村田 昭治(むらた しょうじ、1932年11月19日 - 2… 村田 昭治(むらた しょうじ、1932年11月19日 - 2015年4月16日)は、日本のマーケティング論の第一人者。商学博士。慶應義塾大学名誉教授。(財)社会経済生産性本部理事、同本部マーケティングソフト研究所所長、(社)日本マーケティング協会常任理事、日本商業学会理事、日本広告学会理事。
11月19日生まれ:288人
村田 昭治(むらた しょうじ、1932年11月19日 - 2… 村田 昭治(むらた しょうじ、1932年11月19日 - 2015年4月16日)は、日本のマーケティング論の第一人者。商学博士。慶應義塾大学名誉教授。(財)社会経済生産性本部理事、同本部マーケティングソフト研究所所長、(社)日本マーケティング協会常任理事、日本商業学会理事、日本広告学会理事。
中村 忠(なかむら ただし、1930年11月19日 - 20… 中村 忠(なかむら ただし、1930年11月19日 - 2008年10月26日)は、日本の会計学者。専門は財務会計。一橋大学名誉教授。正四位瑞宝中綬章。1988年から1994年まで日本会計研究学会理事。1990年から1993年まで日本簿記学会会長、1993年から同学会顧問。2007年まで社団法人如水会調布支部長。税理士試験・公認会計士試験委員も務めた。 この間1969年から1975年まで企業会計審議会幹事、1979年から1988年まで同委員、1984年法制審議会商法部会委員、1991年から財団法人産業経理協会評議員、1988年から1992年公認会計士第二次試験委員、1990年から1993年日本簿記学会会長等を歴任。
柴田 義松(しばた よしまつ、1930年11月19日 - 2… 柴田 義松(しばた よしまつ、1930年11月19日 - 2018年10月21日)は、日本の教育学者。東京大学名誉教授、日本カリキュラム学会代表理事、日本教育方法学会会長、総合人間学会代表幹事を歴任。専門は教授学。専攻は教育課程論を中心に教育方法論、国語教育論、教師教育論。ソビエト教育学の研究で有名であった。 1930年愛知県生まれ。名古屋大学教育学部卒業後、東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。1961年女子栄養大学教員、1975年東京大学教育学部助教授、のち同大学教授。東京大学退官後、1990年から1999年まで成蹊大学文学部教授。元東京大学教育学部附属中学校・高等学校校長。 この項目は、教育者に関連した書きかけの項目です。
杉原 正(すぎはら ただし、1930年(昭和5年)11月19… 杉原 正(すぎはら ただし、1930年(昭和5年)11月19日 - 1982年(昭和57年)11月12日)は、日本の警察官僚。島根県出身。東京大学教育学部卒。 1953年警察庁入庁。入庁同期に、山田英雄、池田速雄(交通局長)、金原忍(公安調査庁第一部長)、山崎隆司(近畿管区警察局長)など。 神奈川県警察警備部長、大阪府警察交通部長、警視庁交通部長、警察庁人事課長、交通局長、大阪府警察本部長、警察大学校校長などの要職を歴任した。また、田中角栄の総理在職中には首相秘書官としても活躍した。1982年警察大学校校長の時に、大阪府警賭博ゲーム台汚職に責任を感じて自殺した(51歳没)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
若杉 明(わかすぎ あきら、1929年11月19日 - 20… 若杉 明(わかすぎ あきら、1929年11月19日 - 2024年1月17日)は、日本の会計学者。横浜国立大学名誉教授。元金融庁企業会計審議会会長。元日本学術会議会員。 横須賀市出身。1947年神奈川県立横須賀中学校卒。1950年横浜経済専門学校卒。1953年横浜国立大学経済学部卒。1958年東京大学大学院経済学会計学博士課程満期退学。1968年「実現概念の展開 その会計学的意義および役割に関する研究」で経済学博士。 1958年福島大学経済学部専任講師、1962年助教授、1964年横浜国立大学経営学部助教授、1972年教授、1981年経営学部長、1995年定年退官、名誉教授、高千穂商科大学商学部教授。
竹中 恵美子(たけなか えみこ、1929年11月19日 - … 竹中 恵美子(たけなか えみこ、1929年11月19日 - 2025年7月1日)は、日本の経済学者、大阪市立大学名誉教授。専門は労働経済学。戦後の女性労働研究のパイオニアとして知られる。 岐阜県大垣市出身。大阪商科大学(現・大阪市立大)卒。甲南大学助教授、1972年「現代労働市場の理論」で大阪市大経済学博士。1974大阪市立大教授。1993年定年退官、花園大学教授、龍谷大学教授。2001年 - 2007年ドーンセンター館長。2024年、瑞宝中綬章受章。 戦後日本の女子労働について研究。女性運動、自治体の政策立案にも参加。夫は姜在彦、長男は社会学者・早稲田大学教授の竹中均。 2025年7月1日、多臓器不全のため東京都内の病院で死去。
