古畑 種基(ふるはた たねもと、1891年(明治24年)6月… 古畑 種基(ふるはた たねもと、1891年(明治24年)6月15日 - 1975年(昭和50年)5月6日)は、日本の法医学者。医学博士。日本学士院会員。東京大学名誉教授。位階は正三位。科学警察研究所所長を務め、科学捜査の研究に寄与。日本の法医学の草分けの一人である。ABO式血液型の研究に若干の功績を残した。その一方でその鑑定方法は権威主義的であり、冤罪事件を多数作り出した御用学者と見なす向きもある。 三重県南牟婁郡相野谷村(現紀宝町)出身。古畑虎之助の次男。和歌山中学校、第三高等学校を経て1912年、東京帝国大学(医科)に入学。1916年、同大学を卒業し同大学助手となり1921年、欧米各国に留学した。
河野 悦次郎(こうの えつじろう、1891年(明治24年)6… 河野 悦次郎(こうの えつじろう、1891年(明治24年)6月15日 - 1944年(昭和19年)9月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 愛媛県出身。木工業・河野民吉の二男として生まれる。松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)卒業を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第8連隊付となる。陸軍歩兵学校付などを経て、1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業した。 1926年(大正15年)2月、参謀本部付勤務(支那班)となり、支那駐屯軍参謀を務め、1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進。1929年(昭和4年)3月、歩兵第1連隊大隊長となり、歩兵第75連隊付(竜井村駐在)、第3師団参謀、第8師団参謀を務め、1933年(昭和8年)8月、歩兵中佐に進む。
山本 卯太郎(やまもと うたろう、1891年(明治24年)6… 山本 卯太郎(やまもと うたろう、1891年(明治24年)6月15日 - 1934年(昭和9年)4月20日)は、大正末期から昭和初期の橋梁技術者。複雑な構造をもつ可動橋を得意とし、多数の跳上橋を設計。数学の手法を用いて、可動橋の動的なメカニズムを解析。新技術を開発し、独自の発展を遂げた可動橋分野を牽引した人物。 1891年(明治24年)6月に大阪で生まれる。1914年(大正3年)、名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)土木科を卒業。 1915年(大正4年)に米国に渡航して、アメリカンブリッジカンパニーに入社。シカゴを中心とする各地の可動橋の設計や製作に従事するかたわら、イリノイ大学やアーマー大学で橋梁を研究。
田中 長茂(たなか ながしげ、1891年6月11日 - 19… 田中 長茂(たなか ながしげ、1891年6月11日 - 1969年9月14日)は、日本の農林官僚、政治家。宮崎県知事を1期務めた。 宮崎県南那珂郡福島町(現・串間市)出身。宮崎県立宮崎中学校、第五高等学校、東京帝国大学法学部・農学部卒。1921年(大正10年)農商務省に入省。戦前は革新官僚として、産業組合の創立や農地改革(当時は実現せず)などに携わり、水産局長、山林局長を経て退官。 1951年(昭和26年)4月1日、第2回宮崎県知事選挙に出馬。吉見房見共に法廷得票数に達せず、決選投票。同年5月18日、宮崎県知事選決選投票で当選、宮崎県知事となる。 1953年(昭和28年)に郵政省は宮崎県に新しい民放局の周波数を割り当てたがものの、当初地元では民放設立の動きが全くなく、鹿児島県の南日本放送がこの機会を利用し宮崎市に中継局をつくろうと運動を始めていた。
伊賀 良一(いが りょういち、1891年(明治24年)6月9… 伊賀 良一(いが りょういち、1891年(明治24年)6月9日 - 1967年(昭和42年)7月16日)は、日本の内務官僚。 岡山県西北条郡西苫田村大字総社(苫田郡西苫田村を経て現津山市総社)出身。1913年(大正2年)、日本大学法科を卒業し、さらに東京外国語学校英語科に学んだ。同年、高等文官試験に合格。鉄道院書記を経て、茨城県警察部長、宮城県警察部長、秋田県内務部長、埼玉県内務部長を歴任した。 退官後、1932年(昭和7年)から1934年(昭和10年)まで京都市助役を務めた。 1949年(昭和24年)歌舞伎座の建物としては、第4期(1950年12月竣工、1951年1月開場)、株式会社歌舞伎座設立時、事務長に就任。
岩沢 忠恭(岩澤 忠恭、いわさわ ただやす、1891年6月7… 岩沢 忠恭(岩澤 忠恭、いわさわ ただやす、1891年6月7日 - 1965年12月8日)は、日本の内務及び建設官僚、教育者、政治家。位階は従三位、勲等は勲二等。建設事務次官(初代)、参議院議員(3期)、日本大学教授。 1891年(明治24年)広島県広島市仁保(現在の南区)で仁保島村村長・岩沢熊助の長男に生まれ。県立広島中学(現広島県立国泰寺高校)を経て第三高等学校卒業。 1920年、日本大学教授(道路工学)として日本大学高等工学校(現在の日本大学理工学部・大学院理工学研究科)設立に参画。同大学で長らく教鞭を執った。また内務省土木局に属し、多くの道路整備、河川の改修・維持事業に携わる。1936年着工した新京浜国道の工事事務所長としてその建設に尽力。
