赤松 寅七(あかまつ とらしち、1882年(明治15年)9月… 赤松 寅七(あかまつ とらしち、1882年(明治15年)9月10日 - 1971年(昭和46年)6月20日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。衆議院議員、福岡県嘉穂郡庄内町長。 福岡県嘉麻郡綱分村(嘉穂郡庄内村、庄内町を経て現飯塚市)で赤松善五郎の二男として生まれる。福岡県立東筑中学校を経て、1904年10月24日、陸軍士官学校(16期)を卒業し、同年11月1日、陸軍歩兵少尉に任官。日露戦争に出征した。 歩兵第20連隊中隊長を経て、1917年11月27日、陸軍大学校(29期)を卒業。以後、 参謀本部附、第13師団参謀、歩兵第20連隊長、第12師団司令部附(長崎医科大学配属将校)、歩兵第42連隊長などを歴任。
逢坂 信忢(おうさか しんご、1882年〈明治15年〉9月9… 逢坂 信忢(おうさか しんご、1882年〈明治15年〉9月9日 - 1981年〈昭和56年〉1月7日)は、日本の牧師、伝道者、宗教哲学者、社会運動家、郷土史家、著述家。 新潟県中蒲原郡女池新田(現 新潟市中央区女池)の、女池新田、神道寺新田、および小張ノ木新田の戸長を務めていた名望家・逢坂清治の次男として出生。 1900年(明治33年)3月に新潟県中学校を卒業、1902年(明治35年)7月に札幌農学校予修科を卒業、1908年(明治41年)12月に東北帝国大学農科大学(旧 札幌農学校)農学科(農政学・農業経済学専攻)を卒業。 1915年(大正4年)9月に救世軍に入隊、1916年(大正5年)6月に救世軍士官学校を卒業、中尉に任官、東京銀座小隊長に就任、1917年(大正6年)4月に大尉に任官、1919年(大正8年)春に救世軍を除隊。
十二代目 片岡 仁左衛門(かたおか にざえもん、1882年(… 十二代目 片岡 仁左衛門(かたおか にざえもん、1882年(明治15年)9月9日 - 1946年(昭和21年)3月16日)は、日本の歌舞伎役者。八代目片岡仁左衛門の娘の子で、十代目片岡仁左衛門の養子。本名は片岡 東吉(かたおか とうきち)。東京・今戸出身。 1885年(明治18年)東京・千歳座(現在の明治座)で本名の片岡東吉で初舞台を踏み、その後二代目片岡土之助を経て1901年(明治34年)四代目片岡我童を襲名。 1936年(昭和11年)1月、東京・歌舞伎座『馬切』の織田信孝で十二代目片岡仁左衛門を襲名。この当時、東京歌舞伎では女形が不足していたため、関西歌舞伎の仁左衛門も招きを受け昭和9年(1934年)頃から拠点を東京に移し、六代目尾上梅幸を失った十五代目市村羽左衛門の相方を多く務めた。
6代目雷門 助六(かみなりもん すけろく、1882年9月9日… 6代目雷門 助六(かみなりもん すけろく、1882年9月9日 - 1934年5月6日)は、東京出身の落語家。本名は青木 鏡太郎。8代目助六は弟子で実子。 東京本郷に生まれる。生家は水戸徳川家直属の請負師だった。一時、静岡県沼津に住む。 尋常小学校を出てすぐ11歳で伯父の草履屋に奉公に出ていたがまともに勤まらなかった。15歳の1897年ごろに母の弟であった4代目柳亭左楽(オットセイの左楽)の門下に入って左太郎となる。約5年ほど前座修行を経て1902年に二つ目で左市に改名する。 1904年、5代目助六(後の3代目志ん生)門下に移って3代目都家歌六の名で真打に昇進する。その後日露戦争に従軍したが復員。
阿武 天風(あぶ てんぷう、1882年〈明治15年〉9月8日… 阿武 天風(あぶ てんぷう、1882年〈明治15年〉9月8日 - 1928年〈昭和3年〉6月22日)は、日本の海軍軍人、小説家、編集者。雑誌『冒険世界』の主筆を務めるなどして、冒険小説を多く発表した。代表作に『太陽は勝てり』など。 本名は阿武 信一(あんの しんいち)。別名義に「髭の少尉」、「虎髯大尉(こぜんたいい)」、「阿武激浪庵」、「怒濤庵少尉」、「黒面中尉」、「黒面魔人」などがある。ただし、これら別名義に関しては、河岡潮風など阿武の周囲の人物が用いていた場合もあり、これらの名義で執筆された文章の全てが阿武のものであるというわけではない。1928年(昭和3年)6月に、松野に改姓し松野 信一となる。
郡場 寛(こおりば かん、Kwan Koriba、1882年… 郡場 寛(こおりば かん、Kwan Koriba、1882年(明治15年)9月6日 - 1957年(昭和32年)12月15日)は、日本の植物生理生態学者。理学博士。旧姓白戸。 青森市浪打新町(現:栄町)にて津軽藩士の家に生まれる。父直世は酸ヶ湯温泉の開発者で、同地で温泉宿を経営。母フミ(旧姓三上)は薬草を中心に八甲田山の植物を採取して標本を作り、全国の大学や研究機関に送った功績がある。 1900年、青森県第一中学校(現在の青森県立弘前高等学校)を卒業。同年、旧津軽藩時代の旧姓郡場に改姓。第二高等学校を経て、1907年、東京帝国大学理科大学植物学科卒業。同大学院で三好学に師事し、生長現象と外部環境の関連など植物生理学の研究を行う。
