学習院女子短期大学学長兼学習院副学長を務め1970年退職。日本ユネスコ国内委員、民主教育協会副会長、教育課程審議会会長などを務めた。
松沢 一(松澤、まつざわ はじめ、1896年(明治29年)2… 松沢 一(松澤、まつざわ はじめ、1896年(明治29年)2月16日 - 1961年(昭和36年)9月4日)は、昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。 山梨県東山梨郡春日居村桑戸(春日居町を経て現笛吹市)で生まれる。農業を営む。早くから農民運動に加わった。 1930年(昭和5年)日本農民組合山梨県連合会結成時に青年部理事に就任。以後、会長の平野力三と行動を共にした。しかし社会情勢の変化に伴い、日本国家社会党、さらに皇道会に所属した。 また、春日居村会議員に就任し、さらに1939年(昭和14年)10月、山梨県会議員に選出され、同参事会員、小作戦時特別調停委員、金銭債務戦時特別調停委員、人事戦時特別調停委員、県農地委員、山梨地方森林会議員などを務めた。
黒木剛一(くろき ごういち、1894年〈明治27年〉2月16… 黒木剛一(くろき ごういち、1894年〈明治27年〉2月16日 - 1972年〈昭和47年〉5月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 1892年10月8日、宮崎県宮崎郡宮崎町(現在の宮崎市)に生まれる。旧制宮崎県立宮崎中学校を経て、海軍兵学校第43期に成績順位100名中第6位で入学。1915年12月16日、成績順位96名中第40位で卒業。 1938年12月15日、京城在勤海軍駐在武官兼朝鮮総督府御用掛嘱託。1940年8月1日、兼京城監理長。1941年12月、太平洋戦争開始。 1942年6月25日、海軍軍令部出仕。7月15日、海南警備府附。7月20日、第16警備隊司令。1943年(昭和18年)9月10日、横須賀鎮守府附。
菅原 通済(すがはら つうさい、1894年〈明治27年〉2月… 菅原 通済(すがはら つうさい、1894年〈明治27年〉2月16日 - 1981年〈昭和56年〉6月13日)は、日本の実業家。フィクサーとしても有名。名は通濟とも書く。本名は名の読みが(みちなり)。
藤本 虎喜(ふじもと とらき、1892年2月16日 - 19… 藤本 虎喜(ふじもと とらき、1892年2月16日 - 1981年11月11日)は、日本の政治家、農業技術者。衆議院議員(1期)、国民協同党所属。 熊本県上益城郡甲佐町出身。鹿児島高等農林学校農学科卒業。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
植松 寿樹(うえまつ ひさき、1890年(明治23年)2月1… 植松 寿樹(うえまつ ひさき、1890年(明治23年)2月16日 - 1964年(昭和39年)3月26日)は、大正・昭和期の歌人。名は壽樹とも書く。歌誌『沃野』を創刊・主宰した。 東京市四谷区舟町(現・東京都新宿区舟町)生まれ。中学時代、電報新聞(現・毎日新聞)の窪田空穂選歌欄に投稿したのをきっかけに師事し、1905年窪田空穂主宰の十月会に入会。 1914年(大正3年)空穂の『国民文学』立ち上げに参加。1917年(大正6年)慶應義塾大学部理財科卒業、大阪の加島銀行に入社。この時期に川田順、木下利玄らと親交を深め、「五日会」を興す。 1919年に銀行を退職して、大倉商事大阪支店に入社。1921年、大倉商事を退職。
中村 俊久(なかむら としひさ、1890年2月16日 - 1… 中村 俊久(なかむら としひさ、1890年2月16日 - 1972年3月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 神奈川県出身。中村庄吉・サダの息子として生れる。1911年(明治44年)7月、海軍兵学校(39期)を卒業。1912年(大正元年)12月、海軍少尉に任官し「矢矧」乗組となる。海軍大学校(乙種学生)、海軍水雷学校高等科・特修科で学ぶ。「常磐」分隊長、「龍田」水雷長、元帥副官兼海軍省出仕(元帥大将東郷平八郎附属)などを経て、1924年(大正13年)11月、海軍大学校(甲種22期)を卒業した。 海大時代の末期に健康を害し、療養の意味も込めて同年12月、横須賀防備隊水雷長に就任し、横須賀海軍工廠機雷実験部部員を兼任。
