井形 卓三(いがた たくぞう、1904年(明治37年)3月1… 井形 卓三(いがた たくぞう、1904年(明治37年)3月13日 - 1991年(平成3年)3月13日)は、昭和時代の政治家。位階は正五位。東京都本郷区長、文京区長。文京区名誉区民。 埼玉県に生まれる。旧制熊谷中学、第八高校を経て、東京帝国大学経済学部卒業。1945年(昭和20年)12月、本郷区長に就任。1947年(昭和22年)4月、文京区初代区長に就任し、1967年(昭和42年)9月16日の任期満了まで5期20年にわたり区長を務めた。在任中は文京区庁舎と公会堂を建設し、第2庁舎を設置する。1958年には日本国際連合協会を代表して東京都議会副議長の浦部武夫と共にブラッセル(ベルギー)を視察。1965年に東京都の区長会会長に選ばれた。
佐々木 カネヨ(ささき カネヨ、1904年3月11日 - 1… 佐々木 カネヨ(ささき カネヨ、1904年3月11日 - 1980年10月24日)は、絵画や写真の美術モデル。別名に、永井カ子ヨ(かねよ)、お葉がある。
森山 啓(もりやま けい、1904年3月10日 - 1991… 森山 啓(もりやま けい、1904年3月10日 - 1991年7月26日)は、新潟県出身の詩人、小説家である。 旧制中学校教師の父の転任に伴い、富山県高岡市に移り少年期を過ごす。1912年、福井市に移住。1916年、福井中学に入学。同級生に深田久弥、上級生に中野重治がいたが、この時点で親交は無かった。1920年中学を4年修了で第四高等学校へ進学。ここにも中野がいたが依然親交は持たなかった。1925年、東京帝国大学に入学。漸く中野と親交を持ち、同時にプロレタリア文学に傾倒する。1928年に大学を中退。1932年、『プロレタリア詩のために』を出版。1941年、石川県小松市へ疎開。1942年、『海の扇』で新潮社文芸賞を受賞する。
溪口 泰麿(たにぐち やすまろ、1904年(明治37年)3月… 溪口 泰麿(たにぐち やすまろ、1904年(明治37年)3月10日 - 1992年(平成4年)11月3日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。最終階級は海軍大佐、海将。 漢学塾主・溪口廉造の四男として生まれる。兄は溪口豪介大佐(海兵41期)、妻は山下源太郎大将(海兵10期)の娘。広島高師付中を経て、海軍兵学校に進む。海兵(51期)及び海大(甲種33期)をともに恩賜組で卒業した。太平洋戦争中は大使館附武官補佐官としてドイツに駐在。1945年(昭和20年)4月13日、ソ連軍突入直前のベルリンで「出来得る限り多数の独潜水艦を東亜へ回航すべくドイツ側と折衝せよ」という本国訓令を受けた。ドイツ側と折衝したが、結論は「回航するだけの油がない」であった。
牛島 辰熊(うしじま たつくま、1904年(明治37年)3月… 牛島 辰熊(うしじま たつくま、1904年(明治37年)3月10日 - 1985年(昭和60年)5月26日)は、日本の柔道家。段位は講道館柔道九段。大日本武徳会柔道教士。 明治神宮大会3連覇、昭和天覧試合準優勝。その圧倒的な強さと気の荒さから「鬼の牛島」と称された。柔道史上最強を謳われる木村政彦の師匠として有名だが、牛島自身も木村に負けぬ実績を持つ強豪であった。 熊本県熊本市の製油業者の家に生まれる。元々は剣道を修行していたが、15歳の時に長兄の影響で肥後柔術三道場の一つ、扱心流江口道場に入門した。熊本では講道館柔道よりも、まだ古流柔術の方が盛んであった。 この肥後柔術三道場の対抗戦は、判定勝利はなく「参った」のみで勝負を決するもので、時には腰に短い木刀を差して試合をやり、投げて組み伏せ、最後は木刀で相手の首を掻き斬る動作をして一本勝ちとなるルールでも戦った。
服部 二柳(はっとり にりゅう、本名:辰雄、1904年(明治… 服部 二柳(はっとり にりゅう、本名:辰雄、1904年(明治37年)3月10日 - 1968年(昭和43年)1月1日)は、日本の南画家。服部双柳子、服部双柳、二柳散人とも。奇人の南画家として知られる。
大森 曹玄(おおもり そうげん、1904年〈明治37年〉3月… 大森 曹玄(おおもり そうげん、1904年〈明治37年〉3月10日 - 1994年〈平成6年〉8月18日)は、臨済宗の禅僧。また、直心影流剣術第15代・山田次朗吉の弟子でもあり、直心影流剣術の「法定」の指導も行った。山岡鉄舟ゆかりの高歩院の住職を務め、山岡鉄舟についての著書もある。 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 宗教/ウィキプロジェクト 宗教)。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
