三宅 正太郎(みやけ まさたろう/しょうたろう、1887年6… 三宅 正太郎(みやけ まさたろう/しょうたろう、1887年6月27日 - 1949年3月4日)は、日本の法曹。元判事・弁護士。
6月生まれ:9,344人
三宅 正太郎(みやけ まさたろう/しょうたろう、1887年6… 三宅 正太郎(みやけ まさたろう/しょうたろう、1887年6月27日 - 1949年3月4日)は、日本の法曹。元判事・弁護士。
安武 直夫(やすたけ ただお、1887年(明治20年)6月2… 安武 直夫(やすたけ ただお、1887年(明治20年)6月24日 - 1959年(昭和34年)3月21日)は、日本の内務官僚、台湾総督府官僚、朝鮮総督府官僚。 福岡県の田崎家に生まれ、長じて後に安武一(はじめ)の婿養子となった。1913年(大正2年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。内務省に入省し、山形県理事官、警保局事務官、朝鮮総督府事務官を歴任。さらに社会局書記官・庶務課長となり、臨時震災救護事務局書記官、資源局事務官を兼ねた。1932年(昭和7年)、台湾総督府文教局長に就任し、1935年(昭和10年)には平安南道知事に転じた。台湾総督府文教局長時代には、伝習館中学(現在の福岡県柳川市にある伝習館高等学校)の先輩でもあり親交のあった北原白秋を台湾に招聘している。
岩崎 輝弥(岩崎 輝彌、いわさき てるや、1887年(明治2… 岩崎 輝弥(岩崎 輝彌、いわさき てるや、1887年(明治20年)6月18日 - 1956年(昭和31年)9月17日)は、日本の実業家。日本における鉄道趣味の先駆者である。 岩崎弥之助・早苗夫妻の三男として東京府(現・東京都)に生まれる。 1899年(明治32年)に高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1905年(明治38年)に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。東京帝国大学農科大学実科(現・東京農工大学農学部)を卒業。 三菱の創業者一族・岩崎家に生まれたこともあって大学卒業後は実業界に進んだ。 輝弥は実業家としては酪農業に従事しており、立川養豚場や吉屋信子の代表作『安宅家の人々』のモデルとなったことで知られる子安農園を経営したことで知られている。
古河 和一郎(ふるかわ わいちろう、1887年〈明治20年〉… 古河 和一郎(ふるかわ わいちろう、1887年〈明治20年〉6月18日 - 1945年〈昭和20年〉7月9日)は、日本の計理士、政治家。衆議院議員(兵庫県第四区選出、当選2回)。 1887年、兵庫県生まれ。古河弥太郎の長男。1902年、家督を相続する。関西大学専門部法律科で学び、中退した。 税務署に務めた後、一ノ宮商業銀行大阪支店長に就任する。同銀行退職後は、大阪北浜で株仲買店を経営する。1927年、計理士を開業し、計理士会理事、大阪市、大阪府各計理士会長を務める。その他、日本連管工業社理事長を務めた。 1928年の第16回衆議院議員総選挙から1932年の第18回総選挙まで兵庫県第4区から立候補し続けたが落選続きで、1936年の第19回総選挙で立憲政友会公認で立候補して初当選した。
池ノ上 賢吉(いけのうえ けんきち、1887年(明治20年)… 池ノ上 賢吉(いけのうえ けんきち、1887年(明治20年)6月16日 - 1975年(昭和50年)7月22日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県、のちの大口市(現伊佐市)で生まれた。陸軍士官学校第21期卒業。1935年(昭和10年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に関東軍司令部附となり、旅順工科大学に配属され、1936年(昭和11年)8月に第1独立守備隊司令部附に転じたが、旅順工科大学配属が続いた。1937年(昭和12年)8月2日に関東軍司令部附となり、12月28日に福岡連隊区司令官に就任した。 1939年(昭和14年)8月1日に陸軍少将進級と同時に留守第4師団司令部附となり、1940年(昭和15年)8月に独立混成第9旅団長に就任。
山脇 敏子(やまわき としこ、本名:山脇 トシコ、1887年… 山脇 敏子(やまわき としこ、本名:山脇 トシコ、1887年〈明治20年〉6月14日 - 1960年〈昭和35年〉11月2日)は、日本の洋画家、服飾手芸家、研究家。教育者、山脇洋裁学院(現・山脇美術専門学校)創設者。日本の服飾デザイナー先駆者。 立体裁断や実寸による独自の割り出し法を広め、手芸や編物の分野でも欧州の新しい傾向をいち早く紹介、昭和初期のモガモードを創るなど戦後ファッションをリードした。また戦前・戦後を通じ多くの後進も育て、雑誌・テレビなどでも活躍し手芸・服飾、礼儀作法関係本を多数遺した。 洋裁店「アザレ」は、1964年に南青山骨董通りのアタリー(athalie)へ引き継がれ、現在に至る。
