長谷部 言人(はせべ ことんど、1882年6月10日 - 1… 長谷部 言人(はせべ ことんど、1882年6月10日 - 1969年12月3日)は東京市麹町区(現・東京都千代田区)出身の人類学者、解剖学者。日本学士院会員。
6月生まれ:9,344人
長谷部 言人(はせべ ことんど、1882年6月10日 - 1… 長谷部 言人(はせべ ことんど、1882年6月10日 - 1969年12月3日)は東京市麹町区(現・東京都千代田区)出身の人類学者、解剖学者。日本学士院会員。
菊屋 孫輔(きくや まごすけ、1882年〈明治15年〉6月1… 菊屋 孫輔(きくや まごすけ、1882年〈明治15年〉6月10日 - 1948年〈昭和23年〉1月1日)は、日本の地主・家主、山口県多額納税者。族籍は山口県平民。 山口県阿武郡萩町(現萩市)出身。菊屋剛十郎の長男。1905年、山口高等学校大学予科を卒業する。1908年、京都帝国大学法科大学を卒業する。1923年、家督を相続する。農業を営む。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。宗教は浄土宗。趣味は謡曲宝生流。住所は山口県萩市呉服町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小倉 進平(おぐら しんぺい、1882年〈明治15年〉6月4… 小倉 進平(おぐら しんぺい、1882年〈明治15年〉6月4日 - 1944年〈昭和19年〉2月8日)は、日本の言語学者。朝鮮語研究、日本語研究。日本語研究にも多くの業績があるが、特に朝鮮語研究においてその後の研究の礎を築いた。 1882年、宮城県仙台市生まれ。父は実業家・歌人の小倉茗園。1903年、東京帝国大学に入学し言語学を専攻、卒業論文は「平安朝の音韻」。その後上田萬年の下で国語学研究室助手。1911年朝鮮総督府勤務。1924~1926年にはヨーロッパおよびアメリカに留学。1926年、京城帝国大学教授。1933~1943年、東京帝国大学言語学科主任教授。 主要な業績として1920年『朝鮮語学史』(刀江書院)がある。
青木 保(あおき たもつ、1882年6月4日 - 1966年… 青木 保(あおき たもつ、1882年6月4日 - 1966年3月10日)は、機械工学者。大分県出身。旧姓は工藤。東京帝国大学工学部卒。1920年東京帝大教授。1943年定年退官、名誉教授。兵器の研究、精密機器の研究から、時計の研究に進んだ。1949年に日本時計学会初代会長に就任。
宇井 伯寿(うい はくじゅ、1882年(明治15年)6月1日… 宇井 伯寿(うい はくじゅ、1882年(明治15年)6月1日 - 1963年(昭和38年)7月14日)は、日本の曹洞宗僧侶・インド哲学研究者・仏教学者。学位は、文学博士(東京帝国大学・1921年)。駒澤大学学長、帝国学士院会員、文化勲章受章。 1882年(明治15年)6月1日、愛知県宝飯郡御津町(現・豊川市)に宇井善五左衛門、うい夫妻の五男として生まれる。幼名は茂七。12歳で同郡の曹洞宗の東漸寺の活山卍寿のもとで出家し活翁と号し、伯寿と改名。高等小学校卒業後、小坂井の報恩寺内にあった曹洞宗小学林に入り、さらに合併により愛知中学林(現・愛知中学校・高等学校)に学んだが、ストライキにより1901年(明治34年)退校処分となった。
宇井 伯寿(うい はくじゅ、旧字体:伯壽、1882年(明治1… 宇井 伯寿(うい はくじゅ、旧字体:伯壽、1882年(明治15年)6月1日 - 1963年(昭和38年)7月14日)は、日本の曹洞宗の僧侶、インド哲学研究者、仏教学者、文学博士。日本学士院会員。本名は茂七(しげしち)。
溝部 洋六(みぞべ ようろく、1881年(明治14年)6月2… 溝部 洋六(みぞべ ようろく、1881年(明治14年)6月27日 - 1919年(大正8年)11月6日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍大佐。大分市出身。 溝部竹太郎(三男、四女)の長男として、府内城下中上市町(現大分市中央町)に生まれる。1894年(明治27年)大分県尋常中学校入学。四年の課程を終え、五年次の8月に海軍兵学校を受験し合格。入校時成績順位は137名中第5位。1898年(明治31年)12月海軍兵学校入校(第29期)。卒業時成績順位は125名中第1位(首席、望遠鏡を下賜さる)。1913年(大正2年)海軍大学校(甲種13期)に入校し首席卒業、恩賜の長剣を拝受する。 資性闊達にして明敏、帝国海軍きっての逸材であり将来は将官と期待されたが、戦艦伊勢にて大演習中に病に罹り、38歳の働き盛りで病没。
