大堀 孝(おおほり たかし、1880年(明治13年)7月20… 大堀 孝(おおほり たかし、1880年(明治13年)7月20日 - 1947年(昭和22年)2月3日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→純正国民党)。 和歌山県和歌山市出身。1900年(明治33年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。翌年、紀州日報社を創刊して社長兼記者となったが、1903年(明治36年)に廃刊となり、政界入りを志すようになった。1909年(明治42年)、和歌山市会議員に選ばれ、副議長となった。 1915年(大正4年)、立憲国民党から第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。第13回衆議院議員総選挙でも再選を果たしたが、普通選挙を主張し、党議に敗れて離党した。
熊谷 岱蔵(くまがい たいぞう、1880年(明治13年)7月… 熊谷 岱蔵(くまがい たいぞう、1880年(明治13年)7月19日 - 1962年(昭和37年)2月19日)は、内科学者、医学博士。東北帝国大学医科大学(後の東北大学医学部)教授、東北帝国大学総長。抗酸菌病研究所初代所長。興亜工業大学顧問を兼任した。 長野県東筑摩郡洗馬村(現:塩尻市)の代々医家の熊谷家に生まれる。熊谷陸蔵の長男。曾祖父には浅田宗伯に医学の薫陶を施した熊谷珪碩がいる。旧制松本中学時代の同級生には吉江喬松がいた。東京外国語学校ドイツ語科に一年間通った後、一高、東京帝国大学医学部卒業後、青山胤通の内科学教室に入局。 1911年(明治44年)から1913年(大正2年)までドイツのベルリン大学・ブレスラウ大学に留学し内科学、免疫学、実験治療、医化学等を学ぶ。
古木 章光(ふるき あきみつ、1880年(明治13年)7月1… 古木 章光(ふるき あきみつ、1880年(明治13年)7月18日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 原籍は静岡県。学習院高等科を経て、1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。台湾総督府財務局、殖産局に勤務し、財務局打狗出張所長、財務局金融課長、財務局税務課長を歴任した。 1924年(大正13年)、新竹州知事に就任し、1927年(昭和2年)に退官した。
小峰 満男(おみね みつお、1880年〈明治13年〉7月18… 小峰 満男(おみね みつお、1880年〈明治13年〉7月18日 - 1935年〈昭和10年〉10月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。旧姓・島村。 茨城県東茨城郡水戸上市備前町(現水戸市)で島村新一の三男として生まれ、多賀郡松原町の酒造業・小峰くりの入夫となり家督を相続した。 1907年(明治40年)明治大学法律経済科、翌年同大学の高等研究科を卒業。松原町議、多賀郡会議員、茨城県会議員となる。また高萩運送、常盤商事、茨城無煙炭礦、水戸ツウリング自動車各(株)取締役社長、多賀製塩所、多賀銀行、多賀電気、久慈川電気工業、東部電力、茨城電力、小里川電気、茨城醤油各(株)取締役を務める。 1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙において茨城2区から立憲民政党公認で立候補してトップ当選し1930年(昭和5年)第17回総選挙で再選し、衆議院議員を2期務めた。
石垣 倉治(いしがき くらじ、1880年〈明治13年〉7月1… 石垣 倉治(いしがき くらじ、1880年〈明治13年〉7月16日 - 1942年〈昭和17年〉4月7日)は、日本の内務・警察官僚。官選長野県知事、長野市長。 山形県北村山郡小田島村(現・東根市)出身。石垣吉蔵の三男として生まれる。第二高等学校を卒業。1910年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し警視庁警部となる。 以後、警視庁警視、南元町警察署長、原庭警察署長、神奈川県警視、福島県警察部長、同県産業部長、香川県警察部長、鹿児島県書記官・内務部長、青森県書記官・内務部長などを歴任し、1929年、長野県書記官・内務部長に就任。 1931年8月、長野県知事に昇格。
雑賀 信三郎(雜賀、さいか しんざぶろう / のぶさぶろう、… 雑賀 信三郎(雜賀、さいか しんざぶろう / のぶさぶろう、1880年(明治13年)7月16日 - 1956年(昭和31年)8月3日)は、明治末から昭和前期の農業技術者、政治家、実業家。衆議院議員、山口県豊浦郡豊東村長。 山口県豊浦郡上保木村(豊東村上保木、菊川町を経て現下関市菊川町大字上保木)で、雑賀敬二郎の息子として生まれる。山口高等学校を経て、1907年(明治40年)東京帝国大学農科大学を卒業した。1908年(明治41)12月、一年志願兵として入営し、1911年(明治44年)4月、陸軍歩兵少尉に任じられ、のち歩兵中尉に昇進。 島根県農業技師に任官。熊本県農業技師に転じ、同県農商課長、熊本県農会幹事、同県産牛馬組合連合会副組長、同県茶業組合連合会顧問、熊本商業会議所特別議員、大日本産業組合熊本支部理事、大日本蚕糸業組合熊本支会商議員、同県実業団体連合会顧問などを務めた。
