小川 大系(おがわ たいけい、1898年(明治31年)11月… 小川 大系(おがわ たいけい、1898年(明治31年)11月25日 - 1980年(昭和55年)8月26日)は日本の彫刻家。本名は小川 孝義(もとよし)。 長野県南安曇郡東穂高村(現・安曇野市)の地主の家に生まれる。高等小学校卒業後、農業の傍ら表具師の修業を積み、日本画を独学する。1933年(昭和8年)、35歳で上京し、同郷の山本安曇に才能を認められ、北村西望に入門、彫刻制作に邁進した。翌1934年、「天空を行く」が第15回院展に初入選すると、文部省美術展(文展)に入選を重ね、1941年(昭和16年)文展無鑑査となる。東京大空襲でアトリエが焼失したため、帰郷。戦後は中信美術会委員長、信州美術会(長野県美術展(県展)の団体)運営委員、長野県工芸会会長として活躍し、日展委員、日本彫刻会会員となった。
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伊藤 謙三(いとう けんぞう、1898年(明治31年)11月… 伊藤 謙三(いとう けんぞう、1898年(明治31年)11月24日 - 1966年(昭和41年)9月25日)は、日本の実業家。初代大建木材工業社長。 1920年に高千穂高等商業学校(現高千穂大学)を卒業し、同年よりアメリカ合衆国に留学。1923年ハーバード大学卒業。1924年丸紅商店入社。 1937年丸紅商店大阪支店貿易部長。1939年丸紅商店上海支店長。1940年丸紅商店取締役。1941年三興貿易部長。1942年三興取締役。 1944年大建産業林業部長。1945年に大建産業林業部が大建木材工業として独立すると、同社初代社長に就任した。伊藤忠商事の大株主でもあった。 父は伊藤忠三元丸紅商店会長。
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石川 準吉(いしかわ じゅんきち、1898年〈明治31年〉1… 石川 準吉(いしかわ じゅんきち、1898年〈明治31年〉11月24日 - 1990年〈平成2年〉7月12日)は、日本の農林官僚、政治家、弁護士。参議院議員。 秋田県で、石川為治の五男として生まれる。広島高等師範学校を卒業し、1922年(大正11年)、広島県福山師範学校教授に就任。1925年(大正14年)、高等試験司法科試験に合格し、1926年(大正15年)12月には同試験行政科試験に合格。1927年(昭和2年)、東北帝国大学法文学部法科を卒業し農林省に入省。産業組合事務官兼農林事務官、農林事務官兼水産講習所教授、大阪営林局庶務部長、東京営林局庶務部長、農林省水産局水産課長、同米穀局外地課長、大使館一等書記官、食糧管理局第一部長、地方総監府参事官、東北地方行政事務局次長、農林省総務局長などを歴任し、1946年(昭和21年)に退官。
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宮城 孝治(みやぎ こうじ、1898年11月24日 - 19… 宮城 孝治(みやぎ こうじ、1898年11月24日 - 1985年2月22日)は、日本の経営者。共栄火災海上保険社長を務めた。 徳島県出身。1924年に北海道帝国大学農学部農業経済科を卒業し、同年に農商務省に入省。1944年5月に共栄火災海上保険に転じ、同年6月に常務、1947年3月に専務を経て、同年11月には社長に就任した。1964年6月には会長に退いた。 1965年に藍綬褒章を受章し、1969年4月に勲四等旭日小綬章を受章した。 1985年2月22日、肝不全のために死去。86歳没。
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中野 敏雄(なかの としお、1898年(明治31年)11月2… 中野 敏雄(なかの としお、1898年(明治31年)11月22日 - 1999年(平成11年)11月1日)は、昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、初代佐賀県武雄市長。 佐賀県杵島郡武雄町(現武雄市武雄町)で、温泉旅館・春慶屋経営、中野祐市、いち夫妻の長男として生まれる。1916年(大正5年)慶應義塾大学部理財科に入学したが、志望校ではなかったため両親に内緒で旧制高等学校を受験して合格し、親の許しを受けて1918年(大正7年)4月、第七高等学校造士館に入学。1921年(大正10年)3月、七高を卒業し、同年4月、東京帝国大学文学部社会学科に入学。1925年(大正14年)同大文学部を卒業したが、不況の最中での卒業であったため、じっくり学問に取り組もうと同年4月、同大法学部政治学科に入学し、1928年(昭和3年)3月に卒業した。
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萩原 恭平(はぎわら きょうへい、1898年11月19日 -… 萩原 恭平(はぎわら きょうへい、1898年11月19日 -1969年7月13日 )は、日本の言語学者。ロンドン大学客員教授、早稲田大学教育学部英語英文学科教授等を歴任した。稲村松雄、竹沢啓一郎との共著『Jack and Betty』は発行部数4,000万部を超えるベストセラーとなり、戦後日本の中・高等教育課程における代表的な英語教科書となった。埼玉県上里町出身。墓所は寛永寺第3霊園。 埼玉県児玉郡賀美村(現:上里町)大字黛にて出生。旧制高崎中学校を経て早稲田大学高等師範部卒業。千葉県立大多喜中学校教諭、東京府立第五中学校教諭、早大高師部講師等を経て1935年に早大教授に就任。同校を1969年に定年退職するまでの間に、1938年に渡英しロンドン大学で客員教授を務め、1960年代に跡見学園女子大学で客員教授を務めた際には同大学英文科開設に尽力した。