小穴 喜一(おあな きいち、1881年〈明治14年〉6月26… 小穴 喜一(おあな きいち、1881年〈明治14年〉6月26日 - 1953年〈昭和28年〉6月18日)は、日本の弁護士。書家。号は雨堂。1907年に弁護士登録してから約46年にわたり弁護士として活動した。 1881年(明治14年)6月26日、長野県南安曇郡温村楡(現在の安曇野市三郷温)に小穴善平とちよの二男として生まれた[要出典]。小穴家は、貞享騒動に加担して処刑された小穴善兵衛の末裔家である。 若くして、松本の弁護士界の重鎮であり親戚筋でもある森山儀文治の書生となる[要出典]。 1901年(明治34年)9月、森山儀文治の支援により上京して明治法律学校(明治大学の前身校の一つ)に入学する。1904年(明治37年)7月、明治大学法科(1903年3月専門学校令に基づき明治法律学校から名称変更)を卒業した。
山本 忠興(やまもと ただおき、1881年(明治14年)6月… 山本 忠興(やまもと ただおき、1881年(明治14年)6月25日 - 1951年(昭和26年)4月21日)は、日本の電気工学者、発明家、教育者。 高知県香美郡岩村(現南国市金地)出身。政治家山本忠秀の長男として生まれるが、母親の山本さがは入籍前に死去したため、忠秀の養子として育てられる。 1893年(明治26年)高知県尋常中学校進学、野球やボートなどスポーツに取り組み、英語や体操は得意だったが、数学や図画は不得意だった。1898年(明治31年)同校を首席で卒業し上京、1899年(明治32年)9月第一高等学校入学、剣道や野球、ボートの選手として活躍する。1902年(明治35年)9月東京帝国大学工科大学電気工学科入学、在学中に植村正久の指導でキリスト教に入信。1905年(明治38年)同大学を卒業、芝浦製作所(現東芝)に入所。
岡本 実太郎(おかもと じつたろう、明治14年(1881年)… 岡本 実太郎(おかもと じつたろう、明治14年(1881年)6月25日 - 昭和27年(1952年)4月30日)は日本の官僚、政治家、弁護士。 愛知県西加茂郡猿投村(現豊田市)出身。明治法律学校を卒業し第10回高等文官試験に合格し、1904年に大蔵省入省。 司法官試補、専売局事務官、広島専売局長などを歴任し、1920年退官。 弁護士としては、日本弁護士連合会理事、税務弁理士会監事(民政・愛知)などを務めた。 1924年の第15回衆議院議員総選挙で当選(以後、第16回・第17回・第19回・第20回・第22回と計6回当選)。立憲政友会政務調査会長や立憲民政党総務、農林参与官などを歴任した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
後藤 幸三(ごとう こうぞう、1881年〈明治14年〉6月2… 後藤 幸三(ごとう こうぞう、1881年〈明治14年〉6月22日 - 1977年〈昭和52年〉7月9日)は、大正・昭和期に愛知県名古屋市を拠点に活動した実業家である。株式相場で財を成した後藤安太郎の長男で、日本車輌製造社長や中央製作所社長をはじめ多数の会社役員を務めた。 美術品収集家でもあり、死後の1978年(昭和53年)になって自邸跡に美術品を一般公開する「昭和美術館」が開館した。 1881年(明治14年)6月22日、岐阜県海津郡今尾町(現・海津市)出身。後藤安太郎の長男として生まれた。後藤は1904年(明治37年)7月に京都の第三高等学校を卒業し、1908年(明治41年)7月に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。
石倉 小三郎(いしくら こさぶろう、1881年6月15日 -… 石倉 小三郎(いしくら こさぶろう、1881年6月15日 - 1965年10月30日)は、日本の音楽家、ドイツ文学者。 1881年、東京生まれ。1898年、東京府尋常中学校(現・東京都立日比谷高等学校)を卒業。東京帝国大学を卒業。東京音楽学校講師、第四高等学校(金沢)教授、第八高等学校(名古屋)教授、第七高等学校(鹿児島)教授をつとめた後、高知高等学校校長、大阪高等学校校長、大阪理工科大学予科長。1953年からは相愛女子短期大学教授を務めた。 1903年(明治36年)、東京音楽学校での日本人最初のオペラ(クリストフ・ヴィリバルト・グルック作曲「オルフェオとエウリディーチェ」)の訳詞を、乙骨三郎、近藤朔風などと共に担当し、ラファエル・フォン・ケーベルのピアノ、ノエル・ペリの指揮、実業家の渡部朔(出演者の一人、渡部康三の兄)の資金援助による上演の成功に尽力した。
中島 今朝吾(なかしま けさご、1881年6月15日 - 1… 中島 今朝吾(なかしま けさご、1881年6月15日 - 1945年10月28日)は、日本の陸軍軍人。第16師団師団長、第4軍司令官、階級は陸軍中将。