松岡 俊三(まつおか としぞう、1880年(明治13年)7月… 松岡 俊三(まつおか としぞう、1880年(明治13年)7月14日 – 1955年(昭和30年)2月16日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→自由党)、拓務政務次官。ジャーナリスト。 山形県北村山郡楯岡村(現在の村山市)出身。1899年(明治32年)に浄土宗大学を卒業した後、日本法律学校(現在の日本大学)で学んだ。日露戦争に従軍。都新聞社に入り、政治部記者、副社長、常任監査役、編集顧問を歴任した。 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第21回に至るまで7回当選を果たし、1940年(昭和15年)に発足した米内内閣では拓務政務次官を務めた。この間、1927年(昭和2年)には、議会乱闘事件に関与したとして傷害の容疑で起訴。
梅崎 延太郎(うめざき のぶたろう、1880年(明治13年)… 梅崎 延太郎(うめざき のぶたろう、1880年(明治13年)7月13日 - 1964年(昭和39年)4月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。陸軍士官学校12期、陸軍大学校22期。最終階級は陸軍中将(1931年8月1日)。栄典は従三位勲一等。 1880年(明治13年)7月13日、士族の梅崎信量の長男として生まれる。1916年(大正5年)家督を相続。 1901年(明治34年)陸軍士官学校を卒業し、陸軍少尉に任官する。 それからドイツ、スウェーデンなどに留学し、スウェーデン公使館、デンマーク公使館附武官を勤め、1920年(大正9年)9月27日、騎兵第18連隊長、1928年(昭和3年)3月8日陸軍騎兵学校長、1929年(昭和4年)8月1日騎兵第1旅団長、1930年(昭和5年)12月22日、軍馬補充本部長などを歴任する。
佐藤 剛蔵(さとう ごうぞう、1880年(明治13年)7月5… 佐藤 剛蔵(さとう ごうぞう、1880年(明治13年)7月5日 ‐ 1960年(昭和35年)5月13日)は日本の医師、医学博士、医学教育者。旧姓、夏目。 新潟県長岡藩の士族、夏目洗蔵(長岡洋学校等の教員であった)の弟として生まれ、古志郡立長岡尋常中学校(現在の新潟県立長岡高等学校)を1899年(明治32年)に卒業、1902年に佐藤織居の養子となる。1906年 (明治39年)に京都帝国大学医科大学(現在の京都大学医学部)を卒業し、1907年6月に、1906年開院の平壌同仁医院長として朝鮮半島に渡った。 佐藤は 大韓医院医育課長、1916年京城医学専門学校教授、1924年に京城帝国大学医化学教授を兼任し、 1927年に京城医学専門学校の校長(第7代)を1945年まで務めた。
藤本 幸太郎(ふじもと こうたろう、1880年7月4日 - … 藤本 幸太郎(ふじもと こうたろう、1880年7月4日 - 1967年6月1日)は、日本の商学者・経済学者。専門は、海上保険論・統計学。当時の日本の保険学の最高権威とされた。一橋大学名誉教授。日本統計学会会長、東京海上火災保険監査役等を歴任。また、日本初の商学博士としても知られる。勲二等旭日重光章受章。村瀬春雄門下。 福井県丹生郡生まれ。三重県四日市市川原町出身。小学校時代は常に優等で鳴らし、三重県初の商業学校である四日市商業学校(現三重県立四日市商業高等学校)を第1期生として卒業後、同校で教鞭を執った。その後も母校四日市商業にたびたび貢献し、創立90周年記念に作成された胸像「藤本幸太郎翁」が正面玄関に置かれている。
山本 正夫(やまもと まさお、1880年7月1日 - 194… 山本 正夫(やまもと まさお、1880年7月1日 - 1943年4月5日)は、日本の作曲家、音楽教育者。 1880年、兵庫県出石郡出石松ヶ枝町(現在の豊岡市出石町松枝)生まれ。東京音楽学校本科器楽部でヘルマン・ハイドリヒにピアノを師事し、1903年7月に卒業。卒業期にはラファエル・フォン・ケーベルとノエル・ペリ(英語版)の指導下で歌劇の研究をした。1903年から島根県師範学校に、1909年から東京府豊島師範学校に勤める。師範学校勤務の傍、多くの童謡唱歌や校歌を制作した。退職後の1937年に帝都学園女学校を設立。 1903年7月に日本初のオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』(旧東京音楽学校奏楽堂)に参加。