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稲田 勤(いなだ つとむ、1898年 <明治31年> 11月… 稲田 勤(いなだ つとむ、1898年 <明治31年> 11月19日 - 1976年 <昭和51年> 8月27日)は、日本の経営者。明治生命保険社長を務めた。位階は従五位。 東京都出身。1922年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に明治生命保険に入社。 1946年11月に常務に就任し、1958年5月に副社長を経て、1961年5月に社長に就任。1964年5月には相談役に就任した。 経済団体連合会理事、日本経営者団体連盟常任理事、日本相撲協会会長なども歴任した。 1963年5月に藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1976年8月27日、心筋梗塞のために死去。77歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
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近衞 秀麿(このえ ひでまろ、1898年11月18日 - 1… 近衞 秀麿(このえ ひでまろ、1898年11月18日 - 1973年6月2日)は、日本の指揮者・作曲家。元子爵。正三位勲三等。元貴族院議員。異母兄に近衞文麿(政治家・元内閣総理大臣)、実弟に近衞直麿(雅楽研究者)、水谷川忠麿(春日大社宮司)がいる。
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奥野 健一(おくの けんいち、1898年11月18日 - 1… 奥野 健一(おくの けんいち、1898年11月18日 - 1984年5月6日)は、最高裁判所判事。和歌山県出身。文芸評論家の奥野健男は長男。 旧制和歌山県立田辺中学校から旧制第六高等学校へ進学。旧制高校時代に高校生と地回りたちの大乱闘があったさいに、喧嘩には加わらなかったが、目撃者の誤った証言で警察に逮捕された。いくらやらないと言っても警察官は聞き入れず、ついには卑怯者と言われたくなく友人を庇う義侠心から乱闘の首謀者と偽りの自白をしてしまった。警察官に尋問をされ、偽りの上に偽りの自白を重ね、架空の筋書きの調書が作られた。幸い検事の調べによって無実であることがわかり不起訴となった。 この体験は警官の誘導尋問によって人間はいかに偽りの自白をしやすいものであるかという教訓として、自身が体験者の一人として後年に裁判をする時にいつもその点を配慮するようになったとのことである。
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北村 喜八(きたむら きはち、1898年11月17日 - 1… 北村 喜八(きたむら きはち、1898年11月17日 - 1960年12月27日)は、日本の演出家、劇作家、翻訳家。 石川県出身。東京帝国大学英文科卒。 1924年(大正13年)、築地小劇場に参加する。1937年(昭和12年)、村瀬と芸術小劇場を結成し主宰する。第二次世界大戦後は新劇で活動。1950年(昭和25年)8月18日、阿部知二とともに第22回国際ペンクラブ大会に戦後始めて代表として出席。1951年(昭和26年)、国際演劇協会日本センター初代理事長となる。 ドイツ・英米演劇を翻訳した。 妻は女優の村瀬幸子。
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榊原 巌(さかきばら がん、1898年〈明治31年〉11月1… 榊原 巌(さかきばら がん、1898年〈明治31年〉11月17日 - 1994年〈平成6年〉11月30日)は、日本の経済学者、キリスト教(アナバプティズム)研究家、政治家、実業家。青山学院大学名誉教授。筆名は、吾妻 東一、福田 逸史。 妻は衆議院議員の榊原千代。息子はヒッポファミリークラブ創設者の榊原陽。 愛知県碧南市生まれ。1921年(大正10年)3月、官立神戸高等商業学校を中途退学する。同年4月に東京商科大学(現・一橋大学)本科に入学し、1924年(大正13年)3月に卒業する。同年4月に横浜社会問題研究所の研究員に就任する。 1926年(大正15年)6月から福島高等商業学校(現・福島大学)講師、1927年(昭和2年)7月から同校教授に就任する。
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矢上 純雄(やがみ すみお、1898年(明治31年)11月1… 矢上 純雄(やがみ すみお、1898年(明治31年)11月16日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚、昭和戦後の鹿児島県職員。 鹿児島県囎唹郡末吉村(現・曽於市)に生まれる。1918年(大正7年)8月、渡台し、台中郵便局雇、台湾総督府通信手、内務局勤務を経て、1937年(昭和12年)9月、地方理事官に進み、台北市助役に就任する。 1939年(昭和14年)4月、台中州豊原郡守に転じ、1940年(昭和15年)11月、台南州虎尾郡守に就任。1942年(昭和17年)8月、花蓮港庁総務課長を発令された。 終戦後は帰国し、1947年(昭和22年)から鹿児島県農地部農地課に勤務し、農地課長を経て、1949年(昭和24年)経済部水産課長に就く。
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野溝 勝(のみぞ まさる、1898年(明治31年)11月15… 野溝 勝(のみぞ まさる、1898年(明治31年)11月15日 - 1978年(昭和53年)8月22日)は、日本の政治家、農民運動家。衆議院議員、参議院議員、左派社会党書記長、芦田内閣の地方財政委員会委員長。正三位勲一等瑞宝章。 長野県上伊那郡赤穂村(現在の駒ヶ根市)に馬車屋の子として生まれる。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、1917年(大正6年)青森農業学校畜産獣医科を卒業する。同年法政大学に入学するが、すぐに中退し、獣医師となり、長野県警察部で防疫官、衛生助手として勤務する。しかし思想的に問題があるとみなされて、長野県下伊那郡富草警察署(現・阿南警察署)に配置換えとなる。しかし、ここでも署長と衝突し、1922年(大正11年)に退職した。
