青野 武一(靑野武一、あおの ぶいち、1899年(明治32年… 青野 武一(靑野武一、あおの ぶいち、1899年(明治32年)9月7日 - 1959年(昭和34年)12月9日)は、大正・昭和期の労働運動家、政治家。位階は正五位。 衆議院議員(4期)。配偶者は青野 喜代子。長男は青野 宏、次男は青野 徹、孫は青野 義弘、青野 光俊[要出典]。 愛媛県新居郡、のちの西条市で生まれる。高等小学校を卒業後、八幡製鐵所に入り職工として勤務。日本労友会に加わり、1920年(大正9年)同製鐵所の大争議に参加した。日本労友会が解散した後、1925年(大正14年)九州民権党が結成され執行委員に就任。その後、日本大衆党、労農大衆党、社会大衆党、日本無産党などの八幡支部書記長を務めた。
西川 政一(にしかわ まさいち、1899年9月5日 - 19… 西川 政一(にしかわ まさいち、1899年9月5日 - 1986年6月4日)は、日本の経営者。日商岩井社長、会長を務めた。兵庫県氷上郡竹田村(現在の丹波市)出身。 1924年に神戸高等商業学校(現神戸大学)を卒業し、同年に鈴木商店に入社した。1928年に高畑誠一、永井幸太郎に誘われて、日商の設立に加わり、1958年11月には社長に就任した。岩井産業との合併に尽力し、1968年に日商岩井初代社長に就任した。1969年11月から1972年6月までに会長を務めた。 バレーボール選手でもあり、日本のバレーボールの先達・多田徳雄に神戸高商時代にバレーボールの指導を受け、日本代表(全日本)にも選ばれた。その後多田らと関西排球協会を設立し、普及活動にも力を入れ、1948年5月から1977年3月までに日本バレーボール協会会長も務めた。
金 声浩(キム・ソンホ、朝鮮語: 김성호/金聲浩、1899年… 金 声浩(キム・ソンホ、朝鮮語: 김성호/金聲浩、1899年9月5日または1900年 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の検察官、裁判官、弁護士、実業家、政治家。初代全羅南道議会(朝鮮語版)議員、第3代韓国国会議員を歴任した。 全羅南道康津郡出身。日本大学専門部法科卒。朝鮮弁護士試験・高試司法科合格。光州地方法院木浦支庁上席検事・首席判事、光州地検木浦支庁長、東光学校校長、大韓国民党木浦市党委員長、初代全羅南道議会議員、韓国金属工業会長、国民会木浦支部支部長、自由党全羅南道党副委員長、朝鮮建国青年会全南委員長、木浦体育会会長、第3代国会金融界不正事件および農林部疑惑事件国政監査特別委員会委員長を務めた。
杉山 亮太郎(すぎやま りょうたろう、1899年 <明治32… 杉山 亮太郎(すぎやま りょうたろう、1899年 <明治32年> 9月5日 - 1974年 <昭和49年> 11月12日)は、日本の経営者、銀行家。清水銀行頭取を務めた。位階は従五位。 静岡県出身。1923年に早稲田大学商学部商学科を卒業し、同年9月に駿州銀行(のちの清水銀行)に入行。 1940年4月に常務を経て、1947年2月には頭取に就任した。1971年4月には会長に就任。 1960年5月に黄綬褒章を受章し、1969年11月に勲四等瑞宝章を受章した。 1974年11月12日、心筋梗塞のため死去した。75歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
大島 亮吉(おおしま りょうきち、1899年9月4日 - 1… 大島 亮吉(おおしま りょうきち、1899年9月4日 - 1928年3月25日)は、大正から昭和初期にかけての日本の登山家・作家。登山に関する多くの文章を著したが、登山中の遭難により死亡した。 東京府東京市芝区桜川町(現在の東京都港区虎ノ門)で大島善太郎・さく夫婦の三男として生まれる。祖父・大島善十郎は越中八尾出身で、東京に出て煙草の販売業を営んできたが、煙草の専売化によって廃業に追い込まれた。しかし、それまでの利益で買った貸家からの収益で、家族はそれなりの生活ができていたという。12歳の時に喘息の発作で倒れ、八尾に住んでいた伯母の元で療養生活を送っている。1914年、八尾尋常高等小学校高等科を卒業したのを機に帰京して慶應義塾商工学校に入学する。
蔵原 伸二郎(くらはら しんじろう、1899年〈明治32年〉… 蔵原 伸二郎(くらはら しんじろう、1899年〈明治32年〉9月4日 - 1965年〈昭和40年〉3月16日)は熊本県出身の詩人、作家、評論家。 熊本県阿蘇郡黒川村(現在の阿蘇市)に生まれる。本名は蔵原惟賢(これかた)。父惟暁は神官で阿蘇神社の直系。母いくは医学者北里柴三郎の妹。 7歳で熊本市に移住。旧制九州学院中学校在学中から中国詩に親しむ。19歳で上京し、慶應義塾大学文学部仏文科に学ぶ。同級に青柳瑞穂や石坂洋次郎がいた。1923年、大学在学中に萩原朔太郎『青猫』に触発されて詩を書き始め、『三田文学』『コギト』に作品を発表。のち、東京外国語学校のロシア語科に通っていたことが発覚したため、二重学籍を理由に慶應義塾大学から退学処分を受ける。