福田 狂二(ふくだ きょうじ、1887年(明治20年)6月1… 福田 狂二(ふくだ きょうじ、1887年(明治20年)6月14日 - 1971年(昭和46年)11月13日)は、日本の明治から昭和にかけての社会運動家。大正末から昭和初年にかけての島根の社会主義運動の担い手の多くを育てる。別名福田素顕。 島根県簸川郡久多美村東福(現・出雲市)に生まれる。父・蓮之助は県会議員・県会議長を務めた県政界の有力者であった。1903年(明治36年)、上京して成城中学に入学。1904年(明治37年)11月、普通選挙実現や治安警察法改正を求める平民懇親会(於錦輝館)に参加する。1905年(明治38年)、早稲田大学政治科に入学。清国からの留学生と交流する中で社会主義を受容し、同大学を中退して社会運動に身を投じる。
木下 道雄(きのした みちお、1887年〈明治20年〉6月1… 木下 道雄(きのした みちお、1887年〈明治20年〉6月13日 - 1974年〈昭和49年〉12月5日)は、昭和天皇の侍従。 東京生まれ。1912年(明治45年)東京帝国大学法学部卒。1913年(大正2年)岡山県警部。1917年(大正6年)岡山県和気郡郡長、内閣書記官。1924年(大正13年)東宮事務官・宮内書記官・東宮侍従。1927年(昭和2年)皇后宮事務官。1930年(昭和5年)宮内大臣官房秘書課長、1931年(昭和6年)同官房総務課長、1933年(昭和8年)内匠頭。1936年(昭和11年)帝室会計審査局長官、1945年(昭和20年)10月皇后宮大夫・侍従次長。1946年(昭和21年)依願免官。
井上 徳命(いのうえ とくめい、1887年(明治20年)6月… 井上 徳命(いのうえ とくめい、1887年(明治20年)6月11日 - 1966年(昭和41年)5月3日)は、明治末から昭和期の僧侶、教育者、政治家。衆議院議員。旧姓・岡。 佐賀県藤津郡、のちの七浦村(現鹿島市)の関家で生まれる。1904年(明治37年)鹿島中学校(現佐賀県立鹿島高等学校)を卒業後、すぐに鹿児島市和田の妙行寺のおじを頼って来鹿し第七高等学校造士館に入学。1910年(明治43年)7月、東京帝国大学文科大学哲学科(教育学)を卒業した。 佐賀の龍谷中学校(現龍谷中学校・高等学校)で勤務後、のちの出水市、西照寺・井上尽済の養子となる。鹿児島別院副輪番などを務め、出水高等女学校教員、伊作高等女学校長に在任。
石井 徳久次(いしい とくじ、1887年〈明治20年〉6月1… 石井 徳久次(いしい とくじ、1887年〈明治20年〉6月11日 - 1970年〈昭和45年〉10月24日)は、日本の実業家、農業協同運動指導者、政治家。衆議院議員。 福岡県鞍手郡金生村(のち鞍手郡若宮町、現:宮若市大字金生)で、醸造家「富久鶴」石井房次の長男として生まれる。1908年(明治41年)、大阪高等工業学校醸造科を卒業後に家業を継承。 シベリア出兵に陸軍輜重兵少尉として従軍。その後、若宮村会議員、福岡県会議員、同参事会員、郡教育会長、同育英会長などを務めた。また、農業協同運動にも尽力し、福岡県信用組合連合会長、帝国農会議員、福岡県農会長、福岡県購買販売組合連合会長などを歴任した。 また、1933年(昭和8年)11月から1935年(昭和10年)10月まで第25代福岡県会副議長を務めた。
小野 秀一(おの しゅういち、1887年(明治20年)6月1… 小野 秀一(おの しゅういち、1887年(明治20年)6月11日 - 1972年(昭和47年)7月18日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、福島町長。旧姓・宮下。 長野県西筑摩郡福島村(現木曽郡木曽町福島)で、宮下喜久市の長男として生まれ、小野広助の養子となる。1909年、慶應義塾大学部法律科を卒業。帰郷して、福澤桃介の木曽川水系電源開発事業に協力。木曽銀行重役、木曽川電力常務取締役、大同製鋼(現・大同特殊鋼)取締役、奥羽電灯取締役、長谷川鋳鋼取締役などを務めた。 政界では、福島町会議員、西筑摩郡会議員、長野県会議員、同参事会員、同議長などを歴任し、廃娼運動に取り組んだ。1940年、福島町長に当選。
大西 一郎(おおにし いちろう、1887年(明治20年)6月… 大西 一郎(おおにし いちろう、1887年(明治20年)6月11日 – 1950年(昭和25年)1月21日)は、戦前日本の内務官僚。第11代横浜市長を務めた。 香川県香川郡川東村(現在の高松市)で、大西三千児の長男として生まれる。第三高等学校を経て、1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 1912年(明治45年)11月、文官高等試験行政科試験に合格し、北海道庁属となった。北海道庁警視、同理事官拓殖課長、同勧業課長、岩手県学務課長、兵庫県視学官・知事官房主事・学務課長、香川県警察部長、朝鮮総督府事務官兼参事官、慶尚北道内務部長、復興局土木部庶務課長、東京第一出張所長を歴任した。
長野 国助(ながの くにすけ 1887年(明治20年)6月1… 長野 国助(ながの くにすけ 1887年(明治20年)6月11日 – 1971年(昭和46年)4月12日)は、日本の弁護士。第3代日本弁護士連合会会長。 1887年、現在の愛媛県今治市生まれ。1912年、明治大学を卒業。1918年、弁護士登録。1921年、自由法曹団の結成に参加。1952年、第3代日本弁護士連合会会長に就任。1964年、学校法人明治大学理事長に就任。 全国人権擁護委員連合会会長も務めるなど、人権擁護活動においても功績を残す。また、裁判官任命諮問委員会委員、国際弁護士団の首席弁護士、日本国際法律家連絡協会会長、日ソ交流協会理事長、日朝協会会長なども務めた。1971年、死去。83歳。
