宮原 禎次(みやはら ていじ、1899年3月8日 - 197… 宮原 禎次(みやはら ていじ、1899年3月8日 - 1976年1月21日)は、日本の作曲家。岡山県出身。 岡山師範学校、東京音楽学校師範科卒業し、岡山師範学校に勤務。山田耕筰、エルウィン・クリストフ、アドルフ・シュルツに師事する。 1934年国立音楽学校作曲科教授、1937年より神戸女学院教授、1954年から1976年まで武庫川女子大学音楽学部教授を歴任。 実弟・宮原康郎と共に、「国民歌謡」(1936年 - 1941年)の作曲にも寄与した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
石川 淳(いしかわ じゅん、1899年(明治32年)3月7日… 石川 淳(いしかわ じゅん、1899年(明治32年)3月7日 - 1987年(昭和62年)12月29日)は、日本の小説家・文芸評論家・翻訳家。東京府浅草区生まれ。無頼派、独自孤高の作家とも呼ばれ、エッセイでは夷斎と号し親しまれた。本名:淳(きよし)。日本芸術院会員。 祖父から論語の素読を受け、森鷗外に熱中して文学を志す。東京外国語学校仏語科卒。『普賢』(1936年)で芥川賞受賞。『マルスの歌』(1938年)は反軍国調の廉で発禁処分を受けた。 寓意的作品が多く、戦後は『焼跡のイエス』(1946年)を書き、太宰治・坂口安吾とともに新戯作派・無頼派として人気を集めたが、次第に東洋的境地で健筆を振るった。
宮澤 俊義(みやざわ としよし、1899年〈明治32年〉3月… 宮澤 俊義(みやざわ としよし、1899年〈明治32年〉3月6日 - 1976年〈昭和51年〉9月4日)は、日本の法学者。専攻は憲法。東京大学名誉教授。立教大学法学部元教授。貴族院議員。日本野球機構(プロ野球)コミッショナー。位階は従二位。日本国憲法の制定に寄与し、憲法学の権威と謳われた。美濃部達吉門下。弟子に佐藤功、高柳信一、小嶋和司、芦部信喜、深瀬忠一など。 1899年(明治32年)3月6日、長野県長野市に生まれる。旧制長野中学、東京府立四中、第一高等学校を卒業。 1923年、東京帝国大学法学部卒業後、美濃部達吉の助手(弟子)となり、1925年、同大学法学部助教授となる。1930年から1932年にかけて、フランス、ドイツ、アメリカへ留学。
宮澤 俊義(みやざわ としよし、1899年(明治32年)3月… 宮澤 俊義(みやざわ としよし、1899年(明治32年)3月6日 - 1976年(昭和51年)9月4日)は、日本の法学者。専攻は憲法。東京大学名誉教授。貴族院議員。長野県長野市出身。
関口 林五郎(せきぐち りんごろう、1899年〈明治32年〉… 関口 林五郎(せきぐち りんごろう、1899年〈明治32年〉3月5日 - 1973年〈昭和48年〉6月26日)は、日本の医師(関口整形外科病院院長、群馬県医師会会長)、柔道家(講道館八段)。父は接骨師で柔道八段・関口孝五郎、弟は医師で柔道八段・関口恒五郎。群馬県体育協会会長、群馬県公安委員長、群馬県立前橋高等学校同窓会長。正五位、藍綬褒章、紺綬褒章、勲三等瑞宝章受章。 1899年(明治32年)3月5日、柔道家・関口孝五郎の長男として、群馬県群馬郡白郷井村(北群馬郡子持村を経て現在渋川市)に生まれる。2歳の時父が柔道場「弘道館」を開いたため前橋市に移住。旧制・群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒業後、旧制・日本医学専門学校(現・日本医科大学)に進み1923年(大正12年)卒業。
酒井 協(さかい きょう、1899年3月4日 - 1982年… 酒井 協(さかい きょう、1899年3月4日 - 1982年2月24日)は、日本の作曲家。宝塚歌劇団名誉理事。福井県出身。 1899年(明治32年)、福井市で理髪店を営む家庭に生まれる。少年時代より音楽を志望するも自宅が火災に遭って全焼する不運に見舞われ、家計を助けるため京都市電に就職した。後に病気の母を看護するため帰郷して越前電気鉄道に移り、夜間にヴァイオリンのレッスンへ通う生活を送った。ヴァイオリンの師に薦められて兵庫県川辺郡小浜村(現在の宝塚市)で阪急電鉄が発足させた宝塚歌劇団の管弦楽部へ入部する。 宝塚ではエマヌエル・メッテルから演奏と指揮を学び、劇団の専属作曲家として劇伴曲の作曲や編曲に当たった。
北川 桃雄(きたがわ ももお、1899年3月3日-1969年… 北川 桃雄(きたがわ ももお、1899年3月3日-1969年5月19日)は、日本の美術史家。 1899年、東京都港区で生まれた。旧制芝中学を経て、旧制第二高等学校で学んだ。1921年に卒業し、京都帝国大学経済学部に進学。1924年に卒業。 卒業後は、奈良県立五條中学校(現奈良県立五條高等学校)の英語科教諭として勤務。同年8月に笠井ふぢと結婚。その後京都市立第一工業学校教師に転じた。同校での同僚には下村寅太郎、田中忠雄らがいた。 1937年8月13日、北川の参加する文芸雑誌『リアル』がコミンテルンと通じているとの嫌疑で、工業学校の同僚・田中忠雄らとともに治安維持法違反で検挙された。 翌1938年東京に転居し、志賀直哉の勧めで東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学。
