林 堅太郎(はやし けんたろう、1895年〈明治28年〉6月… 林 堅太郎(はやし けんたろう、1895年〈明治28年〉6月5日 - 1981年〈昭和56年〉2月5日)は、日本の電気工学・物理工学者、電気エネルギー工学者。大阪工業大学名誉教授。元電気工学教室担当。工学博士。京都電燈(現:関西電力)元研究員。 専門は、光工学・物理光学(のちの光エレクトロニクス)、発電/送配電工学(のちの電気エネルギー工学)、放電工学(のちのプラズマ工学)。 1920年京都帝国大学工学部卒業(指導教授:黎明期の日本の電気工学界を支えた重鎮で電気学会元会長の鳥養利三郎)。京都電燈(関西電力の前身)にて蛍光放電管・発電/配電系統の研究に従事。1950年大阪工業大学工学部電気工学科に着任、電気工学教室担当。
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鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1895年6月3日 - 1… 鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1895年6月3日 - 1970年3月4日)は、フランス文学者、日本芸術院会員。
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鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1895年(明治28年)6… 鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1895年(明治28年)6月3日 - 1970年(昭和45年)3月4日)は、日本のフランス文学者、東京大学名誉教授、日本芸術院会員。 1895年(明治28年)、神田川の川口に近い神田佐久間町で米問屋を営んでいた富裕な家庭に生まれた。父・鈴木政次郞の二男。東京女子師範附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)に通った。1908年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業し、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に進学・中学校では、諸橋轍次が担任であった。1913年に卒業し、直ちに第一高等学校第一部丁類(仏語法科)に進み、翌年よりボードレールの『悪の華』翻訳に取り組んだ。
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長嶺 喜一(ながみね きいち、明治28年(1895年)6月2… 長嶺 喜一(ながみね きいち、明治28年(1895年)6月2日 - 昭和20年(1945年)11月15日)は、大正、昭和期の日本の陸軍軍人。新潟県頸城郡寺野村東山寺(現在の新潟県上越市板倉区)出身。陸士28期・陸大36期。最終階級は陸軍中将。 明治28年(1895年)6月2日、新潟県頸城郡寺野村(現在の上越市板倉区)に三男三女の長男として生まれる。喜一は、明治35年(1902年)4月寺野村立久々野尋常高等小学校に入学、同41年(1908年)同校を卒業し、有恒学舎(現在の新潟県立有恒高等学校)に入学する。往復四里の道を通学、帰宅後は農業を手伝うなどの努力家であり、周囲からは大変な頑張り屋として知られていた。
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佐藤 賢了(さとう けんりょう、1895年(明治28年)6月… 佐藤 賢了(さとう けんりょう、1895年(明治28年)6月1日 - 1975年(昭和50年)2月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1895年(明治28年)6月1日、石川県河北郡花園村字今町(現・金沢市今町)に生まれる。 1914年(大正3年)に金沢第一中学校(中学校同期には海軍少将中堂観恵(海兵44期)・海軍大佐橘正雄(海兵45期)が在籍した)を卒業し陸軍士官学校へ入学、1917年(大正6年)5月、官報によると第29期を257番/536名の成績で卒業。このクラスからは1番の河村参郎(中将、第224師団長)、3番の有末精三(中将、参謀本部第2部長)、6番の後藤光蔵(中将、第1総軍参謀副長)、11番の鎌田銓一(中将、第2野戦鉄道司令官)、27番の稲田正純(中将、第16方面軍参謀長兼西部軍管区参謀長)、46番の額田坦(中将、陸軍省人事局長)など昭和の陸軍を牽引した多くの人物を輩出している。
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杉山 平助(すぎやま へいすけ、1895年6月1日 - 19… 杉山 平助(すぎやま へいすけ、1895年6月1日 - 1946年12月21日)は、昭和初期の文芸評論家。 父杉山岩三郎(1841年 - 1913年)の庶子として生まれる。岩三郎は岡山藩士の家の生まれで、第二十二国立銀行や岡山紡績所の設立に関与した後に中国鉄道社長などを歴任し、「備前西郷」と呼ばれた実業家だった。芸妓だった母の宇野を1歳で失い、大阪市の八百屋の子として養育されたのち、7歳で東京の料理屋旅館「鯛屋」に引き取られ、岩三郎が宇野没後に落籍した若い芸妓に育てられる。 明治35年、尋常小学校3年のときに伯父稲垣洋一郎の子・稲垣平助として慶應幼稚舎に転入、寄宿舎で暮らす。明治44年に父を訪ねて認知を乞い、杉山平助となる。
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林 倭衛(はやし しずえ、1895年6月1日 - 1945年… 林 倭衛(はやし しずえ、1895年6月1日 - 1945年1月26日)は、大正から昭和にかけての日本の洋画家。浦和画家。 長野県小県郡上田町(現・上田市)の生まれ。父が製糸工場経営に失敗し、小学校に通い始めた倭衛と弟を実家の小林家に預けたまま東京に逃げたため、倭衛は小学校6年を終えてから上京し、15歳頃から書店や印刷会社に勤める。両親の他に弟3人と妹一人の生計を支えるために苦慮した。明治44年(1911年)4月から大下藤次郎が主宰する日本水彩画研究所の夜間部に入って絵の勉強を始め、丸山晩霞の指導を受けた。大正2年(1913年)7月から道路人夫として働きながら、サンジカリズム研究会に加わり、大杉栄ら無政府主義者と交流するようになる。