林 青梧(はやし せいご、1929年11月19日 - 200… 林 青梧(はやし せいご、1929年11月19日 - 2007年3月30日)は、日本の小説家、作家。 平壌生まれ。本名・亀谷(かめがい)梧郎。1946年内地へ帰り、東京都立大学 (1949-2011)英文科卒。日本大学豊山高等学校教諭。 朝鮮での敗戦体験を小説にし、『円卓』『文学者』などに発表。のち南京大学客員教授。 1958年「第七車輛」で芥川賞候補、「ふりむくな奇蹟は」で同、59年「橋《九月十一日》」で同、1961年「仁王」で直木賞候補、64年『誰のための大地』で同、70年『南北朝の疑惑』で同。計六回、芥川・直木賞候補となった。 第1回社会党文芸賞、中国国家友誼奨を受けた。 なお、目黒寄生虫館を創設した亀谷了は実兄にあたる。
新井 清泉(あらい せいせん、本名:新井 昌奎(あらい しょ… 新井 清泉(あらい せいせん、本名:新井 昌奎(あらい しょうけい)、1929年11月19日 - 2009年9月7日)は、岐阜県土岐市出身の書道家、美術作家。 1929年(昭和4年)11月19日生まれ。 芝浦工業専門学校中退。 1961年に、岐青会として書道研究書芸会を創設。 書道研究書芸会会長、憲墨会会長、大書心会理事長、土岐市美術作家連盟会員など、多くの役員を務め、書家として多くの賞を受賞した。 2009年9月7日に死去。享年80歳。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
青木 銀一(あおき ぎんいち、1929年(昭和4年)11月1… 青木 銀一(あおき ぎんいち、1929年(昭和4年)11月19日 - 2019年(令和元年)5月5日)は、平成時代の政治家。北海道三笠市長。三笠市名誉市民。位階は従五位。旭日小綬章。 北海道夕張郡夕張町(現夕張市)出身。札幌鉄道教習所を卒業し、三笠市役所に入り、経済振興課長などを経て、1979年(昭和54年)より助役を1期務めた。ほか、商工会副会長を歴任した。 1991年(平成3年)三笠市長に当選し、2003年(平成15年)まで連続3期12年務めた。2004年秋の叙勲で旭日小綬章を受章。2019年死去。死没日付をもって従五位に叙された。
河野 典男(こうの のりお、1928年11月19日 - 20… 河野 典男(こうの のりお、1928年11月19日 - 2020年1月23日)は、日本の実業家。東急グループの建設会社である世紀東急工業株式会社の社長・会長を務めた。 1928年11月19日、東京府荏原郡東調布町(現・大田区)に生まれる。東京実業学校、海兵団砲術学校を経て、1953年に明治大学商学部を卒業した。 1953年、父・河野一三と五島慶太の縁で東急電鉄に入社し、改札係、車掌、運転士などを経験した。その後、私鉄経営者協会への派遣、本社勤労部勤務などを経て、1961年に東急建設へ出向した。 東急建設では総務課係長、総務部長、横浜副支店長などを歴任し、1973年に取締役、1976年に常務、1981年に専務、1988年に副社長に就任した。
大久保 典夫(おおくぼ つねお、1928年(昭和3年)11月… 大久保 典夫(おおくぼ つねお、1928年(昭和3年)11月19日 - 2025年(令和7年)8月25日)は、日本の文芸評論家・日本近代文学研究者。学位は、博士(文学)(早稲田大学・論文博士・2004年)(学位論文「岩野泡鳴の研究」)。東京学芸大学名誉教授。現代文学史研究所所長。国文学者の梶川信行は娘婿。 埼玉県出身。早稲田大学文学部国文科卒。1958年季刊同人誌『批評』に参加。1981年『文学と教育』を創刊。東京学芸大学助教授、教授、1992年定年退官、名誉教授、創価大学教授。1998年退職。2003年現代文学史研究所創設。2004年「岩野泡鳴の研究」で早稲田大学より博士(文学)の学位を取得。
井関 昌孝(いぜき まさたか、1927年11月19日 - 2… 井関 昌孝(いぜき まさたか、1927年11月19日 - 2006年5月11日)は、日本の経営者。井関農機社長を務めた。 愛媛県出身。1945年に立命館第一中学校を中退し、同年8月に井関農機に入社。1955年1月に監査役に就任し、1956年1月に取締役、1957年11月に常務、1960年11月に専務、1976年3月に副社長を経て、1977年12月には社長に就任。1988年2月に会長に就任し、1992年12月から相談役を務めた。 1987年11月に藍綬褒章を受章。 2006年5月11日食道がんのために死去。78歳没。