丹下 郁太郎(たんげ いくたろう、1899年〈明治32年〉3… 丹下 郁太郎(たんげ いくたろう、1899年〈明治32年〉3月2日 - 没年不明)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。咸鏡南道知事、京畿道知事。朝鮮総督府警務局長。建築家の丹下健三は弟(異母)。 丹下辰世の長男として愛媛県越智郡今治町(現今治市)に生まれる。1921年(大正10年)11月、高等試験行政科に合格。1922年(大正11年)東京帝国大学経済学部を卒業し、旭石油を経て、朝鮮総督府に奉職。京畿道、忠清北道各勤務、全羅北道警務課長、咸鏡南道、平安北道各警察部長、朝鮮総督府警務局保安課長、総督官房資源課長、企画部第一課長兼総督官房資源課長を経て、1941年(昭和16年)6月、咸鏡南道知事に就任した。
新田 義美(にった よしとみ、1899年3月2日 - 196… 新田 義美(にった よしとみ、1899年3月2日 - 1969年11月20日)は、昭和時代の華族、男爵。 岩松新田氏・新田忠純の子。兄弟は俊子(今村繁三室)、てい(桂与一室)、幸子(四女、松平慶民室)、義郎(北畠克通養子)、義之(岩松純行養子)ら。妻は高浜虚子の娘宵子。男子はなく、娘に武子、恭子、汪子(山田栄作妻)、公子(宇佐美承妻)、容子(国井文扶妻)、矩子(小谷野晃一妻)。 1926年(大正15年)に明治大学政治経済学部を卒業し、第一生命保険相互会社に勤務する。1966年(昭和41年)、自身が所蔵していた古文書や絵画など約9,000点を群馬大学に寄贈し、現在新田文庫として公開されている。婿の山田栄作と娘汪子の間の陽子(孫娘)が跡を継いだ。
林 興一郎(はやし こういちろう、1899年3月1日 - 1… 林 興一郎(はやし こういちろう、1899年3月1日 - 1965年1月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 広島県出身。1919年広島県立忠海中学校(現・広島県立忠海高等学校)卒。漁業を営み、広島県水産会長、同漁業組合連合会長、瀬戸内海水産連合会理事長、中央水産業会理事、中国五県水産連合理事長、倉橋島漁業会長を務め、広島県会議員、同県議会議員、同議長を務めた。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で広島県から諸派で立候補したが次点で落選する。しかし、6月に同じ選挙区から当選した田中貢の辞職により、繰り上げ当選となった。当選後は協同民主党に入った。翌1947年3月には国民協同党と変わり、国民協同党代議士会副会長となった。
石井 頼三(いしい らいぞう、1899年(明治32年)3月1… 石井 頼三(いしい らいぞう、1899年(明治32年)3月1日 - 1974年(昭和49年)5月12日)は日本の商品学者。理化学研究所所員、一橋大学小平分校教授を経て、千葉商科大学学長(第3代)。京都大学理学博士。商品学の研究者として著名である。 弟子に中野紘一(日本大学商学部元教授)等がいる。 1899年(明治32年)3月1日、鳥取県八頭郡若桜村(現・若桜町)に生まれた。 鳥取県師範学校卒業後、地元の鳥取県八頭郡若桜小学校訓導に就任。 その後東京高等師範学校理科を卒業し和歌山県立海南中学校教諭に就任。 1932年(昭和7年)に東京文理科大学化学科を第一回卒業生として卒業し理化学研究所入所。 1944年京都大学で理学博士の学位を取得した。
上田 精一(うえだ せいいち、1899年3月1日 - 没年不… 上田 精一(うえだ せいいち、1899年3月1日 - 没年不明)は、日本の陸上競技選手。 現在の島根県出雲市出身。島根師範学校から東京高等師範学校に進む。 東京高等師範学校在学中、1922年・1923年の日本陸上競技選手権大会のやり投種目を連覇。1923年には第6回極東選手権競技大会(大阪)に五種競技で出場して優勝した。 東京高等師範学校在学中に、1924年パリオリンピックで男子五種競技に出場した。 1925年には第7回極東選手権競技大会(マニラ)に五種競技で出場した。 この項目は、陸上選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:陸上競技/PJ陸上競技)。
