竹内 時男(たけうち ときお、1894年(明治27年)10月… 竹内 時男(たけうち ときお、1894年(明治27年)10月26日 - 1944年(昭和19年)4月24日)は、日本の物理学者。科学ジャーナリストとして著名であったが、医療効果を謳った人工放射性食塩事件で世間を騒がせた。 1894年(明治27年)10月26日、元金沢藩士・竹内一元(のち煙草商)の二男として石川県金沢市で生まれる。1918年(大正7年)に東京帝国大学理科大学実験物理科を卒業後、三菱造船技師を経て東京高等工業学校講師となる。 1927年に『新量子力学及波動力学論叢』を出版し、量子力学を極めて早く日本で紹介した。1928年から1930年にかけて渡欧し、フランス滞在中はルイ・ド・ブロイのもとで量子力学を研究する。
久保松 勝喜代(くぼまつ かつきよ、1894年(明治27年)… 久保松 勝喜代(くぼまつ かつきよ、1894年(明治27年)10月25日 - 1941年(昭和16年)12月15日)は、囲碁棋士。兵庫県出身。方円社、日本棋院に所属、名誉九段。昭和初期の関西囲碁界の重鎮であり、橋本宇太郎、木谷實らを弟子としながら東京に送り出した他、多くの棋士を育てた。「偉大なる素人」と呼ばれ、大模様の碁を得意とし、初手天元も研究した。連珠八段でもあり、久保松機山を名乗った。 尼崎市生まれ。5歳の時に父が打っているのを見て碁を覚える。6歳で父を亡くし、伯父の後見で育つ。特定の棋士に師事することはなく、ほとんど独学で棋力を磨いた。9歳の時に禅晶寺の碁会で泉秀節に九子で対局して勝ち、秀節は養子にすることを望んだが伯父が許さなかった。
逆鉾 盛吉(さかほこ せいきち、1894年10月25日 - … 逆鉾 盛吉(さかほこ せいきち、1894年10月25日 - 1947年5月5日)は、鹿児島県姶良郡蒲生町西浦出身で井筒部屋に所属した力士。本名は川原林 盛吉。173cm、86kg。最高位は西前頭筆頭。 1911年2月初土俵。突き、押しを主体とする相撲で序ノ口から7場所目の1914年1月に十両昇進。11場所目の1916年1月入幕した。前頭筆頭まで躍進したが怪我をしてからは振るわず、1922年1月十両に陥落し、1922年5月廃業。
3代目 三遊亭 金馬(さんゆうてい きんば、1894年10月… 3代目 三遊亭 金馬(さんゆうてい きんば、1894年10月25日 - 1964年11月8日)は、日本の落語家。大正・昭和時代の落語家。本名∶加藤 専太郎。出囃子は「本調子カッコ」。当初は落語協会に所属、のちに東宝名人会に所属したが、実質的にフリーであった。 東京府東京市本所(現・東京都墨田区本所)生まれ。初代三遊亭圓歌の門下だが、名人と呼ばれた初代柳家小せんや、橋本川柳にも多くを学んだ。読書家で博学。持ちネタの幅が広く、発音や人物の描き別けが明瞭で、だれにでもわかりやすい落語に定評がある。 1894年10月25日、東京府東京市本所に生まれる。家業は洋傘屋。 小学校卒業後、本所林町の実家を出て本所相生町で経師屋をしていた伯父の元で奉公修行。
福原 麟太郎(ふくはら りんたろう、1894年10月23日 … 福原 麟太郎(ふくはら りんたろう、1894年10月23日 - 1981年1月18日)は、日本の英文学者、随筆家、翻訳家。福山市名誉市民。 1894年、広島県沼隈郡神村(現・福山市)で生まれた。1912年、広島県立福山中学校(現・福山誠之館高校)を卒業し、東京高等師範学校英語科に進学した。在学中、G・K・チェスタトンの推理小説を訳し、『英語青年』に掲載。1917年に卒業。 1917年9月から翌1918年3月まで、静岡県立静岡中学校に英語教諭として赴任。1920年、東京高等師範学校研究科を修了。この間、『英語青年』の編集に携わった。 1921年、母校の東京高等師範学校助教授に就いた。著書、訳註を何冊か刊行した後、1929年に文部省在外研修員としてイギリス・ロンドン大学とケンブリッジ大学に留学し、トマス・グレイ作品を研究。
今枝 蝶人(いまえだ ちょうじん、1894年(明治27年)1… 今枝 蝶人(いまえだ ちょうじん、1894年(明治27年)10月22日 - 1982年(昭和57年)9月17日)は、徳島県出身の俳人。句碑が徳島市、鳴門市にあり、徳島県立文学書道館3階の文学常設展示室で、徳島ゆかりの文学者として紹介されている。 徳島県内に句碑等は4か所ある。第一第二は生前に、第三以下は蝶人没後に建立された。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
江戸川 乱歩(えどがわ らんぽ、旧字体:江戶川 亂步、189… 江戸川 乱歩(えどがわ らんぽ、旧字体:江戶川 亂步、1894年〈明治27年〉10月21日 - 1965年〈昭和40年〉7月28日)は、日本の推理作家、怪奇・恐怖小説家、アンソロジスト。日本推理作家協会初代理事長。位階は正五位。勲等は勲三等。ペンネームの由来は、小説家のエドガー・アラン・ポーのもじり。本名は平井 太郎(ひらい たろう)。 大正から昭和期にかけて活躍し、主に推理小説を得意とした。また、第二次世界大戦後は推理小説分野を中心に評論家や研究家、編集者としても活躍した。乱歩の寄付で創設された江戸川乱歩賞が推理作家の登竜門となるなど、後世にも大きな影響を与えた。 1894年(明治27年)、三重県名賀郡名張町(現・名張市)で名賀郡役所書記の平井繁男・きくの長男として生まれる(本籍地は同県津市)。