大場 磐雄(おおば いわお、1899年9月3日 - 1975… 大場 磐雄(おおば いわお、1899年9月3日 - 1975年6月7日)は、日本の考古学者。國學院大學教授。旧姓は谷川だが、昭和3年(1928年)、母方の大場家を相続し、以後、大場姓となる。楽石と号す。 古代日本の信仰あるいは精神世界に関心を持ち、神道や祭祀遺跡などの遺跡を研究した。中でも、神道考古学を体系化した。本人が「私の考古学はただの考古学ではない。考古民俗学(または民俗考古学)だ」と言うように、文献史学・民俗学・考古学三位一体のスケールの大きな古代日本の研究が特徴である。主著は『大場磐雄著作集』(全8巻)にまとめられている。
都甲 徠(とごう きたる、1899年(明治32年)9月3日 … 都甲 徠(とごう きたる、1899年(明治32年)9月3日 - 1991年(平成3年)2月17日)は、日本の陸軍軍人。陸士33期卒(歩兵)。最終階級は陸軍少将。 大分県速見郡山香町(現:杵築市)出身。農業・都甲喜佐久の三男として生まれる。宇佐中学校(現大分県立宇佐高等学校)卒業を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第64連隊付となる。1932年(昭和7年)11月、陸軍大学校(44期)を卒業した。 1932年(昭和7年)12月、歩兵第37連隊中隊長に就任。1933年(昭和8年)12月、参謀本部付勤務(支那課)となり、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員、北京・太原・長沙駐在)、中国駐在を務め、1936年(昭和11年)8月、歩兵少佐に進級。
川内 唯彦(かわうち ただひこ、1899年9月1日 - 19… 川内 唯彦(かわうち ただひこ、1899年9月1日 - 1988年4月13日)は、日本の社会運動家。 福岡県出身。東京外国語学校(現東京外国語大学)卒。1922年日本共産党に参加、モスクワのコミンテルン第4回大会に出席した。プロレタリア科学研究所、唯物論研究会などに在籍し、マルクス主義文献の翻訳などを行った。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
碓井 忠平(うすい ちゅうへい、1899年〈明治32年〉9月… 碓井 忠平(うすい ちゅうへい、1899年〈明治32年〉9月 - 没年不明)は、昭和時代の朝鮮総督府官僚。弁護士。黄海道知事。 碓井忠治の長男として山口県に生まれる。1922年(大正11年)高等試験に合格し、翌年東京帝国大学法学部法律学科を卒業する。朝鮮総督府に奉職し、警察講習所教授、専売局事務官、農林局土地改正課長、殖産局商工課長、総督官房人事課長などを経て、1940年(昭和15年)10月、総督官房審議室主任となる。その後、1942年(昭和17年)10月、黄海道知事に就任した。1944年(昭和19年)退官した。 朝鮮飛行機工業専務を経て、終戦後は弁護士を開業した。
簾 彦次郎(すだれ ひこじろう、1899年9月 - 没年不明… 簾 彦次郎(すだれ ひこじろう、1899年9月 - 没年不明)は、日本の発明家。 愛媛県桜井町(現在の今治市)出身。1918年に大阪市関西電業株式会社に機械仕上工として入社した。1919年に大阪電灯安治川発電所に機械修繕工に転職し、1922年に技手補となった。大阪電灯解散後は大同電力株式会社に引き継がれ、1928年3月まで勤務した。その後、大阪製図学校特許部を経て、針布製造機の試作を行った。 1933年(昭和8年)に帝国発明協会の全国発明表彰により、進歩賞が授与されている。
服部 直彰(はっとり なおあき、1899年(明治32年)9月… 服部 直彰(はっとり なおあき、1899年(明治32年)9月 - 1949年(昭和24年)10月17日)は、日本の内務・警察官僚。官選高知県知事、陸軍司政長官、中国地方副総監。 熊本県鹿本郡大道村藤井(現山鹿市)出身。熊本県立鹿本中学校、第五高等学校を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し千葉県属となる。 以後、大分県警察部勤務、山梨県警察部勤務、大阪府警察部勤務、京都府事務官、鹿児島県書記官・警察部長、警視庁保安部長、同刑事部長、福岡県総務部長、大阪府総務部長などを歴任。 1941年1月、高知県知事に就任。戦時体制の整備などに尽力。