西山 茂(にしやま しげる、1879年(明治12年)7月31… 西山 茂(にしやま しげる、1879年(明治12年)7月31日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。佐賀県唐津市長。 福岡県三池郡銀水村(現在の大牟田市)出身。京都帝国大学法科大学選科に在学中の1910年(明治43年)、高等文官試験に合格。さらに高等学校卒業学力検定試験に合格して本科に移り、翌年に卒業した。関東都督府属、同警視、同事務官・旅順民政署長、関東庁事務官・奉天警察署長、同警務課長などを歴任。1930年(昭和5年)、北海道庁土木部長に就任し、さらに内務部長に転じた。 退官後の1936年(昭和11年)に唐津市長に選出された。
赤木 格堂(あかき かくどう、1879年(明治12年)7月2… 赤木 格堂(あかき かくどう、1879年(明治12年)7月27日 - 1948年(昭和23年)12月1日)は、衆議院議員。ジャーナリスト。俳人。本名は亀一。 岡山県児島郡小串村(現在の岡山市南区)出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)に在学中、正岡子規に俳句を師事し、『日本附録週報』の代選を任せられた。1902年(明治35年)に卒業した後は、『九州日報』の主筆を務めた。その後、フランスに3年間留学し、植民政策学を専攻した。さらに雑誌『青年日本』を経営し、『国民新聞』『大阪朝日新聞』に寄稿した。 1917年(大正6年)、衆議院議員補欠選挙に立候補し、当選を果たした。 その後、『山陽新報』主筆に就任し、小串村長も務めた。
畑 俊六(はた しゅんろく、1879年(明治12年)7月26… 畑 俊六(はた しゅんろく、1879年(明治12年)7月26日 - 1962年(昭和37年)5月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は元帥陸軍大将。偕行社会長。位階勲等は従二位勲一等功一級。
小早川 常雄(こばやかわ ときお、1879年(明治12年)7… 小早川 常雄(こばやかわ ときお、1879年(明治12年)7月21日 - 1970年(昭和45年)2月)は、日本の実業家。京三製作所創業者。 広島県賀茂郡出身。1906年(明治39年)東京帝国大学工科大学電気工学科卒業後、川越電気鉄道技師長を経て、1907年(明治40年)芝浦製作所(現・東芝)入社。技術部・商務部各副部長を務めた後、1918年(大正7年)独立し、東京電機工業を創業。会社事務所を当時の東京市京橋区の三十間掘に置いたことから、"京橋"と"三十間掘"から一字ずつとって「京三商会」(現・京三製作所)と名付けた。 当初は水力・火力発電所や電気鉄道の計画・設計・工事の請負や出願書類の作成、これらに関わる機械器具類の製造販売を手掛けていたが、その後鉄道信号機の製造を始めた。
山川登美子(やまかわ とみこ、1879年(明治12年)7月1… 山川登美子(やまかわ とみこ、1879年(明治12年)7月19日 - 1909年(明治42年)4月15日)は、滋賀県遠敷郡竹原村(現福井県小浜市)出身の歌人。本名・とみ。弟は小説家の山川亮。 1879年(明治12年)7月19日、滋賀県遠敷郡竹原村(現福井県小浜市)に山川貞蔵、ゑいの4女として生まれる。生家は小浜藩の上級藩士の旧家筋であった。1895年(明治28年)、大阪のミッションスクール梅花女学校に入学、1897年(明治30年)同校を卒業。同年12月、『新声』に短歌を初めて投稿し入選する。 1900年(明治33年)4月、母校の研究生となり英語を専修。同年6月、与謝野鉄幹が創った東京新詩社『明星』の社友となり、8月には鉄幹と与謝野晶子(旧姓・鳳)に出会う。
覚心 平十郎(覺心 平十郎、かくしん へいじゅうろう、前名・… 覚心 平十郎(覺心 平十郎、かくしん へいじゅうろう、前名・政造、1879年〈明治12年〉7月17日 - 没年不明)は、日本の酒造家、資産家、兵庫県多額納税者、会社役員。族籍は兵庫県平民 兵庫県武庫郡西宮町(現・西宮市)の人、先代平十郎の長男。先代は1代にして巨万の富を積んだ。 1913年、家督を相続し、前名・政造を改める。酒造業を営む。また加島屋取締役、恵美酒銀行監査役などをつとめる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。精力は絶倫で、頭脳明晰、統理経営の才に長じる。趣味は囲碁。宗教は真宗。住所は西宮市本町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