戸水 昇(とみず のぼる、1890年(明治23年)2月16日… 戸水 昇(とみず のぼる、1890年(明治23年)2月16日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 石川県出身。1915年(大正4年)、東京帝国大学法学部政治科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した。台湾総督府鉄道部書記、同事務官、逓信局監理課長・為替貯金課長、交通局参事・簡易保険局書記官、殖産局商工課長、交通局参事・鉄道部庶務課長、台北州内務部長、交通局理事・逓信部長、台北州知事を歴任した。 1939年(昭和14年)に退官した後は、東台湾電力興業株式会社専務取締役となり、1942年(昭和17年)には総督府評議会員に就任した。
中島 吉三郎(なかじま きちさぶろう、1889年〈明治22年… 中島 吉三郎(なかじま きちさぶろう、1889年〈明治22年〉2月16日 - 1974年〈昭和49年〉1月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1889年(明治22年)に群馬県群馬郡六郷村(現・高崎市)で生まれた。旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を経て、陸軍士官学校第24期卒業。1938年(昭和13年)1月20日に歩兵第28連隊長に就任し、3月1日に陸軍歩兵大佐に進級した。1939年(昭和14年)に陸軍歩兵学校教導連隊長に転じた。 1941年(昭和16年)3月に陸軍少将に進級し、第37歩兵団長(第1軍・第37師団)に就任し、日中戦争に出動。運城に駐屯し、警備・討伐戦に当たった。
平野 龍起(ひらの たつき、1888年(明治21年)2月16… 平野 龍起(ひらの たつき、1888年(明治21年)2月16日 - 1945年(昭和20年)8月10日)は、日本の政治家、弁護士。熊本市長。 熊本県鹿本郡来民町(現在の山鹿市)出身。第一高等学校を経て、1915年(大正4年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。東京で弁護士を開業したが、1918年(大正7年)に熊本市に移り、後には熊本弁護士会長に選出された。1921年(大正10年)より熊本市会議員に選ばれ、副議長、議長を務めた。また熊本県会議員にも選ばれた。その他に肥後米券社理事、鹿本鉄道株式会社監査役、熊本脳病院監事などを務めた。 1942年(昭和17年)、熊本市長に就任。終戦直前の1945年8月10日に病のため死去した。
鳥取 為三郎(とっとり ためさぶろう、1888年〈明治21年… 鳥取 為三郎(とっとり ためさぶろう、1888年〈明治21年〉2月16日 - 没年不明)は、日本の実業家、地主、香川県多額納税者。仁尾塩田(現・仁尾興産)、讃岐煉瓦各取締役。憲仁親王妃久子は孫、承子女王、千家典子、守谷絢子は曽孫にあたる。 香川県三豊郡笠田村(現・三豊市豊中町笠田笠岡)出身。地主・鳥取治郎八の男。1911年、早稲田大学大学部商科(現・商学部)を卒業した。家業を継承した。農業を営んだ。1936年、家督を相続した。讃岐煉瓦会社、仁尾塩田会社各取締役となった。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。宗教は真宗。住所は香川県三豊郡笠田村笠岡。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
渡辺 仁(わたなべ じん、1887年(明治20年)2月16日… 渡辺 仁(わたなべ じん、1887年(明治20年)2月16日 - 1973年(昭和48年)9月5日)は、近代日本の建築家。作品のスタイルは歴史主義様式のほか、表現派、帝冠様式、初期モダニズムと多岐にわたっている。主要作品には服部時計店、東京帝室博物館(原案)、第一生命館などがある。記念碑的な建築物を設計した。 1887年(明治20年)2月16日 新潟県佐渡生まれ。東京育ち。父は渡辺渡(後に東京帝国大学工科大学校長)。 1912年(明治45年)7月 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。卒業後、鉄道院に務めた。 1917年(大正6年)12月 逓信省入省。大臣官房経理局営繕係勤務。1920年退職。 1920年(大正9年)4月 独立し、渡辺仁建築工務所開設。