竹内 勝太郎(たけうち かつたろう、1894年〈明治27年〉… 竹内 勝太郎(たけうち かつたろう、1894年〈明治27年〉10月20日 - 1935年〈昭和10年〉6月25日)は日本の詩人。日本の象徴詩を確立したと評される。 京都府京都市生まれ。私立清和中学校(立命館中学の前身)を中退。東京へ出て、三木露風に師事。独学で自然科学、哲学などを学び、文学を一生の業と考える。フランスの象徴派詩人ステファヌ・マラルメに影響を受け象徴詩の世界へ。 1915年から京都基督教青年会の夜学でフランス語を学ぶ。その後、日出新聞社の市政記者、大正日日新聞社の市政・美術担当記者、大阪時事新報の記者となる。 1928年には知友の支援を受けフランスに渡る。ポール・ヴァレリーに傾倒し、その詩技法は「美を破壊する美」へと変化していく。
渡辺 武次郎(わたなべ たけじろう、1894年(明治27年)… 渡辺 武次郎(わたなべ たけじろう、1894年(明治27年)10月20日 - 1997年(平成9年)12月4日)は日本の実業家。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問 。三菱地所の社長や会長を22年間務め、三菱地所中興の祖と呼ばれた。 岡山県矢掛町出身。1918年東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業し、三菱合資会社入社。 1937年三菱地所に転籍し、経理部長、取締役、常任監査役等を経て、1952年から1969年まで社長、1969年から1974年まで会長、1974年から1988年まで取締役相談役、1988年から1997年まで相談役を務めた。会長退任後も、中興の祖として実質的な人事権を握っていたとされる。
稲浦 鹿蔵(稲浦 鹿藏、いなうら しかぞう、1894年(明治… 稲浦 鹿蔵(稲浦 鹿藏、いなうら しかぞう、1894年(明治27年)10月19日 - 1978年(昭和53年)3月30日)は、昭和時代の土木工学者、内務官僚、建設事務次官、参議院議員。 三重県に生まれる。1924年(大正13年)京都帝国大学工学部土木工学科を卒業し、内務省神戸土木出張所に入り、神戸高等工業学校講師を兼任する。1935年(昭和10年)大阪府土木部河港課長に転じ、前年の室戸台風の災害復旧として河川の防潮工事などを進めた。1942年(昭和17年)青島埠頭常務取締役に就任し、青島港の整備に当たり、終戦を迎えると兵庫県土木部長、建設技監を経て、1952年(昭和27年)建設事務次官に就任した。
加藤 常賢(かとう じょうけん、1894年10月19日 - … 加藤 常賢(かとう じょうけん、1894年10月19日 - 1978年8月3日)は、中国古代学者、東京大学文学部名誉教授。東大退官後は二松学舎大学文学部中国文学科教授。号は「維軒」。 1894年、愛知県中島郡大里村で生まれた。第八高等学校を経て、東京帝国大学文学部に進んだ。支那哲学文学科で学び、1920年に卒業。 卒業後は、静岡高等学校教授に就いた。その後、京城帝国大学として勤務。1933年、広島文理科大学教授となった。1938年(昭和13年)、学位論文『爾雅釈親を通じて見たる支那古代家族制度研究』を東京帝国大学に提出して文学博士号を取得。 1947年(昭和22年)、高田眞治の公職追放による退職に伴って東京帝国大学中国哲学科教授となった。
岩村 一木(いわむら ひとき、1894年(明治27年)10月… 岩村 一木(いわむら ひとき、1894年(明治27年)10月19日 - 1968年(昭和43年)12月16日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京市小石川区、現在の東京都文京区千石2丁目35番地で、貴族院勅選議員・岩村通俊の八男として生まれる。1915年(大正4年)長兄岩村八作の養子となり、その死去に伴い1924年(大正13年)9月1日、男爵を襲爵した。 京北中学校を経て、1917年(大正6年)東京農業大学高等科を卒業。以後、臨時産業合理局過燐酸肥料改善委員会幹事、人造肥料連合会理事、燐酸肥料工業組合常務理事、日本藁工品配給監査役、肥料配給公団総裁、農林水産奨励会副会長などを務めた。
田中 実司(たなか じつじ、1894年10月18日 - 19… 田中 実司(たなか じつじ、1894年10月18日 - 1980年11月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 本巣郡西郷村(現・岐阜市)生まれ。岐阜商工会議所議員、所得税調査員、岐阜県商工経済監事、岐阜県繊維製品配給(株)取締役、同県繊維製品統制(株)社長、田幸紡績(株)取締役会長、協和興業(株)取締役、(株)新岐阜百貨店常任監査役、岐阜繊維問屋街連合会長を歴任する。 1930年に洋服店を開業した。1942年に岐阜市会議員となった。 1946年の第22回衆議院議員総選挙において岐阜県全県選挙区から日本自由党公認で立候補して当選する。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において岐阜1区で自由党公認で立候補したが落選。