広瀬 永造(ひろせ えいぞう、1899年(明治32年)3月 … 広瀬 永造(ひろせ えいぞう、1899年(明治32年)3月 - 1951年(昭和26年)1月7日)は、日本の内務・警察官僚。官選和歌山県知事。 兵庫県出身。第三高等学校を卒業。1922年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1923年、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し静岡県属となる。 以後、静岡県警視、神奈川県勤務、福岡県勤務、兵庫県勤務、宮崎県書記官・警察部長、高知県書記官・警察部長、岡山県書記官・警察部長、福岡県書記官・警察部長、兵庫県書記官・警察部長、大阪府書記官・警察部長、警視庁警務部長を歴任した。 1941年10月、和歌山県知事に就任。戦時下の対応に尽力。1944年8月1日、知事を依願免本官となり退官した。
伊奈 信男(いな のぶお、1898年〈明治31年〉3月31日… 伊奈 信男(いな のぶお、1898年〈明治31年〉3月31日 - 1978年〈昭和53年〉10月7日)は、日本の写真評論家。 愛媛県松山市出身。東京大学文学部美学美術史学科卒業。戦前に活動を開始し、1932年に創刊した写真雑誌「光画」の同人としても活躍(2号から)。その後、日本工房、中央工房にも参加。「光画」の創刊号に掲載された「写真に帰れ」(寫眞に歸れ)は、新興写真(近代写真)の成立を宣言したものであり、社会性を強く持っている写真作品を高く評価する内容だった。それは、それ以降戦後しばらくまでの間の、報道写真を重視するとともに、それ以外の芸術的な写真を社会性を喪失したという理由付けで排除する、という日本の写真状況と軌を一にする。
下總 皖一(しもおさ/しもふさ かんいち、本名:下總 覺三、… 下總 皖一(しもおさ/しもふさ かんいち、本名:下總 覺三、1898年3月31日 - 1962年7月8日)は作曲家・音楽教育者。埼玉県北埼玉郡原道村砂原(現:加須市)生まれ。 地元の原道尋常小学校(現:加須市立原道小学校)を卒業後は、父親が校長を務める栗橋尋常高等小学校(旧:栗橋町立栗橋東第一小学校、現:久喜市立栗橋小学校)に通い、1912年に卒業。その後は埼玉師範学校(現:埼玉大学教育学部)に入学、1920年東京音楽学校(現:東京芸術大学)で作曲を信時潔に師事し首席で卒業。後ドイツのベルリン芸術大学でパウル・ヒンデミットにも師事し、日本におけるブラームス=ヒンデミット流のドイツ系対位法理論の先駆者となった。
鈴木 良三(すずき りょうぞう、1898年3月29日 - 1… 鈴木 良三(すずき りょうぞう、1898年3月29日 - 1996年10月19日)は、日本の画家。茨城県水戸市出身。 水戸市の下市病院院長・鈴木錬平の三男として生まれる。旧制茨城県立水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を卒業して、1917年に東京慈恵会医科大学に入学。在学中、叔父の幼なじみの画家中村彝や川端画学校で絵を学ぶ。1922年に東京慈恵医科大学を卒業するも、画家の仲間らによる「金塔社」の結成に参加。同年、帝展に初入選を果たす。1928年から1930年にかけてフランスに渡航する。1936年に結成された一水会(有島生馬・石井柏亭・安井曾太郎らが参加)の展覧会には、複数にわたり作品を出品した。
岡見 健彦(おかみ たけひこ、1898年3月29日 - 19… 岡見 健彦(おかみ たけひこ、1898年3月29日 - 1972年)は、日本の建築家。遠藤新の事務所を経て、フランク・ロイド・ライトに学び、ライトの影響を受けつつもモダニズム的な作品を制作した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
井上 孝太郎(いのうえ こうたろう、1898年3月29日 -… 井上 孝太郎(いのうえ こうたろう、1898年3月29日 - 1984年5月23日)は、日本の教育者。 井上為三郎の三男として福岡県に生まれる。1933年東京文理科大学(東京教育大学文学部・理学部の前身)数学科を卒業。 1949年4月より1958年3月まで福岡県立修猷館高等学校館長(校長)を務め、小倉市(現・北九州市)の常盤高等学校校長を経て、1960年11月より1963年1月まで純真女子高等学校(現・純真高等学校)校長、および純真女子短期大学(現・純真短期大学)学長に就任する。その間、1961年1月福岡県教育委員に挙げられ、後に同委員長を務める。 その後、精華女子短期大学学生部長、福岡家庭裁判所調停委員などを務めた。
田岡 良一(たおか りょういち、1898年3月28日 - 1… 田岡 良一(たおか りょういち、1898年3月28日 - 1985年5月29日)は、日本の法学者。位階は正三位。専門は国際法。学位は、法学博士(京都帝国大学・1940年)(学位論文「空襲と国際法」)。京都大学名誉教授。高知県生まれ。 田岡嶺雲(思想家)は父。田岡俊次(ジャーナリスト)は三男。田岡久雄(国際ロータリー広報担当コーディネーター)は長男。
