樺島 正義(かばしま まさよし、1878年1月15日 - 1… 樺島 正義(かばしま まさよし、1878年1月15日 - 1949年)は、日本の橋梁技術者。構造家。 設計思想のうち橋梁については「橋梁外観に配慮することが経済的にマイナスとなっても配慮すべきで、よく練られた外観からもたらされるものは大きく、都市の風格を整えることになる」と、外観の重要性を強調している。 新常盤橋、一石橋、神宮橋、三原橋、鍛冶橋、今川橋、九道橋、高橋、二ノ橋、猫俣橋、羽衣橋、荒川鉄管橋、中川鉄管橋、安倍川橋、犬山橋、大井川橋、南旨橋、鼎岩橋、水郷大橋、境橋、南洋町パラオの橋梁、日本橋呉服橋、大阪四ツ橋、富士川橋など、後世に残る著名橋梁の設計や、日本製鉄工場貯炭場起重機設計など、多くの構造設計に関わったことで知られる。
緑嶌 友之助(みどりしま とものすけ、1878年1月12日 … 緑嶌 友之助(みどりしま とものすけ、1878年1月12日 - 1952年12月16日)は、石川県上新川郡(現:富山県滑川市)出身の大相撲力士。本名は高木 友之助(たかぎ とものすけ)。 1878年1月12日に石川県上新川郡で農家を営む家に二男として生まれた。父親は土地相撲で「緑山」の四股名で大関を務め、友之助も17歳の時点で5斗俵を差し上げて村人を大いに驚かせるほどの怪力を持っていた。当初は京都相撲に加入していたが、兄弟子からいじめを受けたために間もなく帰郷。 春日山部屋(師匠は元幕下二段目・朝日森の)へ、序二段・春柳(後の三段目・小猫又)の世話で入門した。 東京相撲では1898年1月場所で初土俵を踏むとすぐに頭角を現し、1901年1月場所で新十両昇進、1902年5月場所で新入幕を果たした。
垣内 松三(かいとう まつぞう、1878年1月11日 - 1… 垣内 松三(かいとう まつぞう、1878年1月11日 - 1952年8月25日)は、日本の国語教育学者・国文学者。 岐阜県高山市出身。旧姓は代情(よせ)。6歳で分家の垣内雲嶙の養嗣子となった。1903年東京帝国大学国文科卒。 東京帝国大学講師、東京女子高等師範学校教授、1919年ヨーロッパ外遊、1920年東京高等師範学校講師、1924年教授。のち東洋大学教授。 筆名として「まつみ」とも読ませた[要出典]。墓所は雑司ヶ谷霊園。 垣内は国学を研究すると同時に、言語学・心理学・現象学といった西洋諸科学とを止揚する学術体系の構築を目指し、生涯をかけてこれに取り組んでいるが、その渉猟する学術領域の広さ、探究する対象群の深さ、そして独創的な発想と理想の高さは、いずれにおいても他の追随を許さないものとなっている。
谷 信讃(たに しんさん、1878年(明治11年)1月11日… 谷 信讃(たに しんさん、1878年(明治11年)1月11日 - 1962年(昭和37年)3月5日)は、高野寺第4世住職。高野山真言宗宿老・宗機顧問。板垣会館設立発起人。 明治11年(1878年)1月11日、徳島県板野郡鳴門村(現・鳴門市)に生まれる。明治28年(1895年)、高野中学校に入学。明治31年(1898年)、同校卒業後、高野山大学へ進学。さらに京都東寺専修学校に学ぶ。同校卒業後、郷里に戻り、徳島県麻植郡・重楽寺の住職となる。のち、同県板野郡瀬戸町・吉祥寺の住職に転任。さらに同県里浦村師跡・宝珠寺の住職に転じ、鳴門村・潮明寺と兼務した。大正11年(1922年)、高知県高知市・高野寺の第4世住職に就任。
藤井 恵照(ふじい えしょう、1878年〈明治11年〉1月1… 藤井 恵照(ふじい えしょう、1878年〈明治11年〉1月11日 - 1952年〈昭和27年〉12月26日)は 浄土真宗本願寺派僧侶、教誨師。広島県福山市(旧沼隈郡)の正光寺出身。 この間、保護施設の台南累功舎の創立、高松讃岐修正会と東京の小菅真哉会の整備。1926年(大正15年)、両全会、帝国更新会と和敬会母子寮の創立に当たる。刑務所内の売店の権利を獲得して保護事業の資金にするなどのアイデアマンの一方、自宅官舎の一室を事務所兼施設代わりで母子寮を創始し、逝去するまで家族と共に施設内に住み込むなどこの道に献身した。1952年(昭和27年)、東京信濃町両全会において還化。行年77歳
尾竹 竹坡(OTAKE Chikuha、おたけ ちくは、明治… 尾竹 竹坡(OTAKE Chikuha、おたけ ちくは、明治11年(1878年)1月11日 - 昭和11年(1936年)6月2日)、は、明治から昭和期の浮世絵師、日本画家。いわゆる尾竹三兄弟の一人で、尾竹越堂は兄、尾竹国観は弟。 明治11年(1878年)1月12日、現在の新潟市に生まれる。本名は染吉。父は尾竹倉松。4歳で南宗派の笹田雲石に学び、竹坡の雅号を受ける。竹翁とも号す。5歳の時には襖絵などを描き、6歳の頃には花鳥画を器用な筆捌で描き上げ、神童と言われたという。また10歳の頃から絵をもって家計を助けたともいわれる。明治24年(1891年)富山に移り、兄・国一(越堂)とともに生活のために売薬版画の下絵や新聞『富山日報』挿絵を描く。