重見 伊三雄(しげみ いさお、1894年(明治27年)10月… 重見 伊三雄(しげみ いさお、1894年(明治27年)10月15日 - 1945年(昭和20年)1月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 本籍山口県。東京府で重見熊雄陸軍中将の二男として生まれる。早稲田中学校(現早稲田中学校・高等学校)、陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し歩兵第49連隊付となる。同年12月、歩兵少尉に任官した。 1922年(大正11年)2月、陸士予科生徒隊付となり、歩兵第49連隊中隊長、第1戦車隊副官、第1戦車隊付を経て、1932年(昭和7年)2月、独立戦車第2中隊長に発令され第一次上海事変に出動した。
板垣 鷹穂(いたがき たかお/たかほ、1894年(明治27年… 板垣 鷹穂(いたがき たかお/たかほ、1894年(明治27年)10月15日 - 1966年(昭和41年)7月3日)は、美術評論家。西洋美術史の研究者として、その業績を著作に残す。また、明治以降から同11年代までの日本近代建築についての論評をはじめ、映画、写真など新たな美術領成をメディア論として論じた草分け的存在でもあった。 モダニズム研究で文芸、美術、建築、文学にまで射程は広い。終戦後に早稲田大学文学部教授となり、最晩年まで教鞭を取った。ほか明治大学教授、東京写真大学教授を歴任した。 東京神田生まれ。文芸評論家の平山直子(板垣直子)と結婚。 1915(大正4)年、第一高等学校第二部退学後、東京帝国大学文科大学哲学科の選科生として西洋美術史を学ぶ。
岸 一郎(きし いちろう、1894年(明治27年)10月13… 岸 一郎(きし いちろう、1894年(明治27年)10月13日 - 1969年(昭和44年)4月3日)は、日本の野球選手、監督。 福井県敦賀市松原出身。旧制早稲田中学(現・早稲田中学・高校)、早稲田大学、満鉄(満州倶楽部)で一貫してエースを務め、極東選手権競技大会でも活躍した。早大時代のチームメイトである市岡忠男は「早大時代は沢村栄治に匹敵する投手であり、満洲の野球が強くなったことにも岸君の力は大きく貢献している」と戦前の大選手であることを証言している。1918年に満鉄が、当時日本一と言われた一高と二試合して二度とも破ったとき、どちらの試合でも岸は好投し、対戦した内村祐之から投手として高い評価を受けている。
田中 冬二(たなか ふゆじ、1894年〈明治27年〉10月1… 田中 冬二(たなか ふゆじ、1894年〈明治27年〉10月13日 - 1980年〈昭和55年〉4月9日)は、日本の詩人である。本名は吉之助。 銀行員として働きつつ、郷愁をテーマに多くの詩作を行う。専ら旅を題材とした詩を作り、山国や北国の自然、日常生活を初々しい感覚で表現した叙情詩集「青い夜道」(昭和4年)を発刊。多作ではなくマイナーポエットとも評されるが、一貫して日本の自然や生活に根ざした詩を作り続け、吉行淳之介は象徴的に「青い夜道の詩人」と評している。詩作のほか散文や俳句も手がけている。堀口大學らと交友関係があった。 銀行員だった父吉次郎と、母やゑの長男として福島県福島市栄町に生まれた。1901年(明治34年)に父が、1906年(明治39年)には母が相次いで亡くなったため、上京して叔父・安田善助のもとで養育される。
平岡 梓(ひらおか あずさ、1894年〈明治27年〉10月1… 平岡 梓(ひらおか あずさ、1894年〈明治27年〉10月12日 - 1976年〈昭和51年〉12月16日)は、日本の農商務・農林官僚。内務官僚・平岡定太郎の長男。作家・三島由紀夫の父。少年時代の三島の執筆活動に大反対し、あえて悪役を買って出たことで、三島の反骨精神を目覚めさせて作家としての成長を間接的に助けた。息子・三島の死後は、その毒舌的なシニカルさや、ブラック・ユーモアの入り交ざった回想録『伜・三島由紀夫』を著し、貴重な三島資料を残したことで知られる。 1894年(明治27年)10月12日、東京府東京市赤坂区の日枝神社参道入口付近の家で、父・平岡定太郎(内務官僚)と母・永井なつ(東京府士族・大審院判事・永井岩之丞の長女)との間の長男として誕生。
矢追 秀武(やおい ひでたけ、1894年10月11日 - 1… 矢追 秀武(やおい ひでたけ、1894年10月11日 - 1970年9月23日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の細菌・ウイルス学者。東京帝国大学教授、国立予防衛生研究所部長、横浜医科大学(現:横浜市立大学)細菌学教授(1951年-1961年)、神奈川歯科大学教授を歴任。精製痘苗の精製(矢追抗原、PVL, Purified vaccine lymph)、溶連菌毒素のトキソイド化の研究で知られる。 1894年(明治27年)、奈良県高畑町番外1番地(菩提町1番地)で生まれた。1920年12月、東京帝国大学医学部を卒業。 同大学衛生学教室に研究生として入室。翌年、副手、助手になった。酸類の細菌に及ぼす影響を研究した。
