小此木 彦三郎(おこのぎ ひこさぶろう、1928年〈昭和3年… 小此木 彦三郎(おこのぎ ひこさぶろう、1928年〈昭和3年〉1月26日 - 1991年〈平成3年〉11月4日)は、日本の政治家。位階は正三位勲一等。建設大臣(第52代)、通商産業大臣(第43代)、衆議院議員(8期)。 神奈川県横浜市出身。父親は衆議院議員の小此木歌治。三男は元衆議院議員の小此木八郎。1945年5月の横浜大空襲で母と妹を亡くす。 神奈川県立第一中学校を経て、1952年に早稲田大学文学部哲学科卒業。父の教育方針で関西で修業、1953年に父が死去、家業の材木商を継ぐ。藤木企業の大番頭の伊藤清蔵の長女と結婚。 1963年、横浜市会議員にトップで初当選。人口増加問題や遅れをとっていた都市整備問題に取り組む。
笠原 嘉(かさはら よみし、1928年1月26日 - 202… 笠原 嘉(かさはら よみし、1928年1月26日 - 2025年10月6日)は、日本の医学者・精神科医。専門は精神病理学。名古屋大学名誉教授。元藤田保健衛生大学教授。元日本精神神経学会理事長。学位は、医学博士(京都大学・1959年)。 中井久夫、宮本忠雄、木村敏、安永浩らとともに、日本における精神病理学第2世代を代表する人物である。1958年、京都大学で師事した村上仁教授から精神病理学を学んだ。学園紛争時代には京都大学保健管理センターに勤務し、ひっそりと留年をくり返す学生に気づき、スチューデント・アパシー(退却神経症)の研究を行った。また、日本における健康保険制度は諸外国と比して低廉に受診できるメリットがあるが、一方面接時間は10分程度が限界であり(初診のみ45分程度必要と述べている)、薬物療法を補完する技法として外来でできる小精神療法を提唱している。
児島 襄(こじま のぼる、1927年1月26日 - 2001… 児島 襄(こじま のぼる、1927年1月26日 - 2001年3月27日)は、日本の作家、戦記作品を多数著した。
有馬 直和(ありま なおかず、1927年(昭和2年)1月26… 有馬 直和(ありま なおかず、1927年(昭和2年)1月26日 - 2013年(平成25年)6月3日)は、昭和から平成時代の政治家。実業家。福岡県直方市長。 福岡県出身。1948年(昭和23年)熊本工業専門学校採鉱科(現熊本大学工学部)卒業。 1952年(昭和27年)有馬鉱業専務、1964年(昭和39年)同社長を経て、1979年(昭和54年)以来、直方市長に4選。1995年(平成7年)引退した。 2013年(平成25年)6月3日、心不全のため死去した。
荒川 克郎(あらかわ かつろう、1926年1月26日 - 2… 荒川 克郎(あらかわ かつろう、1926年1月26日 - 2021年6月6日)は、日本の経営者。神戸新聞社社長を務めた。兵庫県神戸市出身。 1948年に関西学院大学経済学部を卒業し、1949年に神戸新聞社に入社した。1976年に監査役に就任し、1979年に取締役、1982年に専務を経て、1987年に社長に就任。1997年に会長を経て、1999年に相談役に就任。社長在任時には、1995年の阪神淡路大震災の際には、本社屋に大きな被害が出ている中でも、京都新聞社の協力を得た上で新聞の発行を継続した。1998年11月に勲二等瑞宝章を受章。 2021年6月6日老衰のために死去。95歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
友田 好文(ともだ よしぶみ、1926年1月26日 - 20… 友田 好文(ともだ よしぶみ、1926年1月26日 - 2007年12月17日)は、日本の地球科学者(地球物理学)。勲等は勲二等。学位は理学博士(東京大学・1961年)。東京大学名誉教授、日本学士院会員。 東京大学海洋研究所教授、東海大学海洋学部教授などを歴任した。 ヴァイオリニストの友田啓明は弟。イェール大学教授の唐戸俊一郎は娘婿にあたる。 東京府出身の地球物理学を専攻する地球科学者である。動揺の激しい海況でも使用できる船上重力計を開発するとともに、プレート沈み込み地域における地下構造の解明に貢献するなど、日本の海底物理学を国際水準にまで高めたことで知られている。東京大学、東海大学で教鞭を執った。
柳川 啓一(やながわ けいいち、1926年(大正15年)1月… 柳川 啓一(やながわ けいいち、1926年(大正15年)1月26日 - 1990年(平成2年)4月3日)は、日本の宗教学者。東京大学名誉教授。正四位勲三等旭日中綬章。[いつ?] 兵庫県出身。1948年(昭和23年)、東京帝国大学宗教学科卒業。1952年(昭和27年)、東京大学大学院修了。 1973年(昭和48年)から1986年(昭和61年)まで東京大学文学部教授を務め、1987年(昭和62年)、定年退官後は、國學院大學文学部神道学科教授。1980年(昭和55年)から1982年(昭和57年)まで日本宗教学会会長を務めた。 東京大学では中沢新一、植島啓司、中原俊、島田裕巳、渡辺直樹、石井研士、四方田犬彦、鶴岡賀雄、林淳、竹沢尚一郎、島薗進、中牧弘允らを教えた。
