中川 寛治(なかがわ かんじ、1897年(明治30年)3月1… 中川 寛治(なかがわ かんじ、1897年(明治30年)3月11日 - 1984年(昭和59年)11月29日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、富山県下新川郡泊町長。 富山県下新川郡泊町(現朝日町)で、綿商人・中川屋、中川彦吉の長男として生まれる。1909年(明治42年)家督を相続した。1919年(大正8年)早稲田大学政治経済科を卒業した。三菱海上保険会社に入社したが、1926年(大正15年)に退職して帰郷し農業を営む。 また、黒東銀行取締役、泊銀行取締役、泊通運取締役、泊郵便局長などを務めた。1939年(昭和14年)9月、立憲民政党公認で富山県会議員に選出され、1期約3年間在任し、同副議長も務めた。
戸次 貞雄(べっき さだお、1897年3月11日 - 196… 戸次 貞雄(べっき さだお、1897年3月11日 - 1965年7月8日)は、日本の宗教家。日本敬神崇祖自修団創始者。現在の熊本県山鹿市山鹿町出身。 1925(大14)8.1「仏の大慈大悲と運命」(昭和の法華経 第一編) 1928(昭3)9.10「昭和の法華経と常不軽菩薩」完成 二編「昭和の法華経とキリスト教」完成 三編「仏は滅し給わず」完成 四編 1929(昭4)「三宝経」著述 1930(昭5)「皇礼典法華妙皇道実証経」発行 1932(昭7)7.7 福島県幕川金神滝開滝 1946(昭21) 第一回 天地創造之大神大祭 大宇宙真理開顕 妙皇道 創刊号発行 1947(昭22) 福島県 旧福田村に皇礼堂落成 1949(昭24)4.15 「お蔭様の歌」完成 11.3 「全思想之源泉 世界宗教根本論」出版 12.28 「身削の光」発行 1951(昭26)4.21 「宇宙心理と文化」出版「先祖権現堂」完成 1952(昭27)3.18 「日本民族道凡論」「日本天皇堂と人間」 「日本天皇と万象の宗源」出版 1955(昭30) 「真運浄光荘厳恵尊」題目完成 1961(昭36)11 「真運東方光権現経昭和安神本願偈」 1962(昭37) 「自覚剤薬心経」「日本の国柄」「我が身に感謝せよ」 「群生霊喜納帰元祭経」 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。
明知 延佳(あけち のぶよし、1897年〈明治30年〉3月1… 明知 延佳(あけち のぶよし、1897年〈明治30年〉3月10日 - 1979年〈昭和54年〉11月16日)は、昭和時代前期の内務官僚、台湾総督府官僚。旧名は俊雄。 東京市蒲田区萩中(現・大田区萩中)に生まれる。荏原中学校、国勢院統計講習所を経て、1922年(大正11年)4月、中央大学法律科正科を卒業する。社会局、復興局、社会局保健部管理課を経て、1931年(昭和6年)7月、地方理事官に進み、福島県、三重県と転々とする。ついで1935年(昭和10年)4月、沖縄県宮古支庁長に就任した。 のち渡台し、1939年(昭和14年)4月、台湾総督府地方理事官に任ぜられ、台中州竹山郡守となり、ついで台東庁総務課長を経て、1942年(昭和17年)4月、宜蘭市長に就任した。
田中 古代子(たなか こよこ、1897年(明治30年)3月1… 田中 古代子(たなか こよこ、1897年(明治30年)3月10日 - 1935年(昭和10年)4月20日)は日本の小説家。本名は涌島コヨ(わくしまこよ)。鳥取県気高郡逢坂村(現在の鳥取市気高町)出身。大正初期より『女子文壇』、『文学世界』などに短歌や散文などを投稿。1915年(大正4年)、山陰日日新聞社へ入社し県下初の女性新聞記者になる。同年文芸誌『我等』同人となり雑誌や新聞に多くの作品を投稿し文学青年の崇拝を集める。若き女流作家として将来を期待されたが、持病のためその後は多くの作品を残すことはなかった。地元鳥取でも知名度は高くなかったが、2023年に米子市出身の作家・三上幸四郎の江戸川乱歩賞受賞作『蒼天の鳥』で、娘の田中千鳥とともに取り上げられ知られるようになった。
広兼 篤郎(ひろかね あつろう、1897年(明治30年)3月… 広兼 篤郎(ひろかね あつろう、1897年(明治30年)3月8日 - 没年不詳 )は、日本の陸上競技選手であり、実業家でもある。元日本陸連理事も務めた。広兼が中心となり、現在まで続く早慶対抗陸上競技会を企画した人物としても知られる。岡山県川上郡吹屋町出身。 1897年(明治30年)岡山県川上郡吹屋町(現:高梁市)の素封家である広兼玉太郎の次男として出生する。生家は広兼邸として知られ、江戸後期に弁柄で大富豪となった家系として知られる。映画『八つ墓村』のロケ地としても有名である。 その後、1911年(明治44年)旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進み、この頃には、既に周囲と比べて足が速く、陸上競技で有名となっていた。