曽我 鍛(そが きたう/きとう、1879年(明治12年)7月… 曽我 鍛(そが きたう/きとう、1879年(明治12年)7月15日 - 1959年(昭和34年)12月28日)は、日本の編集者、作家、記者。通称はきたえ。号は正堂、黄塔、鬼塔、青銅散士など。 1879年7月15日、愛媛県西宇和郡布喜川村(現在の西予市三瓶町鴫山)に生まれる。1901年旧制松山中学校卒業、1905年7月早稲田大学文学部卒業。同年9月に帝国大学史料編纂係となる。1906年帝国大学編纂係を依願退職、同年3月に三井家史料編纂の嘱託となる。1911年、病気療養のため三井家史料編纂嘱託を依願退職、帰郷する。帰郷後、療養中に双岩村の委嘱により村誌編集にあたる。 1913年4月、伊予日々新聞(柳原極堂経営)の主筆となる。
古武 弥四郎(こたけ やしろう、1879年7月12日 - 1… 古武 弥四郎(こたけ やしろう、1879年7月12日 - 1968年5月30日)は、岡山県出身の生化学、医化学者。 旧大阪府立高等医学校卒業後、京都帝国大学荒木寅三郎の門下となる。のち大阪帝国大学医学部教授。退官後県立和歌山県立医科大学の設立に参画、同学長。帝国学士院賞。文化功労者。勲二等旭日重光章。アミノ酸、特にトリプトファンの中間代謝の研究で知られる。和歌山県立理科短期大学(1955年廃止)の学長にも就任した。 以下の記述は古武弥四郎が昭和37-38年に邑久町医師会誌「この道」に発表した記事が基になっている。 古武弥四郎の研究経歴を見ると1910年(明治43年)から2年間のドイツ留学が一大転機となったことが分かる。
河野 正義(こうの まさよし、1879年(明治12年)7月1… 河野 正義(こうの まさよし、1879年(明治12年)7月12日 - 1944年(昭和19年)11月18日)は、明治から昭和前期の著述家、実業家、政治家。衆議院議員、大日本国民中学会創立者。 茨城県行方郡、のちの武田村(北浦村、北浦町を経て現行方市)で、農業・河野清次の二男として生れた。小学校卒業後、家庭の事情で進学できず独学で学んだが、当時は適当な講義録がなかったため相当な困難を覚えていた。 1900(明治33年)に上京して出版社に勤務。商用で長野県から東北地方に向かい、秋田県のある寒村で一夜を酒屋で過ごした際に、隣の部屋で高等小学校卒の少年たちが中学講義録で独習をしていたが「此の講義録は非常に六ケ敷くて到底自分等には解しかねる。
大木 彝雄(おおき つねお、1879年(明治12年)7月4日… 大木 彝雄(おおき つねお、1879年(明治12年)7月4日 - 没年不詳)は、日本の宮内官僚。宮中顧問官。 富山県。1906年(明治39年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。宮内省会計審査局勤務、大臣官房総務課勤務、宮内書記官・文書課長、宮内事務官兼式部官・用度課長、同大膳課長を歴任。1933年(昭和8年)、宮中顧問官に任命された。
岩田 衛(いわた まもる、1879年(明治12年)7月2日 … 岩田 衛(いわた まもる、1879年(明治12年)7月2日 - 1942年(昭和17年)6月9日)は、日本の内務官僚。官選県知事、長岡市長。 熊本県出身。岩田春耕の長男として生まれる。第五高等学校を卒業。1905年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し静岡県属となる。1906年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、茨城県事務官、岩手県事務官・警察部長、愛知県警察部長、奈良県内務部長、東京府内務部長などを歴任。 1920年9月、鳥取県知事に就任。災害復旧、結核予防、衛生思想普及などに尽力。1922年10月、福島県知事に転任。1923年10月に休職。1924年4月29日に退官した。
岩元 禧(いわもと き、1879年(明治12年)7月2日 -… 岩元 禧(いわもと き、1879年(明治12年)7月2日 - 1944年(昭和19年)9月14日)は、日本の内務官僚。官選沖縄県知事、鹿児島市長。 鹿児島県鹿児島市出身。士族の四男として生まれる。第七高等学校の第1回卒業生。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。内務省に入り、千葉県属、秋田県事務官、神奈川県理事官・視学官、香川県警察部長、島根県内務部長、茨城県内務部長を歴任。1923年(大正12年)から翌年まで沖縄県知事を務めた。1926年(大正15年)6月23日、休職満期となり退官した。 國學院大學・皇典講究所専務理事を経て、1933年(昭和8年)から1936年(昭和11年)まで第10代鹿児島市長を務めた。
4代目 内田 佐七(よんだいめ うちだ さしち、1878年〈… 4代目 内田 佐七(よんだいめ うちだ さしち、1878年〈明治11年〉7月30日 - 1969年〈昭和44年〉8月8日)は、愛知県知多郡内海(現在の南知多町)出身の実業家。南知多町名誉町民(第1号)。出生名は内田 佐太一(うちだ さだいち)。 1869年(明治2年)には2代目内田佐七によって、内田家の本宅(現在の尾州廻船内海船船主 内田家)が建てられている。1878年(明治11年)7月30日、愛知県知多郡内海字南側39番地にて出生した。父は3代目内田佐七、母はりつ。内田家の長男である。1883年(明治16年)には3代目内田佐七が30歳で早世したため、6歳の幼さで家督を相続し、4代目内田佐七を襲名した。