由比 忠之進(ゆい(正しくは、ゆび[要出典]) ちゅうのしん… 由比 忠之進(ゆい(正しくは、ゆび[要出典]) ちゅうのしん、1894年(明治27年)10月11日 - 1967年(昭和42年)11月12日)は、日本の弁理士、日本エスペラント学会会員のエスペランティスト、反戦運動家。福岡県志摩郡前原村(現・糸島市)生まれ。 1919年(大正8年)、当時蔵前にあった東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業。 労働運動に共感し学歴を隠して沖電気の職工として就職するが、入営に前後して学歴が判明したため失業、1920年(大正9年)小学校教諭と結婚し、特許事務所で外国の特許の翻訳に従事した。1921年(大正10年)頃からエスペラント語を学び始める。 1924年(大正13年)に東京職業補導所に入り木工技術を習得し、同級生の資金援助で家具屋を開業したが、身体の不調から家具屋をやめ、その後名古屋放送局に勤務した。
小沢 愍昌(おざわ みんしょう、1894年(明治27年)10… 小沢 愍昌(おざわ みんしょう、1894年(明治27年)10月11日 - 2004年(平成16年)7月12日)は、日本の僧。山梨県出身。2004年5月20日より死去するまで男性としての日本国内最高齢者だった。 山梨県御坂町生まれ。1917年に山梨市の浄土宗光雲寺の住職となり、1978年まで務めた。 2004年7月、肺炎のため山梨市の病院で死去。109歳と275日。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
上村 六郎(うえむら ろくろう、1894年10月10日 - … 上村 六郎(うえむら ろくろう、1894年10月10日 - 1991年10月29日)は、染織文化研究者。 新潟県刈羽郡生まれ。号は元人(げんじん、もとんど)。京都高等工芸学校染色学卒。京都帝国大学工学部工業化学科卒、同大助手。関西学院大学理工科講師、武庫川女子大学教授、1950年大阪学芸大学教授。58年定年退官、同年「上代文学に現れた色名・色彩並に染色の研究」で京都大学理学博士。県立新潟女子短期大学教授、新潟青陵女子短期大学初代学長、四天王寺女子大学教授、日本染織学園園長を兼任。旭川市の優佳良織(ゆうからおり)工芸館内国際染織美術館館長。 日本の古代染織を研究し、宮内庁の委嘱により正倉院御物裂の調査に当たる。
古茂田 甲午郎(こもだ こうごろう、1894年(明治27年)… 古茂田 甲午郎(こもだ こうごろう、1894年(明治27年)10月9日 - 1982年(昭和57年)6月27日)は、日本の建築家。 大正8年(1919年)に文部省入省後、営繕技師として勤務していたが、関東大震災後の大正13年(1924年)に大学時代の恩師である佐野利器に請われて東京市に転じた。その後は東京市の学校建築に関する責任者として勤務し、特に復興小学校の実務により「当時の学校建築の権威」と評された。 茨城県出身。第一高等学校及び東京帝国大学卒業後、文部省に入省した。
国崎 定洞(くにざき ていどう、1894年(明治27年)10… 国崎 定洞(くにざき ていどう、1894年(明治27年)10月5日 - 1937年(昭和12年)12月10日)は、日本の衛生学者・共産主義者・社会主義者。社会衛生学の創始者。ドイツで日本人の社会主義者グループを組織して、ドイツ共産党日本語部を結成した。しかしソビエト連邦移住後に大粛清により処刑された。 1894年に熊本県熊本市に生まれる。父の宗英は医師で、村医をしていた対馬で育った。13歳で単身、姉の嫁ぎ先である埼玉県川越町(現・川越市)の田中家に移り寄宿して川越高等小学校、川越中学校(現・埼玉県立川越高等学校)を卒業。さらに第一高等学校第3部(英語組)を卒業。一高では常に3番以内の成績だったという。
金 庚培(キム・ギョンベ、朝鮮語: 김경배、1894年10月… 金 庚培(キム・ギョンベ、朝鮮語: 김경배、1894年10月5日または1895年 - 1965年4月17日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。制憲、2代韓国国会議員。 李氏朝鮮黄海道延白郡(現・朝鮮民主主義人民共和国黄海南道)または黄海北道生まれ。平壌大城中学校卒業、駒澤大学専門部政治科修了。駒澤大学在学中に三・一運動に参加したため、後は投獄された。1927年、満州で大韓独立党に加入し、義成団副団長を務めた後、朝鮮に潜入し地下活動を行ったが、九月山事件で再び逮捕され、2年間服役した。解放後は延白面長、延白郡守、延白水利組合長を務めた。1948年の初代総選挙と1950年の第2代総選挙では延白郡甲選挙区から出馬し当選したほか、憲法起草委員、反民族行為特別調査委員会委員長を歴任した。
