須藤 鐘一(すどう しょういち、1886年2月1日 - 19… 須藤 鐘一(すどう しょういち、1886年2月1日 - 1956年3月9日)は、日本の小説家。 島根県能義郡比田村(現安来市)出身。本名は荘一、号ははじめ寒泉、揺曳などを用いた。米子中学校卒業後、地方新聞社に勤務ののち上京、1910年早稲田大学文学部英文科卒。報知新聞記者ののち、1913年博文館に入り、『淑女画報』の編集主任を長く務める。 1918年中村星湖の紹介で「白鼠を飼ふ」を発表し文壇に登場。1926年から『文芸道』を主宰した。三越編集長、日本大学藝術科講師などを務めた。
左座 養傳(さざ ようでん、1886年2月 - 没年不詳)は… 左座 養傳(さざ ようでん、1886年2月 - 没年不詳)は、日本、関東州の裁判官。 漢方医左座泰貞の二男として福岡県早良郡原村(現・福岡市早良区原)に生まれる。1906年福岡県立中学修猷館、1911年7月第五高等学校英語法律科を経て、1916年7月東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。 卒業後、鉄道院に入るが、1917年5月司法官試補となり、神戸地方裁判所に勤務、1918年11月判事となり、1919年1月奈良地方裁判所に転じた。1920年9月関東庁高等法院兼地方法院判官に任じられ、高等法院覆審部兼上告部判官を務めた。 その後、1928年福山区裁判所監督判事、遠野区裁判所判事、1939年萩区裁判所判事を歴任した。
東郷 彪(とうごう ひょう、1885年〈明治18年〉2月28… 東郷 彪(とうごう ひょう、1885年〈明治18年〉2月28日 - 1969年〈昭和44年〉6月5日)は、日本の農商務官僚、宮内官僚、政治家。爵位は侯爵。東郷平八郎の子。宮内省内匠寮御用掛、貴族院議員などを歴任した。 温厚な人柄、恬淡とした性格で我が道を進み、新宿御苑で菊栽培などを手がけ、菊づくりの拡充強化に大きく貢献した。 東郷平八郎の長男として、1885年(明治18年)鹿児島県に生まれた。学習院に入るがその後中学済々黌を経て、1911年(明治44年)、東京高等農学校(現東京農業大学)を卒業した。卒業後は、農商務省の農事試験場興津園芸試験場(現在の農研機構果樹研究所·カンキツ研究興津拠点)に勤務した。
倉富 鈞(くらとみ ひとし、1885年〈明治18年〉2月28… 倉富 鈞(くらとみ ひとし、1885年〈明治18年〉2月28日 - 1977年〈昭和52年〉4月5日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。位階は従四位。 司法官僚・倉富勇三郎の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1936年(昭和11年)6月1日、男爵を襲爵した。 1910年(明治43年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1928年(昭和3年)朝鮮銀行秘書課長兼国庫課長に就任。その後、同検査役、産業組合中央金庫参事・貸付課長、同理事、農地開発営団理事などを務めた。 1941年(昭和16年)9月6日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
窪田 忠彦(くぼた ただひこ、明治18年(1885年)2月2… 窪田 忠彦(くぼた ただひこ、明治18年(1885年)2月27日 - 昭和27年(1952年)10月31日)は、日本の数学者。東北帝国大学教授。統計数理研究所三代目所長。
青木 得三 (あおき とくぞう、1885年2月26日 - 1… 青木 得三 (あおき とくぞう、1885年2月26日 - 1968年7月31日) は、日本の大蔵官僚・経済学者。専門は財政学。経済学博士(1957年)。秋田県南秋田郡秋田町(現・秋田市)生まれ、東京帝国大学法科大学首席卒業。 1885年(明治18年)2月26日 (戸籍上は3月26日)、秋田県南秋田郡秋田町中島中丁にて出生。父青木定謙は角館町出身の官吏で、少年時代は父の転勤に伴って転居を繰り返した。旧制和歌山中学(現 和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)から旧制新潟中学校(現 新潟県立新潟高等学校)に転入し、 旧制第一高等学校(旧制一高)を経て1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学を首席で卒業した。
西村 茂生(にしむら しげお、1885年2月24日 - 19… 西村 茂生(にしむら しげお、1885年2月24日 - 1966年7月18日)は、日本の政治家、位階は従三位。 衆議院議員(7期)。岩国市長。岩国市名誉市民。 山口県玖珂郡岩国町(現・同県岩国市)出身。農商務省附属水産講習所(現・東京海洋大学)及び東京帝国大学理科大学卒業。20代から岩国町会議員・玖珂郡会議員・山口県会議員を歴任、山口県会においては県会副議長を務めた。1928年の普通選挙による最初の総選挙で旧山口2区から立憲政友会公認で立候補して当選、中央政界に入った。その後通算7回衆議院議員総選挙に当選した。1931年犬養内閣の海軍参与官に就任。政友会内では同じく山口県出身・選出の久原房之助と行動をともにし、1939年の政友会分裂に際しては久原や鳩山一郎とともに正統派に所属した。