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河口 静雄(かわぐち しずお、1898年11月14日 - 1… 河口 静雄(かわぐち しずお、1898年11月14日 - 1991年12月19日)は、日本の実業家。三共副社長、東京12チャンネルテレビ事業本部長を務めた。 福岡県柳川市出身。河口時次、トリの三男。1928年に慶應義塾大学法学部を卒業し三共に入社。資材部長、1944年7月に取締役、1950年5月に常務、1955年11月専務を経て、1962年11月には副社長に就任し、1964年5月から相談役を務めた。1969年11月には当時経営不振に陥っていた東京12チャンネルテレビ事業本部長に就任し、同社の再建に当たった。全日本広告連盟理事長、日本広告審査機構理事長なども歴任し、広告界の重鎮として活躍した。1967年には日本宣伝大賞を授賞、1969年4月には勲三等瑞宝章を受章した。
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桜井 督三(さくらい とくぞう、別表記 : 櫻井 督三、18… 桜井 督三(さくらい とくぞう、別表記 : 櫻井 督三、1898年 〈明治31年〉11月14日 - 1978年〈昭和53年〉5月15日)は、日本の経営者。北越製紙、新潟総合テレビ社長などを務めた。位階は従四位。 新潟県広神村(現・魚沼市)の庄屋に生まれる。 長岡中学(現・新潟県立長岡高等学校)を経て慶應義塾理財科を卒業。1922年に九州水力電気に入社。1942年に九州配電理事に就任。理事になるまで、経理、営業、企画、技術を担当。九州の主なところでは大牟田、大分、福岡に移り住んだ。 1944年に日本発送電理事に転じ、1949年7月から1950年9月までに副総裁を歴任。1954年9月から1956年9月までに電源開発理事を務めた。
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藤野 岩友(ふじの いわとも、1898年11月14日 - 1… 藤野 岩友(ふじの いわとも、1898年11月14日 - 1984年5月28日)は、古典中国文学者。國學院大學名誉教授。文学博士。折口信夫の五博士のうちの一人である。 楚辞の研究で知られ、主著は『巫系文学論』、『中国の文学と礼俗』など。漢文学者として『角川漢和中辞典』など漢和辞典や漢文教科書の編さんを担当した。 息子は幻想画家の藤野一友(別名義で中川彩子)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
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松坂 佐一(まつさか さいち、1898年11月13日 - 2… 松坂 佐一(まつさか さいち、1898年11月13日 - 2000年3月11日)は、日本の民法学者。現在の倉敷市生まれ。名古屋大学名誉教授。従三位勲二等旭日重光章。
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黒津 敏行(くろつ としゆき、1898年(明治31年)11月… 黒津 敏行(くろつ としゆき、1898年(明治31年)11月12日 - 1992年(平成4年)11月16日)は、日本の医学者。大阪大学名誉教授。 1898年(明治31年)京都府に生まれる。1916年(大正5年)京都府立京都第二中学校 (旧制)を卒業後。大阪医科大学 (旧制)に進学。1924年(大正13年)に卒業後、同大助手を経て、1931年(昭和6年)同大助教授に就任。1935年(昭和10年)にはロンドンで開催された第二回国際神経学会に出席した。1936年(昭和11年)大阪帝国大学教授、1948年(昭和23年)同大医学部長に就任。1956年(昭和31年)に退官後は園田学園女子短期大学、園田学園女子大学の初代学長をそれぞれ務めた。
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川島 桂山(かわしま けいざん、1898年〈明治31年〉11… 川島 桂山(かわしま けいざん、1898年〈明治31年〉11月12日 - 1987年〈昭和62年〉3月4日)は、昭和に活躍した千葉県出身の書家。書道普及会創設者。社団法人日本書道院理事。書道研究温知会名誉理事。本名は川嶋 泰祐(かわしま たいすけ)。 1920年(大正9年)小野鵞堂主宰の書道研究斯華会に入会、1925年(大正14年)小野成鵞および神郡晩秋に師事し直接指導をうけ1952年(昭和27年)から1970年(昭和45年)には豊道春海に書道の薀奥を学んだ。また、世界各地に日本美術を紹介する手助けや、芸術家文化人のチャリティ展などに協力して書道の普及に尽力した。 桂山は1936年(昭和11年)「現代に適応した書道の普及と兼ねて精神の修養に資せんが為」に書道普及会を設立し、会誌「書道普及」を創刊する。
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米田 吉盛(よねだ よしもり、1898年〈明治31年〉11月… 米田 吉盛(よねだ よしもり、1898年〈明治31年〉11月10日 - 1987年〈昭和62年〉5月17日)は、日本の教育者。神奈川大学の創立者であり、昭和期の政治家である。衆議院議員(4期)。 1898年(明治31年)11月10日に愛媛県喜多郡満穂村(現:内子町)論田で、村役場の書記を務める父良吉、母サヨシの元に生まれる。しかし、米田が1歳の際に離婚し、祖母であるクマの元で育てられた。尋常小学校を卒業後、京都の呉服屋に丁稚奉公に行く。しかしながら、この丁稚奉公は1年で切り上げ、米田15歳の夏、第一次世界大戦後の景気に沸く台湾・基隆の山本金物店(社長山本勘助)に勤め、数年のうちに責任を任された。