金関 恕(かなせき ひろし、1927年11月19日 - 20… 金関 恕(かなせき ひろし、1927年11月19日 - 2018年3月13日)は、日本の考古学者。天理大学名誉教授。 1927年、京都市で生まれた。1936年、医学博士で考古学の研究にも大きな業績を残した父親金関丈夫の台北帝国大学教授就任に伴い、一家で台北に転居。石器採集をはじめ、父親の考古学発掘調査を手伝ううちに、その面白さに魅了された。 1945年、終戦に伴い日本に帰国。旧制松江高等学校を経て、1949年に京都大学文学部に入学。考古学専攻で梅原末治、小林行雄に師事した。1953年に卒業し、同大学大学院に進んだ。大学院進学と共に、先輩であった坪井清足の勧めで奈良国立文化財研究所臨時筆生となり、奈良県飛鳥寺、大阪市四天王寺の発掘調査に従事。
森﨑 東(もりさき あずま、1927年11月19日 - 20… 森﨑 東(もりさき あずま、1927年11月19日 - 2020年7月16日)は、日本の映画監督、脚本家である。 1927年11月19日、長崎県島原市に生まれる。京都大学法学部を卒業。 1956年、松竹京都撮影所に入社する。 1965年、大船撮影所に移籍し、野村芳太郎監督や山田洋次監督の助監督、脚本を手がける。 1969年、『喜劇 女は度胸』で監督デビュー。以降、『男はつらいよ フーテンの寅』をはじめとする喜劇を撮り続ける。 1971年、一連の作品により、芸術選奨新人賞を受賞する。 1974年、フリーとなる。 1977年、居酒屋で口論となった学生の伊藤裕一を『黒木太郎の愛と冒険』の脚本製作に誘い、映画監督を目指す青年「伊藤銃一」役としても起用し、制作。
渡部 周治(わたなべ しゅうじ、1927年 <昭和2年> 1… 渡部 周治(わたなべ しゅうじ、1927年 <昭和2年> 11月19日 - 2016年 <平成28年> 9月14日)は、日本の経営者。国税庁長官、関西電力副社長を務めた。位階は正四位。 兵庫県出身。1950年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に大蔵省に入省した。1980年6月から1982年6月までに国税庁長官を務めた。国民金融公庫副総裁を経て、1985年に関西電力顧問に就任し、常務、専務を経て、1991年6月には副社長に昇格した。1995年6月に関電産業社長に就任。。 2001年11月に勲二等旭日重光章を受章。。 2016年9月14日、肺炎のために死去。88歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
吉田川 清四郎(よしだがわ せいしろう、1927年11月19… 吉田川 清四郎(よしだがわ せいしろう、1927年11月19日 - 没年不明 )は、山梨県富士吉田市出身(出生地は東京都八王子市横山町)で時津風部屋(入門時は音羽山部屋)に所属した大相撲力士。本名は真田 征四郎(さなだ せいしろう)。最高位は西前頭13枚目(1952年9月場所)。現役時代の体格は171cm、105kg。得意手は左四つ、寄り、押し。 13歳の時、元前頭2枚目・白岩が率いる音羽山部屋に入門し、1941年5月場所で初土俵を踏んだ。その後、師匠・音羽山が部屋経営から手を引いた事に伴い、1945年より双葉山道場(後の時津風部屋)へ移籍。 1949年10月場所で新十両に進み、その際に四股名を、本名でもある「真田」から郷土の地名に因んだ「吉田川」へ改めている。
木村 裕主(きむら ひろし、1926年11月19日 - 20… 木村 裕主(きむら ひろし、1926年11月19日 - 2007年8月22日)は、ノンフィクション作家。 群馬県生まれ。東京外国語大学イタリア語学科卒業。毎日新聞記者を務め、ローマ特派員、編集委員を経て、東京外国語大学講師、外務省専門調査員・在イタリア日本大使館広報文化担当官などを歴任した。ノンフィクション作家の塚本哲也は実弟で、同じく毎日新聞記者出身。1990年に、63歳で、『ムッソリーニを逮捕せよ』で第12回講談社ノンフィクション賞を受賞、先に受賞していた塚本哲也に続く兄弟受賞となった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
原 信夫(はら のぶお、本名・塚原 信夫(つかはら のぶお)… 原 信夫(はら のぶお、本名・塚原 信夫(つかはら のぶお)、1926年11月19日 - 2021年6月21日)は、日本のジャズミュージシャン。テナーサックス奏者。富山県富山市出身。 1926年、樺太で誕生。料理人であった実父が、富山県滑川町(現滑川市)で料理旅館兼映画館を営む親類を頼り、移住。間もなく実母が亡くなり、東岩瀬で漁業を営む塚原家の養子になった。岩瀬尋常小学校時代に音楽教師の勧めでコルネットを吹き始め、岩瀬尋常高等小学校を卒業後、富山市の機械工業青年学校のブラスバンド部に入り、テナーサックスに出会った。 1943年、大日本帝國海軍軍楽隊に入団。横浜海兵団に配属され、終戦まで海軍軍楽隊で過ごす。