須田 國太郎(すだ くにたろう、1891年〈明治24年〉6月… 須田 國太郎(すだ くにたろう、1891年〈明治24年〉6月6日 - 1961年〈昭和36年〉12月16日)は洋画家。京都市立美術大学名誉教授。重厚な作風と東西技法の融合に特色。
山川 良一(やまかわ りょういち、1891年〈明治24年〉6… 山川 良一(やまかわ りょういち、1891年〈明治24年〉6月5日 - 1982年〈昭和57年〉8月19日)は、大正から昭和期の鉱山技術者、実業家、政治家。参議院議員。 長崎県出身。1915年(大正4年)九州帝国大学工科大学採鉱学科を卒業した。 卒業後、三井鉱山(現日本コークス工業)に入社し、山野鉱業所長、砂川鉱業所長、同社常務取締役などを歴任し、1947年(昭和22年)同社長に就任。その他、初代日本石炭協会長、同顧問、全国石炭復興会議議長、全国炭鉱管理委員会委員、経済復興計画委員会委員、北海道総合開発審議会委員、日本産業協議会理事、経済団体連合会(現日本経済団体連合会)理事、日本経営者団体連盟(現:日本経済団体連合会)理事、東京商工会議所議員などを務めた。
伊藤 音次郎(いとう おとじろう、1891年6月3日 - 1… 伊藤 音次郎(いとう おとじろう、1891年6月3日 - 1971年12月26日)は日本の民間航空のパイオニアである。伊藤飛行機研究所を設立し、多くの飛行家を育てるとともに、国産機の開発にも努めた。 大阪市南区(後の浪速区)恵美須町に住む伊藤岩吉の二男として1891年(明治24年)6月に生まれる。家は今宮戎を南に行った辺りで駕屋を営んでいた。1904年(明治37年)に大阪市立恵美尋常高等小学校(後の恵美小学校)を卒業し、安堂寺橋にあった銅鉄地金商の佐渡島商店に勤める。 17歳であった1908年(明治41年)11月23日、道頓堀の朝日座でライト兄弟の飛行を写した活動写真を観て飛行機に興味を持ち、1909年9月の萬朝報の「奈良原式飛行機発明」の記事に感動して奈良原三次に乗員としての採用を求める手紙を書き送った。
草皆 五沼(くさかい ごしょう、1891年6月2日 - 1… 草皆 五沼(くさかい ごしょう、1891年6月2日 - 1964年11月11日)は、日本の俳人、医師である。俳句結社「黛吟社」を興した。 秋田県山本郡浅内村(後の能代市浅内)の小川末蔵の四男として生まれる。本名は■太(ちょうた ■はウ冠に甾丁)。後、「茂作」に改名している。 旧制・秋田県立大館中学校1年生のときに地元の俳人・山崎五風から俳句の手ほどきを受け、すぐに才能を現す。のちに秋田を代表する俳誌となる『俳星』に参加し、生涯『俳星』に所属した。 中学校4年のときに脚気を患い自宅療養し、家の近くの沼の周りを散策しながら句作を続けた。沼の数が五つあったことから、このころから号を五沼と名乗り、のちに秋田県南秋田郡馬場目村(現在の五城目町馬場目)の草皆家に養子に入ったことから、後半生は草皆五沼と名乗った。
草刈 英治(くさかり えいじ、1891年(明治24年)6月1… 草刈 英治(くさかり えいじ、1891年(明治24年)6月1日 - 1930年(昭和5年)5月20日)は、日本の海軍軍人。ロンドン海軍軍縮条約に反対し自決した海軍少佐である。 草刈の遠祖は小野木公郷である。父・鉄太郎は旧会津藩士で、14歳のおり戊辰戦争における会津若松城籠城戦を戦った。長兄・雄治は東京帝国大学出身の関東都督府技師、のち九州電気軌道専務、次兄・哲治は海軍大主計(主計大尉)、二人の妹はそれぞれ同郷の陸軍将校(外井氏)、陸軍軍医(石田氏)に嫁いでいる。草刈は会津中学に学び、元来は一高志望であったが、海軍兵学校に在校していた同窓生の短剣姿に憧れ海兵進学を目指す。1910年(明治43年)、草刈は78名中3番の成績で中学を卒業する。
羽下 修三(はが しゅうぞう、1891年〈明治24年〉6月1… 羽下 修三(はが しゅうぞう、1891年〈明治24年〉6月1日 - 1975年〈昭和50年〉5月17日)は、日本の彫刻家。雅号は大化(たいか)、蜀獨楽(しょっこま)。 新潟県中蒲原郡川内村川内(現 五泉市川内)の醸造業・羽下徳八の次男として出生。 1909年(明治42年)3月に新潟中学校を卒業、第一高等学校を受験するが不合格、代用教員として新潟県の小学校に勤務、1910年(明治43年)12月に一年志願兵として村松町の陸軍歩兵第30連隊に入隊、1915年(大正4年)に結婚。 1916年(大正5年)4月に東京美術学校彫刻科木彫部に入学、高村光雲、白井雨山、大村西崖に学び、卒業して研究生になってからは北村西望、朝倉文夫、関野聖雲にも学んだ。
清水 安三(しみず やすぞう、1891年6月1日 - 198… 清水 安三(しみず やすぞう、1891年6月1日 - 1988年1月17日)は、日本の教育者・牧師。北京に崇貞学園を設立・経営。戦後に妻郁子とともに桜美林学園を創立。桜美林学園第3代理事長。 1891年、滋賀県高島郡新儀村北畑(現在の高島市)に豪農の子として生まれたが、5歳で父を亡くす。1905年、滋賀県立第二中学校(08年膳所中学校と改称)に入学。英語講師で宣教師のウィリアム・メレル・ヴォーリズからキリスト教の感化を受け、1908年に受洗。1910年、同志社神学校に進学。同志社在学中、宣教師ホラース・ピットキン(en:Horace Tracy Pitkin)の殉教の話(義和団事件で死去)に感銘を受けた。