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上田 誠一(うえだ せいいち、1898年(明治31年)11月… 上田 誠一(うえだ せいいち、1898年(明治31年)11月10日 - 1969年(昭和44年)1月7日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。官選県知事。 石川県出身。小学校長・上田誠文の長男として生まれる。石川県立金沢第二中学校を卒業。金沢医学専門学校中退を経て、第四高等学校を卒業。1921年10月、高等試験行政科試験に合格。1922年3月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年4月、内務省に入省し、宮城県属となり内務部地方課に配属された。 1923年2月、宮城県警視・警察部警務課長に就任。以後、同保安課長兼工場課長、兵庫県警察部保安課長、同特別高等警察課長、京都府警察部特別高等警察課長、警視庁警視・特別高等警察課長、兼外事課長、警視庁衛生部長を歴任。
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堀 武芳(ほり たけよし、1898年11月10日 - 196… 堀 武芳(ほり たけよし、1898年11月10日 - 1968年10月15日)は、日本の経営者、銀行家。日本勧業銀行頭取を務めた。和歌山県出身。 1923年に東京帝国大学独法科を卒業し、同年に日本勧業銀行に入行。1946年に理事に就任し、1950年1月には頭取に就任した。1961年から1962年12月に会長を務めた。1964年には日本銀行政策委員に就任し、全国銀行協会連合会会長も務めた。 1968年10月15日脳血栓のために死去。69歳没。
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稲畑 太郎(いなばた たろう、1898年11月9日 - 19… 稲畑 太郎(いなばた たろう、1898年11月9日 - 1988年4月3日)は、昭和時代の日本の実業家。 京都出身。稲畑勝太郎の長男。 1921年(大正10年)、東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業した。1937年(昭和12年)稲畑商店(のちの稲畑産業)取締役社長となる。 1944年(昭和19年)から1946年(昭和21年)まで住友化学工業監査役を務めた。1948年(昭和23年)関西経済同友会代表幹事。1953年(昭和28年)再び住友化学工業監査役に就任。1958年(昭和33年)久保田鉄工監査役に就任。 1959年(昭和34年)再び関西経済同友会代表幹事に就任。1960年(昭和35年)日本国際貿易促進協会関西本部副理事長。
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伊藤 四男(いとう かずお、1898年11月8日 - 197… 伊藤 四男(いとう かずお、1898年11月8日 - 1974年3月20日)は日本の柔道家(講道館9段・国際武道院(英語版)名人10段)。 戦後、講道館の中で東京高師閥と共に興盛を誇った三船久蔵閥の主力人物であり、警視庁や日本体育大学、東洋大学等で柔道師範を務めた。その後北米や欧州各国で柔道指導を行い、柔道の国際的発展にも貢献している。 晩年は講道館の9段位に列せられたほか、国際武道院を主宰して師の三船に次ぐ名人10段位を名乗った。 山形県新庄市下金沢町の伊藤家に四男(よんなん)として出生し、警察官を退官後に町役場吏員を務める父・一から柔道の手解きを受けた。後の市立日新小学校を卒業後は1913年に旧制佐世保中学校(後の長崎県立佐世保北高校および同南高校)に入学して柔道を修行、その後は佐世保の海兵隊に進んで同隊在籍中の1920年4月に講道館へ入門した。
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宮沢 トシ(みやざわ トシ、旧字体: 宮澤 トシ、1898年… 宮沢 トシ(みやざわ トシ、旧字体: 宮澤 トシ、1898年〈明治31年〉11月5日 - 1922年〈大正11年〉11月27日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の女性。詩人・童話作家の宮沢賢治の妹。 宮沢賢治の妹で、彼の理解者の一人であった。日本女子大学校(当時は旧制女子専門学校の扱い)を首席で卒業後、岩手県立花巻高等女学校(現・岩手県立花巻南高等学校)で教員を務めていたが、結核により満24歳で死去した。 彼女の臨終の模様は『永訣の朝』等の賢治の詩に描写され、またその死去は賢治の創作活動に大きな影響を与えたとされる。 なお、名前の「トシ」は戸籍名であるが、賢治の創作や書簡においては「とし子」「敏」といった表記も用いられている。
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片山 敏彦(かたやま としひこ、1898年(明治31年)11… 片山 敏彦(かたやま としひこ、1898年(明治31年)11月5日 - 1961年(昭和36年)10月11日)は、日本の詩人、文学研究者、ドイツ文学者、フランス文学者、翻訳家。 ロマン・ロラン、ヘッセ、リルケ、ハイネ、ゲーテらの翻訳も多く、『著作集』全10巻がある。 1898年11月5日、高知県医師会会長・片山徳治の長男として高知市帯屋町に生まれる。母の名は「歌」で、姉・佐栄との4人家族であった。1905年、高知市立第三尋常小学校へ入学、1911年、高知県立第一中学校(現在の追手前高校)に進んだ。多感で、詩に牽かれ、短歌を投稿するなどした。 1916年、岡山市の第六高等学校第3部(医科)に入学し、西欧の哲学、文学を耽読した。