佐々木 紫郎(ささき しろう、1926年1月26日 - 20… 佐々木 紫郎(ささき しろう、1926年1月26日 - 2025年1月2日[要出典])は、日本の自動車技術者。トヨタ自動車取締役副社長や、自動車技術会会長、豊田中央研究所代表取締役を務めた。 山梨県甲府市生まれ。1949年旧制北海道大学工学部機械工学科卒業、トヨタ自動車工業入社、技術部設計課配属。1969年から製品企画室主査を務め、2代目・3代目トヨタ・カローラの開発責任者などを務めた。1977年製品企画室副室長(参与)。1982年製品企画室室長。1984年常務取締役。1986年専務取締役監査改良室室長。1988年取締役副社長。1990年自動車技術会会長。1992年相談役、豊田中央研究所代表取締役。
濃野滋(こいの しげる、1925年1月26日 - 没年不明)… 濃野滋(こいの しげる、1925年1月26日 - 没年不明)は、日本の通産官僚。通産事務次官、川崎製鉄副社長、同社副会長などを務めた。 東京府出身。旧制東京高等学校から東京帝国大学法学部政治学科に入学。短期現役海軍主計科士官(12期)を志願。1944年9月、海軍経理学校に入学し1945年に卒業。同年6月、海軍主計少尉に任官して終戦を迎え、その後、解員(復員)した。 1947年 東京帝国大学法学部政治学科を卒業。東京帝大時代の仲間に大蔵省に入省する渥美謙二がいた。同年11月 商工省に入省。振り出しは総務局総務課(現在の大臣官房総務課)。 通商局輸出振興部輸出保険課長、通商局経済協力部資本協力課長、企業局産業立地部工業用水課長、在中国日本大使館一等書記官などを務める。
恩田 彰(おんだ あきら、1925年1月26日 - 2015… 恩田 彰(おんだ あきら、1925年1月26日 - 2015年7月20日)は、教育心理学者、東洋大学名誉教授。 東京出身。1948年東京帝国大学文学部心理学科卒、労働科学研究所研究生、1952年川村短期大学助教授、1954年東洋大学文学部助教授、63年教授、1972年「創造性の研究」で東洋大学文学博士。95年定年退任、名誉教授。創造教育学会名誉会長。日本心霊科学協会理事。
木村 礎(きむら もとい、1924年1月26日 - 2004… 木村 礎(きむら もとい、1924年1月26日 - 2004年11月27日)は、日本の歴史学者。専門は、地方史・村落史。明治大学名誉教授。 東京都生まれ。明治大学専門部地歴科を経て1950年東京文理科大学史学科卒業。1958年に明治大学文学部助教授、1963年教授、1980年大学院長、1988年学長となる。この間1972年に「日本の共同体」で文学博士の学位を取得。1991年の替え玉入試事件を受けて翌年3月末をもって学長を辞任。1995年定年、名誉教授。著作集全11巻がある。 2004年11月27日、脳内出血のため死去。
京極 純一(きょうごく じゅんいち、1924年〈大正13年〉… 京極 純一(きょうごく じゅんいち、1924年〈大正13年〉1月26日 - 2016年〈平成28年〉2月1日)は、日本の政治学者。専門は政治意識論、日本政治論。東京大学教授、千葉大学教授、東京女子大学学長などを歴任した。文化功労者。日本学士院会員。
寺尾 晃洋(てらお こうよう、1923年1月26日 - 20… 寺尾 晃洋(てらお こうよう、1923年1月26日 - 2003年6月23日)は、日本の経済学者。関西大学名誉教授。専門は、公企業論、水道事業論。商学博士(関西大学、1990年)。 公益事業学会理事、国際公共経済学会理事、京都市交通事業審議会委員、大山崎町・大阪府・吹田市・東大阪市・堺市・摂津市・川西市・豊中市の水道事業審議会委員、大阪市政調査会理事などを歴任。
山口 年一(やまぐち としかず、1923年1月26日 - 2… 山口 年一(やまぐち としかず、1923年1月26日 - 2006年2月12日)は、日本の会計学者。亜細亜大学名誉教授。 神奈川県足柄下郡生まれ。1954年早稲田大学大学院商学研究科修士課程修了。 1957年亜細亜大学商学部専任講師、62年助教授、65年教授、70年経営学部教授。93年定年、名誉教授となる。