松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27… 松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。荒尾精の信奉者として、「日中提携」「アジア保全」の運動に生涯をかけたが、ポツダム宣言受諾後、「南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(B級戦犯)を受け、処刑された。
平井 数馬(ひらい かずま、1878年7月26日 - 189… 平井 数馬(ひらい かずま、1878年7月26日 - 1896年1月1日)は、日本の台湾統治初期における教育者で、台湾での近代教育の先駆者の一人。熊本県出身。台湾での活動は短期間に終わったが、その間に台湾の教育制度の基礎を築く重要な役割を果たした。 現在の宇城市に生まれる。 済々黌を卒業。16歳で高等文官試験に合格し、1895年に台湾総督府の通訳官として台湾に赴任した。中国語に堪能だったとされる。 1895年の日本による台湾領有開始とともに、平井は台湾での教育事業に従事。台湾総督府民政局学務部において、台湾人への日本語教育と日本人への台湾土着言語学習の必要性を提唱し、相互理解と混和を目指す教育政策に携わった。
出淵 勝次(でぶち かつじ、1878年(明治11年)7月25… 出淵 勝次(でぶち かつじ、1878年(明治11年)7月25日 - 1947年(昭和22年)8月19日)は、日本の外交官、政治家。外務次官、在アメリカ合衆国日本大使、貴族院勅選議員、参議院議員。位階は正三位、勲等は勲一等。 岩手県第一大区一小区仁王村(現盛岡市梨木町)で旧盛岡藩藩士の次男として生まれる。旧制盛岡中学校(岩手県立盛岡第一高等学校の前身)卒、1902年旧制東京高等商業学校(一橋大学の前身)専門部貿易科卒業。同期に山中千之元国際連盟委任統治委員、高嶋菊次郎元中支那振興総裁、上田貞次郎元帝国学士院会員など。 1902年、外交官及び領事官試験に合格し外務省入省。京城在勤、ドイツ在勤、政務局第一課長を歴任。
原 澄治(はら すみじ、1878年7月23日 - 1968年… 原 澄治(はら すみじ、1878年7月23日 - 1968年1月4日)は、岡山県児島郡藤戸村(現在の倉敷市藤戸町)出身の実業家、地方政治家。旧姓は星島。号は彰邦。倉敷市名誉市民。 実業家として、倉敷紡績(クラボウ)専務、中国民報社(現在の山陽新聞社)役員を務め、大原孫三郎の右腕として実業界で活躍した。 1945年(昭和20年)に辞任するまで系列の奨農土地会長、倉敷絹織(現在のクラレ)取締役、中国信託社長、岡山合同貯蓄銀行頭取、中国銀行取締役などを兼任した。 また1912年(明治45年)から郡議、町議を務め、1918年(大正7年)から1924年(大正13年)までは倉敷町長も歴任した。 1913年(大正12年)に蔵書を寄贈し倉敷旭町小学校(後の倉敷東小学校)内に倉敷図書館を設立。
厚東 篤太郎(こうとう とくたろう、1878年7月22日 -… 厚東 篤太郎(こうとう とくたろう、1878年7月22日 - 1958年9月18日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
東久世 秀雄(ひがしくぜ ひでお、1878年(明治11年)7… 東久世 秀雄(ひがしくぜ ひでお、1878年(明治11年)7月19日 - 1951年(昭和26年)11月18日)は、日本の農商務・宮内官僚、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京府出身。伯爵・東久世通禧の四男として生まれる。1897年(明治30年)12月6日、分家に際し父・通禧の功により男爵を叙爵した。 第一高等学校を経て、1905年(明治38年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年、農商務省に入省し農商務属となる。 以後、農商務省山林局書記、山林局事務官、宮内事務官、帝室林野局事務官、貴族院書記官、同書記官長代理、農商務書記官兼同参事官、皇后宮主事、内匠頭などを歴任。
今城 定政(いまき さだまさ、1878年(明治11年)7月1… 今城 定政(いまき さだまさ、1878年(明治11年)7月19日 - 1958年(昭和33年)12月3日)は、明治後期から昭和前期の政治家、華族。貴族院議員。従二位勲二等、研究会所属。初名・棄彦。 旧堂上家の中山家から分家した今城家(子爵)の当主である。中山孝麿の長男で、今城定徳の婿養子。 学習院や同人社の童子科を中退し、1889年(明治22年)、慶應義塾幼稚舎へ転ずる。1892年(明治25年)12月12日に定政と改名した。1901年(明治34年)に慶應義塾大学部政治科第一回の卒業生となる。同窓には、堀内輝美、久田宗作、松村松太郎らがいる。 1902年(明治35年)、イギリス国王・エドワード7世戴冠式に明治天皇の名代として派遣された小松宮彰仁親王に父が随行した際、通弁役として渡英し、さらにヨーロッパを視察して回る。