野口 小蕙(のぐち しょうけい、1878年〈明治11年〉1月… 野口 小蕙(のぐち しょうけい、1878年〈明治11年〉1月11日 - 1945年〈昭和20年〉4月2日)は、明治後期から昭和前期にかけて活躍した南画家、日本画家。 野口小蕙は、明治11年(1878年)1月11日に滋賀県蒲生郡綺田村(後の桜川村、現東近江市綺田町)で造酒業を営む十一屋の跡取りである野口正章(1849年 - 1921年)の長女として生まれ、郁子と名付けられた。母は奥原晴湖と共に明治女流南画家の双璧といわれる野口小蘋(のぐち しょうひん、1847年 - 1917年)である。父正章と母小蘋(本名親子)は、正章の父野口正忠(柿村(しそん)と号す)が近江・京の多くの文人と親交厚く、富岡鉄斎は長く野口家に居候をしているような美術愛好家で漢詩家であったことから知り合い、明治10年(1879年)結婚した。
籾山 梓月(もみやま しげつ、明治11年〈1878年〉1月1… 籾山 梓月(もみやま しげつ、明治11年〈1878年〉1月10日 - 昭和33年〈1958年〉4月28日)は、明治後期から戦前にかけての日本の俳壇の重鎮。旧姓は吉村、本名は仁三郎(じんざぶろう)。俳号に庭後、江戸庵など。茶道では宗仁と称す。 俳書堂・籾山書店の経営者であり、俳句総合雑誌の草分け『俳諧雑誌』の創刊者・主宰者。他、『時事新報社』、昭和化学などの取締役を歴任。 東京府日本橋区呉服町にて、代々飛脚屋と両替屋を兼ねる吉村家の9代目・吉村甚兵衛の長男として生まれる。父の吉村甚兵衛が始めた陸運元會社は現在の日本通運の前身である。陸運元會社は東京日本橋佐内町の和泉屋邸内に股立され、江戸時代から続く旧来の飛脚業者の再編成を行い、その元締めをしていた。
15代 西野 嘉右衛門(にしの かえもん、1878年(明治1… 15代 西野 嘉右衛門(にしの かえもん、1878年(明治11年)1月10日 - 1967年(昭和42年)5月16日)は、日本の実業家、政治家。藍商・酒造業、西野嘉右衛門家15代当主、貴族院多額納税者議員。旧名・保太郎。 徳島県勝浦郡小松島浦(現小松島市)で、豪商・西野保太郎の二男として生まれた。西野家は創業万治元年といわれる阿波藍商人(屋号・野上屋)で、現在は酒造の西野金陵として知られる。 1900年、専修学校(現専修大学)理財課を卒業。一年志願兵として入隊し陸軍二等主計に進み日露戦争に出征した。兄・14代嘉右衛門の死去により、1905年3月27日に家督を継承し15代嘉右衛門を襲名した。 家業の藍商が、外国産の安価な藍の輸入によって影響を受けたため、化学染料製造を開始した。
加藤 賢司(かとう けんじ、1878年1月10日 - 194… 加藤 賢司(かとう けんじ、1878年1月10日 - 1944年3月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県本巣郡、後の生津村出身。1901年、日本法律学校(現・日本大学)卒、同専攻科で学ぶ。日露戦争に従軍して、陸軍歩兵中尉となる。帰郷後は営農する。岐阜県参事会員、本巣郡農会長、岐阜県山林会評議員、地方森林会議員、郡林業協会副会長、県農会議員となる。治水事業に取り組んだ。1919年9月から連続3回13年に渡って、本巣郡選出の岐阜県会議員に当選した。また、1927年12月1日から1928年12月4日まで第37代同議長を務めた。また、これと前後して1920年8月から連続6回24年生津村会議員を務めた。
吉田 良三(よしだ りょうぞう、1878年(明治11年)1月… 吉田 良三(よしだ りょうぞう、1878年(明治11年)1月10日 - 1944年(昭和19年)7月12日)は、日本の会計学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。近代簿記会計の開拓者として知られる。早稲田大学教授、東京商科大学教授、中央大学教授を歴任し、会計教育でも大きな影響力を持った。 高知県高知市出身。旧姓・宇賀。海南中学校長の吉田数馬の書生となり、のち養子となる。1903年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部領事科卒、商学士。1935年「間接費の研究」で東京商科大学より商学博士の学位を取得。1902年から早稲田大学で講師として教え、1906年から早稲田大学教授を務める。1913年から欧米に留学し、コロンビア大学で原価計算のJ・リー・ニコルソンに師事するなどした。
伊藤 重治郎(いとう じゅうじろう、1878年1月9日 - … 伊藤 重治郎(いとう じゅうじろう、1878年1月9日 - 1964年2月26日)は、日本の商学者、法学者、教育者。立教大学経済学部元教授、早稲田大学元教授、東洋大学名誉教授。専門は交通論、商店経営。 山形県酒田市穂積の生まれの政治家、伊藤重治郎(1869年-1939年)とは異なる。 兵庫県明石市出身。東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)で修学する。1903年(明治36年)早稲田大学英語政治科を卒業後、早稲田大学講師となる。1905年(明治38年)アメリカに留学し、シカゴ大学を経て、1906年(明治39年)にペンシルベニア大学に入学し、1908年(明治41年)に卒業。大学では交通論、商業学を専攻し、博士号(Ph.D.)を取得。