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下地 玄信(しもじ げんしん、明治27年(1894年)6月3… 下地 玄信(しもじ げんしん、明治27年(1894年)6月30日 - 昭和59年(1984年)5月23日)は、日本の公認会計士。沖縄県宮古島市出身。日本公認会計士協会初代副会長を務めた。 東亜同文書院卒業。関西公認会計士協会支部長、財団法人下地玄信育英会 の設立者でもある。 宮古島平良市の下地玄忠の長男として生まれる。小さい時から大柄でその風貌から「今西郷」と言われていた。旧制首里中学(沖縄県立首里高等学校)校卒。その後、東亜同文書院を卒業後、森恪を慕って三井物産に入社後、三井三池炭鉱で働く。連隊で一年志願兵として従軍し、退社後、鉱山業失敗で100万円の負債を抱えるも保険会社の外交員として関西経済界で頭角を現す。
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小寺 敬一(こでら よしかず、1894年6月29日 - 19… 小寺 敬一(こでら よしかず、1894年6月29日 - 1951年9月16日)は、日本の経営学者。関西学院高等商業学部教授。大丸百貨店監査役、神戸ゴルフ倶楽部理事。族籍は兵庫県士族。兵庫県多額納税者。氏の本宅については本記事の「邸宅」の節及び「日本一の富豪村・住吉村」を、別荘は「六甲山荘」の記事を参照。 第10代学校法人関西学院院長の小寺武四郎、元ユニチカ社長の小寺新六郎は甥。 大日本紡績監査役の小寺成蔵の長男として生まれる。 1912年、兵庫県立第一神戸中学校を卒業し、関西学院高等学部に進学し、同学部商科第1期卒業生(16年)12名の一人となった。その後、アメリカ・インディアナ大学、コロンビア大学に留学する。
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中澤 佑(なかざわ たすく、1894年(明治27年)6月28… 中澤 佑(なかざわ たすく、1894年(明治27年)6月28日 - 1977年(昭和52年)12月22日)は、日本の海軍軍人。海兵43期、海大26期。最終階級は海軍中将。戦時中は特攻作戦を承認し強く推進した責任者でもある。「日本海軍の提督でもっとも有能かつ潔癖な人物」と評される一方で、終戦時には部下に「俺は死ぬ係じゃないから」と発言したことでも知られる。 1894年(明治27年)6月28日、長野県諏訪郡豊田村(現諏訪市)で農業・染色を営む父・忠助のもとに生まれる。中澤宗家は代々諏訪藩右筆だったが、明治維新により帰農した。父・忠助は豊田村村長も務めた。旧制長野県諏訪中学校を経て1912年(大正元年)9月9日、海軍兵学校第43期に100名中71番の席次で入校。
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武井 武雄(たけい たけお、1894年6月25日 - 198… 武井 武雄(たけい たけお、1894年6月25日 - 1983年2月7日)は、童画家、版画家、童話作家、造本作家である。 童話の添え物として軽視されていた子供向けの絵を「童画」と命名し、芸術の域にまで高めた。武井武雄の童画は、大胆な構図や幾何学的な描線によって、モダンかつナンセンスな味わいを感じさせ、残された作品はいまもって古びていない。『コドモノクニ』をはじめとした児童雑誌の挿画、版画、図案(デザイン)、おもちゃの研究・創作「イルフ・トイス」、本自体を芸術作品と捉えた「刊本作品」、童画批評など多岐多彩な分野で作品を残した。 収集癖があり、日本全国の郷土玩具や郷土菓子を集め、郷土菓子169点について『日本郷土菓子図譜』(3巻)をまとめている。
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沼田 政矩(ぬまた まさのり、1894年(明治27年)6月2… 沼田 政矩(ぬまた まさのり、1894年(明治27年)6月24日 - 1979年(昭和54年)5月9日)は、大正から昭和時代の土木工学者、鉄道官僚。 鳥取県に生まれる。1919年(大正8年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、鉄道院総裁官房研究所に入る。同研究所および鉄道省教習所の講師を務めたのち、1926年(大正15年)同省神戸改良事務所に転じ、1928年(昭和3年)から2年間、在外研究員として欧米へ留学した。1933年(昭和8年)鉄道大臣官房研究所に戻り、第四科長、1942年(昭和17年)鉄道技術研究所第二部長兼東京帝国大学第二工学部教授、1945年(昭和20年)鉄道技術研究所長を歴任し、同年退官した。
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郡山 義夫(こおりやま よしお、1894年(明治27年)6月… 郡山 義夫(こおりやま よしお、1894年(明治27年)6月23日 - 1987年(昭和62年)3月26日)は、日本の内務・警察官僚。官選長野県知事、海軍司政長官。旧姓・山本。 石川県金沢市出身。山本久房の二男として生まれ、郡山富次郎の養子となる。第一高等学校を卒業。1922年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し長野県属となる。 以後、長野県警部、同警視、佐賀県書記官・警察部長、鹿児島県書記官・警察部長、岡山県書記官・経済部長、福岡県経済部長、岐阜県総務部長、大阪府書記官・学務部長、内務書記官などを歴任。1941年6月から1943年1月まで海軍司政長官・海南島海軍特務部経済局長を務めた。