不破 武夫(ふわ たけお、1899年9月 - 1947年12… 不破 武夫(ふわ たけお、1899年9月 - 1947年12月27日)は、日本の法学者。 東京府東京市出身。第一高等学校を卒業し、1923年東京帝国大学法学部法律科を卒業。1925年3月に司法官試補となり、1926年11月に東京地方裁判所判事・東京区裁判所判事となる。同助手(恩師:牧野英一)を経て、1929年2月、京城帝国大学助教授に着任。1930年6月に教授昇進。1939年、九州帝国大学教授となり、同法文学部長をつとめた。1947年、学習院次長。1948年、「未必の故意」を九州帝国大学に提出して法学博士号を取得。
高梨 乙松(たかなし おとまつ、1898年〈明治31年〉9月… 高梨 乙松(たかなし おとまつ、1898年〈明治31年〉9月30日 - 1943年〈昭和18年〉7月6日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(大阪府第三区選出、当選1回)。 鳥取県西伯郡外江村(現在の境港市外江町)に生まれる。万太郎の三男。1920年(大正9年)に関西大学を卒業し、1921年(大正10年)に弁護士試験に合格。弁護士事務所を開業した。一般民刑事件の依頼に応じる。 1913年(大正2年)以来国民党の政策に共鳴し、旧党解散の後革新倶楽部となり、更に革新党となるのに伴って一貫して行動を共にする。革新党大阪支部長として同党内に重きをなす。 司法省委員となる。その他、榎本鋳造鉄工所監査役、油谷機械工作所監査役、油谷重工業常監などを務めた。
大西 禎夫(おおにし よしお、1898年〈明治31年〉9月2… 大西 禎夫(おおにし よしお、1898年〈明治31年〉9月28日 - 1966年〈昭和41年〉3月30日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(3期)。 香川県三木郡氷上村長楽寺(現三木町長楽寺)で大西行礼の三男として生まれる。高松中では野球部に入部し、1915年にはエースとして第1回甲子園への出場を果たしている。1921年(大正10年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。 卒業後は帰郷して讃岐信託に入社。そのかたわら母校・高松中の野球部監督に就任。26年夏、28年春夏連続の甲子園出場を果たしている。その後1935年には讃岐信託の常務となった。 1945年(昭和20年)高松琴平電気鉄道社長に就任して、21年間在任した。
酒井 忠英(さかい ただひで、1898年(明治31年)9月2… 酒井 忠英(さかい ただひで、1898年(明治31年)9月28日 - 1942年(昭和17年)1月21日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・正夫。 子爵・酒井忠亮の二男として生まれる。 1923年(大正12年)東京商科大学を卒業。1924年(大正13年)横浜正金銀行に入行。その後、内外食品取締役、同監査役などを務めた。 父の死去に伴い、1928年(昭和3年)10月15日、子爵を襲爵した。 1940年(昭和15年)4月27日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、死去するまで1期在任した。
伊藤 貞市(いとう ていいち、1898年9月27日 - 19… 伊藤 貞市(いとう ていいち、1898年9月27日 - 1980年10月10日)は、日本の地球科学者。専門は、鉱物学・結晶学。学位は、理学博士(東北帝国大学・論文博士・1939年)。東京大学名誉教授。1968年勲二等瑞宝章受章。大阪市出身。シカゴ大学などに在籍し、鉱物学者として活躍した伊藤順は貞市の子息である。 1954年、大分県木浦鉱山から新鉱物「亜砒藍鉄鉱」を発見し記載した。1960年、ナミビアで発見された新鉱物が「伊藤石」(itoite) と命名された。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
外村吉之介(とのむら きちのすけ、1898年(明治31年)9… 外村吉之介(とのむら きちのすけ、1898年(明治31年)9月27日 - 1993年(平成5年)4月15日)は、民藝運動家、染織家。滋賀県出身。甥に歌人の塚本邦雄(1920年 - 2005年)がいる。 1898年(明治31年)9月27日、滋賀県神崎郡五個荘町川並(現東近江市五個荘川並町)生まれ、1925年(大正14年)に関西学院神学部を卒業した後、1932年(昭和7年)手織物の創作活動を開始した。国画会会員、日本民芸協会常任理事などを歴任し、1993年(平成5年)4月15日死去した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