岩下 保太郎(いわした やすたろう、1887年〈明治20年〉… 岩下 保太郎(いわした やすたろう、1887年〈明治20年〉6月10日 - 1937年〈昭和12年〉2月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 大分県大分市出身。大分中学校より海軍兵学校第37期入校。入校成績順位は180名中第17位、卒業成績順位は179名中第3位。 妻は山屋他人海軍大将の長女ハツ。長女・春子は中村亀三郎海軍中将の長男・元夫の妻。 岩下は軍令部第1部在勤中に次期新型艦建造に関して、中村良三や中澤佑、富岡定俊などと共に、高速戦艦型ではなく巡洋戦艦型を主張したが、大艦巨砲主義に支配された首脳部に受け入れられず、少数意見として否定された。しかし太平洋戦争における戦闘の推移を概観すれば、巡洋戦艦ならば重巡洋艦や航空母艦との洋上機動作戦行動が可能であったことから、結果的には岩下側の主張が正しかった事になる。
大森 洪太(おおもり こうた、1887年(明治20年)6月1… 大森 洪太(おおもり こうた、1887年(明治20年)6月10日 - 1946年(昭和21年)5月24日)は、日本の司法官僚、判事、検事。
梅ノ花 市五郎(うめのはな いちごろう、1887年6月10日… 梅ノ花 市五郎(うめのはな いちごろう、1887年6月10日 - 1926年4月5日)は、現在の福井県福井市出身で雷部屋に所属した力士。本名は山田 市五郎(五郎とも)。164cm、105kg。最高位は東前頭4枚目。 1903年5月初土俵、1908年5月十両昇進。1909年6月新入幕。色白で端正な顔立ちが女性に人気があったが、前頭4枚目に躍進したあとは幕内下位に低迷。病を得て十両に陥落した。1915年1月廃業した。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
松本 彦七郎(まつもと ひこしちろう、1887年6月9日 -… 松本 彦七郎(まつもと ひこしちろう、1887年6月9日 - 1975年9月1日)は、日本の動物学者、地質学者、古生物学者、人類学者、考古学者、博物学者。 大正時代に、仙台湾周辺の貝塚において層位学的な発掘調査を行い、科学的・実証的な発掘調査法と編年学の基礎をつくった。戦後、花泉遺跡の調査を行い、ハナイズミモリウシ(Lephobison hanaizumiensis)の命名者としても著名である。日本哺乳動物学会名誉会員。 動物分類学を出発点に、初めて詳細な土器の型式分類を試み、その紋様構成の系統について進化論的な新しい見方を示したほか、地質学における分層発掘の方法を取り入れ、堆積層によって土器の紋様・厚さ・器種の構成比が異なってくることを見出し、日本最初の層位学的な研究を実施、考古学における層位論研究の開祖となった。
沢村 五郎(さわむら ごろう、1887年6月9日 - 197… 沢村 五郎(さわむら ごろう、1887年6月9日 - 1977年6月5日)は日本の牧師、神学教育者。関西聖書神学校創設者。 1887年6月9日 熊本県飽託郡城山村(現在の熊本市西区)に生まれる。熊本中学校(現・熊本県立熊本高等学校)卒業後、正教会伝道学校で学び、同教会の伝道師になる。1916年9月、日本伝道隊聖書学校に入学。バークレー・バックストン、パゼット・ウィルクスに師事した。 1922年、渡英。エディンバラ聖書学校に学ぶ。 1924年、日本伝道隊の要請により神戸御影に聖書学舎(現在の関西聖書神学校)を設立、校長になる。 1941年日本基督教団の成立の際には第7部の牧師になり、第7部の参与(代表)に選出されたが、第二次世界大戦後に日本基督教団を離脱。
白鳥 敏夫(しらとり としお、1887年(明治20年)6月8… 白鳥 敏夫(しらとり としお、1887年(明治20年)6月8日 - 1949年(昭和24年)6月3日)は、大正、昭和期の日本の外交官・政治家。戦前期における外務省革新派のリーダー的存在で、日独伊三国同盟の成立に大きな影響を与えた。 東洋史学者の白鳥庫吉は叔父。外務大臣を務めた外交畑の長老石井菊次郎も叔父にあたる。また外務官僚の出淵勝次は義兄(妻の姉の夫)にあたる。息子に白鳥正人元北陸財務局長。 千葉県の長生郡茂原町(現在の茂原市)に生まれた。東京・日本中学、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月、東京帝国大学法科大学経済学科卒。 1913年(大正2年)10月に高等文官試験・外交官及び領事官試験に合格。
犬丸 徹三(いぬまる てつぞう、1887年〈明治20年〉6月… 犬丸 徹三(いぬまる てつぞう、1887年〈明治20年〉6月8日 - 1981年〈昭和56年〉4月9日)は、日本の実業家。元帝国ホテル社長。元日本ホテル協会会長。元東京モノレール社長。 元帝国ホテル社長犬丸一郎の父。 石川県能美郡根上村字福島(現能美市)に生まれた。父・犬丸六右衛門、母・いその長男。 小松の芦城小学校高等科、旧制小松中学校(現・小松高校)を経て東京高商(現・一橋大学)に入学。 1908年文部省が専門部廃止の方針を明らかにしたため、全学生がこれに猛反対し商科大学昇進を叫んで同盟休校敢行にまで発展した事件が起きた。犬丸は級友に選出され、ストライキ指導者の一人として校長に直接談判したり、文部省へ押しかけ大臣に面会を要請してひかなかった。