内田 祥三(うちだ よしかず、1885年2月23日 - 19… 内田 祥三(うちだ よしかず、1885年2月23日 - 1972年12月14日)は、日本の建築学者、建築家。元東京帝国大学総長。
濃畑 三郎(のうはた さぶろう、1885年(明治18年)2月… 濃畑 三郎(のうはた さぶろう、1885年(明治18年)2月22日 - 1943年(昭和18年))は、日本の実業家、政治家。 宮市大丸(現在の大和)常務取締役、みくに新聞社社長、福井県会議員を務めた。 北海道朝田庄次郎の三男として福井県坂井郡三国町(現在の坂井市)に生まれ、その後先代・安吉の養子となる。濃畑家は三国町で金銀箔も扱う紙問屋・四日市屋で、「四の三(しのさん)」と呼ばれていた。『茶の本』『東洋の理想』等の著書で知られる日本美学界の泰斗・岡倉天心の母・この(旧姓:濃畑(野畑))とも関係があったという。 1922年(大正11年)、家督を相続する。明治大学修業、内務省勤務を経て福井県会議員や宮市大丸常務取締役を歴任した。
川本 増雄(かわもと ますお、1885年〈明治18年〉2月2… 川本 増雄(かわもと ますお、1885年〈明治18年〉2月21日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。郡山信用金庫専務理事。華道衡山流家元。号は見真斉一舟(けんしんさいいっしゅう)。 奈良県生駒郡郡山町大字洞泉寺町(現・大和郡山市洞泉寺町)に生まれる。川本増蔵の長男。郡山中学校を卒業する。貸座敷業を営む。遊廓改善等に奮闘努力する。 郡山町会議員に7回当選する。郡山信用金庫専務理事、奈良地裁調停委員、司法保護委員、郡山町農業会長をつとめる。 青年時代、非常な運動家で、特に野球の選手として活躍した。趣味は書画、骨董、読書。住所は奈良県生駒郡郡山町大字洞泉寺(現・大和郡山市洞泉寺町)。
小畑 敏四郎(おばた としろう、1885年(明治18年)2月… 小畑 敏四郎(おばた としろう、1885年(明治18年)2月19日 - 1947年(昭和22年)1月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。国務大臣。栄典は、正四位・勲一等(昭和20年8月19日時点)。本籍高知県。 いわゆる皇道派の中心人物とされる。同じ陸軍士官学校16期生である岡村寧次、永田鉄山と共に陸軍三羽烏の一人とされている。妻は第24代衆議院議長元田肇の娘。その妹は第56代衆議院議長船田中の妻。 東京府麴町区上六番町で、男爵小畑美稲の四男として生まれる。兄は男爵小畑大太郎、小畑厳三郎(陸軍少将)。京都府立第一中学校、大阪陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)に陸軍士官学校を卒業(16期優等)。
中島 鵬六(なかじま ほうろく、1885年(明治18年)2月… 中島 鵬六(なかじま ほうろく、1885年(明治18年)2月17日 - 1931年(昭和6年)2月17日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 宮城県加美郡中新田村(現在の加美町)出身。中新田町長・中島金也の長男として生まれる。古川中学校(現宮城県古川高等学校)、第二高等学校を経て、1912年(大正元年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、弁護士となる。仙台産馬畜産組合長、大東銀行監査役を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で3期務めた。この間、馬政委員会委員、帝国馬匹協会理事を務めた。
吉田 貞次郎(よしだ ていじろう、1885年(明治18年)2… 吉田 貞次郎(よしだ ていじろう、1885年(明治18年)2月17日 - 1948年(昭和23年)7月25日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、北海道空知郡上富良野村長。 三重県奄芸郡一身田村(現津市)で農業・米穀商の吉田貞吉の長男として生まれる。家業の不振のため、1900年、16歳の時に三重団体に加わる父に従い北海道空知郡富良野村(現上富良野町)に移住した。忙しい開墾の合間に独学で学びを続け、徴兵時には一年志願兵を優秀な成績で終え、在郷中に陸軍歩兵中尉に昇進した。 村役場職員となり、以後、上富良野村会議員、同村長、信用購買組合長、農業組合長、農業会長、帝国在郷軍人会上富良野分会長、東中富良野及び草分土功組合長などを務めた。