杉田 六一(すぎた ろくいち、1897年3月7日 - 197… 杉田 六一(すぎた ろくいち、1897年3月7日 - 1976年8月9日)は、古代オリエント研究者、実業家。 愛知県豊橋市出身。旧制中学時代、叔父にもらった英文の聖書を読み古代オリエントに興味を持ち、聖書研究の目的で青山学院大学に進学。1921卒業、同大講師を務めるが、奥日光の観光業者・南間久吉の娘と結婚、戦時中は奥日光に疎開し独学で古代イスラエルの研究に従事。戦後、奥日光で観光物産会社・杉田商事代表取締役となり、奥日光開発取締役などを務めた。日本イスラエル文化研究会理事長。
青木 源吉(あおき げんきち、1897年(明治30年)3月7… 青木 源吉(あおき げんきち、1897年(明治30年)3月7日 - 1973年(昭和48年)1月27日)は、日本の政治家。栃木県今市市長、栃木県議会議員を務めた。 今市町室瀬に生まれる。今市尋常高等小学校を卒業。1929年(昭和4年)、今市町会議員に当選し、1947年(昭和22年)まで務める。1947年4月、今市町長選挙に立候補するが、現職の熊谷安正に敗れる。1948年(昭和23年)2月27日、熊谷が町長在任のまま死去。町長死去に伴う選挙は同年4月25日に行われ、無所属で立候補した青木が当選した。 町長在任中の1949年(昭和24年)に発生した今市地震では復興に努力した。1952年(昭和27年)4月23日の町長選挙では青木の他に立候補者がなく無投票で再選。
富田 至誠(とみた しせい、1897年(明治30年)3月6日… 富田 至誠(とみた しせい、1897年(明治30年)3月6日 - 1949年(昭和24年)5月31日)は、日本の洋画家であり、美術教師。熊本県出身。 旧姓松尾至誠。東京美術学校西洋画科、(現東京藝術大学油画専攻)卒業後すぐに、新設された熊本県立御船中学校、現在の熊本県立御船高等学校に図画教師(美術教師)として赴任。以後、学制改革により御船中学校が御船高等学校となった翌年(昭和24年)に病没するまでの間、同校で教鞭をとり続ける。昭和6年11月の天皇行幸、陸軍大演習に際して休憩所に飾る天覧の絵を描くなど優れた画力を持ちながら、文展、帝展等の公募展には一切出展せず、生涯一美術教師を通す。 井手宣通・浜田知明ら、日本を代表する美術家や美術教師を多数育てる。
阪本 瑞男(さかもと たまお、1897年3月6日 - 194… 阪本 瑞男(さかもと たまお、1897年3月6日 - 1944年7月5日)は、日本の外交官。第二次世界大戦中ドイツの将来に悲観的な見通しを持ち、日本の対英米戦争への参戦に反対したことで知られている。
門馬 直衛(もんま なおえ、1897年〈明治30年〉3月6日… 門馬 直衛(もんま なおえ、1897年〈明治30年〉3月6日 - 1961年〈昭和36年〉10月6日)は、日本の音楽評論家。次男は同じく音楽評論家の門馬直美。 福島県相馬郡原町出身。旧制第二高等学校、東京帝国大学法学部卒業。雑誌『月刊楽譜』などを編集。1929年武蔵野音楽学校教授、のち武蔵野音楽大学教授。「サンタ・ルチア」ほか訳詞も多い。
平野 義太郎(ひらの よしたろう、1897年3月5日 - 1… 平野 義太郎(ひらの よしたろう、1897年3月5日 - 1980年2月8日)は、日本のマルクス主義法学者、中国研究者、平和運動家。
山中 義貞(やまなか よしさだ、1897年3月5日 - 19… 山中 義貞(やまなか よしさだ、1897年3月5日 - 1986年2月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県出身。慶應義塾大学部理財科修業。土居村(のち土居町、現在の四国中央市)議、愛媛県議、小作調停委員、村農会長、宇摩郡煙害調査会長、愛媛県山林会評議員、土居村青少年団長、愛媛県青少年団副団長などを務める。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では愛媛2区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。1951年追放解除。 このほか芸備銀行、伊予電気鉄道各(株)監査役、愛媛新聞、山中商店、南海放送各(株)社長、第一石産、日本ベルト各(株)会長、広島銀行、伊予鉄道各(株)取締役、県工業俱楽部会長、県体育協会会長、県公安委員、全日本剣道連盟副会長を歴任した。
石崎 千松(いしざき せんまつ、1897年〈明治30年〉3月… 石崎 千松(いしざき せんまつ、1897年〈明治30年〉3月5日 - 1972年〈昭和47年〉6月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県企救郡、のちの門司市大里御所町(現北九州市門司区)で、石崎作蔵の息子として生まれた。1922年、早稲田大学商科卒。1930年アメリカアラバマ大学大学院経済学科卒、ノースウエスタン大学院政治家で学ぶ。その後は新聞記者となり、日本人会会長、同幹事、日本語学校校長となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で福岡2区(大選挙区制)から無所属で立候補して当選。当選後は日本民主党準備会、新政会、国民党、国民協同党と変わった。この間、国民党渉外部長、国民協同党中央常任委員を歴任した。