鮎沢 巌(あゆさわ いわお、1894年10月5日 - 197… 鮎沢 巌(あゆさわ いわお、1894年10月5日 - 1972年11月30日)は、元・国際労働機関(ILO)職員。国際基督教大学名誉教授。 茨城県久慈郡太田町(現・常陸太田市)で元水戸藩士の次男として生まれた。芝中学校在学中に安部磯雄のユニテリアン教会や社会主義協会に足を運び、その社会改良思想に影響を受けた。1911年芝中学校を卒業。フレンド平和奨学会(Friend Peace Scholarships)の奨学生としてアメリカ合衆国に留学。ハワイの中央太平洋学院(ハイスクール)、ホイットマンカレッジを経て、1915年ハバフォード大学に入学。社会学と社会事業(特に社会問題と労働問題)を学ぶ。1917年ハバフォード大学を卒業。
田村 秢(たむら みのる、1894年〈明治27年〉10月3日… 田村 秢(たむら みのる、1894年〈明治27年〉10月3日 - 1991年〈平成3年〉11月19日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(当選1回)。ZTV代表取締役社長田村憲司、衆議院議長田村元の父。自由民主党衆議院議員田村憲久の祖父。TBSテレビアナウンサーの田村真子は曽孫にあたる。 三重県宇治山田市岩淵町(現・伊勢市)出身。 宇治山田中学(旧三重県立第四中学校)を1912年に卒業し、金沢の第四高等学校を経て、1917年、東京帝国大学に入学。1921年、東京帝国大学法学部独法科を卒業。 松阪市で弁護士を開業した。後に三重県弁護士会会長を3期務め、日本弁護士会連合会理事を務めた。 三重県会議員、同議長を経て、1942年の第21回衆議院議員総選挙で三重2区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する(いわゆる「翼賛候補」)。
上条 愛一(上條、かみじょう あいいち、1894年(明治27… 上条 愛一(上條、かみじょう あいいち、1894年(明治27年)10月2日 - 1969年(昭和44年)2月18日)は、日本の労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 長野県東筑摩郡今井村(現:松本市)で生まれた。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)卒業後、代用教員を経て、1920年、早稲田大学政治経済科を卒業。同年、読売新聞社に記者として入社した。 1920年、大日本労働総同盟友愛会東京連合会書記に就任。1925年、第7回国際労働総会に日本労働代表随員として渡欧した。その後、日本労農党、日本労働組合同盟の結成に参画し、1936年、日本労働組合会議書記長に就任した。 戦後、日本社会党に入党し、日本労働組合総同盟(総同盟)全繊同盟総主事、総同盟副会長、中央労働委員会労働者側委員、全繊同盟政治顧問などを歴任した。
大野 竹二(おおの たけじ、1894年(明治27年)10月1… 大野 竹二(おおの たけじ、1894年(明治27年)10月1日 - 1976年(昭和51年)12月18日)は、日本海軍の軍人。戦艦「大和」第4代艦長。最終階級は海軍少将。 伊集院五郎海軍大将の二男として東京で生まれ、大野義方海軍大佐の養子となる。 東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を1912年に卒業後、1916年11月、海軍兵学校(44期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。英国私費留学(オックスフォード大学)、「秋風」「高崎」の各航海長などを経て、1928年12月、海軍大学校(甲種26期)を卒業。 「神通」航海長、第2遣外艦隊参謀、軍令部第2班第3課・第1班第1課の各参謀、第3艦隊参謀、第1遣外艦隊参謀、第11戦隊参謀、軍令部第1部第2課・第3部第7課・第3部第8課の各部員、支那方面艦隊司令部付などを歴任し、1938年11月、海軍大佐に進級。
酒井 朝彦(さかい あさひこ、1894年10月1日 - 19… 酒井 朝彦(さかい あさひこ、1894年10月1日 - 1969年5月25日)は、日本の児童文学作家。本名・酒井 源一。教師、編集者をへて創作に専念。1961から1962年、第5代日本児童文学者協会会長。 長野県下伊那郡竜丘村(現飯田市)の母の実家に生まれ、1900年、5歳の時に父に死別し木曽の定勝寺に預けられた。小学校卒業後上京し、旧制東京中学を経て早稲田大学英文科に進む。1920年に卒業。その後、働きながら小川未明のネオ・ロマンチィズムに傾倒し童話を書き始める。1924年、未明の推薦により東京朝日新聞に「天に登った蛍」を発表。同年、同人誌『童話時代』を創刊。同誌休刊後、1928年に千葉省三、伊藤貴麿らと同人誌『童話文学』を創刊。