山田 璋(やまだ しょう、1891年6月1日-1985年7月… 山田 璋(やまだ しょう、1891年6月1日-1985年7月9日)は、日本の弁護士。第二東京弁護士会(二弁)会長、日本弁護士連合会(日弁連)副会長。二弁内会派清友会の長老格だった。 岡山県と鹿児島県出身(後述の父が1901年に鹿児島の第七高等学校造士館 (旧制)教授となったため)。1908年、鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)卒業。第一高等学校 (旧制)大学予科へ進学して1912年7月に卒業し、東京帝国大学法科大学独法科を1916年に卒業(法学士)。二松學舍中退。大学卒業後日清汽船に入社し上海支店勤務となるが間もなく退職し、中国製鉄取締役、藝備銀行監査役を歴任。 1920年に弁護士登録し、1926年に弁護士開業。
細田 源吉(ほそだ げんきち、1891年6月1日 - 197… 細田 源吉(ほそだ げんきち、1891年6月1日 - 1974年8月9日)は、日本の小説家。 東京市麻布生まれ。旧姓は池田。すぐに埼玉県川越町(現:川越市)の細田丑太郎の養子に出され長男として川越で成長する。1915年、早稲田大学英文科卒。大学の同じクラスには宮島新三郎、植村宗一(直木三十五)、青野季吉、田中純、西条八十、細田民樹、木村毅らがいた。1918年に早稲田文学に処女作『空骸』を発表、1922年に自伝的長編小説『罪に立つ』で成功する。1924年には自叙伝ともいえる『はたち前』を発表し、川越での生活を現実主義的に描いた。弱者を描いた小説で知られ、日本プロレタリア作家同盟に加盟しプロレタリア文学の作家として『誘惑』(1927年)などで活躍する。
鈴木 正吾(すずき しょうご、1890年(明治23年)6月3… 鈴木 正吾(すずき しょうご、1890年(明治23年)6月30日 – 1977年(昭和52年)6月1日)は、大正から昭和期の政治家・ジャーナリスト。衆議院議員、愛知県豊川市長。旧姓・渥美。 愛知県碧海郡志貴村(矢作町を経て現岡崎市)で渥美半五郎の三男として生まれた。1899年(明治32年)宝飯郡佐脇村下佐脇村(御津村、御津町を経て現豊川市)の鈴木金次郎家を相続。1907年(明治40年)学生団体・丁未倶楽部に加わり第一次護憲運動で反桂内閣として活動した。1914年(大正3年)明治大学政治科を卒業した。 卒業後は読売新聞記者を経て、雑誌『第三帝国』編集長、雑誌『大観』編集長などを務める。1915年(大正4年)2月から3月にかけて大隈伯後援会遊説部員として第12回衆議院議員総選挙で遊説を行った。
尾崎久彌(おざき きゅうや、1890年6月28日 - 197… 尾崎久彌(おざき きゅうや、1890年6月28日 - 1972年6月2日)は、国文学者。近世文学、浮世絵、書誌学が専門。死後、江戸文学関係書など、約一万点の蔵書が名古屋市の蓬左文庫に寄贈された。 1890(明治23)年6月28日に愛知県名古屋市に生まれる。愛知一中(現在の旭丘高校)に通ったのち、國學院大學へと進学する。このときから文章を書き始める。卒業後は愛知県へと戻り、愛知一中、豊橋中学(現在の時習館高校)などで教鞭をとる。のちに国学院大の講師、東邦高校の教師を勤め、1953年からは名古屋商科大学教授となるなど教育者としても幅広く活動した。晩年は名古屋市文化財調査委員会の委員長も務めている。 教育に尽力した傍ら、創作活動や浮世絵の収集、江戸軟派文学の研究を行っており、特に収集家としての評価は現在でも高い。
郡 虎彦(こおり とらひこ 1890年(明治23年)6月28… 郡 虎彦(こおり とらひこ 1890年(明治23年)6月28日 - 1924年(大正13年)10月6日)は、東京府出身の日本の劇作家。萱野二十一(かやの はたかず)の筆名でも知られる。虎彦はまた、ダンヌンツィオの『秋夕夢』を日本に翻訳紹介し、三島由紀夫に大きな影響を与えた。 東京府東京市京橋区南八丁堀(現在の東京都中央区湊)にて、鈴木耕水(私塾経営者)・錫(すず、旧姓石渡)夫妻の六男として誕生。生後まもなく母方の叔母夫婦の養嗣子となる(ただし入籍は5歳の時)。養父の郡寛四郎は幕末の会津藩家老・萱野長修の三男で日本郵船の最古参の船長。実母と養母が石渡家出身の姉妹で、石渡荘太郎は郡の従弟である。 3歳から養父の勤務地である神戸市に育ち、神戸幼稚園から神戸尋常小学校に進む。
間宮 不二雄(まみや ふじお、1890年(明治23年)6月2… 間宮 不二雄(まみや ふじお、1890年(明治23年)6月26日 - 1970年(昭和45年)10月24日)は、日本の実業家。日本で最初の図書館用具商社を開く。図書館用品製造販売業者である間宮商店を創業した。 東京市本郷区(現在の東京都文京区)の旧旗本の家に生まれる。生母はいわゆる「未婚の母」であったために、戸籍上は実の祖父母の5男として記録されている。 東京高等師範学校付属小学校(現在の筑波大学附属小学校)高等科卒業後、家運が傾いたために書籍販売業の丸善に丁稚として入社する。24歳の時、担当していたタイプライターの構造を学ぶために東京府立工芸学校(現在の東京都立工芸高等学校)の夜学に通う。だが、会社側は丁稚上がりの間宮の能力を正当に評価しなかった。
