徳重 種彦(とくしげ たねひこ、1892年(明治25年)2月… 徳重 種彦(とくしげ たねひこ、1892年(明治25年)2月4日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 鹿児島県鹿児島市常磐町に生まれる。1912年(明治45年)鹿児島市立商業学校を卒業し、1916年(大正5年)渡台する。 内務局地理課勤務を皮切りに、高雄州属、交通局書記を経て、1939年(昭和14年)地方理事官に進み、高雄州東港郡守に就任。ついで1942年(昭和17年)新竹州新竹郡守に転じた。
岩切 秀(いわきり ひで、1892年(明治25年)2月4日 … 岩切 秀(いわきり ひで、1892年(明治25年)2月4日 - 1971年(昭和46年)2月7日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。旧姓は前原。 鹿児島県薩摩郡永利村(川内市を経て現薩摩川内市)出身。陸軍士官学校第26期卒業。1938年(昭和13年)に陸軍歩兵大佐に進級し、1939年(昭和14年)に歩兵第80連隊長に就任。1939年(昭和15年)に第7師団参謀長、1941年(昭和16年)陸軍歩兵学校教導連隊長を歴任し、1942年(昭和17年)に陸軍少将に進級し、仙台陸軍教導学校長に着任。 1943年(昭和18年)に歩兵第69旅団長に転じ、中国戦線に出動。揚州の警備に当たり、1944年(昭和19年)には支那派遣軍歩兵教育隊長に転じた。
松川 昌藏(まつかわ しょうぞう、1892年(明治25年)2… 松川 昌藏(まつかわ しょうぞう、1892年(明治25年)2月3日 - 1973年(昭和48年)4月23日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、一関市長、弁護士。位階は正五位。勲三等旭日中綬章。 岩手県東磐井郡松川村(のち東山町、現在の一関市)出身。1918年、京都帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補から岐阜、水戸各地裁検事、福島地裁若松支部判事を歴任した後、1923年に退官して弁護士になる。一関町議、岩手県議、一関町長などを務め、1936年の第19回衆議院議員総選挙で立憲政友会公認で立候補して当選し、以来3期務める。戦後の1946年の総選挙で日本自由党公認で立候補して当選。自由党では政調会行政機構改革部長を務めた。
上田 辰之助(うえだ たつのすけ、1892年2月2日 - 1… 上田 辰之助(うえだ たつのすけ、1892年2月2日 - 1956年10月13日)は、日本の経済学者、思想史家。一橋大学名誉教授。日本学士院会員。ペンシルベニア大学博士。正三位勲一等瑞宝章、イタリア王国コンメンダトーリ・コローナ・イタリヤ受章。 東京市日本橋小網町出身。実家は上田回漕店。東京府立第一中学校(現東京都立日比谷高等学校)を経て、1914年に東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業。1916年、同校専攻部貿易科を卒業し同校講師に就任。1917年には教授に昇格。1918年からペンシルベニア大学に留学して海運論を研究。1920年、ペンシルベニア大学博士(Ph.D.)。一橋では上田貞次郎教授に師事した。
佐藤 カツ(さとう カツ、1892年(明治25年)2月2日 … 佐藤 カツ(さとう カツ、1892年(明治25年)2月2日 - 1969年(昭和44年)8月23日)は、日本の教育者。徳島県徳島市出身。佐香裁縫女学校、神戸シンガー女学院卒業。藍綬褒章、勲四等瑞宝章、従五位。 佐藤与三郎の娘として徳島市仲之町に生まれた。神戸シンガー女学院卒業。 1918年(大正7年)、女性の自立を唱え、徳島市内に徳島裁縫学院を創設、1925年(大正14年)に徳島洋服学院と改め、1943年(昭和18年)に徳島服装学院と改称、1951年(昭和26年)、学校法人四国文化服装学院を経営し、これを基盤として1961年(昭和36年)に四国女子短期大学を設立し、1966年(昭和41年)に四国女子大学(現在の四国大学)を創立、理事長となる。
子母澤 寛 (しもざわ かん、1892年2月1日 - 196… 子母澤 寛 (しもざわ かん、1892年2月1日 - 1968年7月19日)は、日本の小説家。本名:梅谷 松太郎(うめや まつたろう)。異父弟は洋画家の三岸好太郎。第10回菊池寛賞受賞。 祖父の梅谷十次郎(通称:斉藤鉄太郎または鉄五郎)は、江戸幕府から切り米20俵の家禄を受けていた御家人で彰義隊に参加し、箱館戦争に敗れ捕虜となった。釈放された後、札幌へ移り開墾に従事するが成功せず、札幌から10里ほど離れた石狩国の漁村・厚田村で漁場を持った。この祖父は網元で、旅館と料理屋を兼ねた「角鉄」も経営していた村の顔役であった。御家人崩れのヤクザ風な人柄であったという。 子母澤も厚田村に生まれ、早くに実母と別れ、祖父に溺愛されて育った。