服部 文四郎(はっとり ぶんしろう、1878年1月8日 -… 服部 文四郎(はっとり ぶんしろう、1878年1月8日 - 1955年2月16日)は、日本の経済学者。学位はPh.D.(プリンストン大学)、経済学博士。早稲田大学教授、早稲田大学専門部政経科長、専修大学学監、千葉商科大学初代学長、明治学院大学初代経済学部長等を歴任。 1878年滋賀県生まれ。1902年東京専門学校(現・早稲田大学)英語政治科卒。1906年プリンストン大学大学院修了し、Ph.D.学位取得。アメリカ留学後、早稲田大学(旧制)の留学生としてイギリス、フランス、ドイツへ渡り、1908年に帰国。1909年早稲田大学講師を経て同大教授に就任し、貨幣論、金融論、経済原論を担当。1927年より早稲田大学専門部政経科長就任。
清河 純一(きよかわ じゅんいち、1878年(明治11年)1… 清河 純一(きよかわ じゅんいち、1878年(明治11年)1月7日 - 1935年(昭和10年)3月1日)は、日本の海軍軍人。海兵26期、海大甲種5期首席。最終階級は海軍中将。 清河公廉の長男として大阪・堺に生まれる。本籍鹿児島県。北野中学校7期生。1898年12月、海軍兵学校(26期)を卒業し、1900年1月、海軍少尉任官。日露戦争では「浅間」分隊長として出征する。黄海海戦後、第1艦隊参謀に抜擢され日本海海戦を経て連合艦隊参謀となる。1907年12月、海軍大学校(甲種5期)を首席で卒業した。 伏見宮博恭王付武官、「音羽」副長、横須賀予備艦隊参謀、軍令部参謀、兼東伏見宮依仁親王付武官、海大教官、第2艦隊参謀、軍令部参謀(第1班第1課長)、兼参謀本部員、欧米出張、国際連盟海軍代表随員、ワシントン軍縮会議随員などを歴任し、1922年12月、海軍少将に進級。
鈴木 孫彦(すずき まごひこ、1878年1月5日 - 193… 鈴木 孫彦(すずき まごひこ、1878年1月5日 - 1930年4月25日)は、日本の会計学者、俳人。初代専任京城高等商業学校校長。 静岡県磐田郡向笠村生まれ。1899年高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1904年同校専攻科卒業。1905年熊本県立商業学校教諭。1907年同校長。 1909年山口高等商業学校教授。1917年からイギリス、アメリカ合衆国、フランスに留学し、帰国後、1921年から京城高等商業学校校長を務め、朝鮮総督府の意向に反し、朝鮮民族美術館設立を支持した。 1927年叙従四位。1928年病気のため辞任し、山口市後河原の自宅で療養していたが、1930年に死去した。俳人としても活動し、俳号は芒生。
高木 音蔵(たかぎ おとぞう、1878年〈明治11年〉1月4… 高木 音蔵(たかぎ おとぞう、1878年〈明治11年〉1月4日 - 1958年〈昭和33年〉3月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県海西郡、のちの海津郡海西村(平田町を経て現海津市)出身。京都高等蚕業学校(現・京都工芸繊維大学)卒。岐阜県蚕業取締所吏員、土岐蚕業講習所長、恵那郡蚕業技手、海西村議、同村長、水利組合会議員、県町村会評議員、郡農会、村農会、県農事協会、同地方協会各役員となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において岐阜4区から政友本党公認で立候補して当選した。のち立憲政友会に入り、衆議院議員を1期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
門屋 尚志(かどや なおゆき、1878年〈明治11年〉1月3… 門屋 尚志(かどや なおゆき、1878年〈明治11年〉1月3日 - 1939年〈昭和14年〉7月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県温泉郡、のちの素鵞村(現松山市)で生まれ、伊予郡郡中町(現伊予市)で成人した。東京高等商業学校(現一橋大学)で学ぶ。松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)、洲本中学校(現・兵庫県立洲本高等学校)の教員となる。日本棉花(株)社員、日本棉花同業会理事長となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において愛媛2区から憲政会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1939年に死去した。
有田 延(ありた のぶ、1878年1月2日 - 1944年1… 有田 延(ありた のぶ、1878年1月2日 - 1944年10月19日)は、日本の造船技術者。海軍造船少将。 福岡県出身。1896年福岡県立尋常中学修猷館、1899年7月第五高等学校工科を経て、1902年7月東京帝国大学工科大学造船学科を卒業。東大在学中の1901年2月、海軍造船学生試験に合格。 1902年呉海軍造船廠に入り、その後、造船廠と造兵廠が合併し、呉海軍工廠が設立されると、その造船部部員となる。1907年佐世保海軍工廠造船部部員となる。ここで筑摩型防護巡洋艦の設計を行い、この型の巡洋艦として、筑摩、 矢矧、平戸の3隻が建造された。 1911年造船監督官として英国に出張。ヴィッカース社による戦艦金剛の建造を監督し、竣工まで立ち会っている。