高田 博愛(たかた ひろちか、1890年〈明治23年〉6月2… 高田 博愛(たかた ひろちか、1890年〈明治23年〉6月25日 - 没年不明)は、日本の実業家、鳥取県多額納税者、地主。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡県村大字福万(のち伯仙町、現・米子市)出身。高田繁太郎の二男。1918年、家督を相続、12代の主となる。農業、金融業、不動産業を営む。マルタ商会代表取締役、雲陽実業銀行、山陰土地各取締役などをつとめる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。高額所得者である。 村内に28町歩の土地を66人に小作させた。村外には約64町歩の土地があった。年の小作米も3000俵といわれ、広大な邸内に米蔵が棟を並べた。別に山林原野が村内に70町歩、村外にも同じ位あった。
三上 英夫(みかみ ひでお、1890年6月24日 - 198… 三上 英夫(みかみ ひでお、1890年6月24日 - 1982年11月6日)は、青森県出身の官僚、実業家。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
鈴木 三郎助(すずき さぶろうすけ、1890年6月23日 -… 鈴木 三郎助(すずき さぶろうすけ、1890年6月23日 - 1973年6月19日)は、日本の実業家。鈴木商店(現味の素)創業者二代目鈴木三郎助の長男で、同社代表取締役社長や、京浜急行電鉄代表取締役社長を務めた。 神奈川県三浦郡葉山町出身。1907年(明治40年)に京華商業学校(現京華商業高等学校)卒業後、東京高等商業学校(現一橋大学)に進学。第一ホテル創業者の土屋計左右は、同郷かつ東京高等商業学校の同窓で親しく、のちに鈴木家持株会社鈴木三栄の常務理事に就任した。 1908年(明治41年)、父親が池田菊苗が発明した化学調味料の製造権を取得。家族でネーミングを考えた結果、三郎(当時3代目襲名前)が提案した「味の元」が選ばれた。
城島 高次(じょうじま たかつぐ、1890年(明治23年)6… 城島 高次(じょうじま たかつぐ、1890年(明治23年)6月20日 - 1967年(昭和42年)10月9日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 佐賀県出身。佐賀中学校を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第24期)を受験し、双方に合格している。1912年(明治45年)7月、 海軍兵学校(40期)を卒業し、海軍大学校航海科で学んだ。 「満州」分隊長、運送艦「高崎」・敷設艦「勝力」・「若宮」・給油艦「尻矢」・「龍田」の各航海長、第1遣外艦隊付、「名取」「阿武隈」「羽黒」「加賀」の各航海長などを歴任。 さらに、「能登呂」「長良」「青葉」「霧島」の各副長、給油艦「鶴見」・「鳳翔」の各艦長、呉海軍航空隊司令、「翔鶴」艤装員長・初代艦長として真珠湾攻撃、ラバウル攻略、インド洋作戦、珊瑚海海戦に参加。
角倉 邦彦(すみのくら くにひこ、1890年〈明治23年〉6… 角倉 邦彦(すみのくら くにひこ、1890年〈明治23年〉6月19日 - 1981年〈昭和56年〉12月18日)は、日本の医化学者、農学博士(北海道帝国大学)。 専門は有機微量分析。蛋白質研究の権威。 東京出身。1915年東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)農芸化学科卒業。1915年東北帝国大学農科大学助手。その後、鳥取高等農業学校農芸化学科教授、東京農業大学予科専任講師、東京農業大学予科教授を経て、1925年東京農業大学農学部専任講師。1927年鳥取高等農業学校教授。1929年5月論題「日本産漆の酸化酵素ラクセーゼに就て」で北海道帝国大学にて農学博士受く。1942年鳥取高等農林学校教授。1944年から1949年まで鳥取農林専門学校の3代校長を務めた。
江川 為信(えがわ ためのぶ、1890年6月18日 - 19… 江川 為信(えがわ ためのぶ、1890年6月18日 - 1969年10月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、石川県議会議員(5期)、石川県農業会長。 1890年、石川県石川郡額村に生まれる。野々市小学校を卒業。1927年県議選に当選し、1944年に辞職するまでつとめる。その間、石川県名誉職参事会員に5回も選出され、政友会石川支部の幹事長にもなった。また、多年に渡って農政に尽くし、1935年に石川郡農会長に、1943年から1947年までは石川県農業会長も歴任した。