加藤 泊治郎(かとう はくじろう、1887年(明治20年)6… 加藤 泊治郎(かとう はくじろう、1887年(明治20年)6月8日 - 1951年(昭和26年)2月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓、三隅。 山口県出身。三隅熊五郎の五男として生れ、加藤家の養子となる。山口中学校を経て、明治43年(1910年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、砲兵少尉に任官し、長崎重砲大隊付となる。大正5年(1916年)8月、兵科を憲兵科に移し憲兵中尉となり、憲兵練習所で学んだ。以後、名古屋憲兵、青島憲兵、豊橋憲兵、浜松憲兵、姫路憲兵、京都憲兵、台湾憲兵隊、牛込憲兵の各分隊長を歴任。昭和5年(1930年)8月、憲兵司令部員となり、さらに中国政府応聘、憲兵司令部第3課長、麹町憲兵分隊長、宇都宮・延吉・奉天の各憲兵隊長、関東憲兵隊司令部総務部長、東京憲兵隊長などを経て、昭和15年(1940年)8月、陸軍少将に進級した。
中山 福蔵(なかやま ふくぞう、1887年6月7日 - 19… 中山 福蔵(なかやま ふくぞう、1887年6月7日 - 1978年10月13日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(3期)。 熊本県玉名郡江田村出身。中山勝平の二男。7歳のときに父が亡くなり、母に連れられ鹿児島県の志布志に移る。 1903年志布志尋常高等小学校を卒業し、長崎県の鎮西学館(鎮西学院)入学。1905年鎮西学館より大阪府立富田林中学校 (旧制)2年に編入し、さらに1907年(明治40年)奈良県立郡山中学校 (旧制)へ転校。1908年に第七高等学校造士館へ入学し、1911年 7月に卒業。同年東京帝国大学法学部に入学し、1918年卒業。大学卒業後、東京で弁護士となるが、東大の同級生と法廷で争うことを避けて大阪に弁護士事務所を開き、大阪弁護士会所属で活動。
福邑 正樹(ふくむら まさき、1887年6月5日 - 197… 福邑 正樹(ふくむら まさき、1887年6月5日 - 1974年)は、大分県東国東郡出身の内務官僚、政治家。官選島根県知事。 1887年、東国東郡竹田津(現在の国東市)で代々酒屋を営む福邑家の次男として生まれる。大分県立中学校、第五高等学校卒。1913年、東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。 1914年内務省に入省。埼玉県警視、同北葛飾郡長、高知県理事官、新潟県理事官、和歌山県理事官、同書記官、秋田県書記官・警察部長、埼玉県書記官・警察部長、静岡県書記官・警察部長、和歌山県書記官・内務部長、熊本県書記官・内務部長、新潟県書記官・内務部長、福岡県書記官・内務部長などを歴任。1932年、島根県知事となる。
石井 鶴三(いしい つるぞう、1887年(明治20年)6月5… 石井 鶴三(いしい つるぞう、1887年(明治20年)6月5日 - 1973年(昭和48年)3月17日)は、日本の彫刻家、版画家、洋画家。 画家鈴木鵞湖の孫、画家石井鼎湖の三男、石井柏亭の弟として東京府下谷区仲御徒士町(現・台東区上野)に生まれる。洋画を不同舎にて小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、1905年創刊の雑誌『平旦』にウィリアム・ニコルソンの作品を模倣した自画自刻による木版画『虎』を掲載した。1910年に彫刻を学んで東京美術学校卒、1911年文展で「荒川岳」が入賞、1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品、二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞、明治の末年から山本鼎と交流を深め、創作版画の先駆者として知られるようになり、1918年、日本創作版画協会を結成、1919年、木版画『日本風景版画集』第9集(東京近郊)を、1920年、木版画『日本風景版画集』第10集(日本アルプス)を刊行した。
稲毛 金七(いなげ きんしち、1887年(明治20年)6月5… 稲毛 金七(いなげ きんしち、1887年(明治20年)6月5日 - 1946年(昭和21年)3月14日)は、日本の教育哲学者。早稲田大学教授、同高等学院教授、同評議員。号は詛風。 山形県東置賜郡漆山村(現在の南陽市)出身。郷里の高等小学校を卒業後、代用教員、準教員、小学校正教員を務めた。1906年(明治39年)、上京して早稲田大学文学部哲学科に入学し、1907年(明治40年)に修身科の中等教員検定に、1911年(明治44年)に教育科の中等教員検定に合格した。1912年(明治45年)に早稲田大学を卒業した後は中央公論社、内外教育評論社に関係した後は、雑誌「教育実験界」の主筆となったが、後に自己経営に移し「創造」と改題した。