豊田 珍比古(とよだ うずひこ、1882年9月5日 - 19… 豊田 珍比古(とよだ うずひこ、1882年9月5日 - 1965年1月20日)は、愛知県八名郡吉川村(現・新城市吉川)出身の郷土史家。 1882年(明治15年)9月5日に愛知県八名郡吉川村(現・新城市吉川)に生まれた。父親は豊田伊之吉。出生名は豊田伊三美(いさみ)であり、のちに珍彦(うずひこ)と、晩年には珍比古(うずひこ)と改称した。1909年(明治42年)に豊橋市に転居し、船町で薬種商を営んだ。本業と並行して東三河地方の郷土史研究も行い、1921年(大正10年)には豊橋郷土史友会を結成して主宰の立場となった。『豊橋市史』の編纂委員も務め、1954年(昭和29年)には豊橋市から『豊橋市制50年史』の編纂委員長を委嘱された。
鈴木 美通(すずき よしゆき、1882年(明治15年)9月2… 鈴木 美通(すずき よしゆき、1882年(明治15年)9月2日 - 1956年(昭和31年)3月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。 山形県出身。山形中学を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官し歩兵第32連隊付となる。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業。 1911年12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付を経て、1916年(大正5年)11月、歩兵少佐に昇進し歩兵第1連隊大隊長に就任。1918年(大正7年)6月、陸大教官に転じ、関東軍司令部付に異動。1921年(大正10年)4月、歩兵中佐に進級。
井上 伊之助(いのうえ いのすけ、1882年(明治15年)9… 井上 伊之助(いのうえ いのすけ、1882年(明治15年)9月2日 - 1966年(昭和41年)6月20日)は、日本出身の台湾宣教師である。 1882年(明治15年)、高知県幡多郡川崎村(現・四万十市)に生まれた。小学校は高等科で終了し、病院や村役場に事務員として勤務した。1900年に立身出世を願い、上京して昼間は郵便局に勤め、夜は大成学館で勉強に励んだ。この頃、メソジストの本郷教会に通い、内村鑑三の著作を読んで求道した。1903年より、中田重治の指導する神田の中央福音伝道館に通い、1903年6月中田より洗礼を受けた。1905年9月に東洋宣教会の聖書学院に入学し、聖書学院校長の笹尾鉄三郎より薫陶を受ける。
氷見ヶ濱 弥太郎(ひみがはま やたろう、1882年9月2日 … 氷見ヶ濱 弥太郎(ひみがはま やたろう、1882年9月2日 - 1942年6月27日)は、現在の富山県氷見市出身で稲川部屋に所属した元大相撲力士。本名は白石 弥之助。身長165cm、体重79kg。最高位は西前頭13枚目。 1901年1月初土俵、1908年5月十両昇進。十両を1場所で通過し、1909年1月新入幕を果たし3場所務めたが、十両、幕下と一気に陥落。1911年6月限りで廃業した。 浦嶋→氷見ヶ濱(1904年5月場所-) この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
野田 鞆雄(のだ ともお、1882年〈明治15年〉9月 - … 野田 鞆雄(のだ ともお、1882年〈明治15年〉9月 - 没年不詳)は、日本の法律家、朝鮮総督府官僚。佐賀市長。 佐賀県に藤井鴻雲の二男として生まれ、野田常貞の養子となった。1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。統監府検事、ついで朝鮮総督府検事となり、京城地方法院検事、大邱覆審法院検事、釜山地方法院検事、京城覆審法院検事、同地方法院検事を歴任した。1922年(大正11年)、府道事務官に転じ、忠清南道警察部長、咸鏡北道警察部長、全羅北道内務部長、黄海道内務部長を歴任した。 1929年(昭和4年)に退官し、1931年(昭和6年)に佐賀市長に選出された。市長退任後は、奉天高等検察庁次長を務めた。
三沢 寛一(みさわ かんいち、1882年(明治15年)9月 … 三沢 寛一(みさわ かんいち、1882年(明治15年)9月 - 1968年(昭和43年)7月15日)は、日本の文部・内務官僚、政治家。北海道札幌市長、山形県知事、島根県知事、札幌観光協会長。