大町 文衛(おおまち ふみえ、1898年〈明治31年〉3月2… 大町 文衛(おおまち ふみえ、1898年〈明治31年〉3月27日 - 1973年〈昭和48年〉1月10日)は、昆虫学者、随筆家。三重大学名誉教授。文豪・大町桂月の次男。コオロギ類の研究で知られ、「コオロギ博士」と呼ばれた。 1898年(明治31年)3月27日、東京府で、大町桂月の次男として生まれる。兄は化学者の大町芳文[要出典]。1914年(大正3年)3月、東京府立第四中学校卒業。1917年(大正6年)3月、第一高等学校卒業。1921年(大正10年)7月、東京帝国大学農学部農学科卒業。在学中、石川千代松に師事して細胞遺伝学を学び、染色体の研究材料としてコオロギを取り上げたことをきっかけに、昆虫の種と進化の問題に取り組み、多くの成果を挙げた。
里見 富次(さとみ とみじ、1898年〈明治31年〉3月27… 里見 富次(さとみ とみじ、1898年〈明治31年〉3月27日 - 1998年〈平成10年〉6月29日)は、日本の内務官僚。元帝都高速度交通営団理事。 鳥取県境町(現境港市)出身。里見周三の二男。 第四高等学校を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。大正13年(1924年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し福島県属となる 大正15年(1926年)7月福島県事務官に任ぜられ爾来神奈川県事務官、高知県経済部長、千葉県書記官・学務部長、文部書記官、九州地方総監府参事官、近畿地方行政事務局次長等を歴任し、昭和23年(1948年)2月帝都高速度交通営団理事に就任した。 晩年は、日本進路指導協会会長、同理事長、顧問を歴任した。
小林 竜雄(こばやし たつお、1898年3月27日 - 19… 小林 竜雄(こばやし たつお、1898年3月27日 - 1976年1月17日)は、フランス文学者、早稲田大学名誉教授。 熊本県生まれ。早大仏文科卒。1968年まで早大商学部教授。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
今 東光(こん とうこう、1898年〈明治31年〉3月26日… 今 東光(こん とうこう、1898年〈明治31年〉3月26日 - 1977年〈昭和52年〉9月19日)は、横浜生まれの小説家、天台宗大僧正(法名 春聽)、中尊寺貫主、参議院議員。大正末期に新感覚派の作家として出発。その後出家し、長く文壇を離れたが復帰。住職として住んだ河内や平泉、父祖の地、津軽など奥州を題材にした作品で人気を得た。週刊誌やテレビでも活躍し、毒舌和尚としても知られた。 作家・評論家で初代文化庁長官を務めた今日出海(ひでみ)は三弟。儒学者の伊東梅軒は母方の祖父。医師で第8代弘前市長や衆議院議員を務めた伊東重は母方の伯父。国家主義者の伊東六十次郎は従弟。外交官の珍田捨巳は父方の遠縁にあたる。
迫 静二(さこ せいじ、古い文書では「靜二」と表記 1898… 迫 静二(さこ せいじ、古い文書では「靜二」と表記 1898年(明治31年)3月26日 - 1983年(昭和58年)8月6日)は、日本の銀行家、富士銀行初代頭取。 熊本県熊本市出身。熊本県立熊本中学校、官立第五高等学校を経て、1922年(大正11年)に東京帝国大学法学部を卒業。安田銀行に入社。1946年(昭和21年)常務取締役、48年と社長となり、行名を富士銀行と改める。翌年社長を頭取に改称し、初代頭取に就任。全国銀行協会連合会会長などを務めた。 1983年8月6日死去、85歳没。
東郷 久義(とうごう ひさよし、1898年3月26日 - 没… 東郷 久義(とうごう ひさよし、1898年3月26日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[3][4][5][6][7][8][9]。本名品川 久義(しながわ ひさよし)[3][4]。海外を柔道行脚した前歴から、日本のサイレント映画の全盛期に現れた「スポーツ俳優」のひとりとして知られ、現代劇を中心に多く主演した[9][10]。
東郷 久義(とうごう ひさよし、1898年3月26日 - 没… 東郷 久義(とうごう ひさよし、1898年3月26日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名品川 久義(しながわ ひさよし)。海外を柔道行脚した前歴から、日本のサイレント映画の全盛期に現れた「スポーツ俳優」の一人として知られ、現代劇を中心に多く主演した。 1898年(明治31年)3月26日、島根県に生まれる。『日本映画俳優名鑑』の「昭和四年版」(1929年版・1928年発行)および「昭和五年版」(1930年版・1929年発行)には「島根縣の一寒村」に生まれたと記述されている。 長じて東京に移り、旧制・海城中学校(現:海城中学校・高等学校)に進学、同校を卒業後に大阪に移り、関西大学法学部に進学する。