内海 清(うつみ きよし、1904年(明治37年)3月9日 … 内海 清(うつみ きよし、1904年(明治37年)3月9日 - 1991年(平成3年)3月12日)は、日本の内務・警察官僚。芦屋市長。 兵庫県揖保郡、のちの揖西村(現たつの市)で内海仙の二男として生まれる。1928年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、さらに1930年には同大経済学部を卒業した。1929年10月、高等試験行政科試験に合格し、1930年、内務省に入省し山口県属となる。 以後、熊本県警察部警務課長、新潟県警察部警務課長、大阪府土木部総務課長、同総務部議事課長、同人事課長、関東州庁警察部長、石川県警察部長、茨城県経済第二部長、東京都書記官・官房会計課長、兵庫県経済部長、同総務部長などを歴任。
出水 春三(でみず はるぞう、1904年3月9日 - 197… 出水 春三(でみず はるぞう、1904年3月9日 - 1970年10月29日)は、日本の英文学者。 1927年東京帝国大学文学部英文科卒、島根県立三刀屋中学校教諭、29年(旧制)松江高等学校講師、31年教授、37年(旧制)松山高等学校教授、1949年愛媛大学教授、1954年広島大学教授、67年定年退官、名誉教授、親和女子大学教授。在職中に66歳で死去。
三浦 義男(みうら よしお、1904年(明治37年)3月9日… 三浦 義男(みうら よしお、1904年(明治37年)3月9日 - 1999年(平成11年)1月31日)は、日本の官僚。官選山形県知事、衆議院法制局長。旧姓・妹川。位階は正三位。 福岡県福岡市出身。妹川将雄の四男として生まれ三浦良幹の婿養子となる。第五高等学校を経て、1929年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。前年10月、高等試験行政科試験に合格。 1929年、内務省に入り愛知県属となる。以後、茨城県学務課長などを務め、宮内省に転じた。帝室林野局庶務課長、宮内省参事官、内匠寮監理、内蔵寮用度、大膳寮庶務、主馬寮庶務、宮内省大臣官房連絡事務室長などを歴任。 福島県内務部長を経て、1946年10月、山形県知事に就任し1947年3月まで在任。
藤田 健治(ふじた けんじ、1904年3月8日 - 1993… 藤田 健治(ふじた けんじ、1904年3月8日 - 1993年10月10日)は、日本の哲学者。文学博士(東京大学・論文博士・1961年)。お茶の水女子大学名誉教授。 東京出身。東京帝国大学哲学科卒。成城高等学校教授、戦後お茶の水女子大学助教授、1950年、教授。1961年、「十九世紀後半欧州哲学思想史の研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。1964年から1968年まで、お茶の水女子大学学長。筑波大学参与。1978年、放送教育開発センター所長、1981年、放送大学学園初代理事長。 シェリング、ニーチェを研究し著書多数。著作集全7巻がある。 ギリシア古典に興味を抱いたきっかけは旧制第一高等学校の岩元禎教授によるものであるという。
西村 栄一(にしむら えいいち、旧字:西村榮一、1904年(… 西村 栄一(にしむら えいいち、旧字:西村榮一、1904年(明治37年)3月8日 - 1971年(昭和46年)4月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(11期)、民社党委員長(第2代)、同党書記長。富士社会教育センター創設者。正三位勲一等。 衆議院議員であった西村眞悟は四男、西村章三は甥。 貧しい農家の生まれで、小学校を出ると上海のフランス高等学院に学ぶ。大阪に帰って保険会社の給仕となり、31歳で大阪支店長。1931年(昭和6年)、全国労農大衆党中央委員。 1933年(昭和8年)堺市議。全国サラリーマン組合を結成したが半年で官憲の解散命令。1946年(昭和21年)戦後初の総選挙で衆院議員に当選、社会党河上派に属し、1948年(昭和23年)芦田内閣の経済安定政務次官。
熊谷 久虎(くまがい ひさとら、1904年3月8日 - 19… 熊谷 久虎(くまがい ひさとら、1904年3月8日 - 1986年5月22日)は、日本の映画監督。代表作に『蒼氓』 『阿部一族』『上海陸戦隊』などがある。女優の原節子は義妹(妻の妹)である。 大分県中津市に生まれる。大分高等商業学校卒業。1925年に日活入社。大将軍撮影所で田坂具隆の助監督につく。1930年に『恋愛競技場』で監督デビューする。1935年に多摩川撮影所へ移る。1938年に東宝映画へ移籍する。1941年の『指導物語』以降、映画界から離れ、国粋主義思想団体「スメラ学塾」を作り、教祖に近い存在で、学塾内に劇団太陽座を結成する。敗戦前に、九州独立運動を起こし、のち火野葦平の『革命前後』に描かれた。
築地 俊龍(つきじ しゅんりゅう、1904年3月7日 - 1… 築地 俊龍(つきじ しゅんりゅう、1904年3月7日 - 1972年11月13日)は、日本の野球選手である。 秋田県馬川村久保(後の秋田県五城目町久保)にある自性院(じしょういん)の住職であった父龍明、母ヨシの長男として生まれる。幼名は龍夫(たつお)といったが、寺を継がせたいという父親の意向で小学校卒業のころに俊龍と改名した。 子供のころは川原で石投げ遊びをしていると誰よりもと奥まで石を投げることができたという強肩の片鱗を見せていた。1918年に県立秋田中学校(後の秋田県立秋田高等学校)に入学。180センチ近い身長で頑健な体格から多くの運動部の勧誘を受ける中、遠投力を見込まれて野球部に入部。1922年に仙台市で行われた東北中学校野球大会では、秋田中学校のエースピッチャーとして決勝までの5試合を一人で投げ抜いて同校を優勝に導き、東北から唯一の全国大会への出場権を得た。