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平野 力三(ひらの りきぞう、1898年11月5日 - 19… 平野 力三(ひらの りきぞう、1898年11月5日 - 1981年12月17日)は、日本の農民運動家、政治家。位階は従三位。 国家社会主義者。のち反資本・反ファッショ・反共農民運動の指導者となる。数々の政党結成に関わり「政界の策士」と呼ばれ、戦後も衆議院議員として活動し、片山内閣の農林大臣を務めた。 兄に平野増吉、夫人の平野成子は日本社会党参議院議員。二女の平野義子は「呼び屋」と呼ばれた神彰の後妻となった。三女の平野照子は、民社党で活動した。自由民主党衆議院議員から岐阜県知事を務めた平野三郎は甥にあたる。 1898年(明治31年)11月5日岐阜県郡上郡大和村(現郡上市)に生まれる。1920年(大正9年)拓殖大学中国語科を経て、1923年(大正12年)早稲田大学政経科を卒業する。
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季子女王(すえこじょおう、1898年〈明治31年〉11月2日… 季子女王(すえこじょおう、1898年〈明治31年〉11月2日 - 1914年〈大正3年〉7月17日)は、日本の皇族。閑院宮載仁親王の第3女子。母は、三条実美公爵令嬢・智恵子。身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。腎臓病によって、15歳で夭折した。
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牛尾 健治(うしお けんじ、1898年〈明治31年〉11月 … 牛尾 健治(うしお けんじ、1898年〈明治31年〉11月 - 1958年〈昭和33年〉8月20日)は、日本の実業家。牛尾合資会社代表社員。中国合同電気、山陽商事各社長。神戸銀行副頭取。姫路商工会議所会頭。神戸経済同友会元代表幹事。兵庫県輸出工業協会長。 兵庫県姫路市出身。飾磨郡豊沢村・梅吉の長男。1920年、大阪高等商業学校卒業。1923年、東京商科大学(現一橋大学)卒業。東京で大学講師をしていたが、1934年に父・梅吉が他界し、帰郷して事業を引き継ぐことになった。1934年、家督を相続した。株式公債売買業を営む。中国合同電気に入社。 広沢製作所会長、大日本産業報国会理事、神戸銀行副頭取、鳥取電燈副社長、日本電球、但馬瓦斯、山陽瓦斯、山陽製紐、北海電気興業、日本商品、日本編物、ナニワ電球工業、牛尾興業、山陽商事各社長などを務め、神戸経済同友会の立上げも行った。
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金原 賢之助(きんばら けんのすけ、1897年11月30日 … 金原 賢之助(きんばら けんのすけ、1897年11月30日 - 1959年1月18日)は、日本の経済学者。慶應義塾大学教授。 1897年に静岡県浜松市に生まれる。1916年に浜松商業学校を卒業後、慶應義塾大学部理財科に入学し、高橋誠一郎のゼミナールで学ぶ。1921年に同大学を卒業し、助手となる。1923年に慶應義塾大学予科教員となり、1925年から1928年まで欧米(イギリス、ドイツ、フランス、オーストリア、アメリカ)に留学する。1928年に慶應義塾大学経済学部助教授、1929年に教授となる。1937年に「世界経済の動向と金本位制度」の題目の論文で博士号を取得する。1946年に経済学部長となり、1957年に商学部設置に伴い商学部長・商学部教授となる。
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山下 秀之助(やました ひでのすけ、1897年11月29日 … 山下 秀之助(やました ひでのすけ、1897年11月29日 - 1974年4月4日)は、日本の医師・歌人。短歌雑誌『創作』の若山牧水、『潮音』の太田水穂に師事し、吉植庄亮主宰の『橄欖』を経て、1946年『原始林』(第2次)を札幌市で創刊。北海道の歌壇の基礎を築いた一人と評価され、戦前・戦後の北海道文壇・歌壇の指導的な存在であった。 1897年(明治30年)11月29日、鹿児島県鹿児島市東千石町に生まれる。鹿児島第一中学校、第七高等学校造士館を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学医学部を卒業。同年5月、北海道帝国大学医学部助手として北海道に移る。北大医学部講師、小樽病院を経て、移住四年後の1926年(大正15年)から国鉄傘下の札幌鉄道病院(現在のJR札幌病院)に勤務。
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宇野 千代(うの ちよ、1897年〈明治30年〉11月28日… 宇野 千代(うの ちよ、1897年〈明治30年〉11月28日 - 1996年〈平成8年〉6月10日)は、大正・昭和・平成にかけて活躍した日本の小説家、随筆家。多才で知られ、編集者、着物デザイナー、実業家の顔も持った。作家の尾崎士郎、梶井基次郎、画家の東郷青児、北原武夫など、多くの著名人との恋愛・結婚遍歴を持ち、その波乱に富んだ生涯はさまざまな作品の中で描かれている。日本芸術院会員。 山口県玖珂郡横山村(現・岩国市)出身。実家は酒造業を営む裕福な家だが、父親は生涯生業に就いたことはなく、博打好きだった。幼い頃に母親が没し、父親は千代と12歳しか違わない若い娘と再婚。実母と思って育ち、大変慕っていた。
