仲 威雄(なか たけお、1907年11月7日 - 2008年… 仲 威雄(なか たけお、1907年11月7日 - 2008年11月2日)は、日本の建築工学者。東京大学名誉教授。東京生まれ。専門は建築構造と溶接で溶接技術の指導的役割を果たした他に溶接学会会長(1958-1960年)、日本圧接協会会長(1963-1965年)、摩擦接合技術協会会長(1964-1994年)、溶接研究所理事長(1964-2000年)、日本鋼構造協会副会長(1965-1988年)ほか要職を歴任。日本建築学会 名誉会員。 1932年、東京帝国大学工学部建築学科卒業。1941から1945年、東京帝国大学講師。1942年に「電気溶接に関する研究」で日本建築学会学術賞。1945年に東京帝国大学教授就任。
大野 真弓(おおの まゆみ、男性、1907年11月6日 - … 大野 真弓(おおの まゆみ、男性、1907年11月6日 - 2002年11月27日)は、日本の西洋史学者、横浜市立大学名誉教授。英国史が専門。 東京生まれ。浦和高等学校から1931年東京帝国大学西洋史学科卒業、東京府立第一商業学校(現在の東京都立第一商業高等学校)教諭を経て、1937年に第六高等学校教授。戦後1950年に岡山大学法文学部教授、1953年に横浜市立大学教授。1970年に定年、後にフェリス女学院大学客員教授を務めた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
増淵 恒吉(ますぶち つねきち、1907年11月5日 - 1… 増淵 恒吉(ますぶち つねきち、1907年11月5日 - 1986年2月12日)は、日本の国語教育者・国文学者。専修大学名誉教授。 栃木県生まれ。旧制山形高等学校を経て、1931年に東京帝国大学文学部国文学科を卒業、岡山県吉備商業学校教諭、1932年横須賀中学校教諭、1938年福井師範学校教授、1946年東京府立第五中学校(のち東京都立小石川高等学校)教諭、1949年東京都立日比谷高等学校教諭。1960年東京都教育庁指導部主査。1968年専修大学文学部教授。1978年定年退職、名誉教授、土浦短期大学教授。
桑原福保(くわばら ふくほ、1907年(明治40年)11月4… 桑原福保(くわばら ふくほ、1907年(明治40年)11月4日 - 1963年(昭和38年)7月18日)は、日本の洋画家。家族や日常風景を題材とした写実的な作品を多く残す。 山梨県東八代郡境川村寺尾(笛吹市)に生まれる。父は神主の腎蔵、母は志ん。桑原家には四男三女があり、福保は長男。幼少期から洋画を志し、油彩画を手がける。 1927年(昭和2年)3月に山梨県師範学校(山梨大学)本科第一部を、翌1928年(昭和3年)3月に山梨県師範学校専攻科を卒業後、同年4月から山梨県中巨摩郡田之岡村(南アルプス市)の八田尋常小学校に美術教師として勤務する傍ら制作活動を行う。同年12月10日には母の志んが死去。 大正期から昭和初期にかけて、中央画壇ではフォービズムの影響を受けた画風や日本的な油彩画、写実などの画風や前衛美術運動が活発化しており、山梨においても赤蓼会が甲府で展覧会を開催し、土屋義郎らが中心となり岸田劉生をはじめとする草土社の画風に影響された写実表現を展開していた。
河合 弘道(かわい ひろみち、1907年(明治40年)11月… 河合 弘道(かわい ひろみち、1907年(明治40年)11月3日 - 1991年(平成3年)12月15日)は日本の政治家。鳥取県米子市長(5期)、金光教米子教会長。位階は従五位。 鳥取県西伯郡米子町(現在の米子市)道笑町に生まれる。 明道校から米子中学校(現在の米子東高校)へ進学する。 1931年(昭和6年)日本大学社会学科卒業。同大学社会学研究室助手となり、やがて講師、次いで1938年(昭和13年)予科の教授となる。 1946年(昭和21年)故郷米子に帰り、金光教米子教会長に就任。 戦後のすさんだ人々の心を導くと共に、社会教育の振興に取り組んだ。中でもボーイスカウトの再建、児童福祉施設わかば園の経営などの活動を通じて、次第に市政の在り方に関心を寄せ、彼を囲む市民の幅広い支持を得て、1963年(昭和38年)市長選に立候補し当選、1983年(昭和58年)4月までの5期20年に亘る長期間在職した。
中村 一雄(なかむら かずお、生年不明〈1907年11月3日… 中村 一雄(なかむら かずお、生年不明〈1907年11月3日~1908年11月2日〉 - 1990年11月2日)は、日本の競馬騎手、調教師、競走馬生産者。