川上 法励(かわかみ ほうれい、1881年(明治14年)6月… 川上 法励(かわかみ ほうれい、1881年(明治14年)6月10日 - 1944年(昭和19年)7月28日)は、日本の衆議院議員。ジャーナリスト。 新潟県西蒲原郡吉田村(現在の燕市)出身。1909年(明治42年)に早稲田大学政治経済科を卒業し、中国に留学した。『北越新報』記者、同社主筆を経て、新潟中央新聞社社長となった。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
小倉 右一郎(おぐら ういちろう、1881年(明治14年)6… 小倉 右一郎(おぐら ういちろう、1881年(明治14年)6月9日 - 1962年(昭和37年)7月15日)は、日本の彫刻家。香川県出身。 香川県立工芸学校を経て東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科を1907年(明治40年)に卒業。 1908年(明治41年)に「指導」で文展初入選。 1913年(大正2年)に大正博覧会に「霹靂」を出品し、二等銀牌を獲得。以後、官展で次々入賞し、1916年(大正5年)の第10回文展で「闇路の人々」が特選となった。 1920年(大正9年)に渡仏。フランスにおける近代彫刻の巨匠ロダンに師事し、1921年(大正10年)に日本に帰国。その後は滝野川彫刻研究所を創立し、後進を指導した。
楠 基道(くすのき もとみち、1881年〈明治14年〉6月9… 楠 基道(くすのき もとみち、1881年〈明治14年〉6月9日 - 1967年〈昭和42年〉2月25日)は、日本の僧侶、政治家。衆議院議員(1期)。龍谷大学教授。 岐阜県大野郡、のちの揖斐郡大野村(現大野町)出身。1907年、東京帝国大学史学科卒。京都帝国大学大学院に進み、西蔵史を研究する。龍谷大学教授兼図書館長、山東省済南高等師範学校教授、台北高等女学校教諭兼台北高等商業学校教授、台南第二、第一の各高等女学校校長を経て、台湾総督府在外研究員として欧米各国に留学する。帰国後、台北高等学校、台北高等商業学校各教授、台北第一中学校校長を歴任する。仏教更新社を創立、社主となり、月刊紙「更新」を発行した。
武藤 長蔵(むとう ちょうぞう、1881年6月9日 - 19… 武藤 長蔵(むとう ちょうぞう、1881年6月9日 - 1942年6月27日)は、日本の経済学者・歴史家(経済史・経済学史専攻)。長崎高等商業学校(長崎大学経済学部の旧制前身校)の教授を長く務めた。従三位・勲三等。 1881年、愛知県海部郡津島町(現・津島市)に武藤長八の二男として生まれた。東京高商専攻部(のちの旧制東京商科大学、一橋大学の前身)貿易科に進学して、1905年7月に卒業。 卒業後は東亜同文書院講師に就いた。1907年より長崎高等商業学校教授。1909年から 1912年まで、商学研究のためにアメリカ・イギリス・ドイツに3年間留学。この間、小泉信三などと交流をもった。1936年、長崎高等商業学校を退官し、名誉教授となった。
藤井 達吉(ふじい たつきち、1881年6月6日 - 196… 藤井 達吉(ふじい たつきち、1881年6月6日 - 1964年8月27日)は、愛知県碧海郡棚尾村字源氏(現・碧南市源氏町)出身の工芸家・図案家。 1881年(明治14年)6月6日、愛知県碧海郡棚尾村字源氏(現・碧南市源氏町)に生まれた。父親は忠三郎、母親はかぎ。兄が2人、姉が1人、妹が2人いる。母親のかぎは西加茂郡挙母村(現・豊田市)出身である。 藤井は幼少の頃から手先が器用であり、「針吉」や「凧吉」などとも呼ばれていた。 1888年(明治21年)に棚尾学校(現・碧南市立棚尾小学校)に入学し、さらには医師の杉村修平の塾で学んだ。11歳だった1892年(明治25年)に棚尾小学校を卒業し、知多郡大野町(現・常滑市)の木綿問屋である尾白株式会社(尾白商会)に奉公に入った。
草間 偉(くさま いさむ、1881年(明治14年)6月1日 … 草間 偉(くさま いさむ、1881年(明治14年)6月1日 - 1972年(昭和47年)5月12日)は、明治時代後期から昭和時代の土木工学者。 長野県東筑摩郡寿村(現・松本市)の草間代次郎の二男・偉瑳武として生まれる。旧制第一高等学校を経て、1906年(明治39年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、九州鉄道に入社。別府線建設に従事したのち鉄道院に転じ日豊線建設を担当する。1909年(明治42年)母校の東京帝国大学工科大学助教授に転じ、1918年(大正7年)から衛生工学の研究のため、2年間の欧米留学でイリノイ大学、コーネル大学、ハーバード大学などでに微生物学、水理学などを学び、帰国後は逝去した中島鋭治に代わり1921年(大正10年)教授に進み土木工学講座担任となり、1942年(昭和17年)退官した(名誉教授)。