輝昇 勝彦(てるのぼり かつひこ、1922年1月26日 - … 輝昇 勝彦(てるのぼり かつひこ、1922年1月26日 - 1967年2月20日)は、北海道留萌市(出生時は留萌郡留萌町)出身で高島部屋に所属した大相撲力士。本名は小林 良彦(こばやし よしひこ)。最高位は東関脇。 1922年1月26日、北海道留萌郡留萌町(現在の留萌市)にて、官吏の家に次男として生まれた。子供の頃から留萌町の相撲大会での怪力ぶりが話題となる。 高島部屋へ入門。1937年5月場所に於いて、15歳で初土俵を踏んだ。 体格面ではほとんど恵まれていなかったが、1日3000回の鉄砲を行ったと伝わる猛稽古で後の武器となる突っ張りを鍛え上げ、突き押し相撲で序二段・三段目で優勝、幕下も1場所で通過して1941年1月場所で新十両昇進、19歳で関取となった。
清沢 哲夫(きよざわ てつお、1921年1月26日 - 20… 清沢 哲夫(きよざわ てつお、1921年1月26日 - 2000年1月20日)は、愛知県碧南市出身の宗教家・哲学者。大谷大学助教授を務め、晩年は石川県白山市「明達寺」(真宗大谷派)の住職としてすごした。清沢満之の孫。暁烏敏の孫・宣子と結婚し、暁烏 哲夫(あけがらす てつお) と改姓。 大正10年(1921年)愛知県碧南市の西方寺に生まれる。碧南市大浜尋常小学校、愛知県立刈谷中学校、大谷大学予科(ドイツ語科)を経て、昭和19年(1944年)大谷大学文学部西洋哲学科卒業。学徒動員され約2年間の軍隊生活を送る。戦争中に体験した「人間の獣性の事実」「人間の死の事実」を転機として復員後は社会の問題に向き合い、まず実家西方寺において「形骸化し死化した寺院制度」を改革しようとする。
盛田 昭夫(もりた あきお、1921年1月26日 - 199… 盛田 昭夫(もりた あきお、1921年1月26日 - 1999年10月3日)は、日本の技術者、実業家。井深大と共に、電気機器メーカーソニー創業者の一人。1992年(平成4年)、名誉大英帝国勲章を受勲。
左近 友三郎(さこん ともさぶろう、1921年1月26日 -… 左近 友三郎(さこん ともさぶろう、1921年1月26日 - 2002年8月16日)は、日本の官僚、経営者。中小企業庁長官、共同石油社長、会長を務めた。京都府京都市出身。 1944年に東京帝国大学法学部を卒業し、学徒動員で満洲に出征。終戦後は3年間のシベリア抑留を経て、帰国。1949年に商工省に入省し、1978年6月に中小企業庁長官に就任。1980年6月に東京銀行顧問に就任。1982年6月に共同石油専務に就任し、1983年6月に副社長を経て、1985年11月に社長に就任した。1990年6月には会長に就任した。1992年12月に日本鉱業と合併し、日鉱共石副会長に就任し、1996年6月には相談役に退いた。
佐々木 敏(ささき さとし、1921年 <大正10年> 1月… 佐々木 敏(ささき さとし、1921年 <大正10年> 1月26日 - 2003年 <平成15年> 3月9日)は、日本の官僚、経営者。商工組合中央金庫理事長を務めた。位階は正四位。 愛知県出身。1944年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、高文行政科にも合格し、同年9月に軍需省に入省。1971年8月に通商産業省繊維雑貨局長に就任し、1972年6月を以って、退官。1978年7月に日本商工会議所、東京商工会議所各専務理事を経て、1983年11月から1987年11月までに商工組合中央金庫理事長を務めた。 1992年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2003年3月9日肺炎のために死去。82歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
岩本 信一(いわもと のぶかず、 1921年1月26日 - … 岩本 信一(いわもと のぶかず、 1921年1月26日 - 2000年1月20日)は、広島県三次市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・審判員。 兄は元祖神主打法として知られる岩本義行。 旧制広陵中学では白石勝巳らの2学年下に当たり、中学時代は主力投手ではなかったが、卒業後の1939年に明治大学へ進学。谷沢梅雄監督率いる黄金時代で活躍し、戦後は明電舎を経て、1946年に広陵の先輩・平桝敏男や濃人渉、門前眞佐人らと広島駅前で遊興産業に携わっていた広島鯉城園のノンプロチームに参加。同年夏に戦後初の都市対抗野球大会へ出場し、初戦で先発・橋本正吾の後を継ぐ2番手としてマウンドに上がるも、この大会優勝した大日本土木に打ち込まれ惨敗した。