大森 義太郎(おおもり よしたろう、1898年〈明治31年〉… 大森 義太郎(おおもり よしたろう、1898年〈明治31年〉9月26日 - 1940年〈昭和15年〉7月28日)は、日本のマルクス経済学者。筆名に成瀬 光雄がある。 神奈川県横浜市で大森啓助の子として生まれる。1922年(大正11年)東京府立四中から一高を経て、東京帝国大学経済学部卒。卒業と同時に同学部助手。1924年(大正13年)東京帝大助教授。 1928年(昭和3年)4月、赤化教授への政府の弾圧が徹底的であり、早晩退職を余儀なくされるとして、先手を打つように辞表を提出して辞職。以後は講壇ジャーナリストとして生活することになる。 1933年(昭和8年)に『唯物弁証法読本』を出版。 1937年(昭和12年)の人民戦線事件で検挙される。
長崎 明(ながさき あきら、1898年 (明治31年)9月2… 長崎 明(ながさき あきら、1898年 (明治31年)9月26日 - 没年月日不明 )は日本の哲学者。元八幡大学教授。岡山県出身。 備前岡山の池田家家老 日置健太郎を母方の祖父とする名門の家に生まれる。父親、長崎常は札幌農学校で内村鑑三と共にクラーク博士に学んだ農務省官僚であった。なお、常は九州法学校創設時に宇賀田順三と親交があった人物。母キヨは日本画壇の女流画家。 明は岡山一中から慶応義塾、松本高等学校を経て東京帝国大学文学部哲学科に入学、美学を専攻し伊藤吉之助に師事する。卒業後西南学院専門学校、九州専門学校で教鞭を執る。1947年、宇賀田順三の要請により 戸畑専門学校開校時に教授に就任。1948年から1956年まで八幡大学教授(1954年に法経学部長就任)。
植村 武一(うえむら たけいち、1898年〈明治31年〉9月… 植村 武一(うえむら たけいち、1898年〈明治31年〉9月26日 - 1999年〈平成11年〉5月4日)は、大正から昭和期の獣医師、政治家。衆議院議員(2期)。 奈良県奈良市般若寺町で生まれる。1919年(大正8年)東京帝国大学農科大学獣医学実科を卒業した。 牧場、牛乳商を経営。奈良県獣医師会長を務めた。 政界では、奈良市会議員、同議長、奈良県会議員、同副議長を務めた。1940(昭和15年)11月、大政翼賛会奈良県支部常務委員に就任。1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け奈良県全県区から立候補して当選した。この間、拓務省委員、大東亜省委員、翼政会政調厚生・農林兼務委員などを務めた。
佐藤 晴雄(さとう はるお、1898年9月26日 - 198… 佐藤 晴雄(さとう はるお、1898年9月26日 - 1986年12月2日)は、日本の実業家。 山梨県出身。1924年に東京帝国大学政治科を卒業し、同年に満鉄に入社し、東京支社長などを歴任し、1945年までに勤務した。 1964年5月から京浜急行電鉄社長に就任し、1969年11月から会長に就任した。社長在任中は都営地下鉄浅草線との相互乗り入れなど鉄道の輸送力増強に力を入れ、湘南モノレールの開業にも携わった。 1967年から1969年までに日本民営鉄道協会副会長を務め、満鉄会理事長や日本経済団体連合会理事やホテルパシフィック東京社長・会長、日本ホテル協会理事なども務めた。 1974年に勲二等瑞宝章を受章した。
成重 光真(光眞、なりしげ みつま、1898年(明治31年)… 成重 光真(光眞、なりしげ みつま、1898年(明治31年)9月23日 - 1980年(昭和55年)10月4日)は、大正から昭和期の鉄道技術者、労働運動家、実業家、政治家。衆議院議員、小倉市会議長。 大分県西国東郡、のちの真玉村(真玉町を経て現豊後高田市)で、代々庄屋を務めた成重家に生まれる。実家が破産し一家で小倉市に移った。1918年(大正7年)小倉工業学校(現福岡県立小倉工業高等学校)機械科を卒業した。 大連に渡り、大連機械、山東鉄道(膠済線)で勤務し、同鉄道従業員組合長を務め、1923年(大正12年)山東鉄道が中国に還付され帰国した。鉄道省門司鉄道局技手に任官し小倉工場に配属された。現業委員会小倉支部長に3期在任。
川野 芳満(川野 芳滿、かわの よしみつ/ほうまん、1898… 川野 芳満(川野 芳滿、かわの よしみつ/ほうまん、1898年(明治31年)9月22日 - 1979年(昭和54年)7月2日)は、日本の政治家、衆議院議員(9期)。 現在の宮崎県宮崎市で生まれた。1919年(大正8年)慶應義塾大学専修科卒業。 宮崎市議会議員、宮崎県通貨安全委員会会長を経て、1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に日向民主党から初当選、日本自由党から自由党、自由民主党へと所属政党を替えながら当選9回。両院法規委員会委員長、大蔵委員会、運輸及び交通委員会、社会労働委員会各委員長を経て、第三次鳩山内閣の通商産業政務次官となる。藍綬褒章を受章し、証券民主化議員連盟委員長、宮崎県酒造組合、全国酒卸協同組合各連合会長、全国酒造組合中央会理事などを務めた。