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竹鶴 政孝(たけつる まさたか、1894年6月20日 - 1… 竹鶴 政孝(たけつる まさたか、1894年6月20日 - 1979年8月29日)は、広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市)出身の日本の実業家。ウイスキー製造者、技術者。会社経営者。ニッカウヰスキーの創業者であり、サントリーウイスキーの直接的始祖、マルスウイスキーの間接的始祖でもある。これらの業績から「日本のウイスキーの父」と呼ばれる。 竹鶴という苗字は、家(現在の竹鶴酒造)の裏にあった竹林に鶴が巣を作ったことから由来している。ニッカウヰスキーが親会社(アサヒビール)に機能子会社化されるまで大株主であった元オーナー一族の竹鶴威は養子(実の甥)にあたる。 1923年、鳥井信治郎に招かれ寿屋(現在のサントリー)山崎工場(現 山崎蒸溜所)初代工場長として、日本初の本格スコッチ・ウイスキー製造を指揮。
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岡部 弥太郎(岡部 彌太郎、おかべ やたろう、1894年6月… 岡部 弥太郎(岡部 彌太郎、おかべ やたろう、1894年6月20日 - 1967年3月14日)は、昭和期に活躍した日本の心理学者、教育者。東京大学教授、立教大学教授、国際基督教大学教養学部教授、上智大学文学部教授。幼少教育の先駆者であり、教育心理学の分野で多くの業績をあげた。 長野県北佐久郡春日村(現・佐久市)出身。1919年(大正8年)、東京帝国大学文学部哲学科を卒業。同年、同大学助手となり、女子英学塾(現・津田塾大学)、立教大学の各講師を兼務する。 1930年(昭和5年)、東京大学助手を辞め、立教大学教授に就任。教育学、教育史を講じ、心理学演習を担当した。1935年(昭和10年)からは、東京大学に戻り助教授となり、1948年(昭和23年)に東大教授となった。
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藤音 得忍(ふじおと とくにん、1894年(明治27年)6月… 藤音 得忍(ふじおと とくにん、1894年(明治27年)6月19日 - 1972年(昭和47年)2月29日)は、第30代浄土真宗本願寺派総長、同派教尊寺11代住職。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
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古村 誠一(こむら せいいち、1894年6月18日 - 19… 古村 誠一(こむら せいいち、1894年6月18日 - 1960年3月9日)は、日本の実業家。三菱金属鉱業(現・三菱マテリアル)代表取締役社長、日本電子金属(現・SUMCO)代表取締役社長を務めた。 長野県上伊那郡朝日村(現・辰野町)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1917年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。三菱鉱業(現・三菱マテリアル)小樽支店長(小樽支店での部下に斎藤英四郎がいた。)を経て、1950年三菱金属鉱業(現・三菱マテリアル)取締役副社長、1956年代表取締役社長。その他、日本電子金属(現・SUMCO)代表取締役社長、三菱油化(現・三菱ケミカル)取締役、大日本塗料取締役を務めた。
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谷口 恒二(たにぐち つねじ、1894年(明治27年)6月1… 谷口 恒二(たにぐち つねじ、1894年(明治27年)6月18日 - 1945年(昭和20年)5月26日)は、日本の大蔵官僚。大蔵次官、日本銀行副総裁。
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荒木 義夫(あらき よしお、1894年6月17日 - 198… 荒木 義夫(あらき よしお、1894年6月17日 - 1984年2月5日)は、日本の内務官僚。県知事、台湾総督府警務局長。 兵庫県出身。荒木矩の長男として生まれる。第三高等学校を経て、1919年京都帝国大学法学部法律学科卒業。伊藤忠に入り、1921年、内務省特殊財産管理局嘱託となる。1922年11月、高等試験行政科試験に合格し内務属となる。 以後、福井県警視、鹿児島県・福井県の各地方事務官、三重県工場監督官、山梨県書記官・警察部長、長野県書記官・警察部長、神奈川県書記官・警察部長、大阪府書記官・警察部長、警視庁警務部長などを歴任。 1939年9月、徳島県知事に就任。1940年12月に退任し、台湾総督府に転じ警務局長となる。
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金 度演(キム・ドヨン、朝鮮語: 김도연、1894年6月16… 金 度演(キム・ドヨン、朝鮮語: 김도연、1894年6月16日 - 1967年7月19日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。二・八独立宣言、朝鮮語学会事件で検挙された。本貫は永川金氏、号は常山(サンサン、상산)。 京畿道陽川郡の陽東面(金浦郡を経て現・ソウル特別市江西区)にて誕生。父は金鍾遠、母は草渓鄭氏。次男として誕生。7歳の頃から漢字を学習。太極学校で初等教育を受け、普成中学校に進学。 1913年に日本に留学し、錦城学校尋常中学校3年生に編入学。「半島中学会」という組織を作って活動。卒業後は慶應義塾大学部理財科に入学。朝鮮系留学生による組織『朝鮮留学生学友会』で総務として各種活動を主導。