黒崎 定三(くろさき ていぞう、1885年(明治18年)2月… 黒崎 定三(くろさき ていぞう、1885年(明治18年)2月16日 - 1948年(昭和23年)7月19日)は、日本の法制官僚、政治家。貴族院議員、法制局長官。 京都府出身。黑崎武右衛門の二男として生まれた。郡山中学、第三高等学校を経て、1911年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年12月、文官高等試験に合格。逓信省に入り通信局書記に就任。その後、法制局参事官、内閣恩給局審査官、法制局書記官などを歴任。その他、日独戦役講和準備委員、法制審議会幹事、交通審議会幹事などを務めた。1933年3月、齋藤内閣の法制局長官となり1934年7月まで在任。退任後すぐ同月3日に貴族院勅選議員に任命され、研究会に属し1946年(昭和21年)5月17日まで在任した。
水町 義夫(みずまち よしお、1885年〈明治18年〉2月1… 水町 義夫(みずまち よしお、1885年〈明治18年〉2月16日 - 1967年〈昭和42年〉12月31日)は、教師、西南学院院長。 旧制東筑中学、西南学院中学部教師、西南学院高等部長。1927年8月に米国の南部バプテスト神学校に留学し、一年後に帰国。1933年、西南学院第4代院長(日本人初)に就任し1948年に健康上の理由で勇退するまで在任。1921年中学部の英語教師時代に新約聖書「ヨハネの手紙一」からイメージを受け西南学院校歌を作詞する。作曲は島崎赤太郎。「岸を洗う紺碧の波」「松の緑青春の色」に始まる校歌であるが、当時、同校は現在埋立されているのと違って、木造の校舎のすぐ裏は海であり、まさに白砂青松であった。
堀江 季雄(ほりえ すえお、1884年(明治17年)2月16… 堀江 季雄(ほりえ すえお、1884年(明治17年)2月16日 - 1946年(昭和21年)2月23日)は、枢密院書記官長、貴族院勅選議員。 東京府に市野良樹の二男として生まれ、堀江敬慎の養子となった。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。滋賀県属となり、1913年(大正2年)に高等文官試験に合格した。滋賀県警視、同野洲郡長を経て、同理事官、岐阜県理事官を歴任。1920年(大正9年)、枢密院書記官に転じ、行政裁判所評定官、枢密院議長秘書官などを務めた。1939年(昭和14年)枢密院書記官長に就任した。 退官後の1945年(昭和20年)8月3日に貴族院議員に勅選され、死去するまで在任した。
泉崎 三郎(いずみさき さぶろう、1881年(明治14年)2… 泉崎 三郎(いずみさき さぶろう、1881年(明治14年)2月16日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。愛知県瀬戸市長。 山形県に相浦秀逸の三男として生まれ、泉崎時蔵の養子となった。1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。会計検査院書記を務め、高等文官試験に合格した。香川県属、熊本県上益城郡長、同天草郡長を務めた後、朝鮮総督府府道事務官に転じ、京畿道財務部長、江原道内務部長、釜山府尹、咸鏡南道内務部長、黄海道内務部長を歴任した。 1934年(昭和9年)に瀬戸市長に選出された。 その後、大阪繊維製品配給株式会社専務取締役を務めた。
岸野 伊太郎(きしの いたろう、1880年〈明治13年〉2月… 岸野 伊太郎(きしの いたろう、1880年〈明治13年〉2月16日 - 没年不明)は、日本の政治家、地主。 東京府・伊平の長男。農業を営む。1917年に西巣鴨町会議員となり、1期満了、2期再選する。1920年、国勢調査委員に任命される。 出納監査委員、西巣鴨町教育会評議員、上睦会会長、西巣鴨第四部青年団副団長、氷川神社氏子総代である。宗教は日蓮宗。住所は東京市豊島区池袋2丁目。 岸野家について『豊島区大総覧 2597年版』によると、 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
保井 コノ(やすい コノ、1880年2月16日 - 1971… 保井 コノ(やすい コノ、1880年2月16日 - 1971年3月24日)は、日本の植物学者・細胞学者。理学博士(東京帝国大学・論文博士・1927年)。日本初の女性博士号取得者。東京女子高等師範学校教授(39歳)、お茶の水女子大学教授などを経て、お茶の水女子大学名誉教授(72歳)。男女差別の著しい時代に、女性科学者として多くのことに、日本初のという形容詞が付く先駆者の道を歩み、女性科学者の道を拓いた。保井の学位取得をきっかけに、他の分野でも女性博士が出るようになる。 1880年香川県生まれ。香川県師範学校を経て女子高等師範学校を卒業、教師となる。34歳で渡米し、シカゴ大学で細胞学、ハーバード大学で石炭学を研究。