本田 弘敏(ほんだ ひろとし、1898年9月22日 - 19… 本田 弘敏(ほんだ ひろとし、1898年9月22日 - 1981年10月18日)は、日本の実業家。東京ガスの社長や会長、日本ガス協会会長、東京商工会議所副会頭や日本社会人野球協会会長、日本バドミントン協会会長等を務めた。勲二等旭日重光章受章。 1921年東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業し、東京ガス入社。取締役供給部長、副社長等を経て、1953年社長就任。戦後の首都圏の都市ガス整備を行った 日本ガス協会会長、東京商工会議所副会頭や日本社会人野球協会会長、日本バドミントン協会会長、社団法人如水会理事長等も務め、1968年に勲二等旭日重光章受章。 1981年10月18日、肝不全のため東京女子医科大学病院で死去、享年83。
白鳥 義三郎(しらとり ぎさぶろう、1898年(明治31年)… 白鳥 義三郎(しらとり ぎさぶろう、1898年(明治31年)9月21日 - 1965年(昭和40年)12月27日)は日本の千葉県出身の教育者・政治家。千葉県津田沼町長、習志野市初代市長などを歴任。習志野市立習志野高等学校の創立に尽力した。 白鳥与惣左衛門の四男として千葉県千葉郡津田沼町久々田に生まれる。1926年(大正15年)、ベルリン工科大学建築科を卒業、帰国後は東京で教師をつとめた後、合理主義と人道主義の精神に徹した政治活動を展開。 1947年(昭和22年)、公選首長として津田沼町長となり、1955年(昭和30年)、習志野市制が施行されて連続2期市長に当選、文京住宅都市としての習志野市の基礎を築き、大いに地方自治を推進した文化人市長として知られた。
中山 伊知郎(なかやま いちろう、1898年9月20日 - … 中山 伊知郎(なかやま いちろう、1898年9月20日 - 1980年4月9日)は、日本の経済学者。経済学博士(東京商科大学・1939年)。一橋大学初代学長、一橋大学名誉教授。日本における近代経済学の導入に貢献した。1963年から1980年まで日本学士院会員。1968年文化功労者。第4期日本学術会議副会長。従二位勲一等旭日桐花大綬章。勲一等瑞宝章受章。 父である中山朝之助は福島の平(現・いわき市)で生まれ、その後三重の宇治山田(現・伊勢市)で山田朝報という新聞社を創業し、主筆を務めた。旧制宇治山田中学(現・三重県立宇治山田高等学校)、神戸高等商業学校(現・神戸大学)を経て、1923年に東京商科大学(現・一橋大学)本科を卒業し、同年4月、東京商科大学大学助手に就任。
降旗 徳弥(ふるはた とくや、1898年9月18日 - 19… 降旗 徳弥(ふるはた とくや、1898年9月18日 - 1995年9月5日)は、日本の政治家、実業家。信濃日報社長、信越放送取締役、長野放送社長、衆議院議員、第2次吉田内閣の逓信大臣、松本市長などを歴任した。映画監督の降旗康男は三男。
川村 秀文(かわむら ひでふみ、1898年〈明治31年〉9月… 川村 秀文(かわむら ひでふみ、1898年〈明治31年〉9月18日 - 1981年〈昭和56年〉3月2日)は、日本の内務・厚生官僚。官選千葉県知事、学校法人川村学園理事長・学園長。 秋田県鹿角郡花輪町出身。内務官僚・川村竹治の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1922年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、内務省に入省し東京府属となる。 以後、内務省大臣官房会計課長、欧米各国視察(1931年)、国際労働総会政府代表随員(1931年、ジュネーヴ開催)、社会局書記官・保険部監査課長、厚生省保険院総務局企画課長、厚生省保険院総務局長、厚生省社会局長などを歴任。
千原 繁子(ちはら しげこ、1898年〈明治31年〉9月17… 千原 繁子(ちはら しげこ、1898年〈明治31年〉9月17日 - 1990年〈平成2年〉5月25日)は、日本の医師。沖縄県出身者で初の女医。終戦後の沖縄の女性たちの生活苦による不条理妊娠など、悲惨な事態に立ち会い、また民法改正運動や母子保健など、広い範囲にわたって活動を行った。 沖縄県那覇区若狭町で誕生した。旧姓は渡嘉敷。幼少時に両親が離婚、母のもとで極貧の生活を送った。小学校の成績は常に総代であり、父から「女学校に出してやる」といわれて父のもとへ引き取られた。父は沖縄で初の学校長となった人物、沖縄初の視学であり、繁子は父から強い影響を受けた。父が沖縄人として本土の人間から見下されていたこと、父のもとでの生活も豊かではなかったことで、早くから自立心を培われて育った。