真鍋 信喜(まなべ のぶき(「のぶよし」との記載もあり)、1… 真鍋 信喜(まなべ のぶき(「のぶよし」との記載もあり)、1907年11月3日 - 没年不詳)は、日本のジャーナリスト、新聞編集者。 真鍋盛太郎の二男として福岡市に生まれる。1925年福岡県立中学修猷館を経て、1937年3月九州帝国大学法文学部を卒業(法学士)。 卒業後、満洲国通信社に入社。戦後、1948年信濃毎日新聞に論説委員として入社し、1956年編集副主幹を経て、1962年取締役に選任され、1970年論説主幹に就任する。1976年退社。 その後、長野県教育委員長などを務めた。
高橋 良麿(たかはし よしまろ、1907年(明治40年)11… 高橋 良麿(たかはし よしまろ、1907年(明治40年)11月3日 - 1991年(平成3年)2月20日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。最後の官選和歌山県知事。 大分県出身。高橋兼太郎の二男として生まれる。第五高等学校を卒業。1928年10月、高等試験行政科試験に合格。1929年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し、熊本県属となる。 1941年、岩手県書記官・経済部長に就任。1942年3月から1943年12月まで南西方面海軍民政府セレベス民政部経済部長を務めた。以後、岡山県部長・警察部長、東京都経済局食糧課長、警視庁刑事部長、京都府警察部長を歴任。 1947年2月、和歌山県知事に就任。
杉山 信三(すぎやま のぶぞう、1906年11月30日 - … 杉山 信三(すぎやま のぶぞう、1906年11月30日 - 1997年12月28日)は、昭和・平成期の日本史研究者である。 京都市埋蔵文化財研究所所長や、近畿大学理工学部教授を務めた。 京都府京都市下京区にて生まれる。ただし少年時代を過ごしたのは聖護院近く(現在の左京区)であった。 京都市立美術工芸学校(現・京都市立美術工芸高等学校)を経て、1929年(昭和4年)に京都高等工芸学校図案科を卒業する。 学校卒業後は京都府庁古社寺修理技手、法隆寺国宝保存工事事務所技手(1934年 - 1935年)、朝鮮総督府技手(1935年 - 1945年)、京都帝国大学→京都大学工学部助手(1945年 - 1952年)を経て、1953年より奈良国立文化財研究所勤務となる。
八馬 駒雄(はちうま こまお、1906年〈明治39年〉11月… 八馬 駒雄(はちうま こまお、1906年〈明治39年〉11月30日 - 1963年)は、日本の商人(米穀商)、実業家。西宮酒精社長。 兵庫県西宮市出身。八馬永蔵の五男。三代八馬兼介、八馬安二良の弟。八馬眞治の兄。 1928年、同志社専門高商部卒業。1929年、分家した。米穀商を営んだ。兵庫県武庫郡良元村小林字ハクサリ(現宝塚市)で果樹園を経営した。宝梅園土地建物代表社員、多聞土地代表社員を務めた。 1949年、新朝日自動車取締役、西宮酒精社長に就任した。1950年、宝梅園農場社長を兼任した。八馬汽船取締役、同監査役を務めた。 趣味は、乗馬・読書・謡曲・運動。宗教は真宗。住所は兵庫県宝塚市小林字ハクサリ。
伊藤 信吉(いとう しんきち、1906年〈明治39年〉11月… 伊藤 信吉(いとう しんきち、1906年〈明治39年〉11月30日 - 2002年〈平成14年〉8月3日)は、日本の詩人、近代文学研究者。 萩原朔太郎、室生犀星、草野心平の知遇を得て、詩人として活動を開始する。戦前にはプロレタリア文学運動に参加していた。最初の詩集『故郷』刊行後に詩作を止め、詩人論や現代詩鑑賞などの評論著述に専念、萩原や室生などの詩人全集の編集に携わった。 70歳で第二詩集『上州』を刊行して詩作を再開。群馬県立土屋文明記念近代文学館初代館長をつとめ、郷土出版で『群馬文学全集』の編纂にも携わった。 1906年(明治39年)11月30日、群馬県群馬郡元総社村大字元総社(現・前橋市元総社町)の農家に父実太郎・母みねの長男として生まれる。
高橋 赫一(たかはし かくいち、1906年(明治39年)11… 高橋 赫一(たかはし かくいち、1906年(明治39年)11月29日 - 1942年(昭和17年)5月8日)は、日本の海軍軍人。海兵56期。珊瑚海海戦に空母「翔鶴」艦上爆撃機搭乗員として参加し、米空母「レキシントン」攻撃後に戦死。最終階級は海軍大佐。 徳島県出身。旧制徳島中学校(現・徳島県立城南高等学校)より海軍兵学校56期で入校。 あだ名は「親分」。妻マツエの妹の夫は真珠湾攻撃の第二次攻撃隊長嶋崎重和少佐(海軍兵学校57期)。海兵での同期に久住忠男、田辺弥八、前田実穂、唐島辰男、白相定男、橋口喬らがいる。 1931年(昭和6年)12月、第22期飛行学生となり1932年(昭和7年)11月に修了。
清水 俊二(しみず しゅんじ、1906年11月27日 - 1… 清水 俊二(しみず しゅんじ、1906年11月27日 - 1988年5月22日)は、日本の映画字幕翻訳家、映画評論家、翻訳家。東京帝国大学経済学部卒業。