濱崎 秀(はまざき ひで、1882年(明治10年)9月 - … 濱崎 秀(はまざき ひで、1882年(明治10年)9月 - 没年不明)は、日本の実業家。 共同酒造、江田醸造研究所各株式会社常務取締役、大倉恒吉商店(現・月桂冠)株式会社取締役。 青森県士族、青木庄睛の六男として生まれる。1896年(明治29年)、濱崎芳雄の養子となり、1907年(明治40年)家督を相続する。同年東京帝国大学農科大農芸化学科を卒業後、大蔵省醸造試験所の技官・鹿又親氏の斡旋で、当時醸造業の近代化を目指していた大倉酒造11代目の当主・大倉恒吉が設立した大倉酒造研究所に入所。伏見醸友会の初代会長を勤める。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
栂尾 祥雲(とがのお しょううん、1881年9月30日 - … 栂尾 祥雲(とがのお しょううん、1881年9月30日 - 1953年5月27日)は、真言宗の僧、仏教学者。 香川県三野郡吉津村(現・三豊市)の宮本伝蔵の三男。幼名は伊半太。1891年仁尾村(現・三豊市仁尾町)の不動護国寺栂尾本元について得度、養子となって祥雲と名のる。真言宗連合高等中学卒。1910年高野山大学講師、1921年ヨーロッパ、インドに学ぶ。1924年帰国、高野山大学教授。1945年学長。1947年高野山密教研究所長。
井田 金七(いだ きんしち、1881年〈明治14年〉9月26… 井田 金七(いだ きんしち、1881年〈明治14年〉9月26日 - 1932年〈昭和7年〉11月23日)は、日本の酒造家、政治家(群馬県会議員、群馬県佐波郡玉村町長、同町会議員)、群馬県多額納税者。前名・保一。11代・井田金七の長男として生まれ、12代・金七を襲名した。 群馬県佐波郡玉村町大字上新田に生まれる。生家・井田家は江戸時代には日光例幣使街道・玉村宿の名主・問屋・脇本陣を務める家柄で、宝永2年(1705年)より酒造業・和泉屋を営んだ。遠祖は畠山重忠とも、那波一族とも那波氏の家臣ともいい、17世紀の井田勘解由を初代としている。 11代井田金七の長男として生まれた保一は、東京の旧制開成中学校を卒業。
花見 朔巳(はなみ さくみ、1881年9月23日 - 194… 花見 朔巳(はなみ さくみ、1881年9月23日 - 1946年4月27日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学史料編纂官、大学講師などを務める。主な研究対象は会津、名古屋、安土桃山時代の三分野で、安土桃山史の権威であった。歴史地理学会幹事。 海軍中佐(海兵57期)で天霧駆逐艦長としてJ.F.ケネディー海軍中尉指揮する魚雷艇を撃沈し、戦後に塩川町長を務めた花見弘平、陸軍少佐の花見侃(第36師団参謀、陸士47期、陸大57期)は甥である。 現在の福島県喜多方市に地主の次男として生まれる。会津中学に学び、植村恒三郎、陸軍少将佐藤美千代と同期であった。1903年に第二高等学校を卒業し、1906年に東京帝国大学文科大学を卒業。
青木 賢一郎(あおき けんいちろう、1881年〈明治14年〉… 青木 賢一郎(あおき けんいちろう、1881年〈明治14年〉9月20日 - 1940年〈昭和15年〉5月25日)は、日本の政治家。長野県会議員。長野県参事会員。長野県下高井郡養蚕業組合長。有限責任北信共同乾繭販売組合理事。 長野県下高井郡延徳村(現・中野市)生まれ。青木彦兵衛の長男。小県蚕業学校、足利工業学校を卒業。県農工技手に就任。 1年志願兵として歩兵第15連隊に入り累進、中尉に任官。日露戦争に従軍して、勲六等、功五級金鵄勲章を賜う。凱旋後下高井郡農商学校教諭となった。中野農学校養蚕教師として奉職し、1923年に退職。 下高井郡書記、郡農会技師、農林技師、県農会技師、須坂支所長等を歴任。1906年以来県養蚕連合会に関係し、県養蚕連合会評議員、全国養蚕連合会評議員である。
倉田 謙(くらた けん、1881年9月19日 - 1940年… 倉田 謙(くらた けん、1881年9月19日 - 1940年1月9日)は、日本の建築家。明治末期から昭和初期にかけて九州帝国大学技師を務め、九州大学(箱崎キャンパス)の校舎を多く設計したことで知られる。 1881年(明治14年)、東京生まれ。第一高等学校(旧制)を経て、1906年(明治39年)東京帝国大学工科大学建築学科を卒業(岡田信一郎、本野精吾らと同期)。 京都市嘱託技師、東京高等工業学校講師を経て、1911年(明治44年)11月、創設されたばかりの九州帝国大学技師に就任し、臨時建築掛長として大学施設の整備に当たる。その後、1918年(大正7年)、臨時建築掛が建築課になるとその初代課長に就任。
今岡 信一良(いまおか しんいちろう、1881年(明治14年… 今岡 信一良(いまおか しんいちろう、1881年(明治14年)9月16日 - 1988年(昭和63年)4月11日)は、日本の教育者、宗教家、翻訳家。正則学院名誉理事、日本自由宗教連盟、東京帰一教会各会長、神学博士。 その他、兵庫基督教会牧師・日本大学講師・新目黒計器会長などを歴任した。