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水木 京太(みずき きょうた、1894年(明治27年)6月1… 水木 京太(みずき きょうた、1894年(明治27年)6月16日 - 1948年(昭和23年)7月1日)は、日本の劇作家、演劇評論家である。水木京太は筆名で、本名は七尾 嘉太郎(ななお かたろう)。声優の草分けである女優の七尾伶子は実娘である。 秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)大町中丁の旧家に、町会議員を何度も務めた七尾重兵衛の長男として生まれる。慶応義塾大学に入学後文学を専攻し、在学中に小山内薫に師事した。盲腸による腹膜炎で一年休学。大正8年(1919年)卒業。 資生堂の嘱託となり、大正9年(1920年)から同14年(1925年)まで『三田文学』の編集に携わりつつ、慶応義塾大学講師として劇文学を担当。
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相田 岩夫(あいだ いわお、1894年〈明治27年〉6月14… 相田 岩夫(あいだ いわお、1894年〈明治27年〉6月14日 - 1982年〈昭和57年〉10月6日)は、戦前日本の大蔵官僚。日本銀行理事・監事、日本出版販売会社社長。 山形県出身。特定郵便局長相田広吉の二男として生まれた。米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)、第一高等学校を卒業。1918年(大正7年)10月、高等試験行政科試験に合格。1919年(大正8年)7月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。大蔵省に入省し大蔵属に任官し銀行局に配属された。 以後、財務書記・米国駐在、司税官・千葉税務署長、幸橋税務署長、大蔵事務官・銀行局配属、銀行検査官などを歴任。帝人事件で検挙され1934年(昭和9年)5月に休職したが、冤罪事件のため1937年(昭和12年)12月に無罪判決を受けて復職。
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北川 千代(きたがわ ちよ、1894年6月14日 - 196… 北川 千代(きたがわ ちよ、1894年6月14日 - 1965年10月14日)は、日本の児童文学作家。筆名に松平鏡子、松平千代子、江口千代、大久保千代子、露おく籬、露子、露香。 没後、日本児童文学者協会により「北川千代賞」が創設された。同賞は1969年から1982年まで存続した。 1894年(明治27年)6月14日、埼玉県榛沢郡大寄村(現・深谷市上敷免)生まれ。父親の俊は日本煉瓦製造株式会社の上敷免工場長だった。 三輪田高等女学校在学中より『少女世界』『少女の友』に投稿をはじめる。1911年(明治44年)、病気で中退するが『女学世界』より原稿を依頼され、「街はずれの記」で原稿料50円を得る。 1915年(大正4年)11月に両親の反対を押し切り、東京帝国大学在学中の小説家江口渙と結婚。
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駒村 資正(こまむら すけまさ 1894年6月14日 - 1… 駒村 資正(こまむら すけまさ 1894年6月14日 - 1969年10月22日)は、日本の実業家。政商。大正時代から昭和時代にかけて活動した。 1894年に奈良県に生まれる。1915年に大阪高商(現大阪市立大学)を卒業後、三井物産に入社。綿花を取り扱う綿花部に配属される。1919年に棉花部が東洋棉花として独立した際に移り、海外で棉花の買い付けに従事した。1931年に昭和棉花常務、1945年には江商の社長に就任した。第二次世界大戦後は政財界に面識を広げ、関西財界のみならず全国区の論客としても知られるようになり、通商産業省顧問、大阪商工会議所副会頭、日本綿花協会理事長、経団連常任理事、日本貿易振興会理事長などを歴任した。
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須永 好(すなが こう、1894年〈明治27年〉6月13日 … 須永 好(すなが こう、1894年〈明治27年〉6月13日 - 1946年〈昭和21年〉9月11日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員(2期)、強戸村会議員。香川県の「伏石事件」、新潟県の「木崎争議」とともに日本三大小作争議の1つとして有名な「強戸争議」を主導した。農民運動の指導は合法主義で、争議による処罰者を出さなかったと言われている。 群馬県新田郡強戸村大字成塚(現・太田市成塚町)に、須永伊平・つやの次男として生まれる。長男は早世したため事実上長男として育つ。実家は絽機屋を営む裕福な農家であった。地元の強戸小学校を経て、旧制群馬県立太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)に進学する。しかし、祖父・高次郎が病臥したことと、父が政治にのめり込んで武藤金吉の子分となり新田郡会議員となって家庭を顧みなくなったため、1909年(明治42年)に太田中学校を退学して農業に従事する。
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豊田 喜一郎(とよだ きいちろう、旧字体: 豐田喜一郞、18… 豊田 喜一郎(とよだ きいちろう、旧字体: 豐田喜一郞、1894年(明治27年)6月11日 - 1952年(昭和27年)3月27日)は、日本の経営者、技術者、トヨタ自動車創業者。位階は従五位。勲等は勲四等。豊田佐吉の長男。 トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)社長(第2代)、社団法人自動車技術会会長(第2代)などを歴任した。 豊田佐吉と佐原たみ(佐吉の妹の友人で最初の妻)の長男として生まれる。1892年(明治25年)から夫婦は東京市浅草外(当時の浅草区千束町)に住んでおり、里帰り出産のため静岡県敷知郡吉津村山口(現在の湖西市山口)で生まれるが、出生3か月のとき、貧困の中家庭を顧みることなく発明に没頭する夫に愛想を尽かした母親が家出したため祖父母の家で育つ。