須藤しげる(すどう しげる、1898年(明治31年)9月17… 須藤しげる(すどう しげる、1898年(明治31年)9月17日 - 1946年(昭和21年)2月3日)は、日本のイラストレーター。愛知県豊田市(旧挙母町)出身。本名は須藤源重(げんじゅう)。本名でも作品を発表。大正時代から昭和時代にかけて多くの雑誌や絵本などに挿絵を描き、抒情画家として活躍した。 彼の生家は代々麩屋を営む商家だった。1904年(明治37年)4月、挙母町尋常小学校(現豊田市立挙母小学校)入学。大人しい少年で、友人と矢作川へ釣りに出かけたり、塩や酒を運ぶ帆船を見に行ったりしていた。こういった彼の少年時代の資料はほとんど残っておらず、彼を直接知る人も今ではほとんどいない。今も、挙母小学校には彼が20歳の時、挙母に戻った際に描いた油絵が掛けられている。
留岡 清男(とめおか きよお、1898年9月16日 - 19… 留岡 清男(とめおか きよお、1898年9月16日 - 1977年2月3日)は、日本の教育者・教育学者。専攻は価値心理学、教育科学・生活教育論。 東京府北豊島郡巣鴨村(現・豊島区)出身。旧制早稲田中学校を経て1920年6月、第二高等学校卒業。東京帝国大学法学部に入学し、翌年文学部に転部、1923年3月、東京帝国大学文学部心理学科卒業。 1923年4月、東京農業大学予科大学部講師(英語等担当)。1925年3月、東京農業大学予科大学部教授。1926年から法政大学講師、武蔵高等学校講師を兼務。1929年法政大学児童研究所設立に参画。1929年病気に伏した留岡幸助に代わり、教職を辞して北海道遠軽の家庭学校社名渕分校教頭に就き教護事業を継ぐ。
池田 清就(いけだ きよなり、1898年〈明治31年〉9月1… 池田 清就(いけだ きよなり、1898年〈明治31年〉9月16日 - 1966年〈昭和41年〉6月4日)は、因幡若桜藩(鳥取西館新田藩)池田家当主、会社役員。最後の藩主であった池田徳定の子。母は、池田慶徳の養女・池田常子(池田敬三郎の長女)。1910年から1947年まで子爵であった。 池田徳定の三男。1910年(明治43年)に襲爵し、学習院高等科を経て、1923年(大正12年)に京都帝国大学経済学部を卒業する。横浜正金銀行に入る。1946年(昭和21年)に退行する。 1951年(昭和26年)にエース商会監査役となり1952年(昭和27年)に取締役、1960年(昭和35年)に常務となる。 菩提寺は向島の弘福寺で、関東大震災後の区画整理により昭和3年に清就が合葬したという記載がある。
曾根 純三(そね じゅんぞう、1898年9月13日 - 没年… 曾根 純三(そね じゅんぞう、1898年9月13日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である。本名曾根 為一(そね ためいち)。椎名 良太(しいな りょうた)名義で脚本を書き、のちに監督名を曾根 千晴(そね ちはる)と変えた。戦前の「職人監督」である。 1898年(明治31年)9月13日、大阪市東区(現在の中央区 (大阪市)北部・東部)に生まれる。香川県出生説あり、本人は否定している。旧制大阪府立天王寺中学校(現在の大阪府立天王寺高等学校)を卒業したのち、神戸のパルモア英学院(現在のパルモア学院専門学校)を中退、証券会社勤務、警察官を経て、劇団の脚本部にいたところ、撮影技師の三木茂、杉山公平と知り合い、西宮市甲陽園にある東亜キネマ甲陽撮影所の脚本部に入社した。
茂木 七郎治(もぎ しちろうじ、前名・高治郎、1898年〈明… 茂木 七郎治(もぎ しちろうじ、前名・高治郎、1898年〈明治31年〉9月12日 - 1993年〈平成5年〉1月1日)は、日本の商人(肥料商)、政治家、実業家。紫興業社長。野田市議会議長。茂木七郎治家4代目当主。 千葉県東葛飾郡野田町(現・野田市)出身。3代茂木七郎治の長男。明治中学卒業。野田醤油(現・キッコーマン)に入社し、後総武鉄道に転社した。明治大学に学んだ。1918年、家督を相続し、高治郎を改め襲名した。 総武通運社長、野田運輸、花畑乗合自動車各代表、野田自動車運輸代表、総武鉄道常務取締役。東武鉄道、千秋社、柏屋商事各監査役、野田商誘銀行支配人をつとめる。 趣味は読書、旅行、ゴルフ、囲碁。
明石 潮 (あかし うしお、1898年9月11日 - 198… 明石 潮 (あかし うしお、1898年9月11日 - 1986年11月26日)は、日本の俳優。本名は明石 義仁。
佐々木 八郎(ささき はちろう、1898年9月10日 - 1… 佐々木 八郎(ささき はちろう、1898年9月10日 - 1980年9月8日)は、日本の国文学者。中世文学、特に『平家物語』の研究によって知られた。