岡田 實(おかだ みのる、1904年3月7日 - 1997年… 岡田 實(おかだ みのる、1904年3月7日 - 1997年6月15日)は、日本の冶金学者。位階は正三位。 プラズマ研究や超高電圧電子顕微鏡の開発で大きな業績を残した。また、大阪大学総長を務めている。 香川県仲多度郡多度津町出身。1930年に東北帝国大学(現・東北大学)金属工学科を卒業後、大阪帝国大学(現・大阪大学)工学部に赴任した。同学部で助教授、教授などを務め、1966年には総長に就任した。この間、溶接工学研究所の設立などに貢献し、1945年から1949年並びに1954年から1955年まで溶接学会会長、研究面では1963年に島津製作所との共同研究で500kVの高電圧電子顕微鏡を開発した。さらに日立製作所と共同で3000kVの電子顕微鏡を作製し、1971年に大阪大学超高電圧電顕センターに設置された。
今関 六也(いまぜき ろくや、1904年3月7日 - 199… 今関 六也(いまぜき ろくや、1904年3月7日 - 1991年7月24日)は、日本の菌類学者。東京出身。 野口次郎三の四男として生まれ、今関常次郎の養子となる。兄に野口明がいる。 1928年東京帝国大学卒業後、副手として植物病理学教室に勤務。東京大学でサルノコシカケ科の標本を整理することが、キノコ研究に進むきっかけとなった。 科学博物館勤務時代(1932-47)には、サルノコシカケ科の分類学研究を行う一方、科学博物館の基礎研究部門の発展に力を尽くした。 戦後は、農林省林業試験場で、森林保護部門の整備と拡充に貢献した。退官後は、キノコの正しい知識を一般に広めるために、啓蒙書や図鑑類を多く執筆した。
吉井 淳二(よしい じゅんじ、1904年〈明治37年〉3月6… 吉井 淳二(よしい じゅんじ、1904年〈明治37年〉3月6日 - 2004年〈平成16年〉11月23日)は、日本の洋画家、文化勲章受章者。鹿児島市立美術館顧問 鹿児島県曽於郡末吉町(現曽於市)出身。 鹿児島県曽於郡末吉町に生まれる。1922年(大正11年) 鹿児島県立志布志中学校(現在の鹿児島県立志布志高等学校)卒業。1929年(昭和4年) 東京美術学校洋画科卒業。 1940年(昭和15年) 二科会会員就任。1961年(昭和36年) 同会理事就任。1965年(昭和40年) 日本芸術院賞受賞。1972年(昭和47年) 南日本美術展審査委員長就任。1976年(昭和51年) 日本芸術院会員就任。1977年(昭和52年) 勲三等瑞宝章に叙される。
水谷 準(みずたに じゅん、1904年(明治37年)3月5日… 水谷 準(みずたに じゅん、1904年(明治37年)3月5日 - 2001年(平成13年)3月20日)は、日本の小説家、推理作家、翻訳家。編集者でもあり、雑誌『新青年』編集長を累計18年務めた。本名は納谷 三千男。 北海道函館区(現在の函館市)船見町の生まれ。当時の函館は幕末に開かれて以来の国際的な港町であった。父はパン屋や外国人の執事をしており、外国人が三千男を「ジョン」と呼んでいたことから、のちに自らのペンネームを「準」とした。弥生小学校に在学中、鈴木三重吉が創刊した雑誌『赤い鳥』に童謡を投稿して入選した。 旧制函館中学(現:北海道函館中部高等学校)中退後、上京して早稲田高等学院に入学。在学中の1922年に博文館の雑誌『新青年』の懸賞に応募した「好敵手」が一等に入選。
宮脇 倫(みやわき りん / ひとし、1904年(明治37年… 宮脇 倫(みやわき りん / ひとし、1904年(明治37年)3月5日 - 1963年(昭和38年)3月28日)は、日本の内務・警察官僚。最後の官選埼玉県知事。長男は元皇宮警察本部長・元内閣広報官の宮脇磊介。孫は日本フェンシング協会元専務理事の宮脇信介。曽孫はフェンシング(フルーレ)選手の宮脇花綸。 長野県下伊那郡上郷村(現飯田市)に宮脇金一郎の二男として生まれる。第一高等学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し、警視庁に配属された。 以後、神田万世橋警察署長、三田警察署長、久松警察署長、警視庁特別警備隊長、新潟県商工水産課長、兵庫県警察部経済保安課長、石川県学務部長、秋田県内務部長、兼秋田県警察部長、茨城県内務部長、厚生省国民保険課長、同錬成体練課長などを歴任。