兵藤 和男(ひょうどう かずお、1920年1月26日 - 2… 兵藤 和男(ひょうどう かずお、1920年1月26日 - 2012年6月23日)は、日本の洋画家。 1920年(大正9年)1月、横浜市中区真砂町1丁目の絹織物輸出商の家庭に兄一人・姉二人のいる末っ子として生まれる。父の和四朗は河東碧梧桐に師事した俳人、母せいは群馬県桐生の機織業者矢島家の三女であった。1923年に発生した関東大震災の後に、三渓園にほど近い中区間門町に移る。1932年、考古学を専攻する兄に代わり家業を継ぐため横浜市立横浜商業学校に入学。1933年、同校2年生在学中に、幼稚園からの同窓の堀江祐造に刺激され油絵を始める。翌年の夏休みからは市内弘明寺町にあった川村信雄の画塾に通い、主に石膏デッサンを学ぶ。
高橋 萬右衛門(たかはし まんえもん、1918年1月26日 … 高橋 萬右衛門(たかはし まんえもん、1918年1月26日 - 2004年6月5日)は、日本の植物育種学者。農学博士(北海道大学)。北海道大学名誉教授。岩手県水沢市(現・奥州市)生まれ。 1940年(昭和15年)北海道帝国大学農学部卒業。同年、同農学部助手(指導教授:長尾正人)。1947年北海道大学農学部助教授。1957年北海道大学農学博士(論文「稲体の花青素着色に不可欠なる[フ]先色遺伝子の分析」)。 1965年北海道大学農学部教授。1977年(昭和52年)同農学部長。1981年北海道大学停年退官、同名誉教授。同年北海道武蔵女子短期大学学長就任。1987年(昭和62年)北海道グリーンバイオ研究所(農林水産省の研究機関)所長。
古屋 龍太郎(ふるや りゅうたろう、1917年1月26日 -… 古屋 龍太郎(ふるや りゅうたろう、1917年1月26日 - 没年不明)は、日本の経営者。松屋社長を務めた。 東京都出身。1940年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1945年12月に松屋に入社。1963年4月に取締役に就任し、1969年4月に常務、1972年4月に専務を経て、1974年4月には社長に就任し、1979年6月までに務めた。 祖父は初代古屋徳兵衛。伯父は二代古屋徳兵衛。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
高宮 行男(たかみや ゆきお、1917年1月26日 - 20… 高宮 行男(たかみや ゆきお、1917年1月26日 - 2009年6月30日)は、日本の実業家、予備校経営者。國學院大學院友会第10代会長。「代々木ゼミナール」の創業者として知られる。北海道出身。 北海道滝川市に生まれる。生家は御嶽山神社で、高宮家は出雲の神官の係累である。 1938年に國學院大學神道学部を卒業し、太平洋戦争中は札幌歩兵第二十五連隊で連隊旗手を務めた。1943年に、東京都内でキャバレー、質屋、パチンコ屋チェーンなどを経営していた増田商事の社長増田亀吉の娘と結婚する。 義父に見込まれて経営に携わり1953年に開設した予備校「不二学院」で会計を担当したが、義父と離反して学院の支配権を掌握する。
玉川 敏雄(たまがわ としお、1916年1月26日 - 19… 玉川 敏雄(たまがわ としお、1916年1月26日 - 1994年9月13日)は、日本の経営者。東北電力社長、会長を務めた。山形県山形市出身。 1938年に早稲田大学専門部商科を卒業し、1944年に東北配電(のちの東北電力)に入社。1974年に取締役に就任し、1977年に常務、1979年に副社長を経て、1983年6月に社長に就任。1987年6月に会長に就任し、1993年には取締役相談役に就任。1983年から1993年までに東北経済連合会会長を務めた。 1984年に藍綬褒章を受章し、1991年に勲一等瑞宝章を受章。 1994年9月13日肺癌のために仙台市の病院で死去。78歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
宮入 潔(みやいり きよし、1914年1月26日 - 200… 宮入 潔(みやいり きよし、1914年1月26日 - 2004年12月22日)は、日本の経営者。長野県長野市出身。 旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て、1934年に山梨高等工業学校機械工学科を卒業し、同年に久保田製作所に入社し、豊田自動織機製作所、トヨタ自動車工業での勤務を経て、1959年4月に豊田通商に移り、同年5月には常務に就任した。 1961年11月に専務に就任し、1968年5月に社長に昇格した。1977年7月から相談役を務めた。 1978年11月に藍綬褒章を受章し、1983年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。 2004年12月22日急性心不全のために死去。90歳没。