関内 正一(關内、せきうち しょういち、1897年(明治30… 関内 正一(關内、せきうち しょういち、1897年(明治30年)3月4日 - 1962年(昭和37年)4月26日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・新妻。 福島県岩城郡大浦村上仁井田(四倉町を経て現いわき市)で素封家・新妻伊之助の長男として生まれ、岩城郡平町(平市を経て現いわき市平)の老舗・関内家の養子となる。福島県立磐城中学校(現福島県立磐城高等学校)を経て早稲田大学商科で学んだ。 28歳で平町会議員に就任。同議長、福島県会議員、平市会議員、同議長を務めた。1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で福島県第3区から自由党公認で出馬して当選。第24回総選挙で再選され、1952年(昭和27年)10月の第25回総選挙では次点で落選。
三宅 襄(みやけ のぼる、1897年3月3日 - 1965年… 三宅 襄(みやけ のぼる、1897年3月3日 - 1965年12月4日)は、日本の能楽研究家・評論家。 島根県生まれ。本名・石田金一。1917年明治薬学専門学校(現明治薬科大学)卒。山内保の診療所で薬剤業務に従事しつつ演劇評論を書く。1932年から『謡曲界』の編集に携わるかたわら、新聞に能評を書く。『観世』『金剛』の編集を担当、観世流大成版謡本の改訂作業に関与。戦後は能楽協会の設立に従事し、理事兼書記長を務め、機関誌『能』を編集、能楽界の世話役であった。1961年紫綬褒章受勲。
藤井 顕孝(ふじい けんこう、1897年〈明治30年〉3月3… 藤井 顕孝(ふじい けんこう、1897年〈明治30年〉3月3日 - 1979年〈昭和54年〉10月21日)は、日本の地方政治家。初代東久留米市長。 1924年(大正13年)早稲田大学文学部卒。浄牧院住職、鉄道教習所講師、東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)教員、久留米町教育委員長を歴任した。 1959年(昭和34年)の久留米町長選挙に立候補したが、この時は前職の番場憲隆に敗れた。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts) 1963年(昭和38年)の町長選挙で、社会党の新人を破って、初当選を果たした。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts) 1967年(昭和42年)の町長選挙では、別の社会党新人との争いとなったが、これを破って再選を果たした。
加藤 シヅエ(かとう シヅエ、旧姓:広田静枝、1897年〈明… 加藤 シヅエ(かとう シヅエ、旧姓:広田静枝、1897年〈明治30年〉3月2日 - 2001年〈平成13年〉12月22日)は、日本の政治家。元華族。婦人解放運動家・産児制限活動家。称号は東京都名誉都民。位階は従三位。 1897年(明治30年)3月2日、東京府東京市本郷区西片町(現・東京都文京区西片)に生まれる。父の廣田理太郎は、英語に堪能で、イギリスやアメリカと手広く貿易を行う実業家であり、廣田家は非常に裕福な家庭であった。母の敏子(鶴見良憲長女)もカナダのミッションスクールで進歩的な教育を受けていた。そんな東京都心の裕福なブルジョア家庭に生まれたシヅエは、日本文化・西欧文化の両方に接して育つ。
北村 春吉(きたむら はるきち、旧姓:藤井、1897年3月1… 北村 春吉(きたむら はるきち、旧姓:藤井、1897年3月1日 - 1996年12月19日)は、滋賀県野洲市出身の数学者、旧制専門学校校長、予備校講師、サッカー選手。 1897年、滋賀県野洲郡野洲町(現:野洲市)富波甲に生まれた。滋賀師範学校(現・滋賀大学)在籍時に恩師の落合秀保と出会い、サッカーを始めた。1916年3月、滋賀師範学校卒業。 その後、東京高等師範学校に入学し、蹴球部(現:筑波大学蹴球部)に所属。在学中の1917年に第3回極東選手権大会の日本代表に佐々木等や武井群嗣らと共に選出され、2戦目のフィリピン代表戦で2得点を決めた。なお、この得点が日本代表の初得点となった(試合は2-15で敗れ、日本代表の最大差敗戦試合となっている)。
大橋 博(おおはし ひろし、1897年3月 - 1965年1… 大橋 博(おおはし ひろし、1897年3月 - 1965年12月1日)は、日本の政治家。長崎市長(1期)。 長崎高等商業学校(現・長崎大学経済学部)卒業後、三菱長崎造船所に入り、その後、三菱製鋼長崎製鋼所副長となった。 1947年4月、第1回長崎市長選挙に長崎地区労や民主党の推薦を得て立候補し、選挙の結果、前助役らを破り、当選した。 当選後の最大の課題は食糧不足の解消で、食糧確保のため市外の住民の市内への転入制限や飲食店の休業が相次いだ。市民への食糧は米軍の援助もあり、まず確保された。 長崎市は原爆による戦災からの復興が進み、市民生活も徐々に安定を保ち、原爆投下から3年後の1948年8月9日初の市主催による原爆犠牲者の慰霊祭が行われ、大橋は市長として挨拶を述べ、市議会議長が「平和宣言」を行った。