山口 勇(やまぐち いさむ、1904年3月4日 - 1982… 山口 勇(やまぐち いさむ、1904年3月4日 - 1982年)は、日本の俳優である。本名同じ。成瀬巳喜男の現存する最古の監督作『腰辨頑張れ』の主演俳優であり、戦後も東映京都撮影所の脇役俳優として知られる。 1904年(明治37年)3月4日、東京府東京市麻布区麻生竹谷町(現在の東京都港区南麻布)に生まれる。小林信彦によれば、赤坂区青山(現在の港区青山1丁目付近)出身の小林の母は、山口の従姉妹にあたるといい、つまり山口からみて小林は従甥にあたる。 麻布区内の東京市立南山尋常小学校(現在の港区立南山小学校)を卒業し、旧制・高輪中学校(かつての第一仏教中学校、現在の高輪高等学校)に進学する。2学年上にのちの俳優の江川宇礼雄がいた。
服部 清道(はっとり せいどう、1904年3月4日 - 19… 服部 清道(はっとり せいどう、1904年3月4日 - 1997年7月19日)は、日本の郷土史家、教員。本名は服部 清五郎(はっとり せいごろう)。 茨城県生まれ。清五郎と名付けられる。1929年に大正大学予科を卒業し、さらに同大学文学部史学科に進学し、1932年に卒業。1936年に比叡山専修院に入学し仏教学を学び、1941年3月に卒業。藤嶺学園で教員を務めたのち、横浜商科大学教授となり、藤沢市文化財保護委員会委員長、湘南考古同好会会長なども務めた。鳥居龍蔵が主宰する武蔵野会に入会し、鳥居から仏教考古学を勧められ、また同会で三輪善之助の指導を得て、板碑を研究とするようになる。1953年、「戒壇の研究」により法政大学から文学博士の学位を授与される。
別府 節彌(べっぷ せつや、1904年 <明治37年> 3月… 別府 節彌(べっぷ せつや、1904年 <明治37年> 3月4日 - 1992年 <平成4年> 5月17日)は日本の外交官。初代ダブリン総領事。初代ラオス駐箚特命全権大使。元バチカン駐箚特命全権大使。位階は正三位。 1941年の開戦に先立つ1940年、英国のリバプール領事であった別府は、イースター蜂起をきっかけに英国から分離していたアイルランドに民家を借りて領事館を開設し、早くから日本とアイルランドの関係深化に努めた。第二次世界大戦中、中立国であったアイルランドでは諜報合戦が繰り広げられており、日本側はわずかな人員(領事と副領事のみ)であったにもかかわらず、十分に機能したというのは別府の功績によるものが大きい。
池田幸太郎(いけだ こうたろう、1904年3月4日 - 19… 池田幸太郎(いけだ こうたろう、1904年3月4日 - 1989年8月14日)は、日本の政治家・官僚・薬剤師。北海道旭川市出身。1925年東京薬学専門学校(現・東京薬科大学)卒。北海道名寄市市長(1958年 - 1974年)。名寄市名誉市民。 1925年内務省東京衛生試験所に入所。1929年内務省退官。名寄町で家業である薬局を継ぐ。1951年北海道薬剤師会理事。1952年名寄町商工会議所副会頭に就任。同年、名寄町教育委員会委員にも就任(~1956年)。1955年名寄町議会議員に初当選。1958年名寄市が市制施行後、初となる市長選出馬し、名寄市長に初当選。連続3期を務め、1974年同市長を勇退。同年、名寄女子短期大学非常勤講師(薬局運営論)・旭川大学非常勤講師(地方自治論)。
鈴木 安蔵(すずき やすぞう、1904年3月3日 - 198… 鈴木 安蔵(すずき やすぞう、1904年3月3日 - 1983年8月7日)は、日本の法学者(憲法学者)・法制史家。静岡大学名誉教授。 1904年、福島県相馬郡小高町(現・南相馬市)生まれ。相馬中学、二高を経て、京都帝国大学哲学科に入学。文学部哲学科に入学したものの、河上肇の影響を受けて経済学部に転じる。1926年(大正15年)京都学連事件で検挙され、この事件が治安維持法違反第1号となり、大学を自主退学、豊多摩刑務所で2年間服役した。出獄後は吉野作造(明治文化研究会を結成し『明治文化全集』を編集)の影響を受け、マルクス主義の立場から大日本帝国憲法の制定史を研究、1933年(昭和8年)、著書『憲法の歴史的研究』として刊行したが「唯物史観的」として発禁処分を受け学界からは完全にパージされてしまった。
今井 達夫(いまい たつお、1904年3月3日 - 1978… 今井 達夫(いまい たつお、1904年3月3日 - 1978年5月6日)は、日本の小説家。筆名は本名と同じ。 長男として横浜市中区野毛に生まれる。父の今井秀松は山形県西村山郡朝日町出身で、横浜で兄弟生糸商を営む。母きみは山形県東村山郡山辺町の生まれで、安達峰一郎の妹。幼年期のほとんど毎夏、鵠沼で過ごす。1910年、横浜市尋常小学校に入学。1912年秋から父の療養のため神奈川県藤沢市鵠沼海岸下鰯に転居。鵠沼尋常小学校(現在の藤沢市立鵠沼小学校)に3年生で転校。同年、父秀松が死去。1916年に鵠沼尋常小学校を卒業、同年開校の私立藤嶺中学校に1回生として入学。 1920年(大正9年)、私立藤沢中学校(1918年改称)を4年で修了し、慶應義塾大学予科に入学。