神戸 絢(かんべ あや、1879年(明治12年)2月16日 … 神戸 絢(かんべ あや、1879年(明治12年)2月16日 - 1956年(昭和31年)2月23日)は、日本のピアニスト、音楽家、音楽学校教授。別名、神戸 絢子。 日本の洋楽界最古のピアニスト(洋琴家)として知られた。東京音楽学校 (旧制)を卒業後、母校で30年以上にわたって後進を指導し、従四位勲四等に叙せられた。 東京府人・梁田正直(元鳥取藩士族)の長女として、東京に生まれた。第百銀行監査役・神戸信義(元岡山藩士族・元藩主侯爵池田章政家扶)の養女となり、姫路水力電気技師長・神戸順三郎(明治3年7月生、神戸信義の養子)と結婚、長女貞子(明治34年3月生)をもうけた。一家は1914年(大正3年)に分家した。
岡野 貞一(おかの ていいち、1878年〈明治11年〉2月1… 岡野 貞一(おかの ていいち、1878年〈明治11年〉2月16日 - 1941年〈昭和16年〉12月29日)は 、日本の作曲家 、教育者 、オルガニスト。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。 鳥取県邑美郡古市村(現在の鳥取市)に、士族 岡野平也の子として生まれ、幼少期に実父を亡くし、貧困の中で育つ。鳥取高等小学校(現在の鳥取市立久松小学校)へ進学。同校には日本の音楽教育家・作曲家田村虎蔵も学年違いで在校していた。 1892年、キリスト教徒として鳥取教会(現在:日本基督教団)で洗礼を受け、翌年、岡山の教会で宣教師からオルガンの演奏法を習った。 東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の第2代校長である同郷の村岡範為馳が1892年に鳥取で行った講演に影響され、1895年には岡山の薇陽学院を中退し、上京して東京音楽学校に入学、1900年に専修部を卒業した。
田中 寒楼(たなか かんろう、1877年2月16日 - 19… 田中 寒楼(たなか かんろう、1877年2月16日 - 1970年3月12日)は、日本の俳人・歌人。 明治10年(1877年)、因幡国(鳥取県東部)の河原町小畑に生まれる。中学在学中より俳句に親しみ、新聞『日本』の投稿などで正岡子規より「因幡に寒楼あり」と注目された。小学校代用教員から校長になるも、その奇行と放浪癖から退職となる。京都で同郷の画家中島菜刀との共同生活を始めてから全国を転々と漂浪して奔放な哲学的人生を生き、晩年は鳥取市で過ごし昭和45年(1970年)、93歳で歿した。特異な宇宙観から時空を語り、俳句をはじめ短歌・書画など多岐に渡る作品を数多く残す。 年譜は村尾草樹『生きている寒楼』掲載の年譜を抄録、一部加筆した。
守屋 松之助(もりや まつのすけ、1877年(明治10年)2… 守屋 松之助(もりや まつのすけ、1877年(明治10年)2月16日 - 1951年(昭和26年)12月23日)は、明治末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県岡山市長、小田郡矢掛町長。旧姓・石井。大原財閥の四天王と称された。号・覚堂(かくどう)。 広島県深津郡深津村(深安郡深津村を経て現福山市東深津町)で、石井治郎右衛門の二男として生まれる。11歳で父を亡くし、苦学して深津小学校、尋常中学誠之館(現広島県立福山誠之館高等学校)を卒業。三菱合資会社三菱造船所(現三菱重工業長崎造船所)に勤務。日清戦争、日露戦争に従軍。1901年(明治34年)小田郡矢掛町の守屋忠作長女(火+禾)の入夫となり家督を相続。
土岐 嘉平(とき かへい、1875年(明治8年)2月16日 … 土岐 嘉平(とき かへい、1875年(明治8年)2月16日 - 1946年(明治21年)3月22日)は、日本の内務官僚・政治家。府県知事、北海道庁長官、京都市長。 和歌山県那賀郡、のちの山崎村(岩出町を経て現岩出市)出身。土岐綱右衛門の二男として生まれる。第三高等学校を経て、1901年、東京帝国大学法科大学政治学科を優等で卒業し、銀時計を授与された。 1901年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り土木局に配属された。以後、山梨県参事官、内務省書記官、同参事官、大阪府内務部長などを歴任。 1914年6月、高知県知事に就任。地元の利害に直結する市町村の土木補助費問題に関して、県議会での調整に尽力した。