岸田 蓁(きしだ しげる、1892年2月1日 - 1964年… 岸田 蓁(きしだ しげる、1892年2月1日 - 1964年10月12日)は、日本の茶人、画家。岸田劉生の妻として知られる。 旧姓は小林。1892年に学習院の漢学教授であった小林良四郎、シンの三女として生まれる。東京府立第二高等女学校(現・東京都立竹早高等学校)に在学中から鏑木清方について日本画を学んでいる。1913年に第2回フュウザン会展を見に行ったことが縁で同年7月に洋画家岸田劉生と結婚をする。しばらくは府下の西大久保にあった蓁の実家の2階に住んだ。翌1914年4月10日に長女の麗子が誕生する。1926年、長男鶴之助を産む。蓁自身は夫の劉生の絵のモデルを務めており、胸に手をおいた恰好で「画家の妻」や「南瓜を持てる像」に描かれている。
井口 竹次郎(いぐち たけじろう、1892年2月1日 - 1… 井口 竹次郎(いぐち たけじろう、1892年2月1日 - 1971年3月22日)は日本の実業家。大阪ガス元社長・会長。 京都府愛宕郡修学院村(現・京都市左京区)出身。京都府立第一中学校、三高を経て、1916年 京都帝国大学工学部卒業後、三井物産へ入社。1930年に大阪瓦斯へ中途入社。その後は専務取締役を経て、1949年3月24日より片岡直方の逝去に伴い、代表取締役社長に就任。1960年より代表取締役会長に就任。 その他には日本ガス協会会長、大阪工業会会長、朝日放送取締役などを歴任し、大阪高等技術研修所設立の推進も行った。1958年に藍綬褒章、1965年に勲二等旭日重光章を受章。1971年3月22日、79歳で死去。
宮城 タマヨ(みやぎ タマヨ、1892年〈明治25年〉2月1… 宮城 タマヨ(みやぎ タマヨ、1892年〈明治25年〉2月1日 - 1960年〈昭和35年〉11月19日)は、日本の社会事業家、政治家。参議院議員。旧姓・植田。 山口県吉敷郡山口町(現山口市)で、植田久之丞の二女として生まれる。1914年3月、奈良女子高等師範学校博物家事部を卒業し、母校の助教諭となる。 1920年から1923年まで大原社会問題研究所で児童保護問題などを研究。1922年、旧少年法が制定されたことに伴い、同年、文部省・司法省嘱託としてアメリカ合衆国に渡り少年保護事業などを研究した。帰国後、東京少年審判所で日本初の婦人保護司に就任した。1927年、大審院検事・宮城長五郎と結婚したが、1942年に死別した。
相馬 英二(そうま えいじ、1892年(明治25年)2月 -… 相馬 英二(そうま えいじ、1892年(明治25年)2月 - 没年不明)は、日本の実業家。弁天倉庫監査役。相馬合名出資社員。旧姓・小栗。 愛知県・小栗次郎の二男。小栗卓衛の弟。相馬市作の養子となる。横浜市立商業学校卒業。 宗教は曹洞宗。趣味は読書、旅行、囲碁。北海道在籍で、住所は函館市富岡町、東京市淀橋区百人町。
香山 小鳥(かやま ことり、1892年(明治25年)2月 -… 香山 小鳥(かやま ことり、1892年(明治25年)2月 - 1913年(大正2年)6月)は、長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)出身の版画家、詩人。本名は香山 藤禄(かやま ふじろく)。 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)生まれ。1911年(明治44年)に長野県飯田中学校を卒業し、一家で東京の深川に移り住んだ。1912年(明治45年)には竹久夢二と出会い、そのつてで恩地孝四郎(小鳥より1年早い1891年生)や田中恭吉(小鳥と同じ1892年生)と出会った。同年4月には東京美術学校予備科に入学し、本科の彫刻科塑像部を志望するが、選抜に落第して7月には東京美術学校を退学し、木版彫師の伊上凡骨の下で木版画の勉強に励んだ。
菅 晴次(かん はるじ、1891年(明治24年)2月28日 … 菅 晴次(かん はるじ、1891年(明治24年)2月28日 - 1985年(昭和60年)4月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓は石塚。評論家の菅孝行は息子。 滋賀県の没落農家に生まれる。滋賀県立膳所中学校を経て、1913年(大正2年)5月26日、陸軍士官学校(25期)を卒業。士官学校の教官だった菅孝の養子となり石塚姓から改姓する。同年12月25日、陸軍砲兵少尉に任官。1916年(大正5年)11月30日、陸軍砲工学校高等科を首席で卒業し、東京帝国大学工学部造兵学科に派遣された。1920年代後半からフランスの軍需工場に5年派遣されてフランス語を習得する。 1936年(昭和11年)8月1日陸軍砲兵大佐に昇格すると共に陸軍造兵廠東京砲兵工廠精機製造所長に就任、同年12月1日陸軍省兵器局鉄砲課長となり、1939年(昭和14年)3月9日陸軍少将・陸軍省兵器局長兼大本営野戦兵器長官に就任した。