米窪 満亮(よねくぼ みつすけ、1881年(明治14年)9月… 米窪 満亮(よねくぼ みつすけ、1881年(明治14年)9月16日 - 1951年(昭和26年)1月16日)は、日本の労働運動家、小説家、政治家。日本海員組合副会長を経て、戦後、日本社会党に所属し、片山内閣の国務大臣、初代労働大臣を歴任した。小説家としての筆名は「米窪太刀雄」がある。
田村 源太郎(たむら げんたろう、前名・治郎吉、1881年〈… 田村 源太郎(たむら げんたろう、前名・治郎吉、1881年〈明治14年〉9月15日 - 没年不明)は、日本の商人(肥料商)、醸造家、実業家、地主、鳥取県多額納税者。 鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)出身。田村源太郎の長男。家業は肥料及び酒類醸造業を営む。1926年、家督を相続し、前名・治郎吉を改める。中国貯蓄銀行、中国興業銀行、米子共立検番各取締役などをつとめる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は米子市糀町2丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
角田 順(かくた じゅん、1881年9月14日 - 1915… 角田 順(かくた じゅん、1881年9月14日 - 1915年3月1日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少佐。1915年3月1日極秘任務遂行中に千葉県沖で汽艇の沈没事故により死亡。 石川県出身。1881年9月金沢市 金石味噌屋町の医師角田元伯の長男として生まれる。石川県尋常中学校(現在の石川県立金沢泉丘高等学校)を経て、1903年12月、海軍兵学校(31期)を188人中13番の成績で卒業。翌年9月、海軍少尉任官を待って金田ケン子と結婚。妻は(一般女性を対象とした日本初のミス・コンテストと言われる)時事新報社の令嬢美人コンクールで全国2位の経歴を持つ。 日露戦争では軍艦「鎮遠」乗組み殊勲を挙げ、1905年には中尉となる。
斎藤 巳之吉(さいとう みのきち、1881年(明治14年)9… 斎藤 巳之吉(さいとう みのきち、1881年(明治14年)9月14日 - 1965年(昭和40年)2月17日)は、明治時代後期から昭和時代の政治家。山形県酒田市長。 斎藤茂助の四男として、山形県飽海郡大町村(西平田村を経て現酒田市地内)に生まれ、社会事業家・斎藤千里の婿養子となる。専修大学を卒業し、新潟県官房主事、北魚沼郡長、佐渡支庁長、赤十字新潟支部病院事務長などを歴任した。ほか、郷里出身の高級官僚・太田政弘の知遇を受け、台湾、朝鮮などに赴任した。 1933年(昭和8年)初代酒田市長の中里重吉に招かれ同市助役に就任。1937年(昭和12年)10月、中里の引退した後を受けて酒田市長に就任した。戦時下の市政に手腕を発揮し、酒田港築港整備、軍需産業の誘致、学童疎開、建物疎開による空襲対策などに尽力した。
岡村 柿紅(おかむら しこう、1881年(明治14年)9月1… 岡村 柿紅(おかむら しこう、1881年(明治14年)9月14日 - 1925年(大正14年)5月6日)は日本の劇作家・劇評家。狂言をもとにした歌舞伎舞踊の作品「身替座禅」「棒しばり」等は今日でもよく上演される。1915年以降、市村座の運営に関わった。 本名久寿治。高知市北奉公人町に生まれ、5歳のとき、両親と叔母に従い東京へ移った。叔母『加藤はま』は、初代竹本綾之助らと女義太夫を盛んにした『竹本東玉』である。 中学卒業後独逸学協会に在籍したものの、叔母の感化で芸能界に親しみ、1901年から1909年まで中央新聞に勤め、次に二六新報に転じて劇評を書いた。1908年の有楽座開場時には、顧問を引き受けた。
籾山 重幸(もみやま しげゆき、1881年9月11日 - 1… 籾山 重幸(もみやま しげゆき、1881年9月11日 - 1957年11月26日)は、日本海軍の軍人。 最終階級は海軍大佐。
井戸 泰(いど ゆたか、1881年(明治14年)9月8日 -… 井戸 泰(いど ゆたか、1881年(明治14年)9月8日 - 1919年(大正8年)5月4日)は、日本の大正時代の医学者。医学博士。東京帝国大学助教授を経て、九州帝国大学教授。 大正4年(1915年)、恩師でもある九州帝国大学第一内科稲田龍吉教授と共に、ワイル病(黄疸出血性スピロヘータ病)の病原体を発見する。第6回帝国学士院恩賜賞を受け、ノーベル医学賞の候補にも推薦されるなど、当時の日本を代表する医学者として将来を嘱望されながらも、大正8年(1919年)5月8日死去、37歳。 岡山県勝田郡北吉野村荒内西(現:奈義町荒内西)で酒造業を営む家(井戸酒店)に長男として生まれる。父・恒四郎、母・たけよ。