14代 渡辺 甚吉(渡邊、わたなべ じんきち、1906年(明… 14代 渡辺 甚吉(渡邊、わたなべ じんきち、1906年(明治39年)11月26日 - 1972年(昭和47年)5月25日)は、昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、参議院議員。旧名は村吉。12代渡辺甚吉の孫。 岐阜県岐阜市松屋町で、岐阜貯蓄銀行(現十六銀行)頭取で実業家の13代渡辺甚吉、八重の長男として生まれた。 暁星中学校(現暁星中学校・高等学校)を経て、1930年(昭和5年)東京商科大学(現一橋大学)を卒業し、同年3月から1931年(昭和6年)1月まで欧米各国を視察した。大学在学中に父が死去し家督を相続して14代甚吉を襲名した。 帰国後、有隣生命保険社長、浩栄社社長、北海興業社長、築地電気社長、明徳自動車代表、岐阜信託取締役、岐阜貯蓄銀行取締役などに就任した。
小林 信明(こばやし しんめい、1906年(明治39年)11… 小林 信明(こばやし しんめい、1906年(明治39年)11月25日 - 2003年(平成15年)3月5日)は、日本の漢文学・中国哲学者。東京教育大学名誉教授。 愛知県出身。東京文理科大学文学部漢文学科卒業。1955年(昭和30年)「古文尚書伝流考」で京都大学文学博士。東京都立北野高等学校教諭、東京教育大学助教授を経て、教授。1970年(昭和45年)定年退官、名誉教授となる。
鈴木 真砂女(すずき まさじょ、女性、1906年11月24日… 鈴木 真砂女(すずき まさじょ、女性、1906年11月24日 - 2003年3月14日)は、昭和期の俳人。本名はまさ。娘は女優の本山可久子。 千葉県鴨川市の老舗旅館・吉田屋旅館(現・鴨川グランドホテル)の三女として生まれる。日本女子商業学校(現・嘉悦大学)卒業後、22歳で日本橋の靴問屋の次男と恋愛結婚して一女を出産するが、夫の失踪により実家に戻る。1935年9月から句作を始める。 28歳の時に長姉が急死し、旅館の女将として家を守るために義兄(長姉の夫)と再婚する。大場白水郎の「春蘭」を経て、久保田万太郎の「春燈」に入門。万太郎死後は安住敦に師事した。30歳の時に旅館に宿泊した年下で妻帯者の海軍士官と不倫の恋に落ち、出征する彼を追って出奔するという事件を起こす。
江山 正美(えやま まさみ、1906年11月24日 - 19… 江山 正美(えやま まさみ、1906年11月24日 - 1978年6月20日)は、日本の造園家。造園研究者。農学博士。東京農業大学名誉教授。山口県出身。 東京農業大学農学部造園学科で学科長を長年務め、育成にあたってきた。また「国立公園」や「自然保護」といった協会雑誌で自然と人間の共存環境の哲学を語り、造園の計画論を展開した。自然公園における収容力(Carrying capacity)に関する研究や、庭園構成論、プロポーション諭、直角格子論を展開した。保護地域の収容力を大きく「施設収容力」と「入れ込み収容力」に区分して「施設収容力」を「保護地域内にどのくらいの施設を立地させることができるかという限界を示すもので、地形と植生から決めることができる」とした。
鈴木 喜政(すずき きせい、1906年〈明治39年〉11月2… 鈴木 喜政(すずき きせい、1906年〈明治39年〉11月23日 - 1984年〈昭和59年〉11月28日)は、福島県内郷市(現・いわき市)長。福島県議会議員。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 福島県石城郡夏井村出身。福島県立磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)に入り、陸上部で活躍する。1930年日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)卒。内郷村(のち内郷町→内郷市、現・いわき市)で歯科医を開業する。1942年4月内郷村議となり、同年7月町制施行により内郷町議となる。 戦後は内郷町商工会長の傍ら、福島県陸上競技会会長・東北陸上競技会長を歴任。1955年に石城郡選挙区から福島県議会議員に立候補して当選、県議会土木委員長を務めた。