渡 干城(わたり たてき、1881年〈明治14年〉6月 - … 渡 干城(わたり たてき、1881年〈明治14年〉6月 - 没年不明)は、大正期から昭和初期の銀行家。武州銀行東京支店支配人を務めた。父は元老院議官や貴族院議員を務めた渡正元。 貴族院議員・錦鶏間祗候を務めた渡正元の次男として生まれる。早稲田大学を卒業後、1906年に日本銀行へ入行し、1921年に武州銀行東京支店の支配人となる。 弟の渡正監(上海共同租界警視総監)を養子に迎えた。
安藤 袈裟一(あんどう けさいち、1881年(明治14年)6… 安藤 袈裟一(あんどう けさいち、1881年(明治14年)6月 - 1931年(昭和6年)9月29日)は、朝鮮総督府官僚。従四位勲五等。 佐賀県出身。1912年(明治45年)、京都帝国大学法科大学法律科を卒業し、1915年(大正4年)に高等文官試験に合格した。埼玉県警部、同秩父郡長を務めた。1919年(大正8年)、朝鮮総督府事務官に転じ、黄海道警察部長、平安南道警察部長、平安北道警察部長、京畿道警察部長、鉄道局参事、忠清南道内務部長、全羅北道内務部長、京城府尹、咸鏡北道知事を歴任した。 1931年(昭和6年)9月29日、病気のため死去、50歳。死没日をもって正五位から従四位に叙される。
中川 維則(なかがわ これのり、1881年(明治14年)6月… 中川 維則(なかがわ これのり、1881年(明治14年)6月 - 1945年(昭和20年))は、日本の鉱物学者。 神奈川県中郡旭村(現在の平塚市)出身。出縄善太郎の二男として生まれ、中川隣之助の養子となった。1904年(明治37年)、東京帝国大学工科大学採鉱冶金科を卒業し、農商務省東京鉱務署に勤務した。1908年(明治41年)、ドイツに留学。1910年(明治43年)、私立明治専門学校(現在の九州工業大学)教授嘱託となり、1921年(大正10年)に同校が文部省に移管されると教授に就任した。採鉱冶金科長を経て、1933年(昭和8年)からは校長を務めた。1941年(昭和16年)、退官。 その他、九州帝国大学講師、戸畑商工会議所顧問、海外鉱業協会仏印研究所長を務めた。
橋本 精次(はしもと せいじ、1881年6月-1944年5月… 橋本 精次(はしもと せいじ、1881年6月-1944年5月7日)は、日本の漢文学者。旧制第七高等学校教授。 1981年6月、東京府生まれ。士族・橋本自聽(よりさと)の二男。父自聽は鹿児島県の谷山小学校校長に招聘された人物。中学造士館を経て、1904年7月に第七高等学校造士館第一部文科を卒業(第1回卒業生)。第七高等学校での同級生に東郷茂徳外務大臣や池田俊彦第二鹿児島中学(旧制)校長らがいる。1909年、東京帝国大学文科大学支那文学科卒業。長崎県立島原中学校 (旧制)、福岡県立東筑中学校 (旧制)、福井県立大野中学校 (旧制)各教諭を務めた後、1922年から第七高等学校造士館の漢文学教授。卒業生から初の母校教授となる。
末次 信正(すえつぐ のぶまさ、1880年〈明治13年〉6月… 末次 信正(すえつぐ のぶまさ、1880年〈明治13年〉6月30日 - 1944年〈昭和19年〉12月29日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将、従二位・勲一等。第1次近衛内閣の内務大臣。実弟に古河鉱業取締役の末次猛。坊ノ岬沖海戦で戦死した末次信義海軍中佐は長男。 旧徳山藩士・末次操九郎の次男として山口県に生まれる。広島一中から海軍兵学校(27期)に進み、114名中50番で卒業した。卒業席次は平凡であったが、日露戦争に出征後、海軍最高学府である海軍大学校甲種学生(7期)を首席で卒業した。 1910年(明治43年)、海軍砲術学校教官となった末次は、艦の中心線上一列に主砲を装備し、一斉射撃の効率を高める独創案を無断で学生に伝授した。
高橋 新八(たかはし しんはち / しんぱち、1880年(明… 高橋 新八(たかはし しんはち / しんぱち、1880年(明治13年)6月28日 - 1923年(大正12年)4月9日)は、明治から大正期の造船技術者、実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧名・新作。 英学者・高橋新吉の長男として生まれる。父の死去に伴い、1918年(大正7年)12月20日、男爵を襲爵した。 1909年7月(明治42年)東京帝国大学工科大学造船学科を卒業。神戸川崎造船所技師を経て、1917年(大正6年)八千代生命保険監査役に就任。その他、南国護謨監査役、輸出水産取締役、墨田川造船所社長などを務めた。 1922年(大正11年)5月13日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1923年4月8日まで在任した。