庄野 直美(しょうの なおみ、男性、1925年11月19日 … 庄野 直美(しょうの なおみ、男性、1925年11月19日 - 2012年2月18日)は、日本の物理学者、反核運動家。 広島県山県郡安芸太田町出身。九州帝国大学理学部在学中、原爆投下から3日後の広島市に入り被爆した。1961年広島大学理学博士。理論物理学研究所、広島大学助教授、広島女学院大学教授を務め、1991年名誉教授となる。専攻は理論物理学。反核運動に挺身し、ヒロシマ・ナガサキ平和基金理事長。
戸塚岩夫(とつか いわお、1925年11月19日 - )は、… 戸塚岩夫(とつか いわお、1925年11月19日 - )は、日本の大蔵官僚。 東京府出身。1944年10月東京帝国大学法学部法律学科。 1945年6月海軍少尉・日向乗組。同年9月に充員召集解除され、大学に復学。 1948年9月東京大学法学部法律学科卒業。 1949年3月国家公務員採用試験(行政職)に合格。大蔵省入省(主税局)。 1953年7月富士宮税務署長。 1954年7月目黒税務署長。主計局の主計官補佐時代には防衛予算と農林予算を担当した。 1972年6月 主計局総務課長。 1973年6月関東信越国税局長。 1974年6月国土庁計画・調整局次長。1975年7月8日 大臣官房審議官(大臣官房担当)兼財務研修所長。
成島 東一郎(なるしま とういちろう、1925年〈大正14年… 成島 東一郎(なるしま とういちろう、1925年〈大正14年〉11月19日 - 1993年〈平成5年〉10月8日)は、日本の撮影監督、映画監督・脚本家。 東京都出身。東京物理学校卒(現在の東京理科大学)。 1947年松竹大船撮影所撮影部に入社、木下惠介、楠田浩之に師事し、日本初のカラー映画1951年『カルメン故郷に帰る』、1958年「楢山節考(共に監督 木下惠介、撮影 楠田浩之)」に撮影助手として参加。1960年に『ろくでなし』(監督 吉田喜重)で撮影技師として独り立ち、吉田喜重・篠田正浩・大島渚ら"松竹ヌーヴェルヴァーグ派"の監督たちの代表作を多く手掛けた。 代表作は『秋津温泉』(監督:吉田喜重)、『古都』『紀ノ川』(監督:中村登)、『心中天網島』(監督:篠田正浩)、『儀式』『戦場のメリークリスマス』(監督:大島渚)など。
與田 純次(よだ じゅんじ、1925年11月19日 - )(… 與田 純次(よだ じゅんじ、1925年11月19日 - )(別名:與田治郎右衛門) は、日本の実業家、戦争体験語り部。元大使館員。兵庫県城崎郡竹野村(現:兵庫県豊岡市)出身。長男は東邦大学医学部医学科教授(医学博士)の与田仁志。元阪神タイガース監督兼選手の村山実、神戸大学名誉教授(農学博士)の保田茂は妻の従兄弟にあたる。2017年、父の代まで十数代に渡り襲名されていた名跡、與田治郎右衛門(よだじろうえもん)を襲名。 大正14年(1925年)、兵庫県城崎郡竹野村(現:兵庫県豊岡市)に生まれる。先祖は、江戸時代初期から寛文12年(1672年)頃、寛保2年(1742年)頃から寛政8年(1796年)まで庄屋(江戸時代の村役人である地方三役の一つ)を務めており、北前船(江戸時代に日本海海運で活躍した北国廻船)の船主でもあった。
西條 八束(さいじょう やつか、1924年11月19日 - … 西條 八束(さいじょう やつか、1924年11月19日 - 2007年10月9日)は、日本の陸水学者。名古屋大学名誉教授。日本自然保護協会参与、日本陸水学会会長などを務めた。詩人で作詞家の西條八十は実父。童話作家の三井ふたばこは実姉。 1924年(大正13年)11月19日に東京都で生まれる。1937年(昭和12年)東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)に入学。1942年(昭和17年)に旧制松本高校理科甲類に入学し、湖沼学者でもあった向井正幸とともに木崎湖の透明度測定を行なったのをきっかけに、湖沼の研究に魅せられ湖沼学の道に進んだ。1945年(昭和20年)東京大学理学部地理学科に入学、湖沼学者の吉村信吉に師事して各地の湖沼調査を行なった。
西條 八束(さいじょう やつか、1924年11月19日 - … 西條 八束(さいじょう やつか、1924年11月19日 - 2007年10月9日)は日本の陸水学者。名古屋大学名誉教授。日本自然保護協会参与、日本陸水学会会長などを務めた。詩人、作詞家の西條八十は実父。童話作家の三井ふたばこは実姉。