三上 義夫(みかみ よしお、1875年〈明治8年〉2月16日… 三上 義夫(みかみ よしお、1875年〈明治8年〉2月16日 - 1950年〈昭和25年〉12月31日)は、日本の数学史家、和算研究家。日本の数学と中国の数学を英文で西洋に紹介した。 父親は三上助衛門安忠、母親は勝。妻は近藤幸八郎の三女武。 広島県高田郡上甲立村(現在の安芸高田市甲立)の素封家である三上本家(「安国屋」家)に生れる。1890年(明治23年)12月に広島高等小学校を卒業後、翌年4月に千葉県尋常中学校2年級に編入学した。1892年(明治25年)には神田錦町の国民英学会および神田猿楽町の東京数学院に学ぶ。 1895年(明治28年)、徴兵検査のため帰郷するが、虚弱のため免役される。同年、武と結婚。
冨島 元治(とみしま もとはる、1874年(明治7年)2月1… 冨島 元治(とみしま もとはる、1874年(明治7年)2月16日 - 1945年(昭和20年)11月16日)は、日本の判事・台湾総督府官僚。高雄州知事。 京都府に冨島元起の長男として生まれる。京都府立第一中学校、第二高等学校を経て、1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。京都地方裁判所判事、横浜地方裁判所判事、東京地方裁判所判事、宇都宮地方裁判所部長判事を歴任。 台湾総督府総務長官・賀来佐賀太郎の招きにより台北に赴任し、覆審法院判官となった。その後行政官となり、南投庁長、台北庁長を歴任した。さらに台湾総督府警視総長(1919年5月21日 - 1919年6月28日)、同警務局長(1919年6月28日 - 1920年9月1日)を務めた。
繁野 天来(しげの てんらい、1874年〈明治7年〉2月16… 繁野 天来(しげの てんらい、1874年〈明治7年〉2月16日 - 1933年〈昭和8年〉3月2日)は、日本の詩人、英文学者。早稲田大学で4人目となる博士号授与者。本名は繁野 政瑠(しげの まさる)、他の筆名に繁野 狂美がある。 1874年2月16日、現在の徳島市下助任町に、徳島藩士の繁野傑()・イサ夫妻の長男として生まれる。 徳島市立助任尋常小学校、川島尋常小学校、公立寺島小学校、徳島市立徳島高等小学校を経て、1889年に徳島県立徳島尋常中学校に入学。祖母の死を機に大阪に移り、1891年に大阪市立尋常中学校に転学。在学中に熊本謙二郎から英語を教わる。1893年9月に第三高等学校に入学するも、後に病気退学。
土田 万助(萬助、つちだ まんすけ、1869年2月16日(明… 土田 万助(萬助、つちだ まんすけ、1869年2月16日(明治2年1月6日)- 1942年(昭和17年)6月15日)は、明治から昭和時代の大地主、篤農家、林業家、政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 出羽国平鹿郡、のちの秋田県平鹿郡館合村(大雄村を経て現横手市)で土田吉治の長男として生まれ、土田彦七の養子となる。秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を経て秋田師範学校に進学したが中退して帰郷した。1905年(明治38年)養父の隠居により家督を相続した。 1900年(明治33年)館合村農会を設立し、科学農法を導入し米の品質改良に尽力。1905年(明治38年)に計画された区画整理事業を推進し、1917年(大正6年)までに450ヘクタールが完成した。
菅原 通敬(すがわら みちよし、1869年2月16日(明治2… 菅原 通敬(すがわら みちよし、1869年2月16日(明治2年1月6日)– 1946年(昭和21年)12月18日)は、日本の大蔵官僚・政治家。大蔵次官、貴族院議員、枢密顧問官、錦鶏間祗候。 仙台藩士・郡長、菅原通実の長男として生まれる。仙台中学、第一高等学校を経て、1895年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。大蔵省に入省し大蔵属となり、主税局に配属された。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 1895年11月、横浜税関倉庫課長に就任。以後、沖縄県収税長、司税官・熊本税務管理局、税務監督官・主税局内国税課、函館税務管理局長、丸亀税務管理局長、神戸税務管理局長、神戸税務監督局長、大蔵書記官・主税局内国税課長、主税局長などを歴任。