伊藤 與八(いとう よはち、1894年 <明治27年> 10… 伊藤 與八(いとう よはち、1894年 <明治27年> 10月1日 - 1979年 <昭和54年> 4月30日)は、日本の経営者、銀行家。千葉興業銀行頭取を務めた。新潟県出身。位階は従五位。 1924年に慶應義塾大学法学部を卒業。第九十八国立銀行支配人、千葉銀行取締役、常務、千葉興業銀行専務、副頭取を経て、1963年5月には頭取に就任。1969年4月には会長に就任。 1965年に黄綬褒章を受章し、1968年に勲四等瑞宝章を受章。 1979年4月30日に急性肺炎のために死去。84歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
光風 貞太郎(てるかぜ さだたろう、1894年10月1日 -… 光風 貞太郎(てるかぜ さだたろう、1894年10月1日 - 1941年11月24日)は、秋田県由利郡子吉村(現在の由利本荘市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は小番 貞藏。身長178cm、体重94kg。最高位は西小結(1926年1月場所)。得意技は突っ張り、押し、寄り。引退後は年寄待乳山として後進の指導につとめた。四股名の命名者は須藤善一郎。 横綱大砲の待乳山部屋に入門。1914年1月場所に初土俵をふんだ。その後、師匠の死のために出羽海部屋に移籍した。1919年1月に新十両、1922年1月場所に入幕した。突き押し得意であったが、幕内中堅力士として腰を据えていた。1925年が最盛期で、1月場所は8勝2敗、5月場所には大関太刀光を引き落としに破る殊勲の星も含めて7勝3敗1分と連続して勝ち越し、1926年1月場所に小結に昇進した。
波多野 秋子(はたの あきこ、1894年10月 - 1923… 波多野 秋子(はたの あきこ、1894年10月 - 1923年6月9日)は、中央公論社の『婦人公論』記者、有島武郎の愛人で心中相手。 出自は不明ながら、当時の新聞報道によれば、実業家の林謙吉郞が新橋の芸者に生ませた庶子であるとされる。父親が用意した麻布の別宅に実母と暮らし、月の7日間と夏冬の休暇を父親宅で過ごす生活の中で育つ。実践女学校に入学後、その美貌から父親は秋子を園遊会などさまざまな会に同伴者として連れ回した。大正元年(1912年)実践女学校を卒業。卒論にルターの宗教改革を選び、その参考書を探しに友人の紹介で、米国帰りの英語塾経営者であった波多野春房(烏峰)の家を訪ね、知り合う。 波多野は前妻の安子を離縁して18歳の秋子と同棲し、秋子の母が亡くなった翌1913年に結婚。
佐々木 芳遠(ささき よしお / よしとお、1894年(明治… 佐々木 芳遠(ささき よしお / よしとお、1894年(明治27年)10月 - 1949年(昭和24年)10月20日)は、日本の内務・警察・厚生官僚。官選県知事。 宮城県出身。佐々木茂三郎の三男として生まれる。第二高等学校を卒業。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。1920年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し埼玉県属となる。 以後、岐阜県加茂郡長、徳島県理事官、神奈川県警視、復興局事務官、岩手県書記官・警察部長、茨城県書記官・警察部長、山口県書記官・警察部長、東京府書記官・経済部長、同総務部長などを歴任。 1938年6月、秋田県知事に就任。戦時下の体制整備、田沢疏水開墾事業、秋田飛行場建設工事などを推進。
森谷 延雄(もりや のぶお、1893年(明治26年)10月2… 森谷 延雄(もりや のぶお、1893年(明治26年)10月28日 - 1927年(昭和2年)4月5日)は、日本の家具デザイナー、インテリアデザイナー、東京高等工芸学校(現在の千葉大学工学部)教授。 旧制千葉県立佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)工業図案科を卒業。清水組に入社し、1920~22年に海外派遣。ロンドン王立美術学校と中央美術工芸学校で家具デザインを学ぶ。「誠之堂」(東京都世田谷区から埼玉県深谷市に移築、1916年築、国の重要文化財)や「晩香廬」(東京都北区、1918年築、国の重要文化財)等の室内装飾を手掛けた。
岩田 千虎(いわた かずとら、1893年10月28日 - 1… 岩田 千虎(いわた かずとら、1893年10月28日 - 1966年10月6日)は、日本の彫刻家、獣医師。獣医師となったのちに37歳から彫刻の修得を始め、牛をはじめとする動物の彫刻で知られる。 1893年(明治26年)、熊本県飽託郡芳野村中河内(現・熊本市西区)に六人兄弟の末子として生まれた。千虎(かずとら)は父のつけた本名で、加藤清正から連想したものだろうと本人が語っている。子どもの頃から絵が好きで、河内小学校のときにかいた絵馬が地元の大明神に残るという。小学校卒業後、熊本農学校養蚕別科を経て、大阪府立農学校(現在の大阪府立大学)畜産学科に進み、1912年(大正元年)、獣医師免許を取得した。 1915年(大正4年)に大阪府立農学校を卒業。