今道 友信(いまみち とものぶ、1922年11月19日 - … 今道 友信(いまみち とものぶ、1922年11月19日 - 2012年10月13日)は、日本の美学者および中世哲学研究者である。「エコエティカ」(生命倫理による人間学・倫理学)を提唱したことで知られる。東京大学名誉教授、聖トマス大学名誉教授、国際形而上学会会長、国際美学会終身委員兼名誉会長、国際エコエティカ学会名誉会長といった多くの要職を歴任した。かつては哲学美学比較研究国際センター所長、日本美容専門学校校長を務め、日本アスペン研究所特別顧問でもあった。 今道は離婚歴があり、実子としてギタリストで元BARBEE BOYSのメンバーであるいまみちともたか、ピアニストの川口信子がいる。再婚したドイツ人のクリスティネとの間には、ドイツ在住の今道友紀子と、心理学者でニューヨーク市立大学教員である今道友昭がいる。
梨本 徳彦(なしもと のりひこ、1922年(大正11年)11… 梨本 徳彦(なしもと のりひこ、1922年(大正11年)11月19日 - 2007年(平成19年)2月7日)は、日本の海軍軍人、皇族、華族。位階は従四位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。最終階級は海軍大尉。お印は鳳凰。梨本家(旧梨本宮家)前当主。皇族時代は徳彦王(久邇宮家)といい、臣籍降下後に梨本伊都子(梨本宮守正王妃)の養子となるまでは龍田 徳彦という。 1922年(大正11年)11月19日午後5時15分、久邇宮家の多嘉王と静子妃の第三王子として生まれる。 京都府立京都第一中学校を経て、1942年(昭和17年)、海軍兵学校を卒業(第71期)。同期には野村実など。同年11月19日に貴族院皇族議員となる。
倉橋 良介(くらはし りょうすけ、1919年11月19日 -… 倉橋 良介(くらはし りょうすけ、1919年11月19日 - 1995年5月1日)は、日本の映画監督である。日東テレビ映画常務取締役、プロダクション鷹取締役を歴任。別名に風魔 三郎(ふうま さぶろう)。 1919年(大正8年)高知県香美郡土佐山田町(現香美市)に生まれる。京都府立京都農林学校卒業後、京都市役所の吏員として5年間働く。 その後松竹京都撮影所に入社、『破れ太鼓』(1949年)の木下恵介、『薔薇合戦』(1950年)成瀬巳喜男の助監督を務めた記録がある。1954年(昭和29年)1月27日に公開された、岩井半四郎主演の『とのさま街道』で監督に昇進している。以降、1960年(昭和35年)までの6年間に16作を監督している。
藤堂 恭俊(とうどう きょうしゅん/やすとし、1918年11… 藤堂 恭俊(とうどう きょうしゅん/やすとし、1918年11月19日 - 2000年12月14日)は、浄土宗僧侶・仏教学者。 和歌山県田辺市出身。父は藤堂祐範。大正大学仏教学科卒、1944年同研究科修了。1979年「日中浄土教思想史の研究」で佛教大学文学博士。佛教大学助教授、教授。1989年定年、名誉教授。浄土宗大本山知恩院浄土宗学研究所研究員、増上寺法主。
多田 光雄(ただ みつお、1918年11月19日 - 198… 多田 光雄(ただ みつお、1918年11月19日 - 1987年3月26日)は日本の政治家。 元衆議院議員(日本共産党公認、通算2期)。日本共産党北海道副委員長、道平和委員会副会長、道原水協副委員長、日朝協会道副会長などを歴任した。 北海道空知郡上砂川町生まれ。1942年、東京帝国大学文学部英文科を卒業。その後、旧陸軍の樺太山砲隊に入隊した。戦後はシベリアに抑留される。1947年12月に帰国した。ソ連から帰国後の1948年、日本共産党へ入党。美唄、留萌の各地区委員長、道委員会常任委員などを歴任した。1972年の衆院選で北海道1区から出馬し初当選を果たした。1976年の衆院選では次点に終わる。1979年の衆院選で返り咲きを果たす。
塚田 満江(つかだ みつえ、1918年11月19日 - 20… 塚田 満江(つかだ みつえ、1918年11月19日 - 2020年5月4日)は、日本の日本近代文学研究者。京都女子大学名誉教授。筆名・黒田しのぶ。 日本領朝鮮(現・北朝鮮)生まれ。立命館大学大学院日本文学専攻修了。朝鮮京城梨花女子高等女学校教諭、帰国後は京都女子大学教授、1989年定年、名誉教授となる。樋口一葉、半井桃水を研究した。
南部 松夫(なんぶ まつお、1917年11月19日 - 20… 南部 松夫(なんぶ まつお、1917年11月19日 - 2009年8月21日)は、日本の地球科学者。専門は鉱床学・鉱物学。福島県相馬市生まれ。 1947年、東北帝国大学理学部岩石鉱物鉱床教室を卒業し、同大学選鉱精錬研究所(現、素材工学研究所)助手となる。1949年に講師、1953年に助教授、1955年 に東北大学理学博士 「Mineralogical study of limonite from Japan(日本産褐鉄鉱の鉱物学的研究) 」。 1962年に教授へと昇任し、1981年に停年退職。この間、1971年から1976年に同研究所所長。東北大学退職後は、東京理科大学の専任教授や監事にも就任した。