翁 孝文(おきな たかふみ、1904年(明治37年)3月2日… 翁 孝文(おきな たかふみ、1904年(明治37年)3月2日 - 1980年(昭和55年)5月9日)は、日本の実業家。倉敷紡績取締役を経て倉敷国際ホテル社長を務めた。広島県神石高原町出身。 広島県神石郡豊松村(現:神石高原町)の社家である翁家に生まれる。1919年(大正8年)地元に近い旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進み、同期に石川達三、金澤覚太郎、日野西義輝がいた。1924年(大正13年)卒業後、名古屋高等商業学校(現:名古屋大学経済学部)へ進学。1927年(昭和2年)同校を23歳で卒業した。 卒業後、同年に倉敷紡績へ入社。総務畑を歩み、1937年(昭和12年)に当時の倉敷紡績の大原孫三郎の社長秘書課長となった。
樺 俊雄(かんば としお、1904年〈明治37年〉3月2日 … 樺 俊雄(かんば としお、1904年〈明治37年〉3月2日 - 1980年〈昭和55年〉12月23日)は、日本の哲学者・社会学者。立正大学教授・中央大学教授・神戸大学教授・東京外国語大学教授・創価大学教授を歴任。 数学教育近代化の先駆的役割を果たした数学者・樺正董の孫。安保闘争で死亡した東京大学の女子学生樺美智子の父でもある。 東京府平民・会社重役樺剛の長男。 1927年京都帝国大学文学部哲学科卒、東京帝国大学大学院入学。1928年、立正大学講師、1933年 立正大学教授。 戦後1947年 中央大学教授。1950年、神戸大学教授、1952年、東京外国語大学教授、1955年、再び中央大学教授。1971年、創価大学教授。
森 泰吉郎(もり たいきちろう、1904年〈明治37年〉3月… 森 泰吉郎(もり たいきちろう、1904年〈明治37年〉3月1日 - 1993年〈平成5年〉1月30日)は、日本の実業家、経営史学者。森ビルおよび森トラスト・ホールディングスの創業者。学者として横浜市立大学で商学部長・教授などを務めたが、学長選挙に出馬した結果学内抗争に巻き込まれ、地方公務員法の兼業禁止違反として退職した。 東京府東京市芝区南佐久間町(現・港区西新橋)に生まれる。実父磯次郎は、米屋·貸家業を営む森竹次郎·リウの養子だった。幼少期は病弱だったため、人情深い大家だった両親に大事に育てられたという。大倉高等商業学校(現東京経済大学)を経て、旧制東京商科大学(現一橋大学)に進んだ。賀川豊彦の『死線を越えて』やマクシム・ゴーリキーの『母』に感動し、一方で自分が不労所得を得る地主階級である事に懊悩したが、大学で上田貞次郎の「企業者は公共社会への貢献を使命としている」という所説に接してアイデンティティーの確立に大きな影響を受けたという。
加納 莞蕾(かのう かんらい、1904年3月1日 - 197… 加納 莞蕾(かのう かんらい、1904年3月1日 - 1977年8月15日)は、日本の画家、政治家。本名辰夫。莞蕾は雅号。島根県能義郡布部村(現在の安来市広瀬町布部)出身。マニラ軍事裁判により戦後フィリピンの刑務所に収容されていた日本人戦犯の釈放に尽力したことで知られる。 1926年(大正15年)に上京して川端画学校および本郷洋画研究所に入り、岡田三郎助に師事し、前田寛治・佐伯祐三らと交友を深めた。 1931年(昭和6年)の第1回独立美術協会展に出品し、入選を重ねた。1932年から1937年まで島根県那賀郡浜田町(現在の浜田市)原井尋常高等小学校(現在の浜田市立原井小学校)に赴任し、訓導として児童の指導にあたるかたわら、中尾彰らと本格的な洋画研修会を開き、東京から中山巍を招いて指導を仰いだ。
岡崎 晴夫(おかざき はるお、1904年3月 - 没年不詳)… 岡崎 晴夫(おかざき はるお、1904年3月 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は川端 淸次(かわばた きよつぐ)。岡崎 春夫と表記に揺れがある。戦前、日活大将軍撮影所の時代劇を中心に活躍した名脇役である。 1904年(昭和37年)3月、京都府京都市上京区大将軍に生まれる、とされている。1928年(昭和3年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(映画世界社)及び1929年(昭和4年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』(同社)では、生年は「明治三十六」(1903年)である旨が記されている。また、1998年(平成10年)に発行された『芸能人物事典 明治大正昭和』(日外アソシエーツ)によれば、出生地は京都府相楽郡木津町(現在の同府木津川市木津)の説もあるという。
森谷 新一(もりたに しんいち、1903年(明治36年)3月… 森谷 新一(もりたに しんいち、1903年(明治36年)3月31日 - 1978年(昭和53年)12月19日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県和気郡日生町長。旧姓・森下。 岡山県和気郡日生村(日生町を経て現備前市)で、森下元治の長男として生まれ、5歳で母方の森谷虎吉の養子となる。閑谷中学校(現岡山県立和気閑谷高等学校)を経て、1927年(昭和2年)早稲田大学電気科を卒業した。 朝鮮に渡り全羅南道宝城郡筏橋面で、筏橋電気常務取締役兼主任技師として電灯開発を担当した。1930年(昭和5年)ころに帰郷して製綿業、耐火煉瓦工場を営み、児島窯業社長、日生造船造機社長、日生土地取締役、中日生土地取締役、日生町商工会長などを務めた。