山本 芳治(やまもと よしじ、1881年(明治14年)9月8… 山本 芳治(やまもと よしじ、1881年(明治14年)9月8日 – 1950年(昭和25年)12月28日)は、衆議院議員(革新倶楽部→立憲政友会)。厚生参与官。弁護士。 兵庫県加古郡八幡村(現在の加古川市)出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。司法官試補となるが辞して、大阪市に弁護士事務所を開業し、後に大阪地方裁判所所属弁護士会副会長に選ばれた。 大阪市会議員、市参事会員を経て、1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。当選回数は合計で5回を数え、その間に第1次近衛内閣で厚生参与官を務めた。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では大政翼賛会の推薦を受けて当選した。
後藤 七郎(ごとう しちろう、1881年(明治14年)9月7… 後藤 七郎(ごとう しちろう、1881年(明治14年)9月7日 - 1962年(昭和37年)12月7日)は、大正から昭和時代の日本の外科学者、大日本帝国陸軍軍医。最終階級は陸軍軍医少将。位階勲等は正三位勲一等。胃・十二指腸潰瘍の権威で、日本初の輸血を行った人物として知られる。 後藤貞治の三男として福岡県山門郡柳河村(現柳川市)にて生まれる。1907年(明治40年)12月、京都帝国大学福岡医科大学(現・九州大学医学部)卒業。翌年6月、陸軍二等軍医・歩兵第1連隊附となる。1909年(明治42年)京都帝国大学福岡医科大学大学院、1911年(明治44年)九州帝国大学医科大学大学院を経て、同年、同大講師となる。
正岡 芸陽(まさおか げいよう、1881年(明治14年)9月… 正岡 芸陽(まさおか げいよう、1881年(明治14年)9月5日 - 1920年(大正9年)3月24日)は、日本の評論家、ジャーナリストである。芸陽は筆名で、本名は猶一。 広島県に生まれる。10歳で父を失い、翌日に母を失った。12歳で広島監獄の給仕となる。その傍ら、濱名眞金(はまなまがね)に漢学を学び、同時に三浦某に英語を学ぶ。13歳(明治27年)キリスト教を受洗し布教に従事していたが、14歳で東京に出て苦学し、15歳から16歳にわたって伊豆湯河原温泉近在、泉村の小学校で教鞭を執った。同校を辞して再び東京に出て青山学院大学に学ぶものの幾ばくもせずに退学し、17歳の時に北海道の新聞社に記者として赴き、半年間在職後に帰京しやまと新聞社に入社。
横田 誠一郎(よこた せいいちろう、1881年(明治14年)… 横田 誠一郎(よこた せいいちろう、1881年(明治14年)9月 - 1920年(大正9年)4月3日)は、日本の外務官僚。岡山県新見市出身。 1881年(明治14年)岡山県哲多郡矢神村(現:新見市)に生まれる。地元に近い旧制・高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)を経て、1901年(明治34年)第六高等学校に進学、その後、1904年(明治37年)7月に同校卒業、同年に東京帝国大学法科大学政治学科へ進学した。1908年(明治41年)7月、26歳で同大学を卒業した。 大学を卒業した翌年の1909年(明治42年)文官高等試験外交科(外交官及領事館試験)に合格した。外務省の同期には、徳川宗家17代当主の徳川家正、後に文部大臣になる岡部長景がいた。
瀬尾 栄太郎(せのお えいたろう、1881年(明治14年)9… 瀬尾 栄太郎(せのお えいたろう、1881年(明治14年)9月 - 没年不詳)は、ロシアで活動した日本人実業家である。 徳島県阿波郡柿原村(柿島村、板野郡吉野町を経て現阿波市吉野町柿原)出身。日露戦争に従軍した。奉天の会社「松茂洋行」の支配人となり、ロシア内の鉄道線路南方[どこ?]で鉱物の試掘許可を受けて、試掘して成功し、本採掘を出願しているが、ロシア革命が起きると白軍であるグリゴリー・セミョーノフ軍の顧問となった[要検証 – ノート]。1926年、国際探訪通信社を立ち上げ、日本の機密費を受けて中国・ロシアの一般情報収集を行う。1932年には、国体擁護連合会の常務実行委員となっている。1936年、二・二六事件の関係者となる[要検証 – ノート]。