奥瀬 英三(おくせ えいぞう、1891年2月28日 - 19… 奥瀬 英三(おくせ えいぞう、1891年2月28日 - 1975年11月23日)は、三重県出身の洋画家。浦和画家の一人。示現会代表。瑞宝章受章者。 三重県上野村(現:伊賀市)に生まれ、画家を目指して上京。太平洋美術学校の教授になった。帝展にて連続して特選を受賞し、1929年には審査員となった。1931年には埼玉県浦和市に移住し、終生居住したことから浦和画家として知られている。戦後は山岳風景画を多く残している。新光洋画会や槐樹社、示現会の結成者の一人。蕨画塾講師。勲四等瑞宝章のほか埼玉新聞社から埼玉文化賞が贈られている。
森山 武市郎(もりやま たけいちろう、1891年(明治24年… 森山 武市郎(もりやま たけいちろう、1891年(明治24年)2月28日 - 1948年(昭和23年)2月29日)は、日本の検察官。 福岡県三潴郡大善寺村(現・久留米市)出身。1912年、明治大学法学部卒業。1916年、判事検事登用試験に合格して司法官試補となり、1918年に東京地方裁判所判事となる。1920年に退職してヨーロッパに留学し、スイスのベルン大学、ドイツのハイデルベルク大学で民法、商法、労働法を研究し、1923年帰国。検事に任じられ、司法省刑事局・行刑局に勤務。1932年法学博士の学位を取得。また、明治大学政経学部教授に就任。 検察官時代は、東京控訴院検事、宮城控訴院検事局検事長、大審院判事などを歴任。
瀧川 幸辰(滝川 幸辰、たきかわ ゆきとき、1891年(明治… 瀧川 幸辰(滝川 幸辰、たきかわ ゆきとき、1891年(明治24年)2月24日 - 1962年(昭和37年)11月16日)は、日本の法学者。法学博士。専門は刑法。岡山県出身。京都帝国大学教授。京都大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。音読みで「たきがわ こうしん」と呼ばれることもあった。 東京学派の小野清一郎とほぼ同時期にドイツ刑法学における構成要件の理論を日本に初めて紹介し、犯罪を構成要件に該当する違法有責な行為であるとする現在の日本の刑法学の基礎を築いた。 瀧川は違法性の実質について、当初M・E・マイヤーに倣って国家的条理違反としていたが、その後生活利益の侵害であると改説し、前期旧派・古典学派の立場を明らかにした。
瀧川 幸辰(たきがわ ゆきとき、1891年(明治24年)2月… 瀧川 幸辰(たきがわ ゆきとき、1891年(明治24年)2月24日 - 1962年(昭和37年)11月16日)は、日本の法学者。法学博士。専門は刑法。岡山県出身。京都帝国大学教授。京都大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。
倉田 百三(くらた ひゃくぞう / ももぞう)、1891年(… 倉田 百三(くらた ひゃくぞう / ももぞう)、1891年(明治24年)2月23日 - 1943年(昭和18年)2月12日)は、日本の劇作家、評論家で大正、昭和初期に活躍した。故郷の広島県庄原市には、倉田百三文学館がある。 広島県比婆郡庄原村107番屋敷(現庄原市本町)出身。
武者 金吉(むしゃ きんきち、1891年(明治24年)2月2… 武者 金吉(むしゃ きんきち、1891年(明治24年)2月22日 - 1962年(昭和37年)11月7日)は日本の地震学者、地理学者、英語教師。本業である英語教師としての業務のかたわら、独学で地震学を学んだ。ほとんど独力で膨大な量の歴史地震に関する史料を収集し、『増訂大日本地震史料』としてまとめた。 1891年(明治24年)2月22日(戸籍上は3月1日)、東京市本所区向島須崎町(現在の墨田区)に生まれる。浅田家の第4子であったが、間もなく武者家の養子となる。 府立三中を経て、1910年(明治43年)9月、早稲田大学文学部英文学科に入学。1911年7月と1912年7月の2回、首席となり早稲田大学特待生となって授業料を免除される。
秋山 徳三郎(あきやま とくさぶろう、1891年(明治24年… 秋山 徳三郎(あきやま とくさぶろう、1891年(明治24年)2月22日 - 1968年(昭和43年)2月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 兵庫県青垣町(現:丹波市)おいて[要出典]、秋山宝右衛門の二男として生まれる。柏原中学校卒を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第10大隊付となる。1915年(大正4年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。さらに陸軍派遣学生として東京帝国大学工科大学土木科で学び1919年(大正8年)7月に卒業した。その際、南清博士奨励記念賞を受賞している。 1920年(大正9年)4月、陸軍築城本部員となり、英仏駐在を経て、1924年(大正13年)10月、イギリス工兵校を卒業。