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早田 喜稔(そうだ よしとし、1894年〈明治27年〉6月1… 早田 喜稔(そうだ よしとし、1894年〈明治27年〉6月10日 - 1975年〈昭和50年〉4月12日)は、日本の実業家。帝国化学工業社長。族籍は東京士族。 東京府出身。佐賀県士族で内務省土木技師の早田喜成の長男。1912年、東京府立第一中学校を卒業。1913年、家督を相続。 1915年、第一高等学校を卒業。1918年、東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業。新田ベニヤ製造所重役を経て1935年、帝国化学工業を創立。 趣味は読書、打球、テニス、ゴルフ。宗教は曹洞宗。住所は東京府東京市大森区(現・東京都大田区)田園調布。 早田家は代々の佐賀藩士で、父祖は槍術指南役を務めた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
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坂本 龍起(さかもと たつき、1894年(明治27年)6月7… 坂本 龍起(さかもと たつき、1894年(明治27年)6月7日 - 1969年(昭和44年)11月1日)は、日本の外交官。駐ペルー公使。 福岡県福岡市出身。旧福岡藩士の坂本百太郎と母チョウ(同藩士の池田良助の長女)の長男として生まれる。父百太郎は炭鉱王・貝島太助が宮田町の貝島炭鉱に設立した私立大之浦小学校の教員を務めていた。 1914年、第一高等学校大学予科卒業。1916年(大正5年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。 外務属、外務事務官、外交官補、アメリカ合衆国大使館三等書記官、アルゼンチン公使館三等書記官、同二等書記官、ブエノスアイレス領事、モンテビデオ領事、廈門領事・台湾総督府事務官、外務書記官・拓務書記官、通商局第三課長、同第二課長、亜米利加局第一課長、同第二課長などを歴任。
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岡野 繁蔵(繁藏、おかの しげぞう、1894年(明治27年)… 岡野 繁蔵(繁藏、おかの しげぞう、1894年(明治27年)6月4日 - 1975年(昭和50年)7月16日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。「南洋の貿易王」と称された。 児童文学作家の岡野薫子の大伯父にあたる。 静岡県志太郡青島村南新屋(青島町を経て、現藤枝市)で、岡野和吉の二男として生まれる。高等小学校を経て私立育英学校中学科に進んだ。2年次に瀬戸川の氾濫で実家が被災したため学校を中退し、藤枝駅前の丸十運送で住み込みで働く。育英中学に教師として赴任してきた橋本清之助と知り合い、社会教育団体の修養団藤枝支部の結成に関わった。 1914年(大正3年)にスマトラの雑貨商・豊原辰熊から青年の紹介依頼を修養団の蓮沼門三を通して聞き、同年、東洋貿易に入社した。
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大久保 教尚(おおくぼ のりたか、1894年(明治27年)6… 大久保 教尚(おおくぼ のりたか、1894年(明治27年)6月3日 - 1959年(昭和34年)11月26日)は、大正から昭和期の宮内官、教育者、政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵・大久保教正の長男として生まれる。父の死去に伴い、1900年(明治33年)9月24日、子爵を襲爵した。 1921年(大正10年)東京帝国大学経済学部、1923年(大正12年)同大法学部をそれぞれ卒業し、さらに同大大学院で社会法学を研究した。 1925年(大正14年)宮内省に入省し宮内属に任官。宗秩寮勤務、式部官などを務めて1933年(昭和8年)に退官した。その後、東京商工学校講師、東京農業大学講師、日本西班牙協会理事、東京日本洪牙利協会理事などを務めた。
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佃 良一(つくだ りょういち、1894年〈明治27年〉6月3… 佃 良一(つくだ りょういち、1894年〈明治27年〉6月3日 - 1963年〈昭和38年〉12月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 兵庫県八名郡湊村(神戸市湊区を経て現兵庫区)で生まれた。1919年、早稲田大学英法科卒。神戸、須磨各税務署内所得調査委員、大阪財務局所得審査委員となる。 1929年4月25日から1937年4月24日まで神戸市会議員を務め、同年5月22日から再び神戸市会議員となる。1939年9月25日の選挙で神戸市湊区選挙区から兵庫県会議員選挙に立候補して、当選し、同月に就任した。1942年5月20日に市議を退任したが、同年6月20日に市議となった。1943年5月14日から同年7月1日まで第35代神戸市会副議長を務め、同日から1944年7月1日まで第24代神戸市会議長を務めた。
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榊原 郁三(さかきばら いくぞう、1893年〈明治26年〉6… 榊原 郁三(さかきばら いくぞう、1893年〈明治26年〉6月28日 - 1974年〈昭和49年〉9月25日) は、日本の自動車実業家、自動車技術者。位階は正五位。 榊原はアート商会を創業し、後にアート金属工業へと改組し、同社をピストン製造の大手企業へと発展させた。本田技研工業の創業者である本田宗一郎の若い時分の雇い主だったことでも知られる。(→#本田宗一郎との関係) 榊原家は武士の家系で、上田藩領主の藤井松平家に出仕し、特に財務家としての能力を代々評価され、勘定方を拝命していた。しかし、明治維新に伴い失業し、榊原郁三の父である泰一郎は手先の器用さを活かして家具職人に転身して暮らしていた。 泰一郎は「これからの世の中、科学で身を立てるがよい」を口癖としており、子である榊原も子供の頃からまず木工に親しみ、小学生の時に木製の自転車を自作して村の人々を驚かせてしまうような子供だった。