黒崎 定三(くろさき ていぞう、1885年(明治18年)2月… 黒崎 定三(くろさき ていぞう、1885年(明治18年)2月16日 - 1948年(昭和23年)7月19日)は、日本の法制官僚、政治家。貴族院議員、法制局長官。 京都府出身。黑崎武右衛門の二男として生まれた。郡山中学、第三高等学校を経て、1911年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年12月、文官高等試験に合格。逓信省に入り通信局書記に就任。その後、法制局参事官、内閣恩給局審査官、法制局書記官などを歴任。その他、日独戦役講和準備委員、法制審議会幹事、交通審議会幹事などを務めた。1933年3月、齋藤内閣の法制局長官となり1934年7月まで在任。退任後すぐ同月3日に貴族院勅選議員に任命され、研究会に属し1946年(昭和21年)5月17日まで在任した。
水町 義夫(みずまち よしお、1885年〈明治18年〉2月1… 水町 義夫(みずまち よしお、1885年〈明治18年〉2月16日 - 1967年〈昭和42年〉12月31日)は、教師、西南学院院長。 旧制東筑中学、西南学院中学部教師、西南学院高等部長。1927年8月に米国の南部バプテスト神学校に留学し、一年後に帰国。1933年、西南学院第4代院長(日本人初)に就任し1948年に健康上の理由で勇退するまで在任。1921年中学部の英語教師時代に新約聖書「ヨハネの手紙一」からイメージを受け西南学院校歌を作詞する。作曲は島崎赤太郎。「岸を洗う紺碧の波」「松の緑青春の色」に始まる校歌であるが、当時、同校は現在埋立されているのと違って、木造の校舎のすぐ裏は海であり、まさに白砂青松であった。
有馬 寛(ありま ゆたか、1885年(明治18年)2月14日… 有馬 寛(ありま ゆたか、1885年(明治18年)2月14日 - 1951年(昭和26年)1月31日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 和歌山県出身。神野介寿の二男として生れ、有馬良橘の養子となる。東京府立第一中学校を経て、1905年11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、1906年12月に海軍少尉任官。海軍大学校(乙種)、海軍砲術学校高等科を卒業。「安芸」「摂津」の各分隊長、練習艦隊・第2艦隊の各参謀などを経て、1916年11月、海軍大学校(甲種14期)を卒業。 以後、佐世保鎮守府参謀、ロシア駐在、兼ロシア大使館付武官補佐官、軍令部兼参謀(ペテルブルク、ストックホルム、オデッサ、パリ各駐在)、第2戦隊参謀、「春日」副長、横須賀鎮守府付、皇族(伏見宮博恭王)付武官、軍令部参謀(第3班第6課長)、「木曾」「古鷹」の各艦長、舞鶴要港部参謀長、ソ連大使館付武官などを歴任し、1930年12月、海軍少将に進級。
吉田 善吾(よしだ ぜんご、1885年〈明治18年〉2月14… 吉田 善吾(よしだ ぜんご、1885年〈明治18年〉2月14日 - 1966年〈昭和41年〉11月14日)は、日本の海軍軍人。海軍大将。海軍大臣、連合艦隊司令長官を歴任した。 佐賀県出身。士族・峰與八の四男。米屋、吉田祐次郎の養子となる。旧制佐賀中学校に進み、「誠友団」と名づけた交友団体に加入。古賀峯一はこの時以来の友人であり、同会には下村湖人もいた。1923年(大正12年)、分家した。 海兵32期を192名中12番で卒業。すでに日露戦争は開戦しており、「韓崎丸」で訓練を受けた後、「春日」艦長(加藤定吉)附として日本海海戦に参戦した。 吉田が選んだ海軍兵科将校としての専門は水雷で、第一水雷戦隊参謀などを務めている。
猪俣 喜藤(いのまた きふじ、1885年〈明治18年〉2月1… 猪俣 喜藤(いのまた きふじ、1885年〈明治18年〉2月13日 - 1964年〈昭和39年〉4月30日)は、日本の内務官僚。大分県東国東郡国東町長。 大分県東国東郡北江村(国崎村、国東町を経て現国東市)出身。1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した 。逓信管理局書記、秋田県属、同河辺郡長、広島県佐伯郡長、鹿児島県理事官を経て、宮城県書記官・学務部長、石川県書記官・学務部長を経て、1929年(昭和4年)に福岡県書記官・学務部長に就任した。 1931年(昭和6年)に退官した後は、別府市、岡山市、尼崎市の助役を歴任した。1945年(昭和20年)6月には帰郷し、公選初代国東町長に当選した。
南 慎一郎(みなみ しんいちろう、1885年(明治18年)2… 南 慎一郎(みなみ しんいちろう、1885年(明治18年)2月8日 - 1965年(昭和40年)8月17日)は、日本の弁護士。富山県高岡市長。勲五等双光旭日章。 富山県高岡市出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。三共株式会社秘書・泰昌製薬株式会社取締役を務め、1921年(大正10年)に退職した。同年、弁護士を開業した。 1926年(大正15年)、高岡市長に選出され、1930年(昭和5年)まで在任した。 退任後は日本興業銀行取締役、高岡土地株式会社監査役を務め、1932年(昭和7年)より再び弁護士を開業した。1940年(昭和15年)から検事に転じ、岡山地方裁判所検事、横須賀区裁判所検事を務めた。