吉原 矩(よしはら かね、1893年(明治26年)10月27… 吉原 矩(よしはら かね、1893年(明治26年)10月27日 - 1984年(昭和59年)8月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 茨城県出身。吉原文平の二男として生まれる。栃木県立真岡中学校(現栃木県立真岡高等学校)、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し鉄道連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校高等科(24期)を卒業。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業し鉄道第1連隊中隊長に就任。 1925年(大正14年)1月、陸軍省軍務局付勤務となり、軍務局課員、工兵監部員、陸大教官、陸軍省整備局課員、軍務局課員(兵務課)などを務め、1934年(昭和9年)8月、工兵中佐に昇進。
御木本 隆三(みきもと りゅうぞう、1893年(明治26年)… 御木本 隆三(みきもと りゅうぞう、1893年(明治26年)10月27日 - 1971年(昭和46年)6月6日)は、日本の著述家、ジョン・ラスキン研究者。 三重県志摩郡鳥羽町(現鳥羽市)に生まれる。御木本幸吉の長男。第一高等学校を経て東京帝国大学文科に学ぶ。1914年に京都帝国大学に進み、河上肇のもと、イギリスの思想家、美術評論家のジョン・ラスキンを学ぶ。同校中退後、父親の会社で働きはじめるも、ラスキンは「海の底で真珠を探してドレスを飾るために100人のダイバーを雇うべきではない」(原文は「袖に縫い付けるビーズを見つけるために100人のダイバーを雇ってはいけない」)と述べているとして家業に批判的であった。
大津 敏男(おおつ としお、1893年(明治26年)10月2… 大津 敏男(おおつ としお、1893年(明治26年)10月26日 - 1958年(昭和33年)12月27日)は、第15代にして最後の樺太庁長官。現在の福岡県柳川市生まれ。 福岡県立中学伝習館、第五高等学校 (旧制)を経て、1918年(大正7年)、東京帝国大学法学部を卒業した。1916年軍務に服し少尉の位で陸軍主計少尉となった。1919年(大正8年)大阪府林務部に入り部長まで務めた。1928年(昭和3年)から1930年(昭和5年)まで内務省に入省、警視庁刑務部長、1931年(昭和6年)から1935年(昭和10年)まで長崎県内務部長、1935年(昭和10年)から1936年(昭和11年)は神奈川県経済部長、1936年(昭和11年)には満州国新京市の民生部総務部長。
佐喜眞 興英(さきま こうえい、1893年(明治26年)10… 佐喜眞 興英(さきま こうえい、1893年(明治26年)10月26日 - 1925年(大正14年)6月13日)は、沖縄県宜野湾市出身で、民俗学者。 1912年、沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)を首席で卒業し。その後上京して1915年に第一高等学校独法科を卒業し、東京帝国大学独法科に入学。在学中から柳田國男に目をかけられた。1921年に帝大を卒業すると、裁判官になり福岡市・東京市・大阪市・岡山県津山市など各地に赴任。1925年、津山にて、肺結核のため31歳で死去。死後、穂積陳重の教えを受けて行った古代母権制研究が『女人政治考』として出版された。 16歳で新城ウタと結婚し一女(貞子)をもうけるが28歳の時に離婚。
高垣 勝次郎(たかがき かつじろう、1893年10月26日 … 高垣 勝次郎(たかがき かつじろう、1893年10月26日 - 1967年4月30日)は、日本の実業家。 旧三菱商事最後の社長で、戦後財閥解体された三菱商事を再興し初代社長も務めた。広島県尾道市出身。東京銀行の最後の頭取及び東京三菱銀行の初代頭取を務めた高垣佑は息子。 第一高等学校から1918年、東京帝国大学法学部を卒業後、新設された三菱商事に入社。ロンドン支店他、上海支店長、新京支店長、ハルビン支店長など、大半を大陸で過ごし三井物産に引けを取らない業績を上げた。1944年取締役、満州で終戦を迎え1946年帰国。同年常務取締役、翌1947年同社代表取締役社長就任。しかしGHQによる解散命令(財閥解体)を受け同社清算人となる。
矢田部達郎(やたべ たつろう、1893年10月24日-195… 矢田部達郎(やたべ たつろう、1893年10月24日-1958年3月24日)は、心理学者、京都大学名誉教授。
張 沢相(チャン・テクサン、1893年10月22日 - 19… 張 沢相(チャン・テクサン、1893年10月22日 - 1969年8月1日)は、大韓民国の政治家、独立運動家。字は致雨(チウ、치우)。号は滄浪(チャンナン、창랑)。 朝鮮時代の学者の張顕光(朝鮮語版)の直系の子孫である。朝鮮末期の慶尚道観察使の張承遠(朝鮮語版)は父、教育者・歴史学者の張炳恵(朝鮮語版)は娘。元奎章閣直閣の張吉相(朝鮮語版)、元善山郡郡守の張稷相(朝鮮語版)は兄。 慶尚北道漆谷郡北三面呉太洞(現・亀尾市呉太洞)に生まれる。本貫は仁同張氏。15歳で日本へ渡り、1909年に早稲田大学へ入学したが、同年10月に起きた安重根による伊藤博文暗殺事件を受けて、翌1910年に中国・上海へ亡命し、独立運動に身を投じることとなる。