姫田 真佐久(ひめだ しんさく、1916年11月19日 - … 姫田 真佐久(ひめだ しんさく、1916年11月19日 - 1997年7月29日)は、日本の撮影監督である。兵庫県加古川市出身。 帝国美術学校を中退し、1937年4月日活多摩川撮影所(後の大映東京撮影所)に撮影助手として入社。同期には的場徹がいる。渡辺五郎の下で特撮カメラマンを経て、本編班に移り撮影監督デビュー。退社後は主に日活で活動した。今村昌平や神代辰巳との仕事で知られている。「戦後の日本映画を代表する撮影監督の一人」とされている。 日本アカデミー賞を3度受賞した他、1970年には『トラ・トラ・トラ!』でアカデミー賞撮影賞にノミネートされた。
河野 典夫(こうの すけお、1915年11月19日 - 20… 河野 典夫(こうの すけお、1915年11月19日 - 2000年2月18日)は、日本の経営者。日立金属社長を務めた。 山口県出身。1940年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に日立製作所に入社。1956年10月に日立金属に転じ、1964年5月に取締役に就任し、1965年5月に常務、1969年5月に副社長を経て、1971年1月には社長に就任。1985年6月に会長に就任し、1989年6月から相談役を務めた。 1978年4月に藍綬褒章を受章し、1986年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2000年2月18日心不全のために死去。84歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
浅沼 美智雄(あさぬま みちお、1915年11月19日 - … 浅沼 美智雄(あさぬま みちお、1915年11月19日 - 2001年、浅沼 美知雄〈あさぬま みちを〉とも)は、日本の政治活動家、右翼活動家。大日本愛国団体連合・時局対策協議会(時対協)副代表・最高顧問。防共新聞社編集長・主幹。大日本愛国党参与・最高顧問。防共挺身隊隊長・顧問。学生運動純正同盟顧問。全日本愛国者懇親会世話人。大日本愛国団体連合第二代代表。嶽南義塾顧問。言論同志会顧問。皇道民族連盟代表。 東京都八丈島出身。三宅村出身の浅沼稲次郎は遠縁に当たる。日本大学専門部を中退し、読売新聞社記者を経て、戦後、日本社会党に入り杉並区議会議員を1期務める。 1952年、社会党右派から右翼に転向した。
若狭 得治(わかさ とくじ、1914年〈大正3年〉11月19… 若狭 得治(わかさ とくじ、1914年〈大正3年〉11月19日 - 2005年〈平成17年〉12月27日)は、日本の運輸官僚、実業家。運輸事務次官、全日本空輸社長・会長・名誉会長を歴任した。親族に若狭和朋(甥)がいる。 富山県出身。富山県立砺波中学校、旧制富山高校を経て、東京帝国大学に入学した。 1937年(昭和12年)9月、東京帝大法学部政治学科在学中に高等試験行政科に3500人中の32番目で合格した。官庁訪問に際し、若狭は同郷で内務省地方局に所属していた片岡清一に尋ねていた。片岡は若狭に対し、「内務省は、警保局(警察行政全般を指揮していた警察庁の前身)の連中が日ごとに軍人気取りで威張り出してきた。
横山 正松(よこやま しょうまつ、1913年11月19日 -… 横山 正松(よこやま しょうまつ、1913年11月19日 - 1992年8月14日)は、日本の生理学者。医学博士。新潟県北魚沼郡小千谷町(現・小千谷市)出身。旧制新潟医科大学卒業。同大学助手、米子医学専門学校助教授、福島県立医科大学教授を歴任した。この間、結核により数度療養したが、その度に復帰してのロヨラ大学とパリ大学での在外研究にも取り組んだ。
松尾 三郎(まつお さぶろう、1913年(大正2年)11月1… 松尾 三郎(まつお さぶろう、1913年(大正2年)11月19日 - 1998年(平成10年)9月1日)は、日本の工学者・実業家・学校経営者。工学博士(京都大学)。電子開発学園初代理事長。兵庫県出身。 郵政省電波技術審議会委員やソフトウェア産業振興協会副会長も務めた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、工学・技術に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:技術と産業)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
保田 清(やすだ きよし、1913年 <大正2年> 11月1… 保田 清(やすだ きよし、1913年 <大正2年> 11月19日 - 1999年 <平成11年> 3月23日)は、日本の倫理学者。京都大学名誉教授。位階は正四位。 兵庫県神戸市生まれ。1937年京都帝国大学文学部卒業、大学院に進む。1943年大学院特別研究生。1950年京大教養部専任講師、1951年助教授、1962年教授、1977年定年退官、名誉教授。 1987年、勲三等旭日中綬章を受章。1993年「道徳哲学の基本」で、80歳にして文学博士。1999年死去。死没日付をもって正四位に叙された。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