外岡 茂十郎(とのおか もじゅうろう、1898年3月25日 … 外岡 茂十郎(とのおか もじゅうろう、1898年3月25日 - 1986年8月27日)は、日本の法学者。学位は法学博士。静岡県出身。 静岡県賀茂郡三坂村(現在の賀茂郡南伊豆町)入間に生まれる。賀茂郡立中学豆陽学校から早稲田大学に進学し、1925年に早稲田大学教授に就任。 1942年から1964年まで早稲田大学野球部部長を務める。あわせて東京六大学野球連盟理事長も務め、1943年には出陣学徒壮行早慶戦を敢行している。 戦後はオール早慶戦の開催、1946年春の六大学野球再開を実現させ、12月に日本学生野球協会が結成されると副会長として30年間アマチュア野球の発展に尽力した。その後は中京大学へと移り、1966年の同大学法学部の開設に関わり、1975年まで法学部長を務めた。
松村 又一(まつむら またいち、、1898年(明治31年)3… 松村 又一(まつむら またいち、、1898年(明治31年)3月25日 - 1992年(平成2年)9月30日)は昭和期の作詞家、民謡作家。妻は歌人の松村君代。独特の作風から土の詩人と評される。
白川 一雄(しらかわ かずお、1898年(明治31年)3月2… 白川 一雄(しらかわ かずお、1898年(明治31年)3月25日 - 1957年(昭和32年)5月14日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 香川県、のちの丸亀市で、白川友一の二男として生まれる。第四高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業した。 父の事業に携わり白川保善社専務取締役を経て、1930年(昭和5)同社長に就任。1931年(昭和6年)12月、名古屋市の三引陶器(株)の経営再建に携わり業績を回復し、1932年(昭和7年)12月、社名を白川製陶に改称して社長に就任。日本興業銀行からの要請で、合板発明家の浅野吉次郎が創業した名古屋合板(株)の経営を1932年(昭和7年)7月から引き継ぎ社長に就任した。
谷 安正(たに やすまさ、1898年〈明治31年〉3月25日… 谷 安正(たに やすまさ、1898年〈明治31年〉3月25日 - 1975年〈昭和50年〉2月8日)は、日本の応用物理学者。東京大学名誉教授。工学博士。 1898年3月25日、富山県滑川町(現在の滑川市)で生まれた。1921年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業後、同大学工学部講師に着任し、1924年に助教授に昇任した。1941年に東京帝国大学航空研究所の所員となり、1942年に新設された東京帝国大学第二工学部の教授となった。1950年に東京大学生産技術研究所教授に転任し、1957年に同研究所所長を務めた。1958年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後、日本大学教授、富山県立大谷技術短期大学学長を務めた。
大和 資雄(やまと やすお、1898年3月25日 - 199… 大和 資雄(やまと やすお、1898年3月25日 - 1990年1月12日)は、日本の英文学者、翻訳家。日本大学、武蔵野女子大学名誉教授。 山形県出身。1921年東京高等師範学校卒、香川県師範学校教諭、1925年東京帝国大学英文科卒業、高野山大学教授。1927年日本大学予科教授、1931年日本大学法文学部教授、1958年日本大学文理学部教授、1968年定年、同年勲三等瑞宝章受章、1944年日大名誉教授。1970年武蔵野女子大学教授、1978年まで務め、退任後名誉教授。 イギリス文学を専門とし、『嵐が丘』の翻訳がよく読まれた。ほか著書多数(「大和資雄先生の略歴」『英文学論叢』1990)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
江藤 純平(えとう じゅんぺい、1898年3月25日 - 1… 江藤 純平(えとう じゅんぺい、1898年3月25日 - 1987年11月16日)は、日本の洋画家。 大分県臼杵市出身。1918年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学し、岡田三郎助や片多徳郎に師事した。1923年に東京美術学校を卒業した。 1923年の第5回帝展に出品した「アトリエにて」が初入選した。1928年の第9回帝展に出品した「S氏像」と1929年の第10回帝展に出品した「F君の像」は2年連続特選となった。1933年の第14回帝展に出品した「室内裸婦」も特選を受賞した。 1932年ロサンゼルスオリンピックの芸術競技に"The Rugger"(和題不明)を出品した。 1937年に光風会に会員として参加した。