大泉 黒石(おおいずみ こくせき、1893年(明治26年)1… 大泉 黒石(おおいずみ こくせき、1893年(明治26年)10月21日/1894年(明治27年)7月27日 - 1957年(昭和32年)10月26日)は日本の作家、ロシア文学者。自称「国際的の居候」。アナキスト的思想を盛り込んだ小説『老子』『人間廃業』などのベストセラーがある。 長崎県八幡町(現在の長崎市)八幡神社境内にて、ロシア人アレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチと日本人本山恵子の間に生まれる。日本名、大泉 清。ロシア名アレクサンドル・ステパノヴィチ・キヨスキー。 父はロシアの農家の出でペテルブルク大学出身の法学博士。天津の領事館に勤務していたが、ロシア皇太子時代のニコライ2世の侍従として来日した折、日本側の接待役でロシア文学研究家だった恵子と知り合い、周囲の反対を押し切って結ばれた。
木原 均(きはら ひとし、1893年10月21日 - 198… 木原 均(きはら ひとし、1893年10月21日 - 1986年7月27日)は、日本の遺伝学者。京都大学名誉教授。元国立遺伝学研究所所長。理学博士(京都帝国大学、1924年)。
津雲 国利(津雲 國利、つくも くにとし、1893年〈明治2… 津雲 国利(津雲 國利、つくも くにとし、1893年〈明治26年〉10月18日 - 1972年〈昭和47年〉1月4日)は、日本の政治家。位階は従三位。 衆議院議員(当選8回)。拓務政務次官、政友会幹事、翼賛政治会常任総務などを歴任。 東京府西多摩郡青梅町上町(現・東京都青梅市)出身。津雲仙太郎の二男。津雲孝の弟。 旧制東京府立第二中学校(現・東京都立立川高等学校)卒業。安田銀行員養成所修業。安田銀行、古河銀行に勤務した。古河銀行宇都宮支店長をつとめた。 宇都宮市に於いて新聞経営に従事した。下野銀行相談役、下野新聞社顧問、下野日日新聞社顧問などを歴任した。1922年(大正11年)に分家し、一家を創立する。
山口 蓬春(やまぐち ほうしゅん、1893年10月15日 -… 山口 蓬春(やまぐち ほうしゅん、1893年10月15日 - 1971年5月31日)は、大正時代から昭和時代後期にかけて活躍した日本画家。本名、三郎(さぶろう)。文化勲章受章者。 同項目の多くは後述する「山口蓬春記念館」公式サイト内の「年譜」による。 北海道松前郡松城町(現・松前町)生まれ。日本銀行員だった父の転任に伴って松前や札幌に住んだ後、1913年(大正2年)に東京府(現東京都)高輪中学校を卒業後、1年間の志願兵として帝国陸軍に従軍した後に除隊し、1915年(大正4年)に東京美術学校(現東京芸術大学)に進学。当初は西洋画学科だったが、1918年(大正7年)に中途退学の上で日本画学科へ再入学し、松岡映丘に師事し、大和絵を習得した。
伊礼 肇(伊禮 肇、いれい / いれ はじめ、1893年(明… 伊礼 肇(伊禮 肇、いれい / いれ はじめ、1893年(明治26年)10月15日 - 1976年(昭和51年)6月7日)は、沖縄県出身の日本の弁護士、政治家。衆議院議員。 沖縄県中頭郡北谷村(現北谷町)字北谷で、農家・伊礼昆正の三男として生まれる。沖縄県立第一中学校から第七高等学校造士館に進学し、1916年に同校理科を卒業。京都帝国大学法学部法律学科(独法)に進学し、1919年7月に卒業した。 同年に帰郷して沖縄県属となり地方課に配属。要請を受け1920年8月に北谷村長に就任。村政改革を進めたが保守勢力との対立を引き起こした。1923年11月に村長を辞して那覇に法律事務所を開設。1924年5月の第15回衆議院議員総選挙に憲政会の公認を受けて沖縄県から出馬したが落選。
等々力 巳吉(とどりき みよし、1893年(明治26年)10… 等々力 巳吉(とどりき みよし、1893年(明治26年)10月15日 - 1959年(昭和34年)6月7日)は、日本の洋画家。 長野県南安曇郡柏原村(現・安曇野市)に生まれる。高等小学校を卒業後、豊科や堀金の小学校で代用教員となり、本科正教員となった後も、教育に専念する傍ら画業の研鑽を積む。昭和3年(1928年)教師を休職し、シベリア鉄道経由でパリに3年間留学し、アカデミー・ランソン(英語版)に入学、オトン・フリエスに師事し、ダゲール街(英語版)で西洋画を学ぶ。昭和5年(1930年)1月、スイス・イタリアを歴遊して帰国後、二科展で「ヴェニスの船着場」が初入選する。昭和8年(1933年)、東京市郊外の練馬にアトリエを構える。
小菅 宇一郎(こすが ういちろう、1893年10月14日 -… 小菅 宇一郎(こすが ういちろう、1893年10月14日 - 1968年2月14日)は、日本の経営者。滋賀県犬上郡多賀町出身。 1912年に八幡商業学校を卒業。伊藤糸店での勤務を経て、1925年に伊藤忠商事名古屋支店長に就任した。1933年12月に取締役に就任し、1949年12月に社長に昇格した。 1958年に藍綬褒章を受章し、1964年に産業功労賞を受賞し、1965年に勲三等旭日中綬章を受章した。 1968年2月14日脳溢血のために死去。74歳没。