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伊藤 豊次(いとう とよじ、1893年(明治26年)6月27… 伊藤 豊次(いとう とよじ、1893年(明治26年)6月27日 - 1962年(昭和37年)11月2日)は、日本の実業家・政治家。北海道札幌市出身。伊藤組土建初代代表取締役社長。北海道庁立札幌中学校卒。 病弱だったため、進学を断念。伊藤組に入社し、同社・支配人田中銀次郎が教育。1920年に外遊し、近代的な土木建築経営を身近に見て翌年帰国。1923年父より家督を相続し、組報第一号刊行。設計部門を置き、鉄筋コンクリート造建築に脱皮を図る。組織も建築部・設計部・木材部・造材部と部制を敷き、さらに、伊藤組土建・伊藤組木材・伊藤組鉄工・伊藤組農林に発展させ設立させる。1946年、北海道多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選され、同年10月2日に就任し、同和会に所属し1947年5月2日の貴族院廃止まで在任。
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安田 三次(やすだ さんじ、1893年(明治26年)6月26… 安田 三次(やすだ さんじ、1893年(明治26年)6月26日 - 没年不明)は、昭和時代前期の官吏。東京市江戸川区長、品川区長。 古本信蔵の長男として福岡県小倉市(現北九州市小倉北区・小倉南区)に生まれ、のち安田よしの養子となる。1915年(大正4年)中央大学を卒業し三井物産に入社。1921年(大正10年)東京市に奉職し、建築局庶務掛長、土木局庶務課庶務掛長、建築課管理掛長、臨時東京市庁舎建築部庶務課長を経て、1936年(昭和11年)10月、江戸川区長に就任。1938年(昭和13年)5月まで務めたのち、市民局防衛課長、総務局市計画課長を歴任した。1942年(昭和17年)9月、品川区長となった。
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外狩 素心庵(とがり そしんあん、1893年6月25日 - … 外狩 素心庵(とがり そしんあん、1893年6月25日 - 1944年4月22日)は、日本の美術評論家。中外商業新報社学芸部長、参事を歴任。本名は外狩 顕章。愛知県安国寺第15代住職。 明治26年、愛知県生まれ。曹洞宗大学(駒澤大学の前身)、1913年(大正2年)二松学舎卒業。同年、中外商業新報社入社。美術記者となる。1924年学芸部長、1928年(昭和3年)参事を歴任。1943年嘱託。その評論批判は斯界の注目を惹き、古美術に造詣が深く、美術骨董界に貢献した。書道と南画(文人画)をよくし、また漢詩、俳句にも親しんだ。 1930年、中川紀元らにより設立された「六潮会」に参加。洋画から牧野虎雄、木村荘八、中川紀元、日本画から中村岳陵、山口蓬春、平八郎、評論家の横川殻一郎が加わる。
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実吉 雅郎(さねよし まさお、1893年(明治26年)6月2… 実吉 雅郎(さねよし まさお、1893年(明治26年)6月25日 - 1967年(昭和42年)9月4日)は東京都出身の実業家。日揮の創業者。 学習院初等科・中等科、第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科卒業。卒業後、株式会社横浜正金銀行(現在三菱東京UFJ銀行)、株式会社島商店を経て、1928年(昭和3年)10月25日に日揮株式会社の前身日本揮発油株式会社を創立。 1928年(昭和3年)10月から1966年(昭和41年)5月まで社長を務めたのち会長に就任。翌1967年(昭和42年)9月4日病気のため急逝(享年74)。 その後、遺産を寄附し、日揮・実吉奨学会前身の実吉奨学会を、1968年(昭和43年)、人材の育成と科学・技術の発展に貢献するため、理工系の学科を専攻する大学生・大学院生に対する奨学金の貸与(日本の学生対象)ならびに給与(日本国外から日本国内の学校への留学生のみを対象)、および、若手研究者への研究費助成を行うことを目的として、設立した。
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八木 助市 (やぎ すけいち、1893年 <明治26年> 6… 八木 助市 (やぎ すけいち、1893年 <明治26年> 6月24日 - 1974年 <昭和49年> 11月3日)は、日本の社会政策学者。神戸大学名誉教授。 広島県出身。1911年広島商業学校卒業。1917年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部貿易科卒業。福田徳三門下。1919年神戸高等商業学校教授。3年ほど勤めたのち、ドイツ留学し、ベルリン大学(1学期間研究生)やベルリン高等商業学校(de:Handelshochschule Berlin)で学んだ。 1929年神戸商業大学助教授。1930年神戸商業大学教授。1950年神戸大学学生部長。1954年神戸大学評議員。1957年に退官後、神戸大学名誉教授、福岡大学教授。
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高田 茂(たかだ しげる、1893年(明治31年)6月23日… 高田 茂(たかだ しげる、1893年(明治31年)6月23日 - 1958年(昭和33年))は、昭和期の政治家。長野県飯田市長。旧名は上原 悌三郎。 長野県北安曇郡池田町村(現池田町)で、上原義一郎の四男として生まれた。旧制大町中学(現長野県大町岳陽高等学校)を経て、旧制東京高等蚕糸学校卒業。1929年(昭和4年)下伊那郡上飯田町(現飯田市)の旧庄屋で長野県会議長を務めた高田茂の養子となり、同名を襲名した。 1933年(昭和8年)上飯田町会議員、1937年(昭和12年)飯田市会議員を経て、1947年(昭和22年)に施行された初の公選による飯田市長選挙で当選し、1955年(昭和30年)3月まで2期務めた。