松山 義雄(まつやま よしお、1903年(明治36年)3月3… 松山 義雄(まつやま よしお、1903年(明治36年)3月31日 - 1958年(昭和33年)10月25日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員、埼玉県副知事。正五位勲三等に叙せられた。 長崎県諌早市出身。中央大学法学部卒業。 1936年、弁護士登録。1938年、東京弁護士会常議員に就任。1941年、日本弁護士会理事に就任。 その後は中央政界への進出をもくろみ、1946年4月の第22回衆議院議員総選挙に進歩党公認で立候補したが落選。1947年4月の第23回衆議院議員総選挙では民主党公認で埼玉2区から立候補したが落選。1949年1月の第24回衆議院議員総選挙でも落選した。同年、埼玉県知事大沢雄一の要請により、埼玉県副知事に就任。
加藤 祐三郎(かとう ゆうさぶろう、1903年〈明治36年〉… 加藤 祐三郎(かとう ゆうさぶろう、1903年〈明治36年〉3月30日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。第二次世界大戦末期の情報局第二部長として録音盤事件に際会。戦後は新潟県副知事、公職追放を経て、東北開発株式会社の副総裁を務めた。 福島県出身。1921年(大正10年)会津中学4年修了で一高へ進む。東京帝国大学英法科在学中に高等文官試験に合格し、卒業後の1928年(昭和3年)内務省へ入省した。 内務属警保局保安課へ配属となり、以後台湾総督府警務局保安課、大分県、青森県、茨城県の各特高警察課長、栃木県、宮城県の各警察部長など警察関連の職務を歴任した。大政翼賛会組織局副部長、援護局指導課長なども務めている。
武彦王妃 佐紀子女王(たけひこおうひ さきこじょおう、190… 武彦王妃 佐紀子女王(たけひこおうひ さきこじょおう、1903年〈明治36年〉3月30日 - 1923年〈大正12年〉9月1日)は、日本の皇族、賀陽宮邦憲王と同妃好子の第2王女、山階宮武彦王の妃。 1903年(明治36年)3月30日午後5時、賀陽宮邦憲王と同妃好子の第2王女子(第3子)として誕生。京都府立第一高等女学校を卒業。 1921年(大正10年)2月、山階宮武彦王と婚約が内定したと報じられたが、複数回延期された。1922年(大正11年)7月19日午前9時に結婚の儀を執り行い、山階宮武彦王と結婚した。 翌1923年(大正12年)9月1日、佐紀子女王は第1子を懐妊し、母・好子妃とともに神奈川県鎌倉市の由比ヶ浜別邸で静養していたところ、関東大震災で別邸が崩壊し、同日薨去した。
片岡 千恵蔵(かたおか ちえぞう、旧字体:千惠藏、1903年… 片岡 千恵蔵(かたおか ちえぞう、旧字体:千惠藏、1903年〈明治36年〉3月30日 - 1983年〈昭和58年〉3月31日)は、日本の俳優。本名︰植木 正義(うえき まさよし)。 戦前・戦後期にわたって活躍した時代劇スターで、同時代の阪東妻三郎、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた(これに月形龍之介を含めて「七剣聖」と呼ぶ場合もある)。出演作品は300本を超える。戦前は片岡千恵蔵プロダクションを設立し、稲垣浩、伊丹万作の両監督とコンビを組んで傑作時代劇を多く生み出した。戦後は東映の重役スターとなり、亡くなるまで第一線のスターで在り続けた。終戦直後のGHQ占領時代には、金田一耕助や多羅尾伴内などを演じ現代劇でも人気を得て、両シリーズはその後も長く続いた。
立花 止(たちばな いたる、1903年(明治36年)3月29… 立花 止(たちばな いたる、1903年(明治36年)3月29日 - 1954年(昭和29年)6月7日)は、日本の海軍軍人。米国駐在時代に情報活動に従事しFBIに逮捕され国外追放処分を受ける(立花事件)。最後の連合艦隊参謀の一人である。最終階級は海軍大佐。 熊本県出身。鹿本中学を経て海軍兵学校に進む。海兵52期で源田實、内藤雄、淵田美津雄らが同期生である。1925年(大正14年)少尉任官。立花は運用術航海学生を修了した航海科専攻の士官で、駆逐艦「吹雪」、「漣」、軽巡洋艦「川内」、重巡洋艦「三隈」の航海長を務めている。 大尉時代は練習艦隊参謀兼副官として、海兵60期(板谷隆一クラス)らの遠洋航海に参加。