長 基連(ちょう もとつら、1890年(明治23年)6月16… 長 基連(ちょう もとつら、1890年(明治23年)6月16日 - 1954年(昭和29年)6月6日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧名・本多恭。 旧加賀藩家老・本多政以の二男として生まれる。男爵・本多政樹の弟。従兄の男爵・長克連の死去に伴い家督を継承し、1901年(明治34年)6月7日、男爵を襲爵した。その後、前名・恭を基連と改名した。 1915年(大正4年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1917年(大正6年)三井銀行に入行する。以後、龍王山金山取締役、第一機罐保険社長、東邦物産会頭などを務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、1939年(昭和14年)7月9日まで2期在任した。
永田 昌綽(ながた まさのぶ、1890年6月15日 - 19… 永田 昌綽(ながた まさのぶ、1890年6月15日 - 1975年7月25日)は、日本の実業家。北海道拓殖銀行頭取を生え抜きとして初めて務めた。 島根県出身。1917年に東京帝国大学を卒業し、北海道拓殖銀行に入行。取締役を経て、1941年から1947年までに頭取を務めた。 北海道曹達会長、北海道商工会議所顧問、北海道クラブ相談役などを歴任した。 1960年に藍綬褒章を受章し、1971年4月に勲二等瑞宝章を受章した。 1975年7月25日、腎不全のために死去。85歳没。
宇都宮 新八郎(うつのみや しんぱちろう、1890年6月15… 宇都宮 新八郎(うつのみや しんぱちろう、1890年6月15日 - 1952年1月7日)は、現在の栃木県鹿沼市出身で出羽海部屋(当時は出羽ノ海部屋)に所属した大相撲力士。本名は上沢 新七郎。現役時代の体格は182cm、98kg。最高位は前頭2枚目。話のうまさで知られ、明治 - 大正期の相撲界の語り部として代表的な存在であった。 常陸山の出羽ノ海に入門、1907年1月初土俵を踏む。1912年5月新十両。1913年5月新入幕。立ち合いのさまは実に精悍で、長身を生かした突っ張り、吊りで責める取り口は豪快だが粗雑で、幕内下位で2度の8勝2敗がある以外は2 - 6勝の成績に終始した。現役時代を通して上の名前の改名はなかったが、下の名前については現役前期には本名と同じ「新七郎」を名乗っていたが、1916年1月「新八郎」、同年5月「新七郎」とし、1917年1月からの現役後期には引退まで「新八郎」を名乗った。
天野 修一(あまの しゅういち、1890年(明治23年)6月… 天野 修一(あまの しゅういち、1890年(明治23年)6月15日 - 1976年(昭和51年)12月1日)は、日本の発明家・実業家。アマノ株式会社の創設者。子息に立命館大学名誉教授・学校法人立命館元総長の天野和夫。 三重県鈴鹿郡石薬師村(現在の三重県鈴鹿市石薬師町)出身。1911年(大正元年)、23歳の時に「A式綴紙器」を発明して特許を取得。1931年(昭和6年)、東京蒲田に天野製作所を設立してタイムレコーダー・気象用計器の製造を開始した。1938年(昭和13年)に海軍から雷道計の開発・製造を請け負い横浜菊名に新工場を建設し、1942年(昭和17年)には海軍管理工場に指定されて本社を菊名工場に移転したが、敗戦により工場閉鎖。
田村 廿三郎(たむら はたさぶろう、1890年〈明治23年〉… 田村 廿三郎(たむら はたさぶろう、1890年〈明治23年〉6月13日 - 1961年〈昭和36年〉1月6日)は、日本の内科医、実業家、政治家。イチジク製薬創業者・初代社長。「イチジク浣腸」の考案者。 新潟県中蒲原郡鷲巻村大字西笠巻(現 新潟県新潟市南区西笠巻)の医師・田村篤司の三男として出生。 1909年(明治42年)3月に新潟中学校を卒業、1914年(大正3年)9月に千葉医学専門学校医学科に入学、1918年(大正7年)5月に同校を卒業。 千葉県東葛飾郡市川町大字市川字上出口(現 千葉県市川市市川)の吉岡医院に勤務したのち、1920年(大正9年)に東京府南葛飾郡瑞江村大字上今井(現 東京都江戸川区江戸川)に田村医院を開業。
山内 得立(やまうち とくりゅう、1890年〈明治23年〉6… 山内 得立(やまうち とくりゅう、1890年〈明治23年〉6月12日 - 1982年〈昭和57年〉9月19日)は、日本の哲学者。京都学派の哲学者。文化功労者。京都大学名誉教授。元京都学芸大学学長。西田幾多郎の弟子の一人。形而上学者として比較哲学の著しい貢献。主書は『ロゴスとレンマ』(1974)である。 奈良県生まれ。旧姓中川。京都帝国大学で西田幾多郎に師事した後、ドイツのフライブルク大学に留学しエトムント・フッサールとマルティン・ハイデッガーに師事。留学中に左右田喜一郎の推薦により東京商科大学(後の一橋大学)助教授に就任。後に京都大学教授等を歴任。蔵書や自筆ノートは山内文庫として一橋大学附属図書館に収められている。