西川 義方(にしかわ よしかた、1880年6月28日 - 1… 西川 義方(にしかわ よしかた、1880年6月28日 - 1968年8月27日)は、日本の医師、内科学者。 和歌山県出身。東京帝国大学医学部卒。日本医学専門学校教授、東京医科大学教授。1919年宮内省侍医として大正天皇を診た。1922年の主著「内科診療の実際」はロングセラーとなった。温泉に関する随筆でも知られ、短歌も詠んだ。
逢坂 元吉郎(おうさか もときちろう、1880年6月25日 … 逢坂 元吉郎(おうさか もときちろう、1880年6月25日 - 1945年6月10日)は、日本の牧師、神学者である。既存の教会に限界を感じ、民衆教会を提唱した。 1880年(明治13年)、石川県江沼郡大聖寺町字番場町(現加賀市)に、父 平塚鎌吉、母 きしのの五男として生まれた。後に、逢坂家の養子となる。石川県尋常中学校および第四高等学校に在学中に西田幾多郎の感化を受けて、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学政治学科へ入学した。上京後の1904年(明治37年)、植村正久から洗礼を受けた。一時的に、植村が創立した東京神学社にも籍を置いた。 東京帝国大学を中退し、1908年(明治41年)に渡米。
伊藤 昌庸(いとう まさつね、1880年(明治13年)6月2… 伊藤 昌庸(いとう まさつね、1880年(明治13年)6月20日 - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚、教育者。官選香川県知事。 山形県南村山郡山形香澄町(現:山形市香澄町)で、旧山形藩士・伊藤喜惣の二男として生まれる。貧しさのため小学校入学は9歳で、1894年にはその小学校も退学して山形県庁の給仕として採用され床次竹二郎内務部長付となる。山形郵便局雇員に転じ、書記補試験に合格。 その後、山形県尋常中学校4年に編入し、1900年に卒業。中学同期生の鈴木美通(後に陸軍中将)と共に陸軍士官学校を受験したが、眼病のため不合格となる。1904年、東京高等師範学校英語専修科を卒業し、北海道師範学校教諭に就任。
山崎 達之輔(やまざき たつのすけ、1880年〈明治13年〉… 山崎 達之輔(やまざき たつのすけ、1880年〈明治13年〉6月19日 - 1948年〈昭和23年〉3月15日)は、日本の台湾総督府・文部官僚、政治家。第9・11・20代農林大臣、初代農商大臣、第40代逓信大臣、衆議院議員7期。内務大臣の山崎巌は実弟。 福岡県大川市出身。内務大臣、自治大臣を務めた山崎巌は達之輔の弟に当たる。また、元国土庁長官の山崎平八郎は達之輔・巌兄弟の甥に当たるが、平八郎の実父・四郎(達之輔の弟で巌の兄)が早世したため、子供のいない達之輔が平八郎を引き取って実の子のように育てた。そのため人名事典などでは山崎平八郎を達之輔の子とした記述が散見する。 後の衆議院議長・保利茂は山崎が岡田内閣の農林大臣時代に農相秘書官を務めた。
堀内 伝重(ほりうち でんじゅう、1880年6月18日 - … 堀内 伝重(ほりうち でんじゅう、1880年6月18日 - 1917年6月18日)は、山梨県出身の南米移民者である。「南米太郎」というあだ名でも呼ばれた。実兄は富士身延鉄道、富士山麓電気鉄道(現:富士急行グループ)の創業者で、衆議院議員も務めた堀内良平である。南アメリカでの生活について書き留めたものをまとめた遺稿集『聖母河畔の十六年』は、童話作家の坪田譲治の作品『ペルーの話』『ベニー河のほとり』の着想のもとになった。 1880年(明治13年)6月18日、山梨県東八代郡、のちの黒駒村(現:笛吹市)に、堀内藤右衛門の四男(末弟)として生まれる。幼くして、母が亡くなり、母方の祖母の手で養育される。1892年(明治25年)、高等小学校卒業後に兄達と共に上京して、日本中学校(現:日本学園中学校・高等学校)へ進学した。
河内山 楽三(こうちやま らくぞう、1880年(明治13年)… 河内山 楽三(こうちやま らくぞう、1880年(明治13年)6月16日 - 1930年(昭和5年)11月4日)は、朝鮮総督府官僚。 山口県出身。山口高等学校を経て、1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、大蔵省に入省して主税局属となる。その後、統監府財政監査官、朝鮮総督府事務官、度支部司計課長、財務局長、専売局長を歴任。退官後は朝鮮火災海上保険株式会社社長を務めた。