金澤 理康(かなざわ まさやす、1903年(明治36年)3月… 金澤 理康(かなざわ まさやす、1903年(明治36年)3月28日 - 1948年(昭和23年)1月17日)は、日本の法学者。早稲田大学教授。専門は日本法制史、西洋法制史、英国法。 1903年3月28日、埼玉県北葛飾郡吉田村(現・幸手町)において、金澤理三郎・あゑの長男として生まれる。吉田小学校尋常科、粕壁中学校、第一早稲田高等学院文科を経て、1926年3月に早稲田大学法学部英法科を卒業する。 1926年4月から早稲田大学法学部大学院に進学して法制史を専攻し、早稲田大学法学部の助手となる。論文『明治初期に於ける消費貸借法の変遷』により学会デビューを果たす。同年、文官高等試験司法科に合格する。 1931年5月から早稲田大学在学研究員として、ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク、フンボルト大学ベルリン、ロストック大学に留学し、西洋法制史を研究する。
沖田 芳夫(おきた よしお、1903年3月28日 - 200… 沖田 芳夫(おきた よしお、1903年3月28日 - 2001年4月28日)は、日本の陸上競技選手・陸上競技指導者。アムステルダムオリンピック陸上男子円盤投・ハンマー投代表。元円盤投・ハンマー投日本記録保持者。元早稲田大学競走部主将、監督、OB会(早稲田アスレチック倶楽部)会長(代表)。元日本陸上競技連盟審議員。広島県広島市向洋大原(現南区向洋大原町)出身。旧制広島一中(現広島県立国泰寺高等学校)、第一早稲田高等学院、早稲田大学商学部卒業。 広島一中で織田幹雄の一学年上で親友、広島一中への登校が一緒になり付き合いが始まった。中学時代はテニス部。しかし72キロの巨漢で駆り出されて全国中等学校大会に出場し砲丸投で優勝、織田と共に一時代を築いた。
富井 清(とみい きよし、1903年(明治36年)3月28日… 富井 清(とみい きよし、1903年(明治36年)3月28日 - 1974年(昭和49年)5月19日)は、日本の政治家、医師、尺八奏者。1967年から1971年まで京都府京都市長を1期4年務める。医学博士。富井舜山とも号す。 三重県生まれ。1925年(大正14年)金沢医科大学医学専門部を卒業後、京都府立医科大学眼科副手を経て、京都府保険医協会理事長や京都府医師会長、京都府公安委員を歴任。 1967年1月8日、京都市長の井上清一が在職中に死去。井上の死去に伴って2月26日に行われた京都市長選挙挙に、日本社会党・日本共産党や府市内の労働組合に加え府医師連盟などで作る「全京都市民会議」に推されて立候補。
川本 邦雄(かわもと くにお、1903年3月28日 - 19… 川本 邦雄(かわもと くにお、1903年3月28日 - 1945年)は、昭和期の日本の官僚。妻は西四辻公堯の長女壽榮子。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校(1920年卒業)、第五高等学校を経て、京都帝国大学法学部を卒業した。 卒業後は朝鮮総督府に勤務の後、拓務省の高官となり、文書課長などを歴任した。その後、新たに発足した大東亜省の文書課長となり、1945年に中国地区統監府官房参事官として広島市に赴任中に広島市への原子爆弾投下に遭遇して被爆死した。 南方(東南アジア)政策を専門とし、『南方への指標』(朝日新聞社、1942年)や『大南洋の話』(偕成社・偕成社少年少女文庫、1942年)といった一般向けの著作を残している。
青柳 信雄(あおやぎ のぶお、1903年3月27日 - 19… 青柳 信雄(あおやぎ のぶお、1903年3月27日 - 1976年5月17日)は、日本の映画監督、プロデューサー。 1903年(明治36年)横浜市生まれ。1915年(大正4年)に神奈川師範附属小学校を卒業。同級生に江川宇礼雄、国木田虎雄、岡田時彦(高橋英一)らがいた。旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一中学校・日本大学第一高等学校)を卒業。明治大学卒業後、心座、美術座、前進座、芸術座、猿之助一座、東宝劇団といった新劇の舞台演出を手がけていた。 1933年(昭和8年)には、演出を手掛けた『源氏物語』が風教を害するという理由で上演直前に禁止命令を受ける憂き目に遭った。1937年(昭和12年)、34歳の時に東宝へ制作者として入社。
小林 勇(こばやし いさむ、1903年(明治36年)3月27… 小林 勇(こばやし いさむ、1903年(明治36年)3月27日 - 1981年(昭和56年)11月20日)は、編集者、随筆家、画家。号は冬青。岩波書店の創業者岩波茂雄の女婿であり、同社会長を務めた。 長野県上伊那郡赤穂村(現・駒ヶ根市)の農家の五男として生まれる。実業学校で基礎教育を受けたのち家業を手伝っていたが、1920年、17歳で上京し、岩波書店の住み込み社員となり、岩波文庫の創刊に携わる。幸田露伴の愛顧を受ける。 岩波茂雄の女婿(次女小百合と結婚)となるが、1928年に独立し、三木清らの援助を受けて自身の出版社・鉄塔書院、新興科学社を興す。だが、後に経営不振となり、1934年に岩波書店に復帰。