山口 将吉郎(やまぐち しょうきちろう、1896年(明治29… 山口 将吉郎(やまぐち しょうきちろう、1896年(明治29年)3月30日 - 1972年(昭和47年)9月12日)は、山形県鶴岡市出身の日本画家。挿絵画家。 高校時代は、美術講師の小貫博堂に指導を受け、大学時代は、結城素明に師事した。 大学卒業後は、絵画展覧会に作品を出品したり、同人誌などで挿絵を発表する。 その後は、主に小説本などの挿絵を描き、その中でも『神州天馬侠』 吉川英治(著)の挿絵は有名。 従甥に奇人の南画家として知られる服部二柳がいる。
内藤 雋輔(ないとう しゅんぽ、1896年3月30日 - 1… 内藤 雋輔(ないとう しゅんぽ、1896年3月30日 - 1990年5月8日)は、日本の東洋史学者。島根県出身。岡山大学名誉教授。次男は島根大学名誉教授の内藤正中。 1896年(明治29年)、島根県浜田市生まれ。1918年(大正7年)、京都帝国大学文学部史学科(支那史専攻)に入学して東洋史学者の内藤湖南(名字は同じ内藤姓だが血縁関係はない)に師事。卒業後、1929年(昭和4年)から岡山大学の前身である旧制第六高等学校教授を務める。戦後、1949年(昭和24年)、新制岡山大学教授に就任。1961年(昭和36年)、岡山大学を定年退官して名誉教授となる。定年退官後、1973年(昭和48年)までノートルダム清心女子大学教授。
泉山 三六(いずみやま さんろく、1896年(明治29年)3… 泉山 三六(いずみやま さんろく、1896年(明治29年)3月30日 – 1981年(昭和56年)7月7日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲二等。衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)、大蔵大臣(第54代)を歴任。ペンネームは泉山間窓。 山形県東田川郡大和村(現庄内町)小出新田出身。豪農・太田直右衛門の三男として生まれる。後に長じてから青森県八戸の資産家泉山家・5代目泉山吉兵衛の養子となる。子供の頃は手に負えない乱暴者だったという。第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。三井銀行に入行する。ここで三井財閥の大物池田成彬の目に留まり、企画部長、帝国銀行秘書役、同行調査役と栄進した。
波多野 鼎(はたの かなえ、1896年(明治29年)3月30… 波多野 鼎(はたの かなえ、1896年(明治29年)3月30日 - 1976年(昭和51年)9月29日)は、日本の経済学者、政治家。参議院議員(1期)。 愛知県生まれ。1917年旧制八高卒業ののち東京帝国大学に入学、新人会で活動した。1920年法学部英法科卒業ののち南満洲鉄道東亜経済調査局に就職し、前期新人会員により結成された社会思想社に参加した。1922年に同志社大学教授となり、その後九州帝国大学教授を務める。経済学博士。 第二次世界大戦後に日本社会党に入党。1947年、第1回参議院議員通常選挙で福岡県選挙区から参議院議員に当選し、同年成立した片山内閣では平野力三が罷免された後に農林大臣に就任。
栗西 清(くりにし きよし、1896年3月30日 - 197… 栗西 清(くりにし きよし、1896年3月30日 - 1970年11月11日)は、日本の経営者。 東京都出身。1917年に東京高等工業学校応用化学科を卒業し、同年に大日本人造肥料(のちの日産化学工業)に入社。1947年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1957年から1962年までに社長を務めた。 1967年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1970年11月11日脳軟化症のために死去。74歳没。
伊藤 修(いとう おさむ、1896年3月30日 - 1969… 伊藤 修(いとう おさむ、1896年3月30日 - 1969年6月14日)は、日本の弁護士、政治家。参議院司法委員長および法務委員長(初代)。 名古屋市生まれ。1921年、日本大学法科卒。1922年、弁護士となる。中部日本農民組合および日本農民組合岐阜県連の常任顧問、岐阜市会議員、東亜興業、旭炭鉱、関東重工業、三富士製作所、朝日精機、旭電気工業および日本社会公論の社長、日本社会新聞岐阜県総局長、社会文化大学名誉学長、富田高等女学校理事、岐阜弁護士会会長、岐阜地方裁判所調停委員。1952年、右派社会党岐阜県連委員長。青年民主主義擁護連盟本部会長。浄土真宗。東京都新宿区下落合に龍山荘を構えていた。 1966年4月の春の叙勲で勲二等に叙され、瑞宝章を受章する。