穴水 熊雄(あなみず くまお、1880年6月15日 - 19… 穴水 熊雄(あなみず くまお、1880年6月15日 - 1958年2月18日)は、日本の明治・大正・昭和期に活躍した実業家・財閥家。甲州財閥の主要人物の一人で、大日本電力(現・北海道電力の前身の一つ)の社長をつとめた他、京王電気軌道(現・京王電鉄)など、経営した企業は約20社に及ぶ。 蛇の目ミシン工業監査役をつとめた穴水勝彦は長男、東京急行電鉄取締役・相模鉄道社長・会長をつとめた穴水清彦は次男である。 山梨県生まれ。輿水家に生まれる。旧制・甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)を卒業し、1906年(明治39年)穴水ゆき の入夫となり家督を相続した。 北海道電灯(大日本電力の前身)専務に就任。
永野 修身(ながの おさみ、1880年〈明治13年〉6月15… 永野 修身(ながの おさみ、1880年〈明治13年〉6月15日 - 1947年〈昭和22年〉1月5日)は、日本の海軍軍人、教育者。 海軍兵学校28期、海軍大学校甲種8期。最終階級および栄典は元帥海軍大将、従二位勲一等功五級。第24代連合艦隊司令長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長。海軍の三顕職(連合艦隊司令長官、海軍大臣、軍令部総長)を全て経験した唯一の海軍軍人であると同時に、大戦中に生前元帥府に列された唯一の海軍軍人でもある。 千葉工業大学の創設発案者。A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンで急性肺炎を患い、米国陸軍病院(US Army Hosp)へ搬送され治療を受けたがその後死亡する。
鮎川 盛貞(あゆかわ もりさだ、1880年(明治13年)6月… 鮎川 盛貞(あゆかわ もりさだ、1880年(明治13年)6月13日 – 1961年(昭和36年)5月28日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(立憲国民党→革新倶楽部)。 福岡県小倉市(現北九州市)出身。豊津中学校(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)を経て、日本法律学校(現日本大学)に学んだ後、法律事務所で経験を積み、小倉市で弁護士を開業した。小倉市会議員に選ばれ、また破産管財人も務めた。 1917年(大正6年)4月、第13回衆議院議員総選挙(福岡県小倉市、立憲国民党)で落選。1920年(大正9年)5月、第14回総選挙(福岡県第4区、立憲国民党公認)に出馬し、当選を果たした。1923年(大正12年)11月13日、衆議院議員を辞職した。
橋本 増吉(はしもと ますきち、1880年6月12日 - 1… 橋本 増吉(はしもと ますきち、1880年6月12日 - 1956年5月19日)は、日本の東洋史学者。 1880年、長崎県諫早で生まれた。長崎中学校、第六高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科に進学。大学では白鳥庫吉、市村瓚次郎の指導を受け、羽田亨、原田淑人らと同学であった。1908年に卒業した。 1909年、早稲田大学文学科講師に就いた(1919年まで)。1910年からは慶應義塾にも出講し、1920年に慶應義塾大学教授となった。1944年に同大学を退任し、名誉教授となった。慶応大学在職中には、1935年から1年間東京文理科大学講師、1939年に東洋大学講師(翌年教授に昇格)を兼任した。1941年4月、学位論文『支那古代暦法史研究』を東京帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。
長島 毅(ながしま はたす、1880年(明治13年)6月8日… 長島 毅(ながしま はたす、1880年(明治13年)6月8日 - 1948年(昭和23年)3月18日)は、日本の裁判官。大審院長を務めた。
藤浪 剛一(ふじなみ ごういち、1880年6月7日 - 19… 藤浪 剛一(ふじなみ ごういち、1880年6月7日 - 1942年11月29日)は、日本の医学者、放射線科医。 1880年、愛知県名古屋市生まれ。獨逸学協会学校(現∶獨協中学校・高等学校)卒、岡山医学専門学校卒業後、同校の病理学教室に入る。1908年よりウィーン大学に留学し、レントゲン学を学ぶ。1912年に帰国して順天堂医院レントゲン科長となり、1920年からは慶應義塾大学の教授を務めた。 レントゲン学の第一人者で温泉学・医学史の分野においても数多くの業績を残している。 慶應義塾大学医学部放射線科学教室初代教授である。 剛一は、偉人や著名人の墓を訪ね歩く掃苔活動を趣味とし、同好団体の東京名墓顕彰会を設立したほどであった。