増田 秀吉(ますだ ひできち、1887年(明治20年)6月4… 増田 秀吉(ますだ ひできち、1887年(明治20年)6月4日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。台湾総督府官僚。台北市尹、新竹州知事。埼玉県北足立郡桶川町長。 埼玉県出身。1913年(大正2年)、東京帝国大学法学部独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。秋田県属、同警部・理事官、同警視、同雄勝郡長、台湾総督府警視、同事務官、台南州警務部長、台北州警務部長、内務局土木課勤務、警務局警務課勤務、台北市尹、殖産局農務課長、台湾総督府税関長、基隆税関長、新竹州知事を歴任した。 戦後は桶川町(現在の桶川市)の町長を務めた。
桑原 四郎(くわはら しろう、1887年(明治20年)6月4… 桑原 四郎(くわはら しろう、1887年(明治20年)6月4日 - 1966年(昭和41年)4月22日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 岐阜県出身。1907年(明治40年)5月31日に陸軍士官学校(19期)を卒業し、同年12月26日に工兵少尉に任ぜられ、工兵第九大隊付となる。1910年(明治43年)11月30日に工兵中尉に昇進し、1911年(明治44年)11月27日に陸軍砲工学校(17期)高等科を優等で卒業。更に員外学生として在学し、1917年(大正6年)8月6日には工兵大尉に昇進。ヴェルサイユ条約の締結に軍関係者として携わり、1920年(大正9年)9月13日付で、国際連盟陸、海、空軍問題常設諮問委員会帝国空軍代表者随員を仰せつけられる。
蓬萊 宗兵衛(ほうらい そうべえ、1887年〈明治20年〉6… 蓬萊 宗兵衛(ほうらい そうべえ、1887年〈明治20年〉6月4日あるいは4月10日 - 没年不明)は日本の実業家、地主、兵庫県多額納税者。東播合同銀行頭取。前名は英男。 兵庫県加東郡福田村出身。先代・宗兵衛の二男。1896年、家督を相続し前名・英男を改め襲名する。閑谷中学校出身。1910年、早稲田大学大学部政治経済学科卒業。 醤油醸造業、農業の傍ら銀行の重役を兼ねた。東播銀行に入り、後取締役に推された。1926年、同行が他7銀行と合併して東播合同銀行と改称するに及んでその取締役に任じ1933年、同行頭取に就任した。借家借地調停委員、兵庫県下三郡醤油醸造組合長をつとめた。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。
木幡 行(こわた つよし、1887年6月2日 - 1977年… 木幡 行(こわた つよし、1887年6月2日 - 1977年8月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。福島県出身。従四位勲三等功四級。 1887年(明治20年)6月2日に福島県標葉郡両竹村で木幡清茂の次男として生まれる。木幡家は代々相馬中村藩の藩士であったが没落し、極貧の少年時代を過ごした。7、8歳の頃に日清戦争が勃発し、出征や凱旋などを見聞きしていた木幡は、将来軍人になることを密かに決意する。しかし、家は困窮して学費を出せる状況ではなかったために「学費は一切親に頼らぬ。教科書は必ず筆写する。」ことを心に誓い、福島県立第四中学校に入学し、入学から卒業まで特待生を続け、傍らに新聞配達などをして学費を稼いだ。
村地 信夫(むらち のぶお、1887年(明治20年)6月1日… 村地 信夫(むらち のぶお、1887年(明治20年)6月1日 - 1941年(昭和16年)10月22日)は、日本の内務・警察官僚。官選滋賀県知事、秋田市長。 東京府出身。村地正治の四男として生まれる。第二高等学校を卒業。1912年、東京帝国大学法科大学(独法)を卒業。1913年(大正2年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。1914年(大正3年)内務省に入省し和歌山県属となる。 以後、和歌山県伊都郡長、同那賀郡長、鹿児島県理事官、秋田県警察部長、福岡県書記官・警察部長、内務省書記官・警保局高等課長、同保安課長、警視庁官房主事などを歴任。 1934年(昭和9年)10月、滋賀県知事に就任。水産課分室の設置、県観光協会の設置、工場排水問題解決のための基礎調査実施、治水・造林規定の制定などを推進。
赤井 米吉(あかい よねきち、1887年6月1日 - 197… 赤井 米吉(あかい よねきち、1887年6月1日 - 1974年2月26日)は、日本の教育者。 石川県金沢市出身。広島高等師範学校(現・広島大学)卒。旧姓は山本。ヘレン・パーカーストによるドルトン・プランを紹介。1924年に明星学園、1946年金沢女子専門学園(現・学校法人金沢学院大学)を創立した。 1974年2月26日、消化管出血のため東京都武蔵野市の森本病院にて死去。86歳。 1887年(明治20年)、石川県石川郡野村字法島(現在の金沢市)で三男として生まれる。 1893年(明治26年)、野南尋常小学校に入学。1897年(明治30年)、同校卒。同時に石川県尋常師範学校付属小学校高等科に入学。