志村 茂治(しむら しげはる、男性、1898年(明治31年)… 志村 茂治(しむら しげはる、男性、1898年(明治31年)9月10日 – 1971年(昭和46年)8月9日)は、神奈川県出身の政治家、経済学者。衆議院議員(3期)。 三浦郡初声村和田(現・三浦市)に、志村広太郎の長男として生まれる。1921年(大正10年)東京帝国大学農学部実科、1925年(大正14年)京都帝国大学経済学部を卒業、東京帝国大学農学部教授・佐藤寛次の研究室に入り農業経済学を専攻。ベルリン大学、ハイデルベルク大学にも学び、帰国後は専修大学経済学部講師、日本大学商経学部教授、中央物価統制協力会議調査部長を務める。 戦後、神奈川県農地委員を務めていた1952年(昭和27年)、第25回衆議院議員総選挙において、旧神奈川2区にて 左派社会党から立候補し当選。
朴 順天(パク・スンチョン、朝鮮語: 박순천、1898年9月… 朴 順天(パク・スンチョン、朝鮮語: 박순천、1898年9月10日 - 1983年1月9日)は、第一共和国・第二共和国・第三共和国時代の韓国における女性政治家である。最大野党の党首も務めるなど韓国における女性政治家の草分け的存在として知られている。本貫は密陽朴氏、本名は朴命蓮(パク・ミョンニョン、박명련)。 夫は元成均館大学校総長の卞熙瑢(朝鮮語版)、2人は1924年に結婚した。 慶尚南道東莱郡(現・釜山広域市機張郡)の両班の家に生まれた。1917年に釜山の女学校を卒業後、馬山の義信女学校に教師として赴任した。在職中の1919年に発生した三・一独立運動に参加して逮捕され、「順天宅」の偽名を使い逃避生活を続けた。
山田 喆(やまだ てつ、本名:山田 徹秀、1898年9月10… 山田 喆(やまだ てつ、本名:山田 徹秀、1898年9月10日 - 1971年5月3日)は、新潟県三条市生まれの日本の陶芸家である。前衛陶芸団体走泥社の創始者の一人、山田光は息子にあたる。 僧侶から陶芸家を志し中国宋窯を研究した。1947年、富本憲吉らと新匠美術工芸会を設立した。1963年、芸術選奨を受賞した。また書、篆刻、俳句を能くした。著書に句文集「風塵集」「陶房閑話」などがある。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術)。
川上 行蔵(かわかみ こうぞう、1898年9月7日 - 19… 川上 行蔵(かわかみ こうぞう、1898年9月7日 - 1994年10月26日)は、栄養学者、食物史学者。 新潟県出身。盛岡高等農林学校農芸化学科(現岩手大学農学部)卒。1937年「肝油特ニ其ノ不鹸化物ノ成分ニ就テ」で東京帝国大学農学博士。鈴木梅太郎に師事し、東京帝国大学農学部、理化学研究所、満州国立大陸科学院に勤務。敗戦後引揚げ、農林省開拓研究所、農業技術研究所に勤める。1962年定年退職、共立女子短期大学教授。1974年退任、料理書原典研究会を設立、主宰。1984年勲三等瑞宝章受勲。江戸時代の料理書を研究した。
豊田 雅孝(とよた まさたか、1898年9月5日 - 199… 豊田 雅孝(とよた まさたか、1898年9月5日 - 1991年2月14日)は、日本の商工官僚、政治家。参議院議員(2期)。 1898年(明治31年)愛媛県生まれ。松山商業、北予中学、三高、東京帝国大学法学部政治学科を経て、1925年(大正14年)商工省入省、文書課長、企業局長を務めた。1945年(昭和20年)商工次官。1946年(昭和21年)退官。1947年(昭和22年)商工中金理事長。 1953年(昭和28年)第3回参議院議員通常選挙全国区当選(無所属)。1959年(昭和34年)第5回参議院議員通常選挙落選(緑風会)。1962年(昭和37年)第6回参議院議員通常選挙全国区当選(自由民主党)。
高尾 甚造(たかお じんぞう、1898年(明治31年)9月5… 高尾 甚造(たかお じんぞう、1898年(明治31年)9月5日 - 1958年(昭和33年)10月6日)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。江原道知事、慶尚北道知事。 高尾武造の三男として熊本県葦北郡日奈久村(日奈久町を経て現八代市)に生まれる。1921年(大正10年)高等試験に合格し、翌年、東京帝国大学法学部政治科を卒業する。同年、朝鮮総督府に出仕し、江原道属として学務課長、官房主事、地方課長などを歴任したのち黄海道に転じ、同地方課長、警務局勤務、外務事務官を務めた。ついで忠清南道、咸鏡北道、慶尚北道各警察部長、新京出張所長、駐満大使館朝鮮課長などを経て、1940年(昭和15年)9月、江原道知事を拝命し、1941年(昭和16年)11月に慶尚北道知事となった。
高橋 邦太郎(たかはし くにたろう、1898年9月5日 - … 高橋 邦太郎(たかはし くにたろう、1898年9月5日 - 1984年2月25日)は、翻訳家、比較文学・日仏文化交流研究者。NHK職員でもあった。 東京生まれ。東京外国語学校仏語科及び東京帝國大學仏文科卒業後、1933年、アナウンサーとして当時社団法人だったNHKに入局。戦前のNHKは軍の宣伝機関であったということもあり、今日のような分業制ではなく、アナウンサーである一方で記者としても活動していた。 一時期は文芸部に在籍し、1939年に企画、演出した連続物語『宮本武蔵』は「絶大な人気を得た」という。 戦後は報道専業となり、フランス語を生かしてサイゴン(現在のホーチミン市)支局長などを務め、退職した。