山崎 寿春(やまざき としはる、1878年7月18日 - 1… 山崎 寿春(やまざき としはる、1878年7月18日 - 1964年11月19日)は、日本の教育者。駿台グループの創業者でもある。 1878年(明治11年)7月18日、鳥取県で生まれる。1902年(明治35年)に東京外国語学校を卒業後、高岡市立商業学校などで教鞭を執った後に米国へ留学する。リベラル・アーツ・カレッジとして有名なアマースト大学やハーバード大学などで学び、イェール大学大学院で英語学・英文学を修める。帰国後は明治大学教授となり、1918年(大正7年)に東京高等受験講習会(駿台グループ)を神田錦町に設立する。 受験勉強で心身を消耗する学生を憂え、知識や能率的な教育法による才能の開発を始めた。
昇 曙夢(のぼり しょむ、1878年7月17日 - 1958… 昇 曙夢(のぼり しょむ、1878年7月17日 - 1958年11月22日)は、日本のロシア文学者。正教会の信徒であり、ニコライ・カサートキンの門下生の一人としても知られる。晩年には奄美群島の本土復帰運動に尽力した。 奄美群島加計呂麻島実久村芝(現鹿児島県大島郡瀬戸内町)生まれ。本名・直隆。 島の小学校を出ると鹿児島に行き、鹿児島正教会に通い間もなく洗礼を受けた。聖名はパウェル。 1895年、上京。1896年、日本正教会の教育機関である東京の正教神学校に入学。1903年、同校を卒業。在学中から評伝『露国文豪 ゴーゴリ』を執筆し、明治37年(1904年)刊行。卒業と同時に正教神学校講師として心理学・論理学を講じた。
島津 治子(しまづ はるこ、1878年〈明治11年〉7月7日… 島津 治子(しまづ はるこ、1878年〈明治11年〉7月7日 - 1970年〈昭和45年〉2月14日)は、男爵島津長丸(旧宮之城領主)の夫人。男爵島津珍彦(旧重富領主)の娘で、母は島津斉彬の四女・典子。正五位勲四等。不敬罪に問われ検挙された。 明治22年(1889年)華族女学校に入学し、同28年(1895年)卒業。翌年島津久治の遺児・長丸と結婚し、2男4女を産む。夫長丸は教育熱心で、特に女子教育の必要を痛感し、同29年(1896年)鹿児島市平ノ馬場町に私立鶴嶺女学校(現・鹿児島市立鹿児島玉龍中学校・鹿児島玉龍高等学校の前身校のひとつ)を創立した(校長・島津サエ子)。同40年(1907年)治子は同校第3代校長に就任し、経営不振に陥っていた同校の立て直しのため一大改革に着手し、薩摩古来の美風を尊重した良妻賢母の女子教育を推進し、入学者も増加して発展を遂げ、鹿児島の私立学校の先駆的な役割を果たした。
岡本 佃(おかもと つくだ、1878年(明治11年)7月7日… 岡本 佃(おかもと つくだ、1878年(明治11年)7月7日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。北海道釧路市長。 熊本県下益城郡隈庄町(現在の熊本市南区)出身。日本大学に学び、1907年(明治40年)11月に文官高等試験に合格した。熊本県属、同警視、香川県事務官、同理事官・視学官、福島県警察部長などを歴任した。1919年(大正8年)に海軍事務官・臨時南洋群島防備隊民政部附となり、翌年からは台湾総督府に転じ、台北州警察部長、新竹州内務部長、警務局警務課長を歴任した。 退官後の1926年(大正15年)1月18日に釧路市長に選出された。1月20日に就任、市の基盤整備に尽力し、1927年(昭和2年)6月7日に市長を退任した。
塩谷 温(しおのや おん、1878年〈明治11年〉7月6日 … 塩谷 温(しおのや おん、1878年〈明治11年〉7月6日 - 1962年〈昭和37年〉6月3日)は、日本の漢学者。東京帝国大学名誉教授。70代で30代の元芸妓を妻にし、老いらくの恋と騒がれた。 東京市下谷区で漢学者塩谷青山の子として生まれる。号は節山。学習院、第一高等学校を経て、1902年東京帝国大学漢学科を卒業。優等賞を下賜された。一高時代は水泳部に属し、その当時、「デコンショ、デコンショ」と歌う丹波篠山の盆踊り歌をもとに、塩谷がデカルト、カント、ショーペンハウエルの頭文字をとって「デカンショ節」と名付けたとされる。 1905年学習院教授、1906年東京帝国大学助教授。同年からドイツのライプツィヒ大学、清国の北京および長沙に留学し、中国文学研究を行う。