小林 照朗(こばやし てるあき、1878年(明治11年)1月… 小林 照朗(こばやし てるあき、1878年(明治11年)1月2日 - 没年不詳)は、日本の社会学者・教育者。 大阪府出身。1905年(明治38年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。佛教大学(現在の龍谷大学)教授を務めるかたわら、京都帝国大学法科大学・文科大学大学院で学んだ。1908年(明治41年)、東京女子高等師範学校教授に任命され、翌年から東京帝国大学文科大学講師を兼ねた。1911年(明治44年)、教育学・社会学研究のためイギリス・フランス・ドイツに留学し、パリ大学・ベルリン大学で学んだ。留学中にロンドンで開催された万国人権会議と、ハーグで開催された万国道徳会議に出席した。1914年(大正3年)、帰国し、1917年(大正6年)に東京女子高等師範学校附属高等女学校となった。
市村 咸人(いちむら みなと、 1878年1月2日 - 19… 市村 咸人(いちむら みなと、 1878年1月2日 - 1963年11月28日)は日本の郷土史家、教育者。 長野県下伊那郡米川村(現飯田市)生まれ。1902年長野県師範学校講習課修了後、県下の小学校等で教諭を歴任し、1919年山本尋常小学校の校長に就任。1921年から1932年まで旧制飯田高等女学校の教諭を務めた。 1912年に下伊那郡役所から松尾多勢子に関する研究を嘱託されたのを皮切りに、長野県や県下各教育会の依頼を受けて、史論の執筆や調査研究に従事し、「信濃史料」「伊那史料叢書」「長野県史」「下伊那史」等の編纂に携わる傍ら、飯田図書館副館長を務めた。研究対象は考古学、史跡、建築、仏教美術等、多岐にわたる。
滝沢 七郎(瀧澤、たきざわ しちろう、1878年(明治11年… 滝沢 七郎(瀧澤、たきざわ しちろう、1878年(明治11年)1月2日 - 1963年(昭和38年)1月11日)は、明治時代後期から昭和時代の政治家。実業家。衆議院議員。 滝沢忠三郎の長男として、長野県小県郡上田町(現上田市)に生まれる。1921年(大正10年)家督を相続する。1897年(明治30年)長野県小県蚕業学校卒業。 陸軍に入り、三等主計に進む。蚕業に従事し、1897年(明治30年)には弟の徳太郎とともに蚕種、蚕具販売店を開き、雑誌『蚕友』を発刊した。ほか、長野県蚕種検査員、上田蚕業講習所所長、上田新聞社取締役を歴任した。 1911年(明治44年)家業を整理し上京し、1926年(大正15年)本所区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京鋳物工業組合、日本鋳物工業組合各連合会理事長、可鍛鋳鉄滝沢工業取締役社長、東京鋳物研究所各理事長、日本鋳物工業会長、日本可鍛鋳鉄工業会理事長を歴任した。
西 義一(にし よしかず、1878年〈明治11年〉1月1日 … 西 義一(にし よしかず、1878年〈明治11年〉1月1日 - 1941年〈昭和16年〉4月15日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功二級。 福島県出身。旧会津藩士・西忠義の長男として生れる。忠義は日高地方の開発に功績を挙げたことで生祀され、また臨時帝室編修局嘱託を務めている。弟の西義顕は満鉄社員で、犬養健、松本重治らと汪兆銘工作を行った。西は稚松会の評議員である。 栃木中学校を経て、1898年(明治31年)11月、陸軍士官学校(10期)を卒業し、翌年6月、砲兵少尉任官。1902年(明治35年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。陸士生徒隊付、第7師団弾薬大隊付を歴任。日露戦争では第2師団後備野砲中隊長として出征した。
古屋野 橘衛(こやの きつえ、1878年(明治11年)1月1… 古屋野 橘衛(こやの きつえ、1878年(明治11年)1月1日 - 1957年(昭和32年)4月10日)は、岡山県都窪郡豊洲村(現・倉敷市)出身の地方政治家。倉敷市長。 1878年1月1日、都窪郡豊洲村に槙尾利八の二男として生まれる。その後、古屋野家を継ぐ。旧制同志社中学、旧制第三高等学校を経て、京都帝国大学法学部へ進学する。 京都帝大卒業後は貿易業へ就き、その後アメリカへ渡る。17年間滞在し、1922年に帰国する。 1923年、万寿村長となり、その後、岡山県議会議員に3回当選する。1927年、倉敷市制実現のため、倉敷町・万寿村・大高村の3町村合併に尽力した。 合併後の、1928年、倉敷市議会議員となり、その後、市議会議長となる。
横瀬 夜雨(よこせ やう、1878年〈明治11年〉1月1日 … 横瀬 夜雨(よこせ やう、1878年〈明治11年〉1月1日 - 1934年〈昭和9年〉2月14日)は、日本の詩人、歌人。本名は虎寿()[要出典]。別号に利根丸、宝湖、処寿()[要出典]。 茨城県真壁郡横根村(現・下妻市横根)の名家に生まれる。3歳の時、くる病に冒されて歩行の自由を失い、生涯苦しんだ。1895年、『文庫』に「神も仏も」を発表し、河井酔茗らに認められる。1898年には民謡調の詩「お才」を発表し、この頃から「筑波嶺詩人」と呼ばれるようになる。1905年、詩集『花守』を刊行して詩人として有名になる一方で、この時期からくる病が悪化して歩行がほぼ困難となる。1907年には河井酔茗主宰の詩草社に参加し[要出典]、1908年から『女子文壇』の選者を務めた。