高碕 達之助(たかさき たつのすけ、1885年2月7日 - … 高碕 達之助(たかさき たつのすけ、1885年2月7日 - 1964年2月24日)は、日本の政治家・実業家。満洲重工業開発株式会社副総裁・第2代総裁、電源開発初代総裁、通商産業大臣、初代経済企画庁長官などを歴任した。 大阪府島上郡三箇牧村(現在の高槻市)で生まれる。旧制茨木中学を卒業後、農商務省水産講習所(後の東京水産大学、現在の東京海洋大学)に入所。その後、メキシコ万博漁業に入社し、水産技師として勤務。1917年、東洋製罐を創立。1938年、東洋製罐専修学校(後の東洋食品工業短期大学)を設立。1942年、満洲重工業開発総裁に就任。1947年公職追放、1951年同解除。1952年、電源開発総裁に就任。
江副 孫右衛門(えぞえ まごえもん、1885年(明治18年)… 江副 孫右衛門(えぞえ まごえもん、1885年(明治18年)2月6日 - 1964年(昭和39年)8月24日)は、明治期の実業家。日本特殊陶業初代社長、日本碍子社長、東洋陶器(現 TOTO)社長・会長を務めた。有田町初代町長。 佐賀県有田町上幸平の陶磁器製造業の父八蔵の長男として生まれる。祖先は佐賀藩の有田皿山代官所の役人だったと言われ、廃藩により明治時代は祖父・父ともに窯焼きを家業としていた。白川尋常高等小学校(現・有田小学校)、佐賀県立有田工業高等学校製陶科を経て、1909年に東京高等工業学校(現 東京科学大学)窯業科を卒業し、継ぐ予定だった家業が破綻したため、日本陶器に入社。 対立した飛鳥井孝太郎技師長が1910年に追放されたことで、白色硬質磁器研究体制の中心となる。
堀 義貴(ほり よしあつ、1885年(明治18年)2月5日 … 堀 義貴(ほり よしあつ、1885年(明治18年)2月5日 - 没年不詳)は、日本の外交官。駐メキシコ公使兼初代駐エルサルバドル公使、初代駐グアテマラ公使、初代駐ホンジュラス公使、初代駐ニカラグア公使、初代駐コスタリカ公使。 鹿児島県に吉利靖の三男として生まれ、堀千夫の養子となった。1905年(明治38年)、東京高等商業学校(現在の一橋大学)専攻科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。領事官補、シンガポール領事、外務事務官・書記官、外務大臣秘書官、内閣総理大臣秘書官、中華民国公使館一等書記官、浦塩派遣軍政務部長、ロンドン総領事、中華民国大使館参事官、イギリス大使館参事官を歴任。 ロンドン海軍軍縮会議に全権事務所情報部長として参加し、1931年(昭和6年)、旭日中綬章受章。
宮川 米次(みやかわ よねじ、1885年(明治18年)2月4… 宮川 米次(みやかわ よねじ、1885年(明治18年)2月4日 - 1959年(昭和34年)12月26日)は、日本の医学者、病理学者、細菌学者。東京帝国大学伝染病研究所所長を務め、伝染病・感染症の拡大防止、撲滅などに寄与した。号は「豊山」。 愛知県渥美郡豊岡村(現:豊橋市)で、今泉七作の四男として生まれる。愛知県第四中学校卒業後、福江町(現:田原市)の資産家・宮川家の養子となる。 その後、第六高等学校を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学医科大学卒業。1917年(大正6年)2月、医学博士の学位を取得。 1934年(昭和9年)から1940年(昭和15年)には、東京帝国大学伝染病研究所所長を務める。
田辺 元(たなべ はじめ、1885年(明治18年)2月3日 … 田辺 元(たなべ はじめ、1885年(明治18年)2月3日 - 1962年(昭和37年)4月29日)は、日本の哲学者。旧字体での表記では田邊 元。西田幾多郎とともに京都学派を代表する思想家。京都大学名誉教授。1947年帝国学士院会員、1950年文化勲章受章。 東京に生まれる。父は、東京の開成中学校の校長を務め、逗子開成や鎌倉女学院を設立した田辺新之助である。弟は黒田清輝に学んだ東京美術学校教授の田邊至である。ピエール・ベール著作集の翻訳などで知られる東京都立大学教授、仏文学者の野沢協は甥である。なお、田邊の妻・千代(海軍教授・蘆野敬三郎娘)は藤村操の従姉妹である。したがって田邊がのちに対決することになる西田幾多郎の最初の全集の編者に名を連ねている安倍能成と田邊は、義理の従兄弟同士となる。
日比野 正治(ひびの まさはる、1885年(明治18年)2月… 日比野 正治(ひびの まさはる、1885年(明治18年)2月2日 - 1947年(昭和22年)3月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 愛知一中を経て、鳥羽商船学校本科修了後、1906年11月海軍兵学校(34期)を卒業し、1907年に少尉任官。1912年海軍砲術学校高等科を卒業後、第3艦隊副官、「鞍馬」分隊長を歴任。1917年、海軍大学校(甲種)を卒業。以後、「春日」乗組、軍令部第3班第5課参謀、アメリカ大使館付武官補佐官、「鬼怒」副長などを歴任。 1927年、「大井」艦長となり、さらに「浅間」艦長、海軍大学校教官、「日向」艦長を歴任し、1932年海軍少将に進級。以後、第1戦隊司令官、第11戦隊司令官を務め、1936年に海軍中将・駐満海軍部司令官を拝命。