鈴木 敬三(すずき けいぞう、1913年(大正2年)11月1… 鈴木 敬三(すずき けいぞう、1913年(大正2年)11月19日 -1992年(平成4年)7月28日)は、日本の歴史学者。國學院大學名誉教授。専門は風俗史・有職故実学。 東京市浅草区神吉町(現在の台東区東上野)出身。本姓は加賀で、誕生とともに父の生家の養子となる。1938年に國學院大學国史学科を卒業し、1942年から宮内庁図書寮勤務。1946年に退官。國學院高等学校教諭を経て、1951年から國學院大學文学部講師、1960年同助教授、1965年同教授。1984年に定年退職して名誉教授となるまでに、國學院高等学校副校長などを務める。78歳で没し、墓は谷中霊園にある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
関 嘉彦(せき よしひこ、1912年11月19日 - 200… 関 嘉彦(せき よしひこ、1912年11月19日 - 2006年5月4日)は、社会思想史家。政治家。東京都立大学名誉教授。法学博士(京都大学、1962年)。元参議院議員(1期)。イギリス労働党の日本における紹介者として知られる。福岡県福岡市生まれ。
石原 周夫(いしはら かねお、1911年11月19日 - 1… 石原 周夫(いしはら かねお、1911年11月19日 - 1983年12月27日)は、日本の大蔵官僚。大蔵事務次官、日本開発銀行総裁。 広島県御調郡美ノ郷村(現在の尾道市)出身。旧制第一高等学校、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。東京帝大法学部在学中に高等試験行政科を合格。1934年に大蔵省入省(預金部兼大臣官房文書課)。主計局審査課長、主計局法規課長、主計局法規課長兼主計局企画課長、主計局法規課長兼主計局調査課長などを経て、1948年7月10日に主計局総務課長兼主計局調査課長。同年10月8日に主計局第二部長兼主計局主計官。1949年6月1日に主計局次長(次席)。1950年5月から同年7月の間は米国出張として派遣される。
木内 信蔵(きうち しんぞう、1910年11月19日 - 1… 木内 信蔵(きうち しんぞう、1910年11月19日 - 1993年4月7日)は、日本の地理学者。専門は人文地理学。東京大学名誉教授。 東京出身。浦和高等学校卒、東京帝国大学理学部地理学科卒。大学院、理学部助手、講師を経て、1949年に東京大学教養学部助教授。1950年「都市の地理学的研究」で東京大学より理学博士の学位を取得。1954年、教養学部に人文地理学教室を創設。1956年に教授。1971年、定年退官、名誉教授、成城大学教授。1975年、ジョージ・デビッドソン賞受賞。1981年、定年退任。1959年、ベルリン地理学協会から日本人初のカール・リッター賞を受けた。
太田 一夫(おおた かずお、1910年11月19日 - 19… 太田 一夫(おおた かずお、1910年11月19日 - 1990年11月3日)は、日本の政治家、労働運動家。衆議院議員(5期、日本社会党)。保革を問わず「いっぷさん」と親しまれた。 愛知県矢作町大字渡(現岡崎市渡町字宮西)生まれ。碧海郡矢作高等小学校(現岡崎市立矢作中学校)を経て、1927年(昭和2年)に上京。東京市下谷区の岩倉鉄道学校(現岩倉高等学校)に入学。下谷区坂本町4丁目にあった東京朝日新聞の新聞販売店で住み込みで働きながら、昼間は学校に通う。1929年(昭和4年)10月、同校を首席で卒業。12月、名古屋鉄道に入社。 1945年(昭和20年)12月10日、名古屋鉄道労組を結成。1948年(昭和23年)8月、名古屋鉄道労組書記長、私鉄中部地連書記長に就任。
稲葉 修(旧字体: 稻葉 修、いなば おさむ、1909年〈明… 稲葉 修(旧字体: 稻葉 修、いなば おさむ、1909年〈明治42年〉11月19日 - 1992年〈平成4年〉8月15日)は、日本の政治家、文部大臣(第94代)、法務大臣(第34代)、衆議院議員(14期)。法学博士。 兄の稲葉圭亮も政治家で衆議院議員だった。長男は元衆議院議員の稲葉大和。 1909年11月19日、現在の新潟県村上市に生まれる。村上中学、旧制山形高校といずれの学校でもいわば武勇伝(中学では生徒会長として祭りの日に学校を休みにしろと同盟休校を主導したため、高校ではカンニングが発覚したため)での中途退学を経て、1936年中央大学法学部独法学科を卒業。1940年中央大学大学院を修了。1945年中央大学教授に就任。