佐藤 市十郎(さとう いちじゅうろう、旧姓・海井、1878年… 佐藤 市十郎(さとう いちじゅうろう、旧姓・海井、1878年〈明治11年〉1月 - 1936年〈昭和11年〉3月2日)は、日本の実業家。海市商会社長。族籍は山口県士族。 山口県人・海井荒助の二男。先代ヒデの養子となり、1894年に家督を相続する。大阪高等商業学校を卒業。朝鮮の貿易商に就職の口があって渡鮮する。店務を帯びてたびたび大阪へ出張する所から、悪友に誘い誘われ酒色に耽溺し、滞鮮4年間は放蕩堕落の淵に沈淪し、主家へも迷惑をかけるに至る。 久原家に入り、欧州大戦中久原鉱業会社支店長としてロンドンに在勤し、帰朝後久原商事会社常務取締役に転じ、1921年にこれを辞する。1936年3月2日永眠。行年60才。
角田 柳作(つのだ りゅうさく、1877年〈明治10年〉1月… 角田 柳作(つのだ りゅうさく、1877年〈明治10年〉1月28日 - 1964年〈昭和39年〉11月29日)は、群馬県出身の日本文化の研究者・教育者。コロンビア大学に日本文化研究所を設立し、日本研究コレクションのキュレーターを務めた。日本文学研究者ドナルド・キーンの師として知られる。 1877年(明治10年)1月28日、群馬県勢多郡津久田村(現・群馬県渋川市赤城町津久田)の農家に、父庄作、母ぎんの次男として生まれた。5歳の時父をコレラで失い、祖父の金造と母ぎんに育てられた。1890年4月、群馬県尋常中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学したが、1893年10月に退学。 上京して東京専門学校(現・早稲田大学)文学科に入学し、坪内逍遙、アーサー・ロイドの教えを受けた。
薄田 斬雲(うすだ ざんうん、「すすきた ざんうん」とも、1… 薄田 斬雲(うすだ ざんうん、「すすきた ざんうん」とも、1877年(明治10年)1月27日 - 1956年(昭和31年)3月27日)は、日本の小説家・ジャーナリスト。伝記作品を多く残した。本名は貞敬。 青森県弘前町蔵主町(現・弘前市)出身。1895年(明治28年)青森県尋常中学校を経て、1899年(明治32年)に東京専門学校(現・早稲田大学)文学科選科を卒業。京成日報記者を経て早稲田大学出版部編集委員となる。1917年(大正6年)には衆議院議員野田卯太郎、頭山満、子爵で法学博士の田尻稲次郎らの組織した大民団(大民倶楽部)に加わり山田三七郎とともに運営本部の任にあたった。作家としては、デビュー当初は自然主義の影響下にある小説・戯曲・随筆などを発表していたが、徐々に関心のメインは伝記などへ移っていった。
田中 都吉(たなか ときち、1877年1月26日 - 196… 田中 都吉(たなか ときち、1877年1月26日 - 1961年10月3日)は、日本の外交官。外務次官、在ソヴィエト連邦特命全権大使、同盟通信社理事会長、日本新聞会会長等を務めた。 京都府宮津市生まれ。旧制京都府尋常中学校(京都府立洛北高等学校・附属中学校の前身)経て、1898年東京高等商業学校(一橋大学の前身)領事科卒。1898年に第7回外交官及領事官試験に合格し外務省入省、同期に本多熊太郎や埴原正直らがいる。同年から領事官補としてソウル、ホノルル、ニューヨークに在勤。1903年から領事として、シンガポール、香港、シアトルに在勤。1908年に帰国し、通商局第二課長に就任。 駐アメリカ合衆国日本大使館参事官を経て、1919年外務省通商局長、1921年同省情報部次長、1922年同省次官兼臨時平和条約事務局長兼情報部長。
小原 直(おはら なおし、1877年(明治10年)1月24日… 小原 直(おはら なおし、1877年(明治10年)1月24日 - 1967年(昭和42年)9月8日)は、日本の検察官、政治家、弁護士。岡田内閣、阿部内閣、第5次吉田内閣で司法大臣・法務大臣などの閣僚を務める。新潟県長岡市出身。 新潟県古志郡長岡弓町(長岡本町、長岡町を経て現:長岡市)に、旧長岡藩士田中敬次郎の三男として生まれる。その後、長岡裁判所検事・元会津藩士小原朝忠の養子となり「小原」姓を名乗る。新潟県第七中学区公立第一番小学校(現:長岡市立阪之上小学校)、旧制:新潟県立長岡中学校(現:新潟県立長岡高等学校)から、麹町区永田町の橋本圭三郎宅の書生となり共立学校四年級に編入。旧制第一高等学校では松平恒雄(宮内大臣、初代参議院議長)、長島隆二(大蔵省理財局長心得、政友会代議士、桂太郎総理の娘婿)らと同級であった。
山中 千之(やまなか かずゆき、1877年1月23日 - 1… 山中 千之(やまなか かずゆき、1877年1月23日 - 1949年)は、明治・大正期日本の外交官。元国際連盟委任統治委員。 青森県弘前市笹森町生まれ。1896年青森県第一尋常中学校(現青森県立弘前高等学校)卒業。1900年高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1902年同専攻部銀行科卒業。 同期に出淵勝次元駐米大使、鈴木榮作元シドニー総領事、高嶋菊次郎元中支那振興総裁、上田貞次郎元帝国学士院会員など。また、在学中青森県出身学生のための寮として初めて東京に設立された修養社で佐藤尚武元外務大臣とともに住み、佐藤はのちに山中の紹介で山中の叔父佐藤愛麿の娘婿となった。 1903年在ホノルル領事館領事官補。