上田 弥兵衛(うえだ やへえ、1880年9月28日 - 19… 上田 弥兵衛(うえだ やへえ、1880年9月28日 - 1950年9月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 兵庫県川辺郡杭瀬村(小田村字杭瀬を経て現尼崎市)出身。大阪高等商業学校卒。米穀商を営み、日露戦争に参加、陸軍二等主計となる。大阪商業会議所特別議員、大阪穀物商同業組合長、大日本木管、網島土地、大日本石油鉱業、南洋護謨拓殖各(株)社長、大阪堂島米穀取引所、東京米穀会専任幹事、日本倉庫(株)取締役、日本米穀(株)理事となる。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において大阪市から無所属で立候補して当選する。1920年の第14回衆議院議員総選挙では大阪3区から無所属で立候補して当選する。
高橋 熊次郎(たかはし くまじろう、1880年(明治13年)… 高橋 熊次郎(たかはし くまじろう、1880年(明治13年)9月24日 - 1957年(昭和32年)11月13日)は、日本の政治家。衆議院議員。初代上山市長。 福島県信夫郡瀬ノ上村(現・福島市瀬上町)に、醤油醸造業の宍戸家に生まれる。1903年に東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業後、セントルイスのブライアント・ストラットン商業大学に学ぶ。1906年に帰国し、山形県南村山郡上山十日町高橋家に婿入りする。 山形商業銀行、山形自由新聞社各取締役、上山電気社長を務める。 1914年10月、上山町の西北部山麓地帯にある金井村黒沢の部落林約7町歩を買収、さらに隣接する上山町三千刈の民有地約8町歩を買収して果樹園、畜産、酪農の農園を造成した。
横田 郷助(よこた ごうすけ、旧字体: 橫田鄕助、1880年… 横田 郷助(よこた ごうすけ、旧字体: 橫田鄕助、1880年(明治13年)9月23日 - 1931年(昭和6年)10月11日)は、内務官僚、南洋庁長官。 山口県吉敷郡山口町(現在の山口市)に横田稲稔の長男として生まれる。旧制山口高等学校卒業を経て、1904年(明治37年)7月、東京帝国大学法科大学を卒業し、神奈川県属に任じられた。同年11月に高等文官試験に合格し、翌年から樺太民政署事務官を務めた。1909年(明治41年)に徳島県事務官となり、群馬県事務官を経て、1912年(大正元年)に群馬県内務部長に就任した。1915年(大正4年)からは三重県内務部長となり、1918年(大正7年)には賞勲局書記官に転じた。
井上 柳梧(いのうえ りゅうご、1880年(明治13年)9月… 井上 柳梧(いのうえ りゅうご、1880年(明治13年)9月21日 - 1962年(昭和37年)3月6日)は、日本の蚕糸学者、政治家。上田蚕糸専門学校第2代校長、上田市長。農学博士。勲二等旭日重光章。 東京府本郷区駒込千駄木町(現東京都文京区)で、官僚・井上廉の息子として生まれた。1893年(明治26年)高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業[要出典]。1898年(明治31年)高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業[要出典]。官界を志していたが科学分野への興味がまさり 東京帝国大学農科大学に進み農芸化学を専攻。1908年(明治41年)7月に卒業して大学院に進み、1911年(明治44年)蚕糸研究のためフランス、ドイツ帝国に留学。
大山 郁夫(おおやま いくお、1880年(明治13年)9月2… 大山 郁夫(おおやま いくお、1880年(明治13年)9月20日 - 1955年(昭和30年)11月30日)は、日本の政治家、政治学者。衆議院議員(1期)。参議院議員(1期)。 兵庫県赤穂郡若狭野村(現相生市)の医者・福本剛策の次男として生まれ、17歳の時に神戸の米穀商・大山晨一郎の養子となり大山姓となる。東京専門学校に入学し、在学中に早稲田大学政治経済学部に改組され、1905年に同学部を首席で卒業。シカゴ大学およびミュンヘン大学への留学を経て1914年(大正3年)に早稲田大学教授となり、政治学を講じた。やがて大山を含めた「恩賜館組」と呼ばれる少壮教授連は早大当局に対して様々な改革要求を突きつけることになる。
竹田 省(たけだ しょう、1880年〈明治13年〉9月19日… 竹田 省(たけだ しょう、1880年〈明治13年〉9月19日 - 1954年〈昭和29年〉2月26日)は、日本の法学者。専門は商法。学位は法学博士(京都大学・論文博士・1917年)。京都大学名誉教授。関西大学第15代学長(事務取扱)。弟子に大隅健一郎、大森忠夫、大橋光雄など。 松本烝治とともに、日本の商法学を確立した研究者と評価される。特に手形法での業績は大きく(人的抗弁と物的抗弁の区別など)、竹田の著書や論文により手形法に関する問題は出尽くしたとされる。 京都帝国大学を退官後には我が国の法学界において初めての一つの大学に依らない法学専門雑誌である民商法雑誌を末川博とともに創刊。竹田は以前より大学の機関雑誌しか法律雑誌がないことを遺憾とし、ドイツのゴールドシュミットによる「商法破産法雑誌」に範を取り「民商法雑誌」とした。