武田 正泰(たけだ まさやす、1896年 <明治29年> 3… 武田 正泰(たけだ まさやす、1896年 <明治29年> 3月29日 - 1969年 <昭和44年> 5月23日)は、日本の経営者。位階は従四位。 愛媛県出身。1916年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に三井倉庫に入社。1943年11月に取締役に就任し、常務を経て、1947年に社長に就任し、1968年5月までに務めた。1959年に藍綬褒章を受章し、1966年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1969年5月23日がん性腹膜炎のために死去。73歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
菊池 武一(きくち たけかず、1896年3月28日 - 19… 菊池 武一(きくち たけかず、1896年3月28日 - 1972年4月24日)は、日本の英文学者、翻訳家。 高松市出身。第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学文学部英文科卒業。國學院大學教授を務め、戦後になって古代文学、歴史研究に重きを置く方向付けに尽力する。また代々木ゼミナールの校長を務めた。子息菊池映二はフランス文学者で明治大学教授を務めた(1929-2002)。 日本の文芸、特に室町時代の謡曲文学、仕舞に造詣が深く、笛もよくした。スコット『アイヴァンホー』訳は、文庫上巻刊行後の1965年に入院し、退院後も執筆を続けたが、下巻の原稿を残して没し、菊池が國學院に迎えた高見穎治が校訂し刊行された。
岡部 金治郎(おかべ きんじろう、1896年〈明治29年〉3… 岡部 金治郎(おかべ きんじろう、1896年〈明治29年〉3月27日 - 1984年〈昭和59年〉4月8日)は、日本の工学者。専門は電子工学。 マグネトロンを実用的なマイクロ波源とする分割陽極マグネトロンを発明し、日本の十大発明家に選ばれた。東北大学で助教授、名古屋高等工業学校、大阪帝国大学、近畿大学で教授を歴任。学士院恩賜賞、文化勲章の受章者。八木秀次に師事。 1896年(明治29年)、名古屋市に生まれる。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を経て、1916年(大正5年)名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)紡織科卒業。1917年1月に高田商会大阪支店に入社、同8月に東北帝国大学理科大学助手を経た後、1918年(大正7年)9月、東北帝国大学理科大学物理科入学。
野村 芳兵衛(のむら よしべえ、1896年3月26日 - 1… 野村 芳兵衛(のむら よしべえ、1896年3月26日 - 1986年11月4日)は、日本の教育者。岐阜県洞戸村(現在の関市洞戸地区)の農家に長男として生まれる。家は浄土真宗で特に親鸞に信仰しており、精神形成に大きな影響を残した。真宗の活動家梅原真隆(しんりゅう)に傾倒し、その言葉「純に生きる」を生涯を通じてのモットーとした。 農家を継ぐことになっていたが、高等小学校を終えた後、校長から代用教員にと嘱望され、准教員を経て岐阜師範学校卒業。地元の小学校、岐阜女子師範学校付属小学校を経て、1924年上京、野口援太郎が自由主義教育の模範校として創立した池袋児童の村小学校の訓導となる。農村の教育に従事してきたため、東京の知識人階層の新思想には馴染めないものを感じ、親鸞の同行二人の思想を借りて、生活を基礎にし共生協力、あるいは協同自治の精神で、みんなが共に学んでいくことのできる場を作っていくことを教師の役割と捉えた。
岡田 源三郎(おかだ げんざぶろう 1896年3月25日 -… 岡田 源三郎(おかだ げんざぶろう 1896年3月25日 - 1977年10月26日)は、東京都 出身の野球選手・指導者(名古屋金鯱軍監督。明治大学硬式野球部監督)。
秦 慧玉(はた えぎょく、1896年3月25日 - 1985… 秦 慧玉(はた えぎょく、1896年3月25日 - 1985年1月2日)は、日本の仏教学者。駒澤大学教授。永平寺76世貫首、曹洞宗管長。号は「明峰」。 兵庫県生まれ。5歳で秦慧昭について得度。曹洞宗大学林(現駒澤大学)卒業。岐阜県の正眼寺で修行。1923年に東京帝国大学に入学。同年5月、宇井伯寿の勧めで、東北帝国大学に転学。武内義雄に師事し支那学を研究した。1926年東北帝国大学を卒業。同年9月、旧制浦和高等学校(現埼玉大学)の教授となる。のち駒澤大学教授。 1976年に曹洞宗管長、永平寺76世貫首。1980年全日本仏教会会長就任。仏教を通して国際親善に尽力。1983年清水寺の大西良慶貫主の本葬では大導師を務めた。