井上 孚麿(いのうえ たかまろ、1891年(明治24年)2月… 井上 孚麿(いのうえ たかまろ、1891年(明治24年)2月22日 - 1978年(昭和53年)3月27日)は、日本の歌人・法学者。台北帝国大学教授、法政大学教授、亜細亜大学教授。 長崎県平戸出身。父は井上寅之助、母はテイ(千浦庄七守本の長女)。 専門は憲法学。GHQ占領直後に日本国憲法無効論を唱えた。次男の井上實は東京銀行元頭取。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
甘蔗 義邦(かんじゃ よしくに、1891年〈明治24年〉2月… 甘蔗 義邦(かんじゃ よしくに、1891年〈明治24年〉2月21日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 岐阜県に川上貞蔵の四男として生まれ、甘蔗義尭の養子となった。東京帝国大学法科大学政治科に学び、在学中の1917年(大正6年)に高等文官試験に合格し、翌年卒業した。朝鮮総統府試補、道事務官、平安南道財務部長、江原道警察部長、朝鮮総督秘書官を歴任し、1929年(昭和4年)に欧米各国に出張した。帰国後、警務局衛生課長、咸鏡南道内務部長、江原道内務部長を経て、1934年(昭和9年)に平壌税務監督局長に就任した。1936年(昭和11年)より京城府尹に、1937年(昭和12年)より京畿道知事となった。 1940年(昭和15年)に退官した後は、朝鮮放送協会会長を務めた。
室崎 琴月(むろざき きんげつ、1891年(明治24年)2月… 室崎 琴月(むろざき きんげつ、1891年(明治24年)2月20日 - 1977年(昭和52年)3月21日)は、日本の作曲家。本名は清太郎(せいたろう)。童謡「夕日」の作曲者。
美座 流石(みざ さすが、1891年(明治24年)2月18日… 美座 流石(みざ さすが、1891年(明治24年)2月18日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 鹿児島県鹿児島市出身。東京帝国大学法科大学政治科に学び、在学中の1916年(大正5年)に高等文官試験に合格し、翌年卒業した。道事務官、税関監視官、税関事務官、専売局事務官、咸鏡北道警察部長、慶尚北道警察部長、慶尚南道警察部長を歴任し、1931年(昭和6年)に欧米各国に出張した。帰国後、平安南道内務部長を経て、1932年(昭和7年)に京畿道内務部長となり、さらに京城税務監督局長に転じた。1936年(昭和11年)より平安北道知事となった。 1939年(昭和14年)に退官した後は、朝鮮マグネサイト開発社長、咸南鉄道会長を経て、戦後は三幸建設工業に入り、副社長、顧問を歴任した。
小倉 末(おぐら すえ、1891年2月18日 - 1944年… 小倉 末(おぐら すえ、1891年2月18日 - 1944年9月25日)は岐阜県大垣市出身の日本のピアニスト。東京音楽学校(現東京芸術大学)教授。戦前日本を代表する女流ピアニストである。 小倉末は、1891年に小倉周一(元大垣藩士小寺専助五男)、紫登の三女として生まれた。幼い頃からドイツ人の義姉マリアよりピアノの手ほどきを受け、1910年3月に神戸女学院を卒業 (4期) した。その前後ですでに演奏活動を行っており、1905年から1911年までに東京音楽学校に学び、その間学内外で演奏を行った記録が残っている。 また、末は「日本最初の婦人ゴルファー」ともいわれている。15歳の時にゴルフ場を作ったアーサー・ヘスケス・グルームの持つ山荘で休憩する姿の写真が、神戸の六甲ゴルフ倶楽部のアルバムに「Miss sueko ogura」の書き込みと共に残されている。
田上 八郎(たのうえ はちろう、1891年(明治24年)2月… 田上 八郎(たのうえ はちろう、1891年(明治24年)2月17日 - 1948年(昭和23年)10月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県(現在の薩摩川内市上川内町)出身。士族・農業、田上亭二の二男として生まれる。川内中学校(現鹿児島県立川内高等学校)を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第13連隊付となる。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業。 1927年(昭和2年)3月、歩兵第45連隊中隊長となり、陸士教官、歩兵第17連隊大隊長、陸軍歩兵学校教官、第16師団参謀、第1師団参謀、歩兵学校教官などを務め、1937年(昭和12年)8月、陸軍大佐に進級し歩兵第34連隊長に発令され日中戦争(上海派遣軍/松井石根大将)に出征し上海戦、南京戦などに参戦した。