辻村 太郎(つじむら たろう、1890年6月12日 - 19… 辻村 太郎(つじむら たろう、1890年6月12日 - 1983年7月15日)は、日本の地理学者・地形学者。地形学を中心とした日本における地理学の確立に努め、長く日本の地理学をリードしてきた人物として知られ、日本の地理学の歴史には欠かせない人物である。 神奈川県小田原市の生まれ。13歳で神奈川県立第二中学校に入学。三年後に東京開成中学校に転校。18歳の時同校を卒業し、1908年(明治41年)19歳で第一高等学校理科に入学する。この頃、従兄の辻村伊助の影響もあって早くから山や登山に興味をもち、中学4年の頃山岳会に入会し会員となった。1911年(明治44年)、飛騨山脈の高峯で多数のカール(圏谷)や堆石(モレーン)を見つけ、それらが氷河作用によるものと考え、論文を発表した。
鏑木 外岐雄(かぶらぎ ときお、1890年(明治23年)6月… 鏑木 外岐雄(かぶらぎ ときお、1890年(明治23年)6月10日 - 1968年(昭和43年)2月21日)は、日本の動物学者である。 石川県に生まれ、東京帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)に入学する。1915年(大正4年)に卒業後は母校に戻り、1917年(大正6年)には同大学の助手として活動した。1924年(大正13年)には農学部で講師として教鞭を執り理学博士を取得し、1926年(大正15年)には教授に昇格する。 その後は徳川生物学研究所の研究員としても活動しナミウズムシ等の渦虫類やヒモムシ研究に携わり、日本の応用生物学や応用昆虫学の研究や、植物防疫事業等にも携わった。第二次世界大戦後の1949年(昭和24年)から1967年(昭和42年)まで國學院大學の教授も務め、1951年(昭和26年)に東京大学を定年退職する。
行吉 角治(ゆきよし かくじ、1890年(明治23年)6月1… 行吉 角治(ゆきよし かくじ、1890年(明治23年)6月10日 - 1945年(昭和20年)3月5日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 岡山県和気郡香登村香登西(香登町香登西、備前町を経て現備前市香登西)で、行吉百三郎の息子として生れた。行吉家は屋号「戎屋」として瓦製造を家業としていたが、百三郎はかけごとが好きなことなどから事業に失敗し、角治が3、4歳ころに岡山市に移り食べ物屋「三子屋ぜんざい」を開いた。角治は関西中学校(現関西高等学校)で学んだが、素行不良で中退した。その後、遊び人の仲間となった。 岡山で土木請負業「山崎組」を営む。1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙で横山泰造の選挙運動に加わったことが契機で政治家に関心を持つようになった。
国松 福禄(くにまつ ふくろく、1890年〈明治23年〉6月… 国松 福禄(くにまつ ふくろく、1890年〈明治23年〉6月9日 – 1958年〈昭和33年〉2月15日)は、日本の弁護士。愛媛県宇和島市長。 愛媛県北宇和郡高近村(現在の宇和島市)に愛媛県会議員・参事会員を務めた国松磊奇智の長男として生まれた。宇和島中学校を卒業後、中央大学に学んだが、第三高等学校に転じた。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学法律科を卒業。大阪市で弁護士を開業したが、翌1918年(大正7年)に宇和島市に移り、民事・商事事件を扱い、破産管財人にも選出された。1928年(昭和3年)、宇和島新聞社社長となり、『南予毎日新聞』と改題した。また宇和島市会議員、同議長、愛媛県会議員などを歴任した。
岩城 隆徳(いわき たかのり、1890年(明治23年)6月8… 岩城 隆徳(いわき たかのり、1890年(明治23年)6月8日 - 1979年(昭和54年)9月21日)は、大正から昭和期の政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・青山、旧名・幸徳。 子爵・青山幸宜の五男として生まれ、子爵・岩城隆邦の養子となる。養父の死去に伴い、1911年(明治44年)4月21日、子爵を襲爵し、同月、隆徳と改名した。 学習院を経て、1914年、東京帝国大学理科大学植物学科を卒業。さらに同大学院で学び、同大経済学部を修了した。 1916年(大正5年)帝室林野局技手に就任。以後、内務省社会局嘱託、日東印刷取締役、興亜産業取締役などを務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して活動し、1939年(昭和14年)7月9日まで2期在任した。
中村 直勝(なかむら なおかつ、1890年6月7日 - 19… 中村 直勝(なかむら なおかつ、1890年6月7日 - 1976年2月23日)は、大正・昭和期の日本の歴史学者。 滋賀県滋賀郡大津町(現在の大津市)にある長等神社の社家の家に生まれる。膳所中学校・第三高等学校 を経て京都帝国大学に入る。三浦周行の門下で古文書学などを研究する。卒業論文「皇室制度」をまとめ、1915年7月に京都帝国大学文科大学卒業。さらに、古文書学の研究のため、大学院に進む。1919年9月より第三高等学校で歴史学を講じ、1920年に同校教授となる。1927年7月からは京都帝国大学助教授として古文書学を担当した他、南朝や荘園・皇室領・座・供御人などの研究を行った。1946年に「荘園の研究」を提出して京都大学から文学博士の学位を授与される。