石井 照久(いしい てるひさ、1906年(明治39年)11月… 石井 照久(いしい てるひさ、1906年(明治39年)11月23日 - 1973年(昭和48年)7月16日 )は、日本の法学者。専門は商法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1962年)(学位論文「労働法総論」)。東京大学名誉教授。成蹊大学長。田中耕太郎門下。弟子に鴻常夫、谷川久、佐藤庸、保原喜志夫、花見忠など。 佐賀県小城市出身。生家の石井家は佐賀藩の重臣の家柄で、初代藩主鍋島勝茂の従兄石井忠明(石井賢次の長男)の次男忠正(小城藩士)の子孫とされる。父は台湾総督府法務部長をつとめた石井為吉。兄に石井悟一陸軍中佐がいる。 戦後はGHQの占領行政下の法制審議会商法部会委員として、アメリカ会社法の制度を大幅に導入した商法改正を主導した。
永岡 俊一(ながおか としかず、1906年〈明治39年〉11… 永岡 俊一(ながおか としかず、1906年〈明治39年〉11月23日 - 没年不明)は、日本の実業家。南房総エンタープライズ社長。横浜ゴム元専務。講道館元評議員。全日本柔道少年団元理事長。父は柔道家で講道館10段の永岡秀一。 永岡秀一・久代の長男に生まれる。1930年に慶應義塾大学経済学部を卒業後、横浜護謨製造(現・横浜ゴム)に入社。1938年仙台出張所主任となり上海出張所主任、興亜ゴム工業取締役支配人、横浜護謨営業部次長兼東京支店長、総部・人事各部長を経て、1955年8月取締役に就任。1957年8月常務に推され、翌年8月に専務就任。 柔道は六段の腕前。趣味は謡曲・仕舞。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
長沼 弘毅(ながぬま こうき、1906年11月21日 - 1… 長沼 弘毅(ながぬま こうき、1906年11月21日 - 1977年4月27日)は、日本の大蔵官僚、実業家、文芸評論家である。東京出身。経済学博士であり、柔道家(講道館七段)であった。孫に俳優の平沼成基など。
檜貝 襄治(ひがい じょうじ、1906年(明治39年)11月… 檜貝 襄治(ひがい じょうじ、1906年(明治39年)11月20日 - 1943年(昭和18年)1月29日)は、日本の海軍軍人。海兵57期。太平洋戦争(大東亜戦争)時における爆撃機の名パイロットで霞空飛行隊長、七〇一空飛行長を歴任。檜貝式爆撃法を生み出し、ガダルカナル島夜間爆撃等を指揮、多大な戦果をもたらした。七〇五空飛行長の三原元一少佐とともに陸攻隊の双璧といわれた。レンネル島沖海戦において被弾後、敵艦へ突撃。戦死による二階級特進で最終階級は海軍大佐。 1906年(明治39年)11月20日、千葉県佐倉町(現・佐倉市)に、海軍機関大佐・檜貝秀次郎(海軍機関学校4期)の、三男三女の二男として生まれる。
土肥 淳一郎(どひ じゅんいちろう、1906年(明治39年)… 土肥 淳一郎(どひ じゅんいちろう、1906年(明治39年)11月20日 - 1997年(平成9年)5月3日)は、日本の医学者、皮膚科医。東京慈恵会医科大学名誉教授。東京慈恵会医科大学附属青戸病院・東京慈恵会医科大学附属病院院長を歴任し、私学として初の日本皮膚科学会会頭を務めた。医学博士(1937年、東京帝国大学)。 皮膚科学の権威で日本皮膚科学会創立者土肥慶蔵は大叔(伯)父、父は元国立金沢病院院長で日本皮膚科学会名誉会頭土肥章司。 妻・多喜子は陸軍大将本郷房太郎の次女。子の土肥孝夫は、麻布中学校在学中の1954年に内郷丸遭難事件で犠牲となった。
倉増 新八郎(くらます しんぱちろう、1906年 <明治39… 倉増 新八郎(くらます しんぱちろう、1906年 <明治39年> 11月20日 - 1985年 <昭和60年> 9月22日)は、日本の実業家・政治家だった人物。位階は正五位。 北海道岩見沢市出身。岩見沢尋常高等小学校(現・岩見沢市立岩見沢小学校)卒業。合資会社を起業して社長業を営む。1942年岩見沢町議会議員に初当選。1943年岩見沢市に移行したのに伴い岩見沢市議会議員。以後、岩見沢市消防団長、岩見沢市議会議長や1973年北海道消防協会5代会長(~1982年)、1974年空知管内体育協会連絡協議会初代会長などを経て、1963年まで5期務めた。1963年北海道議会議員選挙に岩見沢市選出の無所属として初当選。
森部 静武(もりべ しずたけ、1906年(明治39年)11月… 森部 静武(もりべ しずたけ、1906年(明治39年)11月19日 - 1994年(平成6年)7月14日)は、日本のヴァイオリニスト。九州交響楽団専務理事。勲五等瑞宝章を1978年(昭和53年)に受賞。父は陸軍少将の森部静夫。 鈴木章に師事していた。 福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)卒業後、早稲田高等学院商科に進むも1928年(昭和3年)に中退。1930年(昭和5年)、東邦電力に入社。1935年(昭和10年)、九州鉄道(現・西日本鉄道)に入社。1961年(昭和36年)スポーツセンター常務に就任し、1967年(昭和42年)に退任。 学生時代からヴァイオリンを始め、戦前はヴァイオリニストとしてNHKに出演。戦後の1953年(昭和28年)九州交響楽団設立にあたり、懇意であった石丸寛と行動をともにする。