安倍 季雄(あべ すえお、1880年9月7日 - 1962年… 安倍 季雄(あべ すえお、1880年9月7日 - 1962年12月19日)は、日本の童話作家。号は村羊。 山形県出身。函館中学校(現北海道函館中部高等学校)卒。 1908年時事新報社に入社、『少年』『少女』の編集主幹となりみずからも執筆する。1929年退社し、東京中央放送局『コドモ・テキスト』編集顧問となり、口演童話を開拓、大阪毎日新聞嘱託講師として全国各地に講演旅行する。1952年久留島武彦と全国童話人協会を設立し、のち2代委員長となる。
青木 知四郎(あおき ちしろう、明治13年(1880年)9月… 青木 知四郎(あおき ちしろう、明治13年(1880年)9月7日 - 昭和50年(1975年)2月22日)は、衆議院議員(1期)、鉄道実業家。藍綬褒章受章者。 岐阜県羽島郡、後の上中島村(現羽島市)出身。明治41年(1908年)慶應義塾大学部法律科卒業。1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙で岐阜県四区から選出され、立憲民政党に所属。加藤六蔵(愛知)、東郷実(鹿児島)、三橋四郎次(静岡)ら9名と共に農民党議員として知られた。 岐阜県会議員、同参事会員、岐阜県農会議員、同農事協会副会長、羽島郡農会会長、同農事協会長。岐阜製氷、日本絹布会社、濃飛農工銀行各監査役。竹鼻銀行、竹鼻鉄道取締役を経て赤坂通運社長などを歴任した。
山田 道兄(やまだ みちえ、1880年(明治13年)9月7日… 山田 道兄(やまだ みちえ、1880年(明治13年)9月7日 - 1936年(昭和11年)8月27日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、ジャーナリスト。 岐阜県武儀郡東武芸村(現在の関市)出身。早稲田大学政治経済科出身。扶桑新聞主筆、東京毎日新聞記者、読売新聞記者を経て、民友通信社を創設して社長を務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、4回の当選を重ねた。その間、濱口内閣で農林参与官を務めた。
吉江 喬松(よしえ たかまつ、1880年9月5日 - 194… 吉江 喬松(よしえ たかまつ、1880年9月5日 - 1940年3月26日)は、フランス文学者、詩人、作家、評論家、早稲田大学教授。号は孤雁。
加藤 繁(かとう しげる/しげし、1880年〈明治13年〉9… 加藤 繁(かとう しげる/しげし、1880年〈明治13年〉9月3日 - 1946年〈昭和21年〉3月7日)は、明治から昭和前期にかけての東洋史学者。 1880年、島根県松江にて、旧松江藩士内田家の4男として生まれた。1歳のとき、同じ元松江藩士の加藤家の養子となった。松江中学時代に三宅雪嶺の支那(中国)研究論に惹かれて東洋史を志した。国民英学会を経て、22歳で東京帝国大学史学科支那史学科選科に入学。在学中に起こった日露戦争に伴う召集による休学を挟み、1906年に25歳で卒業した。この間に内田銀蔵の日本土地経済史の研究と師である白鳥庫吉の影響を受けて、当時日本ではほとんど研究されていなかった中国経済史研究をテーマに定めた。
国光 五郎(くにみつ ごろう、1880年(明治13年)9月3… 国光 五郎(くにみつ ごろう、1880年(明治13年)9月3日 - 1951年(昭和26年)2月3日)は、日本の政治家、山口県多額納税者。衆議院議員、地主。族籍は山口県士族。 山口県阿武郡萩(現在の萩市)に石津潤一の五男として生まれ、国光佐一の養子となった。1906年(明治39年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。高等文官試験に合格し、三重県属、内務属、佐賀県事務官、広島県事務官を歴任した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。立憲政友会に所属。 その後、山口県会議員や岩田村長を務め、また農業を営み山口県農会長・帝国農会議員を務めた。 1935年(昭和10年)、衆議院で補欠当選を果たし、第19回衆議院議員総選挙・第20回衆議院議員総選挙でも再選された。
波多野 保二(はたの やすじ、1880年9月 - 1965年… 波多野 保二(はたの やすじ、1880年9月 - 1965年2月8日)は、日本の官僚。逓信官僚として、。位階は従三位、勲等は勲三等。レジオンドヌール勲章。前島密賞。台湾総督府専売局書記。総督府税務官。拓殖局書記官。逓信副事務官。戦時船舶管理局事務官。軍需局事務官。菅船局書記官。逓信書記官。高等海員審判所審判官。逓信省参事官。航空局次長。初代逓信局省航空局長。東京逓信局長。 新潟県の山本常吉の四男、山本保二として生まれ、後に衆議院議員の波多野傳三郎の養子となる。1906年(明治39年)、東京帝國大學法科大學を優秀な成績で卒業し、1908年(明治41年)に文官高等試驗に合格した。 1909年(明治42年)1月16日に臺灣總督府税務官に任命され官僚としてのキャリアをスタートした。