松田 尚之(まつだ なおゆき、1898年〈明治31年〉9月4… 松田 尚之(まつだ なおゆき、1898年〈明治31年〉9月4日 - 1995年〈平成7年〉3月29日)は、彫刻家、日本芸術院会員。京都学芸大学教授、金沢美術工芸大学教授を歴任。 富山県出身。1922年東京美術学校彫刻科卒、帝展に出品、1926、1927年特選。1930年京都帝国大学講師。1932年帝展審査員。1935年京都市立美術工芸専門学校教諭。文展に出品、1943年同審査委員。1946年日展審査員。1951年金沢美術工芸大学教授。1952年京都学芸大学教授。1958年日本芸術院賞受賞、日展評議員。1968年日本芸術院会員、日展理事、1969年同常務理事、1970年勲三等瑞宝章受章、1975年日展顧問。
野澤 密全(のざわ みつぜん、1898年9月3日 - 197… 野澤 密全(のざわ みつぜん、1898年9月3日 - 1971年11月11日)は、日本の真言宗の僧侶。信貴山真言宗初代管長。信貴山中興の偉人とも称されている。 香川県仲多度郡高篠村(現・まんのう町)生まれ。11歳で親元を離れて奈良県の信貴山で寺に入り、14歳の時に僧侶となった。1920年、真言宗京都大学(現・種智院大学)卒業。27歳という異例の若さで宗会議員になったほか、大阪で野澤幼稚園を運営した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。
渡辺 忠雄(わたなべ ただお、1898年(明治31年)9月3… 渡辺 忠雄(わたなべ ただお、1898年(明治31年)9月3日 - 2005年(平成17年)4月3日)は、日本の銀行家、実業家。三和銀行元頭取、会長で「三和銀行の中興の祖」と呼ばれる。北海道出身。日本聖公会の信徒。 1924年に東京帝国大学法学部を卒業し、日本銀行に入行。資金調整局審査課長、静岡支店長、文書局長などを歴任した。 1945年には三和銀行に転職し、1947年2月には頭取に就任した。「ピープルズ・バンク」路線をモットーに、金融業界でいち早くコンピュータを導入し、クレジットカード会社のJCBとリース会社のオリックスの創設に携わるなどして、銀行の大衆化を進め、三和銀行を全国有数の都市銀行に育て上げた。
藤浦 洸(ふじうら こう、1898年9月1日 - 1979年… 藤浦 洸(ふじうら こう、1898年9月1日 - 1979年3月13日)は、昭和時代の作詞家、詩人。長崎県北松浦郡平戸町(現在の平戸市)出身。 長崎県北松浦郡平戸町(現在の平戸市)に生れる。長崎県立中学猶興館(現長崎県立猶興館高等学校)、私立岡山県興譲館中学卒業(現岡山県興譲館高等学校)。同志社大学神学部に入学してほどなく中退、3年の放浪を経て慶應義塾大学文学部に入る。在学中は児童小説を書いたり、尾崎士郎らと共に雑誌「令女界」や「若草」に少女小説、音楽物語などを執筆していた。その他、ピアノ演奏のアルバイトをするなどしていたという。 大学卒業後は、音楽評論家伊庭孝に師事し、浅草オペラの俳優等を経て、1930年から、コロムビアレコード文芸部のエドワードの私設秘書となり、ジャズソングの訳詞などを手掛けていた。
田崎 広助(たさき ひろすけ、1898年〈明治31年〉9月1… 田崎 広助(たさき ひろすけ、1898年〈明治31年〉9月1日 - 1984年〈昭和59年〉1月28日)は、洋画家。福岡県八女郡北山村(現・八女市立花町)生まれ。本名・田﨑 廣次。 1917年、福岡県師範学校(現福岡教育大学)第二部卒業、坂本繁二郎、安井曾太郎に師事。関西美術院にも通った。 二科展出品後の1932年渡仏、留学中の1933年サロン・ドートンヌ賞受賞。1935年、帰国。 1939年、一水会の創立に参加。 戦後、広稜会を結成、また東郷青児らと日伯現代美術展(伯剌西爾、ブラジルのこと)を開催。 1949年より日展審査員、(以後1958年日展評議員、1967年理事、1978年顧問を勤める。
日野 巌(ひの いわお、1898年9月1日 - 1985年3… 日野 巌(ひの いわお、1898年9月1日 - 1985年3月13日)は、日本の農学者。 北海道生まれ。長州藩藩医・日野宗春の孫。筆名・日野青波。第六高等学校卒、東京帝国大学農学部卒。1930年農学博士。 1926年宮崎高等農林学校教授。日向郷土会を主宰、雑誌『日向(郷土志資料)』を刊行する。1940年には県立上代日向研究所の民俗部主査となる。1942年に陸軍司政官として南方に転出し、戦後は山口大学農学部教授、農学部長、宇部短期大学教授。(中公文庫に1980年死去とあるのはおそらく間違い)