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物部赳夫(ものべ たけお、1893年6月23日 - 1930… 物部赳夫(ものべ たけお、1893年6月23日 - 1930年7月25日)は日本ホーリネス教会ブラジル宣教師である。ブラジル福音ホーリネス教団の生みの親とされている人物。 長野県東筑摩郡宗賀村(現塩尻市)の万福寺の住職の次男として生まれる。東京鉄道学校で学び、国鉄に就職する。1915年、同僚の死を通して、求道を始め、同県上諏訪町(現諏訪市)の福音伝道館に通い、高橋俊三に導かれて、中田重治より洗礼を受ける。 1917年に聖会で献身を決意する。1918年に柏木聖書学院に入学する。1919年に卒業して物部さよと結婚して物部姓になり、小樽教会に赴任する。1922年に品川教会に転任する。 1925年にブラジル伝道を決意し、7月に日本ホーリネス教会最初の宣教師として、ブラジルのサントスに行く。
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村岡 花子(むらおか はなこ、1893年〈明治26年〉6月2… 村岡 花子(むらおか はなこ、1893年〈明治26年〉6月21日 - 1968年〈昭和43年〉10月25日)は、日本の翻訳家・児童文学者。 児童文学の翻訳で知られ、モンゴメリの著作の多くと、エレナ・ポーター、オルコットなどの翻訳を手がけた。基督教文筆家協会(現・日本クリスチャン・ペンクラブ)初代会長(在任、1952年〈昭和27年〉6月 - 1958年〈昭和33年〉10月)。 山梨県甲府市の安中逸平・てつ夫妻の長女として生まれる。本名:村岡 はな(むらおか はな)、旧姓:安中(あんなか)。 クリスチャンである父の希望により、2歳でカナダ・メソジスト派の甲府教会において小林光泰牧師より幼児洗礼を受ける。
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武井 直也(たけい なおや、1893年(明治26年)6月16… 武井 直也(たけい なおや、1893年(明治26年)6月16日 – 1940年(昭和15年)2月5日)は、日本の彫刻家。 長野県出身の彫刻家である。戸張孤雁、アントワーヌ・ブールデルに師事した。日本美術院の同人であったが、脱退して日本彫刻家協会を結成した。代表作となった『髪』は東京国立近代美術館に収蔵されている。そのほか『浴後』と『裸婦』が東京芸術大学大学美術館に収蔵されている。 長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)に生まれ、同村の篆刻家の八幡郊処の影響で彫刻家を志した。上京後、戸張孤雁に師事し、東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻本科塑像部を卒業。日本美術院展に3年連続入選した後、1924年フランスへ留学、同郷の清水多嘉示らとパリに住む。
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小林 宗作(こばやし そうさく、1893年〈明治26年〉6月… 小林 宗作(こばやし そうさく、1893年〈明治26年〉6月15日 - 1963年〈昭和38年〉2月8日)は、日本のリトミック研究者・幼児教育研究家。 群馬県吾妻郡岩島村(現・東吾妻町)出身。東京音楽学校乙種師範科(現・東京芸術大学音楽学部)卒。本名は、金子 宗作(旧姓:小林)。 1893年、群馬県岩島村の農家の三男(末子)として誕生。長姉の養子となり、金子姓となるが、基本的に小林宗作の名を用いた。 1899年、吾妻郡三島小学校入学。1907年、三島小学校高等科卒業後、代用教員として勤める。1911年、音楽教師を志して上京し、東京都新宿牛込小学校に勤務する。1916年、東京音楽学校乙種師範科(高等小学校卒業者対象の1年制課程)入学。
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田口 長治郎(たぐち ちょうじろう、1893年6月10日 -… 田口 長治郎(たぐち ちょうじろう、1893年6月10日 - 1979年5月4日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)。衆議院議員(7期)。 長崎県島原市に生まれる。長崎県立島原中学校を経て、農林省水産講習所(後に東京水産大学を経て現東京海洋大学)本科卒業。長崎県、山形、滋賀、茨城各県の水産試験場勤務。1937年農林省水産局に入る。1941年、華中水産株式会社に転職し、取締役副社長となる。戦後は長崎で共和水産株式会社を設立して社長になる。また、日本遠洋底引網漁業協会理事長、長崎県水産振興対策本部副本部長、県漁港協会会長に就任した。 1949年の第24回衆議院議員総選挙長崎1区に民主自由党から出馬し、初当選。
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酒井 忠正(さかい ただまさ、1893年〈明治26年〉6月1… 酒井 忠正(さかい ただまさ、1893年〈明治26年〉6月10日 - 1971年〈昭和46年〉2月16日)は、日本の政治家・篤志家・華族。中央農業会長、日本中央競馬会理事長、横綱審議委員会初代委員長、相撲博物館初代館長、雅楽頭系酒井家26代当主、大東文化学院総長・大東文化学院専門学校校長(第11代)などを歴任した。 備後福山藩の最後の藩主だった華族の阿部正桓伯爵の次男として生まれ、旧姫路藩主家で伯爵家の酒井家の当主酒井忠興の娘・秋子を娶り婿養子となる。1918年(大正7年)に京都帝国大学法科大学を卒業する。1923年(大正12年)9月22日に貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し1945年(昭和20年)12月17日まで務める。