岡内 英夫(おかうち ひでお、1908年11月19日 - 2… 岡内 英夫(おかうち ひでお、1908年11月19日 - 2004年4月21日)は、日本の経営者。資生堂社長、会長を務めた。 香川県綾歌郡国分寺町出身。1929年に高松高等商業学校を卒業し、同年8月に資生堂に入社した。1947年に取締役に就任し、1960年12月に常務、1966年に専務を経て、1967年1月に社長に就任した。貿易自由化によって、外資化粧品の流入が懸念されると、女優を起用した「四季」のキャンペーンを展開し、商品だけではなく、CMソングまでにヒットさせるお家芸を確立させ、同社を流行・文化発信企業に育て上げた。当時の業界では、多角化経営が全盛していた頃でも、本業に徹していた。1975年1月に会長に就任し、1978年2月から相談役を務めた。
浪花 千栄子(なにわ ちえこ、本名:南口 キクノ(なんこう … 浪花 千栄子(なにわ ちえこ、本名:南口 キクノ(なんこう きくの)、1907年〈明治40年〉11月19日 - 1973年〈昭和48年〉12月22日)は、日本の女優。昭和初期から中期(1920年代後半 - 1970年代前半)に活動した。 大阪府南河内郡大伴村大字板持(現在:富田林市東板持町)に、養鶏業を営む家に生まれる。8歳の時に道頓堀の仕出し弁当屋に女中奉公に出される。その後、京都で女給として働いていたが、18歳のとき、知人の紹介で村田栄子一座に入る。間もなく舞台にも立つようになるが、不入りが続き、東亜キネマ等持院撮影所に移る。香住 千栄子の芸名で端役出演を続け、1926年(大正15年)に山上伊太郎の初シナリオによる大作『帰って来た英雄』の準主役に大抜擢され、それ以来順調に役をこなしていく。
森部 静武(もりべ しずたけ、1906年(明治39年)11月… 森部 静武(もりべ しずたけ、1906年(明治39年)11月19日 - 1994年(平成6年)7月14日)は、日本のヴァイオリニスト。九州交響楽団専務理事。勲五等瑞宝章を1978年(昭和53年)に受賞。父は陸軍少将の森部静夫。 鈴木章に師事していた。 福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)卒業後、早稲田高等学院商科に進むも1928年(昭和3年)に中退。1930年(昭和5年)、東邦電力に入社。1935年(昭和10年)、九州鉄道(現・西日本鉄道)に入社。1961年(昭和36年)スポーツセンター常務に就任し、1967年(昭和42年)に退任。 学生時代からヴァイオリンを始め、戦前はヴァイオリニストとしてNHKに出演。戦後の1953年(昭和28年)九州交響楽団設立にあたり、懇意であった石丸寛と行動をともにする。
小島 威彦(こじま たけひこ、1903年11月19日 - 1… 小島 威彦(こじま たけひこ、1903年11月19日 - 1996年12月1日)は、日本の哲学者。明星大学名誉教授。 実業家・政治家の深尾隆太郎は妻の父。兄に海軍少将の小島秀雄。 神戸出身。1928年、京都帝国大学文学部哲学科卒業。1930年、同大学院修了。1932年、中華民国に留学。1936年、英国・フランス・ドイツに学ぶ。 1930年、仲小路彰らと科学アカデミアを創立。同人に、佐々弘雄・三枝博音・飯島正・冨澤有爲男・唐木順三・渡辺一夫・服部之総らがいた。1938年、国民精神文化研究所所員となって以降、右翼思想を喧伝。国家学者の大串兎代夫や教育学者の伏見猛彌と共に精研三羽烏と呼ばれる。 出版社の世界創造社、および編集プロダクション兼文化サロン「戦争文化研究所」を創設。
小椋 広勝(おぐら ひろかつ、1902年11月19日 - 1… 小椋 広勝(おぐら ひろかつ、1902年11月19日 - 1968年11月6日)は、日本の経済学者。東京出身。東京商科大学(現在の一橋大学)卒。共産党系の文化団体・プロ科で活動しつつ法政大学商業学校(現在の法政大学中学高等学校の前身のひとつ)で教えるが、1928年、三・一五事件で検挙され退職。1937年、同盟通信社に入社。戦後はレッドパージにあい、世界経済研究所理事、1959年、立命館大学教授。在職中に死去。
水野 弘元(みずの こうげん、1901年11月19日 - 2… 水野 弘元(みずの こうげん、1901年11月19日 - 2006年1月1日)は、日本のパーリ語仏教(原始仏教)の研究者、僧侶。駒澤大学総長を務めた。同大名誉教授、東京大学文学部教授。学位は、文学博士(東京大学)。インドナーランダ大学名誉文学博士。 1901年、佐賀県に生まれた。曹洞宗第四中学林(現高川学園高等学校・中学校)、山口高等学校経て、東京帝国大学に進学。1928年、東京帝国大学文学部印度哲学科を卒業し、同大学大学院に進んだ。 1935年、駒澤大学講師に就任。1940年、教授に昇進。1959年から1962年には、東京大学教授を兼任した。1976年より駒澤大学副学長、1982年より駒澤大学総長をつとめた。