今村 繁三(いまむら しげぞう、1877年(明治10年)1月… 今村 繁三(いまむら しげぞう、1877年(明治10年)1月23日 - 1956年(昭和31年)4月19日)は、日本の銀行家。 相場で財を成した実業家、今村清之助の次男として生まれる。東京高等師範学校附属中学に学び、英国ケンブリッジ市にある全寮制パブリックスクール リース校 (The Leys School) に留学した。この学校は『チップス先生さようなら』のモデルとなった名門で、チャペルには後に今村らが寄付したことを記念して彼らの名前を記したステンドグラスが残っている。また、皇太子時代の昭和天皇が訪問したことでも知られる。 1899年に英国トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)に進学し、1902年に文学士の学位を受ける。
国友 鼎(くにとも かなえ、1877年(明治10年)1月23… 国友 鼎(くにとも かなえ、1877年(明治10年)1月23日 - 1957年(昭和32年)1月14日)は、日本の医学者。 1877年(明治10年)1月23日 大分県大野郡川登村(現・臼杵市)に生まれる。 1900年(明治33年)11月 第五高等学校医学部卒業。 1904年(明治37年)7月 長崎医学専門学校教授就任。 1913年(大正2年)10月 高等官三等に叙任。 1923年(大正12年) 長崎医専の大学昇格と共に長崎医科大学教授に就任。 1931年(昭和6年) 日本解剖学会理事長に就任。 1940年(昭和15年) 長崎市会議長に就任。 1941年(昭和16年) 県立長崎博物館長に就任。 解剖学の1分野である発生学、とりわけ日本人の胎児の研究を生涯のテーマとして、国内はもとより海外においても第一人者として知られる。
保岡 勝也(やすおか かつや 1877年(明治10年)1月2… 保岡 勝也(やすおか かつや 1877年(明治10年)1月22日 - 1942年(昭和17年)8月2日)は日本の建築家。三菱の丸の内赤煉瓦オフィス街の設計を行った他、先駆的な住宅設計で知られる。 東京生まれ。1900年(明治33年)、東京帝国大学工科大学建築学科(現・東京大学工学部建築学科)を卒業、工科大学では学長であった辰野金吾に師事した。 岩崎久弥が社長を務める三菱合資会社(現・三菱地所)に入社する。三菱は1889年(明治22年)に、明治政府より丸の内の一括払い下げを受けており、「丸ノ内建築所」を設置、ジョサイア・コンドルによって、1894年(明治27年)、「三菱一号館」が竣工した。保岡は、曽禰達蔵の下で丸の内赤煉瓦街の設計に携わるが、3年で三菱を退社し帝国大学の大学院に入学する(研究テーマは劇場的建築)。
恩賀 徳之助(おんが とくのすけ、1877年(明治10年)1… 恩賀 徳之助(おんが とくのすけ、1877年(明治10年)1月21日 - 1963年(昭和38年)1月16日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 和歌山県那賀郡粉河村で、恩賀定一郎の二男として生まれる。大阪桃山学校を経て東京法学院で学んだが、二年で中退し、帰郷して家業の綿ネル製造業に従事。 1904年8月、北海道函館に移り末広町で呉服太物商を営む。以後、函館商業会議所議員、同常議員、函館呉服太物卸商組合長、函館区会議員、同議長、函館市会議員、同初代・第3代議長(1922年11月7日から1923年6月4日、1924年11月21日から1926年10月30日)、北海道会議員などを歴任。 1932年2月、第18回衆議院議員総選挙で北海道第三区から出馬し当選した林儀作が1935年1月に死去し、同年7月の補欠選挙に出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
渡辺 公観(わたなべ こうかん、明治11年(1877年)1月… 渡辺 公観(わたなべ こうかん、明治11年(1877年)1月20日 - 昭和13年(1938年)7月20日)は、文展(現日展)を中心に活動し、後に(日本)自由画壇を同士と創設した日本画家。 渡辺公観は、明治11年(1877年)1月20日に滋賀県大津(現大津市)の円満院門跡の侍医渡辺宣と歌人で円満院の侍講を務める服部春樹の娘田鶴の子として生まれ、耕平と名付けられた。明治25年(1891年)大津尋常小学校を卒業後彦根中学校(現滋賀県立彦根東高等学校)に進み、明治27年(1893年)京都美術工芸学校(現京都市立銅駝美術工芸高等学校)に転校後、明治28年(1894年)学校を辞し森川曽文に入門した。 師である森川曽文は明治36年(1902年)に没し、公観は以降独自に画業を研鑽し、明治40年(1906年)第1回文展に「進言」で初入選し、以後大正3年から7年迄の間に4回入選したが、大正8年(1919年)帝展(現日展)が開設されると官展から離れ、井口華秋、池田桂仙、上田萬秋、林文塘中堅画家らと自由な日本画制作を目指し日本自由画壇を結成した。