名川 保男(ながわ やすお、1896年(明治29年)3月25… 名川 保男(ながわ やすお、1896年(明治29年)3月25日 - 1975年(昭和50年)5月25日)は、日本の弁護士、東京弁護士会会長、国家公安委員会委員長代理、明治大学専務理事、東京音楽大学理事長。 衆議院議員、鉄道政務次官、第一東京弁護士会会長を務めた名川侃市の弟。 広島県生まれ。1919年(大正8年)明治大学法学部卒業。1922年(大正11年)千葉地方裁判所判事に任官。1927年(昭和2年)に弁護士となる。事務所は京橋区銀座。 帝人事件、炭鉱国管疑獄、昭和電工事件、日殖事件、造船疑獄といった汚職事件の弁護人を務めた。 1955年(昭和30年)東京弁護士会会長に就任。日本弁護士連合会副会長を務めた。
中部 謙吉(なかべ けんきち、1896年(明治29年)3月2… 中部 謙吉(なかべ けんきち、1896年(明治29年)3月25日 - 1977年(昭和52年)1月14日)は大正~昭和期(1920年代後半~1970年代前半)の実業家。大洋漁業(現・マルハニチロ)元社長。プロ野球チーム・大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の元オーナー。父は林兼商店(大洋漁業の前身)創業者の中部幾次郎。 1880年に父・幾次郎が起こした林兼商店に入社した謙吉は1924年に28歳で常務に就任、終戦前の1945年には大洋漁業の副社長まで出世した。戦後の公職追放で謙吉は大洋漁業の経営から退き、兄の兼市が2代目の社長となった。1952年に公職追放令が解かれると、謙吉は大洋漁業の副社長に復帰し、1953年に兄の兼市が急死すると、大洋漁業の社長に就任した。
曽我 梶松(そが かじまつ、1896年(明治29年)3月24… 曽我 梶松(そが かじまつ、1896年(明治29年)3月24日 - 1968年(昭和43年)7月20日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 愛媛県出身。曽我保太郎の四男として生まれる。愛媛師範学校、東京高等師範学校を経て、1923年、京都帝国大学経済学部独逸経済科を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、内務省に入り、愛知県属となり内務部地方課兼産業部農務課に配属された。 以後、愛知県宝飯郡長、同知多郡長、愛知県事務官、京都府事務官、香川県書記官・経済部長、内務省社会局経理課長、同局組合課長、厚生省保険院社会保険局庶務課長、同体力局企画課長、軍事保護院援護局長などを歴任。 1942年10月、三重県知事に就任。
伊藤 正文(いとう まさぶみ、1896年3月23日 - 19… 伊藤 正文(いとう まさぶみ、1896年3月23日 - 1980年12月3日)は、日本の建築家。旧制・大阪商科大学や大阪市立美術館などの作品で知られる。学位は、工学博士(早稲田大学・1939年)。 大阪市建築課長として、学校施設・美術館などを多く手掛けた建築家。辰野片岡建築事務所を経て大阪市技師着任。退職後、大阪市立大学家政学部教授を務める。作品には、旧制・大阪商科大学昭和初期学者群、大阪市立美術館(実施設計監理)などがある。 千葉県出身。早稻田大學高等豫科理工科を経て、1917年に早稻田大學大學部理工科建築学科を得業(現在の早稲田大学創造理工学部建築学科を卒業)、学業優秀賞を受賞。大阪市技手を経て、1919年に片岡建築事務所入所。
毛山 森太郎(けやま もりたろう、1896年〈明治29年〉3… 毛山 森太郎(けやま もりたろう、1896年〈明治29年〉3月23日 - 1986年〈昭和61年〉6月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県北宇和郡立間村柏木(吉田町を経て現宇和島市)出身。愛媛県立宇和島中学校(現・愛媛県立宇和島東高等学校)中退。農業を営み、立間村助役、同村長、愛媛県議、四国電気(株)重役、同参事会員、北宇和郡畜産組合長、南予乾繭販売利用組合会長となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では愛媛3区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。1951年追放解除。1986年死去。
落合 豊一(おちあい とよかず、1896年3月22日 - 1… 落合 豊一(おちあい とよかず、1896年3月22日 - 1958年10月2日)は、日本の経営者。第3代日商社長。 徳島県生まれ。1917年神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業、鈴木商店入社。鈴木商店シアトル支店に勤務し、1918年には日本人初のシカゴ商品取引所メンバーとなった。1928年日商入社、1954年日商社長。1958年逝去、正六位勲四等瑞宝章。