高木 徳子(たかぎ とくこ、旧姓永井、1891年2月15日 … 高木 徳子(たかぎ とくこ、旧姓永井、1891年2月15日 - 1919年3月30日)は、日本のダンサーである。大正年間の一大ムーヴメントである「浅草オペラ」にアメリカ流のダンスで火をつけたことで知られる。トウシューズで踊った日本初のダンサーである。のちに離婚して「永井 徳子」(ながい とくこ)に戻る。 1891年(明治24年)、東京市神田区今川小路(現在の神田神保町)に生まれる。永井胆一の先妻の子であり、父親の永井は旧幕臣で、印刷局の技師をしていた。神田高等女学校を中退し、継母らの勧めで1906年に15歳で高木陳平と結婚し渡米、11月末ニューヨークに到着。 陳平は料理人、徳子はメイドとしてアメリカ人宅で働く。
山県 正郷(やまがた まさくに/せいごう、旧字体: 山縣 正… 山県 正郷(やまがた まさくに/せいごう、旧字体: 山縣 正鄕、1891年(明治24年)2月15日 ‐ 1945年(昭和20年)3月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 山口県出身。山口県立徳山高等学校を経て1911年(明治44年)7月、海軍兵学校39期を席次5番で卒業。伊藤整一、遠藤喜一、高木武雄、そして山県本人も含めたこの期の4大将は全員中将で戦死し、死後に大将に特進している。 遠洋航海を終えて1912年(明治45年)3月より香取乗組に任じられ、砲術・水雷学校生徒を挟んで宗谷・扶桑・子日・平戸・浜風に相次いで乗組んだ。この間は主に水雷担当が多く、のちに航空に転じても戦闘機・偵察機より爆撃機・雷撃機を重視したことの下地になっている。
尾形 輝太郎(おがた てるたろう、1891年2月15日 - … 尾形 輝太郎(おがた てるたろう、1891年2月15日 - 1955年8月26日) は、日本の化学者。理化学研究所名誉研究員。帝国学士院賞受賞。 山形県上山町(現上山市)出身。1911年に山形師範学校を経て、1914年、広島高等師範学校卒業。1919年、東北帝国大学理学部物理学科入学。松生義勝と同時に同化学科に転じ、1922年に化学科を卒業し、理化学研究所へ入所。1927年理学博士。1941年帝国学士院賞受賞。1942年理化学研究所主任研究員。1955年定年退職、理化学研究所名誉研究員、星薬科大学教授。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
小林 政一(こばやし まさいち、1891年2月14日 - 1… 小林 政一(こばやし まさいち、1891年2月14日 - 1973年12月25日)は、日本の建築家、教育者。明治神宮外苑の建設に関わり、日本建築学会会長、千葉大学学長などを務めた。 1891年(明治24年)、茨城県稲敷郡の豪農の家に生まれる。竜ヶ崎中学校、第二高等学校を経て、1916年(大正5年)、東京帝国大学工学部建築学科卒業(高橋貞太郎、伊部貞吉、小倉強らと同年)。卒業後、大蔵省臨時建築局嘱託。 1919年、恩師佐野利器の推薦で明治神宮造営局技師(高橋貞太郎の後任)に就任、神宮外苑の施設建設(絵画館、競技場、水泳場、日本青年館など)に従事。関東大震災を乗り越え、外苑の整備に尽力する。 1926年に東京高等工業学校教授。
河合 栄治郎(かわい えいじろう、1891年2月13日 - … 河合 栄治郎(かわい えいじろう、1891年2月13日 - 1944年2月15日)は、日本の経済学者、社会思想家。東京帝国大学経済学部教授。第二次世界大戦前夜における著名な自由主義知識人の一人として、共産主義とファシズムに抵抗した。 東京府南足立郡千住町(現在の東京都足立区千住2丁目)の酒屋を営んでいた家に生まれる。戸籍には誤りで「栄次郎」と記載されるが、本人は「栄治郎」で通した。尾崎行雄を崇拝していた父親の影響で、少年時代から社会的関心が強く、特に徳富蘇峰の平民主義に惹かれていた。 東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)、第一高等学校をへて、1915年東京帝国大学法科大学政治学科卒業、銀時計受領。
直木 三十五(なおき さんじゅうご、1891年2月12日 -… 直木 三十五(なおき さんじゅうご、1891年2月12日 - 1934年2月24日)は、日本の小説家、脚本家、映画監督。本名は植村 宗一(うえむら そういち)。弟は東洋史学者の植村清二。エンターテインメント系の作品に与えられる直木三十五賞(通称:直木賞)は、彼に由来する。 1891年2月12日、現在の大阪市中央区安堂寺町2丁目に生まれる。 父の反対を押して早稲田大学英文科予科を経て、早稲田大学高等師範部英語科へ進学したが、月謝未納で中退。しかし早稲田大学へは登校し続けており、卒業記念写真の撮影にも参加している。 1920年、久米正雄、吉井勇、田中純、里見弴らによって創刊された『人間』の編集を担当。