和崎 ハル(わざき ハル、1885年2月1日 - 1952年… 和崎 ハル(わざき ハル、1885年2月1日 - 1952年12月30日)は日本の美容師、政治家。衆議院議員(1期)を歴任した。旧姓、栗谷。 秋田県秋田市楢山南新町出身。1904年秋田県立秋田高等女学校(現・秋田県立秋田北高等学校)卒業。上京して女子音楽学校で学ぶ一方、キリスト教小学校に勤務する。在学中に陸軍騎兵将校和崎豊之と結婚する。1921年に美容師となり、1922年に夫が死去すると故郷の秋田に戻る。秋田初の美容師として生計を立てたと言われる。 和崎の美容院は評判を呼び、秋田魁新報社の身の上相談欄の回答者に和崎が選ばれるほどであった。同年、早川かいらと日本基督教婦人矯風会秋田支部を設立し、公娼廃止運動に尽力した。
針重 敬喜(はりしげ けいき、1885年〈明治18年〉2月1… 針重 敬喜(はりしげ けいき、1885年〈明治18年〉2月1日 - 1952年〈昭和27年〉6月5日)は日本の編集者、アマチュアテニス選手。『武侠世界』などの雑誌で主筆を務め、また日本のテニスの普及・振興に尽力した。 山形県南置賜郡南原芳泉村(現・米沢市芳泉町)出身。父親の幸主は地元の名士で、住民から記念碑を建立されるほどであった。 米沢中学(現・山形県立米沢興譲館高等学校)を経て1903年(明治36年)に早稲田大学英文科に入学。早稲田を選んだのは坪内逍遥に憧れたためであった。また、庭球部に入部し、ここから本格的にテニスを始めることとなる。 早稲田大学卒業後、読売新聞、東京日日新聞を経て、1912年(明治45年)、押川春浪に請われて飛田穂洲と共に武侠世界社に入社。
岡本 幹輔(おかもと かんすけ、1885年〈明治18年〉2月… 岡本 幹輔(おかもと かんすけ、1885年〈明治18年〉2月1日 - 1939年〈昭和14年〉2月25日)は、日本の政治家。衆議院議員。 山形県飽海郡漆曽根村(現酒田市)で岡本敏貞の二男として生まれる。1902年(明治35年)、山形県立荘内中学校を卒業し、さらに1906年(明治39年)、東京高等商業学校を卒業した。同年7月、三井物産会社に入社し、札幌出張所、本店営業部などで勤務。1914年(大正3年)8月、日本製鋼所に移り、横須賀出張所長、室蘭支店会計主任、同支店商務主任、同事務部次長、同労務係長を歴任。その他、室蘭商業会議所特別議員、(株) 瑞穂商会顧問を務めた。 1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙において北海道第5区から憲政会所属で出馬し当選。
塩川 正蔵(正藏、しおかわ しょうぞう、1885年(明治18… 塩川 正蔵(正藏、しおかわ しょうぞう、1885年(明治18年)2月1日 - 1952年(昭和27年)12月1日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、内務官僚。弁護士。 静岡県富士郡大宮町(現在の富士宮市)出身。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。高等文官試験に合格し、静岡県警部、同保安課長、岡山県後月郡長、同吉備郡長、同小田郡長、同水産課長を歴任した。1921年(大正10年)、東京市主事となり、商工課長、土木局庶務課長などを務めた。さらに麻布区長、本郷区長、京橋区長を歴任し、1935年(昭和10年)に東京市理事に就任した。退職後は弁護士を開業した。 1937年(昭和12年)、第20回衆議院議員総選挙に静岡2区から立憲政友会で出馬し、当選を果たした。
田辺 徳五郎(田邊 徳五郎、たなべ とくごろう、1885年(… 田辺 徳五郎(田邊 徳五郎、たなべ とくごろう、1885年(明治18年)2月1日 - 1947年(昭和22年)5月20日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家、地主、神奈川県多額納税者。衆議院議員(神奈川県第1区選出、当選1回)。旧姓は渡邊、旧名は眞吉、あるいは真吉。 神奈川県鎌倉郡戸塚駅(戸塚町を経て現横浜市戸塚区)に生まれる。渡邊三左衛門の弟。1909年(明治42年)長崎高等商業学校を卒業。横浜石川中村町(現南区中村町)の地主で金融業を営む田辺徳五郎の養嗣子となり、先代の没後に襲名する。 1914年(大正3年)田辺合資会社を設立。1922年(大正11年)横浜市会議員に当選し、1942年(昭和17年)まで務めた。
三宅 富治(みやけ とみはる、1885年(明治18年)2月 … 三宅 富治(みやけ とみはる、1885年(明治18年)2月 - 不明 )は、日本の銀行家であり、実業家である。漢城銀行(現・新韓銀行)常務取締役となり、戦後日本製鋼所参事を務めた。岡山県高梁市出身。 1885年(明治18年)岡山県川上郡大賀村(現:高梁市)に生れる。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学、同期には、東京競馬場長・日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事の横屋潤、大阪無線電気学校(現:大阪電気通信大学)の初代校長となる長野新十郎がいた。 1903年(明治36年)、同校を卒業し、翌年、旧制第六高等学校文科甲類と札幌農学校予習科を受験する。岡山市にある旧制第六高等学校へ進学し、1908年(明治41年)6月に同校を卒業する。