森本 覚丹(もりもと かくたん、1896年3月22日 - 1… 森本 覚丹(もりもと かくたん、1896年3月22日 - 1996年1月1日)は、日本の音楽評論家、文筆家、翻訳家。山口県、現在の宇部市出身。早稲田大学露文科中退。シベリウスの曲に感銘を受け、叙事詩『カレワラ』を約8年間かけて翻訳した。1937年、フィンランド政府より白バラ一等勲章を贈られる。1945年春、郷里に帰り、山口大学・山口芸術短期大学で美学・音楽史を教える。1970年、勲四等瑞宝章叙勲。妻は森本ヤス子。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
亀井 凱夫(かめい よしお、1896年(明治29年)3月21… 亀井 凱夫(かめい よしお、1896年(明治29年)3月21日 - 1944年(昭和19年)8月10日)は、日本の海軍軍人。マリアナ航空隊司令としてグアム島で戦死し、一階級特進で最終階級は海軍少将。 1896年3月21日、東京都で父・亀井茲迪のもとに生まれる。茲迪の父は元谷田部藩第9代藩主細川興貫で、亀井氏分家の養子となっていた。兄に亀井貫一郎(外交官、衆議院議員)がいる。毛里英於菟(革新官僚)は妹の夫で義弟。父が事業に失敗し借金を背負って廃嫡し、11歳の凱夫が亀井氏分家を相続した。1908年3月、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業。1913年3月、東京高師附属中(現・筑波大附属中・高)を卒業。
野村 兼太郎(のむら かねたろう、1896年〈明治19年〉3… 野村 兼太郎(のむら かねたろう、1896年〈明治19年〉3月20日 - 1960年〈昭和35年〉6月22日)は、日本の経済学者。経済学博士。専門は経済思想史(江戸時代・経世論)。 日本学士院会員。国文学研究資料館設立発起人。他、東洋貨幣協会名誉会員、社会経済史学会を創立し代表理事等を歴任。 東京府東京市日本橋区浜町(現・東京都中央区日本橋浜町)生まれ。東京府立第三中学校を卒業後、1918年に慶應義塾大学部理財科を卒業。予科教授を経て、1923年よりケンブリッジ大学キングス・カレッジ在籍。 1937年、慶應義塾大学で「英国資本主義の成立過程」により経済学博士の学位を授与される。 1950年に日本学士院会員となり、他に慶應義塾図書館長、東京大学経済学部講師、日本学術会議会員、文部省科学研究費総合研究「近世庶民資料調査研究」委員長、文部省史料館評議会長、経済学部適格審査委員会委員長などを歴任した。
山本 勝市(やまもと かついち、1896年〈明治29年〉3月… 山本 勝市(やまもと かついち、1896年〈明治29年〉3月20日 - 1986年〈昭和61年〉8月1日)は、日本の経済学者、政治家。和歌山高等商業学校教授、衆議院議員(5期)、大東文化大学教授。和歌山県出身。 京都帝国大学経済学部卒業、経済学博士 (東京商科大学)。戦前は経済学者として和歌山高商教授や文部省国民精神文化研究所所員を務め、戦後は日本自由党の結党に参加した。『福祉国家亡国論』の著述やマルクス主義への批判、経済計算論争の紹介など、自由主義経済の推進者として知られる。 1896年(明治29年)3月20日、和歌山県東牟婁郡四村(現・田辺市)生まれ。1913年(大正2年)3月、私立京都中学校(後の新制京都高等学校、廃校)卒業。
吉田 源十郎(よしだ げんじゅうろう、1896年3月20日 … 吉田 源十郎(よしだ げんじゅうろう、1896年3月20日 - 1958年4月4日)は、高知県出身の日本の漆芸家。 1896年(明治29年)3月20日、高知県安芸町(現安芸市)に生まれる。石井吉次郎(別名、石井士口)に師事し漆芸を学んだ。1919年(大正8年)東京美術学校(現東京芸術大学)漆工科選科修了。 1921年(大正10年)東京の上野で開催された平和博覧会に作品を出品、これが注目を集めた。 以後、1928年(昭和3年)、第9回帝展(現日展)で「麦の棚」が初入選、1930年(昭和5年)第11回展「泉の衝立」および1933年(昭和8年)第14回展「トマトの図棚」が特選受賞、1937年(昭和12年)第1回文展(現日展)および1942年(昭和17年)第5回、1943年(昭和18年)第6回で文展審査員を務め、昭和17年度第6回文展出品作品である「梅蒔絵飾棚」は第2回帝国芸術院賞(現日本芸術院賞)を受賞している。
大山 秀雄(おおやま ひでお、1896年(明治29年)3月1… 大山 秀雄(おおやま ひでお、1896年(明治29年)3月19日 - 1990年(平成2年)8月20日)は、日本の実業家。京成電鉄第4代社長。 岡山県出身。旧制興譲館中学(現:興譲館高等学校)、旧制第六高等学校を経て、1920年に東京帝国大学法学部を卒業後、鉄道省に入省。1955年11月から1958年11月まで京成電鉄代表取締役社長を務めた。退任後、京成電鉄会長、日本交通協会会長を務めた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