毛利 基(もうり もとい、1891年2月11日 - 1961… 毛利 基(もうり もとい、1891年2月11日 - 1961年12月17日)は、日本の内務官僚。特別高等警察で活動、佐賀県・埼玉県などの警察部長を歴任した。 1891年、福島県伊達郡大木戸村に生まれる。大木戸小学校から旧制福島県立福島中学校(現・福島県立福島高等学校)に進学するが、父親の死により2年で中退する。その後上京して警視庁の試験を受け、1915年に警視庁巡査になる。 巣鴨署に配属された毛利は高等課労働係に所属した。ここから毛利と共産党との関係が始まる。また猛勉強を重ね巡査部長、警部補と、とんとん拍子に出世した。警視庁特別高等課労働係として、1928年の日本共産党などの一斉検挙三・一五事件の内偵に従事。
松本 巍(まつもと たかし、1891年2月11日 - 196… 松本 巍(まつもと たかし、1891年2月11日 - 1968年1月27日)は、日本の植物病理学者。台湾の農作物の疾病の研究と防除に功績があり、第二次世界大戦後も国立台湾大学農学院教授として働いた。 1891年、東京・銀座に生まれた。東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)を卒業後、カリフォルニア州立大学、ワシントン大学などに留学する。帰国後の1921年から盛岡高等農林学校の教授となった。1924年に農学博士となる。1926年に台湾に招かれ、イギリス、ドイツなどに留学後、1929年台北帝国大学教授および付属農林専門部教授として赴任し、植物病理学を教えた。台湾の農作物の病害の研究と防除の研究と実践を行った。
唐沢 俊樹(からさわ としき、1891年(明治24年)2月1… 唐沢 俊樹(からさわ としき、1891年(明治24年)2月10日 - 1967年(昭和42年)3月14日)は、昭和期の日本の内務官僚、政治家。戦前は内務次官、貴族院議員を歴任し、戦後、自由民主党の衆議院議員。第1次岸改造内閣の法務大臣を務める。勲一等瑞宝章。
中村 不二男(なかむら ふじお、1891年(明治24年)2月… 中村 不二男(なかむら ふじお、1891年(明治24年)2月10日 - 1941年(昭和16年)5月9日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。ジャーナリスト。 長崎県西彼杵郡長浦村(現在の長崎市)出身。1909年(明治42年)、長崎県立長崎中学校を卒業。長崎日日新聞記者となり、後に取締役に就任した。また長崎県会議員に2回選ばれた。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回、第20回でも再選を果たした。 その他に長崎女子商業学校(現在の長崎女子商業高等学校)校主を務めた。
石井 満(いしい みつる、1891年2月9日 - 1977年… 石井 満(いしい みつる、1891年2月9日 - 1977年11月13日)は、日本の作家、出版人、教育学者。 千葉県生まれ。第一高等学校在学時代は芥川龍之介らと同期であった。東京帝国大学法科大学卒業。大学院で交通政策を学ぶ。新渡戸稲造に師事。鉄道院事務官、東京市電気局総務課長を経て、1946年日本出版協会会長。 GHQの指導で戦争責任を問われた出版社の粛清を行い、夏目漱石の著作権問題の処理に当たった。学校法人精華学園理事長などを務めた。
山下 若松(やました わかまつ、1891年(明治24年)2月… 山下 若松(やました わかまつ、1891年(明治24年)2月6日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。屏東市長、台中市長。旧姓は川上。 川上勝右衛門の三男として岡山県岡山市に生まれ、のち山下全増の養子となる。岡山県商業学校、岡山県立高等簿記学校を経て、1912年に関西大学商業学科第2学年を修了する。この間、神戸税務監督局に勤めた。 台北庁税務吏を皮切りに、専売局書記、府秘書課統計主務を経て、1934年(昭和9年)5月、地方理事官に進み、基隆市助役に就任。ついで1937年(昭和12年)11月、台北州文山郡守に転じ、1939年(昭和14年)4月、新竹州苗栗郡守、1940年(昭和15年)6月、台南州新豊郡守を歴任したのち、1941年(昭和16年)6月、屏東市長に就任し、さらに1943年(昭和18年)1月には台中市長となった。
中村 佐一(なかむら さいち、1891年2月6日 - 197… 中村 佐一(なかむら さいち、1891年2月6日 - 1978年6月18日)は経済学者。専門は金融論。
水野 智彦(みずの ともひこ、1891年2月5日 - 199… 水野 智彦(みずの ともひこ、1891年2月5日 - 1997年12月11日)は、日本の経営者。日本特殊陶業社長、会長を務めた。東京都出身。 1915年に慶應義塾大学部理財科を卒業し、同年に森村組に入社。1956年に取締役に就任し、1934年に日本陶器取締役にも就任し、1944年には日本特殊陶業専務に就任し、1949年に取締役、1961年に監査役、1963年に顧問を経て、1971年に社長に就任。1973年に会長に就任。 1972年に勲三等瑞宝章を受章。 1997年12月11日、呼吸不全のために死去。106歳没。