竹内 端三(たけのうち たんぞう、1887年(明治20年)6… 竹内 端三(たけのうち たんぞう、1887年(明治20年)6月‐1945年(昭和20年)8月7日)は日本の数学者。東京出身。理学博士。東京帝国大学教授。
高田 良平(たかだ りょうへい、1886年(明治19年)6月… 高田 良平(たかだ りょうへい、1886年(明治19年)6月30日 - 1972年(昭和47年)9月15日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 埼玉県榛沢郡、のちの大里郡深谷町(現:深谷市)で、高田惣五郎、ひこ夫妻の二男として生まれる。旧制熊谷中学卒業。 深谷物産専務取締役、深谷商業銀行取締役、深谷製材社長、武蔵土地証券社長、富岡製織取締役、大里郡織物同業組合織物研究会長、深谷商工会副会長、関東商事社長などを務め、商工業の振興に尽力した。 1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で埼玉県第三区から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
半田 孝海(はんだ こうかい、1886年6月28日 - 19… 半田 孝海(はんだ こうかい、1886年6月28日 - 1974年9月17日)は日本の天台宗の僧侶、平和運動家。 茨城県水戸市生まれ。10歳で長野県上田市の常楽寺の養子となる。旧制京北中学校、旧制第七高等学校造士館、東京帝国大学文学部心理学科卒卒業。1917年常楽寺住職に就任し、上田自由大学を積極的に支援した。1920年上田蚕糸専門学校講師、1929年天台宗教学部長、同比叡山中学校長、学監などを経て、1950年天台宗大僧正となり、1959年善光寺大勧進副住職を務め、のち名誉貫主なる。また比叡山樹王院住職も務めた。 戦後は平和運動を推進し、1947年から長野県仏教会会長を務め、米軍の浅間山演習場計画には先頭に立ってこれを阻止し、1956年、原水爆禁止日本協議会の代表委員兼長野県協議会長を務めた。
今村 均(いまむら ひとし、1886年〈明治19年〉6月28… 今村 均(いまむら ひとし、1886年〈明治19年〉6月28日 - 1968年〈昭和43年〉10月4日)は、日本の陸軍軍人。陸士19期、陸大27期首席。最終階級は陸軍大将。 1886年(明治19年)6月28日、宮城県仙台区に父・今村虎尾と母・今村きよみの二男として生まれる。今村家は仙台藩上士の家柄であった。均の祖父は戊辰戦争の際に仙台藩参謀を務めた今村鷲之助。鷲之助は進駐してきた新政府軍に対して融和的な態度をとったため藩内の強行派から非難を浴び、財産を家来にほとんど分け与え、新政府からの官職への呼びかけにも応じることなく隠遁した。その後、妻を亡くすと名家から後妻を押しつけられるなどしたため酒に溺れる生活を送った。
高田 義一郎(たかた ぎいちろう、1886年(明治19年)6… 高田 義一郎(たかた ぎいちろう、1886年(明治19年)6月28日 - 1945年(昭和20年)6月14日)は、医学博士、文筆家。主に性欲・犯罪に関する著作で知られる。筆名・高田 杏湖。 1886年(明治19年)、滋賀県栗太郡草津村、東海道草津宿の名門6代目高田茂徳の長男として生まれる。 茂徳の放蕩癖により家財を使い果たした一家は草津を追われ北海道、京都、東京と転居を繰り返す。貧困にあったが親戚である実業家浜岡光哲の援助をうけ医学の道に進んだ。 旧制第三高等学校卒業後、京都帝国大学医学部に学び同校法医学教室助手となる。 1919年(大正8年)、千葉医学専門学校の教授に就く。1922年(大正11年)から1年あまり文部省在外研究生として独伊英に留学。
安田 善五郎(やすだ ぜんごろう、1886年〈明治19年〉6… 安田 善五郎(やすだ ぜんごろう、1886年〈明治19年〉6月26日 - 1963年〈昭和38年〉1月10日)は、日本の実業家。安田銀行頭取、京浜電気鉄道社長、安田生命保険社長、大垣共立銀行頭取、四国銀行頭取、肥後銀行頭取等を歴任した。 安田善次郎の三男(善次郎49歳のときの子)。幼名は三郎彦。福島県立安積中学校(現福島県立安積高等学校)17期出身。後年、安積中学校から東京に進学した学生のため、父善次郎の言葉「積善の家に必ず余慶あり」からとった積善寮を牛込に開設し、学費の援助も行った。1919年安田銀行頭取に就任。 1921年京浜電気鉄道社長。同年に安田善次郎が死去すると、辞任した安田善四郎、安田善衛、安田善助の後を受け、安田善雄、安田善兵衛とともに保善社の理事に就任。
戸田 由美(とだ よしみ、1886年〈明治19年〉6月24日… 戸田 由美(とだ よしみ、1886年〈明治19年〉6月24日 - 1965年〈昭和40年〉7月23日)は、衆議院議員(憲政会→立憲民政党→国民同盟)。男性。埼玉県大宮市長(第2代)。 長野県上伊那郡東春近村(現在の伊那市)出身。1910年(明治43年)、慶應義塾大学部理財科を卒業。南信毎日新聞社専務取締役・主筆、南信絹糸紡績株式会社専務取締役、信産館製糸株式会社取締役を務め、また東春近村会議員に選ばれた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第18回に至るまで連続4回当選を果たした。その間、濱口雄幸内閣総理大臣の秘書官を務めた。 1944年(昭和19年)には第2代大宮市長に選出された。