原 茂(はら しげる、1913年1月26日 - 1997年1… 原 茂(はら しげる、1913年1月26日 - 1997年12月1日)は、日本の政治家。位階は従三位。日本社会党衆議院議員(10期)。 なお、元日本炭鉱労働組合(炭労)委員長の同名人物は別人である。 長野県諏訪郡玉川村(現茅野市)出身。旧制錦城中学(錦城学園高等学校)卒業、東京外国語学校特別研修講座修了。1946年に社会党に入党。1952年の総選挙で旧長野3区から左派社会党公認で立候補して当選。以来連続10回当選、1962年から社会党長野県本部委員長、1966年社会党本部中央執行委員、財務委員長、1976年代議士会長などを務めた。1967年には日ソ文化交流調印式に社会党代表として調印した。1979年の総選挙では同じ選挙区から元長野県議の串原義直も立候補したため両者で票を食う形になりともに落選した。
公文 茂治(くもん しげはる、1913年〈大正2年〉1月26… 公文 茂治(くもん しげはる、1913年〈大正2年〉1月26日 - 2014年〈平成26年〉5月23日)は日本の実業家、元日本油脂取締役。 1913年高知県生まれ。1936年東京大学法学部卒業。同年、日本油脂に入社。1967年日本油脂取締役に就任した。 2014年5月23日に誤嚥性肺炎のため101歳で死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
下西 文雄(しもにし ふみお、大正2年(1913年)1月26… 下西 文雄(しもにし ふみお、大正2年(1913年)1月26日 - 平成5年(1993年)4月24日)は日本の政治家。元境港市議会議員。元境港市日朝友好協会会長。元山市との友好都市協定締結に尽力。 鳥取県境港市に生まれる。 早大政経学部中退。1935年満州国産業指導官。 帰国後、中学校教諭となる。1951年境町助役、1955年から境港市議会議員。正副議長など歴任。 1990年10月第6次訪朝にあたって、金日成主席は、多年にわたる日朝親善につとめる下西文雄団長に「人民親善勲章(第2級)」を贈ってその功労をたたえた。
相馬 雪香(そうま ゆきか、1912年〈明治45年〉1月26… 相馬 雪香(そうま ゆきか、1912年〈明治45年〉1月26日 - 2008年〈平成20年〉11月8日)は、日本の平和活動家。位階は正五位。 「憲政の神様」と言われた尾崎行雄の三女であり、欧州を回る父に随行し、通訳を務めた。戦後は道徳再武装(MRA)運動などの社会活動に取り組むと共に、民主主義と議会政治の普及に尽力した尾崎行雄の理想の普及を目的とした「尾崎行雄記念財団」の副会長を務めた。また、インドシナ難民救済のために「難民を助ける会」を設立し、対人地雷廃絶に向けた活動、子供や障害者への援助に取り組んだ。他にも多くの団体の要職を務め、世界各地で活躍した。「日本のNGOのパイオニア」とも呼ばれる。
津村 枕石(つむら ちんせき、1912年(明治45年)1月2… 津村 枕石(つむら ちんせき、1912年(明治45年)1月26日 - 1997年(平成9年)1月7日)は、和歌山県御坊市出身の書家。本名、津村 俊次郎(つむら しゅんじろう)。小林増石に書の手ほどきを受け、炭山南木に師事する。 1953年(昭和28年)、日展に初入選を果たし、以後連続入選する。1962年、自身の一門として『石門会(せきもんかい)』を創設。1963年に、日展で特選を得た後は、1966年に日展委嘱、1974年に日展審査員となる。1970年に和歌山県立日高高等学校を退職し、続いて大阪教育大学講師となる。御坊市文化賞、国際アカデミー賞、和歌山県文化功労賞、田辺市特別表彰などを得る。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
柴田 勝治(しばた かつじ、1911年〈明治44年〉1月26… 柴田 勝治(しばた かつじ、1911年〈明治44年〉1月26日 - 1994年〈平成6年〉8月20日)は、日本の元アマチュアボクシング選手・指導者であり、教育者であった人物である。 岩手県二戸郡鳥海村(現在の二戸郡一戸町月館)出身。幼年時代を故郷で過ごした後に旧制日本大学第二中学校へ進学。その後、日本大学高等師範部国語漢文科(現・日本大学文理学部)へ進学。大学時代にボクシング(拳闘)部へ入り、ライト級ボクサーとして活動。1931年(昭和6年)、日本大学2年次の時に日比谷公会堂にて明治大学の選手と公式試合を行った際に最終ラウンドに柴田と対戦相手が互いの強打でキャンパスに沈むダブルノックダウンを喫した。