岩崎 清行(いわさき きよゆき、1885年(明治18年)2月… 岩崎 清行(いわさき きよゆき、1885年(明治18年)2月 - 1970年(昭和45年)4月23日)は、大正から昭和時代の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。 宮崎県西諸県郡真幸村(真幸町、えびの町を経て現えびの市)出身。岩崎泰蔵の長男として生まれ、1904年(明治37年)家督を相続する。1914年(大正3年)東京帝国大学農科大学林学科卒業。 農業を営み、1919年(大正8年)以降、球磨川電気取締役、真幸村会議員、宮崎県会議員、同参事会員、都市計画宮崎地方委員会委員などを歴任した。 1932年(昭和7年)9月には宮崎県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1939年(昭和14年)9月28日まで務めた。
平瀬 信太郎(ひらせ しんたろう、1884年(明治17年)2… 平瀬 信太郎(ひらせ しんたろう、1884年(明治17年)2月28日 - 1939年(昭和14年)9月9日)は、日本の貝類学者。父の平瀬與一郎や同年代の黒田徳米らとともに、日本における貝類学の発展に寄与した学者の一人である。 ニシキウズガイ科の巻貝の一種 ヒラセギンエビス Ginebis argenteonitens hirasei Otsuka et Taki,1943 は、平瀬の功績を記念した献名がなされている。 1884年(明治17年)、平瀬與一郎の長男として淡路島福良(現 : 南あわじ市)に生まれた。旧制の京都府立第一中学校(現 : 京都府立洛北高等学校)、第三高等学校、京都帝国大学文学部(現 : 京都大学)を卒業した。
市村 慶三(いちむら けいぞう、1884年(明治17年)2月… 市村 慶三(いちむら けいぞう、1884年(明治17年)2月28日 - 1959年(昭和34年)1月8日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、京都市長。旧姓・古川。 京都府出身。古川専太郎の三男として生まれ、市村貞蔵の養子となる。第三高等学校を経て、1910年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り北海道庁属となる。 以後、北海道庁警視、神奈川県橘樹郡長、千葉県・兵庫県の各理事官、奈良県警察部長、皇宮警察長、内務省参事官兼宮内事務官、神奈川県書記官・内務部長、警視庁書記官・官房主事などを歴任。 1926年8月、福井県知事に就任。以後、愛媛県・三重県の各知事を経て、1931年11月、鹿児島県知事に就任。
小野 弥一(おの やいち、1884年(明治17年)2月26日… 小野 弥一(おの やいち、1884年(明治17年)2月26日 - 1939年(昭和14年)4月6日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校33期。最終階級は海軍中将。 山口県玖珂郡玖珂町(現岩国市)出身。小野友蔵長男。岩国中学校を経て、1905年11月海軍兵学校(33期)を卒業。1906年12月に海軍少尉任官。1912年に海軍大学校乙種及び海軍大学校専修を卒業した後、音羽、韓崎の航海長を経て、1915年軍艦政本部艤装員として英国で建造中だった駆逐艦江風の艤装に従事する。 1916年海軍少佐任官。浅間、鞍馬、霧島、比叡の航海長を歴任し、1920年富士(運用術練習艦)教官兼海軍大学校教官に就任。1921年に海軍中佐に任官、海軍大学校教官専任となる。
猪股 松之助(いのまた まつのすけ、1884年(明治17年)… 猪股 松之助(いのまた まつのすけ、1884年(明治17年)2月26日 - 1939年(昭和14年)6月7日)は、台湾総督府官僚。 秋田県由利郡石沢村(現在の由利本荘市)出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業。1915年(大正4年)、同法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。台湾総督府属、嘉義支庁事務官、台南支庁事務官、台北州警務部長、台南州警務部長、台中州内務部長、花蓮港庁長を歴任し、1931年(昭和6年)に新竹州知事に就任した。 1932年(昭和7年)に退官した後は、台湾青果株式会社常任監査役、同常務取締役を務めた。