里見 純吉(さとみ じゅんきち、1878年(明治11年)7月… 里見 純吉(さとみ じゅんきち、1878年(明治11年)7月5日 - 1952年(昭和27年)8月3日)は、日本の実業家、社会教育家。大丸社長、大阪ユネスコ協会会長などを務めたほか、大阪夕陽丘学園高等学校および大阪夕陽丘学園短期大学の源流となる大丸洋裁研究所を創設した。 現在の千葉県山武市松尾町に生まれる。1882年、日本基督教会で受洗する。1903年、慶應義塾大学部理財科を卒業。同大学部助手に就き、直後、助手兼舎監となる。 1908年、三越に入社。1919年、業界視察のために欧米に出張する。1921年、三越を退社し、国際労働機関の会議に商業使用人顧問として出席する。 1923年、大丸の上席専務取締役として入社。
中島 秋圃 (なかしま しゅうほ、明治11年(1878年)7… 中島 秋圃 (なかしま しゅうほ、明治11年(1878年)7月5日 - 昭和36年(1961年)11月30日)は、明治時代から昭和にかけて活躍した四条派の日本画家。 東京四谷で、旧佐賀藩士の司法省検事・中島盛有(藤次郎)の長男として生まれる。本名・次郎。明治35年(1902年)7月に東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)日本画科を卒業。秋圃は川端玉章に師事し円山派を学ぶ。納富介次郎の勧誘で、あるいは定塚武敏『富山の美と心』(桂書房、1990年)に録された次郎の長女・久栄の証言によれば、父と同じく佐賀出身の大隈重信より『三年のみ』と勧められ、同年7月に富山県高岡市の県立工芸高校(現・富山県立高岡工芸高等学校)に赴任する。
田嶼 碩朗(たじま せきろう、1878年7月4日 - 194… 田嶼 碩朗(たじま せきろう、1878年7月4日 - 1946年3月30日)は日本の彫刻家。明治期から昭和時代初期にかけて活躍した。福井県出身。 1878年(明治11年)7月4日、福井県三国町(現坂井市)に生まれる。故郷で木彫りを学び、後に上京し東京美術学校彫塑科(現東京芸術大学)に入学、在学中は正木直彦、高村光雲に師事。 卒業後は院展、帝展などで入賞を繰り返した。後に彫刻家として東京と札幌にアトリエを構える。生前は詩人室生犀星と親しかった。 北海道および樺太(現サハリン)で銅像制作を主に手がけたが、その作品の多くは戦時中の金属供出により失われほとんど現存していない。 碩朗の末娘による著作「彫刻家 田嶼碩朗」によれば、1926年(大正15年)5月14日建立のクラーク像(以後単に「元像」)は戦争のために1943年(昭和18年)6月に金属供出され、戦後1948年(昭和23年)10月に胸像再建立のため田嶼の残した元像製作時の石膏原型を使用し元像の造形に忠実に再鋳造を行ったところ、「田嶼が既に他界していたこと」「監修として別の彫刻家である加藤顕清が関わっていたこと」の2点が原因となり、加藤を単独製作者と誤記する状況が発生した、と説明している。
佐藤 功一(さとう こういち、1878年(明治11年)7月2… 佐藤 功一(さとう こういち、1878年(明治11年)7月2日 - 1941年(昭和16年)6月22日)は、日本の建築家。 早稲田大学理工科の建築学科の創始者として知られる。早大建築学科主任に就任してからは、同大の建築教育の基礎を築いた。以後は早大において評議員なども歴任した。 作品としては関東大震災以降のものが多く、日比谷公会堂の設計、大学関連では早稲田大学のシンボルである大隈講堂や、武蔵大学、津田塾大学に作品を39年間で233件残している。また東京女子高等師範学校、日本女子大学校などで教え、女性に対する住教育の草分けでもあった。 佐藤の作品であることが確認されている物件は223件あり、2か月に1件のハイペースで設計していた計算になる。
三島 海雲(みしま かいうん、1878年〈明治11年〉7月2… 三島 海雲(みしま かいうん、1878年〈明治11年〉7月2日 - 1974年〈昭和49年〉12月28日)は、明治・大正・昭和時代の日本の実業家。特に「カルピス」生みの親、カルピス株式会社の創業者として著名。
三吉 務(みよし つとむ、1878年(明治11年)7月1日 … 三吉 務(みよし つとむ、1878年(明治11年)7月1日 - 1975年(昭和50年)7月31日)は、日本の牧師、富士見町教会の第4代目主任牧師である。 1878年高知県長岡郡新改村に生まれる。1899年大阪南教会で鈴木寿一から洗礼を受ける。1902年に明治学院神学部に入学したが、中退する。 1904年4月に日本基督教会の教師試補試験に合格し伝道師に准允される。その後、福井、高槻、大連の教会主任を務めた。1908年渡米してイリノイ州オマハ神学校とプリンストン神学校で学ぶ。 1913年2月に大連教会主任となる。1927年南廉平の後を次いで、富士見町教会牧師に就任する。1948年に辞任し、名誉牧師になる。
小柳 芦太郎(こやなぎ あしたろう、1878年7月1日 - … 小柳 芦太郎(こやなぎ あしたろう、1878年7月1日 - 1946年4月20日)は、現在の富山県砺波市出身で高砂部屋に所属した力士。本名は安ヶ川 芳太郎。164cm、110kg。最高位は西前頭2枚目。 1898年1月初土俵、1903年十両昇進。この頃は将来の力士と期待されたが、立合いが悪い力士だった。1905年1月入幕を果たし、2枚目まで進んだが病を得て十両に陥落。1911年2月限りで廃業。その後は輪島に住み、相撲指導行脚をした。