佐藤 基(さとう はじめ、1898年(明治31年)3月23日… 佐藤 基(さとう はじめ、1898年(明治31年)3月23日 - 1971年(昭和46年)3月31日)は、日本の大蔵官僚。
富久 力松(とみひさ りきまつ、1898年 <明治31年> … 富久 力松(とみひさ りきまつ、1898年 <明治31年> 3月23日 - 1988年 <昭和63年> 12月28日)は、日本の経営者、工学博士。東洋ゴム工業社長、会長を務めた。位階は従四位。 岡山県生まれ。第六高等学校 (旧制)を経て、1923年に京都帝国大学工学部工業化学科を卒業し、同大学で助手を務めた。師は喜多源逸。在学中に喜多とともにベークライトの製法特許を取得している。1929年学位論文「ヴィスコースの研究」により京都帝国大学より工学博士号を取得。昭和レーヨン、東洋紡での勤務を経て、1945年8月に東洋ゴム工業社長に就任。1965年5月に会長に就任し、1971年5月に取締役相談役、1975年5月に相談役を経て、1978年6月には名誉顧問に就任。
戸田 帯刀(とだ たてわき、1898年3月23日 - 194… 戸田 帯刀(とだ たてわき、1898年3月23日 - 1945年8月18日)は、日本のカトリック聖職者。洗礼名はラウレンチオ。カトリック札幌使徒座代理および横浜教区長を務め、終戦直後の8月18日に射殺された。 1898年(明治31年)3月23日、山梨県東山梨郡西保村に生まれる。1923年(大正12年)11月にローマ・ウルバノ大学へ留学し、1927年(昭和2年)12月17日に司祭に叙階された。 1940年(昭和15年)10月11日に札幌使徒座代理に任命され、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)3月、「米英を相手に戦争したらどうなるか分からない」と同僚神父に話したとして旧陸軍刑法違反で逮捕された。
君野 秀三(きみの ひでぞう、1898年〈明治31年〉3月2… 君野 秀三(きみの ひでぞう、1898年〈明治31年〉3月23日 - 1970年〈昭和45年〉6月9日)は、日本の政治家、醸造家。元鳥取県八頭郡若桜町長、若桜町会議員。 鳥取県八頭郡若桜村(現・若桜町)に生まれる。君野良平の三男。1916年(大正5年)、東京市私立郁文館中学校を卒業。1917年(大正6年)に明治大学法科予科に入学したが、1919年(大正8年)に中途退学して帰郷、若桜郵便局長に就任。 1922年(大正11年)に醤油醸造業を創始する。若桜町町長、町会議員、鳥取県公安委員などをつとめた。戦後、公職追放となった。 宗教は浄土宗。趣味は尺八、写真、囲碁、読書。住所は鳥取県八頭郡若桜町大字若桜。
中村 大三郎(なかむら だいざぶろう、1898年3月21日 … 中村 大三郎(なかむら だいざぶろう、1898年3月21日 - 1947年9月14日)は、京都市生れの日本画家。京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)教授。
9代式守与太夫(きゅうだい しきもりよだゆう、1898年3月… 9代式守与太夫(きゅうだい しきもりよだゆう、1898年3月21日-1969年11月16日)は元行司である。本名は櫻井福太郎。 房錦勝比古は実子。29代木村庄之助の養父。 高砂部屋から若松部屋に所属してた。 1910年春場所、式守福太郎という名前で初土俵。 1915年に木村福太郎に改名するが、1年で式守福太郎に戻す。 1922年に式守真之助、1936年に7代目式守錦太夫に改名し、1940年頃に幕内格。 この頃、房錦の父となり、房錦を育てた。 1956年夏場所で三役行司昇進。三役格筆頭までいった。 1961年名古屋場所、9代目式守与太夫を名乗るが、病気で休場が続き同年秋場所、廃業した。63歳だった。
小川 豊明(おがわ ほうめい、1898年3月20日 - 19… 小川 豊明(おがわ ほうめい、1898年3月20日 - 1962年11月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期、日本社会党)。多古町長。 千葉県香取郡多古町喜多の農家の長男として生まれる。日本社会党の衆議院議員となった小川三男は弟。 1915年多古町立多古農学校(現千葉県立多古高等学校)卒業。家業の農業に従事していたが、1920年に日本社会主義同盟に参加。『潮流』などを発刊して普選運動をする。 1930年に多古町会議員となるが、この間に立憲民政党の政治活動に参加した。その後、鉄道省による民営バスの買収反対運動などに参加した。友人が経営する石橋計器製作所の経営にもあたった。 1947年日本社会党入党。