神津 俶祐(こうづ しゅくすけ、1880年(明治13年)6月… 神津 俶祐(こうづ しゅくすけ、1880年(明治13年)6月5日 - 1955年(昭和30年)2月11日)は、日本の岩石学者・鉱物学者・地球科学者。東北大学名誉教授。理学博士。日本学士院会員。 長野県北佐久郡志賀村(現・佐久市)生まれ。神津清三郎の四男。1905年、東京帝国大学地質学科を卒業。大学院に学んだ。 1907年、農商務技師に任じ、地質調査所技師などを経て1916年、東北帝国大学教授となり、岩石鉱物鉱床学教室を設立した。1917年、理学博士の学位を授与された。1932年、帝国学士院会員。1942年、退官。 1929年、兄で長野電鉄創設者の神津藤平方より分家した。住所は長野県北佐久郡志賀村、宮城県仙台市米ヶ袋下町。
松谷 與二郎(略字表記「松谷与二郎」、まつたに よじろう、1… 松谷 與二郎(略字表記「松谷与二郎」、まつたに よじろう、1880年6月4日 - 1937年3月17日)は、日本の政治家、衆議院議員、弁護士、社会活動家。 石川県金沢市生まれ。1903年、明治法律学校卒業。 1914年に弁護士を開業し、虎の門事件で難波大助の国選弁護人を引き受けるなど、社会運動、小作争議の弁護活動に活躍する。 1926年、日本労農党創立に参加、全国大衆党、全国労農大衆党の顧問を務める。1930年、第17回衆議院議員総選挙において東京6区から日本大衆党の候補として出馬し、衆議院議員に初当選する。その後全国大衆党・全国労農大衆党を経て、1932年には社会大衆党の顧問に就く。しかし満州事変の評価をめぐって社大党と対立して離党し、以後新日本建設同盟・国民同盟・日本国家社会党を経て、1934年に勤労日本党総理となった。
青木 戒三(あおき かいぞう、1880年(明治13年)6月 … 青木 戒三(あおき かいぞう、1880年(明治13年)6月 - 1934年(昭和9年)3月17日)は、朝鮮総督府官僚。 秋田県出身。1905年(明治38年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、大学院に学んだ。高等文官試験に合格し、1908年(明治41年)より石川県事務官を務めた。その後、統監府書記官、同警視、朝鮮総督府書記官、農商工部水産課長、殖産局水産課長、鉄道局長、専売局長を歴任。1925年(大正14年)、全羅北道知事となり、翌年に平安南道知事に転じた。 1929年(昭和4年)に退官した後は、昭和水利組合嘱託を務めた。 1934年(昭和9年)3月17日、肺炎及び糖尿病のため死去、53歳。持病の糖尿病で道立病院に入院中であった同月9日に肺炎を併発していた。
日比 重雅(ひび しげまさ、1880年(明治13年)6月 -… 日比 重雅(ひび しげまさ、1880年(明治13年)6月 - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選鳥取県知事。 本籍・三重県。内務官僚・日比重明の長男として生まれた。第一高等学校を卒業。1906年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し東京府属となる。 以後、山口県事務官、奈良県事務官、香川県事務官、香川県警察部長、和歌山県警察部長、三重県警察部長、岐阜県内務部長、静岡県内務部長、宮城県内務部長などを歴任。 1922年10月16日、鳥取県知事に就任。政府の方針に従い財政緊縮政策を実施した。1924年6月24日、知事を休職となる。1926年6月23日、休職満期となり退官した。
左近司 政三(さこんじ せいぞう、1879年(明治12年)6… 左近司 政三(さこんじ せいぞう、1879年(明治12年)6月27日 - 1969年(昭和44年)8月30日)は、日本の海軍軍人。政治家。最終階級は海軍中将。第3次近衛文麿内閣の商工大臣。鈴木貫太郎内閣の国務大臣。
本野 亨(もとの とおる、1879年(明治12年)6月27日… 本野 亨(もとの とおる、1879年(明治12年)6月27日 - 1951年(昭和26年)2月8日)は、明治から昭和初期の電気工学者。神奈川県出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
田辺 淳吉(たなべ じゅんきち、1879年6月26日 - 1… 田辺 淳吉(たなべ じゅんきち、1879年6月26日 - 1926年7月13日)は主に大正期に活躍した日本の建築家。清水組(現清水建設)の技師として銀行、学校、邸宅等を設計し、後に独立。
藤塚 鄰(ふじつか ちかし、1879年〈明治12年〉6月26… 藤塚 鄰(ふじつか ちかし、1879年〈明治12年〉6月26日 - 1948年〈昭和23年〉12月24日)は、明治-昭和期の日本の漢学者・昭和天皇進講者・帝国大学教授・斯文会理事長・大東文化学院(大東文化大学)総長・位階は従二位・勲等は勲二等。号は素軒。旧姓佐々木、鄰は隣の旧字。 1879年(明治12年)、岩手県前沢村(江戸期の仙台領前沢城下、旧岩手県胆沢郡前沢町、現:奥州市前沢)の佐々木家に生まれる。 1908年(明治41年)、東京帝国大学支那哲学科卒業後、旧制第八高等学校(現:名古屋大学)教授に就任。1923年(大正10年)より中国留学。1928年(大正15年)日本領朝鮮の京城(ソウル)帝国大学新設開校と同時に教授、1931年(昭和6年)に法文学部長となり1940年(昭和15年)、京城帝国大学退職し帰国する。