井森 陸平(ゐもり りくへい、1903年3月26日 - 19… 井森 陸平(ゐもり りくへい、1903年3月26日 - 1982年12月29日)は、日本の社会学者、甲南大学名誉教授(文学博士)。専門は、農村社会学、産業社会学。 岐阜県郡上郡西和良村鬼谷(現・郡上市八幡町美山)生まれ。その父(京之助)は農商務省京都蚕業講習所(現・京都工芸繊維大学)の第一回卒業生であり蚕業技術者だった。また郡上八幡の実家では養蚕を行っていた。1926年3月、東京帝国大学文学部社会学科卒業。その後、鳥取高等農業学校、第八高等学校、名古屋大学、金沢大学、愛知大学、甲南大学(1973年3月定年退職)の教授を歴任した。甲南大学の就任には臼井二尚の推薦があったという。その学問は、テンニース、バレートの理論社会学研究からはじめ、次第に村落研究を人口、文化、習俗の観点から行うようになった。
佐伯 勇(さえき いさむ、1903年〈明治36年〉3月25日… 佐伯 勇(さえき いさむ、1903年〈明治36年〉3月25日 - 1989年〈平成元年〉10月5日)は、日本の実業家。近畿日本鉄道(近鉄)の元社長、会長、名誉会長で、近鉄グループの総帥。プロ野球・近鉄バファローズのオーナーでもあった。アメリカの大陸横断鉄道の2階建てドームカーを参考にした、世界で初めての2階建電車による特急車のビスタカーの生みの親でもある。位階は正三位。 愛媛県周桑郡丹原町(現・西条市)で、佐伯源三郎の三男として生まれる。丹原小学校、松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)と進むが、父親の方針で京都一中(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)へ転校、さらに第三高等学校(旧制・三高)を経て東京帝国大学法学部を卒業した。
羽藤 栄市(羽藤 榮市、はとう えいいち、1903年3月25… 羽藤 栄市(羽藤 榮市、はとう えいいち、1903年3月25日 - 1985年11月22日)は、日本の政治家。愛媛県副知事・衆議院議員(1期)・愛媛県今治市長(5期)などを歴任した。 愛媛県越智郡桜井村(現:今治市)生まれ。 逓信官吏練習所を卒業後、高等文官試験に合格し逓信省東京逓信局に勤務。青島電信局長などを務めた。1942年には南方総軍司政官に就く。1949年には初代の四国電気通信局長に就任した。 保守分裂となった1951年愛媛県知事選挙で、日本社会党・民主党推薦の久松定武が愛媛県知事に当選すると、久松は社会党が推す羽藤を副知事に抜擢した。副知事となった羽藤は郵政研修所の誘致を実現し、松山郵政局の高松市移転の動きを抑え込んだ。
黒岩 保(くろいわ たもつ、1903年3月24日 - 197… 黒岩 保(くろいわ たもつ、1903年3月24日 - 1978年5月10日)は、日本の工学者。北海道大学名誉教授。北海道工業大学元学長。福岡県出身。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、工学・技術に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:技術と産業)。
新開 長英(しんかい ながふさ、1903年3月24日 - 1… 新開 長英(しんかい ながふさ、1903年3月24日 - 1985年8月5日)は、日本の哲学者。 福岡県田川市出身。1928年九州帝国大学法文学部哲学科卒、旧制広島高等学校教授、福岡高等学校教授、1932年九大助教授、1942年神宮皇學館教授に転じる。戦後は北九州大学教授、九州産業大学教授を務めた。
深沢 紅子(ふかざわ こうこ、1903年3月23日 - 19… 深沢 紅子(ふかざわ こうこ、1903年3月23日 - 1993年3月25日)は、日本の洋画家。岩手県盛岡市出身。夫深沢省三も洋画家・童画家。戦前戦後を通じ、堀辰雄や立原道造らの本の装幀のほか、童話の挿絵なども多く手がけた。深沢夫妻は作品を描き続ける一方、絵画指導を通じて児童教育にも熱心に携わった。
柳川 真文(やながわ まふみ 1903年3月21日 - 19… 柳川 真文(やながわ まふみ 1903年3月21日 - 1985年12月6日)は、日本の検察官。大阪高等検察庁検事長、法務総裁官房長。
高橋 等(たかはし ひとし、1903年3月20日 - 196… 高橋 等(たかはし ひとし、1903年3月20日 - 1965年8月10日)は、日本の逓信官僚、政治家。位階は従三位。衆議院議員(6期)、法務大臣を歴任。 広島県福山市深津町出身。福山中学校(現・福山誠之館高校)から1921年、第六高等学校を経て1927年、東京帝国大学法科大学英法科卒業。高等文官試験行政科に合格し逓信省入省後、札幌・熊本通信局で幹部を務めた後、逓信省簡易保険局管理課長、商工省金属回収本部総務課長、広島商工局商工部の部長を歴任。また、軍需省では大阪燃料局の局長などを務めた。 終戦後の1949年、旧広島3区から自由党公認で第24回衆議院議員総選挙に出馬し初当選。以降、在職中に死去するまで連続6回当選(当選同期に佐藤栄作・岡崎勝男・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・藤枝泉介・木村俊夫・中川俊思・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一など)。