土肥 米之(どひ よねゆき、1898年(明治31年)3月20… 土肥 米之(どひ よねゆき、1898年(明治31年)3月20日 - 1990年(平成2年)7月24日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。官選県知事。 広島県出身。第六高等学校を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し三重県属となる。 以後、島根県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、北海道庁部長・警察部長、宮城県総務部長、兵庫県書記官・総務部長、大阪府書記官・総務部長、四国地方行政協議会参事官などを歴任。 1942年1月、鳥取県知事に就任。統制経済の円滑な実施、翼賛体制の確立に尽力し、1943年7月に辞職した。1945年4月に愛媛県知事に就任し、戦後の復興に尽力。
高木 金次(たかぎ かねつぐ、1898年3月20日 - 19… 高木 金次(たかぎ かねつぐ、1898年3月20日 - 1967年6月21日)は、日本の経営者。明治生命保険社長を務めた。 岡山県出身。1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に明治生命保険に入社。1946年に常務に就任し、1958年5月に副社長を経て、1964年5月に社長に就任した。 1967年6月21日、心臓疾患のために在職中に死去。69歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
千葉 益子(ちば ますこ、1898年〈明治31年〉3月19日… 千葉 益子(ちば ますこ、1898年〈明治31年〉3月19日 - 1971年〈昭和46年〉6月16日)は、日本の美容家。兵庫県出身。本名は「相原ます」、出生名は「千葉ます」。 「近代美容の母」とされるマリールイズの養女(養子の妻)。着付けにおいては昭和期の優れた指導者であり、美容界の発展と美容師の地位向上に尽力した。マリールイズの養子である相原松三郎の妻だが、結婚した時には「千葉益子」の名で美容家として通用していたため、生涯を「千葉益子」の名で通した。 兵庫県で誕生した。1913年(大正2年)に、兵庫県立豊岡高等女学校(後の兵庫県立豊岡高等学校)を首席で卒業した。しかし父の事業の失敗で家が没落し、進学は叶わなかった。
白石 古京(しらいし こきょう、1898年(明治31年)3月… 白石 古京(しらいし こきょう、1898年(明治31年)3月18日 - 1991年(平成3年)1月17日)は、日本の実業家。京都新聞社元社長。京都放送元社長。位階は従三位。1946年に社長就任後から始まり、死後は白石一族が京都新聞の経営者に関与・支配している。 奈良県五條市出身。白石村治の三男。1922年に東京帝国大学経済学部卒業。翌年に京都新聞社の前身である京都日日新聞社に入社した。 1946年3月から1981年までに社長を務め、京都新聞を日本を代表する地方紙に育て上げた。京都新聞の「実力社主」として権勢をふるう。 その一方で、共同通信社理事会副会長、京都放送社長、日本国際連合協会京都本部長、京都商工会議所副会頭、京都市観光協会会長、国際新聞編集者協会理事、日本観光協会副会長などを歴任した。
宮田 重文(みやた しげふみ、1898年(明治31年)3月1… 宮田 重文(みやた しげふみ、1898年(明治31年)3月17日 - 1973年(昭和48年)12月6日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(2期)、茨城県久慈郡太田町長、常陸太田市長、同名誉市民。旧姓は立川。 茨城県久慈郡太田町(現常陸太田市)で、立川義之の三男として生まれる。茨城県立太田中学校(現茨城県立太田第一高等学校・附属中学校)を経て、1921年(大正10年)早稲田大学政治経済科を卒業した。 1921年、明治屋に入社し、1926年(大正15年)に丸の内支店次長で退職して帰郷した。書籍・学用品販売業の宮田家の養子となった。茨城新聞社に入社し、営業局外交部長に就任。1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙に大学の恩師五来欣造が茨城県第2区から立候補した際に、選挙事務長を務めたが五来は落選した。