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古川 龍生(ふるかわ りゅうせい、1893年6月10日 - … 古川 龍生(ふるかわ りゅうせい、1893年6月10日 - 1968年5月23日)は、日本の版画家。本名・龍夫。 栃木県下都賀郡桑村大字羽川(現在の小山市羽川)出身。栃木県立宇都宮中学校、逗子開成中学校を経て、25歳の時に東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科予科に入学した。1924年に東京美術学校日本画科を卒業した。卒業後は版画に取り組み、1924年に第6回日本創作版画協会展に木版画が入選した。東京美術学校卒業後は教師として働きながら作品を制作し、日本創作版画協会や春陽会に出品した。 1932年ロサンゼルスオリンピックの芸術競技に"A Pose of a Woman Golfer (in Reposing)"と"A Pose of a Woman Golfer (in Striking)"(ともに和題不明)と題する作品を出品し、1936年ベルリンオリンピックの芸術競技に「ゴルフ」と題する作品を出品した。
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沢田 退蔵(さわだ たいぞう、澤田退蔵とも記す。1893年6… 沢田 退蔵(さわだ たいぞう、澤田退蔵とも記す。1893年6月7日 - 1970年2月13日)は、日本の実業家。鳥取県岩井郡浦富村(現・岩美郡岩美町)出身。 オックスフォード大学卒。三菱財閥本社にはいる。その後、三菱より富士紡績に派遣され、大正14年32歳にして取締役就任、昭和19年代表取締役専務(社長に継ぐ次席幹部)に就任。鈴木商店再建のため日本商事(後の双日)設立に尽力、各務記念財団理事、後楽社社長にもなる。 終戦後、財閥解体により公職追放。混乱期の中、大山ハム、東京特殊紡績、ジャパパム・エンジニアリング・カンパニーを創業し社長を務める。日伯中央協会理事として日本・ブラジルの友好につとめる傍ら、(財)日本科学振興財団の役員(評議員)として設立に尽力する。
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酒井 忠悌(さかい ただやす、1893年〈明治26年〉6月6… 酒井 忠悌(さかい ただやす、1893年〈明治26年〉6月6日 - 1962年〈昭和37年〉11月28日)は、出羽庄内藩11代藩主、伯爵・酒井忠篤の四男。鶴城書道会会長。致道博物館顧問。東北農家研究所相談役。山形県社会教育委員。通称は小三郎、号は南荘。子に酒井忠一。 旧庄内藩酒井家当主・酒井忠篤の四男として鶴岡市家中新町に生まれる。伯父(忠篤の長兄)酒井忠恕の未亡人の瑛昌院に奉仕して桧物町邸に居住していたが、没後鷹匠町に移って、長い間酒井家の学問所・文会堂で経書を講じた。早くから漢学を赤沢源也に、漢詩と書道を黒崎研堂に学んでいて、昭和37年(1962年)3月に、松平穆堂の後を継いで鶴城書道会会長となった。
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長井 斉(ながい ひとし、1893年(明治26年)6月4日 … 長井 斉(ながい ひとし、1893年(明治26年)6月4日 - 1985年(昭和60年)12月1日)は、大正時代から昭和時代にかけての合唱指揮者。 兵庫県生まれ。1917年(大正6年)大阪音楽学校選科修了。戦前は大阪音楽学校教授を務めるかたわら関西合唱界の指導に努め、1930年(昭和5年)の関西学生合唱連盟の設立にも寄与した。 戦後の1946年(昭和21年)、関西合唱連盟の設立に尽力し、初代理事長に就任し、1969年(昭和44年)まで理事長を務めた。1948年(昭和23年)4月、学制改革により関西学院高等部音楽科教諭として着任、定年後も講師として残り1961年(昭和36年)まで勤めた。この間関西学院グリークラブをはじめとする合唱団の指導に広く携わり、第1回全日本合唱コンクール(1948年)をはじめコンクールの審査員等も務めた。
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持永 義夫(もちなが よしお、1893年6月4日 - 197… 持永 義夫(もちなが よしお、1893年6月4日 - 1979年8月31日)は、日本の内務・厚生官僚、政治家。県知事、北海道庁長官、衆議院議員。旧姓・小牧。子に衆議院議員の持永和見、自治事務次官の持永堯民。 宮崎県北諸県郡庄内村、現在の都城市出身。持永善一の養子となる。宮崎県師範学校から広島高等師範学校を経て、1921年、京都帝国大学法学部英法科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格し、内務省に入り衛生局属となる。以後、和歌山県西牟婁郡長、同県海草郡長、広島県理事官、社会局事務官、社会局社会部の福利課長・保護課長・庶務課長、厚生大臣官房会計課長、傷兵保護院業務局長などを歴任。 1939年7月、愛媛県知事に就任。
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宮前 進(みやまえ すすむ、1893年(明治26年)6月4日… 宮前 進(みやまえ すすむ、1893年(明治26年)6月4日 - 1972年(昭和47年)2月16日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、秩父市名誉市民。 埼玉県秩父郡大宮町(現:秩父市)で生まれる。1915年、東京高等商業学校を卒業。書籍雑貨商を営む。 秩父町会議員、所得税調査委員、金銭債務調停委員、商工経済会評議員を務める。 実業界では、埼玉県文具卸施設組合理事長、秩父生活必需品小売業統制組合理事長、秩父商工会議所副会頭、埼玉県信用金庫理事、埼玉県商店会連合会長、秩父市商店連盟連合会長、全日本商店会連合会理事、秩父合同運送取締役社長、宮前商店取締役社長、養成社取締役社長、秩父乳業取締役社長などを務めた。
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