森 治樹(もり はるき、1911年〈明治44年〉1月26日 … 森 治樹(もり はるき、1911年〈明治44年〉1月26日 - 1988年〈昭和63年〉8月19日)は、日本の外交官である。 福岡県出身。1933年(昭和8年)、東京帝国大学法学部法律学科卒業後、1935年(昭和10年)に外務省に入省。1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終戦当時は条約局事務官であり、"United Nations"を国際連合と訳したのは森だとする説がある。1952年(昭和27年)の日伊国交回復後、在イタリア日本大使館の参事官となった。1957年(昭和32年)、北米局長に就任。1967年(昭和42年)、OECDの日本での活動を規定する協定に署名した。1970年(昭和45年)7月10日から1972年(昭和47年)4月28日まで外務事務次官を務めた。
村上 仁(むらかみ まさし、1910年1月26日 - 200… 村上 仁(むらかみ まさし、1910年1月26日 - 2000年11月1日)は、日本の医学者・精神科医。専門は精神病理学。京都大学名誉教授。元名古屋市立大学医学部教授、元兵庫医科大学医学部教授。学位は、医学博士。 西丸四方、島崎敏樹らと共に、日本の精神病理学第一世代を代表する人物である。精神医学の基礎領域である精神病理学を広く精神科臨床に根付かせるなど、日本の精神医学の発展に大きく貢献した。1964年には日本精神病理・精神療法学会を創設し、後に京都学派と呼ばれる多くの精神医学者を輩出した。フランス留学時にはジャネの心理学体系を学び、ウジェーヌ・ミンコフスキー、ルートヴィヒ・ビンスワンガー、メダルト・ボスなどの人間学的理解に加えて、ジークムント・フロイトの精神力動的視点から患者の精神構造の理解を試みた。
佐藤 哲三(さとう てつぞう、1910年1月26日 - 19… 佐藤 哲三(さとう てつぞう、1910年1月26日 - 1954年6月25日)は、日本の洋画家。新潟県長岡市に生まれ、新発田市で生涯を過ごす。蒲原平野や農民などを主なモチーフとし、郷土に根ざした作品を制作した。1954年、白血病で死去。 1910年(明治43年)1月26日、新潟県古志郡長岡町(現:長岡市)に新発田藩士の末裔である父、佐藤英雄、母、菊乃との間に五人兄弟姉妹の三男として生まれる。父親は哲三の出生後まもなく台湾へ渡る。その翌年、母親は哲三とその兄姉を連れて新発田市に移転。1914年、哲三は脊椎カリエスを患い、背骨に障害を負う。1916年に父親が帰国、一家は新発田上町に移転し、書画骨董店『十万堂』を開業する。
福井 順一(ふくい じゅんいち、1909年1月26日 - 没… 福井 順一(ふくい じゅんいち、1909年1月26日 - 没年不明)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 福岡県出身。早稲田大学卒。東邦精工、中央商事、政治経済研究所、新政、泰西映画各社長を歴任。1949年の第24回衆議院議員総選挙で千葉3区から民主自由党公認で立候補したが落選。1952年の第25回衆議院議員総選挙で自由党公認で立候補して初当選。以来3期務めた。この間、第1次岸内閣北海道開発政務次官、衆議院国土総合開発特別委員長を歴任した。1960年の第29回衆議院議員総選挙で落選。1963年の第30回衆議院議員総選挙から選挙区を福岡1区に移したが、3回続けて落選した。
井手 光治(いで みつじ、1905年(明治38年)1月26日… 井手 光治(いで みつじ、1905年(明治38年)1月26日 - 1986年(昭和61年)12月30日)は、昭和期の公吏、政治家、実業家。衆議院議員(1期)、芝区長、港区長(公選初代) 長崎県出身。1924年(大正13年)長崎商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)を卒業。その後、早稲田専門学校で学んだ。 東京市役所に入り事務員となる。その後、東京都制施行に伴い東京都事務官に就任。1945年(昭和20年)12月、芝区長に就任。1947年(昭和22年)4月、公選初代港区長に選出された。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で東京都第1区から民主自由党公認で立候補して当選し、衆議院議員に1期在任した。