寺本 武治(てらもと たけじ、1884年2月25日 - 19… 寺本 武治(てらもと たけじ、1884年2月25日 - 1958年12月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 島根県出身。神戸一中を経て、1905年(明治38年)11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、1906年(明治39年)12月、海軍少尉任官。海軍大学校乙種、海軍砲術学校高等科で学ぶ。1911年(明治44年)12月、「筑波」分隊長となり、「三笠」「周防」の各分隊長、砲術学校教官兼分隊長兼海軍機関学校教官、「橋立」分隊長兼砲術学校教官などを経て、1917年(大正6年)11月、海大(甲種15期)を卒業した。 1917年12月、海軍少佐に昇進し海軍省人事局局員(第1課)に就任。1920年(大正9年)12月、「伊勢」砲術長となり、軍令部参謀兼サガレン州派遣軍司令部付に転じ、1921年(大正10年)12月、海軍中佐に進級。
山川 章太郎(やまかわ しょうたろう、1884年(明治17年… 山川 章太郎(やまかわ しょうたろう、1884年(明治17年)2月25日 - 1941年(昭和16年)2月4日)は、内科学者。位階および勲等は正三位・勲二等瑞宝章。専門は糖質代謝、消化器。ぶどう糖、脂肪の非経口的栄養(静脈内投与)の創始者、特に脂肪乳剤ヤノールの臨床応用が重要。 長男は山川邦夫(順天堂大学医学部教授)。次男は山川民夫(東京大学名誉教授)。孫は大熊由紀子(科学ジャーナリスト)。 香川県高松市に、山川慎蔵(儒者、和算家)の長男として生まれる。祖父の山川孫水も大坂出身の儒者および和算家で、私塾を開いたのち高松藩の郷校の校長を務めている。 米国留学中、野口英世の協力を得て、血清プロテアーゼの研究を行った(追悼録)。
橘 純一(たちばな じゅんいち、1884年(明治17年)2月… 橘 純一(たちばな じゅんいち、1884年(明治17年)2月25日 - 1954年(昭和29年)1月19日)は、国文学者。 東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区銀座)生まれ。児島喜三郎の五男。橘守部直系の家へ養子に入る。第二高等学校、1909年東京帝国大学文学部国文科卒。同助手、13年府立第五中学校教諭、21年『橘守部全集』を編集刊行。25年退職、各学校講師をしながら著述生活。36年国語解釈学会を創立、雑誌『国語解釈』を創刊。41年陸軍士官学校教官、50年跡見学園短期大学教授。没後、二松学舎大学名誉教授の称号を追贈。 1938年、小学校教科書に掲載された『源氏物語』について、不敬の書であるから削除すべしと主張した。
安井 武雄(やすい たけお、1884年2月25日 - 195… 安井 武雄(やすい たけお、1884年2月25日 - 1955年5月23日)は、大阪を中心に活躍した日本の建築家。昭和初期のモダニズム建築を代表する建築として名高い大阪ガスビルディングなどを設計したことで知られる。
小池 正晁(こいけ まさあき、1884年(明治17年)2月2… 小池 正晁(こいけ まさあき、1884年(明治17年)2月23日 - 1941年(昭和16年)6月18日)は、日本陸軍の軍人、政治家。貴族院議員・陸軍軍医総監・正三位・勲二等・医学博士・男爵。男爵・小池正直の長男。東京市小石川(現・東京都文京区小石川)出身。 日本陸軍軍医・小池正直の長男として朝鮮釜山に生れる。1902年(明治35年)第一高等学校を首席で卒業する。1909年(明治42年)12月、京都帝国大学の分科大学である福岡医科大学(現・九州大学医学部)を卒業。 歩兵第3連隊(麻布三連隊)に入営。1910年(明治43年)6月、二等軍医となり、近衛歩兵第2連隊に配属された。1912年(明治45年)1月、東京帝国大学大学院に入学した。
泉 芳璟(いずみ ほうけい、1884年2月23日 - 194… 泉 芳璟(いずみ ほうけい、1884年2月23日 - 1947年12月28日)は、浄土真宗の僧、仏教学・サンスクリット学者。 三重県津市安濃町安部の円称寺(真宗大谷派)に生まれる。1907年真宗大学卒。1918-19年インド、ヨーロッパに学ぶ。真宗大学教授、大谷大学教授、同図書館長。真宗大谷派学僧。
三浦 環(みうら たまき、1884年(明治17年)2月22日… 三浦 環(みうら たまき、1884年(明治17年)2月22日 - 1946年(昭和21年)5月26日)は、東京府東京市京橋区(現:東京都中央区京橋)出身の日本の女性歌手。 出生名:柴田 環(しばた たまき)。日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手として知られる。十八番だったジャコモ・プッチーニの「蝶々夫人」にある“蝶々さん”と重ね合わされて「マダム・バタフライ」と称され、国際的に広く知られた。 1884年(明治17年)2月22日に東京府東京市京橋区(現:東京都中央区京橋)で生まれる。父親は静岡県城東郡下朝比奈村(現:御前崎市)出身で公証人である柴田孟甫(本名:熊太郎)、母は城東郡小沢村(現:菊川市)出身の永田登波で、3歳から日本舞踊を、6歳から長唄と箏を習い始める。
大類 伸(おおるい のぶる、1884年(明治17年)2月22… 大類 伸(おおるい のぶる、1884年(明治17年)2月22日 - 1975年(昭和50年)12月27日)は、日本の西洋史学者。東北帝国大学教授、帝国学士院会員、日本学士院会員。 1884年、東京市日本橋区生まれ。神田練塀小学校から東京開成中学校、第一高等学校を経て、1906年東京帝国大学文科大学史学科を卒業。 1921年、東京帝国大学文学部助教授に採用される。1915年に東京帝国大学に日本城郭史の研究を提出して文学博士の学位を授与された。1937年5月8日、帝国学士院会員に選出。1924年、東北帝国大学教授に転任。ヤーコプ・ブルクハルトを学んで西洋中世史、ルネッサンス史に先駆的業績をあげた。1944年に東北帝国大学を退官し、日本女子大学教授となった。