倉敷 福太郎(くらしき ふくたろう、旧姓・渡部、1878年〈… 倉敷 福太郎(くらしき ふくたろう、旧姓・渡部、1878年〈明治11年〉7月 - 1942年〈昭和17年〉2月4日)は、日本の教育家。学習院名誉教授。族籍は鳥取県平民。位階は正三位、勲等は勲二等。 島根県簸川郡上津村大字上島字和久輪(現・出雲市上島町和久輪)・渡部桑右衛門の四男、渡部金三郎の弟。松江生まれ。 松江中学校、第四高等学校を卒業。東京帝国大学に入り、在学中鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)・倉敷岩太郎の養子となる。1904年に東京帝国大学理科大学数学科を卒業。1925年に家督を相続する。 宮城県立第一中学校教諭を経て後学習院教授に任じ、教務課長を命ぜられる。秩父宮、高松宮、三笠宮などの教育に当る。
山崎 真雄(やまさき まさお、1878年(明治11年)7月 … 山崎 真雄(やまさき まさお、1878年(明治11年)7月 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 熊本県出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、1912年(大正元年)に高等文官試験に合格した。北海道庁属に務めた後、朝鮮総督府事務官、咸鏡北道第二部長、江原道第二部長、警務局保安課長、中枢院書記官を歴任した。またシベリア出兵の際には浦塩派遣軍司令部政務部嘱託を務めた。1928年(昭和3年)、大邱府尹に就任した。
河井 道(かわいみち、1877年7月29日 - 1953年2… 河井 道(かわいみち、1877年7月29日 - 1953年2月11日)は、日本の女性教育者。元日本YWCA同盟総幹事、恵泉女学園の創立者。クリスチャン。世界恐慌から第二次世界大戦に到る中で平和主義を掲げ、戦後に昭和天皇への戦争犯罪訴追が回避された動きにも大きく関わった。三重県宇治山田市(現伊勢市)出身。
武石 弘三郎(たけいし こうざぶろう、1877年(明治10年… 武石 弘三郎(たけいし こうざぶろう、1877年(明治10年)7月28日 - 1963年(昭和38年)5月11日)は日本近代の彫刻家。政財界や各界の著名人の銅像を数多く手がけた。 新潟県南蒲原郡中之島村の庄屋の家に生まれる。東京美術学校塑像科で長沼守敬に学び、1901年(明治34年)卒業。ベルギーに8年間滞在し、その間にブリュセル国立美術学校に学んだ。 1909年(明治42年)帰国。同郷の石黒忠悳の知遇を得て、その関係で松本順・石黒忠悳像や森鴎外像の制作を手がけた。 文部省展覧会、帝国美術院展覧会に出品。明治末から昭和戦前期にかけて数多くの人物像を制作した。また、早稲田大学理工学部建築学科の講師を務め、多くの建築家を育てた。
久田 吉之助(ひさだ きちのすけ、1877年〈明治10年〉7… 久田 吉之助(ひさだ きちのすけ、1877年〈明治10年〉7月24日 - 1918年〈大正7年〉11月24日)は、日本の陶工。タイル・西洋瓦・テラコッタを製造した、日本近代建築陶材の先駆者のひとり。 愛知県知多郡西浦町(現常滑市)の裕福な海運業者の家に生まれる。 建築陶材の製造を志し、自宅の表庭に小窯を築造し、2年間、寝食を忘れて建築資材の改良を研究した。「生命までもなくしてもとうてい世に売り出すようなものはできないから、今日限りやめるように」との忠告にも耳をかさず、窯資料機械器具の改良、工場の拡張を重ね、1904年(明治37年)、遂に平瓦(タイル)の特許を得るに至った。 赤煉瓦が主流だった日本の洋風建築でも、白色煉瓦や貼付化粧煉瓦、擬石軒蛇腹、装飾テラコッタなど、多様な建築材料が使われ始めていた。
波多野 精一(はたの せいいち、1877年7月21日 - 1… 波多野 精一(はたの せいいち、1877年7月21日 - 1950年1月17日)は、日本の哲学史家・宗教哲学者。玉川大学第2代学長。
柴田 常恵(しばた じょうえ、1877年〈明治10年〉7月1… 柴田 常恵(しばた じょうえ、1877年〈明治10年〉7月18日 - 1954年〈昭和29年〉12月1日)は、日本の考古学者。慶應義塾大学講師・文化財専門審議会委員などを歴任。 1877年、愛知県春日井郡大曽根村(現・名古屋市東区)の浄土真宗・瑞忍寺の住職の三男として生まれた。1897年に上京し、苦学しながら私立真宗東京中学高等科に入り、さらに私立郁文館内の史学館で歴史学を学んだ。この頃、坪井正五郎の講演を聴き、考古学に興味を持ったという。1902年に東京帝国大学雇となり、理学部人類学教室に勤務し、1906年には理科大学助手となった。坪井を助け、『東京人類学雑誌』の編輯にあたり、各地の遺跡・遺物の調査に従事した。