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鳥居 忠博(とりい ただひろ、1897年(明治30年)11月… 鳥居 忠博(とりい ただひろ、1897年(明治30年)11月28日 - 1976年(昭和51年)3月25日)は、大正から昭和期の実業家・政治家・華族。貴族院子爵議員。 旧壬生藩主、子爵・鳥居忠文の五男として生まれ、長兄鳥居忠一が京王線に衝突した自動車事故で死去したことで、1939年(昭和14年)2月15日、子爵を襲爵した。 学習院を経て、1923年(大正12年)東京帝国大学経済学部を卒業。三井物産に入社。三洞運輸監査役などを務めた。 1946年(昭和21年)8月22日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。
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沢田 ひさ(さわだ ひさ、1897年(明治30年)11月25… 沢田 ひさ(さわだ ひさ、1897年(明治30年)11月25日 - 1979年(昭和54年)11月9日)は、大正時代から昭和時代の女性政治家、女性解放運動家。日本社会党所属の衆議院議員(1期)。 1897年(明治30年)生まれ。滋賀県甲賀郡土山村(現甲賀市)出身で、結婚して三重県桑名市に移り、戦前から婦人参政権獲得運動に挺身して、中部地区婦人選挙権獲得同盟会員となる。 1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙で当選し、49歳で日本社会党の新人議員として日本最初の女性代議士(三重県の婦人代議士第1号)となり、衆議院議員1期を務めた。1953年(昭和28年)4月24日の第3回参議院議員通常選挙で三重県選挙区から55歳で右派社会党の新人として立候補して 150501票 (得票率28.4%)で落選した。
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安藤 信哉(あんどう のぶや、1897年11月24日 - 1… 安藤 信哉(あんどう のぶや、1897年11月24日 - 1983年1月1日)は、日本の洋画家。 千葉県生まれ。3歳の時、父が教員として赴任するため茨城県結城郡水海道町(現在の常総市)に移り住む。茨城県立水海道中学校卒業後一時教職に就くが、退職して洋画を学ぶ。 生前、売り絵を描かなかったため、画商がつかなかった。生前の親交により、遺族から静岡県の美術館に数十点の作品が寄贈されている。
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真田 穣一郎(さなだ じょういちろう、1897年(明治30年… 真田 穣一郎(さなだ じょういちろう、1897年(明治30年)11月21日 - 1957年(昭和32年)8月3日)は、日本の陸軍軍人。 第2総軍参謀副長・陸軍省軍務局長・参謀本部第一部長を歴任し、階級は陸軍少将功四級に至る。 屯田兵、沼貝町長真田嘉七の長男として生まれ、北海道庁立札幌第一中学校(後の北海道札幌南高等学校)・仙台陸軍地方幼年学校・陸軍中央幼年学校を経て1919年(大正8年)5月陸軍士官学校(31期)を卒業。 同年12月、陸軍歩兵少尉に任官され、歩兵第9連隊附を命ぜられる。 1922年(大正11年)12月中尉に進級し、1924年(大正13年)12月26日陸軍大学校(39期)に入校。1927年(昭和2年)12月6日卒業する。
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奥井 復太郎(おくい ふくたろう、1897年(明治30年)1… 奥井 復太郎(おくい ふくたろう、1897年(明治30年)11月21日 - 1965年(昭和40年)2月16日)は、昭和期の日本の都市経済学者・都市社会学者・農業経済学者。経済学博士。慶應義塾長、日本における都市研究の先駆者。景観論や風景へのアプローチも行った。 日本都市学会初代会長、文化勲章受章者選考委員会ならびに文化功労者選考審査会委員、特殊法人国民生活研究所(現・独立行政法人国民生活センター)所長、日本開発センター顧問、財団法人観光産業研究所所長、地域開発研究所所長、海運経済研究所調査委員会委員、ユネスコ国内委員、社会開発懇談会委員等を歴任。
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及川 顕司(おいかわ けんじ、1897年〈明治30年〉11月… 及川 顕司(おいかわ けんじ、1897年〈明治30年〉11月21日 - 1985年〈昭和60年〉11月28日)は、日本の政治家。初代岩手県北上市長(2期)。 現在の岩手県北上市生まれ。1917年〈大正6年〉和賀郡黒沢尻町(現・北上市)役場に入る。1937年〈昭和12年〉同町助役。1941年〈昭和16年〉稗貫郡湯本村村長代理。同年西磐井地方事務所総務課長を経て、県嘱託。1944年〈昭和19年〉九戸、二戸、下閉伊各地方事務所総務課長。1947年〈昭和22年〉地方事務官西磐井地方事務所長となる。翌1948年〈昭和23年〉黒沢尻町長に当選。4年後の1952年〈昭和27年〉に再選。1954年〈昭和29年〉黒沢尻町は周辺の町村と合併して北上市が発足。
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鈴木 脩蔵(すずき しゅうぞう、1897年(明治30年)11… 鈴木 脩蔵(すずき しゅうぞう、1897年(明治30年)11月20日 - 1977年(昭和52年)11月8日)は、日本の内務官僚。官選岩手県知事。 新潟県出身。第七高等学校造士館を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し兵庫県属となり宍粟郡長に就任。 以後、警視庁工場課長、滋賀県書記官・経済部長、広島県書記官・経済部長、京都府書記官・学務部長、北海道庁部長・土木部長などを歴任。 1942年6月、岩手県知事に就任。1945年4月に知事を退任。その後、公職追放となった。1954年5月に京都市助役となり1958年まで在任。以後、近江絹絲紡績監査役、同常務取締役、(社) 京都倶楽部常務理事を務めた。