石田 憲次(いしだ けんじ、1890年〈明治23年〉6月7日… 石田 憲次(いしだ けんじ、1890年〈明治23年〉6月7日 - 1979年〈昭和54年〉6月30日)は、日本の英米文学者。 山口県出身。東京外国語学校英語科を経て、1916年京都帝国大学英文科卒。同志社大学教授、1924年京都帝大文学部助教授、1934年教授、京都大学教授、1951年定年退官、大阪市立大学教授、1958年京都女子大学教授を務めた。18世紀およびヴィクトリア朝の英文学研究、またフランクリンなど初期アメリカ文学の研究を行い多数の著作を著した。特にキリスト教的傾向が強い。 1979年6月30日、脳溢血のため京都市北区の鞍馬口病院で死去。89歳。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
杉浦 兼松(すぎうら かねまつ、1890年(明治23年)6月… 杉浦 兼松(すぎうら かねまつ、1890年(明治23年)6月5日 - 1979年(昭和54年)10月21日)は、日本の生化学者である。 アメリカ合衆国のスローン・ケタリングがんセンターで癌の化学療法の分野で働いた。 愛知県津島市禰宜町の染物屋に生まれ、父から剣道を学んだ。父を癌で失い、徒弟奉公にでるが、1903年(明治36年)アメリカの鉄道王、エドワード・ヘンリー・ハリマンが、すでに渡米していた兼松の兄を通訳にともなって来日し、武道の得意な少年を渡米させることになり、最年少のメンバーとして渡米した。アメリカで高校に通い、ハリマンも癌で没すると、未亡人が寄付した資金で設立された研究所でアルバイトしながらコロンビア大学で生化学を学んだ。
橋本 循(はしもと じゅん、1890年(明治23年)6月2日… 橋本 循(はしもと じゅん、1890年(明治23年)6月2日 - 1988年(昭和63年)5月27日)は、日本の中国文学者。 現在の福井県越前市生まれ。雅号・蘆北。京都帝国大学文科大学文学科修了。1928年立命館大学予科教授。1946年立大法文学部文学科部長。1949年「漢魏六朝文学思想論」で京大文学博士。立大文学部長・文学研究科長を数次務める。立命館理事。1959年特別任用教授。1969年名誉教授。白川静の師匠。記念して蘆北賞が設けられた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
亀永 吾郎(かめなが ごろう、1890年(明治23年)6月1… 亀永 吾郎(かめなが ごろう、1890年(明治23年)6月1日 - 1955年(昭和30年)2月9日[要出典])は、日本画家(美人画)。山口県下関市出身。[要出典]鏑木清方門下。[要出典]本名五郎。[要出典] 帝展入選、聖徳太子奉賛美術展覧会、ベルリン日本画展覧会(外務省)に出品。鏑木清方門下らによる郷土会、目黒雅叙園、梨本宮家、浅草柳橋料亭二葉などで多くの絵画を手がけた。独特の、美人と所作と構図、滲み出る人物の精神性や内面性、繊細な色彩と形の組み合わせの自在さ、に特徴がある。画号は、寒雷楼吾郎、寝石、八千房、亀永霊泉。 度重なる戦災に遭い帰郷するも、その後も東京と郷里を往復しつつ、制作に取り組んだ。
穂積 真六郎(ほづみ しんろくろう、1889年(明治22年)… 穂積 真六郎(ほづみ しんろくろう、1889年(明治22年)6月30日 - 1970年(昭和45年)5月23日)は、朝鮮総督府官僚、参議院議員。
土田 國太郎(つちだ くにたろう、1889年〈明治22年〉6… 土田 國太郎(つちだ くにたろう、1889年〈明治22年〉6月28日 - 1960年〈昭和35年〉3月26日)は、日本の醸造家、政治家。参議院議員(1期)。 群馬県利根郡川場村立岩に生まれる。父・茂八は新潟県の生まれで川場村に移住し貸蔵で酒造業を営んでいた。 國太郎は群馬県立前橋中学校利根分校(のち旧制群馬県立沼田中学校、現群馬県立沼田高等学校)を卒業したのち、1912年(大正元年)より沼田町(現・沼田市)下之町で酒造りを始める。1923年(大正12年)、同町の酒蔵を買い入れて土田酒造を創業、「譽之國光」の銘板の日本酒の醸造を開始。これが地酒の銘酒として県内外から称賛を浴びるようになる(のちに現名の「譽國光」(ほまれこっこう)に改名)。
中山 タマ(なかやま タマ、1889年(明治22年)6月28… 中山 タマ(なかやま タマ、1889年(明治22年)6月28日 – 1971年(昭和46年)10月5日)は日本の医師。政治家、衆議院議員(1期)。 1889年兵庫県津名郡仮屋町(現淡路市)に生まれる。日本医学校(現日本医科大学)を卒業後、1911年に医師免許を取得し、翌年神戸市で開業する。その後鈴蘭台病院院長になり、戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙に兵庫県1区(大選挙区制)から無所属で立候補して3位で当選した。翌年の第23回衆議院議員総選挙では兵庫2区から民主党公認で立候補したが落選した。落選後は論文「人體に於けるBCG皮内接種の局所反應とツベルクリン反應との關連に就て」により1949年に大阪大学から医学博士の学位を取得し、自民党に入党して兵庫県連顧問になった。