堀木 鎌三(ほりき けんぞう、1898年3月17日 - 19… 堀木 鎌三(ほりき けんぞう、1898年3月17日 - 1974年4月13日)は、日本の鉄道官僚、政治家。参議院議員(2期)、厚生大臣。 三重県松阪市出身。堀木利右衛門の三男として生まれる。目白中学、第八高等学校を経て、1922年(大正11年)3月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1921年(大正10年)11月、高等試験行政科試験に合格。1922年4月に鉄道省に入り、鉄道局書記となり東京鉄道局庶務課文書掛に勤務。鉄道局副参事・新橋運輸事務所営業主任、東京鉄道局運輸課旅客掛長などを歴任。1929年(昭和4年)7月に在外研究員に発令され、1931年(昭和6年)8月まで欧州に出張した。 帰国後、新橋運輸事務所長、大阪鉄道局運輸課長、運輸局旅客課長などを経て、1938年(昭和13年)4月、鉄道大臣秘書官兼大臣官房文書課長に就任し、中島知久平に仕えた。
横光 利一(よこみつ りいち、1898年〈明治31年〉3月1… 横光 利一(よこみつ りいち、1898年〈明治31年〉3月17日 - 1947年〈昭和22年〉12月30日)は、日本の小説家・俳人・評論家。本名は漢字表記同じで「よこみつ としかず」。 菊池寛に師事し、川端康成と共に新感覚派として大正から昭和にかけて活躍した。『日輪』と『蠅』で鮮烈なデビューを果たし、『機械』は日本のモダニズム文学の頂点とも絶賛され、また形式主義(英語版)文学論争を展開し『純粋小説論』を発表するなど評論活動も行い、長編『旅愁』では西洋と東洋の文明の対立について書くなど多彩な表現を行った。1935年(昭和10年)前後には「文学の神様」と呼ばれ、志賀直哉以来の「小説の神様」とも称された。
岡田 希雄(おかだ きゆう、1898年(明治31年)3月15… 岡田 希雄(おかだ きゆう、1898年(明治31年)3月15日 - 1943年(昭和18年)1月31日)は、日本の国語学者、国文学者、辞書学者。 京都府葛野郡七条村(現在の京都市下京区)に農家の服部家の次男として生まれる。名は市治郎。3歳で父の浅吉を亡くし、5歳で母のヤヱを亡くした後、乙訓郡久世村(現在の京都市南区)にある曹洞宗の鷲尾寺の住職である岡田希僊に引き取られる。1904年(明治37年)に養子として入籍し、1910年(明治43年)に得度を受けて「希雄」と名前を改め、翌1911年(明治44年)3月に僧籍に登録された。 1915年(大正4年)に京都府立京都第二中学校を卒業後、第三高等学校に入学する。
森 周六(もり しゅうろく、1898年(明治31年)3月14… 森 周六(もり しゅうろく、1898年(明治31年)3月14日-1961年(昭和36年)2月4日)は、日本の農学者、農業工学者。専門は農業機械学。農学博士。九州大学教授。九州大学農学部長や日本学術会議会員を歴任。 鹿児島県大島郡瀬戸内町阿木名出身。医師の父の六男として生まれる。阿木名尋常小学校、鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、1919年(大正8年)第七高等学校造士館 (旧制)卒業。1922年(大正11年)東京帝国大学農学部農学科卒業。東大の恩師のすすめで同年より東京帝国大学農学部講師。1924年(大正13年)7月28日、九州帝国大学農学部助教授となる。1933年(昭和8年)4月19日、論文「本邦在来犂ニ関スル研究」で北海道帝国大学より農学博士号授与(農業機械関係では日本初)。
田中 繁松(たなか しげまつ、1898年〈明治31年〉3月1… 田中 繁松(たなか しげまつ、1898年〈明治31年〉3月13日 - 1976年〈昭和51年〉2月26日)は、日本の経営者。三井造船社長を務めた。位階は正四位。 大阪府岸和田市出身。1918年に大阪高等工業学校造船学科を卒業し、同年に三井物産に入社。1942年1月に三井造船に転じ、1946年5月に取締役、同年11月に常務、1947年5月に専務を経て、1958年5月に副社長に就任し、1960年5月には社長に昇格。1970年5月に取締役相談役を経て、1972年5月には相談役に就任。 1968年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1976年2月26日脳血栓のために死去。77歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
蒲原 重雄(かんばら しげお、1898年3月12日 - 19… 蒲原 重雄(かんばら しげお、1898年3月12日 - 1932年10月16日)は日本の建築家。司法省技師。日本における表現主義建築の傑作とされる小菅刑務所(現東京拘置所)と、建畠大夢が建設した北軽井沢大学村に現存する洋小屋組が特徴の南紀倶楽部(元紀州出身の美術家グループのアトリエである南紀美術倶楽部)が代表作。 明治31年(1898年)、岡山市で旧佐賀藩の漢学者の次男[要検証 – ノート]として生まれる。岡山県立第一中学校、第六高等学校(岡山)を経て、東京帝国大学に進学。大正11年(1922年)3月、東京帝国大学工学部建築学科を卒業。卒業制作は「住宅」。同期には岸田日出刀、土浦亀城、田辺平学、長谷川輝雄などがいる。