三上 於菟吉(みかみ おときち、1891年2月4日 - 19… 三上 於菟吉(みかみ おときち、1891年2月4日 - 1944年2月7日)は、大正・昭和時代の小説家。大衆文学の流行作家となり、文壇の寵児と呼ばれた。代表作に『雪之丞変化』など。活躍期にはその作風から「日本のバルザック」とも呼ばれた。内縁の妻は作家の長谷川時雨。 埼玉県中葛飾郡桜井村生まれ(現在の春日部市木崎)。代々儒医(漢方医)家業で、祖父はまた漢詩人大沼枕山門下の詩人でもあった。旧制粕壁中学校(現在の埼玉県立春日部高等学校)を経て田山花袋に私淑。父純太郎も於菟吉を医師に進ませようとしたが、中学校時代から文学少年となり白夜のペンネームで『文章世界』『中学世界』などに投稿していた。 1911年早稲田大学文学部英文科予科に入学し、広津和郎や谷崎精二らと交友を持ち、ロシア文学で片上伸に認められて「片門十哲」の一人とも言われた。
安井 大吉(やすい だいきち、1891年2月4日 - 196… 安井 大吉(やすい だいきち、1891年2月4日 - 1968年8月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。浦和市長(1期)。旧姓、花沢。 静岡県出身。日本大学法学部で学ぶ。岐阜県羽島郡長、同県地方課長、庶務課長、東京都区政課長、財政課長、厚生局長、生活局長を歴任し、1942年9月28日から1944年10月25日まで第4代浦和市長を務める。 戦後の1953年、時の首相吉田茂の予算委員会での発言に対する懲罰動議が可決されたため、可決の原因となった広川弘禅(広川は鳩山一郎、三木武吉らに同調し採決を欠席、のち内閣不信任案の可決、解散(バカヤロー解散)に繋がる)の対立候補として第26回衆議院議員総選挙で東京3区から自由党公認で立候補して当選した(広川は分党派自由党から立候補し、落選)。
諸口 十九(もろぐち つづや、1891年2月3日 - 196… 諸口 十九(もろぐち つづや、1891年2月3日 - 1960年4月17日)は、日本の俳優、占い師である。本名同じ。大正末期から昭和初期にかけて、松竹蒲田撮影所の二枚目俳優として一世を風靡し、俳優廃業後は諸口 悦久(もろぐち よしひさ)を名乗って占い師に転向、断易の大家として知られた。 1891年(明治24年)2月3日、福井県大野郡大野町(現在の同県大野市)に生まれる。 1907年(明治40年)、満16歳の時に上京し、旧制福井県立大野中学校(現在の福井県立大野高等学校)から旧制成城中学校(現在の成城中学校・高等学校)に転校する。ところが、翌1908年(明治41年)には中退して、新派俳優藤澤浅次郎が後継者養成のため私財を投じ、東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)にあった牛込高等演芸館を校舎に開校した東京俳優養成所(後の東京俳優学校、1911年閉校)の第1期生として入所、同期には岩田祐吉、田中栄三、上山草人らがいた。
佐伯 卯四郎(さえき うしろう、1891年〈明治24年〉2月… 佐伯 卯四郎(さえき うしろう、1891年〈明治24年〉2月1日 - 1972年〈昭和47年〉1月12日)は、日本の実業家・政治家。日本陶器社長や、中部経済連合会会長、参議院議員等を務めた。 東京市牛込区矢来町3番地(現東京都新宿区矢来町)で、佐伯成允、満佐の4男として生まれた。東京市立愛日尋常高等小学校(現新宿区立愛日小学校)を経て、1908年3月、私立早稲田中学校(現早稲田中学校・高等学校)を卒業した。 1912年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。1914年森村組入社。1934年日本陶器取締役。1939年日本陶器常務取締役。1942年日本陶器専務取締役。1946年日本陶器取締役社長。1947年第1回参議院議員通常選挙愛知県選挙区当選(補欠、任期3年)。
福留 繁(ふくとめ しげる、1891年(明治24年)2月1日… 福留 繁(ふくとめ しげる、1891年(明治24年)2月1日 - 1971年(昭和46年)2月6日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校40期。最終階級は海軍中将。 1891年(明治24年)2月1日、鳥取県西伯郡所子村大字福尾(現大山町)の農家に生まれる。1905年(明治38年)4月、鳥取県立米子中学校(現鳥取県立米子東高等学校)に入学。入学当初は貧しく、四里(16キロ)の道を歩いて通学していた。海軍を志したのはなんとなく海にあこがれをもっていたのと「貧乏中学生の進学の道は学資のいらない軍人学校」ということからだった。1909年(明治42年)9月11日、海軍兵学校に40期生として入校。1912年(明治45年)7月、144名中第8番の成績で卒業、少尉候補生。