桜井 省三(さくらい しょうぞう、1889年(明治22年)6… 桜井 省三(さくらい しょうぞう、1889年(明治22年)6月27日 - 1985年(昭和60年)7月7日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 判事や弁護士を務めた桜井祥造の二男として名古屋で生れる。本籍は山口県萩市。 愛知第四中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1911年5月、陸軍士官学校(第23期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し奈良の歩兵第53連隊付となる。参謀本部付勤務などを経て、1919年11月、陸軍大学校(第31期)を優等で卒業。 その後、参謀本部員(船舶班)、フランス駐在、参謀本部員、歩兵第41連隊大隊長、参謀本部員(船舶班)、兼陸大教官、歩兵第77連隊長、内閣調査局調査官、企画庁調査官、第14碇泊場司令官、企画院調査官、第1船舶輸送司令部付などを歴任し、1938年3月1日、陸軍少将に進級。
片多 徳郎(かたた とくろう、明治22年(1889年)6月2… 片多 徳郎(かたた とくろう、明治22年(1889年)6月24日 - 昭和9年(1934年)4月27日)は、大分県出身の洋画家である。 大分県西国東郡高田町(現・豊後高田市)生まれ。 明治45年(1912年)、東京美術学校卒業。文展第3回に『夜の自画像』、第4回に『黄菊白菊』、第5回に『或る人の母』を出品した。第10回出品の『婦女沐浴』と第11回出品の『伎女舞踏図』は、当時では珍しい伝統的な題材と復古的な重厚な色彩とが異色で、以後、帝展における日本化された洋画の代表者と目され、大正7年(1918年)『花下美人』、大正8年(1919年)『霹靂』、昭和4年(1929年)『秋果図』、昭和7年(1932年)『秋果一枝』を帝展に出品した。
三木 露風(みき ろふう、1889年6月23日 - 1964… 三木 露風(みき ろふう、1889年6月23日 - 1964年12月29日)は、日本の詩人、童謡作家、歌人、随筆家。本名は三木 操(みき みさお)。異父弟に映画カメラマンの碧川道夫がいる。国木田独歩の曾祖母が三木家出身。その縁もあり1912年『独歩詩集』を刊行した。早稲田詩社結成に加わり、『廃園』(1909年)を刊行。ほかに詩集『寂しき曙』(1910年)、『白き手の猟人』(1913年)など。 近代日本を代表する詩人・作詞家として、北原白秋と並んで「白露時代」を築いた。若き日は日本における象徴派詩人でもあった。 1889年(明治22年)6月23日、兵庫県揖西郡龍野町(現・たつの市)に父・三木節次郎、母・かたの長男として生まれた。
塩入 亮忠(しおいり りょうちゅう、1889年6月23日 -… 塩入 亮忠(しおいり りょうちゅう、1889年6月23日 - 1971年12月23日)は、天台宗の僧侶、仏教学者。第13代大正大学学長。雅号・一乗子、別名・汲海。 1889年、長野県小県郡神川村(現上田市)に生まれる。1901年、東京浅草寺で得度。天台宗大学(現・大正大学)で学び、1915年に卒業。大谷大学研究科で華厳、唯識、天台宗学を学びつつ、奈良の華厳宗本山東大寺勧学院でも修めた。 1918年より天台宗大中学講師、1927年より大正大学講師となる。研究雑誌「伝教大師研究」を創刊。第2代駒込中学校長・理事長を務めた。1931年より大正大学教授。1951年、同大学学長に就任。1959年に定年退職し名誉教授。
海野 数馬(うんの かずま、1889年(明治22年)6月22… 海野 数馬(うんの かずま、1889年(明治22年)6月22日 - 1971年(昭和46年)1月4日)は、明治時代後期から昭和時代の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。 静岡市に生まれる。大井善吉の三男として生まれ、のち先代平作の養子となり1916年(大正5年)家督を相続し前名勇吉を改める。静岡県立静岡中学校退学。1911年(明治44年)日本大学法律科を卒業する。請負業を営む傍ら、静岡県農会議員、静岡県会議員を務めた。ほか財界では、昭和工業、昭和木材各社長を歴任した。 1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙では静岡県第1区から立憲民政党所属で出馬し当選。つづく第17回、第18回総選挙でも当選し衆議院議員を3期務めた。
金子 彦二郎(かねこ ひこじろう、1889年6月20日 - … 金子 彦二郎(かねこ ひこじろう、1889年6月20日 - 1958年5月27日)は、日本の国文学者。 新潟県西蒲原郡岩室村(現在の新潟市西蒲区)出身。東京高等師範学校卒。帝国女子専門学校(のち相模女子大学)国文科主任、1945年「平安時代文学と白氏文集 句題和歌千載佳句研究篇」で帝国学士院賞受賞。1946年「平安時代文学と白氏文集」で慶應義塾大学文学博士。女子学習院教授、東洋大学教授。女子教育の実践者として研究されている。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。