山中 恒三(やまなか つねぞう、1886年(明治19年)6月… 山中 恒三(やまなか つねぞう、1886年(明治19年)6月23日 - 1975年(昭和50年)7月1日)は、日本の内務官僚、弁護士。官選県知事。 山口県都濃郡富田村(新南陽市を経て現周南市)出身。山中安兵衛の二男として生まれる。第六高等学校を経て、1912年(明治45年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。司法省に入省。1914年(大正3年)内務省に転じ三重県属となる 以後、三重県警視、同県安濃郡長、青森県理事官、岐阜県警察部長、北海道庁書記官・拓殖部長、福岡県書記官・内務部長、北海道庁土木部長などを歴任。 1929年(昭和4年)2月、富山県知事に就任。
水守 亀之助(みずもり かめのすけ、1886年(明治19年)… 水守 亀之助(みずもり かめのすけ、1886年(明治19年)6月22日 - 1958年(昭和33年)12月15日)は兵庫県出身の小説家。 兵庫県若狭野村(現・相生市)生まれ。大阪の医学校を中退して1906年に上京し、1907年には田山花袋に入門。春陽堂で編集者となる。1914年、徳田秋声の紹介で中央公論社に入るも1日で退職。1919年、中村武羅夫の紹介で新潮社に入社。『新潮』編集部に入る。編集者生活の傍ら、自然主義の影響下に『末路』『帰れる父』などを発表。中村武羅夫や加藤武雄と共に新潮三羽烏と称された。1923年には文学雑誌『随筆』を主宰し、八木隆一郎を書生とする。1924年、1925年に『少女倶楽部』で連載した「涙の握手」「残月の曲」で人気を集める。
河合 逸治(かわい いつじ、1886年〈明治19年〉6月20… 河合 逸治(かわい いつじ、1886年〈明治19年〉6月20日 - 1964年〈昭和39年〉3月13日)は、大正 - 昭和期の英語学者、教育者。三大予備校の一つ、河合塾の創始者として知られる。第五高等学校、名古屋高等商業学校および名城大学・名古屋商科大学教授。 静岡県引佐郡細江町(現・浜松市浜名区)出身。第七高等学校造士館、東京帝大英文科卒後、大正3年に第五高等学校の教授となる。欧米留学からの帰国後は、名古屋高等商業学校(現・名古屋大学経済学部)教授の職に就く。 1933年には名古屋市昭和区の名古屋市立名古屋商業学校(現在は向陽高等学校が立地)前にあった自宅に「河合英学塾」を開設。1937年になり、「河合塾」へと改称した。
原口 鶴子(はらぐち つるこ、旧姓:新井、1886年〈明治1… 原口 鶴子(はらぐち つるこ、旧姓:新井、1886年〈明治19年〉6月18日 - 1915年〈大正4年〉9月26日)は、大正時代に活躍した日本の心理学者。Ph. D. を取得した最初の日本人女性である。医学博士(M.D.)取得日本人女性は以前に岡見京子がいたが、Ph.D.は全分野を含めても初であった。 1886年、群馬県北甘楽郡一ノ宮町(現・富岡市)に、新井広三郎・たねの次女として生まれる。戸籍上の名は新井つる。新井家は「朝日屋」と号する豪農であった。父・広三郎は地元の自由民権運動家で代議士・清水永三郎とも往来があった。つるは地元の抜鉾尋常小学校、一ノ宮尋常高等小学校に学んだ。1902年に二年飛び級して群馬県立高等女学校(現・群馬県立高崎高等女子高等学校)を卒業。
小林 澄兄(こばやし すみえ、1886年(明治19年)6月1… 小林 澄兄(こばやし すみえ、1886年(明治19年)6月18日 - 1971年(昭和46年)7月14日)は、日本の教育学者。慶応義塾大学名誉教授。長野県上伊那郡東箕輪村(現・箕輪町)出身。小林頼次の三男。号は乳木生(にゅうもくせい)。 中学から東京に出て、早稲田中学に1年在学してから、慶應義塾普通部2年に転入学。1910年(明治43年)慶応義塾大学部文学科卒。学生時代は、文学を志し、同人雑誌の編集や創作活動に加わった。高山樗牛と大町桂月に心酔した。その後、教育学に関心を持つようになり、教育学を川合貞一と稲垣末松に、教育史及び教育学史を石田新太郎から学ぶ。 1910年、『慶応義塾学報』(後の『三田評論』)の編集事務担当となり、翌年、慶應義塾普通部教員となる。
菅原 英伍(すがわら えいご、1886年(明治19年)6月1… 菅原 英伍(すがわら えいご、1886年(明治19年)6月15日 – 1964年(昭和39年)2月4日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。弁護士。 宮城県栗原郡一迫村(現在の栗原市)出身。1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。弁護士を開業し、仙台弁護士会長、東北弁護士連合会会長を歴任した。また宮城県会議員、同参事会員に選ばれた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第16回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その他、斎川電気株式会社社長、仙台電気工業株式会社取締役、広瀬電力株式会社監査役などを務めた。