石原 忍(いしはら しのぶ、1879年9月25日 - 196… 石原 忍(いしはら しのぶ、1879年9月25日 - 1963年1月3日)は、東京府東京市麹町区永田町(現在の東京都千代田区)出身の医学者・眼科医・陸軍軍人(最終階級は軍医少将)。東京帝国大学教授。文化功労者。 石原式色覚異常検査表と呼ばれる色覚検査表(石原表と略される)の考案者として有名である。石原表は1933年の第14回国際眼科学会で認定されたことなどから国際的にも高い評価を得ており、色覚検査表といえば石原表と同義語と解されるほど日本では普及している。 その他、石原は視力・色覚・屈折異常など、機能検査表の研究を行ったり、1色覚(先天性全色盲)を発見するなどし、眼科分野の先駆者となった。 1879年(明治12年)9月25日、東京府東京市麹町区永田町(現在の東京都千代田区)に生まれた。
岩佐作太郎(いわささくたろう、1879年9月25日 - 19… 岩佐作太郎(いわささくたろう、1879年9月25日 - 1967年2月13日)は日本のアナキスト。純正アナキズムを唱え、マルクス主義に反対しながらも非妥協的な革命を主張した。妻は岩佐しげ。 1879年9月25日、千葉県長生郡生まれ。東京法学院(現中央大学)卒業。1902年に渡米し、アメリカで社会主義者となり、サンフランシスコ日本人社会主義協会に参加する。1906年、岡繁樹ら平民社サンフランシスコ支部人士と共に幸徳秋水の渡米を迎え、これを機に社会革命党を結成(1905年とも)。1910年に大逆事件が発生した際には、これに抗議して天皇宛に『日本天皇及び属僚諸卿に与う』と題する「公開状」を送り有名となった。
長井 村太(ながい むらた、1879年〈明治12年〉9月25… 長井 村太(ながい むらた、1879年〈明治12年〉9月25日 - 没年不明)は、明治から昭和期の三井財閥の実業家、銀行家。 長野県生まれ。1902年(明治35年)、明治法律学校(現・明治大学)卒業。判事検事登用試験に合格し判事となる。後に三井財閥に転じ、三井銀行に入行。同期に万代順四郎(全国銀行協会連合会会長、三井銀行会長)など。米山梅吉(貴族院勅選議員、三井信託初代社長)の薫陶を受け、京都支店、大阪西支店、門司支店、下関支店などの各支店長を務める。更に三井本社にて「重役待遇」となり、当時の三井家の最高議決機関である三井家同族会の主事を務めた他、三井生命保険、富士写真フイルムなどの監査役、上田日本無線会長など、三井財閥系企業の要職を歴任した。
小泉 秀吉(こいずみ ひできち、1879年(明治12年)9月… 小泉 秀吉(こいずみ ひできち、1879年(明治12年)9月21日 - 1959年(昭和34年)2月11日)は、日本の船員、労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。 茨城県久慈郡馬場村(後の誉田村大字馬場、現在の常陸太田市馬場町)で、鋳物業・小泉長介、とみ夫妻の六男として生まれた。太田尋常小学校、太田町立太田高等小学校を経て、1893年4月、茨城県尋常中学校に入学。1896年3月、中学第3学年を修了後退学し、同年7月、官立商船学校(現在の東京海洋大学海洋工学部)航海科に入学。1902年1月、同校を卒業した。 大阪商船の貸費生であったので、卒業後直ちに同社に入社し監督課技士となる。1903年夏過ぎ、大阪商船を退職し、同年9月、三井物産船舶部に入社して阿蘇山丸に二等運転士として配属された。
辻 寛治(つじ かんじ、1879年9月19日 - 1960年… 辻 寛治(つじ かんじ、1879年9月19日 - 1960年6月2日)は日本の医学者(内分泌学)。京都帝国大学名誉教授。島根県出身。郷里と相国寺に墓所がある。
中井 宗太郎(なかい そうたろう、1879年(明治12年)9… 中井 宗太郎(なかい そうたろう、1879年(明治12年)9月19日 - 1966年(昭和41年)3月16日)は、日本の美術史家。日本・東洋美術史の研究・評論を行った。 京都府出身。東京帝国大学卒業。1909年新設の京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)講師、教授、1942年校長。戦後は立命館大学教授。 江戸時代の洋画家として知られる司馬江漢について書いた自書『司馬江漢』の序文で、 と述べ、第4章「画人として また理学人としての江漢」、第8章「江漢の究理学と地動説」へと論を展開している。