椙山 正弌(すぎやま まさかず、明治12年(1879年)6月… 椙山 正弌(すぎやま まさかず、明治12年(1879年)6月26日 - 昭和39年(1964年)2月18日)は、岐阜県生まれの尾張藩士族であり、愛知県名古屋市の教育者。椙山女学園初代学園長・理事長。藍綬褒章の受章2回。 尾張藩士・椙山正明の長男として生まれる。椙山家は代々尾張徳川家に仕えた名家であり、士族であった。現在の名古屋の中心、広小路通に面した島田町(現、中区錦2丁目)に屋敷を構えていた。明治2年(1869年)の版籍奉還で父・椙山正明は土地、屋敷などを返上して岐阜県武儀郡高野村に移り、洲原神社神主の職を経て、武儀郡乾村官選戸長を数期務めた。 椙山正弌は明治28年(1895年)3月、岐阜県師範学校(現・岐阜大学教育学部)乙種講習科修了。
塩田 正太郎(しおた しょうたろう、1879年〈明治12年〉… 塩田 正太郎(しおた しょうたろう、1879年〈明治12年〉6月22日 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。香川県三豊郡仁尾町長(初代)。香川県会議員。仁尾塩田(現・仁尾興産)取締役。 香川県三野郡仁尾村(現・三豊市)生まれ。塩田廣太郎の長男。1899年、慶應義塾高等科卒業。1918年、父退隠により家督を相続した。1921年1月から1924年3月まで仁尾村長をつとめた。1924年4月から1925年2月まで仁尾町長をつとめた。 仁尾塩田会社の重役で、三豊紡績会社の重役を兼ねた。また香川県参事会員であった。 1923年頃の社会不安(農民党と地主との対立)について、塩田が出てその間の調停をうまくやり、その手腕は社会から認められた。
児玉 孝顕(こだま のりあき・こうけん、1879年(明治12… 児玉 孝顕(こだま のりあき・こうけん、1879年(明治12年)6月21日 - 1961年(昭和36年)1月10日)は、日本の内務官僚。検事。 東京府に貴族院議員児玉淳一郎の長男として生まれた。1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補、東京区裁判所検事、千葉区裁判所検事を務め、1912年(明治45年)に茨城県事務官に転じた。茨城県警察部長、徳島県警察部長、特許局審査官・事務官、埼玉県警察部長、青森県内務部長、大阪府産業部長、営林局事務官・大阪営林局長を歴任。 退官後は大阪市助役に就任し、その他に大阪府工芸会会長、大阪能率研究会会長、大阪商工会議所顧問、産業協会理事、日本能率聯合会副会長、大阪府方面委員銓衡委員などを務めた。
國枝 博(くにえだ ひろし、1879年6月20日 - 194… 國枝 博(くにえだ ひろし、1879年6月20日 - 1943年8月6日)は、岐阜県出身の建築家。朝鮮総督府に在任中には主任技師として朝鮮総督府庁舎の設計に携わった。その後は大阪市を拠点に活躍した。 1879年(明治12年)6月20日に岐阜県に生まれ、1905年(明治38年)7月に東京帝国大学工科大学建築科を卒業した。1907年(明治40年)8月には韓国統監府技師に任ぜられ、朝鮮総督府工事の主任技師を務めた。1912年(明治45年)4月には欧米各国へ出張している。 1918年(大正7年)9月に高等官3等に昇叙すると、同月には願により退職し、10月には正五位に叙せられた。1919年(大正8年)10月、大阪市に國枝工務所を開設した。
金成 通(かねなり とおる、1879年(明治12年)6月20… 金成 通(かねなり とおる、1879年(明治12年)6月20日 - 1951年(昭和26年)8月10日)は、明治時代末期から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。旧姓・蛭田。 茨城県多賀郡、のちの南中郷村(現北茨城市中郷町)で農業・蛭田源三郎の二男として生まれる。上京して商業を学んだ。福島県石城郡錦村(錦町、勿来市を経て現いわき市錦町)の農業・金成竹太郎の養嗣子となる。再度上京して経済学などを学んだ。 1905年(明治38年)に帰郷して磐東銀行(現東邦銀行)の創立に尽力した。1911年(明治44年)福島県会議員に当選したのを皮切りに、同参事会員、錦村長を歴任する。ほか、鮫南中堅農民学校長、東部電力顧問、植田水力電気社長、磐東銀行、福島県農工銀行各取締役などを務める。