大橋 武夫(おおはし たけお、1906年(明治39年)11月… 大橋 武夫(おおはし たけお、1906年(明治39年)11月18日 - 1987年(昭和62年)7月13日)は、日本の陸軍軍人、実業家、経営評論家。 軍人として第53軍参謀・東部軍参謀等を務め、階級は陸軍中佐に至る。戦後東洋精密工業社長、同社相談役や偕行社副会長を歴任する。愛知県蒲郡市出身。 明治39年11月陸軍中佐大橋崧次郎の四男として生まれ、愛知四中・名古屋陸軍幼年学校・陸軍士官学校予科を経て昭和2年7月19日に陸軍士官学校を卒業。同年10月25日、陸軍砲兵少尉に任官され、野戦重砲兵第2連隊附を命ぜられる。士官候補生第39期の大橋の同期には陸軍省軍務局軍事課高級課員で戦後陸将・陸上幕僚副長となる高山信武大佐や、南方軍第2課長の矢野連大佐、関東軍作戦主任参謀の草地貞吾大佐がいる。
上島 治忠(うえしま はるただ、1906年11月16日 - … 上島 治忠(うえしま はるただ、1906年11月16日 - 1989年6月5日)は、日本の実業家。上島コーヒーグループの創業者。奈良県磯城郡田原本町出身。上島忠雄は弟。 1925年に畝傍中学校を卒業。翌年に上島商店(のちのウエシマコーヒーフーズ)を創業。1950年に社長に就任し、1970年に会長に就任した。 1989年6月5日急性腎不全のために神戸市の病院で死去。82歳没。
岩下 俊作(いわした しゅんさく、1906年11月16日 -… 岩下 俊作(いわした しゅんさく、1906年11月16日 - 1980年1月30日)は、日本の小説家。本名:八田秀吉。福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区)生まれ。 旧福岡県立小倉工業学校(現福岡県立小倉工業高等学校)機械科卒業。1928年から1961年まで八幡製鉄所に勤務した。1938年、同郷の芥川賞作家・火野葦平や劉寒吉らと共に同人誌「九州文学(第二期)」に参加し、代表作となる『富島松五郎伝』(「九州文学」1939年10月号。「オール讀物」1940年6月号)で、1939年下半期・第10回直木賞候補、翌1940年上半期・第11回直木賞候補に挙げられるも受賞ならず。さらに、「辰次と由松」で同年下半期・第12回直木賞候補、「西域記」で1943年上半期・第17回直木賞候補となったが、いずれも受賞できなかった。
佐木 秋夫(さき あきお、1906年11月16日 - 198… 佐木 秋夫(さき あきお、1906年11月16日 - 1988年8月20日)は、日本の宗教学者。 左派の立場から宗教問題について研究した。 東京府東京市麹町区生まれ。1922年、旧制東京府立第四中学校を(1923年卒)4年修了。4年修了同期に末吉俊雄(元三井東圧化学社長)らがいる。旧制第一高等学校を経て、1930年に東京帝国大学文学部宗教学宗教史学科を卒業。 巣鴨学園、英語塾高田女塾で英語を教えながら日本戦闘的無神論者同盟、唯物論研究会に拠って著作をなす。 軍国主義の圧迫を受け、1938年青江舜二郎らと教育紙芝居協会を設立。 戦後の極東国際軍事裁判で検事側にたって軍部の「紙芝居統制」を証言した。
根本 誠(ねもと まこと、1906年11月16日 - 197… 根本 誠(ねもと まこと、1906年11月16日 - 1976年1月2日)は、東洋史学者。中国法制史が専門だった。 東京生まれ。1933年早稲田大学文学部卒業。1934年安田商工業学校教員、1942年早稲田大学文学部講師、1946年助教授、1951年教授。その後、創価大学教授を務めた。 1976年1月2日、心不全のため東京都練馬区の小山病院にて死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
小林 勝馬(こばやし かつま、1906年(明治39年)11月… 小林 勝馬(こばやし かつま、1906年(明治39年)11月16日 - 1987年(昭和62年)12月23日)は、日本の政治家、実業家、鍼灸師。参議院議員(1期)。 佐賀県佐賀郡鍋島村(現佐賀市)で小林鹿三郎の四男として生まれた。1927年 (昭和2年)鍼灸術営業免許所得[要出典]。熊本逓信講習所を卒業し、さらに1928年(昭和3年)無線電信講習所を卒業した。 1922年(大正11年)通信事務員となり、以後、警視庁技手、国際汽船事務長、無線電信技士、山王工業社長、日本光学兵器社長、自家用自動車組合理事、官立無線同窓会会長などを務めた。 1946年(昭和21年)東京都鍼灸按マッサージ師会理事長及び日本鍼灸按マッサージ師会副会長、全国鍼灸按マッサージ医法制定実行委員会書記長に就任[要出典]。