辻 永(つじ ひさし、1884年〈明治17年〉2月20日 -… 辻 永(つじ ひさし、1884年〈明治17年〉2月20日 - 1974年〈昭和49年〉7月23日)は、日本の洋画家。広島県広島市生まれ、茨城県水戸市育ち。 広島県広島市に生まれ、後に父の任地変更に伴い家族で茨城県水戸市に移り住んだ。水戸警察署長を務めた父の趣味が書画、骨董品の蒐集および草花、西洋野菜の育成であったことが永の絵画と植物の方面へ影響を及ぼした、と水戸市立博物館は2011年辻永植物画特別展の際に記している。 水戸中学校在学時代の1900年(明治33年)に白馬会会員で図画教師の丹羽林平宅に同居しつつ油絵を学び、以後東京美術学校西洋画科本科に進学し黒田清輝、岡田三郎助らに師事し洋画家となった。
杉 道助(すぎ みちすけ、1884年(明治17年)2月20日… 杉 道助(すぎ みちすけ、1884年(明治17年)2月20日 - 1964年(昭和39年)12月14日)は、日本の実業家。第二次世界大戦後における大阪・関西財界の代表者。曽祖父は吉田松陰の父である杉常道、祖父は松陰の兄の杉民治。 八木商店社長となり、大阪商工会議所会頭を23年間務め、日本商工会議所副会頭、新日本放送(現・MBSメディアホールディングス)社長、海外市場調査会(現・日本貿易振興機構(略称:JETRO(ジェトロ)を設立後、理事長となる。鳩山一郎内閣において日ソ交渉全権顧問、日韓会談首席代表として政界にも関与した。位階は正三位、勲等は勲一等。 山口県山口市に生まれた。父の相次郎は県庁勤めをしていた。
片上 伸(かたがみ のぶる、1884年(明治17年)2月20… 片上 伸(かたがみ のぶる、1884年(明治17年)2月20日 - 1928年(昭和3年)3月5日)は、日本の文芸評論家、ロシア文学者。初期は「天弦」の号で執筆活動をしていたので、片上天絃(片上天弦)の名でも知られる。 1884年、愛媛県今治市波止浜生まれ。一族は裕福な庄屋であり、伸の父・良(つかさ)は月番所詰めの役人であった。幼いころから神童と呼ばれ、新聞・雑誌の投稿欄の懸賞金を学資に当てていたという。旧制愛媛県立松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を卒業後、1900年に東京専門学校(現・早稲田大学)予科に入学する。在学中は英文学を学んだが、一方で当時勃興期であった自然主義文学に傾倒。卒業後は『早稲田文学』の記者をとなり、後に早稲田大学の教員となった。
大柏 清三郎(おおかし せいざぶろう、1884年〈明治17年… 大柏 清三郎(おおかし せいざぶろう、1884年〈明治17年〉2月18日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の政治家。香川県丸亀市長。 1905年(明治38年)関西大学専門部法律学科を卒業し、大阪府属となる。1909年(明治42年)香川県属に転じ、1919年(大正8年)高松市助役職務管掌を経て、1920年(大正9年)高松市助役に就任し、爾来15年間勤続する。1934年(昭和9年)7月、助役を辞し、同月25日に丸亀市長に当選した。
飯田 貞固(いいだ さだかた、1884年(明治17年)2月1… 飯田 貞固(いいだ さだかた、1884年(明治17年)2月18日 - 1977年(昭和52年)9月15日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 新潟県刈羽郡山横沢村(小国村、小国町を経て現長岡市)出身。山横沢村長・飯田貞一の長男として生れる。組合立小国高等小学校、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)3月、陸軍士官学校(17期)を卒業。翌月、騎兵少尉に任官し近衛騎兵連隊付となる。騎兵第22連隊付などを経て、1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 1913年(大正2年)12月、参謀本部付勤務となり、独立第18師団副官として青島の戦いに参加。1914年(大正3年)11月、青島守備軍参謀に就任。
野波 治平太(のなみ じへいた、1884年〈明治17年〉2月… 野波 治平太(のなみ じへいた、1884年〈明治17年〉2月17日 - 没年不明)は、日本の醸造家、鳥取県多額納税者、野波商店経営主。 鳥取県米子市の醤油醸造業者である。1941年11月3日、善行者として表彰を受ける。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は鳥取県米子市法勝寺町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。