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小田 勝(おだ まさる、1897年(明治30年)11月19日… 小田 勝(おだ まさる、1897年(明治30年)11月19日 - 没年不明)は、日本の医師。山口病院院長。医学士。外祖父は第6代広島市長の小田貫一。妹の和子は岸田正記の妻。 小田得一の長男として広島県佐伯郡廿日市町で生まれる。生家は医師として三代続く家であり、父・得一は、大阪医学校(現・大阪大学医学部)出身で内科、眼科を開業した。得一は、広島県の医学界において腕利きの一人として名声があり、長年に渡って県医師会理事に挙げられるほど逸材であった。 1925年(大正14年)、慶應義塾大学医学部を卒業し、同大学産婦人科教室に入り、3年間研究に没頭する。1928年(昭和3年)、山口病院初代院長・山口卓治の死亡により院長を承継し、山口病院院長に就任。
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佐伯 忠義(さへき ただよし、1897年(明治30年)11月… 佐伯 忠義(さへき ただよし、1897年(明治30年)11月19日 - 1969年(昭和44年)4月8日)は、大正から昭和期の農業指導者、政治家。衆議院議員、鳥取県西伯郡天津村長。 鳥取県西伯郡天津村大字福成(西伯町を経て現南部町)で生まれる。1911年(明治44年)法勝寺実業専修学校を卒業した。農業を営む。 天津村長に在任。1937年(昭和12年)4月、鳥取県会議員に選出され、1947年(昭和22年)まで在任。また、鳥取県産業組合連合会幹事、西伯郡畜産組合長、天津村農会長、同産業組合長、西伯郡家畜保険組合長、鳥取県農業会理事、同粗飼料製粉組合長、同馬匹組合長、同酪農組合連絡会長などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で鳥取県全県区から日本進歩党公認で出馬して当選し、のちに民主党に所属して衆議院議員に1期在任した。
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中川 善之助(なかがわ ぜんのすけ、1897年〈明治30年〉… 中川 善之助(なかがわ ぜんのすけ、1897年〈明治30年〉11月18日 - 1975年〈昭和50年〉3月20日 )は、日本の法学者。東北大学名誉教授、金沢大学名誉教授。正三位勲一等。日本の家族法の権威である。 1897年、東京府(現・東京都)神田で生まれた。金沢第一中学校、第四高等学校を経て、東京帝国大学に進学。穂積重遠門下で法学を学び、1921年に東京帝国大学法学部を卒業。 1922年9月、東北帝国大学法文学部助教授に就任し、民法学第一講座を担当した。1927年、東北帝国大学法文学部教授に昇格。1940年、第2代仙台法経専門学校校長に任命された。以後、死去するまで同校校長を務めた。 1961年、東北大学を定年退官し、名誉教授となった。
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北村 一男(きたむら かずお、1897年11月17日 - 1… 北村 一男(きたむら かずお、1897年11月17日 - 1965年3月29日)は日本の政治家、参議院議員、新潟県知事。 1897年、新潟県見附市出身。新潟県立加茂農林学校を経て1920年(大正9年)に中央大学商科を卒業後、堤商会(のちに旧日魯漁業、輸出食品と合同して社名を日魯漁業に、現マルハニチロ)に入社して樺太-カムチャツカ間を往復。この際ゲーペーウーに拿捕されるなどの苦労があったが、これによって堤清六社長の信頼を得た。戦後は自由党に所属し、1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙に新潟地方区から出馬して初当選。2期にわたって議員を務め、農林政務次官、国土総合開発審議会、米価審議会各委員、参議院法務委員長、党の政務調査会副会長、参議院幹事長などを歴任した。
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坂口 謹一郎(さかぐち きんいちろう、1897年(明治30年… 坂口 謹一郎(さかぐち きんいちろう、1897年(明治30年)11月17日 - 1994年(平成6年)12月9日)は、日本の農芸化学者。発酵、醸造に関する研究では世界的権威の一人で、「酒の博士」として知られた。東京大学応用微生物研究所初代所長および同大学名誉教授、理化学研究所副理事長。日本学士院会員。愛称は「坂謹(さかきん)」。 新潟県高田(現・上越市)出身。正利の長男 。新潟県立高田中学校を中退し上京、神田の順天中学校に編入。同期には中村震太郎もいたが、とくに学友との交流もなかった。同校卒業後、第一高等学校理科に首席で入学。1919年、同校卒業、1922年、東京帝国大学農学部卒業。同助手、講師、助教授を経て、1939年、教授。