久保 為義(くぼ ためよし、明治39年(1906年)11月1… 久保 為義(くぼ ためよし、明治39年(1906年)11月15日 - 昭和17年(1942年)2月5日)は、日本の映画監督、脚本家である。宝塚キネマ時代は久保 文憲(くぼ ふみのり)を名乗る。 1906年(明治39年)11月15日、京都市下京区に生まれる。 1925年(大正14年)、旧制・京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)卒業。第一銀行に就職。 1926年(大正15年)、2年後輩の山中貞雄とともに、友人ですでに俳優や助監督をしていた2歳下のマキノ正博のもとを訪ね、正博の父・牧野省三の会社「マキノ・プロダクション」に入社、助監督となった。 この年、現代劇『青い眼の人形』で正博が18歳で監督でデビューするが、このときに正博のオリジナルストーリーをもとに脚本を書いたのが19歳の久保であった。
山崎 勝弘(やまざき かつひろ、1906年11月15日 - … 山崎 勝弘(やまざき かつひろ、1906年11月15日 - 1987年2月22日)は、日本の服飾史学者。 1927年京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)図案科卒。31年同校助教授、1951年奈良女子大学教授、70年定年退官、名誉教授、金蘭短期大学教授。
服部 敏良(はっとり としろう、1906年11月15日 - … 服部 敏良(はっとり としろう、1906年11月15日 - 1992年6月16日)は、日本の医師、医学史研究家。医学博士、文学博士。 岐阜県山県郡高富町(現・山県市)生まれ。名古屋医科大学(現・名古屋大学医学部)卒業。1936年、「アドレナリンとヒスタミンの胃液分泌に及ぼす拮抗作用に就いての臨床的並びに実験的研究」で同大学より医学博士を授与される。愛知県一宮市の山下病院に勤務、1942年から1976年まで院長を務める。 医業のかたわら日本医学史の著作を多く著し、1965年「日本医学史、とくに鎌倉時代医学史の研究」で第18回中日文化賞を受賞。1973年「日本中世医学史の研究」で文学博士(駒澤大学)を取得した。
野々村 一男(ののむら かずお、1906年11月15日 - … 野々村 一男(ののむら かずお、1906年11月15日 - 2008年2月11日)は、日本の彫刻家。愛知県立芸術大学名誉教授。日本芸術院会員。 愛知県名古屋市に生まれる。東京美術学校卒業。同校在学中の1929年、第10回帝展に「座女」にて初入選。1955年、中日文化賞受賞。1981年、「物との、はざま」にて日本芸術院賞受賞。1988年、日本芸術院会員。1989年、勲三等瑞宝章受章。2008年2月11日午前11時33分、老衰のため名古屋市の自宅にて死去。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
梅林 時雄(うめばやし ときお、1906年(明治39年)11… 梅林 時雄(うめばやし ときお、1906年(明治39年)11月15日 - 1956年(昭和31年)5月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県築上郡東吉富村(現吉富町)で、梅林宇十郎の長男として生まれる。1929年、明治大学政治経済学科卒。梅林組に入る。東洋産業開発、東洋商事、東洋加工各(株)取締役社長、大分液体燃料、西日本工業、梅林土木各(株)会長、大分県土木建築、同石材採掘各工業組合理事長などを歴任した。 1947年の第23回衆議院議員総選挙において大分1区から民主党公認で立候補して当選。1949年の第24回衆議院議員総選挙で落選した。
徳田 與吉郎(与吉郎、とくだ よきちろう、1906年(明治3… 徳田 與吉郎(与吉郎、とくだ よきちろう、1906年(明治39年)11月15日 - 1995年(平成7年)11月11日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、石川県金沢市長。 石川県石川郡比楽島村(石川村、松任町、松任市を経て現白山市水島町)で生まれた。1926年(大正15年)5月、東京市の順天中学校(現順天中学校・高等学校)4年修了後、家業の米穀薪炭販売業に従事した。 1942年(昭和17年)3月、石川県食糧営団会計主任に就任し、同会計課長、同金沢支所長、同経理部長を歴任。以後、食糧配給公団石川県支局経理部長、石川県食糧事業協同組合常任監事、石川県米穀取締役、糧栄不動産監査役、北糧商会社長、金沢燃料社長などを務めた。