永屋 茂(ながや しげる、1877年(明治10年)1月20日… 永屋 茂(ながや しげる、1877年(明治10年)1月20日 - 1923年(大正12年)11月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士、弁理士。 広島県甲奴郡階見村(現在の神石郡神石高原町)に永屋要平の二男として生まれる。広島県師範学校を卒業後、日本大学で法学を学び、1910年(明治43年)に卒業した。卒業後は東京で弁護士となり、花井卓蔵弁護士の補助を務めたこともある。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬して当選を果たした。 その他、日本人造絹糸株式会社監査役を務めた。
佐野 正雄(さの まさお、1877年(明治10年)1月18日… 佐野 正雄(さの まさお、1877年(明治10年)1月18日 - 1933年(昭和8年)3月25日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)、弁護士。 松江市に佐野浩一の長男として生まれる。1898年(明治31年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。検事となるが、退官して弁護士を開業した。また松江市会議員に選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。 その他に山陰製鉄株式会社取締役を務めた。
森 丑之助(もり うしのすけ、1877年1月16日 - 19… 森 丑之助(もり うしのすけ、1877年1月16日 - 1926年7月4日)は日本の人類学者。 京都・五条室町の商家に生まれる。長崎市の長崎商業学校で中国語を学んだ後、1895年(明治28年)9月に台湾駐屯の日本軍の通訳として台湾に渡る。その後台湾総督府の嘱託として台湾先住民の研究にあたった。1896年(明治29年)に台東で、1898年(明治31年)に恒春で鳥居龍蔵と出会い、1900年(明治33年)に鳥居の台湾調査に助手として同行するようになり、生蕃研究に携わるようになる。 日本からの来訪者の案内も務めた。 先住民の生活の調査のために森は台湾全土を移動して先住民の集落を訪れ、人類学・民俗学的に貴重な資料を数多く収集した。
長岡 春一(ながおか はるかず、1877年1月16日 - 1… 長岡 春一(ながおか はるかず、1877年1月16日 - 1949年6月30日)は、日本の外交官。常設国際司法裁判所判事。法学博士。
青木 薫(あおき かおる、1877年(明治10年)1月16日… 青木 薫(あおき かおる、1877年(明治10年)1月16日 - 1938年(昭和13年)10月11日)は、日本の細菌学者。東北帝国大学名誉教授、医学博士。遺伝学者の外山亀太郎は実兄。 1906年10月に東京府南多摩郡堺村(現・町田市相原町)の医師・青木純造の婿養子となった。妻チヨとの間に、廉(きよし)、茂、健、宏を儲けた。 1924年(大正13年)に日本各地で嗜眠性脳炎の流行が起きた際に、病原体としてスピロヘータを発見したとして世を賑わしたものの、まもなくその主張を取り下げるということがあった。嗜眠性脳炎はウイルス性の疾患だと考えられているが、現在も病原体は不明である。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
若尾 瀾水(わかお らんすい、1877年(明治10年)1月1… 若尾 瀾水(わかお らんすい、1877年(明治10年)1月14日 - 1961年(昭和36年)12月1日)は、日本の俳人。日本画家。新聞記者。土佐文人研究者。本名は庄吾。雅号は葭厓。 1877年(明治10年)、高知県吾川郡弘岡下ノ村(現在の高知市春野町)に生まれる。生家は富裕な郷士の家であった。1889年(明治22年)、高知尋常中学校に入学。中学時代の親友に森田正馬がいた。 1894年(明治27年)、京都の第三高等学校に入学。三高在学中の1896年(明治29年)、永田青嵐とともに寒川鼠骨より日本派の俳句の教えを受け、同年9月、鼠骨らと京阪満月会を発足させた。 1897年(明治30年)、三高から仙台の第二高等学校に転学。
西尾 常彦(にしお つねひこ、1877年(明治10年)1月1… 西尾 常彦(にしお つねひこ、1877年(明治10年)1月14日 - 1947年(昭和22年))は、大正から昭和時代前期の政治家、警察官。鳥取県米子市長。 西尾利平の長男。鳥取県会見郡彦名村(西伯郡彦名村を経て現米子市)出身。1906年(明治39年)1月、鳥取県警部に任じ、島根県警視を経て、松江警察署長となる。1919年(大正8年)5月、島根県能義郡長に転じ、美濃郡長、簸川郡長などを歴任したのち1922年(大正11年)米子町長に就任した。1926年(大正15年)4月、再選を経て1927年(昭和2年)4月、米子市設立と共に市長代理となり、同年6月21日、米子市長に就任した。
大熊 喜邦(おおくま よしくに、1877年1月13日 - 1… 大熊 喜邦(おおくま よしくに、1877年1月13日 - 1952年2月25日)は、日本の建築家、営繕官僚。公共建築の中心的人物。中央諸官庁及び地方庁舎に数多く携わる。東京生まれ。妻木頼黄・矢橋賢吉の後を引き継いで国会議事堂の建設を統括した。旧文部省庁舎なども設計。一方、江戸時代の建築・法制などを研究し、その研究書を著す。著書に『世界の議事堂』などがある。工学博士・経済学博士。 麹町生まれ。父は元旗本であった。第一高等学校を経て、1903年、東京帝国大学工科大学(現・東京大学工学部)建築学科を卒業。卒業後は大学院に籍を置き、横河民輔の横河工務所に入所。帝国劇場などの設計に関与した。 1905 (M38)年、東京帝国大学工科大学講師。