谷口 久次郎(たにぐち きゅうじろう、1886年6月15日 … 谷口 久次郎(たにぐち きゅうじろう、1886年6月15日 - 1973年8月9日)は日本の政治家。滋賀県知事を2期8年務めた。『百姓知事』と親しまれた。 滋賀県西浅井郡庄村(のち同郡永原村→伊香郡永原村→同郡西浅井村、現・長浜市西浅井町庄)に生まれる。早稲田大学通信教育部法科を卒業し、故郷永原村の村会議員・村長を務め、県農協連合会長・県農業会議長等を歴任し、県会議員を2期務めた。1958年(昭和33年)に滋賀県知事選に立候補し、自由民主党反主流派(堤派)と社会党の支持と農業団体を背景にした選挙戦において、元農林大臣で現職知事の森幸太郎を破り第39代滋賀県知事に就任した。以降2期知事職にあり、1973年(昭和48年)8月9日老衰により自宅で死去した。
山崎 猛(やまざき たけし、1886年(明治19年)6月15… 山崎 猛(やまざき たけし、1886年(明治19年)6月15日 - 1957年(昭和32年)12月27日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議長(第38代)、運輸大臣、衆議院議員などを務めた。 茨城県水戸市出身。長倉松平家家老の家筋である山崎直の四男。11歳で家族と共に上京し、麻布中学、旧制第一高等学校を呼吸器の病気で中退した後、静岡県の代用教員から徳富蘇峰の招きで京城日報の記者に。さらに大連へ移って満洲日報社長を務める。東洋拓殖の副総裁であった、立憲政友会の政治家野田卯太郎の知遇を得、姪婿となるなど政治の基礎を作った。 原内閣で中橋徳五郎文部大臣の秘書官を務めた後、1920年(大正9年)の総選挙で立憲政友会公認で埼玉県第4区から総選挙に立候補し初当選、以後衆院議員を10期務め、廣田内閣では農林政務次官に就任。
中島 弥団次(中島 彌團次、なかじま やだんじ、1886年〈… 中島 弥団次(中島 彌團次、なかじま やだんじ、1886年〈明治19年〉6月13日 - 1962年〈昭和37年〉12月21日)は、日本の政治家、大蔵官僚、実業家。衆議院議員。 高知県安芸郡野根村(現東洋町野根)で、海運業・中島弥平次、也久夫妻の長男として生まれる。野根尋常高等小学校、江陽学舎、高知県立中学海南学校を経て、1908年7月、第六高等学校文科甲類を卒業。上京して濱口雄幸の書生となる。1909年9月、東京帝国大学法科大学政治学科に入学し、1912年7月に卒業。 1912年7月、大蔵省雇となり、1913年11月8日、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、内務省に入省し青森県属となる。1915年1月、大蔵省へ転じ専売局書記に任じられ高崎専売支局勤務となる。
内藤 多仲(ないとう たちゅう、1886年〈明治19年〉6月… 内藤 多仲(ないとう たちゅう、1886年〈明治19年〉6月12日 - 1970年〈昭和45年〉8月25日)は、日本の構造家・建築構造技術者・建築構造学者・一級建築士(登録番号第17200号)、建築家。「耐震構造の父」と称されている。名古屋テレビ塔や東京タワーなど、鉄塔の設計を多く手がけ、「塔博士」とも呼ばれている。日本建築学会長、日本地震工学振興会会長などを歴任。 山梨県中巨摩郡榊村(現南アルプス市曲輪田)出身。旧制甲府中学(現・山梨県立甲府第一高等学校)、第一高等学校を経て東京帝国大学(現在の東京大学)入学。最初は造船学を専攻していたが、日露戦争後の造船不況を考慮して建築学に転向。佐野利器に師事した。
二代目 伊藤 忠兵衛(にだいめ いとう ちゅうべえ、1886… 二代目 伊藤 忠兵衛(にだいめ いとう ちゅうべえ、1886年(明治19年)6月12日 - 1973年(昭和48年)5月29日)は、日本の実業家。伊藤忠財閥の2代目当主である。従三位勲一等瑞宝章。幼名は精一(せいいち)。 父・初代伊藤忠兵衛が呉服店として創業した伊藤本店を発展させ、伯父・六代目伊藤長兵衛が創業した伊藤長兵衛商店と合併し、伊藤忠商事と丸紅という2つの総合商社の基礎を築いた。 二代目忠兵衛はカタカナの使用を推進するカナモジ運動の草分けとしても知られ、1920年(大正9年)1月からカナモジカイの創立委員となり、日向利兵衛(東洋製糖)、片岡安、下村海南、平生釟三郎らとともにこの運動の有力メンバーとなり、1938年(昭和13年)10月には財団法人カナ文字会の理事となる。
岡本 一平(おかもと いっぺい、1886年〈明治19年〉6月… 岡本 一平(おかもと いっぺい、1886年〈明治19年〉6月11日 - 1948年〈昭和23年〉10月11日)は、日本の画家・漫画家・文筆家・仏教研究家。妻は歌人・小説家の岡本かの子。長男は芸術家の岡本太郎。 義弟(妹の夫)に洋画家の池部鈞がおり、甥は俳優の池部良。 津藩に仕えた儒学者、岡本安五郎の次男で書家の岡本可亭(本名:良信(喜信)、通称:竹二郎)と母・正の長男として北海道函館区汐見町に生まれる。東京・大手町の商工中学校から東京美術学校西洋画科に進学し、藤島武二に師事する。この時美校の同級生、中井金三の仲介で大貫カノ(岡本かの子)と知り合い、後に和田英作の媒酌で2人は結婚するが岡本家に受け入れられず、2人だけの新居を構えた。