洞 富雄(ほら とみお、1906年11月14日 - 2000… 洞 富雄(ほら とみお、1906年11月14日 - 2000年3月15日)は、日本の歴史学者。専攻は日本史。元早稲田大学文学部教授。文学博士(早稲田大学)。
久保 喬(くぼ たかし、本名:久保 隆一郎、1906年11月… 久保 喬(くぼ たかし、本名:久保 隆一郎、1906年11月13日 - 1998年10月23日)は、日本の児童文学作家。 愛媛県宇和島市出身。愛媛県立松山商業学校卒業後、窪田空穂が主宰する短歌雑誌『国民文学』の同人となる。上京して東洋大学専門部東洋文科に進学。太宰治、檀一雄と出会い、同人誌「青い花」に参加。中退後、川端康成の紹介で創元社編集部の手伝いを経て、1939年に児童図書出版社の教養社へ入社したのを機に児童文学創作を志す。1942年に評論「童話の本質」を発表。1946年に日本児童文学者協会設立と同時に会員となる。 『ビルの山ねこ』で小学館文学賞、『赤い舟の帆』で日本児童文学者協会賞をそれぞれ受賞。
滝沢 修(たきざわ おさむ、1906年11月13日 - 20… 滝沢 修(たきざわ おさむ、1906年11月13日 - 2000年6月22日)は、日本の俳優、演出家。本名は滝沢 脩。
宮内 巌(みやうち いわお、1906年11月13日 - 19… 宮内 巌(みやうち いわお、1906年11月13日 - 1987年10月30日)は、日本の実業家。 千葉県出身。1927年、和歌山高等商業学校卒業。安田信託銀行での勤務を経て、1935年に西武鉄道に転職し、総務部長に就任。常務、専務を経て、1973年から副社長に就任。1979年に発足した西武ライオンズの球団社長も務めた。1969年11月に藍綬褒章を受章し、1977年5月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1987年10月30日、腎不全で死去。80歳没。
上田 勤(うえだ つとむ、1906年11月12日 - 196… 上田 勤(うえだ つとむ、1906年11月12日 - 1961年3月2日)は、英文学者。 北海道函館市生まれ。第三高等学校卒、東京帝国大学英文科卒、第四高等学校教授、第一高等学校教授ののち、戦後、東京大学教養学部イギリス科主任教授を務めるが在職中に急逝した。現代英国小説を専攻し、モーム評伝のほか、オルダス・ハクスリー、ヘンリー・ジェイムズ、アレグザンダー・ポープなどを翻訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
南条 三郎(南條 三郎、なんじょう さぶろう、1906年11… 南条 三郎(南條 三郎、なんじょう さぶろう、1906年11月12日 - 1957年5月22日)は、日本の小説家、歴史作家。 岡山市生まれ。本名・安井徳雄。1931年早稲田大学文学部英文科卒業。毎日新聞社「小学生新聞」編集記者、高校教師などの職につく。1939年長編『断雲』で『サンデー毎日』の千葉亀雄賞に当選、サンデー毎日大衆文藝賞に1937年、1938年、1946年の3回当選。戦後は地方新聞に歴史小説を連載した。代表作『小説本阿弥一門』は『東京日日新聞』に1957年から1958年まで連載された。 小説家の南原幹雄は息子である。
舘(館) 稔(たち みのる、1906年(明治39年)11月1… 舘(館) 稔(たち みのる、1906年(明治39年)11月11日 - 1972年(昭和47年)3月21日)は、日本の人口学者。1939年(昭和14年)東京帝国大学卒業。厚生省(現厚生労働省)人口問題研究所に入所。1959年(昭和34年)所長(第二代)に就任。国際連合人口委員会委員、国際人口学会、国際統計協会などの役員を務めた。 1950年代から、「ベビーブームからベビーデフレへ」との表現で日本の少子化問題を指摘していた。ベビーブームが1950年に鎮火したこと、さらに結婚年齢の変化や出産年齢層の変化などから出生率の低下傾向が続き、出生減退が起きることを予測した。 当時は日本を含め、世界的には発展途上国の人口爆発と資源の有限性の観点から「人口抑制」「出生抑制」の必要性のほうが強調されており、少子化が社会問題としてマスメディア等で指摘されるようになったのは、1989年に日本の合計特殊出生率が1.57を下回り「1.57ショック」を迎えてからのことである。