木村 恵吉郎(きむら けいきちろう、1877年(明治10年)… 木村 恵吉郎(きむら けいきちろう、1877年(明治10年)1月11日 - 1945年(昭和20年)11月15日)は、日本の化学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。第2代東京写真専門学校(現東京工芸大学)校長。正三位勲一等。 東京府出身。1900年第一高等学校卒業。1904年東京帝国大学工科大学応用化学科卒業、工学士。1906年東京高等商業学校(現一橋大学)助教授。1916年から1918年までアメリカ合衆国へ留学し応用化学及び商品学を研究。1920年から東京商科大学(現一橋大学)予科教授兼大学教授として、奈佐忠行とともに商品学を担当した。1921年東京商科大学予科主事。1937年退官、東京商科大学名誉教授、東京商科大学講師、叙正三位。
青木 まつ(あおき まつ、1877年〈明治10年〉1月10日… 青木 まつ(あおき まつ、1877年〈明治10年〉1月10日 - 1959年〈昭和34年〉1月23日)は、日本の社会事業家。兵庫県姫路出身。旧姓は吉川。バプテスト派の婦人宣教師タムソン夫人の片腕として、日本初の福祉的幼稚園である善隣幼稚園で、恵まれない子供たちの保育に尽力した。 1877年に兵庫県姫路で誕生、横浜の捜真女学校(現・捜真女学校中学部・高等学部)を卒業した。 1895年(明治28年)にタムソン夫人が神戸の葺合地区に、神戸の恵まれない子供たちのために、善隣幼稚園を設立した後、同幼稚園に勤めて、タムソンの片腕となり、その後の約40年間にわたって、保母として仕事を助けた。「善隣」名は「善い隣人として地域社会の改善を図る」との意味で、まつが発案した名前である。
深尾 隆太郎(ふかお りゅうたろう、1877年(明治10年)… 深尾 隆太郎(ふかお りゅうたろう、1877年(明治10年)1月9日 - 1948年(昭和23年)4月17日)は、日本の実業家。貴族院議員。男爵。
鯉沼 巌(こいぬま いわお、1877年(明治10年)1月8日… 鯉沼 巌(こいぬま いわお、1877年(明治10年)1月8日 - 1933年(昭和8年)11月3日)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選秋田県知事。旧姓・河野。 大分県速見郡、後の山香町(現杵築市)出身。河野伝次郎の三男として生まれ、1906年、鯉沼かねの養子となる。 高等小学校を卒業後、苦学して日本大学を卒業。1905年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1906年5月、内務省に入省し福島県属となる。 以後、島根県事務官、島根県警察部長、長野県警察部長、三重県警察部長、青森県内務部長、三重県内務部長などを経て、1927年5月、神奈川県書記官・警察部長に就任。 1928年2月、秋田県知事に就任。
永井 来(ながい きたる、1877年(明治10年)1月7日 … 永井 来(ながい きたる、1877年(明治10年)1月7日 - 1934年(昭和9年)2月14日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。従三位勲二等功五級。旧姓・楊井。 山口県玖珂郡広瀬村大字船津(現・岩国市錦町)出身。楊井正之進の二男として生れ、西南戦争の植木口の戦いで戦死した同郷の陸軍少佐・永井勝正の養嗣子となる。陸軍幼年学校を経て、1896年(明治29年)11月、陸軍士官学校(8期)を卒業。1897年(明治30年)6月、歩兵少尉に任官し歩兵第21連隊付となる。1903年(明治36年)11月、陸軍大学校(17期)を優等で卒業。 1904年(明治37年)6月、歩兵大尉に昇進し歩兵第17連隊中隊長に就任。
林 仙之(はやし なりゆき、1877年1月5日 - 1944… 林 仙之(はやし なりゆき、1877年1月5日 - 1944年5月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
長野 幹(ながの みき / かん、1877年1月4日 - 1… 長野 幹(ながの みき / かん、1877年1月4日 - 1963年1月)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事。旧姓・大木。 元福井藩士・教師である三寺三作(後に大木本彌に改名)の息子として生れ、長野家の養子となる。1903年7月に東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年11月、高等文官試験行政科に合格。内務省に入省。東京府属。 1911年には、ドイツで開かれた万国衛生博覧会に参加。欧米各国を視察した。その後、1916年に三重県知事に任命され、その後、山梨県知事、朝鮮総督府学務局長、秋田県知事、鹿児島県知事などを歴任。1927年5月17日に鹿児島県知事を休職となり、以後民間で会社経営などにあたった。