米田 規矩馬(よねだ きくま、1891年(明治24年)2月1… 米田 規矩馬(よねだ きくま、1891年(明治24年)2月1日 – 1974年(昭和49年)10月28日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 広島県双三郡吉舎町(現在の三次市)出身。1918年(大正7年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業し、弁護士を開業した。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第18回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。その間、犬養内閣で三土忠造逓信大臣の秘書官となり、斎藤内閣でも三土鉄道大臣の秘書官を務めた。 その後、吉舎町長に就任した。
内山 岩太郎(うちやま いわたろう、1890年〈明治23年〉… 内山 岩太郎(うちやま いわたろう、1890年〈明治23年〉2月28日 - 1971年〈昭和46年〉11月19日)は、日本の外交官・政治家。神奈川県知事(官選、公選第1・2・3・4・5代)、テレビ神奈川初代社長。位階は正三位。日本の国際連合加盟に貢献をした人物として知られる。元丸紅ブラジル会社副社長の内山勇は三男。 1890年(明治23年)、群馬県前橋市天川原町に、父・内山岩吉、母・ちか子の三男として生まれる。1902年(明治35年)、群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学。1905年(明治38年)に校長排斥の同盟休校を起こし放校となり、正則英語学校を経て立教学院に編入、1907年(明治40年)卒業。
2代 古荘 健次郎(古莊、ふるしょう けんじろう、1890年… 2代 古荘 健次郎(古莊、ふるしょう けんじろう、1890年(明治23年)2月28日 - 1948年(昭和23年)2月6日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・清七。 熊本県熊本市古川町(現:熊本市中央区古川町)で、繊維問屋・初代古荘健次郎の二男として生まれる。1909年(明治42年)熊本県立商業学校(現熊本県立熊本商業高等学校)を卒業した。1926年(大正15年)家督を相続し2代健次郎を襲名した。 1917年(大正6年)金貨メリヤス(大阪市淀川区)を買収し、1918年(大正7年)5月、金貨莫大小 (株) を設立して社長に就任。1933年(昭和8年)12月、持ち株会社・古荘合資会社を設立して代表社員となる。
岡野 豪夫(おかの たけお、1890年2月28日 - 196… 岡野 豪夫(おかの たけお、1890年2月28日 - 1964年8月22日)は、日本の経営者、銀行家。駿河銀行頭取を務めた。静岡県出身。 1912年に慶應義塾理財科を卒業し、後に駿河銀行に入行。1932年に取締役に就任し、1942年に副頭取を経て、1957年11月には頭取に就任した。 1964年8月22日心筋梗塞のために在任中に死去。74歳没。
矢崎 邦次(やさき くにじ、1890年 <明治23年> 2月… 矢崎 邦次(やさき くにじ、1890年 <明治23年> 2月28日 - 1977年 <昭和52年> 1月23日)は、日本の経営者。長野県伊那市出身。位階は正五位。 1916年に東京高等商業学校を卒業し、同年に第一銀行に入行。1941年7月に取締役に就任し、1945年3月に澁澤倉庫専務を経て、1949年5月には社長に就任。1956年5月から1958年5月までに会長を務めた。 1971年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1977年心臓発作のために死去。87歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
白鳥 省吾(しらとり せいご、1890年2月27日 - 19… 白鳥 省吾(しらとり せいご、1890年2月27日 - 1973年8月27日)は、日本の詩人・文人。ヒット曲『星影のワルツ』で知られる、詩人で作詞家の白鳥園枝は二女。 省吾が作る詩は、民衆の内面を描いた物であり、“民衆派詩人”と称されている。ウォルト・ホイットマンの作った詩の翻訳でも著名。 旧制宮城県立築館中学校4年生頃から詩を書くようになる。早稲田大学に入学後、「夜の遊歩」などの詩を収めた詩集『世界の一人』を若山牧水、太田水穂、前田夕暮の仲介で自費出版し、詩人として文壇にデビューを果たす。『世界の一人』は好評を博し、省吾は一躍名声を高める。 早稲田大学英文科卒業後は、『新少年』・『露西亜評論』・『女学生』など、戦前に発行された雑誌の編集者で、詩人の団体「詩話会」の発行する『日本詩集』や、「詩話会」の発行する『日本詩人』の編集委員も歴任する。