横山 東六(よこやま とうろく、本名:横山 登二、1906年… 横山 東六(よこやま とうろく、本名:横山 登二、1906年11月11日 - 1980年11月6日)は、昭和期に活躍した漫才師、横山ホットブラザーズ創始者。 映画の楽士出身で、一家を従え楽器を用いた破天荒な漫才を行なった。賑やかで朗らかな芸風は息子達によって受け継がれている。 横山は本名由来で、横山エンタツ一門とは無関係。 愛媛県新居浜市の生まれ、19歳で来阪し桜ノ宮音楽学院で学んで映画の楽士になる 。1928年より関西交響楽団(現在の大阪フィルハーモニー交響楽団の前身とは別の団体。こちらは戦後の設立)に入団。傍ら楽士をしていたが映画のトーキー化で仕事が激減する。 1933年より陽気屋東六の名で音曲漫才に転向し、落語家出身の笑福亭福之助(後の鹿島洋々)とコンビを組み、新世界アシベ劇場で漫才初舞台。
藤原 節夫(ふじわら せつお、1906年〈明治39年〉11月… 藤原 節夫(ふじわら せつお、1906年〈明治39年〉11月10日 - 1992年〈平成4年〉4月17日)は、日本の新聞記者、官僚、政治家。衆議院議員、総理府総務副長官(事務担当)。 岡山県出身。1932年(昭和7年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業した。 時事新報、読売新聞の記者を経て官界に転じ、逓信大臣秘書官、司法大臣秘書官、綜合計画局参事官、戦災復興院事務官、建設省弘報課長、総理府総務副長官(事務)を歴任。臨時恩給等調査会委員、南方同胞援護会設立委員、中央青少年問題協議会副会長、日本民主党事務局長、自由民主党事務局長も務めた。 1958年(昭和33年)の衆議院総選挙で岡山県第2区から自民党公認で出馬するが次々点で落選(ちなみに次点は藤井勝志)、1960年(昭和35年)の総選挙でトップ当選して衆議院議員となるが、この時大規模な選挙違反を起こして運動員や妻が検挙される。
石川 湧(いしかわ ゆう、1906年11月10日 - 197… 石川 湧(いしかわ ゆう、1906年11月10日 - 1976年10月31日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。東京学芸大学名誉教授。 栃木県生まれ。本名・わくみ。1927年東京外国語学校フランス語科卒業。はじめ唯物論、マルクス主義関係の文献、フランス文学を訳す。戦後、東京学芸大学教授を務め、モーリス・ルブラン、ジュール・ヴェルヌなどの翻訳で知られた。翻訳家の石川布美は娘。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
太田 廣(おおた ひろし、1906年11月10日 - 198… 太田 廣(おおた ひろし、1906年11月10日 - 1984年11月26日)は、日本の歴史学者。専攻は西洋史、特にドイツの宗教改革史。 東北帝国大学法文学部で大類伸に師事し、1933年に卒業。東京文理科大学の嘱託、助手となった。一方で、東京高等師範学校書記、助教授を兼務し、1939に東京高等師範学校助教授専任となる。 1942年、台北高等学校教授に着任したが、1946年に辞職。その後、鉄道教習所講師、実践女子専門学校講師などを経て、1949年に発足間もない新潟大学人文学部の助教授となり、1952年には教授に昇任した。 1972年に新潟大学を定年退職し、名誉教授。1973年には城西大学経済学部教授に就任し、1981年に退職した。
杉本 三吾(すぎもと さんご、1906年11月9日 - 19… 杉本 三吾(すぎもと さんご、1906年11月9日 - 1978年8月28日)は、日本の経営者。西松建設社長を務めた。 山梨県出身。1919年9月に西松組(のちの西松建設)に入社し、1930年に攻玉社工学校土木本科を卒業。1946年1月に理事に就任し、1948年3月に取締役、1956年に常務、1964年に専務、1965年に副社長を経て、1971年11月には社長に就任。1977年6月には会長に就任。 1963年に黄綬褒章を受章。 1978年8月28日、心不全のために死去。71歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
徳川 義寛(とくがわ よしひろ、1906年 <明治39年> … 徳川 義寛(とくがわ よしひろ、1906年 <明治39年> 11月7日 - 1996年 <平成8年> 2月2日)は、日本の官僚。宮内官僚として52年にわたり天皇家を支え、昭和天皇の側近、侍従長の役割も果たした。位階は従二位。勲一等端宝章。 尾張(名古屋)藩主徳川慶勝の孫で、実弟津軽義孝は常陸宮正仁親王妃華子の父であり、妹祥子は北白川宮永久王の妃で皇籍離脱後は香淳皇后付の女官長、皇太后宮女官長を務めた。 1906年(明治39年)、尾張徳川家分家、徳川義恕の長男として東京府に生まれる。1927年(昭和2年)、学習院高等科を卒業し、1930年(昭和5年)、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。ベルリン大学留学後、帝室博物館(現東京国立博物館)研究員。