鄭 永邦(てい えいほう、1863年2月16日〈文久2年12… 鄭 永邦(てい えいほう、1863年2月16日〈文久2年12月28日〉 - 1916年〈大正5年〉8月20日)は、明治時代の日本の外交官。 肥前国長崎生まれ。鄭家は鄭成功の末裔と称し、明朝滅亡後、その遺臣として日本に亡命し定着した。長崎では代々、唐人屋敷の清朝の役人の通訳を稼業とした(幕末の時期は勝海舟をはじめとした長崎海軍伝習所教習生とも交流)。父の鄭永寧、兄の鄭永昌も外交官である。義兄(父・永寧の養父・鄭幹輔の庶子で、永寧の長男として養子縁組した)鄭永慶は日本で初めて本格的なコーヒー店「可否茶館」を開いたことで知られる。 東京外国語学校(現在の東京外国語大学)卒業後、北京公使館員として北京に赴任。
歌川 秋南(うたがわ しゅうなん、本名:兼太郎、文久2年1月… 歌川 秋南(うたがわ しゅうなん、本名:兼太郎、文久2年1月18日(1862年2月16日) - 昭和2年(1927年)10月18日)は、新潟県出身の教育者、政治家。 越後国蒲原郡柄目木村(現在の新潟県新潟市秋葉区柄目木)に真柄家の子として生まれた。17歳で教員となった後に上京し漢学などを学んだ。帰郷後は五泉の歌川家に養子に入り、26歳で家を継いだ。 1902年、家塾『猶興社』を開設し、小学校を卒業したのち旧制中学に進めないような貧しい子供達への教育の場となった。1898年よりは当時の五泉町議会の政治家となり、織物業の振興を図り織物同志会を組織したり、五泉銀行の頭取を務めるなどした。1923年には五泉町教育会長となり、図書館を建設した。
山鹿 旗之進(やまが はたのしん、1860年2月16日〈安政… 山鹿 旗之進(やまが はたのしん、1860年2月16日〈安政7年1月25日〉 - 1954年〈昭和29年〉4月1日)は、日本のメソジストの牧師、教育者、文筆家。 万延元年(1860年)に弘前藩の江戸藩邸に生まれる。津軽に帰郷し藩学を経て、東奥義塾に入り、ジョン・イングと本多庸一の指導を受ける。1877年(明治10年)、イングより洗礼を受ける。 弘前教会資産係を経て、勧士になる。1879年、横浜山手の美會神学校開校と同時に入学する。1887年に東京英和学校を卒業すると、母校の教師になる。 1887年、長老の按手礼を受け、名古屋中央教会に赴任し、岐阜・高山の開拓伝道を行う。名古屋清流女学校の創設にも関わる。
田代 正(たしろ ただし、1860年2月16日(安政7年1月… 田代 正(たしろ ただし、1860年2月16日(安政7年1月25日) - 1918年(大正7年)1月30日)は、日本の明治期から大正期における外科医。長崎医学専門学校長、長崎県医師会長も勤め同県の医術発展と医療普及に尽くした。越前国出身。 1860年2月16日(安政7年1月25日)、越前坂井郡棗村(現福井県福井市)に福井藩士の子として生まれる(名前はただし、又はただすと資料により異なる)。1871年(明治4年)福井藩中学校に入学し、1874年(明治7年)第一大区医学校に入学した。1882年(明治15年)東京大学医学部を卒業し、同期には青山胤通・猪子止戈之助・西郷吉義・佐藤三吉等がいた。 大学卒業後長崎県立長崎医学校(現長崎大学医学部)教諭を命じられ、以降同県検疫官・長崎病院医師等を兼ね、1889年(明治22年)長崎医学校が第五高等中学校医学部となると同校教諭となり長崎病院次長兼外科部長に就任した。
山口 俊一(やまぐち しゅんいち、1860年2月16日(万延… 山口 俊一(やまぐち しゅんいち、1860年2月16日(万延元年1月25日)- 1933年(昭和8年)10月1日)は、明治から大正期の実業家・政治家。衆議院議員、京都府会議長、京都府加佐郡新舞鶴町長。幼名・浅吉。 丹波国天田郡細見辻村(京都府天田郡細見村細見辻、三和村、三和町を経て現福知山市)で、農業、酒造業・山口覚兵衛、てい の長男として生まれる。1876年(明治9年)京都に出て、林正躬、横井忠直から漢学を、吉田健吾から数学を学び、京都府中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)にも通った。1879年(明治12年)大阪で牧田修蔵から法律学を学んだ。 1881年(明治14年)に帰郷し、同年11月、細見辻村戸長に就任。