谷村 貞治(やむら ていじ、1896年3月19日 - 196… 谷村 貞治(やむら ていじ、1896年3月19日 - 1968年4月20日)は、日本の実業家、政治家、教育者、発明家。 株式会社新興製作所の創業者、谷村学院専門学校および谷村学院高等学校(現・花巻東高等学校)創立者。参議院議員2期、自由民主党岩手県連会長、岩手県政顧問、岩手県経営者協議会長、岩手県体育協会会長などを歴任。テレプリンターの開発により技術立国の礎を築き「みちのくの電信王」などと呼ばれ、地元の産業振興・発展に貢献した。 岩手県稗貫郡新堀村(後の石鳥谷町、現・花巻市)出身。1916年に神田の電機学校(現・東京電機大学)を卒業後、逓信省へ入省。約10年間勤務した後、民間会社へ転職。 自立自営の志を叶えるべく、1937年6月東京市蒲田区(現・東京都大田区蒲田)に旧陸海軍指定管理工場である新興製作所を設立。
小野田 千代太郎(おのだ ちよたろう、1896年(明治29年… 小野田 千代太郎(おのだ ちよたろう、1896年(明治29年)3月18日- 1944年(昭和19年)1月11日)は、日本の囲碁棋士。東京出身、方円社、日本棋院、棋正社などに所属、八段。院社対抗戦などで活躍し、強腕で鬼田強太郎の異名を取った。登山家としても著名。 東京京橋に金融業を営む父を持って生まれ、8歳頃から父が打っているのを見て碁を覚える。9歳の時には当時14歳の加藤信に七子で打ったといい、また本因坊秀栄、吉田菊子などに教えを受け、1907年12歳から方円社塾生となる。その後関星月発起で少年囲碁会が催された際に、坊門で2歳下の小岸壮二と対戦するが4連敗で先相先に打ち込まれ、次いで頭山満の計らいで数度の十番碁を打つが定先に打ち込まれた。
佐々木 味津三(ささき みつぞう、明治29年(1896年)3… 佐々木 味津三(ささき みつぞう、明治29年(1896年)3月18日 - 昭和9年(1934年)2月6日)は、日本の小説家。佐佐木 味津三と表記されることもある。
柏原 兵太郎(かしわばら ひょうたろう、1896年3月18日… 柏原 兵太郎(かしわばら ひょうたろう、1896年3月18日 - 1952年12月8日)は、日本の鉄道官僚。 富山県出身。農業・柏原大次郎の長男として生れる。高等小学校中退、専検合格、第四高等学校を経て、1924年4月、東京帝国大学法学部を卒業した。 1923年12月、高等文官試験行政科試験に合格。翌年3月、鉄道省に入り、成東駅長、名古屋鉄道局運輸課貨物掛長などを経て、1933年9月から1935年7月まで在外研究員として欧米各国に出張した。大阪鉄道局運輸部貨物課長、鉄道省陸運監理官、鉄道調査部書記官、関東軍司令部事務嘱託(奉天在勤)、鉄道省運輸局配車課長、企画院第2部長、鉄道監、運輸通信省自動車局長などを歴任し、1944年9月、依願免官。
奥村 竹三(おくむら たけぞう、1896年(明治29年)3月… 奥村 竹三(おくむら たけぞう、1896年(明治29年)3月18日 – 1981年(昭和56年)1月31日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員(1期)。 京都府出身。1915年(大正4年)京都府師範学校を卒業した。 船井郡田原小学校訓導、同檜山小学校訓導兼校長、檜山村実業補習学校長、京都府社会教育主事補、京都府属兼視学、園部町実業補習学校長兼教諭、同実業青年学校長などを務めた。 1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙に京都府全府区から日本自由党公認で立候補して落選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙に京都府第2区から日本自由党公認で出馬して当選し、その後、民主自由党に所属して衆議院議員に1期在任した。
馬淵 美意子(まぶち みいこ、1896年〈明治29年〉3月1… 馬淵 美意子(まぶち みいこ、1896年〈明治29年〉3月16日 - 1970年〈昭和45年〉5月28日)は、日本の詩人、画家。 幼年時代より絵を志し有島生馬に師事する。二科展に4回出品し入選を果たすが、のちに絵を断念して詩作に転じる。1952年に刊行した『馬淵美意子詩集』は読売文学賞の候補となった。夫は洋画家の庫田叕。 兵庫県神戸市に生まれる。1902年(明治35年)、長崎尋常小学校へ入学した。1909年(明治42年)、鎌倉女学校へ入学し、後に卒業した。1916年(大正5年)、父親の専断により結婚し二児を得るが、1922年(大正11年)に離婚する。1926年、有島生馬に師事する。1928年(昭和3年)、二科展に初入選し、以後3回出品する。
鈴木 龍二(すずき りゅうじ、1896年3月15日 - 19… 鈴木 龍二(すずき りゅうじ、1896年3月15日 - 1986年3月30日)は、日本の新聞記者、プロ野球球団経営者・プロ野球機構運営者。日本野球連盟会長、セントラル・リーグ第3代会長。「鈴木 竜二」とも表記。