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大倉 三郎(おおくら さぶろう、1897年〈明治30年〉11… 大倉 三郎(おおくら さぶろう、1897年〈明治30年〉11月16日 - 1982年〈昭和57年〉10月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)。 大阪府中河内郡布施町(現東大阪市)出身。旧制八尾中学中退。布施町議を務める。1935年(昭和10年)9月25日に大阪府会議員に当選して1939年(昭和14年)9月24日に退任した。そのほか布施市議となる。また、1937年(昭和12年)6月11日から1938年(昭和13年)8月1日までと、1939年(昭和14年)12月12日から1942年(昭和17年)6月15日まで初代及び第3代同市会議長を務めた。同年の第21回衆議院議員総選挙で大阪5区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。
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吉村 茂樹(よしむら しげき、1897年(明治30年)11月… 吉村 茂樹(よしむら しげき、1897年(明治30年)11月14日 - 1985年(昭和60年)4月16日)は、日本史学者。 広島県出身。東京帝国大学卒。1936年(昭和11年)に東京帝大史料編纂所編纂官。1952年(昭和27年)、東京大学史料編纂所第一研究部長として、朱雀天皇千年式年祭に先立ち御事績を昭和天皇に進講した。1954年(昭和29年)に東京大学史料編纂所教授。1958年(昭和33年)に定年退官、上智大学教授。1967年(昭和42年)に退職。専門は平安・鎌倉時代の政治・法制、古文書学。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
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足立 仁(あだち まさし、1897年〈明治30年〉11月13… 足立 仁(あだち まさし、1897年〈明治30年〉11月13日 - 1978年〈昭和53年〉1月25日)は、日本の農学者・微生物学者。 1897年、東京府出身(北海道生まれ)。1921年(大正10年)に北海道帝国大学農学部農芸化学科卒業後、同大学助教授。台湾総督府高等農林学校教授などを経て、欧米遊学後の1928年(昭和3年)に台北帝国大学助教授に着任、1937年(昭和12年)同教授に昇任して務めた。ちなみに、台湾時代に住んでいた住居(台北市昭和町)は現在も同地で保存されており、レストラン「青田七六」として営業している。 戦後は、大阪府立大学や玉川大学などの教授を務めた。1965年に論文「Mikrobiologisch und Mikrobiochemische Untersuchungen uber die Rhizosphare der Kultur-pflanzen zur Verbesserung der Bodenfruchtbarkeit in den Tropen-und Subtropen-Bodenあ(熱帯及び亜熱帯における栽培作物の土地改良による根圏の微生物学的及び微生物化学的研究) 」を北海道大学に提出して農学博士号を取得。
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内村 祐之(うちむら ゆうし、1897年(明治30年)11月… 内村 祐之(うちむら ゆうし、1897年(明治30年)11月12日 - 1980年(昭和55年)9月17日)は、日本の医学者、精神科医。専攻は臨床精神医学、神経病理学。東京大学名誉教授、日本学士院会員。プロ野球コミッショナー。 キリスト教思想家として著名な内村鑑三を父、内村の4度目の妻内村静子を母として、東京府に誕生する。 獨逸学協会学校中等部から第一高等学校(医科)を経て、東京帝国大学に進む。一高野球部と草創期の東大野球部でも活躍し、特に一高時代の1918年、同校の野球投手として三高(京都)、学習院のほか、早稲田と慶應義塾を久しぶりに撃破するなど、15年ぶりに事実上の全国制覇を果たした。学生野球界で、当時隆盛を極めた左腕投手としてその名を馳せた。
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宇野 弘蔵(うの こうぞう、1897年11月12日 - 19… 宇野 弘蔵(うの こうぞう、1897年11月12日 - 1977年2月22日)は、日本のマルクス経済学者。 日本のマルクス経済学者の中でも特に影響力の大きな一人であり、その学派は宇野学派と称された。宇野学派は新左翼や社会主義協会に影響をあたえた。 岡山県倉敷市に生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学し、同期には、後に宇野の人生に大きな影響を与えた西雅雄や一高の特待生となる松田享爾、関西大学法学部教授になる高木益郎がいた。卒業後、第六高等学校を経て、1921年に東京帝国大学経済学部卒業。1954年、経済学博士(東京大学)。 1921年、大原社会問題研究所入所。ドイツ留学を経て、1924年に東北帝国大学法文学部経済学第三講座(経済政策論)助教授。
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加世田 哲彦(かせだ てつひこ、1897年〈明治30年〉11… 加世田 哲彦(かせだ てつひこ、1897年〈明治30年〉11月11日 - 1971年〈昭和46年〉7月25日)は、日本の海軍軍人。成績優秀な将校であったが、神政龍神会の結成にかかわり、不敬罪に問われ失官となる。最終階級は海軍中佐。 鹿児島県出身。鹿児島二中より海軍兵学校47期に首席入校。在学中も学術優等章を2度授与され、次席及び恩賜で卒業した。同期生に光延東洋、横山一郎、城英一郎などがいる。 1920年(大正9年)、少尉任官。尉官時代は霞ヶ浦海軍航空隊附としてセンピル教育団に関わり、第一遣外艦隊参謀、練習艦隊副官、戦艦「長門」分隊長、財部彪副官などを歴任。1930年(昭和5年)12月1日、海軍少佐へ進級し海軍大学校甲種30期へ進む。
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