板野 勝次(いたの かつじ、旧姓:森本、1903年1月26日… 板野 勝次(いたの かつじ、旧姓:森本、1903年1月26日 - 1985年12月30日)は、日本の政治家、労働運動家。参議院議員(日本共産党公認、1期)、清涼飲料協同組合理事長。 岡山県岡山市紺屋町で古物商を営む森本岩助、寿子夫妻の次男として生まれる。3歳の時に広島に住む寿子の兄・板野安次郎の養子に出され板野姓を名乗る。岡山県立商業学校(現・岡山県立岡山東商業高等学校)在学中から社会主義に目覚め、商業学校卒業後の1920年12月、堺利彦や山川均、大杉栄らが率いる日本社会主義同盟に加入する。 同盟は程なくして解散に追い込まれるが、在籍中は山川からマルクスの『共産党宣言』についての講義を聞き、労働組合の必要性を悟った板野は、1922年12月に県下初の本格的な労働組合・岡山労働組合を発足させる。
三上 章(みかみ あきら、1903年〈明治36年〉1月26日… 三上 章(みかみ あきら、1903年〈明治36年〉1月26日 - 1971年〈昭和46年〉9月16日)は、日本の言語学者。数学教師。筆名に、加茂 一政(かも いっせい)。従来の主語概念を否定して、「何々は」と「何々が」との機能差を明確にした「主語廃止論(主語否定論)」などで知られる。数学史家の三上義夫は大叔父にあたる。 広島県高田郡甲立村大字上甲立(現・安芸高田市)出身。1960年に『構文の研究』で文学博士(東洋大学、1960年)。『象は鼻が長い』などの日本語研究で知られている。三上自身が創立期に参加していた奥田靖雄・鈴木重幸らの言語学研究会での評価のほか、世界的な評価もあり1970年にはハーバード大学に招かれて講義を行ったことがある。
華頂宮博忠王(かちょうのみや ひろただおう、1902年(明治… 華頂宮博忠王(かちょうのみや ひろただおう、1902年(明治35年)1月26日 - 1924年(大正13年)3月19日)は、日本の皇族、海軍軍人。 博恭王が華頂宮当主であった時の王子。1902年(明治35年)1月26日に誕生した第2王子。2月1日、博忠と命名される。博恭王が実系である伏見宮を継承するにあたり、博忠王は僅か2歳(明治37年1月15日附)で華頂宮の家督を継承する。学習院初等科時代は、裕仁親王(後の昭和天皇)と同級だった。中等学科4年より海軍兵学校予科へ進む。博忠王の海軍兵学校時代初期、校長は鈴木貫太郎海軍中将であった。 海軍兵学校を卒業(49期)した博忠王は1921年(大正10年)7月16日附で海軍少尉候補生となり、装甲巡洋艦八雲乗組を命じられる(同級の朝融王は出雲乗組)。
蔵原 惟人(くらはら これひと、1902年(明治35年)1月… 蔵原 惟人(くらはら これひと、1902年(明治35年)1月26日 - 1991年(平成3年)1月25日)は、日本の評論家である。ペンネームは古川荘一郎。駄じゃれが好きという一面もある。
李 泰圭(イ・テギュ、朝鮮語: 이태규、1902年1月26日… 李 泰圭(イ・テギュ、朝鮮語: 이태규、1902年1月26日 - 1992年10月26日)は、大韓民国の化学者。日本の植民地統治期には数少ない朝鮮人の博士号取得者・帝国大学教員の一人であった。 本貫は全州李氏。政治家の李会昌の伯父に当たる。 大韓帝国忠清南道礼山郡に生まれた。京城高等普通学校を経て1922年に広島高等師範学校(現・広島大学)を卒業。 1927年に京都帝国大学理学部(現在の京都大学理学部)化学科を卒業し、1931年に『還元ニッケルの存在に於ける一酸化炭素の分解』という論文で理学博士号を取得した。 その後、同大学で教鞭を執り、1935年には同大学化学研究所助教授、1938年にプリンストン大学に派遣され研究者として在職し、1941年に京都帝国大学に戻り量子化学を研究、1943年に化学研究所教授となった。
吉田 小五郎(よしだ こごろう、1902年1月26日 - 1… 吉田 小五郎(よしだ こごろう、1902年1月26日 - 1983年8月20日)は、日本の歴史学者、教育者。 新潟県柏崎市出身。1924年、慶應義塾大学文学部史学科卒。大学では幸田成友に師事。慶應義塾幼稚舎職員を1965年まで務める。幼稚舎長、慶大講師などを務め、東西交渉史などに業績を残す。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
五十嵐 丈吉(いからし じょうきち、1902年〈明治35年〉… 五十嵐 丈吉(いからし じょうきち、1902年〈明治35年〉1月26日 - 2013年〈平成25年〉7月23日)は、新潟県三条市在住だった長寿の男性。存命人物のうち日本における男性最高齢だった。 1902年(明治35年)1月26日、三条市で6人兄弟の長男として生まれた。 小学校を卒業後、農業で生計を立てる。病気がちだった妻のミテ(1973年に68歳で死去)や、孫の面倒をみるため50代で隠居。酒やたばこはせず、趣味の菊づくりに励み、左大腿部を骨折する91歳までは庭の松の木に登り、枝にはさみを入れていた。酢をよく使うため、長男はそれが長寿の秘訣ではないかと思うと語っていた。 2008年(平成20年)に特別養護老人ホーム「つかのめの里」に入所。
宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 -… 宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 - 1988年10月21日)は、日本の動物生態学者。京都大学名誉教授。学位は、理学博士(京都帝国大学、1933年)。広島県尾道市生まれ。 宮地が定年退官後、京都大学の教室は京大出身で九州大学助教授であった森下正明が引き継いだ。 その森下正明が定年退官後、川那部浩哉が引き継いだ。杉山幸丸も宮地の流れを汲んでいる。
宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 -… 宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 - 1988年10月21日)は、日本の動物生態学者。京都大学名誉教授。理学博士(京都帝国大学、1933年)。広島県尾道市生まれ。
森本 清吾(もりもと せいご、1900年〈明治33年〉1月2… 森本 清吾(もりもと せいご、1900年〈明治33年〉1月26日 - 1954年〈昭和29年〉6月19日)は、日本の数学者。妻は女性数学者の先駆け森本治枝で、子供4人とも学者となっている。 「群馬近代蚕糸業の祖」といわれる養蚕製糸業「研業社」オーナーで、前橋英和女学校(現・共愛学園前橋国際大学)創設者の深沢(旧姓・大慈谷)利重と妻・孝の五男として生まれる。母方の祖父は前橋藩士、深沢雄象。 師範学校附属小学校を経て、1917年(大正6年)勢多農林学校を卒業する。翌1918年(大正7年)、独学で中等教員検定試験の算術・代数・幾何科に合格する。1919年(大正8年)から赤坂中学校で教鞭を執り、1921年(大正10年)には埼玉県師範学校教諭となった。
春日井 薫(かすがい かおる、1900年1月26日 - 19… 春日井 薫(かすがい かおる、1900年1月26日 - 1981年2月10日)は、昭和期の日本の経済学者・教育学者。専門は金融論。学位は、商学博士(明治大学・1939年)。元明治大学マンドリン倶楽部部長。元明治大学総長。 1900年、愛知県西加茂郡小原村上仁木(豊田市小原大倉町)生まれ。1921年、明治大学専門部商科を卒業。1923から1926年までアメリカ、イギリスに留学した。 1928年、明治大学商学部教授に就任。1939年、学位論文『英國に於ける兌換銀行券發行の原則論議の研究』を明治大学に提出して商学博士号を取得。1949年 より明治大学商学部長。1951年、明治大学学長に就任。1970年からは明治大学総長。
桜井 三郎(さくらい さぶろう、1899年1月26日 - 1… 桜井 三郎(さくらい さぶろう、1899年1月26日 - 1960年4月8日)は日本の政治家、内務官僚。熊本県知事(官選第34代、公選初代-第3代)、参議院議員(1期)。位階は正三位。医学者、参議院議員の高桑栄松は弟。 新潟県西蒲原郡地蔵堂町(現燕市)に10人兄弟の長兄として生まれる。旧制新潟県立巻中学校、旧制第四高等学校を経て、1926年に京都帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、島根県書記官・警察部長、警視庁部長・消防部長、徳島、福岡両県の内政部長などを歴任。戦中は熊本県で官選知事を務め、1947年の熊本県知事選挙に出馬。細川隆元らを退けて当選した。この際、GHQの幹部が桜の枝を持って投票所を回り、桜井を暗に支持する選挙干渉があったという。
工藤 好美(くどう よしみ、男性、1898年1月26日 - … 工藤 好美(くどう よしみ、男性、1898年1月26日 - 1992年2月22日)は、日本の英文学者。 1898年、大分県佐伯生まれ。第五高等学校で種田山頭火を知る。1924年、早稲田大学英文科を卒業。 卒業後は、千葉県立佐倉中学校(現:千葉県立佐倉高等学校)などで教えたのち、1926年に富山高等学校(現:富山大学文理学部)教授に就いた。土居光知の知遇を得て『享楽主義者マリウス』を訳した。1928年、台北帝国大学助教授となった。1930年から1931年まで、英米文学研究のためオックスフォード大学に留学を命じられ、帰国後教授となった。 敗戦後本土へ帰国し、1948年に名古屋大学文学部教授となった。